第七章 いつかあえたなら
第七章
青い空が広がる。澄み切った青い空気と白の雲を天井に、私は墓地のまっただなかにいた。私は髪とスカートをバタバタと風に靡かせながら、今花をあげたばかりのお墓の前で佇む。こうしているとなんだか映画のワンシーンみたいだと思う。「風に吹かれている」というイメージが私を物語世界の中へ連れて行ってくれるのだ。その物語は少し恋愛的だとステキだなと思いを馳せてみる。静かで、優しく、そして少しほろ苦い、懐古的なオルゴールみたいな物語。そしてその中にはあなたも登場するの。
私の物語に無理やり登場させられることになった彼は、しかし何も言わない。いや、彼が話せたならばきっと何か言ってくれるだろうと思う。私はお墓の中の彼に聞く。
ねぇ、あなたは何故死んでしまったの?
何度も、何度も考え問いかけた。彼の死因は肺炎だ。病気で、あっけなく死んでいった。だけど私のしたい質問はそういう意味じゃないの。私が知りたいのは、知りたいことは、何故?あなたが?他の誰かではなくあなたが、死んでしまったのかということ。そりゃ、他の誰かなら良かったというわけではないけれど…でも…。ねぇ何故あなたは死んでしまったの?
答えは………でない。きっとこの一生答えのでない問題を私は考えつづけるのだろうと思う。
「ねぇ?」
私は言葉を口に出して〈彼〉に話しかける。ねぇ…。決して帰ってこない呼びかけが自身の中にコダマする。コダマして反射して埋もれて、そして積もっていく。
「私はね。」
返ってはこない。だけどいい間違いや、ごまかしは絶対にできない。本当の言葉だから。あなたに聞いて欲しい本当の言葉だから。
「周ちゃん。」
そう。ここに来るまでに何度も反復し、繰り替えし、練習した言葉を今ここで。彼の前で胸を張って言えるように。けれど彼の名前を呼んだ後、私は胸がズキンと痛んで息が止まりそうになっていた。コダマし積もった感情が崩れてしまいそうになる。想いを支えるために私は拳を握る。
「周ちゃん。」
もう一度彼の名前を。きっとしばらく、いや、もしかしたらずうっと、私は彼の名前を呼ばなくなるから。
「周ちゃ…。」
もう一度。もう一度。もう一度……。握った拳の力を強め、ここから世界中に叫びたい気持ちを抑えて。
私は目を瞑り、しばらく休憩する。そしてまた目を開いて再び彼を見据える。
「周ちゃん。あなたは私に一緒にいて欲しい?」
遠くどこかで踏み切りの音が聞こえる。
「でも、ごめんね。」
カンカンカンと。どこからか…
「私はもう決めたわ。私は生きる。あなたの後を追うわけにはいかない。」
言った。そして涙が頬を伝わった。でもこれで泣くのは最後だから。だから、ごめんね。
「また来るよ。今度は…少し強くなってから。」
そう言って、そして私は彼に背を向けた。
「あっ」
背を向けた時、私は柄杓と桶を持って立っていた少女と目が合った。いつからいたのだろう。まわりには私達以外いないのに全然気がつかなかった。
「いや、その、ごめんなさい。盗み聞きする気はなかったんですけど………。あの、兄の知り合いの方ですか?」
少女はそう言って弁解する。
「ごめんなさい。なんか声かけにくくって。でも私もお兄ちゃんに用があったから、帰るわけにもいかなくって。」
どこから聞いていたのだろう。…………まぁ、いいや。私は開き直ることにする。
「えっと、妹さん?ごめんね、待たしちゃって。でももう私の用事は済んだから。」
開き直ったとはいえ、やっぱり親族相手にあの会話は気まずいのでさっさと逃げようと思う。できれば悠然と帰りたかったのだけれど……周ちゃん………私はまだまだですね。
「いや、ちょっと待ってください。私の用事はすぐに終わるんで、お茶でもご一緒しましょうよ。」
少女はそう言って私の横を通って周ちゃんの前へ行く。
「いや、そんな急がなくてもいいよ…」
私は少女の動きを追って振り向きながらそう言う。周ちゃんと対峙した少女は一度私の方を振り返って「ニッ」と笑った。そして桶を置き、
「えっ。ちょっと………!」
パゴーンといい音が墓地に響く。止めようにもあまりに突然すぎて反応できなかった。少女が持っていた柄杓でお墓を一打した音だった。
「な、何をしているの!」
反射的に私は怒鳴る。こんなふうに他人に対して声を荒げることなんて何年ぶりだろう。しかも相手は周ちゃんの妹さんだというのに。
「約束をね、してたんですよ。」
少女は私の方は見ずに、周ちゃんのほうを向いたままそう呟く。周ちゃんに話しているのだろうか。いや、多分話し方からして私に言ってるんだろうな。
「遊園地に行こうって、約束をしてたんですよ。今日はその約束の日なんです。」
少女はそう言葉を紡ぎながら、桶から水を掬い、そして自分が叩いた部分に流していく。その行為はまるで叩いたできた傷を癒すかのようだった。ゆっくり、ゆっくりと水を流していく。
「約束破ったから。だからです。さっきのは。」
コンと今度は軽く墓石を叩いて少女が振り返る。この子と一緒に周ちゃんの前にいると、まるで本当に周ちゃんがいるかのような気がする。さすが周ちゃんの妹というか、生きている、生きていないに関係のない会話をこの子はしている。そう思った。「約束」というのは私にはわからないけれど、多分この少女は周ちゃんが生きていても同じことをするのだろうな、と思う。
「周ちゃんが…いえ…あなたのお兄さんは…生きていたならきっとあなたとの約束を守ったと思うよ?」
少女のばちあたりな行動に感心しながらも私は一応彼をそうフォローした。
「どうだか。きっと忘れてますよ。何年も前の、口約束だからね。」
少女はそう言って桶に残った水を一気にザバーッと掛ける。
「うーん。ほら、彼って結構まめなとこあるじゃない?あなたとの約束もちゃんとスケジュール帳に書いてあったりするわよ。」
乗り出した船。私は周ちゃんのフォローを続けるのだった。
「わかってないですね。だから逆にスケジュールに書いていないものは忘れちゃうんですよ。ボクのお兄ちゃんは。」
私のフォローも空しく、少女はショルダーバックから線香とマッチを取り出しながらそう言った。そして線香を箱からみっつ出してそれをじっと見つめながら言葉を続ける。
「でも、本当は約束を覚えてないほうがいいんですよ。」
私は少女の持つ線香にマッチで火をつけてあげ、「それはなんで?」と聞いた。「ありがとうございます。」と言ってから、少女はその理由を語り始めた。
「さっきも言ったように何年も前の約束なの。昔、私の、私と兄の家は結構荒れていて、約束はその時にしたものなんですよ。でも一度だけでその後その約束のことが私達の会話に出ることは無かった。私が覚えているほうが不思議なくらいなの、実は。だからその約束を忘れたっていうことは少なくとも、そうした過去の束縛がなくなったってことだとも思うのですよ。私は兄に、お兄ちゃんにはそうしたものに縛られて生きていくようなことはしてほしくはなかったから…。だから…覚えてなくてもいいんです。」
そして火のついた線香を少女は手向け、そして手を合わせる。
「そう…」
私にはそれしか言う言葉がない。知らない事情だし、それに多分、それはもう終わったことなのだ。ただ…この子も残された人間なのだと思う。私と同じ、こちら側の世界の人間だ。
「確か…あなたの名前はあかりちゃんだったっけ?」
少女は「そうです。」と答えた。私は話題転換も兼ねて、遅ればせながらの自己紹介に入ることにした。
「私の名前は神楽加奈。実はちょっとだけどね、あなたのことはお兄さんから聞いて知ってるの。まぁ、会ったことも実は二三度あるんだけどね。まぁ、あなたは覚えてないかな?」
そう。何度か私は周ちゃんを通して、周ちゃんの近くにいるこの子を見たことがあった。でもかくいう私もこの子が自分から「周ちゃんの妹」と名乗らなければ、誰だかわからなかった。見たことがあると言っても私の記憶にあるのは小学生か幼稚園生くらいのこの子なのだ。
「覚えてますよ。兄のお見舞いに何度か来ていましたよね。」
笑顔になって少女…「あかり」は言った。屈託のない笑顔とは多分こういうもののことをいうんだろうな、と思わされる、そんな笑顔で。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか、神楽さん。じゃあね、お兄ちゃん。また来るよ。」
そして桶と柄杓を両手に持って、来た時と同じかろやかな感じで少女は帰るのだった。
「ほら、早く早く。この近くにおいしいコーヒーのあるお店を知っているんですよ。」
墓場の似合わない子だと思う。いや、多分逆かな。あの子はどこでも似合うんだろうな。うらやましいほどの明るさだ。
私は「待ってー。」と言いながらも後ろ髪を靡かせる。そして思う。周ちゃん、さようなら。でも私もまた来るから。落ち込んだ時、悲しい時、嬉しい時。私の物語にいたあなたの元へ。その時はできれば笑って迎えてね。笑って私を迎えてね。
そして私はかけっこでもしているかのように墓場の入り口まで、周ちゃんの妹のところまで、走って行くのだった。
あかりちゃんに案内されたコーヒーショップは墓地から五、六分のところにあった。墓地の近くにあるせいか、お店の周りは閑散としていて、しかも他にお店はないのでこのお店だけが周囲の風景から孤立している感じがある。不思議な感じ。物語の入り口みたいな、そんなお店だった。
私達が中に入ると入り口のドアに付いていた鐘がガランガランと鳴る。その音を聞いてやって来た黒服にワイシャツのウェイターさんの案内で私達は店の奥へと導かれる。私達が案内され座ったのは窓側の外が見える席、ちなみに禁煙。そこからお店の中を見回すと案の定ガランとしていた。私達の他にいるのは二三組だったけれど、まぁ、そういうことも含めてここは落ち着きたい時にはいい場所なのかもしれないな、と思う。
席に着いてからあかりちゃんは「とりあえず。」と言ってカプチーノを二つ頼む。
「まぁ、飲んでみてください。」
「あかりちゃんって今中学生?コーヒーが好きなんて大人びているね。」
「神楽さんは…」
「加奈でいいよ。」
「…加奈さんは中学生の頃、コーヒーは好きじゃなかったんですか?」
「今も昔も私はコーヒーよりミルクココアかな。」
「あ、そうなんだ。ごめんなさい。ちょっと勝手だったかな?」
「いいよ、別に。コーヒーも嫌いじゃないから。」
「そうですか、すいません。でも私も好きですよ。ミルクココア。」
「そう。」
「実はね。お兄ちゃんの影響なんですよ。私がコーヒーを飲むようになったのは。」
「へー。周ちゃんはコーヒーが好きだったんだ。」
「加奈さんって、お兄ちゃんのことを周ちゃんって呼んでいたんですね。」
「うん。そうだよ。」
「お兄ちゃんは加奈さんのことをなんて呼んでいたんですか?」
「そうね…。神楽とか、あ、でも加奈って呼ばれたこともあったな。」
「ふーん。」
「何?」
「いや……なんでもないです。で、まぁお兄ちゃんは良くコーヒーを飲んでいたんですよ。」
「うん。」
「コーヒーとワインがあれば他の飲み物は要らないとか言ってましたよ、あの人は。」
「ハハハ」
「未成年のくせにワインも何もあったものじゃないと思うんですけどね。」
「で、あかりちゃんはお兄さんの真似をしてコーヒーを飲むようになったんだ。」
「ええ。苦いーとか思いながらも真似してたらはまっちゃたんですよ。でもお兄ちゃんは結局ワインは飲ませてくれませんでした。エッチな本の隠し場所は知ってたんですけどワインの隠し場所はついに掴めなかったんですよね。」
「ハハハハハ。」
「笑顔が引きつっていますよ、加奈さん?ちなみに私がどうしても見つけられなかったワインは兄が死んだ後簡単に見つかりました。」
「どこにあったの?」
「普通に置いてありました。」
「え、でも隠してあったんでしょ?」
「これは油絵の道具だって言われてたんですよ。小学生だったから簡単に信じちゃったんですよね。まぁ実際そういった道具と一緒に置いてあったから全然気がつきませんでしたね。」
そこまで話した時、私達を案内したのと同じウェイターさんが来て、カプチーノを二つ置いていった。あかりちゃんと私は話すのを一旦止めてカップに口をつける。
「どうです、加奈さん?おいしいでしょ。ここのコーヒー。」
「うん。おいしいね。」
「良かった。ところで加奈さん、お兄ちゃんのことでひとつ聞いてもいいですか。」
「いいよ、何?」
「加奈さんはお兄ちゃんとどんな関係だったんですか?」
「え…それは…」
「お兄ちゃんはきっと、加奈さんのことを好きだったんだと思います。」
「なんでそう思うの?」
「さっき、お兄ちゃんが生きている時どうしても見つからなかったワインが死んでから見つかったっていう話をしたじゃないですか?それはお兄ちゃんが亡くなった時に持ち物を整理したからということもあるんですが……その時ワインとは別の、あるものも見つけたんです。」
「何を見つけたの?」
「日記がね、あったんです。」
「………」
「読みたいですか?」
「え…。」
「でも読ましてあげません。」
「………」
「ごめんなさい。でも実は父や母も知らないことなんですよ。整理の前に私が見つけて取っちゃったから。」
「なんで?見せてあげたら喜ぶんじゃない?だって周ちゃんの残した気持ちでしょ?」
「いえ。見せるわけにはいきません。両親は特に。」
「そうなの。まぁいいわ。詮索はしないよ。」
「………兄は随分悩んでいたようです。」
「日記の内容の話?」
「はい。私の前では明るく振舞っていたけれど、でも…なんていうか………」
「なにか暗いものが書かれていたのかな?」
「はい。だからいじわるとかじゃなくって、加奈さんには見せられません。私はその理由がなんとなくわかるけれど加奈さんにはわからないだろうから。私は今加奈さんが抱いているお兄ちゃんのイメージのままでいてほしいんです。」
「大丈夫。私は周ちゃんのことを嫌いになんかならないよ。」
「……加奈さん。」
「なぁに?」
「私はお兄ちゃんのことが好きでした」
「うん。」
「…………お兄ちゃんの日記に初恋のことが書かれていたんです。お兄ちゃんが高校生になってから出てくることなんですけど、相手はずっと前から知っている人だったみたいで。でも名前はどこにも書いてありませんでした。」
「……」
「でも多分、加奈さんのことだと思います。」
その後店を出て、しばらくあかりちゃんと一緒に歩いてから私は「用があるから」と言って彼女と別れた。(ちなみにコーヒー代は私がおごった。まぁ、一応年長者として、である。)別れ際、彼女は「また会いましょうね。」と言った。でも私がまた彼女と会うことはあるだろうか、と思う。一期一会。まぁお互い生きていればまた会うこともあるんだろうな。
「ただいま。」
彼女と別れた後、私は街をふらついて色々な買い物をしてから自分の家へと帰る。
「お帰りなさい。あら、また絵を描くの?」
母が台所から出てきて、キャンバス生地の覗く荷物を持つ私を見てそう言った。ちなみに私は実家住まいだ。
「うん、まぁ…………ね。」
私がこれから描こうとしているのは普段家ではあまり描かない油絵であった。部屋が汚れるので家族には煙たがられるのだけど、落ち着いてじっくり描きたかったので、多少の苦情は仕方が無いので我慢する。まぁ、まだ何も言われていないけど。
「ああ、そうそう、あなたに手紙が届いてるわよ。成人式の案内状」
そう言って部屋へ行こうとしていた私を後ろから母が呼び止めた。
「早いものね。もう加奈も二十歳なのね。」
私宛ての手紙を片手にヒラヒラさせながら母が言う。私は「ありがと。」と言って手紙を受け取り、そのまま部屋へ行く。後ろから「着物どうしようかしら」と言う母の声が聞こえたが、一人ごとっぽかったので無視して部屋に入った。
成人式。わたしは大人になったのだろうか。いつから?私は私のままずっと変われていないのだけど。成人式へ行けば、昔馴染みにたくさん会えるのかな。皆はどうなんだろう?やっぱり大人になっているのだろうか。色々思う。でもそこにはいないあの人。彼はもう、どこへ行っても会えないのだ。成人式にも来ないだろうと思う。成人式であの人に会えたなら私は冗談でも「私は大人になったんだよ。」と言ってみたいと思うのだけど。
部屋へ帰ってきた私はとりあえず買ってきた荷物を床にばら撒き、壁に立てかけてあったイーゼルを取り出した。そしてキャンバスを貼り、作業場を組み立てていく。
これから私は彼の絵を描くのだ。
ずっと考えていたことだけど、なかなか手が出せなかった仕事を。
オルゴールみたいに懐古的で、単調で、そして途中でパタと止まってしまうような、けれどいとおしい旋律を奏でているような、そんな絵を描こうと思っている。