第五話「タコ診断セミナー」
私はその貧相な頭をしている中年男性が誰だかわからなかった。思わず不審者だと声を上げそうになったがその目鼻口の様子や私の感覚と同じく反応する動作からそれは単なる鏡に映っている自分であることがわかった。落ち着いて見てみると私の髪の毛は一本も残らず消滅していた。教師たるものがこのような威厳の無い姿をしていて良いのだろうかと考える。体育教師のような体格をしていたらもう少し違った印象があるだろうかと考える。いや、問題はそうではない。この状況をどのように切り抜けるかが問題である。カツラはいずれ表沙汰になることを考えると取るべき手段ではないだろう。いやそうではない、問題は今すぐに取るべき行動である……いや、しかしこんな酷な事があってたまるものだろうか……
妻は驚き声を上げるし娘は似合ってないと言うだけで私が事情を話してみても全く飲み込んではくれないしそのくせ仕事へは行けと言う。息子は私を見るなりタコ親父だと言った。私の家族の中での威厳が全く無くなってしまった。以前ならもう少しまともな家族関係だったような……あれはいつのことだったんだろうか……
その朝私は家をいつもより一時間ほど早く出た。持ち合わせていたみすぼらしい綿のハットは髪があった分だけ隙間を作りそこに風が吹き込むのでとても寒い。しかしそれよりも果たして学校が始まるまでに何らかの対処を得られるのだろうかと考え続ける。抗ガン剤の効果で毛が抜けてしまった……それは昨日普通に学校へ通っていた私にはムリがある……そもそも理由が問題なのではなくこの容姿自体が問題なのであって……
私はその時一人の女性に声をかけられた。
「ただいまタコ診断セミナーを行っているので是非参加してください」
私はその言い方にバカにされているとしか思えなかった。けれど客観的に今の自分の姿を振り返ってみると、この行き交う通勤する人々の中で私のように落ち着きが無く、目深に帽子を被って下を向いて歩いているような人間は声をかけられて当然のような気もしてくる。振り返るとその女性の手に持ったボードにはタコではなく他己と書いてあった。
どうせこのような時間に店は開いてないだろうし、もしかしたら何らかの対処法を伝授してもらえるかもしれない等と考えてしまったために私は今あの女性からセミナーを受けている。さきほどからこの女性の年齢に合っていないような鮮やかなピンクのスーツ姿がとても気になる。もしかするとカルト教団が勧誘の手段とするセミナーではないかと考える。するとその時私の注意を引きつける言葉をその女性が言った。
「あなたは今、私のこの姿を見て怪しい人物だと思っているのではないでしょうか。当たっているかどうかは別として、こういった風に自分がどのように見られているかを想像し、そして相手と接することはとても重要なことです。さきほどから説明しているように他己診断セミナーとはそういった能力を磨き上げることにより円滑な人間関係を作り上げることを目標としています」
確かにそれは一理あるかもしれないと考えた。しかし今の私の状態はそういったことで解決できるようなものではないだろう。あまりに私の変化が突飛すぎるために相手の思考を読み取って行動などできるわけがない。このような状態だとむしろ相手の思考はわかりやすいほどに単純に読めるが、しかしそれに対する行動などどうすれば良いというのだろうか……タコと言われたらその場でタコの物まねでもしてみせろってことなんだろうか……
「それでは他人の中の己を診断するためにも、まず私があなたのことをどのように考えているかを想像して貰いましょう」
私は先ほどから相手のその高慢な態度に少し頭にきていた。これでも私は教師だと言いたくなったが、黙って帽子を取って相手に視線を合わせてこう言ってやった。
「私を貧相な人間だとお思いでしょう。もしかしたらタコみたいだって思うんじゃないんでしょうか?」
すると女性は軽くうなずいた後にこう言い返した。そう、恐ろしくも確かにこう言ったのだった。
「いいえあなたは紛れもないタコです。あなたはタコであると振る舞う事によってあなた自信を証明できるでしょう」
私は憤慨し椅子を蹴るようにして立ち上がる。こんなにも人をバカにした言い方があるものだろうか。このような全くもって人の自尊心というものを考えていない人間が居るとは思ってもみなかった。
私は外に出るとすぐまた帽子を深くかぶった。隙間から頭皮にそのまま吹き込んできた風は身体のどの部分に当たる風よりも冷たく感じ、身体の芯から冷え切るような思いがした。私は一日にしてこのような頭になってしまった自分に理解を寄せる人間など世界中で誰一人として存在しないように思えた。そしてまた行き交う人混みの中に姿を消す。しかし寄る辺もないような私は目標を持って歩き続ける人達とは違いただ懸命に足を動かすのみである。なぜ私だけがこのような不幸のどん底に陥らねばならないのだろうか……私はその時再三の不幸のせいで輪郭すらはっきりし始めていた神のいたずらな息吹によって、哀れにも群衆の真ん中で帽子を吹き飛ばされたのだった。