「葵 古都の思考」
ーーーーーーー
誰かに見張られている気がする。昼休みの学食で友達たちと時間を共にしている間にそのような視線を感じました。私は自分の両手を見ます。真っ白のようといわれていた私の肌が今は本当に真っ白です。
それもそのはずですね。私の両手には包帯が巻かれているのですから。まるで出来損ないのミイラのようです。
多分誰かの視線を感じるのもこの両手のせいなのでしょう。私は箸を掴んでいるこの右手をじっと見つめて、思わずそれをはがしたい衝動に駆られました。でもそれは解決策ではないことでしょう。
包帯で隠されている私の腕はもっと悲惨なことになっているのですから。周りの友達も私の機嫌を伺うような目で見つめています。私を心配してくれるのはありがたいのですが、やはりちょっとその視線は煩わしいです。
でもそれを言うことはできないので私はその視線に気づかない振りをして、昼食を黙々と食べます。そして友達の輪に外れないように適度に相槌を打ち、たまに冗談を交わし、笑うべきところでは笑います。
友達たちは私を元気付けるように私よりもはしゃぎ、私も彼女たちの好意を無駄にしないようにそれに答えます。
ふう……。なんだか意識して和を取り持つのも大変ですね。
誰にもいえない本音としては私に対するあつかい、好意、きづかいは全て大きなお世話だということです。私はそのようなものをもらってもうれしくない。なぜなら私はそれらのはげましを受ける理由を覚えていないからです。
ふと自分語りをやめると数人の友達が私を見ていました。私は思いつめていたような、なにか魚の小骨が喉にひっかかったときにする気難しい顔でもしていたのでしょうか。その視線がくすぐったくて、私はそれらをはねのけるように笑みを作りました。
どっと数人かが息を吹きだします。私の予想していた結果にはなりませんでしたが最悪の結末にはならなくてほっと一安心です。私のわき腹をつつこうとする隣の友達の指先を体を捻って交わしながら、自分の腕と友達の腕を見比べます。
私の傷も一時のことでしょう。そう割り切って私はお弁当に手をつけました。食堂の一面はガラス張りになっていて外の様子をうかがうことができます。花壇の上に梟が降り立ったことに、私は気づいていないことにしました。
ーーーーーーー
数日前のことからです。もともと大きな怪我はなく、小さな怪我が寄り集まっていたので大怪我のように見えていたのでしょう。その日には私は順調に回復して予定通り退院の日を迎えました。
でも怪我は怪我です。そしてその数が問題でした。いくつもの傷痕が私の体中に刻まれ、それはまるで刺青のようでした。包帯を巻かれている間、看護士の慈しむような目つきが忘れられません。
彼女たちは私のことを世界で一番親身になって考えてくれている。けどそれはいつまでも続くのでしょうか。彼女たちが包帯を巻いているのは私との決別のように考えてしまいます。
なにげなくそう感じ、私は病院からまっすぐ自分の寮部屋へと帰りました。振り返ると思い出してしまいそうだからです。看護士たちの目線を。
その数日前には警察という方々が私の元に訪れました。私は予想していたことだったので、不安がるどころかいつ来るのだろうと初めての体験に心を躍らせていました。
儀式のように私に警察手帳を見せると私の事について誘導しながら聞いてきます。その聞き方はまさに痒いところに手が届くかのようで、私の記憶を上手くサルベージさせていくのでした。
でも限界というものはあります。そして私はそれがとても低かった。私が校舎の裏側で倒れていたその日、そしてそれより数日前のことについて私が覚えていることは何一つなかったからです。
覚えているのは梟のことだけ。そしてそれを言おうものなら私の退院は先延ばしになってしまうでしょう。
だから記憶のことを語ろうとしても私には到底無理でした。ただ現実として残っている私の両腕両足の傷が、私の胸に暗い波紋を作り続けています。警察が一通り事情聴取を終わらせて立ち上がったときにずきりと私の傷が痛みました。
火箸を押し付けられたような鋭い痛みに私は表情を変えることなく会釈をして警察の人たちを送り返しました。
それからは……普通です。私は退院して、今日のように友達となにげない一日を繰り広げています。おそらくそれはずっと続き、そして私の傷も癒えていくのでしょう。
要するに私が体験したことなどありふれたことなのです。いつかは日常に混ざって見えなくなるのでしょう。コーヒーにミルクを一滴たらしたときのように。
ーーーーーーー
私はまだ昼食を食べている途中でした。背後から私を探す声がします。誰かが私を呼んでいます。私を探すその目線がどんどんと強くなってきます。
「葵 古都さんですか」
私は返事をせずに振り返ります。一人の男子生徒がそこに立っています。腰に手を当てて、すこし片方の足に体重を乗せながらモデルのように立つ彼の姿に周りの雰囲気が一変しました。
それは音もないのにざわめいているようです。
何人かの友達が目配せをしながら女子特有のひそひそ話を始めました。どうやらそれなりに知名度の在る男性のようです。
「はじめまして。坂堂 士友といいます。ちょっとお話したいことがあるんだ。」
愛想良く笑う坂堂さんの口がきらりと光ります。周りからため息が漏れたのを私は感じました。そのため息の長さと量が尋常ではなかったので、私はこの坂堂という人に対する認識の甘さをどこか痛感させられました。
誰かに見張られている気がする。昼休みの学食で友達たちと時間を共にしている間にそのような視線を感じました。私は自分の両手を見ます。真っ白のようといわれていた私の肌が今は本当に真っ白です。
それもそのはずですね。私の両手には包帯が巻かれているのですから。まるで出来損ないのミイラのようです。
多分誰かの視線を感じるのもこの両手のせいなのでしょう。私は箸を掴んでいるこの右手をじっと見つめて、思わずそれをはがしたい衝動に駆られました。でもそれは解決策ではないことでしょう。
包帯で隠されている私の腕はもっと悲惨なことになっているのですから。周りの友達も私の機嫌を伺うような目で見つめています。私を心配してくれるのはありがたいのですが、やはりちょっとその視線は煩わしいです。
でもそれを言うことはできないので私はその視線に気づかない振りをして、昼食を黙々と食べます。そして友達の輪に外れないように適度に相槌を打ち、たまに冗談を交わし、笑うべきところでは笑います。
友達たちは私を元気付けるように私よりもはしゃぎ、私も彼女たちの好意を無駄にしないようにそれに答えます。
ふう……。なんだか意識して和を取り持つのも大変ですね。
誰にもいえない本音としては私に対するあつかい、好意、きづかいは全て大きなお世話だということです。私はそのようなものをもらってもうれしくない。なぜなら私はそれらのはげましを受ける理由を覚えていないからです。
ふと自分語りをやめると数人の友達が私を見ていました。私は思いつめていたような、なにか魚の小骨が喉にひっかかったときにする気難しい顔でもしていたのでしょうか。その視線がくすぐったくて、私はそれらをはねのけるように笑みを作りました。
どっと数人かが息を吹きだします。私の予想していた結果にはなりませんでしたが最悪の結末にはならなくてほっと一安心です。私のわき腹をつつこうとする隣の友達の指先を体を捻って交わしながら、自分の腕と友達の腕を見比べます。
私の傷も一時のことでしょう。そう割り切って私はお弁当に手をつけました。食堂の一面はガラス張りになっていて外の様子をうかがうことができます。花壇の上に梟が降り立ったことに、私は気づいていないことにしました。
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数日前のことからです。もともと大きな怪我はなく、小さな怪我が寄り集まっていたので大怪我のように見えていたのでしょう。その日には私は順調に回復して予定通り退院の日を迎えました。
でも怪我は怪我です。そしてその数が問題でした。いくつもの傷痕が私の体中に刻まれ、それはまるで刺青のようでした。包帯を巻かれている間、看護士の慈しむような目つきが忘れられません。
彼女たちは私のことを世界で一番親身になって考えてくれている。けどそれはいつまでも続くのでしょうか。彼女たちが包帯を巻いているのは私との決別のように考えてしまいます。
なにげなくそう感じ、私は病院からまっすぐ自分の寮部屋へと帰りました。振り返ると思い出してしまいそうだからです。看護士たちの目線を。
その数日前には警察という方々が私の元に訪れました。私は予想していたことだったので、不安がるどころかいつ来るのだろうと初めての体験に心を躍らせていました。
儀式のように私に警察手帳を見せると私の事について誘導しながら聞いてきます。その聞き方はまさに痒いところに手が届くかのようで、私の記憶を上手くサルベージさせていくのでした。
でも限界というものはあります。そして私はそれがとても低かった。私が校舎の裏側で倒れていたその日、そしてそれより数日前のことについて私が覚えていることは何一つなかったからです。
覚えているのは梟のことだけ。そしてそれを言おうものなら私の退院は先延ばしになってしまうでしょう。
だから記憶のことを語ろうとしても私には到底無理でした。ただ現実として残っている私の両腕両足の傷が、私の胸に暗い波紋を作り続けています。警察が一通り事情聴取を終わらせて立ち上がったときにずきりと私の傷が痛みました。
火箸を押し付けられたような鋭い痛みに私は表情を変えることなく会釈をして警察の人たちを送り返しました。
それからは……普通です。私は退院して、今日のように友達となにげない一日を繰り広げています。おそらくそれはずっと続き、そして私の傷も癒えていくのでしょう。
要するに私が体験したことなどありふれたことなのです。いつかは日常に混ざって見えなくなるのでしょう。コーヒーにミルクを一滴たらしたときのように。
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私はまだ昼食を食べている途中でした。背後から私を探す声がします。誰かが私を呼んでいます。私を探すその目線がどんどんと強くなってきます。
「葵 古都さんですか」
私は返事をせずに振り返ります。一人の男子生徒がそこに立っています。腰に手を当てて、すこし片方の足に体重を乗せながらモデルのように立つ彼の姿に周りの雰囲気が一変しました。
それは音もないのにざわめいているようです。
何人かの友達が目配せをしながら女子特有のひそひそ話を始めました。どうやらそれなりに知名度の在る男性のようです。
「はじめまして。坂堂 士友といいます。ちょっとお話したいことがあるんだ。」
愛想良く笑う坂堂さんの口がきらりと光ります。周りからため息が漏れたのを私は感じました。そのため息の長さと量が尋常ではなかったので、私はこの坂堂という人に対する認識の甘さをどこか痛感させられました。
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放課後になると曇天の空から大粒の雨が降ってきました。それは降り止むことはなく、多くの生徒たちの期待を裏切って激しくなっていきます。空一杯に敷き詰められている雲は私に向かってささやいてきます。
私にだけ分かる言葉で雲は私にとって最も皮肉なことを言います。お前はこれが望みなのだろうと。他人の言う通りとは逆のことを望むのがお前なのだろうと。
耳をふさいでもそれは聞こえてきます。私ができることはそれらのささやきを聞いていない振りをするだけでした。けどそれは私にとって解決策でもありません。四方八方から際限なく届いてくる雲の声に私ができる最善のことは何もないのです。
雲だけではありません。私はありとあらゆる声から同じメッセージを受け取ります。誰かが乱暴に扱い床の上で腹ばいになっている黒板拭きからも、もう何日も水を与えられず茶色く枯れ果てた葉を持つ朝顔からも同じ言葉が私に届いてきます。
でも私はその声から受ける刺激に心と体をかき回されながらも、気丈に振る舞い、決して涙を見せず、そして弱音を吐くことありませんでした。ただ少し疑問に思うことはあります。それらの声を本当に私は聞いているのかということです。
私はもしかしたら自分の欲求をそれとは認めたくないがために、このように周りのことを道具にしているのではないでしょうか。雲も、黒板拭きも、朝顔も何も語っていなく、全ては私の願望なのではないか。
そうだという仮設を立てても私は葵 古都という人間です。それだけは変わっていないはずです。そしてそれだけを心の支柱にして私の生活はぐらつきながらも長らく安定していました。
ーーーーーーー
坂堂 士友という人は私の予想以上にこの学校では人気者のようです。委員長や、生徒会長や、などの実権を握る立場はにはついていないものの、彼が学校に与える影響はそれと互角するともささやかれています。
私はその坂堂 士友という人に呼ばれました。なにもここでは話しにくい話があるということらしいです。もったいぶらずにそのときに教えてくれればよかったと思いながらも私は納得した振りをして、坂堂先輩は予想以上に簡単に立ち去っていきました。
私にとってすればただそれだけのことなのに友達たちは必要以上にはしゃぎ、私にちくちくする羨望のまなざしを向けます。神様は残酷です。価値の分からない私にこれほど価値の在るらしい機会をお与えになるなんて。
待ち合わせ場所は高校にまだ慣れていない私にも分かる所でした。学生寮の横手にある銭湯の入り口がそこでした。この時間はまだ銭湯は開いていません。人気のない場所としては坂堂先輩の頭にいち早く候補に上がったのでしょう。そしてそれはかなり適切な判断だったと私は理解しました。
待ち合わせの場所に結構早く来たつもりなのに坂堂先輩は私よりも早くその場所に立っていました。坂堂先輩の読みどおり、関係ない人影をあたりに見ることはできません。けど鏡がないから自分の表情が見えませんが、自分がすこし怪訝な顔つきに変わったのが分かります。
なぜなら私が想像していた光景とは違って、坂堂先輩の他にもう一人男性が立っていたからです。その人は坂堂先輩が何か話しているのを聞いていないようにしていながら、柱に寄りかかって口笛を吹いていました。
どこかで聞いたようで、でもなぜか思い出せないその口笛に私はどこか遠くからそれをずっと聞き続けていたい気持ちになります。彼の姿は近づいても触れることができない写真の風景のように私の目に映っていました。ただ私と同じくらいの背丈が彼の容姿のボトルネックになっていると感じました。
私の存在に先に気づいたのは坂堂先輩です。私はぎこちない会釈をして雨を避けられる場所に入ると自分の傘をたたみました。傘をたたみ、顔を上げるとこの重くのしかかってくる空を気に求めていないような坂堂先輩の笑顔が待っていました。
そして柱に寄りかかっている彼はまだ口笛を吹いています。近くで聞いてみて私はそのときそれが「信念」という曲だったことを思い出しました。ちょっとだけ彼に親近感が芽生えた気がします。
「ごめんね。こちらから話をしたいだなんて押し寄せてきちゃって」
初めに私に向かって声をかけてきたのは坂堂先輩でした。クリームのような人あたりの柔らかさに私は逆に体を強張らせました。彼が口笛で奏でる「信念」もどこか音程が外れていたような気がします。
「あの……それで話とは一体何なのでしょうか」
「あぁ。そうだね。こういう話は包み隠さずありのままを話したほうがいい。
今は何かと物騒だろう。それは葵君が一番よく理解していると思う。
だから葵君を守るためにこの志工を使ってもらうようにした」
志工と言われた先輩は口笛を吹くのをやめて首だけを回し私を見ました。同時にザーザーとした典型的な雨音が聞こえ始めてきます。志
工先輩の理想的な顔のパーツ配置はなんとなく人形のそれを連想させます。そして目線から感じる印象も人形のものとそっくりでした。自分をまっすぐ見てくれるのに何を考えているのか読み取れない。そんな深くて底の見えないような目をしています。
「よろしく。十七歳です」
自己紹介に年齢だけを言うあたり、志工先輩はどこか何を考えているのかが分かりません。この場に居たくないことは全身からひしひしと伝わってくるのですが。
しかし今考えなければならないことは志工先輩ではなく、坂堂先輩の言葉です。地面から上がってくる水の匂いに反応してか、私の両腕の傷がずきりと痛んだ気がします。私のために護衛をつける?それも相手は警察とかでもなんでもなく、ただの生徒です。現実感の何もない。ふざけている。
「お気持ちはありがたいのですが、そちらの志工先輩に迷惑なのではないでしょうか?」
本当は私が迷惑だったのだけどそう言うことはできません。そのために私は隣にいる志工先輩を口実になんとかこの場を乗り切ろうとしました。だけど坂堂先輩は少しも考えるそぶりを見せませんでした。私が自分が望んでいる展開になっていないことを分かってしまいました。
「ぜんぜーん。志工は寧ろ望んでいるらしい。
だから葵君を守るためにこの志工を使ってもらうようにした」
同じ文句、同じ身振り、同じ口調でした。頭のよさそうな坂堂先輩が気づいていないわけではありません。それは多分自身の意思を完璧に貫き通すと主張しているのでしょう。
私の言うことなど聞いていません。もうここまで来ると好意でもなんでもなく、ただのおせっかいです。ますます坂堂先輩が指示されていることの理由が暗闇の中に沈んでいくようでした。
「とにかく。いきなり見知らぬ人を傍につけろといわれても困ります。
この話はなかったことにしてください」
私はそれだけを言うとそのままさっさと帰りました。遠くまで離れたときに一度だけ振り返ると二人はもういませんでした。だけど私には志工先輩が吹いていた「信念」が耳にずっと残っていました。
放課後になると曇天の空から大粒の雨が降ってきました。それは降り止むことはなく、多くの生徒たちの期待を裏切って激しくなっていきます。空一杯に敷き詰められている雲は私に向かってささやいてきます。
私にだけ分かる言葉で雲は私にとって最も皮肉なことを言います。お前はこれが望みなのだろうと。他人の言う通りとは逆のことを望むのがお前なのだろうと。
耳をふさいでもそれは聞こえてきます。私ができることはそれらのささやきを聞いていない振りをするだけでした。けどそれは私にとって解決策でもありません。四方八方から際限なく届いてくる雲の声に私ができる最善のことは何もないのです。
雲だけではありません。私はありとあらゆる声から同じメッセージを受け取ります。誰かが乱暴に扱い床の上で腹ばいになっている黒板拭きからも、もう何日も水を与えられず茶色く枯れ果てた葉を持つ朝顔からも同じ言葉が私に届いてきます。
でも私はその声から受ける刺激に心と体をかき回されながらも、気丈に振る舞い、決して涙を見せず、そして弱音を吐くことありませんでした。ただ少し疑問に思うことはあります。それらの声を本当に私は聞いているのかということです。
私はもしかしたら自分の欲求をそれとは認めたくないがために、このように周りのことを道具にしているのではないでしょうか。雲も、黒板拭きも、朝顔も何も語っていなく、全ては私の願望なのではないか。
そうだという仮設を立てても私は葵 古都という人間です。それだけは変わっていないはずです。そしてそれだけを心の支柱にして私の生活はぐらつきながらも長らく安定していました。
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坂堂 士友という人は私の予想以上にこの学校では人気者のようです。委員長や、生徒会長や、などの実権を握る立場はにはついていないものの、彼が学校に与える影響はそれと互角するともささやかれています。
私はその坂堂 士友という人に呼ばれました。なにもここでは話しにくい話があるということらしいです。もったいぶらずにそのときに教えてくれればよかったと思いながらも私は納得した振りをして、坂堂先輩は予想以上に簡単に立ち去っていきました。
私にとってすればただそれだけのことなのに友達たちは必要以上にはしゃぎ、私にちくちくする羨望のまなざしを向けます。神様は残酷です。価値の分からない私にこれほど価値の在るらしい機会をお与えになるなんて。
待ち合わせ場所は高校にまだ慣れていない私にも分かる所でした。学生寮の横手にある銭湯の入り口がそこでした。この時間はまだ銭湯は開いていません。人気のない場所としては坂堂先輩の頭にいち早く候補に上がったのでしょう。そしてそれはかなり適切な判断だったと私は理解しました。
待ち合わせの場所に結構早く来たつもりなのに坂堂先輩は私よりも早くその場所に立っていました。坂堂先輩の読みどおり、関係ない人影をあたりに見ることはできません。けど鏡がないから自分の表情が見えませんが、自分がすこし怪訝な顔つきに変わったのが分かります。
なぜなら私が想像していた光景とは違って、坂堂先輩の他にもう一人男性が立っていたからです。その人は坂堂先輩が何か話しているのを聞いていないようにしていながら、柱に寄りかかって口笛を吹いていました。
どこかで聞いたようで、でもなぜか思い出せないその口笛に私はどこか遠くからそれをずっと聞き続けていたい気持ちになります。彼の姿は近づいても触れることができない写真の風景のように私の目に映っていました。ただ私と同じくらいの背丈が彼の容姿のボトルネックになっていると感じました。
私の存在に先に気づいたのは坂堂先輩です。私はぎこちない会釈をして雨を避けられる場所に入ると自分の傘をたたみました。傘をたたみ、顔を上げるとこの重くのしかかってくる空を気に求めていないような坂堂先輩の笑顔が待っていました。
そして柱に寄りかかっている彼はまだ口笛を吹いています。近くで聞いてみて私はそのときそれが「信念」という曲だったことを思い出しました。ちょっとだけ彼に親近感が芽生えた気がします。
「ごめんね。こちらから話をしたいだなんて押し寄せてきちゃって」
初めに私に向かって声をかけてきたのは坂堂先輩でした。クリームのような人あたりの柔らかさに私は逆に体を強張らせました。彼が口笛で奏でる「信念」もどこか音程が外れていたような気がします。
「あの……それで話とは一体何なのでしょうか」
「あぁ。そうだね。こういう話は包み隠さずありのままを話したほうがいい。
今は何かと物騒だろう。それは葵君が一番よく理解していると思う。
だから葵君を守るためにこの志工を使ってもらうようにした」
志工と言われた先輩は口笛を吹くのをやめて首だけを回し私を見ました。同時にザーザーとした典型的な雨音が聞こえ始めてきます。志
工先輩の理想的な顔のパーツ配置はなんとなく人形のそれを連想させます。そして目線から感じる印象も人形のものとそっくりでした。自分をまっすぐ見てくれるのに何を考えているのか読み取れない。そんな深くて底の見えないような目をしています。
「よろしく。十七歳です」
自己紹介に年齢だけを言うあたり、志工先輩はどこか何を考えているのかが分かりません。この場に居たくないことは全身からひしひしと伝わってくるのですが。
しかし今考えなければならないことは志工先輩ではなく、坂堂先輩の言葉です。地面から上がってくる水の匂いに反応してか、私の両腕の傷がずきりと痛んだ気がします。私のために護衛をつける?それも相手は警察とかでもなんでもなく、ただの生徒です。現実感の何もない。ふざけている。
「お気持ちはありがたいのですが、そちらの志工先輩に迷惑なのではないでしょうか?」
本当は私が迷惑だったのだけどそう言うことはできません。そのために私は隣にいる志工先輩を口実になんとかこの場を乗り切ろうとしました。だけど坂堂先輩は少しも考えるそぶりを見せませんでした。私が自分が望んでいる展開になっていないことを分かってしまいました。
「ぜんぜーん。志工は寧ろ望んでいるらしい。
だから葵君を守るためにこの志工を使ってもらうようにした」
同じ文句、同じ身振り、同じ口調でした。頭のよさそうな坂堂先輩が気づいていないわけではありません。それは多分自身の意思を完璧に貫き通すと主張しているのでしょう。
私の言うことなど聞いていません。もうここまで来ると好意でもなんでもなく、ただのおせっかいです。ますます坂堂先輩が指示されていることの理由が暗闇の中に沈んでいくようでした。
「とにかく。いきなり見知らぬ人を傍につけろといわれても困ります。
この話はなかったことにしてください」
私はそれだけを言うとそのままさっさと帰りました。遠くまで離れたときに一度だけ振り返ると二人はもういませんでした。だけど私には志工先輩が吹いていた「信念」が耳にずっと残っていました。
ーーーーーーー
私は間違ったことは言っていない。先輩たちの変な思いつきに付き合うことはない。でも自分の部屋で一人じっとしていると消化できないいらだちで胃の中がむかむかしてきます。私はこのままでよいのでしょうか。
読んでいた「黒猫の三角」から手を放し、窓の外へ首を回します。窓では同じようなポーズをしている私が私を見返していました。放課後から降り続いている雨粒は窓に辺り、誰かが窓を叩いているような錯覚を与えてきます。
机の上には私が手を放した「黒猫の三角」が一つ、ぱらぱらとページが捲られています。開いたままの本が見せるページは私が前に読んでいた所へと遡り、私はふいに坂堂先輩と、志工先輩のことを思い出しました。
私は別に一人というわけではありません。人並みに友達を持ちあわせています。そしてそれに満足をしています。ただ私は友達には友達としての付き合いを選んでいて、私自身も友達と上手く付き合うための私を選んでいます。
言うなれば、私はその場に見合った自分を造っているということです。自慢することではないですがそれが私の特技です。私が本来の私を見せられると判断した人は多くありませんでした。そして今、その数は零です。
その簡単な形をしている数字にこれほどまで不安に駆られたことはありません。なんとかしてその輪を破らなければいけません。でもだめなんです。友達の視線に浴びせられると私は無意識のうちで仮面を被っていました。
だけど志工先輩なら、私はありのままの私でいられるのではないだろうか。根拠はありません。だけど志工先輩が吹いていた「信念」に感じる懐かしさは嘘ではありません。そして志工先輩は私の友達の誰にもあてはまらない雰囲気を持っていました。
正直、護衛とかの話とは関係なく私は志工先輩ともうちょっとお話をしたかった。だけど志工先輩はどう思っていたのでしょうか。志工先輩は私のことを見ていてくれていたでしょうか。
その答えは分かっています。けど私はそれを認めることができず自分の部屋で本を読んでいるしかできません。しかし私の中に巣くう感情は消えることはありません。時計の針が進むとそれが引き金となり、二人の先輩のことを考え、自分の願いを自分で否定し、自分の気持ちに嘘を付きながら本を読み、自分の気持ちを溶けない飴玉のように持て余す。
ここにいるためにはそういう悪循環に耐えなければいけません。
それが我慢できず、そしてこのむしゃくしゃした思いを少しでも薄めるためにコンビニに行くことにしました。この時間は本屋が開いていないので雑誌を読めるのはそこぐらいです。
ーーーーーーー
コンビニに行くと気が楽になります。たどり着くのに三十分もかかることは玉に瑕ですが、夜なのににぎやかで、いろいろなものが陳列されていて、だけど周りにいる人間は私がやることに何も言いません。最近はよく深夜にコンビニに行くような気がします。
どこか冴えない気分を少しでも軽くしようとするためなのは間違いありません。だけどその手段で本当に気分が軽くなっているのかは私には分かりかねます。昨日と同じ雑誌を読んだところで新鮮味を感じないのは確かなのですが。
雑誌の文面を何も考えずに読みふける。たまに耳に届いてくる店員の音声を合図に別の雑誌を手に取りまた読みふける。この雑誌を読むのも二回目です。
飛騨で謎の生物の発見。富士山頂上で撮影したUFOの写真。東京都に在る幻の二十四区。勢いで書いたとしか思えないそれらの記事を淡々と読み進める私の様子は滑稽そのものでしょう。
そんな面白くないことをしてても時間は等しく流れていきます。時計の長針が一回転したことを確かめて私は寮に帰る心持ちになってきました。
「あんたまだ飲むの?この前飲みすぎて気が付いたら
ダンボールハウスに不法侵入していたのでしょう?」
「そうそう。あの時はびっくりした。それまでの過程が思い出せないもんな」
たまたま酒売り場の前で話している二人の会話が届いてきました。別にどうでもいい会話でその二人もどうでもいいように話しています。
記憶がない。誰だって体験している。何度も考えていたことなのに今日はそれだけで自分が立っている足場がぐらついているようでした。私は葵 古都であることには間違いありません。生まれてからここまでのほとんどの記憶は持っています。
でも私は高校に入学してから数日間の記憶が落款しています。では、私は本当に葵 古都なのでしょうか。ただ数日間の記憶がないだけでそれより前の数十年間の記憶を否定することは不条理だとは思います。けどその数日間に何があったのか分からないことはとても怖いことなのです。
もしかしたら私はその間に私ではなくなってしまったのではないでしょうか。それに呼応するように両腕がしびれ、胸の辺りが苦しくなります。
傘をぱっと広げると嫌な可能性を振り払うかのように傘をくるくると回します。そしてこの濡れている地面を思い切り足を踏み出したらどうなるかを考えもせず走り出そうとしました。だけど誰かが私の手を掴んでいます。
振り向くとそれは顔を知らない人物でした。私はすぐに状況を理解してその手から逃れようと身をよじりますが彼の手はそれを許してくれません。私が簡単に状況を理解できた理由は私の手を掴んでいる彼が不良としてお手本のような容姿をしていたからです。
コンビニの駐車場で何人か座っている若者たちと目が合いました。この雨の中で雨宿りをしているのでしょうか?そういう訳ではないようです。彼らはただ座っているだけなのでしょう。
何人かが立ち上がり私のところへと近寄ってきます。この雨の中傘も差さずに彼らの茶色い髪の毛が湿り、より濃い茶色へと変わっていきました。歩くたびにジャラジャラと何かが擦れる音が聞こえてきました。当然のように私を囲みます。
自分たちの下心を隠さないでその下品な笑いは私に寒気を与えてきます。彼らの口からはゴムがこげているような匂いがしました。彼らがどういう人物なのか手に取るように分かります。
今日は見知らぬ人に声をかけられやすい日であることを私は理解し、そしてそれを呪いました。
私は間違ったことは言っていない。先輩たちの変な思いつきに付き合うことはない。でも自分の部屋で一人じっとしていると消化できないいらだちで胃の中がむかむかしてきます。私はこのままでよいのでしょうか。
読んでいた「黒猫の三角」から手を放し、窓の外へ首を回します。窓では同じようなポーズをしている私が私を見返していました。放課後から降り続いている雨粒は窓に辺り、誰かが窓を叩いているような錯覚を与えてきます。
机の上には私が手を放した「黒猫の三角」が一つ、ぱらぱらとページが捲られています。開いたままの本が見せるページは私が前に読んでいた所へと遡り、私はふいに坂堂先輩と、志工先輩のことを思い出しました。
私は別に一人というわけではありません。人並みに友達を持ちあわせています。そしてそれに満足をしています。ただ私は友達には友達としての付き合いを選んでいて、私自身も友達と上手く付き合うための私を選んでいます。
言うなれば、私はその場に見合った自分を造っているということです。自慢することではないですがそれが私の特技です。私が本来の私を見せられると判断した人は多くありませんでした。そして今、その数は零です。
その簡単な形をしている数字にこれほどまで不安に駆られたことはありません。なんとかしてその輪を破らなければいけません。でもだめなんです。友達の視線に浴びせられると私は無意識のうちで仮面を被っていました。
だけど志工先輩なら、私はありのままの私でいられるのではないだろうか。根拠はありません。だけど志工先輩が吹いていた「信念」に感じる懐かしさは嘘ではありません。そして志工先輩は私の友達の誰にもあてはまらない雰囲気を持っていました。
正直、護衛とかの話とは関係なく私は志工先輩ともうちょっとお話をしたかった。だけど志工先輩はどう思っていたのでしょうか。志工先輩は私のことを見ていてくれていたでしょうか。
その答えは分かっています。けど私はそれを認めることができず自分の部屋で本を読んでいるしかできません。しかし私の中に巣くう感情は消えることはありません。時計の針が進むとそれが引き金となり、二人の先輩のことを考え、自分の願いを自分で否定し、自分の気持ちに嘘を付きながら本を読み、自分の気持ちを溶けない飴玉のように持て余す。
ここにいるためにはそういう悪循環に耐えなければいけません。
それが我慢できず、そしてこのむしゃくしゃした思いを少しでも薄めるためにコンビニに行くことにしました。この時間は本屋が開いていないので雑誌を読めるのはそこぐらいです。
ーーーーーーー
コンビニに行くと気が楽になります。たどり着くのに三十分もかかることは玉に瑕ですが、夜なのににぎやかで、いろいろなものが陳列されていて、だけど周りにいる人間は私がやることに何も言いません。最近はよく深夜にコンビニに行くような気がします。
どこか冴えない気分を少しでも軽くしようとするためなのは間違いありません。だけどその手段で本当に気分が軽くなっているのかは私には分かりかねます。昨日と同じ雑誌を読んだところで新鮮味を感じないのは確かなのですが。
雑誌の文面を何も考えずに読みふける。たまに耳に届いてくる店員の音声を合図に別の雑誌を手に取りまた読みふける。この雑誌を読むのも二回目です。
飛騨で謎の生物の発見。富士山頂上で撮影したUFOの写真。東京都に在る幻の二十四区。勢いで書いたとしか思えないそれらの記事を淡々と読み進める私の様子は滑稽そのものでしょう。
そんな面白くないことをしてても時間は等しく流れていきます。時計の長針が一回転したことを確かめて私は寮に帰る心持ちになってきました。
「あんたまだ飲むの?この前飲みすぎて気が付いたら
ダンボールハウスに不法侵入していたのでしょう?」
「そうそう。あの時はびっくりした。それまでの過程が思い出せないもんな」
たまたま酒売り場の前で話している二人の会話が届いてきました。別にどうでもいい会話でその二人もどうでもいいように話しています。
記憶がない。誰だって体験している。何度も考えていたことなのに今日はそれだけで自分が立っている足場がぐらついているようでした。私は葵 古都であることには間違いありません。生まれてからここまでのほとんどの記憶は持っています。
でも私は高校に入学してから数日間の記憶が落款しています。では、私は本当に葵 古都なのでしょうか。ただ数日間の記憶がないだけでそれより前の数十年間の記憶を否定することは不条理だとは思います。けどその数日間に何があったのか分からないことはとても怖いことなのです。
もしかしたら私はその間に私ではなくなってしまったのではないでしょうか。それに呼応するように両腕がしびれ、胸の辺りが苦しくなります。
傘をぱっと広げると嫌な可能性を振り払うかのように傘をくるくると回します。そしてこの濡れている地面を思い切り足を踏み出したらどうなるかを考えもせず走り出そうとしました。だけど誰かが私の手を掴んでいます。
振り向くとそれは顔を知らない人物でした。私はすぐに状況を理解してその手から逃れようと身をよじりますが彼の手はそれを許してくれません。私が簡単に状況を理解できた理由は私の手を掴んでいる彼が不良としてお手本のような容姿をしていたからです。
コンビニの駐車場で何人か座っている若者たちと目が合いました。この雨の中で雨宿りをしているのでしょうか?そういう訳ではないようです。彼らはただ座っているだけなのでしょう。
何人かが立ち上がり私のところへと近寄ってきます。この雨の中傘も差さずに彼らの茶色い髪の毛が湿り、より濃い茶色へと変わっていきました。歩くたびにジャラジャラと何かが擦れる音が聞こえてきました。当然のように私を囲みます。
自分たちの下心を隠さないでその下品な笑いは私に寒気を与えてきます。彼らの口からはゴムがこげているような匂いがしました。彼らがどういう人物なのか手に取るように分かります。
今日は見知らぬ人に声をかけられやすい日であることを私は理解し、そしてそれを呪いました。