第一話「縮退する形而上の球体」
当たり障りのない普通の顔でいられたらどれだけ生き易いのだろうかと思った。
ある朝歯を磨いていた時のことだった、自分の顔が蛇口の端に映っている――それは怪物のように大きな口を開けている。その口の大きさは顔の半分を占めるほどだった。右奥歯から左奥歯へと磨く手を動かすとその怪物の顔も変容し、顔のパーツがそれぞれ大小する。私はその瞬間、その理想の顔を見た。大きく目を見開いてもその顔の目はほとんど変わらず、いかなる感情の変化も見せないように見えた。極端に小さくなったその目は誰からの視線も避けるように見えた。私はこれと同じような顔を街のどこかの視界の端で何度も見た事がある気がする。このような人物になることができたなら、自分を世界の端に追いやることができればと思った。そう思った瞬間その顔の目が消えた。よく見ると消えたのではなくて黒ゴマのような小ささになっている。少し驚いて視線を上げる。目の前の鏡にはさっき見ていたあのありきたりな顔があった。
私はそれから学校へと向かう間高揚したままだった。視界が今までとは驚くほど違う、以前と比べめっきり小さくなったその視界は余計な物を撮さない。空の青さだとか太陽の光だとかが全く目に付かず、今までの日常の変化を切り取ったステロタイプな日常そのものが見える。どこもかしこも今まで見たような景色のみで構成された生活、私はこれを望んでいたのだと思う。大学のキャンパス内に入っても誰の視線も気にならない、誰も以前の私と認識してないだろう。いや、そもそも私という人物すら認識していないのかもしれない。ただそれは感覚として人の目には映っているがその人の意識の上には絶対に映らない。
授業が始まる。私は黒板の字を見る。それはほとんど文脈から切り取られた単語同然のように見えた。例えば「世界ではさまざまな問題が起こっています」と書かれてたとすると私には「世界」「さまざまな問題」ぐらいにしか感じない、つまりその問題は私が現在立っている場所から同一地平上の物ではなくなる。私にはそれが素晴らしい救いであるように思えた。私はなにも自分から想像を発展させて世界へと広げなくてもいいのだ、世界はただそこに存在するのみで私とは切り離されたものだと考えると私はとても気が楽になった。
授業が終わったあとの休み時間にはいつも通りに校舎の入り口付近にあるホールで友人達と会う。彼らはいつも私の目を覗き込むように見ては私の心の内側の壺を見る。そして時々私はその壺の底の浅さを見限られてそこに唾を吐かれるように感じる時がある。しかし今日は違う。私の小さくなった目は彼らからの視線を遮り、決して中には入られないようにしている。彼らは絶対に私の目を見なくなった。彼らの服装はいつもどこかしら人の注目を引きつけるところがあったように記憶している。それで私はさっきからそれがどういったところだったかと探し続けているが、それがどれなのか全く検討が付かない。それどころかしまいには全員が全く同じような服装をしているようにさえ思えてくる。
私はその時驚くべき体験をした。私は確かにさっきまでは校舎の中に入ってすぐの椅子に座っていたはずだった。けれど私は今校舎の外へ出るドアへ向かいながらその視界の端に椅子に座って友人達と話している自分の姿を見ている。それは私が視界の端に今の私と同じような顔をしている人を見た瞬間に切り替わったことから察して、私はその人の視点から物を見ているのだと分かった。そして丁度その人が校舎の外へ出て私の視界から外れるようになると私は自分の視界へと戻った。けれど私はそれに何の違和感も感じることがなかった。前からそういった体験があったようにさえ思えてきた。私がその人の視点から見て、そして私が何か喋っているのを見ても何も変だと思わなかった。むしろ喋り続ける自分の姿を見てそれは素晴らしい事なんだと思った。
たぶん有名人達は自分がテレビに映っているのを毎日見たりするとそれが当たり前の事だと思うんだろう。自分が誰かに見られていて、そしてその姿を自分も見ているということ。私の場合それが有名人ではなくどこにでもいる人なだけだ。今ではテレビを見ながらこんな事さえ考える。するとテレビすら一つの出力機械はなく、入力機械であるように思えてきて、そして私の映像を撮りはじめる。テレビのアナウンサーが私の顔を見ている。そしてその文章をなぞる小さい目が追う視界は私の視界となり映像は切り替わる。画面の歪みに沿ってレンズは魚眼レンズとなり私の姿は部屋の中でいっそう誇張されて映る。その姿にとても気味が悪くなり、私はテレビを切ろうとリモコンをさぐりだすが、私の視界の中の手は原稿を小気味よく動かしているだけだった。そして視界が上がるとそこにはまだ部屋の中でもぞもぞと妙な動きをしている私の映像が映し出されている。
やっと番組が終わり私の視点へと切り替わる。以前私は今のように部屋のベッドの上にいたりしながらときどき監視カメラで見られているのではないかと思った。そしてそのカメラから見て自分はどう見えるのかと想像したりした。けれど今はそれと同じような事がいつでも起こりうる。私は学校から家に帰るまでに何度も自分の姿を見た。そしてだんだんとそれを意識しなくなる。ときどき自分の視界が切り替わり遠くから自分を見つめる、自分の姿がほとんど見えないような視界もあった。もしかしたらその視点がだんだんと遠くなり、宇宙から眺めているような視界になる。そしてどれが自分なのか認識できなくなり、意識も混濁し始める。私はそんな途方もない漠然とした想像に至っては自分を見失い、そして自分を見つけ出す。たぶんもう昨日までの自分はどっかに行ってしまったんだろうと気楽な考えを起こす。そして何の気もなしにテレビを消す。その小さな安物のテレビは古いブラウン管の湾曲線の上に一筋の線を点した後、私には絶望的な絵を映す。私はそこに昨日までの自分を見た――そして見られた。