第八掘「暗夜行路」
歩いていた。
久坂は歩いていた。
190近い久坂の巨体は、人ごみの中にあっても頭一つ抜けて見える。
首から肩にかけての丸みを帯びた強靭な筋肉は、否が応にも通行人の目を引いた。
「強い」――――と、外見から得られる情報だけで見る者を畏怖させる。
まるで肉食獣のようなオーラを全身から醸し出している。
夕刻の繁華街を抜け、郊外の方向へ。
線路伝いに道を歩いてゆくと、やがて高架塔の下へと辿り着く。
壁一面に塗りたくられた、サイケデリック調の色彩のウォールアート。
時折、横を通り抜けてゆく列車の振動が反響し、異様な音楽を奏でる。
そこでふと、久坂は足を止めた。
「―――――なぁ」
周囲から人が消えたのを見計らって、久坂は言った。
「居るんだろ、堀。 出て来いよ」
その久坂の言葉に、暗闇の中から、黒い服に身を包んだ痩躯の少年が現れる。
ススムだった。
病的な暗い光を秘めたその瞳孔の中に、ススムはゆっくりと久坂を捉える。
「待ち焦がれたよ、久坂」
ススムは言った。
「お前だけはサシで倒すと、最初から決めてたからな」
「俺をサシで倒すって?」
久坂は、嘲るように反芻する。
「江川や尾藤をやったくらいで、調子に乗ってるんじゃないのか? 俺は奴らとは違う。 空手の黒帯持ちだぜ」
「だからだよ」
ススムは、両の拳をゆっくりと胸の高さまで持ち上げた。
ムエタイボクシングなどでもよく用いられる、アップライト・スタイルだ。
「お前ら五人の中でも、アンタの拳が一番重かった。 打撃だけならお前は松野を上回る。 つまり、打撃戦でアンタを倒せれば、俺の力は松野にも通用するって事だ。 アンタとのタイマンは、俺がこの戦争に勝てるかどうかの試金石なんだ」
「くだらねぇ」
久坂は、それに対して無造作に左の拳を突き出して、半身に構えた。
「何が試金石だ。 テメェは今ここで砂にされて、『ヤンキー掘り』とやらの噂も今日で終わるんだ」
言って久坂は無造作に間合いを詰めてきた。
体格の利は、圧倒的に久坂に分がある。
一発や二発は貰っても構わないという、戦法だ。
順突き(ジャブ)で間合いを測り、追い突き(ストレート)で仕留める。
オーソドックスな空手スタイルだ。
久坂の左の拳が、こつ、こつ、とススムのガードを叩く。
ゴッ ゴッ ゴッ
―――――硬い。
拳が石のように硬い。
ただ間合いを測るだけの順突きが、まるで礫でも投げつけられたかのように骨に響く。
ゴッ ゴッ ゴッ
―――――これは、挑発だ。
痛覚に耐えきれず、うかつに懐に飛び込めば、狙い澄まされた右の正拳が顎を撃ち抜くだろう。
激昂に任せた尾藤や江川の戦いとは違う、理詰めの攻め方だ。
狂気に身を委ねるのではなく、あくまで冷静に。 静謐に。
まるで獲物を仕留める猟師のように。
(こいつはちと厄介だ………)
ススムは防御しながら、考える。
ススムの戦術の基盤にあるのは、『奇襲』だ。
慢心しきった相手の虚を突き、足元を崩して自分のペースに巻き込み、そのまま勝負を決めてしまう。
チーターが草食動物の虚を突き、逃げの姿勢に入る前にその喉笛に喰らいつくように、だ。
相手がただのウサギやガゼルならば、それでも構わない。
だが、こいつは違う。
こいつはまるで水牛だ。
強靭な角と、強靭な脚を持っている。
ただの被食者ではない。
肉食獣とも互角以上に戦える武器を持っているのだ。
「しっ!」
ススムは、掌底を使って左の拳を弾いた。
――――――――風切り音。
次の瞬間、雷光の速度で久坂の右の拳がススムの目の前をかすめて行った。
―――――紙一重の一撃。
まともに食らえば、一瞬で意識が持ってかれるだろう。
だが、かわした。 かわした。
その瞬間を、逃すか。
体重のかかった久坂の顎に、そのまま掌底を打つ。
カウンターだ。
確かな、手ごたえ。
打ち抜いた。 打ち抜いた。
だが、倒れない。
(何だと……!)
ススムが躊躇するも一瞬、今度は久坂の左拳がススムの鼻頭を打ち抜いた。
衝撃。
目の前に火花が散る。
ぼたぼたと、アスファルトの地面に水滴が滴った。
ススムの鼻から、血が蛇口のように溢れ出ていた。
効いてはいない。
実際、強がりではなく、効いてはいない。
だが、溢れ出る血のヴィジョンと、鼻頭に残る生々しい痛みは、多少なりとも心を挫けさせる。
久坂が先制で得たものは、そうした心理的優位だ。
ススムが仕掛ける。
左の刺し合い。
射程距離では劣るものの、ハンド・スピードは掌底を繰るススムの方が数段速い。
左で距離を測り―――――
―――――――
瞬間、久坂の後頭部が揺らいだ。
その側頭部を、ススムの右回し上段蹴りが捉えていた。
左の掌に久坂の意識を引きつけ、それを受ける左の防御の裏側から蹴りを回しこんだのだ。
蹴りの威力は、拳の約三倍。
まともに当たれば、体格差の不利も打ち消す事が出来る。
「ぐ―――――」
久坂が、膝をつく。
――――――勝機!
ススムは間髪いれずに、その顔面めがけて飛び膝蹴りを叩きこんだ。
膝頭に、太い感触が返ってくる。
効いてる―――――
もう一度、膝蹴り。
めじり、と、何かの潰れる感触が膝に伝わってきた。
しかし―――――
「!」
ススムの膝が、掴まれた。
凄まじい膂力で、脚を引きずり倒される。
同時に、重い重い一撃が、ススムの脇腹にめりこんできた。
「げはぁッ!!」
肺腑の奥から、空気が引き絞られるようだった。
内臓がひっくり返るような感覚。
それほどの一撃だった。
右だ。 右の拳だ。
久坂の右の拳が、脇腹を直撃したのだ。
礫などという生易しいものじゃあない。 まるで鉄球だ。
身体の芯まで響くようなその打撃は、意識を挫くには充分過ぎる威力を秘めていた。
ススムが息を吐き終えるまでの間に、久坂がまた拳を構える。
やばい。
かわすのは、無理だ。
痛覚で身体の感覚が麻痺している。
ススムは咄嗟に腕を十字に組む。
避けるのが無理なら、せめて受けなければ――――――
腕を組むが同時。
太く、重い痛覚がその十字を襲う。
圧倒的な。 圧倒的な打撃力。
瑣末な技術などものともしない、理不尽なまでの破壊力。
強い。
こいつは強い。
ススムは理解した。
こいつは、自分よりも強い。
それは、格闘技の技術がどうとか、運動能力がどうとかというレベルではない。
単純に、一個の生物として、一個の個体として自分よりも強いのだ。
ススムは、咄嗟に後ろに跳んで距離を取る。
密着していては相手の思う壺だ。
相手は、それを読んでいたように再び距離を詰めてきた。
久坂は、圧力に任せて相手を撃ち取るタイプの格闘者だ。
退く相手には滅法強い。
だがしかし、それこそがススムの思惑通りだった。
久坂の顎が跳ね上げられた。
下からの掌打だった。
前のめり気味に攻めに転じていた久坂に、カウンターで掌打のアッパーが決まったのだ。
突進してくる敵に対して、下からの打撃は視覚的に死角となる。
通常の打撃戦ではススムに勝機は無い。
ススムが勝つには、カウンターの取れる状況を意図的に作り出すしかなかったのだ。
再び、久坂が膝をつく。 今度こそ、効いた筈だ。
しかし、決定打ではない。
ススムの打撃は軽い。
カウンターとはいえ、久坂を一撃で戦闘不能に陥らせる威力は、ススムの打撃にはない。
とどめを刺さなければ。
今度こそ、膝で、決定的な一撃を。
ススムが身構える。
―――――――その時だった。
鋭い痛みと共に、ススムの視界が一瞬で暗闇に包まれた。
ススムが目を押さえる。
暗闇の中で、ぶつ、ぶつと、全身に焼けた針を刺しこまれるような痛みが襲った。
たまらず、ススムは地面を転げ回る。
しかし、その鋭利な痛みは、変わらずぶつぶつとススムの全身を刺し続けた。
「あはははははは! あははははははは! はははははははは!」
聞き覚えのある哄笑が、高架棟の下に反響した。
そうだ、聞き覚えのある哄笑だ。
ゆっくりと視界が回復する。
赤く染まる視界の中で、見覚えのある人影が、改造モデルガンを片手にススムを見下ろしていた。
「村井………!」
その名を呼ばれ、その金髪の男はカラーコンタクトの入った目を緩ませる。
「ひっさしぶりじゃないの、ススムちゃあん? いやいや、びっくりしたよ。 まさか、お前程度の奴が久坂をここまで追い詰めるなんて。 おい、情けねーぞ、久坂ぁ? こんなひょろいオタク野郎一人に、俺の手を煩わせてるんじゃねぇよ」
村井は、笑いながらモデルガンを掌で弄ぶ。
その村井の反対側では、顔を血に染めた久坂が立ち上がりつつあった。
「は……」
ススムの喉の奥から、乾いた笑いが昇ってきた。
「はは……ははは………」
ここまで来て。
ここまで来て、こうなるのか。
ここまで来て、ここで、終わりなのか。
前に村井。 後ろに久坂。
圧倒的な、絶望的状況。
震えと、嘲笑と、諦観と、涙が、じわじわと身体の奥から昇ってくる。
―――――――詰みだ。
「はは……絶望的じゃん……。 こいつぁまるで………
「――――――――――チェック・メイト」
村井は、笑みを浮かべながら銃口を向けた。