夏蛍「一」
ガタリ、ガタリと車体が浮き沈みを繰り返す。その痛いくらいの振動に、後部座席に寝転んでいた茶髪の少年は起き上がった。
「…正直、痛いんだけど」
「我慢してよ、ちょっとでも気を逸らしたら車体持っていかれそうなんだからね!!」
運転席の彼女は口に咥えた煙草を噛み締めながら前方を凝視している。ハンドルを握る手からは明らかに汗を思しき液体がにじみ出ており、ハンドルから手を滑らせてしまうのも時間の問題だと茶髪の少年は強く感じた。
「まぁ、あと数キロだし…。流石に木とかにぶつかっちゃうことはないだろうしね…」
「何言ってるんだよ弘樹、お前の療養の為に来てるのに、これじゃあ…」
「黙ってて裕輔!! 騒がしいと気が散る!!」
ならこのスピードを落とせ。と茶髪の少年、杉原裕輔は深い溜息を吐きつつそう思った。
メーターは既に八十を上回っており、左右の木々は吹き飛ぶように後方へと消え、整備のされていないデコボコの道は車輪をひたすら拒否し彼らの乗る軽自動車をひたすら浮き上がらせている。スピードを少しでも落とせばいいものを、裕輔と弘樹の母親、杉原加奈子はその考えを完全にシャットダウンし、命の危機をひたすら楽しんでいた。
「…レンタカーぶっ壊したら、賠償金とんでもないぞ?」
「いいのよ!! どうせパパが払うんだからぁ!!」
彼女はその声と共にアクセルを押し込んだ。メーターが百を超え、デコボコ道の抵抗も同時に限界を超えた。
飛んだ。
飛んだのだ。自動車が。
裕輔、弘樹、加奈子を乗せた軽自動車は、見事に宙を舞い、そしてゆっくりと左側へ傾いていく。たった数十センチ浮いただけであるのにも拘らず、中に乗り込んでいる裕輔達には、まるで飛行機にでも乗っているような感覚が生まれ、そして同時にジェットコースターの数倍もの恐怖を心に植えつけた。
「うわぁぁぁぁあぁ!!」
「きゃあぁぁああぁあ!!」
「嫌だぁああぁあぁぁあ!!」
三人の悲鳴も虚しく、軽自動車もといレンタカーは、左に傾いたまま傍の大樹に衝突した。
夏蛍「一」
――前篇――
蝉の声が聞こえてくる。
目を覚ますと同時に、裕輔は耳にべったりと残る音に懐かしさを感じた。これだけ盛況な蝉の音を聴いたのは、いつぶりだろうか。
向こうでも蝉の音は聴く事が出来た。だが、向こうの蝉の声はどれも息苦しさがあった。どこまで鳴いても結局相手を見つけられずに地に落ちてしまう。そしてたった数週間の命を散らしてしまうのだ。
――僕は、車が衝突してからどうなったのだろうか。
裕輔はゆっくりと起き上がり、周囲を見渡してみる。年季の入ったシミだらけの壁に、古く繊維の荒れた掛け布団、ところどころサビの浮いたパイプ椅子、右手にある開ききった窓から見える自然のキャンパス、そして――
「…起きた? 元気?」
顔をグッと近づいている同い年くらいのワンピースの少女が、一人。
「あ、うん…」
誰? と聞く前に彼女は背後にあるドアを開き、大声で「起きたよ」と叫んだ後、再び裕輔のベッドへと腰をかけた。
「ええと、キミが…助けてくれたの?」
彼女はぶるる、と首を横に振る。
「村の男手がね、三人を見つけたんだよ」
三人、ということは母も弘樹も無事であるようだ。裕輔はその事に安堵した。あれだけの衝撃だったのだ。自分だって無傷なのは奇跡に近いのだ。
「結構心配してたんだよ? ホタルソラギの根元に大きな傷をつけて煙をあげてる車があるんだもの。しかも中は血まみれでねぇ…」
その言葉に、安堵感を感じていた心が再び騒ぎ出す。
「誰か大怪我負ったのか!?」
「あ…しまった…」
裕輔は青くなった表情で少女の手を掴み、顔をぐいと寄せる。少女は少し戸惑いの色を浮かべつつも、抵抗をする気配は決してない。
暫く、無言のまま時が過ぎていく。蝉の声が、風を受けてざわめく木々の音が周囲に染みてゆく。
「…魔法って信じる?」
先に無言の空気を切り裂いたのは、彼女の方だった。
「え?」
「魔法があるとしたら、あなたは信じる?」
彼女は何を言っているのだろうか。裕輔は、妙に澄んだ目で見つめてくる少女に多少の疑問を感じながらも、こちらも決して目を離さずに見据え続ける。
「兄ちゃん!!」
「裕輔!?」
ドアの開く音と共に、弟の弘樹と、母の加奈子がベッドを囲んだ。
「二人とも無事だったの!?」
「本当に良かったわよ…。裕輔も無事で…」
「あの車の大破具合でよく助かったよね三人とも…」
二人の無事に再び安堵感を抱きつつ、少女の呟いた言葉に強い疑問を感じ取り、裕輔は再び少女の方へと顔を向けた。
「なぁ、血まみれ…って…?」
そこに、少女の姿は無かった。
「何? 誰かいたの?」
「いや、今さっきまでここに僕と同じくらいの女の子が…」
「入ってきた時にはどこにもいなかったわよ?」
裕輔は加奈子の言葉に不安の色を見せる。
赤みのかかった腰くらいまでの長髪に、色白ですらりと細い体つきで首にはキラリとした何かをかけていた。明るくて活発そうな女の子だった。裕輔は脳内に焼きついた記憶を再度目蓋の裏に描くと、そんなことを思う。
だが、問題はその少女が何処に行ったのかということだ。先ほどまでペン一本分も無い距離にいた少女が突然消えるなんて事ありえるはずは無い。まず動く気配に気付く筈だ。また開いている窓から飛び出たとしても着地音が聞こえてくる筈である。
そして、それ以前にそんな行動を起こすことが出来る時間など全くなかった。
「…魔法…?」
「どうしたの兄ちゃん?」
「いや、別に…なんでもない…」
裕輔はベッドを降りると、窓へと歩み寄って手をかけると、身を乗り出した。
地面は、随分と遠く、裕輔の乗り出している窓より下にあと二つ窓が存在していた。
――飛び降りれるわけが無い。
裕輔は背筋に氷を押し付けられたかのように身を震わせる。その裕輔の様子に二人は首を傾げつつ「とりあえずここの院長さんにお礼を言いにいきましょう」と加奈子が提案し、二人はそれを承諾した。
―――――
「別にお礼なんて、仕事をしたまでですよ」
「いえ、それに御神木…でしょうか? にまで傷をつけてしまいまして、本当に申し訳ありません」
「いえいえいえ、気にしないでください。ホタルソラギはそう簡単には倒れやしませんから」
加奈子の九十度のお辞儀に、若い白衣の医師、柳浩介は少しばかり慌てふためいている。
寂れた病院だということはここに来るまでの通路の荒れ具合ですぐに分かった。一階はかろうじてしっかりした整備を整えてあるが二階、三階は既に埃に満ち満ちており、少し触るだけで綺麗な一本線を作ることができた。
「あんなに汚れている三階に何故僕らを?」
「一階のベッドは今手入れ中でしてね。それに三人とも無傷だったので二階よりは使用頻度の高い三階にと…」
弟の療養の為に来たのに、あれだけ環境の悪いベッドに寝かされてたと思うと、裕輔は少しばかりこの医師に怒りを覚えた。まぁ荒い運転をした母も同罪といえば同罪なのだが。
「次男の弘樹君の療養の為なのに、あんなに埃だらけの場所に寝かせて申し訳なかったね」
「まぁ緊急事態でしたので。普通に来ていれば何事も無かったので。私の責任です」
加奈子は再度九十度に近いお辞儀を繰り返す。この丁寧な謝罪に柳は弱いようで、いえいえと両の手を振りながら顔を上げて欲しいという表情を浮かべていた。
「とりあえず、僕らの借家がどこだか分かりませんか? 車の荷物もちゃんと運ばないといけないんで」
話題を逸らそうと裕輔は柳にそう問いかけてみる。するとああ、という呟きと共に柳の表情が和らいだ。
「車を回収した時に荷物も借家へ運んでおいたそうだから、今地図を渡しますよ」
「それにしても、随分と良い場所だね。ここは」
運ぶ筈の荷物が消えたことによって裕輔は手をぷらぷらとさせながら周囲を見渡し、その景色の壮大さに圧倒され続けていた。
透き通るように透明で穏やかな流れの川に肉のついた魚達がのったりと泳ぎ、心地よい風を受けてさわめく木々の囀り、硬すぎず柔らか過ぎない地の踏み心地。全てが自身の心を潤す程の力を持っている。
暫く木陰のある小道を歩いていくと、拓けた場所へ三人は出た。
「あら、良い感じの家じゃない」
三人の目の前にどっしりと構えて建っている一軒の家は、まるで絵本の世界に存在する一軒家をまるごとそのままこの風景にペーストされたようなものであった。赤い煉瓦を重ねて造られた屋根と黄ばんだ壁が見事に絵本の世界の赤い屋根の家を再現している。
こじんまりとした一軒家の左隅にポツン、と申し訳程度にチョコレイト色の扉が取り付けられている。
「テレビとかは無さそうだけどね…」
「いいじゃない。良い具合に血色良くなって帰れるわよ!!」
裕輔の不貞腐れた様な呟きに加奈子はぐっと背伸びをしながら叫んだ。透き通った声は周囲に反響し、そしてゆっくりと静まり返っていった。その不思議な声のリバーヴに弘樹が驚きの声をあげる。
「面白い響きするんだね!! 母さん!!」
「そうね、まぁとりあえず中に入りましょうよ」
加奈子はステップを一つ二つ踏みながら扉を開き、わぁ、という喜びの声を上げるとそのまま屋内へと駆け込んでいった。
「兄ちゃんも行こうよ。良い感じの部屋なんだよきっと!!」
「分かった。今行くよ」
満面の笑みを浮かべながら駆けて行く弘樹の背中を身ながら裕輔は笑みを浮かべる。
不意に、何か異質な気配を感じた。裕輔はその異質な感覚に背筋を震わせながら周囲を見回し、この空気の主を探す。
その異質な存在は、そこに静かに佇んでいた。
――さっきの…子?
そこに立ち尽くす少女は、ひたすらこちらを鋭い視線で見つめていた。
先ほどの少女である筈なのだが、和服で、長髪の色も黒。どちらも先ほどの少女と違う。双子なのだろうか。裕輔の脳内にそんな言葉が生まれる。とりあえずこの村の人間とのコミュニケイションは取っておくべきだ。その方が夏の間のここで生活も多少は楽なものになるだろう。見た目を見ても歳は同じくらいのように見える。裕輔はそう確認すると、笑みを浮かべて手を振ってみる。
「…?」
「キミ、さっきの子の双子の姉妹かなにか?」
裕輔は雑草をざしざしと踏み倒し、ただこちらを鋭く見つめる少女に声をかける。少女は戸惑いの色の浮かぶ表情を見せて、ゆっくりと後方へと動き、裕輔との距離を取ろうとする。
「そんなに警戒しないでよ。俺の名前は杉原裕輔。中学二年。この村には弟の療養で来たんだ。夏の間だけ…なんだけど、よろしく」
裕輔は柔和な笑みを作り、目の前でひたすら警戒を続ける少女の前に右手を伸ばす。握手の一つでもしてみれば大分相手も警戒を解くだろう。そんな考えであった。
「…」
案の定少女はその手に異様な興味を示し、小さくてぷっくりと膨れた唇を甘噛みしながら、その鋭い視線を裕輔の右手に向けている。
「ほら、握手」
「…あくしゅ?」
キョトンとする少女に少し苛立ちを覚えた裕輔は左の手で少女の右手をむんずと掴むと、そのまま自身の右手で握り締めた。
「こういうことだって」
多少強引な握手に目の前の少女がまた戸惑いの色を見せているのが、すぐに分かった。彼女は握手をした事が無いのだろうかと、もしかしたらこの村では異性に触れることが禁じられているとか、そんな規則でもあるのだろうかと裕輔は手を握った直後に考え、そして焦りを覚えた。
「…夏…」
「え?」
小さな呟きに思わず反射で返事を返す。すると少女は目を強く瞑り、頬を真っ赤に染めながらもう一度口を開く。
「渡瀬千夏…です…」
渡瀬千夏。
彼女はそう名乗った。どうやら重度の引っ込み思案であるようだ。それもここまで相当なものだと、男友達もいない。きっといない。いや断じていない。きっと俺が男友達一番目の筈だ。少女のハジメテを奪ってしまったと思うと多少心が痛むが、それでもこれだけ綺麗な子のハジメテだ。奪っておいて損は無いだろう。裕輔はにへらと不気味な笑みを浮かべながら千夏を見つめる。
「…ちょっと、怖い…です…」
千夏の呟きでようやく自身の緩みきった馬鹿みたいな表情に気付く。
「あぁ、ごめんね。それでさ、キミの姉か妹に茶髪でワンピースの女の子って、もしかしている?」
「…いませんけど…」
問いかけに対し、否定と首を傾げる仕草を返してきた千夏を見て、裕輔も首を捻る。ならば病院で見たあの少女は誰だったのであろうか。
=幽霊?
―いやなら何故渡瀬千夏と似ている必要がある。
=宇宙人? UFO?
―どこの夏の出来事だそれは。
「あのぅ…もう、離してもらえませんか?」
救いようの無い自問自答を繰り返していると、千夏は申し訳無さそうに、頬を赤らめ視線を逸らしながらそう裕輔に対して呟いてきた。
「離す? 何を?」
「あの、手を…」
「あ、あぁごめん!!」
裕輔は手を離す。多少湿り気を帯びた手を見て申し訳なさを感じる反面、暫くこの手を握っていたのだなと考えると、心に小さな悦びが生まれるような感覚と鼓動を感じた。一体どんな変態なのだと裕輔は自身に対して思い切り自己嫌悪に入りたくなるが、そこをグッと抑え、笑みを浮かべながら再び千夏に視線を向けた。
千夏は裕輔と先ほどまで握り合っていた手をじぃと見つめながら黙り込んでいる。
――暫く、黙っていた方がいいのかもしれない。
そう感じ、裕輔は口をパチリと閉め、暫く千夏の事を見つめ続ける。
沈黙。
沈黙。
沈黙。
沈黙が長く続いている。その間も、千夏は手のひらを見つめ続けている。
沈黙。
沈黙。
どれだけの沈黙が生まれただろうか。互いの静寂が詰め込まれた世界で、ひたすら風の音と蝉の声が響いている。暑い日ざしが皮膚を焼き、じりじりとした空気が裕輔の体中から汗を引っ張り出している。既に身に着けているTシャツは汗を吸い変色し、青色を紺色へと誘っていた。
「…ふふ」
沈黙が、千夏の笑みで断ち切られた。
「そんなに…握手が嬉しかった?」
「…初めての経験だったの、男の子に手を握られるの…」
――ありがとう神様、こんな汚れを知らぬ少女を存在させてくれて。
裕輔は両拳をぎゅっと握り締め、千夏の呟きに歓喜の旗を心の中でひたすら振り続けた。やはり彼女は何か特別な存在なのだろうか。巫女のような存在であるが為に男子と触れ合う事を強く禁じられている。そんなものなのだろうか。
「いつも、お父さんが…許して、くれないから…」
その言葉が、裕輔の脳内の妄想を勢い良く掻っ攫って行った。
嬉しそうな少女は、裕輔の前でしゃがみ込むと、短パンのジッパーを小さな指で下げていく。
――なんだ、これは。何が起きてる?
「…お父さんとね、挨拶する時は必ず…こうしてるの…」
下げられたジッパーに千夏は手を入れ、裕輔のソレを探す。
――父親は一体何を教えているのだろうか。
千夏の小さな指が、裕輔のソレに触れた。
「や、止めろよ」
反射的に、その言葉が出ていた。裕輔は半歩後ろに下がり千夏を強く睨みつける。何故こんな初めて会う少女に下半身をまさぐられなくてはいけないのだろうか。何故千夏はそんな異質な行為を簡単にしようとしてしまうのか。父親は一体彼女に何をしているのだろうか。そんな疑問と憤りが脳内を駆け巡る。
「…喜ぶと思った…だけなのに…」
裕輔と千夏の間に流れる空気が、周囲と明らかに違っていた。少女はその場に崩れ落ちると、嗚咽を溢しながら涙を流し始める。あの異様な行為が彼女の中では「日常的」となっている事を顕著にしている光景だと、その時裕輔は思った。
「ご、ごめん。でも…あんな事、初めて会った奴にやることじゃないと思うんだ…」
「…ごめんなさい、ちゃんとやります…お父さんごめんなさい…ごめんなさい…」
少女の呟きが、裕輔の周囲の空気を変えた。
青い表情でひたすら震える少女に、疑問という恐怖を覚えて裕輔はもう一歩後方に下がる。
何故父親に謝っているのだろうか。この少女は何に怯えているのだろうか。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
「…付き合ってられないよ。ごめん」
そのえもいえぬ恐怖に、裕輔は屈服し、逃避と言う道を選ぶ。嗚咽を上げて泣き崩れる少女を背に裕輔は耳を閉じて家の扉まで駆けて行き、ノブを思い切り回して屋内へと入っていった。
「どうしたんだい? 千夏」
裕輔が家の中へと入っていくのと、本当に同時だった。サイズの合わないTシャツを着た大柄の男が、たっぷりとたくわえた髭を撫でながら、千夏の髪を掴み、持ち上げる。
痛いという感情が、千夏の中を駆け巡る。
「…かってにそとにでて…ごめんなさい…」
「そうだよ、千夏? 外は怖いモノが一杯だからね…。『お散歩』の夜以外は決して出てはイケナイと言っただろう?」
「…はい…」
大柄な男性は、黒縁で逆光のメガネをぎらりと強く輝かせると、彼女の耳元でそう呟き、千夏の右手をぐいと引く。
「さぁ、帰っておしおきだ…」
「ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…」
蝉が鳴く。
風が木々の葉を擦り音を奏でる。
川のせせらぎがさわさわと視覚的な癒しを作り出す。
その光景に溶け込むように、すぅっと二人は森の中へと消えていった。
―――――
「本当に、あんなに素敵な家を用意してくださって、ありがとうございます」
「いえいえ、気にせんでください。こんな小さな村を療養の為の場所として選んでくれたんですから」
扇風機がうぃんうぃんと音を立てて回る。そんな部屋。空調機なんてものは存在すらしていないようである。
そんな部屋で、この村の長とされる初老の男性、荻奈健次郎と杉原加奈子は談笑を交わしている。こんな暑い中でよくあれだけ調子よく互いを褒めちぎりあえるものだと、裕輔は退屈そうな顔をしながら目で訴えていた。
「兄ちゃん。本当に綺麗な場所だよね」
「そうだね。ここなら僕も良い気分で新学期を迎えられそうだ」
しゃりしゃりと荻奈の妻、由紀子が用意したスイカをほお張りつつ弘樹は満面の笑みを浮かべている。そんな弟の手前、嫌な顔はできないと裕輔は左右の頬をつり上げて見せるのだが、いかんせん昨日の異様な状況が頭から離れず、複雑な笑みになってしまった。
「…やっぱり迷惑だった?」
「お前の病気を治すためなんだ。気にしてないよ」
「ごめんね、みんなに迷惑かけちゃって…」
その申し訳なさそうな表情を見て、心が小さな水たまりに浸っていくのが祐輔にははっきりと分かった。弘樹が悪いわけではないのに、彼の責任にして自身の不満の塊を吐き出してしまいたい気持ちに駆られる。
向こうに残してきたモノは本当にたくさんあった。友人と遊ぶ約束だってしていたし、部活だって合宿もあった。だがその全てが「一時的な療養の為の田舎暮らし」という言葉に打ち崩されてしまった。こんなに悔しいことはないだろう。
「これ以上自分を責めるなって」
「…うん」
その限界まで溜まりきり、あふれ出した『黒』をさらに手のひらで受け止める。
そんな感覚だった。
気分を晴らそうと外の風景に目を移したとき、庭の生垣の向こうに、頭が三つ飛び出ている事に気づき、縁を立ち上がりその飛び出た三つの頭へと歩みよっていく。
「…どうすんだよ。俺こういう時どうやって声かけりゃいいかわかんねぇよ」
ツンツンと立つ短髪が揺れる。
「…さや姉に遊んで来いって言われたんだから仕方ないでしょ!?」
中央のツインテールが不規則に揺れる。
「…じゃあさ、いっせーのーせでどう?」
一番左の綺麗に切り揃えられた前髪が右に揺れる。
「いっせーの…せ!!」
その大きな声と共に、覗き込んでいた祐輔の前に三人の少年少女の幼げな顔が飛び出してくる。その突然の状況に、互いの時間がじぃっと動きを止めた。
「…何か…用かな?」
「…えぇと、杉原君と…」
しどろもどろとする三人を見て祐輔は表情を緩め微笑むと、踵を返して弘樹の前に立つ。
「…何?」
「お前にお客さんだ。気分転換に行って来いよ」
そう言って弘樹の手を掴み、無理やり立たせてから、背をポンと押してやった。弘樹の小さな体はぐらりと前へ揺れ、倒れまいと右、左、右、左と足を次々に出していく。
「わっとと…」
バランスを取り戻したときには、生垣の前で三人と顔を合せていた。
「そいつ弘樹っていうから、遊んでやってくれ」
雄介が手を大きく振ると、三人の表情が和らぎ、矢継ぎ早に質問を繰り返しながら、戸惑う弘樹の手を引いて外へと駆け出して行った。
これで良いのだ。そう雄介祐輔は笑みを浮かべた。
「あら、弘樹は?」
談笑を終え、身支度を始める加奈子が、縁側から周囲を見回す。
「友達と遊びに行ったよ」
「あら、もうお友達出来たのね。よかったわ。これなら病気も大分良くなりそうね」
「そうだね」
外の風景を見詰めながら二人はそんな、心にもない言葉を交わす。
もう知っているのだ。二人は。
「…さて、そろそろ帰りましょうか。まだ家の支度も終わってないし」
「そうだね…」
「あの、杉原祐輔君は、いらっしゃいますか?」
その言葉に、二人の視線が反射的に声の主を捕らえる。
先ほど三人の少年少女の立っていたところに、黒髪でセミロングの少女が立っていた。祐輔はその少女の顔よりも、まずそのワンピース越しからでも分かる、程よく成長し膨らんだ胸に目が行く。
「あぁ、僕が祐輔ですが…何か?」
「あ、あの!! この村の案内をしろって、お婆ちゃんに言われまして!!」
「はぁ…」
正直なところ家でのんびりと寝るかぼぅっとしているかしたい気分であるのだが、と祐輔は頭を掻きながら少女を見つめる。
ばしん。
何かが雄介の尻を思い切りたたいた。
「いってらっしゃいよ」
尻を叩いた主は元気よくそう言った。祐輔はえぇ、と少しだるそうな声をあげながらも、仕方ないと心の中でつぶやき、縁側の下に置かれていたサンダルに足を通す。
「じゃあよろしくお願いします。えっと…」
「神無月沙耶です!!」
セミロングの少女は、ニッコリと笑った。
―――――
「ここの村に来たのって、なにか理由があるんですか?」
並木道のあまりの緑さに圧倒されている祐輔を見て、沙耶は問いかける。
「いや、なんか自然の多い村を探してたら…偶然ここを見つけてっていう感じだな。親戚関係とかそういうのは全くない。家借りれただけでも吃驚だよ」
「そうなんですか。でももしかしたら、その偶然って、案外運命なのかもしれませんよ」
沙耶の笑みに癒されながら、なるほどそういう考えもあるかと祐輔は頷いた。
「まぁ、そんな絵空事、とっくに卒業しちゃいましたけどね」
「神無月さんは何歳?」
「中二です。あと、沙耶って呼んでもらって構わないですよ?」
そりゃ年の違う子供をぶつけてくるわけはないか。と祐輔は納得しながら沙耶の背を追いかける。
先ほどから長い時間歩いていたような感覚があった。祐輔は足に多少の痛みを感じつつ、立ち止まった沙耶の横まで追いつくと、膝に手をついて息を整えようとする。都会の方は体力ないのですね。と皮肉めいた言葉を言われたが、事実体力に自信はないので反論しないことにしておこうと祐輔はため息交じりの息を深く吐いた。
「よし、着いた。ここからなら、この村の紹介も一発でできて簡単なんです」
「へぇ、それにしても、意外と広いんだな」
「あの小さな山があるでしょう? あそこを上ったところにあるのが学校です。小中一貫なんで、一つだけなんですよ、学校」
「じゃあ高校は?」
「外部受験ですね。それで大半が都会とかに行っちゃうんです。それで家族全員で引っ越ししちゃう人もいて、たぶん数年後には廃村になるんじゃないかなって…」
沙耶のさびしげな表情が、祐輔の瞳に映った。
「そうなのか…」
「でですね、その反対側を行ったところにあるのが商店街です。やけに浮いてるでしょう?」
「まぁね。この自然だらけの村に、あんな都会意識しまくりの建物群があったらそりゃもう…」
確かにその通りであった。田畑で埋め尽くされた中に、明らかにおかしいといわざるを得ない金属質な建物の集団がいるのだ。確かにそういう場所は今現在必要とされる状況となってはいるが、これでは風景も糞もない。祐輔はさりげなくあの建物たちを消し去る術でもないかと考えるが、そんなことはできないのですぐにあきらめた。
「で、あの祐輔君達の住んでいる家の奥に、ボロボロの建物があるの、わかります?」
「あるね」
「あそこは絶対に近づかない方がいいですよ。あそこに住んでる女の子にも、関わらない方がいいです」
雄介は瞬時に、沙耶の表情が変化していることに気づいた。嘔吐でもしそうな位青く、険しい表情を浮かべているのだ。
「何故?」
「魔女がいるんです。魔女と気の狂った男が…」
「…魔女?」
「魔法が使えると思っている女の子がいるんです。同級生なんですけど…もう気味が悪くて…」
「そこまで嫌われてるの?」
「だって、授業中に変な呪文めいた言葉をつぶやき続けたり、校庭やノートに変な紋章を書き連ねたりしてるんですよ? おかしすぎですよ…」
沙耶の強い口調に思わず祐輔は頭を縦に振り、同意する。
――あの娘、だろうか?
そんな沙耶の熱弁の最中、祐輔の脳裏に二人の顔の似た少女が思い浮かぶ。
ワンピースを着た赤い長髪の少女。
和服を身に着け、突然卑猥な行動に出た黒の長髪の少女。
少しおかしな思考を持っている二人は何故そんな奇行に及ぶのか。そして話からするに黒髪の少女の存在は沙耶も知らないようである。赤髪の少女は学校も行き、周囲に魔法の存在をひけらかしているようだ。
「…お父さん…か…」
「え? 何か言いましたか?」
「え、いや、なんでもないよなんでも!!」
つい口から出てしまった言葉に、祐輔は言葉を濁す。沙耶は首を傾げながらも再び村の紹介を続ける。
―――――
すっかり辺りは闇に落ち、あんなに鮮やかだった風景は一変、おどろおどろしいものと化していた。
「疲れた。あそこまで詳しく紹介してくれなくてもいいのに…」
祐輔は疲れ切った体に必死で力を入れながらトボトボと歩いていた。数本だけの心もとない電灯を頼りに、借家もとい自宅を目指す。
「それにしても魔法使いに気の狂った…男か。一体この村はなんなんだか…」
祐輔はひとり言を呟きながら、借家への一本道へと足を踏み入れる。電灯の無い道だが、この道を抜ければもう家なのだ。頑張ろう、と自身に喝を入れる。
ふと、ふらりと上げた視線の先に、ワンピースの少女が立っているのを目にする。この距離でも分かる赤髪が、その人物の存在を一発で特定させた。
「こんばんは」
「…えっと、病院で会った…」
「渡瀬。渡瀬綾乃です。改めて初めまして」
魔女と呼ばれてうっとおしがられている少女が一体何の用だろうか。と祐輔は疑問だらけの視線を投げかける。その視線を感じ取ったのか、綾乃はあはは、と透き通った笑い声が響きわたる。
「いやぁね、ちょっと手伝って欲しいことがあるのよ。もちろんお礼はするからさぁ。ちょっと私にこれから付き合ってくれない?」
「今から? ってか村の子に君とは関わるなって言われたんだけどなぁ」
「うわぁ…その歯に衣着せぬ物言い…。ますます気に入ったよ」
気に入られるつもりはなかったんだが。雄介の表情がさらに曇る。がそれと相反して、綾乃の笑顔はさらに際立つ。
「まぁ、別にお礼があるなら手伝ってもいいけど…君のことも全然知らないし、村のことも知らない僕なんかでいいのか?」
「そのがめつさもいいねぇ…。というか、村のことを知らない人の方がむしろ役に立つから」
「そうなんだ…」
綾乃はびしりと親指を立てて満面の笑みを浮かべている。
「で、何をすればいいんだい?」
「うん、ちょっとこれから、父を殺すのを手伝ってほしいの」
祐輔の身体が、硬直した。周囲の暗闇が更に深まった気がした。
「なんで…父親を?」
「時間がかかったのよ。魔法を覚えるのに。やっとあいつと戦えるくらいの魔法が使えるようになったから。今度こそ殺すの」
彼女は何を言ってるのかと、祐輔は頭を抱え数分間思考をめぐらす。が、答えなど一つも出てくる気配はない。
「あいつを殺して、助け出したいのがいるのよ。いい?」
「いやそういう電波な事は…」
「ありがとう!! じゃあ私についてきて!!」
見事に言葉を断ち切られた。
あぁ見事に断ち切られたさ。祐輔は内臓でも吐き出してしまうのではないかと言うくらい深くため息を吐き出す。そんな祐輔の手をやや暴走気味の彼女は掴み、一気に駆け出す。
「気をつけてね、これから『飛ぶ』から!!」
「飛ぶってなにさ!! ってうわぁぁ!?」
自身の足が地に着いていないことに気付くと同時に、体が思いきり何かに掴み上げられる感覚が生まれる。
飛んだ。
そう、見事に飛んだのだ。
驚き顔を青くしている祐輔に、綾乃は笑みを浮かべながら更に速度を上げ、まっ直線に森の奥にある朽ちた古家へと飛び込む。
「こっからが本番だからね!!」
「…」
もはや言葉が出なかった。祐輔はその空を飛ぶという異様な体験に、これから父親殺しの共犯者とされてしまった事で生まれた後悔と何故早く断らなかったのかという自身への嫌悪感を抱き、一人心を痛めていた。
――どうやら、今年の夏休みは一筋縄ではいかないようだ。
祐輔は頭の中でそう呟き、がっくりを肩を深く落とした。
――後編へ続く――
そこは、光の一切入ってこない暗闇であった。本来光が差し込んでくるべき窓は全て板を打ちつけられ、扉も今は完全に閉ざされていた。
今は、二人の間に存在しているランプが、唯一の光と呼べる存在であった。
「お前の体は光に弱いんだ…それに、人間は恐いぞ? すぐに人を食してしまう…」
「はい…」
「だから私が守っているんだよ…。さあ、いつもどおり寝る前の儀式をしてから、散歩へ行こう…」
男の指先が、するりと千夏の肌理細かく滑らかな白い肌をなぞってゆく。指が動く度に千夏は恥と極小の快楽に身をふるると震わせる。その反応に悦びを感じたのか、男は大きな口を横ににやりと開くと、自らの顔を彼女の二つの膨らみに押しつける。
「…気持ち良いのかい? 千夏?」
「気持ち…いいです…お父様…」
無意識のうちに両の眼から流れ出る生暖かい液体を指でゆっくりと拭い取りながら、千夏は答える。毎夜の夜の挨拶の時、決まって出るこの涙の意味が、千夏にはわからない。この涙が流れ出るたびに、心がずきりと痛み、そしてどこかにぽっかりと空いた穴が何かを求めて体中を蠢くのだ。
「お前は本当に従順な子だね…千夏」
父と呼ばれた男の右の手が、千夏の秘部に触れる。
ふるり。
下の方から痺れるようにやってくる快感に、千夏は身を震わせる。
「はい、私は…」
千夏の声が途切れる。毎日のように聞いている筈の言葉が返ってこないことに、男も首を傾げつつ、それでも一定のペースで右手を上下に動かし続ける。
「ぁ…」
「もう一度ちゃんと言ってごらん? 千夏」
――そんなに、握手が嬉しかった?
吐き出そうとした言葉が、喉元で押しとどまる。そして代わりに脳内に一つの言葉が銃弾のように駆け抜けていった。
「…千夏?」
あの、千夏の中に存在するあの何かを求めている穴が、轟き木霊するのを感じ、千夏はすっと立ち上がる。その突如とした出来事に男はポカンと口を開いたまま座り込んでいる。
「…また握手するの…また、また…」
「何を言っている…千夏?」
ぎぃ。
閉ざされていたはずの扉が、独りでに縦に闇を割った。
床に放り捨てられている布を拾い上げ、体に巻き付けると彼女はひたすら「握手」という一言を繰り返し、光の差し込む扉へと歩みよっていく。
「千夏!! 行くな!! おまえは俺の…!!」
「あの人と握手するの…また…」
光を移さない漆黒の瞳を男へ向けながらそうつぶやくと彼女は踵を返し、ノブを掴んだ。
ぎぃぃぃ。
ゆっくりと扉が開き、そして月光の差し込む世界に彼女は足を踏み入れた。何も履いていない足からは土の心地よい感触が伝わり、布一枚をするりと通過してやや冷えた夜風が千夏の全身に「儀式」とはまた違う快楽を与えてゆく。
「…握手、しよう? 握手なら…してくれるよね?」
安定しない足取りで千夏はひたすらに右足、左足と前へと足を突き出していく。
白い肌が月光を纏って、淡く輝いていた。
夏蛍「一」
――後篇――
「一つ聞かせてよ。なんで、父親を殺そうとしているんだい?」
古家に誰もいないことを確認し、綾乃は苦い表情を表に出している。ここは問いかけるべき空気ではなかったかもしれない。祐輔は無言のまま苦い顔で立ち尽くす彼女を見てからもう一度溜息を吐きだした。
「初対面の人間に普通聞く? そんな大きなこと…」
「そんなこと言われたって…キミが」
刹那、祐輔の唇に綾乃が指を押し付ける。
「綾乃だよ。あ、や、の!!」
「…綾乃が僕を無理やり連れてきたんだろう? せめて目的ぐらい聞かせてくれよ。そうでもしないと共犯とか割に合わない…」
「あはは、そうだよね。突然人殺しのお手伝いだもんね。混乱しない方がおかしいわね」
綾乃は後ろで手を組むと、ぐいと状態をこちらに寄せながら笑う。無地のワンピースが月の光をよく吸収し、輝きを見せている。
祐輔は彼女の仕草一つ一つに胸をとくんと鳴らしつつ、思わず一歩たじろぐ。
「…うちのお父さんね、壊れちゃってるのよ」
至って普通に帰ってきた返事に祐輔は多少戸惑う。壊れた? どういう意味だろうかと暫く考えるが、自分の思考ではまるで想像がつかない。
「ど、どういうこと?」
「うちの母親ね、私と妹が二歳の時死んじゃったのよ」
ちょっと長くなるけれど、聞き流してくれればいいから、と綾乃はニッコリと笑う。その笑みに思わず祐輔は頬を赤く染めながらこくりと一度うなづいた。
「あぁ、赤くなってる。惚れた?」
「…なにをそんな、別に気にしないでくれよ」
「あはは、聴きたい?」
照れを見せる祐輔を見て、思わず綾乃の心が和らぐ。
「うちの父親ね、妹をペットにしてるのよ」
「ぺ…!?」
「変態なのよ。私はどうにか母のおかげで助かったけど…妹は多分洗脳とかされてると思う…」
おいおいどこのアダルトな内容のビデオ撮影だ。祐輔は混乱気味の頭で彼女に対してそんな言葉を投げかけたい気持ちになる。が、その説明が本当なならば、あの時の状況は確かに納得がいく。祐輔はほんの少しの不安を抱えつつも、綾乃に言葉を投げかけてみる。
「その子の名前って、渡瀬千夏か?」
その問いかけに、綾乃はきょとんとし、目を丸くした。
「知ってるの?」
「一度だけ会ったんだよ。握手すらしたことないとか言ってたし、それに…」
それに、と言うところで祐輔は押し黙る。「挨拶だ」と言ってズボンの中に手を入れた出来事は、言うべきではないのかもしれないと咄嗟に判断したからだ。
「それに、何?」
「え、いや父以外の男性と触れ合ったこともないとか言ってたから…」
「…最低なことしか考えてないのよ。これ以上妹を汚したら許さない…」
目の前で父の殺害を試みる少女のあまりの燃え方を見て、祐輔はズボン事件の出来事を話さなくて本当に良かったと胸を撫で下ろした。
「けどさ、なんで今更になって妹さんを助けに?」
「…勝てないのよ。あいつの魔力、強過ぎて…。でも今日は私の魔力が極限にまで増幅される日だから…最後の賭けよ」
綾乃は頬を唇を噛み締めボソリとそんなことを呟く。そうなんだと生返事を返しつつも、彼女が先ほどから連呼している『魔法』の存在が一体何なのかを脳内で必死に模索していた。
呪文を唱えて使用ができるのだろうか。いや、でもさっき空を飛ぶときは何も叫んではいなかった。ただの嘘っぱちというわけではない。なにより一人の少女は男子を引いてあれだけの高さを飛ぶことなんて不可能だ。では一体どんなものなのだろうか。もしかしたら自分にも使えるのかもしれない。使えたらすげぇな、いや本当にすげぇよ。
そんな妄想を抱いていると、綾乃がくいと服の裾を引いて顔を寄せると耳元に口を寄せる。
「これから私は父を殺しに行ってくるから、そのうちに千夏を探して。会ったことあるなら分かるでしょう?」
「え、いや見つけ出したらどうすればいいんだよ!?」
「…来た!! 見つけ出したらとにかく逃げて。妹は父の下から逃亡はしているみたいだから…行って!!」
その言葉と同時に綾乃は祐輔を思い切り突き飛ばす。細い腕からとは思えないほどの力だった。祐輔は身構える余裕すらなくそのまま吹き飛ぶと、そのまま叢の中へと消えていった。
「そう、妹だけでも連れて逃げて…」
綾乃は笑顔で祐輔の消えていった叢にそう言葉を投げかけ、そして前方からやってくる殺意の塊に殺意で返事を返す。
「お前は…そうか、お前が逃がしたのか…」
「お母さんが最後にかけた防御魔法が成立したのよ。死ぬ寸前にかけた『他の男性に触れたら』発動する魔法がね…」
殺意の塊は綾乃に強い視線を投げ掛けると、右の掌を彼女に向ける。
「…何故今更になって来た?」
「あんたを殺せる可能性ができたからよ…」
綾乃の発言を聞いて、殺意の塊がふふふと嘲笑に近い笑みを浮かべた。男の周囲の草達が波打つように揺れている。
「なるほど、十五歳か…魔女として魔力が最も高くなる時期だな…」
「今まで妹に悪い事をしたわ…。でももう耐えられない。返してもらうわよ…妹を」
綾乃は父を強く睨みつける。これ以上妹に地獄を見せたくはないのだ。その為なら相討ってでも良いと、綾乃は父と共に死ぬことさえ考えていた。
沈黙が、二人の間をじぃっと通過していく。
「…お前もいいかげん帰ってきなさい」
ふと、先ほどとは違う柔らかな声が、綾乃の体を包み込んだ。
何故父はあそこまで優しい目をしているのだろうか。先ほどのあの殺意に満ちた瞳は何処へ行ったのだろうか? 綾乃は突然の自分の思考がぐちゃぐちゃにかきまぜられていく。
ふと、目の前が暗くなる。
顔面を掴まれたという事に気づいたのは数秒後だった。
『掴まれた』と理解したとき、綾乃は既に地に這いつくばっていた。
「優しい顔を見せるとすぐにこれだ。お前のような父に奉仕すらできない屑が」
「誰が好き好んであんたのそんな気持ち悪いの咥えるのよ? このロリコンが!!」
綾乃の掌がずぶりと地へもぐりこんでいく。まるで液体の中に手でも突っ込んだかのように地面は彼女の手を受け入れ、周囲に波紋が広がる。
「…全てを揺さぶれ!!」
刹那、大地がその言葉に呼応するかの如く振動し、雄たけびを上げる。その様子に男は顔を強張らせ、周囲を見渡している。
「突き上がれ!!」
その言葉と共に、男の足元に波紋が生まれる。そして次の瞬間、轟音と共に男の足元が勢いよく競り上がっていく。
――昇華
男が宙へ弾き飛ばされたことを確認し、綾乃は膝をバネように思い切り曲げると、地面を強く蹴りあげた。
先ほど祐輔の手を掴み飛び上がった時のように、華麗に夜空へと舞い上がっていく。
――蓮華
綾乃の右手を赤い光が、輪郭をなぞる様に包み込むと、轟々と発火を始め、紅蓮を吐き出す。
刹那、男は突き出した指で宙を切り、強く息を吐きだし、自身へと牙を向いてやってくる紅蓮の塊をにらみつける。
滅華という言葉が男の口から吐き出され、突き出した右の手の先から光球が放たれる。そして、その光球は紅蓮の塊と接触するとそのまま四方へと爆散する。
「…!?」
「火炎系統の術式、蓮華…とは言えないな。あの程度の威力では」
その言葉に綾乃は眼を細め、両足に力を込めると勢いよく地を蹴りつけ飛び上がると、男目がけて再び紅蓮の塊を右腕から吐き出す。
「蓮華の本来の威力は、こういうものだよ」
ゆっくりと伸びた手が、こちらへと飛び込んでくる綾乃へと向けられる。綾乃はその手から放たれる極上の殺気を感じ取り咄嗟に腕を前で十時に組み防御の体制をとる。
――術式、蓮華…。
綾乃は、自らの皮膚が焦げる感覚を覚える、その“火龍”の姿をした其れは大きく口を開くと、ぐわんと綾乃を飲み込み天高く舞い上がっていく。
「…爆散しろ」
言霊に火龍が反応し、そして全身が目も眩むほどに光り出す。
周囲に砕け散る光景から数秒遅れる形で、耳を貫くような爆音が雷鳴の如く周囲に響き渡る。
―――――
地震だろうか。弘樹は眼を開き、周囲を見渡す。
「…っほ…げほっ…」
鼓動がドクン、と一度強く高鳴り弘樹は体を折り曲げて堰を吐き出していく。
抑えていた手が、ヌルリとした液体の感触を覚え、弘樹はハッとして掌を覗き込む。
――血。
「治まってきてた筈なのに…。療養できた筈なのになんで…」
掌に吐き出された少量の血をぎゅうと弘樹は握り絞める。
田舎でゆっくりすれば治る病気だと母は言っていたのだ。そしてそれを自分自身は信じている。不安を覚えてはいけない。
「治さないと…。お母さんにも、兄ちゃんにも迷惑がかかるから…」
念じるように弘樹はつぶやき続ける。月明かりに照らされた部屋で、黒く粘度の高い液体を自らの寝巻き服で拭い去り再度布団にくるまる。とにかく寝よう。そして明日また外の空気を吸って…。
その時だった。
窓から強烈な光が投げ込まれ、そして数秒後に龍の鳴くような音が弘樹の耳を貫き、そしてその音を聴いた弘樹は布団を蹴り飛ばしベッドから起き上がると窓に張り付く。
「龍…?」
裏の森に、火の粉のような物が降り注いでいるのを、その両の眼で確認する。
「…すごい」
弘樹の瞳は、その赤い光ではなく、もう一つの光の軍勢を見つめていた。
ざわざわと騒ぐ森から、光の大軍が突如飛び上がり、空にパラパラと光の粒が散り、流星の如く舞い上がる。
蛍だと気付くのに、少し時間がかかった。
「蛍が、舞ってる…」
その光景を弘樹は目を輝かせて見上げていた。
―――――
ちりちりと皮膚が沁みるような痛みを与えてくる。軽度の火傷で済んだだけましであると綾乃は思う。
「どうしたんだ? 向かってこないのかい?」
見透かされている。
心が挫けてしまっていることにこの男は確実に気づいていると綾乃は感じた。足をしっかりと地に付けて立ち上がろうとするのだが、まるで神経が通っていないのではないかのようにぐにゃりとそのまま崩れ落ちる。
「もう諦めて、帰ってきなさい…」
「嫌っ!!」
何故、母はこんなに狂った男性と契りを結んだのだろうか。
何故、母はこんな男に魔力を与えたのだろうか。
綾乃の中で何故、という言葉が何度も交錯していく。
「なんで、千夏にあんな事をさせるの…?」
普通親が子を肉体的な意味で愛でるなんてこと普通ではない。なにか理由でもあるのか。
綾乃が最も聞きたかった内容をぶつけると、男は目を丸くした。
「…くく…くっくっく…」
問いかけに対する返答は、至極簡単なものだった。
笑い声。
「お前は、あいつを理解しているのか?」
「どういうことよ…」
「あいつはな、お前のように外に気持ちを出す娘じゃないんだよ…。魔力もな」
すぅっと、何かが綾乃の頭の中に流れ込んできた。
――内向的な性格で、母の魔力を二人とも綺麗に半分づつ蓄えている。私は魔力を積極的に使用していたが、妹は…。
「長年の間貯め込んできた魔力だ。どれだけの量があいつの中に蓄積されていると思う?」
その言葉が吐き出された瞬間、がちりと音を立てて体中の神経が繋がったような感覚を綾乃は覚える。そして、歯を思い切り食いしばるとそのまま前傾姿勢で男へと体当たりをぶちかます。
千夏の貯め込み続けた魔力が狙い。彼は妹を予備のポリタンク程度にしか思っていないのだと確信したその瞬間、内側から湧き出てくる熱い何かが綾乃を包み込み、そして異常なまでの力を与えていく。
――許せない…。許せない!!
刹那、男の表情が軽く歪んだ。綾乃はそれを見逃さず、更に足に力を入れて地を蹴る。
突進は見事に男の腹部に打ち込まれる。そして後方へと倒れていく男の両腕に足をかけ昇華と唱える。一時的に強力な脚力の手に入る魔法を身に纏った綾乃はそのまま有無を言わさずに彼の両腕に下した。
不快な音が二度、静寂に包まれた森に響く。
ぐぅ、と声を洩らす男に綾乃は冷ややかな視線を浴びせる。
「…その目、母さんとよく似ているじゃないか…」
「あんたに似てる部分なんてあると思う?」
両腕を動かせないまま、男はニヤリと笑みを浮かべている。綾乃はその表情に吐き気にも似た不快感を覚え、瞬時に右手に蓮華を纏うとそのまま垂直に彼の左胸に落としていく。
「…痛みは感じさせないでくれよ?」
「!?」
二人の時間が止まった。少なくとも綾乃はそう感じた。
無防備を装う父と、紅蓮を纏った右手を彼の左胸の前で留める綾乃。煙草一本分もない距離を保つことで、いつでも殺害できるということを見せつける為に。
「…どうして無防備なのよ?」
「もういい。千夏が私を見なくなったんだ」
ふぅ、と溜息を一つ吐き出す。
あの少年がやった。綾乃はふとそんな思考が浮かんだ。が、瞬時にその歓喜にも近い感情を男への黒い感情へとシフトさせる。
「洗脳して、妹を汚しておきながら、自分の手から離れたら…もういい?」
「あれだけ可愛がったのに…全く」
「ふざけないでよ!!」
綾乃は顔をぐいと父の前に出す。
「このロリコン!!」
「その血の一部は、お前にも入ってるんだぞ?」
「っ!!」
一閃。
歪んだ笑みを浮かべた父の左胸を綾乃の右腕がずぶりを埋まる。
噴水のように音を立てて噴出するその深紅の液体が、この綾乃の目の前にいる男が死ぬのだという事を彼女に理解させた。
どくり、どくり。
彼女の紅蓮の右手が掴むそれは、まるで生を渇望しているかのように一回一回、強く鼓動する。
「…なんなのよ。なんで…」
ぬめりとした感触が、男を通して綾乃の全身にも伝わる。
これが人を殺した感覚なのか。
綾乃は、あふれ出る涙を、赤く染まった掌で必死に拭い続けていた。
―――――
「いってぇ…」
祐輔はぶつけた頭を撫ぜながら起き上り、周囲を見渡す。確か叢に叩きこまれて、そのまま転がるように斜面を下って行った記憶がある。ここまでして逃がす必要が果たしてあったのかと祐輔は苛立ちを覚える。今度会った時は思い切り頭をぶん殴ってやろう。そうでもしないと気が済まない。女には優しくしろとかなんとか言うやつがいるが、ここまでされて尚笑って許せと? ありえない。右拳がぎゅうと強く握りしめられるのを祐輔は不気味な笑みを浮かべながらじっと見つめていた。
がさり。
何かが草を分けてやってくる音に、敏感になっている耳が即座に反応した。
「千夏…ちゃん?」
さんとでも付けるべきなのだろうか。それとも呼び捨てにするべきなのか。祐輔は危険よりもまず探している相手の呼称について悩んでしまった。いやそうじゃなくて普通は誰かが来たのを感じたらすぐに身を隠すとかするだろうがと頭を両手でがしがしと掻き、自己嫌悪に陥る。
「…だぁれ?」
その声に、祐輔は脊髄反射で応える。
そこに立っている半裸の少女―渡瀬千夏―は白い布で秘部を隠した状態でそこに立っていた。羞恥心というものが全くないのだろうか。いや、それはこの間のズボン事件で分かっていることであるしあえて突っ込む必要はないのだろう。が、これでも自分は男はわけで、こんな姿をされたらたつモノもたってしまうわけで。
目の前の半裸体の少女を目の当たりにして祐輔は更にアクセルを踏み込む。ドクドクと心臓が脈動し、次々に送られてくる血液が渋滞を起こし、酸欠状態で脳が西瓜割りのようにズバンとはじけ飛んで行ってしまうのではないか。そんな不可思議な気分だ。
「…握手」
「いや、そんな姿されたら誰だって…え?」
顔を赤くし完全に周囲が見えなくなり、手足を振り回す祐輔の手を、千夏の小さくて白い手が包み込む。
両手で祈るように握りしめたその手からは、千夏が今まで知らなかった温かさが、ゆっくりとじわりと、伝わってきた。その二度目の『快感』とはまた違った感触に千夏は戸惑いと、そして胸にあった渇きのようななにかが潤っていく感覚を覚える。
「あったかいね…ゆーすけ君の手は」
ポロリ、ポロリと千夏から何かが流れ落ち、土はそれをすぅと吸収していく。
泣いていた。
千夏は両手でぎゅうと強く祐輔の手を握りしめ、そのまま涙をぼろりぼろりと零す。やがてそれは大玉の涙となり、嗚咽と共にため込み続けていたなにかを吐き出すかのように、千夏の体から流れ落ちていく。
祐輔はその姿を見て、静かに笑みを浮かべると残った片方の手で、彼女の手にそっと乗せた。
「…キミの手だって、すごく温かいよ」
「私、よごれちゃってるもん…あったかくなんてないもん…」
「綺麗だよ。僕が保障する」
千夏は涙を流しながら祐輔の顔を見る。
笑っていた。祐輔は千夏の両の手を包み込むと、先程とは逆に、祐輔の方が祈るような姿勢で彼女の両手を包み込む。
「吐き出したいことがあるなら吐き出しなよ。君の事を何も知らないけど、聞いてあげることくらいは、できるからさ」
その言葉が、千夏の心の中の何かを弾き飛ばし、そして堰を切ったように大声をあげて泣き始める。祐輔はそんな彼女を優しく抱きしめ、彼女の涙と嗚咽を受け入れ続ける。
――これでいいのかい? 綾乃?
祐輔は視線を後方の急な坂道に移し、心の中でそう呟く。ここからは見えないが、綾乃もこの姿を見て喜んでいるだろう。勝手な憶測であるが、あえて勝手な憶測のままにしておこうと考え、祐輔は再度泣きじゃくる千夏の背中を擦り続けた。
ふと、目の前を何か光が通り過ぎた。
祐輔はその光に気づき、その光が飛び去って行った何かを視線で追いかける。
「蛍だ…」
感動と驚きを孕んだその言葉に千夏が反応する。祐輔の腕の中から、その光景へと視線を移した。
蛍が、空高く舞い上がり、それぞれがまるで星のように鮮やかに輝いている。
大小のある自然な光はそれぞれがゆらりゆらりと動き、動くイルミネーションはそこら中を自由気ままに飛び回り、祐輔と千夏の視線を釘づけにさせる。
「…綺麗」
「こういう景色が見れるなら、田舎もいいかなぁ…」
「…」
「ええと…何?」
祐輔の視界を、千夏が遮った。
千夏の柔らかな唇が祐輔の唇を捕らえて離さない。
静寂。
静寂。
時だけがただ通り過ぎる中で、向き合い寄り添う二人の周囲を、まるで祝福でもしているかのように蛍達が飛び交っていた。
「…ぷぁ」
唇を離した瞬間、二人の間につう、と糸が垂れ、そして落ちて行った。
「…え、あ…あの…え?」
呆然としている祐輔に、千夏は顔を赤らめながら微笑む。
「ゆーすけクン、大好き」
その言葉が、祐輔の意識を完全に途切れさせた。
―――――
目が覚める。体を震わせながら目を開くと、心地よい朝陽が差し込み、あの夜の蛍達の光の舞が夢であったかのような感覚が心のどこかに生まれた。
「…起きた」
祐輔の身体が反射的にビクリと震える。全身から吹き出た。
「…おはよー。ゆーすけクン」
隣には、半裸の少女が一人。横たわって微笑んでいた。
自分の顔が茹でダコのように真っ赤に染まっている。絶対に染まっている筈だ。いや、というか僕自身が茹でダコなのではないだろうか。そうだきっとそれなのだ。僕は茹でダコだったのだ。祐輔は朱に染まった頬を両手で擦りながら後方へと後ずさる。その行動に千夏は眉を傾げつつ、布を体に巻きつけると祐輔に寄っていく。
「ゆーすけクン、顔があかいよ?」
「え、いや、その…」
どう返せばいい。どう返せばいいんだと必死に思考を巡らせるが、脳みそをこねくり回せばこねくり回すほどに出てくるのは桃色の世界でしかない。
「…何をしてるの?」
背後からの声。助け舟が、向こうから勝手にやってきてくれたと祐輔は赤い顔で、熱の籠った息を強く吐き出し呟いた。
「おねぇちゃん…?」
千夏は呆け顔で、祐輔の背後に立つそのワンピース少女、渡瀬綾乃を見つめている。
綾乃は柔和な笑みを浮かべながら千夏へと歩み寄ると、彼女の体に腕を回し、ゆっくりと抱き締める。
「ごめんね。今まで助けてあげられなくて…」
その言葉を吐き出すと同時に、嗚咽が聞こえ始める。
綾乃の腕の中で、千夏はゆっくりと、首を振ると彼女の頬に自分の頬を押し付け、そして静かに口を開いた。
「ただいま、おねぇ…ちゃん…」
二つの嗚咽を祐輔は微笑みながら見つめている。
そういえば、蛍は何故あのタイミングで空を一斉に飛んだのだろうか。もしかして、彼女達を祝福する為に神様とやらが飛ばしたのではないだろうか。そんな事を想像しながら、祐輔はあの光景を瞼の裏に映し出す。
例えるなら天然の流星群。蛍のみにしか表現することのできない世界。
できるのならもう一度お目にかかりたいものだと思いつつも、まぁムリだろうという答えに辿り着き、深くため息を吐き出した。
「ねぇ」
こちらに向けられた呼びかけに祐輔は顔を向ける。
「祐輔君…でいいのよね? お願いがあるんだけど、いいかしら?」
「…僕に出来る事なら」
そう返事を返す。が、正直なところその返事を返してしまったことを後悔しそうな予感が祐輔の頭の中をぐるりと回っていた。
―――――
予感は、見事に的中した。
「祐輔、あんた昨日帰ってこなかったと思ったら…」
拳を震わせて睨みつける加奈子に恐怖心を抱きつつも別に性的な関係があったわけではないと必死に両手を振る。
「…じゃあ、この子たちはなんなのよ?」
呆れたような表情で出された問いかけに少しばかり祐輔は悩む。
「…なんていうか、こっちで初めてできた…友達、かな?」
悩んだ末に、出た言葉はいたってシンプルであった。
その吐き出された答えに背後の二人は、顔を合わせ、満たされたかのような、そんな満足気な笑みを浮かべていた。
風が吹く。
木々がさざめく。
自然の音楽隊は二人を祝福するかのような演奏をなめらかに奏でていた。
夏蛍「一」終