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九月七日(SUN)午後二時〜九月七日(SUN)午後三時二十八分(三年後)

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九月七日(SUN)午後二時


 牧場の朝は早い。
 俺は毎日四時起きで、こいつらの世話に没頭する。
 馬。
 馬は、とても優しい生き物だ。
 世話は大変だけど、こいつらは、魅力的過ぎる。
 少なくとも、俺にとっては。
 あいつには、感謝しなきゃいけないのかもな。
 そう、思うことが最近多い。
 俺に生涯の仕事を与えてくれたのは、紛れもなく都子なのだから。

 後悔も、たまにする。ここに来て最初の数ヶ月は、毎日のように夢も見た。
 彼女の夢――楽しかったこと――悲しかったこと――怒り狂ったこと――
 ――そして、その最後を。
 彼女のことが、気になって気になって、仕方ない時期もあった。これも最初の数ヶ月。
 今は、それが大分薄まった。
 馬たちのおかげだ。
 忙しい毎日が、思考を遮り続け、そして、やがて霧散した。
 今はこの生活を維持し、自分をさらに高めていくことに腐心しているつもりだ。
 
 俺の姿勢を、牧場長も気に入ってくれている。
 思えば、あの人はよくもまあ、俺なんか使ってくれたものだ。
 素性を明かそうともしない、怪しさ全開の男を。
 俺は戻りたくなかった。
 戻れなかったし、戻るのが恐ろしかった。
 情けなかったし、気にもなった。
 学校のこと、彼女のこと、そして――妹のことが。
 全てが、俺の口を接着剤で貼り付けたかのように、固く、固く閉ざさせた。
 今でも、俺は本当の名も、住んでいた場所も、家族のことも、何もかも隠し続けている。
 それで、皆心を許してくれる。
 この北海道の、大らかさ。
 嘘だと、思っていた。
 人間は皆どこかシビアで、冷たいものだと思っていた。
 冗談みたいな本当の話が、実際にあったのだ。
 勿論、その、シビアな話も、俺のいないところでは存在したのだろう。
 しかし、俺の耳には入ってきていない。
 それが、大らかだ。


九月七日(SUN)午後三時二十八分

 今日は日曜だが、そんなこと牧場では関係ない。
 ただ、それなりに特別な日であることは確かだ。
 日曜は、競馬。
 それ以外にない。
 特に今日は、とびきり特別だ。
 ウチで産まれた奴が、重賞――GⅡレース――を走る。
 ここの結果次第では、この後のさらなる大レースへの挑戦もあるという、大事な日。
 俺は、携帯を開いた。
 ――そろそろだ。
 メインレース発走時間が近付いている。
 俺は作業の手を止めて、牧場長宅へ向かった。

 牧場長の娘が、テレビのある居間にいた。
 この子は、競馬を見せてくれない。
 なんかのバラエティを見ている。
「おーい、競馬……」
 彼女の目線が、痛い。
 言っただけなのに……
 …あとは、何も言えなかった。
 三時三十五分。
 ああ、もう始まってしまう。
 牧場長は、奥さんはどこだ。
 ハナから諦めてラジオか?
 そっちの、賢――
 ――テレビが流していたもの。
 それは。
 その、画面に、俺にとって唐突に、映し出されたものは。
 ――都子?
「この作家さん大好きなんだー、あたし。狂ってるんだけど、でもどこか可愛いの」
 作品が。
 おいお前。
 何を言っているんだ?
 これは都子だろ。
 作家――?
「――都子」
「あれ、読んだことあるの? この人の本名知ってるなんてペンネームは――」
 ――なんだって?
「黛麻子」



N・S 終わり






九月七日(SUN)午後四時


 俺は、やらねばならないことに気付いた。
 三年以上、逃げ続けて。
 修学旅行先で使うはずだった、五万円でここに辿り着き、三年以上。
 三年以上、ここで。
 黛麻子は――都子は。
 テレビで、俺がいなくなった話を、悲しそうにしていた。
 それを見て、分かった。
 麻子は生きていて、都子は待ち構えている――
 死んだ――殺した――人間の名前を使うわけがない。きっと。
 麻子が、生きている。
 あの時、殺されたろうと思っていた麻子が。

 辞表と、幾許かの金を、牧場長に渡した。
「行ってこい」
 そう、言われた。

「行ってきます」

 
九月七日(SUN)午後四時十分


 タクシーの中、ラジオが競馬の結果を流していた。
 ウチの馬が、勝っていた。
 
 見知った風景が、俺の中から消えていく。
 それが終わりで、そして、始まり。
 俺にはそう思えた。
 これから、全てが始まり、そしてそれもすぐに終わる。
 終わって、また始まるのかもしれない。始まらないのかもしれない。

 眠ろう。
 空港まで、少なくともあと二時間はかかるだろう。
 それまで、眠ろう。
 眠ろう。
 眠ろう。
 眠ろう。
 ねむろう。
 ねむ、ろ。
 ねむ。
 ね
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