Scars(2) 20080408
傷を苛むものは一体何なのか。
オレの背中は時折ひどく痛む。
「つっ……」
目が覚めると何時もの光景。
目が覚める度何時も、あれは夢だったんじゃないかと思う。束の間のことだ。すぐに傷痕が現実とオレを繋ぐ。
痛む背中を庇うため、うつ伏せになったベッドの中、まどろみながら時間を数える。
―――どれだけ時間が経てば、時効になるだろう……。
どす黒い害意がまた、顔を出す。
白い白いカーテンに紛れ、日に負けた汚れ。
日の当たる場所でも、汚れていく世界。
流れても流れても、止まらない時間。
痛み続ける傷。
逃げている限り逃れられない痛み。
発狂するまで、逃げ続けてやる。
だって、藤崎にはオレが必要だろう?
自分で確かめるしかない存在意義を、今日も独りで反芻する。目を逸らしたオレには、現実の一部分が映らない。
……目を逸らしていることには、気付いているけれど。
「オレは、絶対にお前を見捨てたりしない」
もう一度、目を閉じた。
次起きるのは何時になるのだろう。何処で目が覚めるのだろう。
* * *
「溝口っ!」
何時もオレを呼び起こすのは藤崎だ。
真っ白な世界の住人のくせに、真っ赤な衣装を纏って。それを気にしていないように見せてはいるけれど、誰もその真紅の衣装に、触れることは出来ない。禁色よりも禁じられたその深紅。
「…藤崎」
「起きろよ溝口!」
「…起きたくない」
この不快なまどろみの中も、馴れてしまえば気持ちがいい。どろどろと気味悪く蠢く害意も、ここでは異端なものではないから。
「起きるの!お前はこれからオレとデート!」
「デート…?」
目を擦りながら、日の当たる場所に戻る。
ほんとうは。
暗いところにいたいと訊かれればそうではなく、彼女と一緒であればどこだっていい。
何時もこのパターンだ。
オレを解放出来るのは藤崎だけなのだろう。
「デートって…どこに?」
予想はついているが、一応そう訊いておく。
「隣町の公園までな」
そう言って、真っ白な笑顔で。
* * *
「甘ーい!」
無垢な笑みを見せたかと思えば、今度は高笑いだ。不思議と嫌味に感じないのは、おそらくオレの贔屓目なのだろう。
隣町の公園で、オレたちがすることといえばただ一つ。
バスケットボールだ。
藤崎はブランクなど感じさせない身のこなしで、よどみなくオレを抜き去りシュートを決めていく。
男子対女子だというのに、まともな1on1になりゃしない。どういうわけだ。
「手加減しろよ、ちったぁ。地球外生命体のお前とは違うんだからさ」
「手加減したら面白くねーだろーが。ばぁっか!」
藤崎のセリフからは、オレが、という部分は端折られていた。オレは愉しくない…わけではないけれど、あまりいい気はしない。
藤崎は何時もバスケをしている時だけは本当に愉しそうだ。余計なことを考えずにすむから、だろうか。
全ての柵から藤崎を解き放つことが出来る、唯一の手段。
少し妬ましい。しかし、形の無いものに嫉妬して、一体何になると言うのか。
どんなに無心に近付こうと思っても、囚われたままのオレは、ただ時間を数えながらバスケをする。
間が保たないわけじゃない。
つまらないわけでもない。
早く終わらせたいわけでもない。
それなのに、逃げているオレは、前を見ている余裕が無い。
何時も囚われたまま。
オレは罪人です、そう叫び出したい気持ちを抱えたまま。
「あはははは!」
いつも愛おしいと思っているはずの、彼女の甲高い笑い声すら心を苛む。
解放したはずの心が、痛み続ける。
―――これが、呵責?
* * *
「なー。ちょっとさ、手伝ってよ」
公園からの帰り道のこと。藤崎が身長差を生かした上目遣い攻撃で頼みごとをしてきた。
日が、最高点からだいぶ低くなった午後。柔らかい風が、汗ばんだ身体に心地良い。
通り抜ける風に目を伏せて、オレはしかつめらしく訊きかえした。
「何をだよ。用件を聞くまで引き受けられないね」
「オレんちの掃除、手伝ってよ」
「掃除ぃ?そんなもん自分でやれよ」
突然のその言葉に、ついそんな言葉を返してしまい、一瞬藤崎が言葉に詰まってしまう。しまった、と思うものの、一瞬にして切り替えた藤崎はジャイアンのごとき傲慢さでオレに命令した。
「……いいから来いっ!!」
結局このパターンだ。
オレは藤崎の家の掃除をさせられることになったのだが、一度家に帰って着替えることにした。バスケで汗をかいていたため、ひどく不快だったからだ。
本当はシャワーを浴びたいところだったが、あまり遅くなると藤崎の機嫌が悪くなるだろう。制汗スプレーをものすごい勢いで噴射させ体臭をとった後、二軒先の藤崎の家へ向かう。
信用が無いのか、藤崎は外でオレのことを待っていた。
「……なんだよ。ちゃんと来ただろーが」
「……お、おう」
オレの姿を見止め、少しホッとしているようだった。不安そうな藤崎なんて、らしくない。そう思った瞬間、何かを思い出す。
こんな藤崎、前にも見た。
―――でも、そこからは思い出せない。
* * *
「それ、もーちょっとこっち!」
「どっちだよ?オレは見えないんだから、きちんとナビしろ!」
それは、部屋の掃除と言うより、大移動だった。オレは先程から机やらベッドやらを運ぶ係だ。藤崎はそれをナビする係。
全く家具に触れもしない。自分のものだろ、ちょっとは手伝え、と言いたくなる。
「オレ箸より重いもの持ったこと無いし~」と返されるのがオチだから言わないけれど。
そのボケは古典的な上に、バスケットボールは明らかに箸より重いと思うのだが。
「そーそー、そこで下ろしていーぞ」
そろそろとタンスを指定の位置へ下ろすと、藤崎が満足げに頷いた。
運動不足気味のオレは、つい溜め息を吐いてしまう。…いかん、今年18なのだが、年を感じてしまう。
「はー。重かった……」
パンパン、と藤崎が手を叩く音で、まだ何か来る、と直感した。
その嫌な予感は紛うことなく的中してしまう。
「うっし、移動終了!じゃー溝口、次掃除機かけてくれ」
こういう場合、考えない方がいいのだろうか。
考えるから当たったときに辛いのだろうか?
それとも考えておいた方が辛みを予期できていいのだろうか。
オレは短い時間でそれだけのことを一気に考えていた。
「はぁ!?お前これ以上オレに労働させる気か!?」
「ったりめーだ!オレに労働させる気か!?」
メチャクチャな論理だ。何故にお前に労働を免除させる権利を与えねばならんのだ。
「オレに刃向かう気か溝口!おばさんに言いつけるぞ!」
「……わかりましたよ、ご主人様。
どうせうちの者は全員きみの味方ですしね。ええ、そうですとも。ねえ。」
自棄になって頷いた。
藤崎は喜ぶかと思ったが、何とも言えない表情でこちらを見ていた。
「……お前はオレの味方じゃねーのかよ」
ぽつんとそう呟く。捨てられた子どもみたいな目をして。
「バカ」
オレはその頭に手を置いた。
「オレが味方じゃなくて、何だって言うんだよ」
藤崎は笑わなかった。
掃除機を取りにいこうと背を向けたオレに、背を向けた藤崎の小さな呟き。
聞こえないように言ったのだろうが、聞こえてしまった。
「わかんねー……」
オレは、聞こえないフリをした。
掃除機を取りにいく途中、閉め切られた扉を目にした。
ただ普通に閉じられているだけなのに、その扉には拒否の色が溢れている。
―――誰の拒否?
その拒否は、誘惑の色にも似て。
開けてはいけないと警告されているのに、開けてみろよと誰かが囁く。
―――誰が?
この部屋は。
思い出したくないのに。
思い出したくないのに。
思い出したくないのに。
…………………本当に?
手をかけ、ノブを回し、ドアを押した。
軽いドアのはずなのに、ひどく重い。禁じられたモノへの憧憬。それに確かに昂ぶる自分。嫌なはずなのに、日の当たる場所にいるオレは嫌がっているはずなのに、確かに引き摺られる。
闇の向こうから、誰かが見ている。
―――誰?
もちろん、誰も見ちゃいない。鍵も錠もかけられていないドアノブなのに、不思議と開かない―――なんてことはなく、難なくドアは開いた。
何の変哲も無い閑散とした部屋。ベッドがあるだけの部屋だ。
客間として使っていたのだろう。
ここの部屋だけ、匂いが違う。
閉め切られていたのだろう。
あの日から。
ずっと。
あの日から
ずっと、閉じ込めて。
罪を、穢れを。
「トオル!」
背後からの声が、昔ここから聞こえた声と重なる。
忘れていた、忘れようとしていた、一つの記憶。
―――――――トオル!