「ぼんやりとした不安」という言葉がある。地方の大学生。文学部。彼女なし。童貞。いつのまにか20歳。不安がない方がおかしい気さえする。「ぼんやりとした不安」かの芥川龍之介はこれを理由に自殺した。結局私は焦燥しているのだ。常に噛みすぎて味がなくなったガムを噛んでいるような気分なのである。そして自己嫌悪しているのだ。まず20歳なのに童貞というのは世間的にはおかしいというくくりにはいるようであるし、その一点が私を暗い気持ちにさせる。秋葉原の事件の容疑者は馬鹿である。大馬鹿であるが彼の気持ちがわからんでもない私もまた阿呆なのである。ときたまこのような気分に陥ることがある。こうなるとすべてが駄目だ。大好きな向井秀徳の音楽は雑音となり、―『月夜のボタンはむしろ海に放り投げるべきである』―中原中也の詩はただの不良少年の叫びにしか見えなくなる。『こんなことしている場合じゃない』誰かがいうのである。そんな理由から私はわけもなく散歩にでかけた。夏の暑い日だった。
なぜかはわからないが、その頃私はみすぼらしいものに惹きつけられていた。言い方を変えれば進歩的ではないもの。過去の匂いが香ってくるようなところ。例えば、池袋の鬼子母神神社。そしてその近くにある天ぷら屋。中央線高円寺。京成四ツ木周辺。背の高い威圧的な高層ビル群とそこで働く人々の殺伐とした感じから私は逃げ出したかったのだろう。私が東京にすんでいられるのはこのような場所のおかげでもあった。
時々私はそのような街を歩きながらここがしかし、東京でない場所、それも日本海の見える土地であるという錯覚を起こそうと努める。それも北陸の土地か東北の土地である。錯覚の中では、私は隠遁生活をしており、海を抱きしめながら暮らしているのだ。まず第一に安静だ。寺山修二ではないが海は私を安静にしてくれる。結局私は東京から逃げ出したかったのである。しかし、手間や大学生という立場上私にはそれは実質不可能であり、そのためのこの現実逃避であった。現実逃避に成功し、錯覚が起きると私はそれに自由に色をつける。確かこんなゲームがあった気がするが、気が向くままに好き勝手に街を創り出すのだ。錯覚の中では私は絶対の存在を誇り、誰もが私に逆らえないのであった。そのときの私は終始にやけ顔であっただろう。こんなことだから彼女ができないのである。
ふと、店先に張られているポスターが目に飛び込んできた。「納涼花火大会」とでかでかとポップ調の文字で書いてある。花火ごときで納涼できるなら安いもんだよ、私は悪態をつきつつも、花火に思いをはせた。特に花火自体のあの毒々しい色。黄色。赤。緑。紫。made in chinaの間違いだらけの日本語。しかし、私はそのサイケデリックさが嫌いではなかった。むしろそのようなものが私の心をそそった。
檸檬新約
それからまた私は酒瓶が好きになった。日本酒ブランデーワインリキュールそしてウイスキー。どこか遠くの国で醸造されてやってきたものから、近所の醸造元でつくられたもの。その瓶の中に入っている液体は赤青黄色茶色ほんのり緑色そして琥珀色。私はよく街の酒屋に行ってはそれらを眺め、どのような香り風味かを想像していた。夏の盛りの酒屋のあの空間はかき氷よりも納涼で、花火大会よりも迫力があった。
そう。私はそれらをすべて想像力で補っていた。私は慢性的に貧乏であったのだ。そんな貧乏に救いとなるのは同じサークルのあの娘であった。
私がまだ大学生らしい大学生であったころはサークルに所属していた。彼女とはそこで仲良くなった。まるっこい顔にまるっこい髪。一重の眼はむしろ二重の眼より魅力的であったし、ケラケラと笑ったときに見せるその八重歯は例えようもなく美しかった。なにより一番はその性格であった。だれとでも気兼ねなく話をし、やたらに不平は言わず率先して行動し皆をひっぱっていく。どんな男相手でも嫌な顔せず話をする。私の凝り固まった女子大学生観は一変した。
断言しよう。彼女は私が出会ったなかでとびきりの美少女であった。
この陰気でどうしようもない大学に降りてきた天使―これはいささか言い過ぎかもしれないが―であった。
もしどんな娘か想像できないのなら、君の一番好きな人を想像してほしい。
たぶん彼女はその中のだれよりも美しい。
しかし、街を徘徊しナンバーガールの歌詞よろしく生活している私にとってその思い出はもはや逆に重荷となって私の心の中に巣くっているのだ。
さらに彼女は大学生ながら複数の中年たちの妾になっていた、というその事実を友人づてに知った瞬間にわたしの心で何かがすうっと消えていった。就職のため。そういえば彼女はテレビ局のアナウンサーになりたいと言っていた。
そして今となっては彼女の思い出はすべて幻だったような気さえしてくるのである。
ある朝、日曜日。日曜という曜日の性質上、私は真白な部屋に取り残されたような気分になった。不安で外の世界に出ていきたいが外の世界までの距離感がつかめず、自分自身の大きささえもわからない。実は何も予定のない日曜の朝は精神衛生上全くといっていいほどよろしくない。そこにあるのは憂鬱とむなしさである。そしてサザエさんが始まって気づく「俺はなにを今日していたのだろうか」
そして日曜日は私の背後からぬうっと現れてこう言う「せっかくの休みなのだ。外に出ろ」
毎日が日曜日な私にとって日曜日はなにも意味を持たない。しかし、さらに日曜日は私を追い立てる「世間様はせっかくの休日なのだ。おまえも世間様をみならってどこかへでかけろ」
まったくキリストさまさまである。神が七日目にお休みになられたからといって人も休むというのはどういう了見なのだろうか。私は神を否定も肯定もしない。神を否定してはなぜ自分が存在しているのかわからない。しかし、神を肯定するのならばなぜわたしのような人間をこの世に誕生させたのか皆目見当がつかない。これは不思議な話である。
そう。私はそれらをすべて想像力で補っていた。私は慢性的に貧乏であったのだ。そんな貧乏に救いとなるのは同じサークルのあの娘であった。
私がまだ大学生らしい大学生であったころはサークルに所属していた。彼女とはそこで仲良くなった。まるっこい顔にまるっこい髪。一重の眼はむしろ二重の眼より魅力的であったし、ケラケラと笑ったときに見せるその八重歯は例えようもなく美しかった。なにより一番はその性格であった。だれとでも気兼ねなく話をし、やたらに不平は言わず率先して行動し皆をひっぱっていく。どんな男相手でも嫌な顔せず話をする。私の凝り固まった女子大学生観は一変した。
断言しよう。彼女は私が出会ったなかでとびきりの美少女であった。
この陰気でどうしようもない大学に降りてきた天使―これはいささか言い過ぎかもしれないが―であった。
もしどんな娘か想像できないのなら、君の一番好きな人を想像してほしい。
たぶん彼女はその中のだれよりも美しい。
しかし、街を徘徊しナンバーガールの歌詞よろしく生活している私にとってその思い出はもはや逆に重荷となって私の心の中に巣くっているのだ。
さらに彼女は大学生ながら複数の中年たちの妾になっていた、というその事実を友人づてに知った瞬間にわたしの心で何かがすうっと消えていった。就職のため。そういえば彼女はテレビ局のアナウンサーになりたいと言っていた。
そして今となっては彼女の思い出はすべて幻だったような気さえしてくるのである。
ある朝、日曜日。日曜という曜日の性質上、私は真白な部屋に取り残されたような気分になった。不安で外の世界に出ていきたいが外の世界までの距離感がつかめず、自分自身の大きささえもわからない。実は何も予定のない日曜の朝は精神衛生上全くといっていいほどよろしくない。そこにあるのは憂鬱とむなしさである。そしてサザエさんが始まって気づく「俺はなにを今日していたのだろうか」
そして日曜日は私の背後からぬうっと現れてこう言う「せっかくの休みなのだ。外に出ろ」
毎日が日曜日な私にとって日曜日はなにも意味を持たない。しかし、さらに日曜日は私を追い立てる「世間様はせっかくの休日なのだ。おまえも世間様をみならってどこかへでかけろ」
まったくキリストさまさまである。神が七日目にお休みになられたからといって人も休むというのはどういう了見なのだろうか。私は神を否定も肯定もしない。神を否定してはなぜ自分が存在しているのかわからない。しかし、神を肯定するのならばなぜわたしのような人間をこの世に誕生させたのか皆目見当がつかない。これは不思議な話である。