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「志工 香矢の変調」

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一人で屍鬼を読んでいると香が香矢の部屋に飛び込んできた。外が雨なのは窓を見なくても分かる。バケツをひっくり返したような雨音が窓を閉じてカーテン越しからでも聞こえてくるからだ。

香はずぶぬれだった。外から帰ってきたのは目に見えて分かる。髪の毛の先から水玉が垂れ落ちて香矢の部屋を濡らしていく。濡れているのは髪だけではなく着ている服も限界まで水を吸い取り香の身体に密着していた。布地が透けて本来服で隠れるはずの部分まで見えてくる。

香が着ている模様の入っていない白地のティーシャツに黒一色の簡素なズボンはどこか見覚えがある。それは自分の服だった。

「風邪引くぞ。風呂入って来いよ」

香矢は冷たく香を促した。顔をあわせないのは香矢が不機嫌でも、屍鬼を読み進めたいからでもない。水に濡れた香の身体を見つめるのが恥ずかしかったからだった。でも屍鬼を読み進めることはできない。

活字が歪んでいるような気がして目を細める。香の気配、息づかい、そして香自身の視線を感じて集中力が乱れていた。それなのに外からの雨音は自己主張が激しく、その爆音を香矢の耳に入り込ませてくる。

香矢は香がどこに行っていたのかについてだいたい感づいていた。十中八九思織のところだろう。そこで香矢に対する自身の恋心を告げたのかもしれない。

士友と香が付き合っていたのも多分香矢が思織と恋人同士になっていたからだろう。香矢からわざと離れることで香矢自ら香を求めにきてくれるのを待ってきていたのかもしれない。主張はしないが、したたかな香らしい手段だった。

ここに来たのも香矢の気持ちを確かめたいからだろう。だから風呂に入れと香を促した香矢の言葉は彼女を突き放すことだったのかもしれない。しかし香矢はその言葉が香に向ける一番適切な言葉だったということは自信がある。

だけどまだ香の気配を感じている。香矢は目を本から離し顔を見上げた。その瞬間に本を手から落としていた。屍鬼は床の上に落とされ、開かれたままページが捲られ続ける。その先で香は服を脱いでいた。脱ぎ捨てられた香の衣服が香の足元に散らばっている。

「風呂に入るのなら何もここで脱がなくてもいいだろ」
「ふざけないでください」

厳しい声調だった。何度か聞いたことはあるが香がそれを香矢に向けたのはこれが初めてだっただろう。香は今にも泣きそうに顔を歪ませている。だけど悲しみだけを顔に宿らせているだけではない。適当にあしらおうとした香矢に本気で怒りの矛先を向けている。

「思織が兄さんのことを好きだと話したわ。でもそれは私だって一緒。いや私のほうがより兄さんを愛している」

香がたまに香矢に見せる憂いを帯びた虚ろな表情を向けられる。それは香が香矢だけにしか見せたことのない表情だった。香矢の口からうめきのような声が漏れる。

「それでも……。それでも兄さんは私を選んでくれないの。私を愛してくれないの」

胸に手を当てて香は訴える。その言葉が香矢に広く、深く染み渡っていった。

香の顔が濡れているのは泣いているからだろう。それが分かってしまったことが香矢の胸に深く突き刺さってくる。沈黙は香矢と香との関係にヒビを入れ続けるだけだ。でも今は香に近づくことができなかった。

「思織に聞いたのか」

香はうなづいた。声に出すよりも強い肯定に香矢はため息をつく。雨音が前よりも右肩上がりで激しくなっていく。

「香は勘違いしているんだ。俺に似ているから俺から遠ざかりたくない。そういう思いを恋心と取り違えているだけだ」
「私だってもう子供じゃない。成長しているところは成長しているし、兄さんとの違いはある。でも似ているから兄さんを愛しているわけではない」

自分の身体を強調するかのように、胸を当てていた手でそのまま腰辺りまで自分の身体をなぞる。女性として魅力的な部分が多いのは香の方に間違いないだろう。目の前で下着だけになっている香の姿を見て頭の中にいつか見た同じ服装の思織を思い浮かべた。

香矢は何も言い返せなかった。別に香の身体に見とれるということではない。だけど今の香を論破するいい屁理屈を思いつくことはできなかった。香は唯一の友達だった思織と決別し士友との仲もいずれ破綻するだろう。自分が利用されていただけだと士友が知るのも時間の問題だ。

そしてこのままでは香は全てを閉ざしてしまうかもしれない。それを防ぐのは兄としての役目ではないだろうか。香矢の中で一つの結論が組み立てられてそれを飲み込もうとする。

しかし香を受け止めることが自分にできるのだろうか?このまま思織と別れ、香を恋人として慕い、常に寄り添い、卒業しても、成人しても、周りの目を気にせずにずっと手を取り合うことができるのだろうか?

香矢は黙って衣服を拾うとそれを香にかぶせた。さすがにズボンは無理だけどティーシャツぐらいなら何とかなる。香の上半身が隠れる。香の両肩に自分の両手を重ねた。

雨音がぴたりと止む。雨はまだ降っているはずなのに香矢には何も聞こえなかった。代わりに自分の荒い息の音と、心臓の鼓動の音が耳を支配している。これを言ったらもう戻れない。だけど……。

「ごめん」

香の兄として、一人の男として香矢はその言葉を香に向けた。そして香から手を離してくるりと反転する。香がいたたまれない。

香は何も言わなかった。ただしばらくして扉を閉める音がして、振り返るとそこには香はいなかった。濡れて冷たい床の水からだけに香のぬくもりを感じた。

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目の前にはむき出しのコンクリートの壁が見えている。雑巾のような色をしているそれはささくれだつように波立っていた。自分がようやく屋上の小部屋にいることを知ってけだるさが体の中で渦巻いてゆく。

意識は鮮明にあるのに身体が動かない。自分の四肢がつながっている感覚がはっきりせず指先を動かすことさえできなかった。変な体勢で寝ていたからだろう。唯一大丈夫な自分の意識で自分の愚行を省みた。

ほんの少しだけ部屋の湿気が上がっているようだった。それだけではなく温度も上昇しているのか香矢の額には汗がにじんでいる。息苦しいということはないのだけど何時もよりも空気が熱く埃臭いようだった。

帽子がないと思ったら机の下に落ちている。ぬいぐるみも見当たらないことに気づくと、それが鞄の上に落ちているのを見つけた。埃が付かなかっただけでも幸運だろう。そろそろ身体が動かせるようになって時間の経過を感じ取ることができた。

頬に当たる硬い感触からさよならをし、背もたれに身体を預ける。間接一つ一つを動かすたびに錆のように溜まっている疲れがはがれて、めまいで視界が歪みそうだった。疲ればかり溜まっていく睡眠も珍しい。

時間を確認して自分がこれほどまで長く眠っていたことにも珍しいと思った。今日は誰も来なかったのか。その事実に香矢は何も印象を受けなかった。うれしいとは思わなかったし、残念だとも感じなかった。

ただ相反するそれらが互いを相殺しているのが香矢が無反応だった原因なのだろう。荷物をまとめて寮に帰るマントと帽子をしまうのを忘れてしまったがどうせ誰にも会わないし出会ったところで香矢だとは分からないだろう。

外は小部屋の中ほど暑くはなく涼しい風が逆に気持ちよかった。マントがなびくのもなんとなく心地よかった。ただ室内でどうして風が吹いているのだろう。帽子を外し辺りを見回す。原因はすぐに分かった。

屋上へ続く扉が少しだけ開いている。思織がまだいるのだろうか。その隙間の前で香矢はドアノブに手を伸ばし、音を立てずに開く。外は雲ひとつない晴天だった。昼間はずっと部屋の中にいるから今日はこんなにもからりと晴れているのには気づいていなかった。

自分で少しだけ広くした扉の隙間から頭だけを出して生ぬるい風にその身を当てる。屋上にいるとしたらおそらく思織だろう。会って話をするつもりはないが思織が今でも天体観測をつづけているのかが気になっていた。

ごく普通に思織がいた。簡単なシャツと短パンだけを着て立っている。顔は見えないがあの背丈なら思織に違いない。ただ香矢は眉をひそめる。一瞬自分が見ていたものを疑ってしまった。思織とは別で誰かがいる。思織と向かい合うように屋上の柵によりかかっている。

同級生とすると見覚えのない顔で、思織は上級生とあのような交流があるとは考えにくい。そう考えると下級生になるのだろうか。

思織は香矢に背を向けているためか香矢の気配には気づいていない。ただその友達は香矢と向かい合っているため、香矢を視界に捕らえたようだ。距離が離れているためどういう顔をしているのか分からない。

でも彼女が首をかしげているから香矢は彼女がこちらの存在に気づいたことを知った。思織が彼女の動作に訝しがってこちらを振り返りはしないかと心配したがそれは杞憂に終わったみたいだ。

思織は彼女に一歩一歩近づいていく。もう一方の彼女は思織を見つめながら薄ら笑いを浮かべていた。彼女は思織を見つめているのではなく香矢まで見ている。その視線をひしひしと感じていた。

何をしようとしているのだろうか。ただ近づくだけでその先を思い浮かべられない。案外どうとでもないことをするのかもしれない。そうでなければ彼女が香矢の存在にめくじらを立てないわけがない。でも空気が痺れるようなこの異様な雰囲気は何だろう。自分が見知らぬ国に迷い込んだようだ。

思織と彼女の影が一つになる。薄紫色をしている屋上に赤黒い二人の影が躍っていた。もう鼻先をあわせているような状況だった。香矢は頭を出したまま片方の手でマントを身体にかぶせなおす。気のせいに違いないが冷蔵庫に閉じ込められたような寒気がした。

自分の体をマントで隠し、思織たちの方を見直すと思織が自分の唇を彼女の唇に合わせていた。自分のそれを彼女のそれに合わせようと必死に背伸びをしている。爪先立ちのため爪先がプルプルと震えていた。

それを見た瞬間、時間まで凍りつくかと思った。あいた口を塞ぐことはできず香矢がかぶっている帽子がずれる。見てはいけないものを見てしまい香矢は黙るだけしかなかった。目の前にいる思織は別の人間なのだろうか。そう思いたくなるくらい展開が予想外だった。

女性同士が口付けをしているということよりも思織がそのようなことをしていることに香矢は何かをするということを考えることさえできなかった。時間にして数秒だったが香矢にとっては数時間にも数年にも永遠にも感じられていた。

そうだ。ぐらつく思考でつじつまを合わせる。あれは思織ではないよく似た人に違いない。思織があのような行為をできる気質も度胸も持っているわけがない。だからあれは思織ではない。香矢はそう納得し、脱力した。

ただ彼女がこちらを見ている。見えなかった彼女の瞳を香矢はじっくりと見ることができた。人形の瞳を連想させる形のいい目だった。無機質で乾いたそれはただ彼女の顔にはまっているだけで彼女の何も表していないようだった。

彼女の瞳孔が揺れる。そして細まる。勝ち誇ったように目が鈍い光を放っていた。それが気持ち悪い。それに怖い。香矢は戦慄のようなものを覚えて扉を閉めた。階段を降りている間も彼女の視線を感じていた。

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次の日になり、時間がたつにつれて冷静になっていくと共に体が無気力になっていく。過去の出来事を客観的に見つめることができたからだろうか。しかしそれは香矢にとってうれしいことでもなんでもない。

思織はなぜあのようなことをしていたのだろう。思織にあのような趣味があるとは思えない。というより思織と一緒にいたあの少女は誰なのだろう。思織とどのような関係があるのだろう。数ある可能性を一つ一つ検証していき、そのたびに香矢の胸は数ミリずつ締め付けられていく。

しかしそこまで考えてばかばかしくなった。思織が何をしようと勝手ではないか。もう思織は香矢とは関係ない。

壁の向こうからかすかに聞こえてくる。チャイムの音で香矢の意識は外界に向けられた。体をあまり動かしていなかったためか石像のように硬直している。目は大きく見開かれていて唇は乾いている。

ひざの上にはぬいぐるみが腰を下ろしている。転げ落ちないように香矢は自分の手でそれを抱きしめている。そしてもう片方の手は本のページを指で挟んでいた。士友から借りたあの本だった。

本は何も書かれていない最後のページになっていた。それを捲り、裏表紙が顔を見せる。香矢は軽くため息をついて椅子の背もたれに体を預けた。そのまま息を吐き続けたくなるが香矢はそれをしようとする気さえ考える気力を持っていなかった。

結局香矢が探していた虫を見つけることはできなかった。表紙に書かれている文字は何度も見るもののやはり何が書かれているのか分からない。どうせ内容は分かるのでわかる必要がないというのが正しいのだが。

この町の生物が載っている図鑑か。香矢は図鑑が欲しいとしか士友には言わなかったがもっと全体的なものはなかったのだろうか。士友の皮肉な笑いを浮かべて、これが士友のいやがらせではないだろうかとあながち間違っていない仮説に香矢は肩を落とす。

ちょうどそのときに外の光が香矢の顔を照らした。誰かがこの部屋に入ってきたらしい。士友だろうか。顔を上げて文句の一つでも言ってやろうと思ったが香矢の予想は間違っていた。

女性らしい体つきが香矢を無意識下で緊張させていた。しかし彼女のほうがよく緊張しているのが分かる。この薄暗い部屋で彼女の腕と顔は真っ白だった。彼女がここに来たのは初めてだろう。でもどこかで会ったような雰囲気を漂わせている。

俯き加減のせいで前髪が垂れて、顔がよく見えない。香矢は黙ったまま目の前にある机を指で指し示す。何をしていいのか分からなくて唇を震えさせていた彼女は軽く頷いたあとに同じように震えている手で椅子を掴むとそのまま座った。

香矢は深呼吸をして気分を入れ替える。本を鞄の中に無造作に放り込むと自分で抱きかかえていたぬいぐるみを机の上に座らせた。わずかに彼女の表情が溶けて、顔に血が通ってきたのが分かる。そろそろ口火を切る頃だろう。

「こんにちは。何を話したいのかしら」

喉仏をとんとんと叩きながら香矢は香として振舞う。なんかこれを言うのも久しぶりだ。最近知人ばかりしか来なかったせいか彼女の来訪は新鮮な体験だった。たまには昔どおりに占いをするのも気分転換にはなるだろう。

だけど不思議な感覚は前にも増して体の中を駆け巡っていた。目の前に座った彼女は香矢の記憶の中にはない。それなのに初対面に香矢が飛ばす圧迫感とか、威圧感を今の香矢は飛ばす気にはなれていなかった。

「志工 香矢さんですよね」

その声に触発されて香としてではなく、香矢として彼女の顔を自分の記憶を照らし合わせなおす。やっと思い出してきた。

「大都井?」

香矢の声に大都井は頷く。前髪が揺れてその隙間から彼女の顔が見えた。その垂れ目になっている彼女の瞳は一度だけ目にしたことがある。大都井のことはまだよく知らないがその表情は彼女が何かを話したがっているがそれを口にする勇気が足りていないことを示しているのだろう。

ぬいぐるみがさっきから首をかしげている。なぜ何も話さないのだろうと言っているみたいだった。香矢だっていろいろと聞きたいことがある。だが大都井を警戒しているためか話すべきタイミングを見計らうのに慎重になっていた。

大都井がいつもの大都井である以上油断はできない。そのような香矢の意図とは関係なくやっと大都井は指をセーラー服のスカーフから離して唇を動かした。

「着いてきてもらいたい場所があるのです。今すぐというわけではないですが」

大都井はこの空気に耐え切れなくなったのか自分の細い指でぬいぐるみをいじっていた。彼女の指がぬいぐるみの耳を挟んでいる。おどおどしてていつも何かに驚かされているような少女。明らかに教室でよく見た彼女だった。

「それはお前の都合?それとも俺に関係あること?」

まだ大都井を信じられなかった。自分でもこういう考えは道徳的ではないと思うが、前みたいに大都井が豹変するかもしれないことを疑っていた。大都井の顔が暗くなる。大都井自身もあのときのことに何か思う節があるのだろう。

それが何かは香矢には分からなかったが、大都井はその影を払い、全てを振り切った顔をして香矢と向き合った。彼女の手の震えがいつの間にかなくなり、体全体に力が篭っている。

「両方です」

はっきりと言う。大都井が今まで出したことのなかった口調が香矢に対する警戒を解いていく。それだけではなく大都井が確かに香矢の目的と無関係ではないことに気づいたからだ。大都井が連れて行くところが香矢の目的と一致しているとう可能性はないのだが、適当な暇を見つけて大都井に聞いてみればいい。

もはや彼女がなぜ香矢の秘密を知っているかなどどうでもよかった。誰から聞いたのかは大体分かる。とにかく今は自分を犠牲にしてもいろいろな情報が欲しい。

香矢は諦めたように帽子を外した。大都井が魔女にではなく、香矢に用事があるのがわかって、彼女の頼みを聞く気になったからだ。

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たに 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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