第三章 たゆたうぼくら① わたしのせかい
第三章
今日は暑い日だ。十一月なのでここのところ冷え込んだ日が続いていたけれど、太陽がポカポカで気持ちがいい。これなら昼間はティーシャツ一枚でも大丈夫かもしれないな。鞄の中に部活用の着替えと今日使う教科書を入れながらそんなことを思う。お父さんやお姉ちゃんからは前日の内にそういうものは用意しておきなさいと言われるが、夜はどうもやる気がしない。朝の支度は太陽の差し込む中でやるのが一番いい。それに私は早起きが得意なのだ。
朝の六時に起きた私はとりあえず着替えて犬のミルクの散歩へ行く。ミルクの散歩は私の役目だ。散歩を終えた後は朝食を食べて、朝の支度をする。制服に着替えてそして私は七時には家を出る。
学校は家からそんなに遠くはない。朝早起きなのは部活の朝練へ行くためだ。部活はバトミントンをやっている。練習は朝と夕方の両方あって結構つらい時もあるけど、楽しいことのほうが多いから頑張れる。元々あまり体が良くない私にとって、体を動かすということはそれだけで結構楽しめるものなのだ。
朝の練習は体育館で行う。体育館には他に剣道部が一緒に朝練をしているので、たまに周ちゃんをみかけることがある。周ちゃんは私と違って朝が弱いのか朝練ではめったにみかけない。そしてそのせいで先生に怒られているところもよくみかける。そして風の噂でだけども、最近部活でいじめられているとも聞く。少し心配だ。
そしてその日の朝練にも結局周ちゃんは来なかった。また怒られるだろうに。私はそう思いながらも、部活で流した汗を拭って、制服に着替えて、そして教室へと向かった。
部活の友達はみんなクラスが違うので、この時間教室へ行っても私は一人で、いつも少し暇を持て余す。今日も教室に入ると案の定ガラガラで、私と仲の良い人はまだ来ていなかった。仲の良い誰かがいないのなら、それはそれで別の誰かと話せばいいのだろうけれど、私はそんなに積極的な人間ではない。奥手なのだ。男の子と普通に話をしているような女の子もいるけれど、私はだめだ。最近は特にそうで、小学校からの仲である周ちゃんとも上手く話せていない。
私は自分の席に鞄を置いてから、窓辺に歩みよって日に当たる。そして「ふうっ」と溜息をついた。なんだかおばあさんみたい、と自分で思う。そんな自分に自分で笑ってしまう。そしてなんとなく恥ずかしくなって、私は外を見ているふりをした。今の私の姿は他の人からはどんなふうに見えるのだろう。なんとなくそう思い、そしてそう思ったことで私はまた少しなんだか恥ずかしくなった。
朝のチャイムが鳴った。きーんこーんかーんこーん。そろそろ先生が来る。私の友人も含めて、遅刻組みが担任の先生より早く着こうと走って来るころだ。
窓から外を眺めていた私はふと背後の視線に気が付いた。背中がなんだかチリチリしたのだ。私は目を動かしてそっとその視線の主を捜す。そしてそのまま百八十度。振り返った先には周ちゃんがいた。周ちゃんが私を見ていた。今までのおばあさんのような仕草を見られていたのだろうか。恥ずかしいなぁ。でもなんだか周ちゃんは様子が変だった。私を見たまま彼は止まってしまっている。ざわめいた教室の中、まる周ちゃんの時間だけは止まってしまっているかのようだった。そしてさらに、なんだか周ちゃんは驚いた顔をしている。私のどこかが変なのかな。
「おはよう。」
とりあえず私は周ちゃんにそう言ってみる。だけど私がそう言った時、周ちゃんの頬をツウッと何かがが滑り落ちるのが見えた。
「……………」
そして周ちゃんは何か言った。苦しそうだ。
「佐々原君?」
私は周ちゃんの名前を呼んだ。私は小学生の頃は周ちゃんと呼んでいた(それだってそんなに多く使っていたわけではないけれど)のだが、最近は佐々原君と呼ぶようになった。他人行儀になったものだ。我ながらそう思う。心の中では周ちゃんのままなのに。
「あの…」
私は心配になって周ちゃんに歩み寄る。周ちゃんはボロボロと、という表現が適切なのかわからないけど、涙を流していた。
「大丈夫?」
どう考えても大丈夫ではないのだろうけれど、他にかける言葉を思いつかなかったので私はそう尋ねる。でも「大丈夫だよ。」と言って大丈夫じゃなさそうに笑ったりはしないでほしいと思う。
私は周ちゃんの前まで行くと急に視界が真っ暗になった。すぐには何が起こったのかわからなかった。ただ真っ暗な中、ドクンドクンという何かの鼓動だけが聞こえていた。その音が周ちゃんの心臓の音で、周ちゃんが私に抱きついているとわかったのはそれから少し経ってからで、そのことに気付いてから、私は何をしていいのだかわからなくなってしまう。全く予想していないことが起きたというか、なんと言うか、とにかく気が動転してしまった。周ちゃんは相変わらず泣いているし、私も泣けばいいのだろうか。
「ちょっと、ねぇ。みんな見ているよ。離して。」
そう言うのが精一杯。このまま突き放したりしたら周ちゃんは私を解放してくれるかな。多分離れると思う。でも私はなにかこの周ちゃんを見て、それはしてはいけないかな、と思ってしまった。驚いたし恥ずかしかったけど、嫌ではないということだろうか。自分で考えたその想いで私はまた、なんだか恥ずかしくなってしまった。
ドクドク
心臓の音が聞こえる。とても速い。私はその音に神経を集中してみる。(本当は耳を当てたかったけど、動けなかった。)
ドクドクドク
その鼓動は高まっては低まり、低まっては高まった。だけど少しづつ少しづつ落ち着いていく。私もそのリズムに合わせて落ち着いていった。
トクン、トクン
心臓の鼓動は規則正しくなり、ゆっくりとしたリズムを取り戻す。ふと顔を上げて見ると周ちゃんはもう泣き止んでいた。いや、表情自体はずっと変わっていなかったから、涙が止まっていた、というべきか。相変わらず私は抱きつかれたままだったけれども、周ちゃんの心臓のリズムはなぜだか私をとても落ち着かせてくれた。だから私はもう最初ほど気が動転してはいなかった。
トクントク…
その音は子守唄のようで、私はずっとずっと聞いていたいような、そんな気にさせられた。
先生が来た。
私達はそこで漸く離され、教室の中の一人一人の生徒に戻った。やっと私は自由になったわけだけど本音を言うと周ちゃんから離れる時、少し心残りではあった。周ちゃんがなんであんなことをしたのかはわからないけれど、もう一度私が抱きしめられるようなことはないと、そう思ったからだ。あの子守唄ももう聞けない。
周ちゃんは私と離れた後も全然大丈夫そうではなかった。なんというか、呆然としていた。先生は周ちゃんを保健室に連れて行こうとしたが周ちゃんは頑なに首を振っている。一日ぐらい休んでも周ちゃんなら大丈夫だから休んだほうがいいよ?ノートぐらい私が頑張って取っておくから後で見せてあげるよ。そう思ったが結局私の口から出た言葉は、
「保健室行ったほうがいいよ?」
というものだけだった。
「絶対嫌だ。」
そう言い返されてしまった。
結局周ちゃんは保健室へは行かず、そのまま授業を受けることになった。周ちゃんの席は私の左隣で、最前列の窓側が私達の席である。私は一時間目に使う教科書を取り出しながら、ちらりと横目に彼を見る。案の定周ちゃんはまだボーっとしていた。そして朝のホームルームの時からあまり姿勢が変わっていない。
一時間目が始まり、教科の先生が教室に入ってきた。時間ごとにころころと先生が変わることに中学校に入った頃は少し戸惑ったけど、今では私も大分慣れてきた。ちなみに一時間目は国語だ。
「きりーつ。」
日直が号令をし、一人を除いて皆が立つ。その一人は周ちゃんで、周ちゃんだけは立っていない。
「おい、佐々原。」
先生が声をかける。でもまだなにか彼はボーっとしている。
「佐々原君」
私も小声でそう呼びかけた。それで漸く何かに気が付いたように立ち上がり、
「ああ、すいません。こんな軍隊的な規律忘れていました。」
と言った。とぼけているのか、先生に反抗しているのか。毎日毎時間やっていることを忘れるはずがない。先生も一瞬周ちゃんの言葉にたじろいだみたいだったけど、すぐ後に「きょーつけー、礼!」という声が教室内に響き、そのままそれは流された。
「やっぱり、保健室行ったほうがよかったんじゃない?」
私は席に着いてから、周ちゃんに小声でそう言った。
「君と一緒にいたかったんだ。」
周ちゃんは私の言葉にそう答えた。我ながら言われた時はよく意味が呑め込めなかったけど、後ろの席で私達の会話を聞いていた子が「キャー」と言った。それで私は、また周ちゃんが私の予想にないことをしてくれたのだな、と思った。
周ちゃんは一体どうしてしまったのだろう、と思う。昨日までとは何かが違う。いや、急に抱きついたりと、前はそんなことができるような人ではなかったと思うのだ。けど、それ以上に何かが違ってしまっている。まるで私の知っている周ちゃんではないみたいだ。最も、私の知っている周ちゃん自体たかが知れているとも思うのだけれど。
授業中、周ちゃんはこの時間には関係のない別の教科書を見たり、自分のノートをまるで読書でもするかのように読んでいた。そして時々私の方を見た。私はといえば、そんな周ちゃんがとても気になってしまって勉強どころではなかった。私も何分かごとに周ちゃんを気になって見て、そしてたまに目が合い、そらし、気になってまた見る、ということを二人で繰り返していた。しかしそこで納得のいかないことは、先生に当てられた時私はわからないのに、周ちゃんは答えを用意しているということだった。なんか許せない。
まぁ、とにかくそんなふうにして一日が過ぎた。みんなが朝の件で私達をはやし立てようともしたが、当の本人である周ちゃんがあまりにも当たり前のような顔をしていたので、驚いたことに朝の件があまり騒ぎにはなるようなことはなかった。まぁ、騒ぎにしてほしかったわけでもないけれど。
朝の件以外に変わったことといえば、周ちゃんが「一緒に帰ろう。」と言ったことだ。私達はお互い近くに住んでいるので帰り道に出会った時などはそのまま一緒に帰る、ということは普段もしているのだけど、こうして約束を取り付けて一緒に帰る、というようなことはいままで一度もなかった。周ちゃんと私はその程度の仲なのだ。一緒にいる時間は長いのかも知れないけど、だから特になんだというわけでもない、そんな関係。しかし…
「一緒に帰ろうって…部活は?」
「ん、ああ…部活か、そんなものあったなぁ。」
「あったなぁって、毎日やってるでしょ。」
「んー。そうだね。良くやったなぁ。」
「なんか、おかしいよ?朝からだけど…、ホント大丈夫なの?」
「大丈夫さ。何も心配はいらない。けどまぁ神楽に部活という用事があるなら仕方がないな。僕も行って見るよ、部活。終わってから一緒に帰ろ?」
そして部活が終わった後、私達は一緒に帰ることになったのだった。いつも一緒に帰っている友達には「ちょっと忘れ物。」と嘘を言ついて先に帰ってもらった。なんか罪悪感。
帰り道、特に周ちゃんは朝のように変わったところはないようだった。強いて言えば学校の人の名前や最近起こった事件のことなどを聞きたがっていたことだ。私が答える度に彼はうんうんと頷いていたけど、その行為が私にはなにか赤ペンを持ってテストの見直しをしているような、なんだかうまくいえないのだけれども、一度忘れてしまったことを再確認して思い出しているような、そんなふうに感じられた。
あなたは本当に周ちゃんなの?
別れ際、私は心の中で彼にそう問いかけた。
「神楽。」
「ん?なぁに、佐々原君。」
「いや…なんでもない。ごめんね。また明日会おう。」
そして私達は別れた。私は去っていく彼の背中にもう一度問いかける。
あなたは誰?
答えは何も返ってはこなかった。