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モナ・リザと腐林

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「おじさん」
「なんだい」

 暗い帰り道だった。街灯が微かに光り、手に持った仕事鞄と紙袋の掠る音だけが響いていたつもりだった。しかし本当は僕の後ろには誰かが居て、しかも声をかけてくれていた。
 女の声だった。

「なんだい?」

 僕は振り返りながら、静かに声を出した。少女は―――白い布を着ていた。一枚のワンピースだった。一瞬、何を着ているのか解らなかったのは、彼女が大人びた雰囲気を持ち合わせていたからだ。長い髪が黒い艶を持っている。可愛らしいと言える童顔は、口に塗られた深い赤のルージュで大人びていた。小さな体に不釣合いなその雰囲気は、どこか現実離れしている様に思える。

「その袋には何が入ってるの?」
「林檎さ」

 少女の言葉は何処か凛としていて、初対面である筈の僕に対しても全く怯えていない様子だった。僕は袋から林檎を取り出すと、彼女に見せた。帰りに林檎畑から一つばかりくすねた、何でもないただの林檎を。

「これ頂戴よ」
「別に構わないさ、ほら」

 不思議な気分だった。まるで夢のまどろみの中で、彼女が僕に会いに来た様に思えた。僕は林檎を彼女に渡す。指先が触れて、それがとても素敵な事に思えた。

「ありがとう」
「どういたしまして」
「歌うね」

 彼女は「お礼ね」、と付け加えると、月夜のライトアップや、風の通るバックミュージックを背に、ジャズのメロディが奏で始めた。モナ・リザ、その音は、優しい音で、どこか切ない、二度目のモナ・リザ。


「くあ、終わった」
「先生!ありがとうございます!」

 私は書き終えた原稿を出部君に渡し終えると、首の関節から溜まった疲れを折り出し、書斎の机に深々と座り込んだ。夜は既に二時を過ぎていた。かけていたナット・キング・コールのベストもとうに曲を流し終えて、出部君も何時の間にかそそくさと出版社へ行ってしまった様だった。部屋にはコチコチと乾いた時計の音だけが響いている。

「お疲れ様」
「ん………ああ、お前か」

 妻が皿を持ちながら扉の隙間から私を眺めていた。

「お夜食作ったんですけど、もう要りません?」
「いや食べるさ、丁度腹もペコちゃんだったんだ」
「ふふ………そう言って頂けると嬉しいです」

 書斎机の上に乗せられた純白の皿の上には、茶色がかったソースがかけられた林檎のソテーが乗っていた。差し出されたフォークをナプキンから引き抜く。どうせ直ぐ使うのだから気を使わなくて良いと何度も言っているのだが、どうにもフォークに埃が触れてしまうのが気に入らないらしい。キッチンから書斎まで一分もかからないのに。

「おっ………これは」
「腐林ですよ」

 一口食べてみると、濃厚でネットリとしたバターの様な食感が口の中に広がった。食べ応えのあるそれに相応しく、味の方も林檎の甘さをさらに強調した様な味わいだ。歯や舌に絡まって取れないその実と、砂糖を煮詰めた様な凄い甘さが売りの腐林(ふりん)だが、ソースの強い酸味がその甘いすぎる嫌気をすっかりと打ち払っていて、喉の通りも滑らかにしていてくれている。

「どうですか」
「ああ美味しいよ、まあ腐林だけでも私は好きだけど………」

 取れたての林檎を一度、沸騰した湯で加熱処理し、その後に細菌の一種である腐林菌を林檎にまぶし、七日七晩寝かせれば腐林は完成した。いわゆる納豆なんかと同じ様な物だろう。どちらかと言えば珍味として扱われる事が多いが、その癖のある食感や味わいに嗜好家達も多く、私もこれ一本とは及ばずながらも、その中の一人なのだ。

「全く、グルメの夫を持つと妻も疲れますね」
「いや………その」

 しまった、と思った。妻の顔はニコニコしていたが、何処か飽きれた様な、悲しい様な顔付きにも見えた。長年連れ添って暮らした私だから解る。「せっかく作ってあげたのに」、そう言いたげな顔だった。
 せっかく妻が作ってくれたのに、悪い事をしてしまったが、私は、オーディオのリモコンを取った。幾度目ものモナ・リザ―――ナットキングコールが生きているなら、私は謝らなければならないか。しかしながら、こんな彼女の素晴らしい微笑みを何度でも見れるなら、それでも良いだろう。私のモナ・リザ、年を取っても、何時までも微笑む、永遠のモナ・リザ。
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