第1話 ENCOUNTER
ENCOUNTER (1)
今週一週間、とりわけ今日は陽気も良く、風も気持ちのよい爽やかな日中となるでしょう。
あまり映像の鮮明ではないテレビ画面に映し出されていたお天気お姉さんが嬉しそうに微笑んだのを横目に、恭椰は黙って味噌汁に手をかけた。
ずず、と啜り、あたたかさにほっとため息をつく。胡坐をかいて背を丸めているせいか、身体へ染み渡るのも早い気がした。
簡単な朝食が雑に置かれた座卓は、長身の恭椰では足や腕をもてあますものの、少しばかり傷があり、また融通の利かないサイズだった事で無料同然で引き取ってきた優れものなので愛着があった。
狭い部屋のリビングは、実際とても窮屈ではあったが、恭椰は存外その縮こまった空間が嫌いではなかった。誂えた様にこじんまりとした家具は使うにはぎりぎりの譲歩であったが、最近はそれも好ましく思えてしまう。住めば都とは、よくいったものだ。
しかし、同じように狭い台所で手早く食器を洗っている皇椰はそれが我慢ならないのか、あまり気に入ってはいないようで暇さえあれば癖のように「姉ちゃん、何とか出来ねえかなこの狭さ」と愚痴を零しているのだが、生憎恭椰には他の部屋にうつる気がまったくないので愚痴にとどまっている現状であった。
こまめに蛇口を捻っては水を流したり止めたりと忙しなく食器を洗う弟の後ろ姿を見て、たった一つしか違わない年齢であるのに恭椰は「大きくなったな」と思った。確かに成長期に入って男っぽく、骨っぽくなったが、そうした目に見えるものに対してではない。しかし流石に、どこか父親の哀愁や母親の寂寥のように感じられたので感想は胸にとどめておいた。
「おいコラ、姉ちゃん。はよ食わんかい」
「痛って、てめえ何しやがる!」
悠長にテレビなんぞをつけながら、その画面を見入るでもなく悠長に味噌汁を飲んでいる姉に苛立ったのか、いつの間にか皇椰が背後に立っていた。あまつさえ、しなやかに伸びた足を惜しげもなく利用して恭椰の肩を軽く蹴飛ばしたのだ。そのまま後頭部を足蹴に、ぐいぐいと体重をかけ、皇椰はもう一度「はやくしろ」と言い放った。
「何しやがる、じゃねえよ。何考えてんだ、はやく支度しろよ!」
首絞めるぞ! と手にしていたタオルを捻って限界まで細くする仕草を冗談で見せているのだが、柄の悪さが作用してか、冗談に思えなかった。我が弟ながら本当にかわいそうな奴だな、と恭椰は思った。そんな恭椰自身は、その悪人面をした弟と瓜二つだという自分を棚に上げている。
「わあってるよ。男の癖にちくちく言うんじゃねえっつーの!」
「うるせえんはどっちだよ! んなこと言ったら姉ちゃん女の癖にメシ作れねえじゃん」
「それを言うな。しょーがないだろ。人には向き不向きがあってだな、姉ちゃんには向いてないんだそんなもん」
「向き不向きは関係ねえよ、ちったあ努力しろ。努力」
腕を組んで仁王立ちする皇椰に見下ろされる形で恭椰はふん、と鼻を鳴らした。ぎゃあぎゃあと喚き合うのも、どちらかが折れなければどうにもならないのだ。そういう時、姉として生まれてしまった癖なのか、恭椰が引く羽目になる。皇椰の言い分としてはたいていの場合で恭椰が非常識だからだ、との事だが、恭椰はそう思っていないのだ。
皇椰は、極端に目つきの悪い不良顔だ。そしてその外見に似合わずいちいち細かい。しかしいかんせん口が悪い。それを指摘すれば「姉ちゃんは言えねえよな、それ」と呆れられてしまう事は考えるまでもないので恭椰は負け惜しみにちいさくチビと呟いた。
「聞こえてるぜ。だいったい姉ちゃんがデカいだけだろーが。俺はチビじゃねえし」
「うっわ地獄耳か! 何だお前、お節介おばちゃんみたいな奴だなあ」
それよりいいのか、食器洗わなくて、と恭椰が話を変えると皇椰はかすかに顔を歪めて「あとは姉ちゃんのだけだよ、バカタレ」と悪態を吐いた。
恭椰は、ぐっと押し黙ってわずかに具の残っている味噌汁を掻き込んだ。どこの家庭もそうだが、高杉家も例外なく、結局のところ台所を握っている人間の立場が一番偉いのだ。
高杉家の朝は、けたたましい。姉弟の二人暮しにしては十分すぎるほど賑やかな毎日がこうして幕を開ける。
「じゃあ、今日は私が先行くから。お前も遅刻しないように支度しろよ」
「俺は姉ちゃんと違うんで大丈夫ですー。超優等生だからな、俺」
実際に頭の出来が非常に良い弟だと知っているので、恭椰は苦笑しつつ「言ってろ馬鹿」と、10cmほど下にある皇椰の頭をかき乱した。
「姉ちゃん! やめろよそれ!」
「ははははは、照れるな照れるな」
照れてねーよ死ねアホ女! とわめく皇椰の耳は赤い。目元にさっと走った羞恥が如実に「照れています」と言っていた。やはりたった一つ違いというだけでも、弟は可愛いのだ。恭椰はそのまま嫌がる皇椰の肩を叩いて鞄を取りに向かった。
リビングから見渡せる玄関の横に靴箱があり、その古い靴箱の上が恭椰のスポーツバッグの定位置だった。ぱっと引っ手繰る様にとると、靴箱の足が不吉な音をたてて軋んだ。そろそろ買い換えないとならないかな、と恭椰は落胆する。しかしやはり、だましだましで使いつぶしてしまおうと思い直した。壊れたら考えればいいのだ。
「じゃあ行ってくる」
「はいよ。行ってらー。んで帰ってくんな」
「こいつ、本当に帰ってこなかったら心配する癖によ」
「冗談だよ、冗談。じゃあな、俺もすぐに出っから、鍵は閉めなくていいぜ」
「わかった。じゃあな」
ああ、と頷く皇椰を背に、恭椰がドアノブをまわすと、テレビ画面にうつっていたものよりも数段青く遠い空が顔をのぞかせた。
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