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ロックンロール・ファンタジー

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耳馴染みのあるメロディーがどこからか聞こえてきた。
ある種の嗜好を持つ人々が、それぞれの欲望を満たす為に目的の物を
探し求めて徘徊する独特の雰囲気に包まれた街でんでんタウン。
そのメインストリートの外れにある人通りのまばらな小道を、
僕が恵美須町の駅を目指してとぼとぼと歩いていた時の事だ。

前?うん、前方だ。風に乗って何かの曲が聞こえてくる。
反射的に耳を澄ます。
それにより僕の足取りはややゆっくりになる。
どうやら誰かがアコースティックギターで弾き語りをしているようだ。
弾き語り?こんな電気街のすぐ近くにある人気のない寂れた通りで?
声はかなり高かった。
限りなく女性っぽい高音を出している男の子、
という可能性も考えられない事もなかったけど、
おそらくこの声は女の子だろうと僕は判断した。ただ性別はどうあれ、
今までにこんなところで唄っている人を見かけた事はなかった。

それはそうと、この曲なんだっけ?知っているメロディーではあるのだけど、
何がしか違和感を感じているような気もする。何でだろう?
初めに音が聞こえてから十メートルほど進んだところで、
ようやくその曲が何であるか思い当たった。

ビートルズの『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』だ。
僕が記憶している原曲と比較するとかなり速いテンポで唄われている
から、そのせいですぐに判らなかったんだろう。
唄い方はポール・マッカートニーよりずっとパンキッシュだった。
もともとこの曲が持っていたポップで軽快な印象はどこへやら、
生き急いでいるようなロックンロールナンバーに変身していた。
何とも不思議な感じ。何だってこんな風に唄ってるんだろう?

そう思いながらも、その正体の知れない誰かの歌に
確実に心惹かれていた。
僕はいつしかその唄い主の姿を求めて歩いていたのである。
「彼女」との距離が縮まるにつれ、だんだんと声がハッキリ
聴こえてくるようになる。
荒っぽいボーカリゼーションとは裏腹に、「彼女」の声は澄んでいた。
それは沖縄の青い海を思わせた。
沖縄行った事ないけど。だからあくまで何となくのイメージなんだけど。
そういや行きたいと思いつつまだ一度も行けてないな沖縄。
ヘタに海外へ行くより旅費かかりそうだしなぁ。でも行ってみたい…。
そんなことを考えながら歌声が聴こえて来る方向に向かって角を
曲がると、『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』をアグレッシブに
弾き語りしているその女性の姿を捉える事ができた。

おそらく二十代そこそこといったところだろう。
背は高くもなく低くもなく、日本人女性の平均身長程度。
時おりピッキングのストロークに合わせて軽く首を振っていて、
その都度ポニーテールにしている髪が揺れていた。
そういえば『ポニーテール』ってもう死語なんだっけ?
じゃあこの髪型は今風に何と言うべきなのだろう。
アップにまとめる?でもまとめる、と言うとダンゴ状にしている様が
連想されてしまって、あの髪先を垂らしている状態がイメージできない
から正確な表現として相応しくない気がする。
シンプルに後ろでくくる、とでも言えばいいのだろうか。
何にせよ少々寂しい感じがした。まぁどうでもいい事だけど。

角を曲がると思ったよりずっと近くに彼女がいたので
僕は既に足を止めていた。その距離およそ五メートル。
ただ横側から眺めていた事もあって、
彼女はまだこちらには気付いていないようだった。
ギャラリーはいない。遠くの方にぽつんと人影が見えたけど、
それを除けば通りに人は見当たらなかった。
やはり頭に疑問符が浮かぶ。何だってこんなところで?

それにしても、こんな『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』は本当に
初めて聴いた。まるである危機的な局面を迎えた人間が、
決して言葉では伝える事の出来ない思いを
必死になって誰かに訴えかけているような迫力があった。
もちろん元々はそんなシリアスな曲では無いハズなのだけど。
しんとした空気を引き裂くように、その女性はひとり唄いつづけていた。

もう間もなく曲が終わろうかというところで、僕は正面に回る事にした。
何だか盗み見しているようで悪い気がしてきたからだ。
彼女が「テイク オブラディ・オブラダッ」の「ダッ」に合わせて
鋭いピッキングを決め、最後の一音を鳴らしたその直後に僕は足を
止めて彼女を正面から見据えた。
目鼻立ちのしっかりした顔立ちが目に映る。
かなりしっかりしている。もしかしたらハーフなのかもしれない。
強い意思を滲ませているような目つきからは気の強さが窺い知れたが、
十分美人と呼んで差し支えなかった。

よっぽど曲に集中していたのか、彼女がこちらの存在に気付いたのは
そのフォークギターの余韻の音が完全に鳴り止んでからだった。
ただ、気付いたからといって別に何が起こる訳でもなかった。
俯き気味だった顔を上げてちらりとこちらを一瞥すると、
彼女はまた次の曲を弾き始めた。
どうやら僕という存在は興味の対象外であるらしい。

次の曲は『ロッキー・ラックーン』だった。前曲に次いでビートルズ。
なのだけど、先程と同様速く、激しかった。
優しく甘いハズのメロディーが、一種異様な熱を帯びて躍動していた。
原曲のイメージをとにかく覆したい年頃なのかもしれない。
鋭いストロークを続けながら眉を寄せ声を張り上げる彼女。
こうして間近でその歌声を耳にすると、先ほどぼんやりと受けた印象が
もっと確かな深い濃度を伴って蘇ってくる。
やはりぶっきらぼうに唄っているのだけど、
その声からはいかなる不純も許さない高潔さのようなものが
感じられるのだ。高潔、というとちょっと大げさな感じがするけど、
とにかくそんなイメージを僕は抱いた。

彼女は『ロッキー・ラックーン』が終わると間髪入れずに
『セクシー・セディ』をやり、それから『ロング・ロング・ロング』
をやり、『レボリューション1』をやり、『ハニー・パイ』をやり、
『ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス』をやった。
休みなしで弾き続けていた。iTunesで音楽を再生すると曲間無しで
スムーズに次の曲へと繋がっていくけど、ちょうどそんな感じだった。
曲は全てビートルズだった。
何故か全てがホワイトアルバムから選曲されていた。
そして、やはりどれもが(およそ)1.2~1.6倍速で演奏されていた。

その燃え盛る炎のような『ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・
ウィープス』の演奏を終えたところで、彼女はようやく手を止めた。
僕は手をたたいていた。別に何か気を遣った訳ではなくて、
純粋に心から拍手したくなったのだ。

「何で全部ホワイトアルバムの曲なの?」
このまま黙って去るのは色んな意味でもったいない気がしたので、
とりあえず会話のキッカケとしてそう訊いてみる事にした。
彼女は、聞こえているのか聞こえていないのかよくわからない様子で
ぼーっと遠くの方を見るともなく見ていた。
目の前にいるハズの僕に彼女の瞳のピントが一向に合わなかったので、
いつの間にか自分は透明人間になってしまったのではないかと
本気で不安になってきてしまった。

「さぁ。最近アルバムを聴いていたからだと思うけど」
かなり長い沈黙のあと(といってもほんの数秒程度だったと思うけど)
その返事が耳に届き、ややあって彼女はゆっくりとこちらの方を見た。
どうやら透明人間になってしまった訳ではなかったようだ。
僕はホッと胸をなでおろす。彼女がこちらの姿を認めてくれたところで、
そもそもの疑問を口にしてみた。
「何でこんなところで弾き語りを?」
返事はなかった。よく分からないけど
何かデリカシーの無い事を言ってしまったのかもしれない。

「それにしてもビックリした。どれも全く違う曲のように聴こえたよ」
沈黙に耐えかねて僕はもう一度口を開いたが、何の反応も無い。
やれやれ弱ったな。何で黙り込んでしまうのだろう?
どうしたものかと考えあぐねていると、
彼女はまた何かの曲を弾き始めた。
その演奏はさっきまでのものとはまるで違っていた。
弦を慈しむような繊細なアルペジオ。
僕はその前奏に一気に惹きつけられたが、
何の曲かは判断つかなかった。知らない曲かな?
そう思った刹那、彼女が唄い出した。


それはニコの『チェルシー・ガールズ』だった。
僕は心底驚いた。選曲に、ではない。
その歌声のあまりもの美しさに、だ。

「さっき何か聴いてたわよね?」声が聞こえた。
僕はその声が自分に向けられている事に気付くのに数秒かかった。
彼女の方を見るとしっかりと目が合ったので空耳ではない。
演奏が終わって、向こうがこちらに話しかけてきたのである。

「…ああ、うん。いや、何でこんなところで弾き語りなんてしてるの
 かなと思って」
「タモリのレコードを探してたの」
「は?」
「だから、タモリのレコードを探してたのよ」

二回聞こえたので、どうやら聞き間違いではないらしい。
タモリ?タモリのレコード?
漠然と思い描いていた想像の、範疇外の回答だった。
というか、回答になっていない気もする。
僕は一瞬自分が何か違う質問をしてしまったのかと錯覚した。
だがすぐにそれを打ち消した。
何故ここで弾き語りをしているのか、と訊いた。それは間違いない。
確かにこの辺りにはレコード屋がちらほら存在している。
なので、全くの出まかせを言われている可能性もゼロではないだろう
けど、とりあえずその言葉を信じる事にした。
この目の前の端整な顔立ちのハーフっぽい女性は
『タモリのレコードを探していた』。オッケー、話を続けよう。

「念のために確認しとくけど、タモリってあのタモリ?」
「そう、あのタモリ。『笑っていいとも!』でおなじみの」
「そのケースにギター入れて、それを背負って歩き回ってたんだ?」
僕は彼女の右下の、ぱっくり口を開けたまま放置されている
アコギ用の黒いハードケースに目をやる。疲れそうだ。
「そうよ。ここら辺ってちょこちょこレコード屋あるでしょ?
 それで探してたんだけど…あんた、タモリのレコードって
 どんな内容か知ってる?」

この女性の話し方は、唄っている時の印象と比較すると
若干ではあるが幼い感じがした。
自分より年下かもしれない相手に初対面で「あんた」呼ばわり
されてしまったが、まぁよしとしよう。

「いや、よくは知らないね。何枚か出してるっていう事は知ってたけど」
「何だ、知らないの。知ってたら教えてもらおうと思ったのに」
「何?」
「知ってたら教えてもらおうと思ったのに、って言ったの。耳遠いの?」
「どんな内容かも知らずに探してたの?」
「そうよ、だって気になるじゃない。タモリのレコードって」
「…まぁ、いいか。それで、タモリのレコードを探している事と
 こんな寂れた通りで弾き語りをしている事とはどういう関係が
 あるのかな?」
「別にこの場所に意味なんてないわよ。レコードを探し回って、
 見つからなくて、イライラしてきたからおもいっきり唄って
 スッキリしようと思ったの。そう思い立ったのがたまたま
 ここだったってだけの話よ」

彼女は地面に利き手の人差し指を向けてそう言った。
中指と親指の間にはさっきまで弦をかき鳴らしていた
茶色いピックが挟まれている。
なるほど……。

「それであんなラウドな感じになってたんだ?」
「ラウド?」
「うん。さっきのビートルズだけど、どれもまるで『ヘルター・
 スケルター』を聴いている気分だったよ。ホワイトアルバムの中
 でも比較的穏やかな曲が選ばれていたハズなんだけどね。
 あれらがあそこまで熱く唄われているのを聴いたら、
 ジョンやポールらもさぞやビックリするんじゃないかな」
「別にビックリはしないと思う」
「ある種作為的なものすら感じたんだけど」
「作為?どういう事?」
「だってイライラしててスカッとしたかったんだろう?それなら普通
 もっとハードな曲を選ぶもんだと思うよ。同じアルバムの中でも
 『バースデイ』とか、『バック・イン・ザ・U.S.S.R.』とか、
 前述した『ヘルター・スケルター』とか、ガツンとくるロックナンバー
 が他にあるしね。なのにあの選曲っていうのは、何らかの意図を
 もって敢えてやってるんじゃないかと思ったんだよ」
「思いつくまま適当に演奏しただけよ。あんたがどう感じようと勝手
 だけど」

そう答えた彼女の表情がかなり気だるい感じだったので、
選曲についてこれ以上触れるのはやめておく事にした。
本当は、あの『チェルシー・ガールズ』についても話を
訊きたかったのだけど…。別の質問をする事にした。

「いつもそうやってギター持ち歩いてるの?」
「まさか。そんなの煩わしくってしょうがないじゃない」
「じゃあ今日はどこか小さなハコで演奏してきて、
 その帰りだったって事?」
「別に。家からここまで来たんだけど」
「………」
「………」

よくわからない。が、何となくだけどここで「何で?」と訊ねても
マトモな返答は期待出来ないような気がする。
だからこの話はここで置いておこう。
いい感じにくすんだ色のフォークギター背負って、
タモリのレコードを求めて日本橋界隈を歩き回りたくなる事も
長い人生の中で一回ぐらいあるのだろう。

「あんたはここで何してたの?」
しばしの沈黙を破ったのは僕ではなかった。
彼女にも人に何かを訊ねたくなる事があるらしい。向こうの方から
質問されるとは思っていなかったので少々驚いた。

「僕?今はもう帰るところだったんだけど、『ペーパーボーイ』
 っていうファミコンのソフトを探してたんだ」
「何それ?」
「ファミコン知らない?」
「ファミコンは知ってる。マリオとかでしょ」
「何それ、って今訊かなかった?」
「だから、どんなゲームなのそれ?聞いた事ないタイトルなんだけど」

どの程度彼女がこのソフトについて知りたがっているのかは
判りかねたが、とりあえず僕は説明する事にした。

「自転車に乗った主人公を操作して、新聞を配達するゲームだよ。
 指定された家のポストに新聞を放り投げていくんだ。ただ街の人々
 は主人公を見つけると容赦なく襲いかかってくるから、
 うまくよけるか新聞で撃退する必要がある。ちなみに街の人々だけ
 でなく死神や竜巻からも命を狙われる宿命にあるから結構大変だ。
 撃退にあたって注意すべき点は、主人公は新聞を左にしか投げる事
 が出来ないというところ。右側から襲われた場合はよけるしかない。
 で、あまり新聞を投げ過ぎていると手持ちが無くなるから、そこら辺
 に落ちている新聞をうまく拾えば補充する事も可能。とまぁ、大体
 そんな感じ」
「ふーん。よくわからないゲームね」
「確かによくわからないな。ザ・洋ゲーだよ」
「それ見つかったの?」
「いや、見つからなかった。まぁこれを扱っている店って少ない
 だろうからね。インターネットで調べてみたら売ってるところが
 あったから、そこを利用すればまぁ買えるんだけど」
「何でそうしないの?」
「何でだろう?うーん多分、簡単に手に入れてしまうのが勿体ない
 からかな。苦労して手に入れるからこそ喜びもひとしお、って言うか。
 そういう達成感みたいなのを味わいたいんだろうね。
 それに、あるソフトを探し求めながら色んなファミコンソフトを
 扱っている店に入るのって、単純に楽しいんだよ」
「時間の無駄ね」
「全くその通りだと思うよ。一回もやった事のないソフトだから
 早く手に入れてやりたいんだけどね。無駄を好む傾向にあるのが
 僕の困ったところなんだ」
「………」

彼女はあきれているようだった。当然の反応だと言えるけど。

「それはそうと、君はオリジナルの曲を書いたりはしないの?」
「書くわ」
「本当?よかったら聴かせてほしいんだけど」
「外ではカヴァーしかやらないようにしてるの」
「それには何か理由が?」
「別に。ただ何となくそういう風に決めてるだけ」
「そうか。残念だな…」

僕は本当に残念に思った。


さっき聴かせてくれた鬼気迫るようなビートルズ。
あれは、目の前でその姿を捉えているにも関わらず、弾き語りである
事が信じられないほどに凄まじくヘヴィーだった。
レコードが見つからず憂さ晴らしでやった、
と言っていたけど、本当にそれだけなのだろうか。
彼女があの『チェルシー・ガールズ』を唄い始めた瞬間、
辺りの景色が一変したようだった。
あれは特別な時間だった。どこにも属する事のない、
ただ彼女が唄う時にだけ生まれる時間。
この世界とは隔絶された理想郷に向かって虹をかけているような
あの歌声。あの美しさを僕は忘れる事が出来ない。
どうしてあんな風に唄えるのだろうか。
何を感じているのだろうか。
2, 1

  


彼女自身の曲を聴けば、もしかしたらそれがわかるかもしれないと
考えていたのだ。今のところ全く検討のつかない、
正体の知れないその「何か」が。
もう少し食い下がって頼んでみようかとも考えたけど、
これまでの彼女の言動から察するにまず無理だろう。
仕方なく諦める事にした。

「外では、って言ったけど、じゃあ君は自分の作ったオリジナル曲は
 家でしか唄わないの?」
「外っていうのはこういう道ばたの事を言ってるの。私バンドやってる
 から、ライブハウスとかではちょくちょく自作の曲もやってる。
 まぁカヴァーの方が多いけど」
「へぇ、バンドを?」

彼女が誰かと組んで音楽をやっている、というのはちょっと意外な
感じがした。

「それなら一度ライブを観てみたいね。君の曲を聴きたいし。
 近々予定はないのかな?」

僕がそう言うと、ピックを握ったままグーにした手を軽く頬にあてて、
彼女は何かを考えはじめたようだった。
ややあって、ジーンズのポケットから財布を取り出すと(彼女は大きな
ギターケースは運んでいても、鞄は持ち合わせていなかったようだ)、
そこから一枚の紙を取り出し、僕に渡した。
何かのチケットだった。
ぴあ等で発行された物ではなく、会場側が作成した物のようだ。
どこかのライブハウスのようだが、僕の知らないところだった。
初めて目にするバンド名が並んでいる。それでこれが、インディーズ
のバンドが出演するイベントのチケットだという事が判った。

「このイベントに君がやっているバンドが出るんだね?」
僕は視線をチケットから彼女の方に移し、訊いた。
「そうよ。今買ってくれるって言うんなら渡すわ、それ」
再びチケットに目を通す。チケット代は1500円と書かれていた。
金額の隣に括弧して『ドリンク代は別途必要です』とある。
イベントが開催される日時を確認する。
来週の土曜日、開場が17:00で開演が18:00。
特に予定はないので行ける。場所はどこなんだろう?
チケットをひっくり返すと、裏面に簡単な地図が印刷されていた。
それでこのライブハウスが難波にある事がわかった。

「うん。この日は特に予定も無いし、行かせてもらうよ」
僕は財布から千円札と百円玉5枚を取り出し、払った。
「そういえば、君がやっているバンドはどれ?何て名前?」
彼女がそのお金を自分の財布にしまっている間、
チケットの文面を眺めながら訊ねる。
「マネー・フォー・ナッシング」彼女が答えた。
その名を探す。…あった。バンド名が並んでいるその一番下の欄に、
『Money For Nothing』と書かれていた。

ん?Money For Nothing?
聞き覚えのある響きだ。何だったっけ?
しばらくの間それについて考えを巡らせてみる。
………あ、思い出した!
ダイアー・ストレイツってバンドのヒット曲じゃないか。

「下らない事だけど訊いていい?」
「何?」
「このバンド名は誰が付けたの?」
「私」
「って事は、君はダイアー・ストレイツのファン?」
「聴いた事ないわ」
「え?じゃあ何でこの名前を?」偶然の一致とは考えにくい。
「別に。メンバーから決めろって言われたから、CD屋に入って
 適当にアルバムを手に取って、目に入った曲名をそのまま
 付けただけ。何だってよかったのよ、バンド名なんて」
「なるほどね」

特に異存はなかった。僕はチケットをしまう。
これで彼女の歌をまた聴く事が出来るのだ。

お礼を言って立ち去ろうとして、ふと思い留まった。

「ひとつお願いがあるんだけどいい?」
「何?」
「僕のリクエストした曲を弾いてくれないかな?」
「何で?」
「何でって、まぁ純粋に君の歌をもう一曲聴きたくなったから
 なんだけど。チケットを買ってもらったお礼、って事にでもして、
 やってもらう訳にはいかないかな?」
「…まぁ、いいわ。私の知ってる曲ならね」
「あ、本当?」

彼女と会話してきたこれまでの経験上、おそらく断られるんだろうな
と思いながらダメもとでお願いしてみたのだけど、蓋を開けてみれば
意外や意外、オッケーしてもらえた。何事も言ってみるもんである。
さてと、何をリクエストしよう?

「うーんそうだな…じゃあ、レベッカの『フレンズ』」
「知らない。パス」
「ダメか。ならWinkの『寂しい熱帯魚』」
「知らない。パス」
「これもダメか。では石井明美の『CHA-CHA-CHA』」
「何で全部80'Sヒットソングなのよ」
「知ってるじゃないか」
「どうでもいい曲だったからスルーしてたのよ」
「どうでもいいって、ヒドいな。結構本気で好きなのに…」

結構本気で好きな曲だった。悲しいもんだ。

「そんなのばっかり言うんなら私もう帰るわよ」
「わかったよ。よし、クリムゾンの『21世紀の精神異常者』」
「弾き語りしている人間に向かってキング・クリムゾンの曲を
 リクエストするバカがどこにいるのよ。世界中探したって
 あんたしかいないわ」
「ほんの冗談のつもりだったのに…。じゃあトーキング・ヘッズの
 『この本について』」
「それマジで知らない」
「マジで知らないか…なら仕方ない。ええと、デヴィッド・ボウイの
 『ブルー・ジーン』」
「何でボウイの中でその曲なの?」
「僕はボウイってあんまり詳しくないんだけど、好きな曲なんだよ」
「そう。でも今の気分に合わないからパス」
「君厳しいな。じゃあ『ボウイ』繋がりでBOφWYの
 『季節が君だけを変「興味ないわ、パス」

遮られた。

「まいったな、曲名を言い終える前に断られてしまうとは」
「私の嗜好を考えないからよ。そろそろ帰っていい?」
「わかったよ。じゃあ何かニルヴァーナの曲をやってくれないかな?
 一回女の子が唄っているのを聴いてみたかったんだ」

僕のその言葉を聞いて、さっきと同じように
頬に手をあてて考え始めた彼女。
ゆるやかな時間が流れていた。
しばらくして、彼女は曲を弾き始めた。


それは『レイプ・ミー』だった。
演奏を終えた彼女に、僕は言った。

「女の子にこの曲を唄われると何だか複雑な気分になるな」
「あんたがニルヴァーナって言ったんでしょ」

そう答えた彼女は、この時初めて微笑んだ。



3

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