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アリス

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 講堂では大中小様々な使い魔とその主であるメイジがひしめき合っていた。
 空中に浮かび上がっているのはクラスの名前で、アリスはそれを目印に自分のクラスへと進んで行く。
「あ、あれが人型の使い魔よ」
「へぇ、珍しい」
「意外と凛々しい顔ね」
 噂のようなものはある程度あるらしく、ユウトは背中の蒼剣に身を隠す思いだ。
「気にしないでいくわよ」
 万年噂の種だったアリスは微塵も気にしていないのか、慣れているのか臆面もなく自分のクラスへ入った。
 来賓がなんとか様であるだとか、生徒会長の挨拶がどうだとか、退屈なのはこちらの世界でも変わらないようであった。
 そして、シーナの姿はここにはない。
「では、只今を持って三学年を除くここにいる全生徒の進級を確定する」
 わっと喝采と歓声に包まれる空間。
 ユウトは一瞬どういうことか理解できなかった。
 つまり、シーナは進級をしていないということになるのか。
 ユウトの中で音との距離が大きく間延びしたように感じた。
「シーナは、ユウトにだけは黙っていてほしいって。そう言っていたわ」
 アリスの声だけがはっきりとユウトに聞こえる。
『……気にしないでください、なんともありませんから』あの言葉は嘘だったのか。
 いや、なんともないのはシーナの心の方だったのか。
 言いしれぬ虚無感がユウトを襲う。
「つまり、あの蒼髪は落ちたっていうの? はっ、馬鹿みたい。あり得ないでしょ」
 雑多の中、声の主はセイラだった。
 ユウトは激情に任せて掴みかかろうとする。
「待ちなさい、ユウト」
 スーシィはユウトの前に割っては入った。
「シーナを最後に落としたのはこの私よ。それが、最善の判断だった」
「なんだよ、最善って。落ちる必要なんかなかっただろ……」
「いいえ、彼女、シーナはね、最後に言ったわ。やっぱり人から奪うことはしたくないって、そしてあなた、ユウトにもそれと同じように否定されたからって」
 俺はいやだよ! という言葉がユウトの中で想起する。
「でも……その後にちゃんと協力するって言ったじゃないかっ」
「それはそれ、シーナは他にもリリアを召喚したことでユウトを傷つけた結果を悔いてる」
「そんな……」
 現にクエストどころか、起き上がることすら出来なかったことを指摘され、ユウトは言葉に詰まる。
「では、これで閉式とする」
 気がつけばフラムの声に講堂は呼応するように色彩を変える。
 波ゆく人の中、木造りの壁が見えるほどに辺りは閑散としていった。
「行くわよ」
 ユウトは納得できないままにアリスの後ろを行く。
 廊下をしばらくいったところでスーシィが唐突に言った。
「じゃあ、これから私は荷造りがあるから」
 おかしなことを言うとユウトは思った。
「何処かに行くのか?」
「野暮用よ。薬の材料も切れたし、私は私で少しこの体の変異について詳しそうな知人を当たってみるつもり」
 アリスは? というスーシィの問いかけにアリスは片手をひらとさせて、
「私は学園が家みたいなものよ」と素っ気のない返事をする。
 聞けば新学期前には長期休暇があるらしく、スーシィは暫く学園を離れるらしかった。
 部屋へと戻ったアリスは少し一人になりたいとユウトを追い出す。
 最後に見た時よりもアリスの部屋はずっと白けて埃がたまっているように見えた。

「シーナに会わないとな……」
 ユウトはまだシーナの口から納得のいく言葉を聞いていない。
 せっかく学園で出会うことが出来たのに、このままではまた離れる日が続くのだ。
 シーナの部屋の前までいき、扉をノックする。
「どうぞ――」
 部屋の中心にはリリアがいて、シーナは机の上で読書をしていた。
 シーナの部屋は最初よりもずっと物が増えた。
 そんなことに今頃気がつくユウトは少し恥ずかしくなって視線を下げる。
「シーナ、進級のことなんだけど……」
 ユウトが口を開くと、シーナは努めて明るく笑った。
「もう気にしないでください、この学園では留年も珍しいことじゃないみたいですし」
 来年受かれば良い。そういうつもりでシーナはいる。
「私もようやく事態が飲み込めてきたところだ。これが適応力……というやつか。まぁ、来年は私がいる限り確実だろう」
 リリアは目尻の強い眼で軽く微笑んでみせる。そういう表情もできるのだとユウトは思った。
「そうか、それなら安心だな」
 リリアは強いし、意外としっかりとしているとあの三週間でユウトは感じている。
 ほっとすると同時に軽くまとめられた荷物に目がいく。
「あ、それですか? 一旦ジャポルの方へ戻ってレミルに顔を見せておこうと思ってるんです」
 どうやらユウトの心配は杞憂だったようで、シーナはしっかりとこれからのことも考えている。
「聞いてます? ユウト」
「あ、うん。そうだな、何かあったらアリスに連絡してくれ」
 はい、と意気の良い返事がユウトの心を少なからず晴らすのだった。
 それからユウトも一人部屋へ戻る。
 部屋の前でルーシェが待っていたが、ユウトは早く休みたい気持ちで一杯だった。
「ごめん、ルーシェ。また来てくれる?」
「え、うん……ごめんね」
 ルーシェは目を白黒させていたが、ユウトに気遣う余裕はなかった。
「はぁ。シーナは留年か……」
 自分の軽率な動きが、ありようがない結果を招いてしまったことに怒りと虚無感を覚える。
 皆、この休みの間に様々な思惑で学園を離れるらしく、ユウトはアリスがこのまま学園で過ごすのが何となく勿体ないようにも感じた。
「…………」
 ドアがノックされ、黒い頭が隙間から覗く。スーシィの姿は少女そのものだが、実年齢はユウトたちより一回りほども上だ。
「じゃあ私はこれで発つけど、アリスと自分のことしっかりね」
 それを思わせるようにスーシィには誰がどんな状態かしっかりと見ている。
 ユウトは一瞬考えたが、やはりそういうことなのだと納得する。
「わかった、スーシィも気をつけて」
 わずかに口元で微笑むとスーシィはそのまま廊下の角に消えた。
「いくか……」
 アリスをこのままにはしておけない。少なくとも、このままアリスが何もしないでいることはあってはならないのだとユウトは発起する。
 廊下を出ると、丁度カインとリースが手荷物を持って通り過ぎるところだった。
「アリスの使い魔……か」
 カインは歩を止めてユウトを感慨深そうに見つめる。
「なんとなくだが、お前が使い魔である理由がわかった気がするよ」
「これから帰郷でもするのか」
「まぁ、そんなところだな。一時は停学にまでなったんだ、当然だろ?」
 振り返ればカインもアリスには入れ込んでいたような気がするとユウトは思った。
「これ」
 リースは手を差し出して一つの小瓶を取り出した。
 中には同じ大きさの四色の小石が入っている。
「マナにおける四つの属性は世の万物が全て均衡を保つように出来ているらしい。それはマナを模した石でね。安泰や静穏を願うお守りみたいなものだ」
 本来は受け取り側が逆なんだけどな、とカインは笑って言った。
「ありがとう」
「ぼ、僕じゃないぞ。それはリースが勝手に用意したものだ」
「誰もカインには言ってないぞ」
「ふん、まぁいろいろあったが僕は謝るつもりはない、せいぜい新学期もよろしくな」
「ああ」
 これがカインなりの謝辞なのかと思うとユウトはどこかこみ上げてくるものがあった。
「あ、それと……」
 カインが思いとどまったようにユウトから数メイル離れたところで立ち止まる。
「どうした?」
 わずかな静寂に何か不穏を覚えながらもユウトはカインから視線を外せない。
「……アリ――いや、なんでもない」

 カインと別れた後は行き交う生徒たちの中からユウトに話し掛けてくる者も多かった。
 そんな中でも、ランスの一行には相変わらず気後れしてしまう。
「やあ、ユウト」
 相変わらず女子生徒を侍らしてランスの美貌と人気は留まるところがないようだった。
「元気そうだな、ランスはどこか行かないのか」
 軽く前髪を払って見せるランスは女子生徒の群れより歩み出でる。
「それを今考えていたところだ。何せこちらは団体だからね、無計画にことを進めてはし損じるということもあり得る」
「相変わらず遠回しなんだな……」
 そこでだとランスは持ちかける。
「君さえ良ければ、僕らと一緒に来ないか? 何せほら、こちらは女子ばかりで流石の僕も隙が生まれるというものだ。君とは知らない仲ではないし、護衛ということも兼ねてくれるのなら是非共にパライソへ」
 パライソ(楽園)? ユウトは首を傾げたが、それはできないと言うしかなかった。
「……主人の面倒を見るのか?」
 ランスの言葉にユウトは頷きで返す。
「僕みたいな奴では、ついに何も出来なかったと痛感するよ。くく」
「どういう意味だ?」
 ランスは自嘲気味に笑う。
「彼女の目は初めから死んでいた。ということさ。特に君に入れ込むようになってからはまるで――」
「ランスさまあ、はやく行きましょうよ」
 周囲の女子たちはユウトとランスの会話がつまらないようだった。
 そう言った女子の一人をなだめるとランスはユウトに向き直る。
「ごめんよ、僕は一度諦めた女性には一切の執着を持たないんだ。ま、今のは聞き流してくれ。未練たらしいと思われるのは心外だからね」
「それじゃ後は任せた」などと思わせぶりな言葉で場を後にするランス。
 なるほどアリスの部屋の近くまで来ていたのかとランスが去ってからユウトは気がつく。
 廊下の突き当たりからアリスの部屋が見える。
 辺りに人通りはもはや無く、そこだけがぽっかり取り残されたように寂しく鎮座していた。


 ノックの音をかき消す喧騒も今はもうない。
「――どうぞ」
 アリスの声はいつも通りだし、機嫌も良ければいいなどとユウトは勝手な願いを込めてノブを捻った。
「俺だよ」
「知ってたわよ」
 ユウトがどこに落ち着こうか考えているときにアリスは言った。
「今までユウトは何回この部屋に来たと思う?」
「さあ」
「普通は数えないわよね、でも私は数えてた」
 それが何を意味するのか、ユウトにはわからない。
「研究室に行きましょ。しばらく何もしてないからきっと大変なことになってるわ」
「え、でも研究室はもう……」
「いいから、行くのよ」
 廊下で先陣を切って歩くアリス。
「そういえば、しばらくシーナもスーシィもあのルーシェって子もいないの?」
「あ、うん。ルーシェはわからないけど、他はみんな出払っちゃったな」
「……そう」
 それきり何も言わずにただ重たい沈黙が流れる空間を二人はひたすらに進んで行った。
「…………」
「意外と早く着いたな」
 奥まった廊下の先で一つの扉を前に二人が立ち止まる。
 ゆっくりと押し開けると油の切れた蝶番がぎいぎいと高鳴り、古くさい本の臭いが鼻腔を突くのがわかる。
「案の定、酷い有様ね」
 アリスはそんな中をマントや制服が汚れるのも構わずに丁寧に散らかった本を片付けていく。
「これと、これは……」
「そういえばここにある本、アリスはこの本を集めたりしたのか?」
 ユウトは埃まみれのアリスへ遠巻きに問いかける。
「そうよ、入学してからずっとね」
 最初に来たときはただの散らかった部屋にしか思わなかったが、よく見ると後ろの本棚は奥に連なっており、本棚だけでも軽く十はあった。
 数十人入っても狭くないようなスペースの部屋に本棚が十架とは、ユウトにはアリスの努力が一体どれほどのものだったのか、想像もつかない。
「一体何をこんなに研究してたんだ?」
「…………」
 無視というわけではないようだが、言いたくないことなのだろうか。
 ユウトはアリスの体に刻まれた呪術も含めて、何か繋がりがあることを期待したのかもしれない。
 しかし、それは意外な一言で打ち消される。
「ここで調べていたことは、全部魔法とは関係ない」
「…………?」
 それに、とアリスは続ける。
「もう知りたいことは見つかったから」
 アリスの表情はよくわからないが、どこか気の抜けた諦めのような音が紡がれた。
「知りたいことって?」
 ユウトは尚も問わずにいられない。アリスがどこか遠くにいるような気がしたのだ。
「あんまり意味のないこと。知ったところでどうにもならないし、私が選ぶわけじゃないし、ただ――」
 そうねと言った時、アリスは小さくくしゃみをした。
「っあんた元の世界に戻れるっていったらどうする?」
 足下が崩壊したような動揺がユウトを襲った。
 それは、魅力的なのか、または蠱惑的なのか。一瞬のうちに頭がスパークしてしまったかのようにユウトはそのまま答えることができないでいた。
「戻りたいか、戻りたくないか。簡単でしょ」
 簡単なわけがない、とユウトは強く思う。五年の歳月はユウトにこの世界も許容できる心を抱かせてしまった。
 同時に元の世界に未練がないというのは嘘だった。父も母も今は恋しいし、それを想い何度涙をしたことかもわからない。
「本当に、戻れるのか?」「ええ、戻れるわ」
「今すぐにでも?」「……必要ならいつでもよ」
 そんなことを今更言うのかとユウトには黒い感情も同時に沸いた。
「せめて最初のうちに戻すとかできなかったのか」
 するとアリスは一瞬声を震わせる。
「それが、一番だったかもしれないわね」
「……ごめん、何いってんだ俺」
 間をつなぐように手伝うと言ったユウトの言葉は端的に断られる。
 最初のうちに戻す方法なんか知っていたら足手纏いと感じた時、訓練所なんかに送らずそのまま戻していたはずだ。
 つまりは、あの時点ではわからず、今になってわかったことなのだろうとユウトもようやく冷静な頭が戻ってくる。
 アリスの片付けは夕暮まで続き、後半はユウトも雑巾がけなどやっていた。
「それじゃ、ご飯にするわよ」
「?」
 ユウトには理解できない。アリスが今までユウトを食事に誘ったのは雨の日(ヴォワ・マンジェ)と呼ばれる使い魔の追悼日だけだ。
 それもただの一度だけで、それ以降はない。
「何変な顔してるの? 生徒はほとんど出払ってるんだから自炊するのが当然よ」
「ああ、なるほど……え? 出来るのか?」
「なっ――あんたねぇ……」
 万年居残り組だとしてもそれを公に自慢するわけにもいかず、当然でしょの一言でアリスは語った。
 制服から私服に着替えたアリスはユウトと共に調理室に向かう。
 誰にも会わない学園内はまるで別世界だとユウトは思う。
 日はとうに沈み、廊下を照らす光りはいつもより数段うす暗い。
「薄気味悪くないか」
「いつものことでしょ」
 アリスが手際良く調理を始めると、ユウトはどうしていいのかわからなくなってしまう。
「あんた、まさか何もしないで食事にありつこうとか考えてないでしょうね」
「いや、そんなことはないけど」
「なに?」
 アリスはまじまじと見られていたせいか、怪訝な表情をみせる。
「何をしたらいい?」
「そうね……食器でも出して」
 ユウトが食器棚から帰ってきた頃に、アリスはいよいよ怖い表情で料理を火に通していた。
 あまりに真剣なその顔は逆に不得意なものに挑む姿に似ている。
「よし、できた」
 一連の動作はいったりきたりの非効率なものだったが、出来映えは上々だった。
 ユウトの選んできた食器は少し大きかったようで、返って料理が強調される盛りつけになる。
「この料理名は?」
 見たところ、何一つのアクセントもなく、食材は全てみじん切りで火を通しただけの山だった。
「……あえていうなら混ぜものよ」
「確かに……」
 それはつまり創作を意味していた。ユウトの世界でいうならチャーハンかもしれない。
 アリスと二人きりの食事というのもなんだか妙なことだったが、ユウトは不思議と嫌には思わなかった。
 それでも一口二口と口に運んでいるうちに食器は空になってしまう。
「ごちそうさま」
 ユウトはとりあえず、この料理に及第点をつけることにする。
 味は謎の味覚祭りが舌の上で起こるのだが、それぞれの食材が絶妙な焼き加減でまずくはない。
 ただ、この多種に渡る野菜をもう少しなくして、わずかな味のメリハリをつければユウトとしても充分納得できるものになるだろうと心の中で評価した。
「どうだった?」
 しかし、目の前の少女はそれを暴露しろと言う。
 ユウトはこれを包み隠さず言った後のことを考えて、どうするべきか悩んだ。
「これは……」
「これは?」
「旨いと思う」
 自然と口から出たのはそんな言葉だった。
 というのも、ユウトはこの味に努力の深さを見た気がしたからだ。
 この料理を普通と言ってしまうのは簡単だ。だが、ユウトは何の知識もない状態から生み出す普通を普通とは呼ばないことを知っている。
「それ、嘘でしょ」
「え?」
「私、これがおいしいとは思ってない。ただ、これ以上のものが作れないから仕方なくこれだけを作ってるのよ。本当においしいっていうならあんたの舌がおかしいのかもね」
 アリスは自嘲気味だった。
 生徒がいなくなって、肩肘を張る必要がなくなったのがアリスをそうさせたのかもしれない。
 それでもユウトはそんなアリスは見たくないと思ってしまう。
「…………これが、おいしくないなんて、そんなのあり得ない」
 低い声が静寂を揺らす。
「……あによ」
「努力して得たものが、例え一級品じゃなくたってそれは立派な一品だっ。それがまずいはずがない!」
 あれだけの種類の野菜に均等な火加減を加えることは一朝一夕にできることではない。
 それがわかってしまったユウトはその努力をゼロと評価するアリスに腹立った。
 ユウトはアリスが目を白黒させているのを見て我に返る。
「ご、ごめん、別にアリスの料理のことを言いたかったわけじゃないんだ」
「いい、わかってるわよ」
 アリスはどこかよそよそしく食器を片付け始めた。
 こんな料理であんなに息巻くなんてバカじゃないの……アリスはそう思いながらも動揺を隠しきれずにいた。
 自分をそんな風に見てくれるヤツがいる、それだけでアリスは嬉しくなるのだった。
 部屋に戻るとアリスはこんなことを言い出した。
「暇だからちょっと付き合いなさいよ」
 普段なら絶対に言わないような誘いをアリスからしてきたので、ユウトは少なからず裏があるのではないかと勘ぐってしまう。
 剣を部屋に置きに戻ると、ルーシェがいた。
「ルーシェ? 今までどうしてたんだ」
「……後にっていうからその辺を散歩してたよ。今は暇?」
 これからアリスの部屋にいくことを告げると、ルーシェの眉はわずかに動いた。
 しかしそれは廊下の薄暗い明かりのせいだったかもしれない。
「それじゃあ、おやすみなさい」
 また明日とルーシェは背を向けて駆けていく。
 そういえば、ルーシェはどうして学園が休みになっても残っているのだろうか。
 まさか、本当に学園を辞めた扱いになっているのではないかと考えた頃にはルーシェの姿は廊下の角に消えていた。
 身支度を済ませたユウトは普段なら行く理由もないアリスの部屋を叩いた。
「空いてるわ」
 いつも通りのアリスの声がユウトの背中を押す。
 正直、アリスの寝間着姿はジャポルで負傷した時以来見ていない。
 ネグリジェの下には純白の下着が着込んであるのが見える。
 前もそうだったかと思い出そうとしても記憶にない。
「寝る前で悪いんだけど、あんたに来て貰ったのはちょっとした実力を見るためだから」
「実力?」
「そ、まぁスーシィから教えて貰ったんだけどね」
 そういって取り出したのは金色のボールだった。
「ちょっとこっちにきなさい」
 ユウトはおもむろに頭の毛を抜かれる。
「――いっ」
「これをこうして……」
 手のひらほどの玉は綺麗な黄金色だが、アリスがなにやら手を加えると独りでに地面へ降り立った。
『使い魔の実力判定をします――ターゲットは所定の位置についてください』
「その金色のボールを破壊すればいいだけよ」
「え、急にそんなこと言われてもな……」
『タイプ、人間型。種族、不明。特性、不明。判断基準が存在しないため、ステージ5より判定を開始します』
 するとボールはユウトの足下まで勝手に跳ねてくる。
 足下から目の前まで上下に跳ねるボールはまるで取られるのを待っているかのようだ。
「これを壊していいのか?」
「ええ、気兼ねなんていらないらしいわ」
 ユウトは剣を置いてきたので、とりあえず素手でこのボールに接触を試みる。
 ばしゅっと空気を裂くユウトの右腕がボールの軌道を捉えた。
『スピード判定、Cクラス。ステージ7に移行します』
 ぐおおおんとユウトの手の内にあったボールは音を上げて外へ出る。
 三回その場で跳ねると、今度はユウトの周囲を飛び回るように跳ね出す。
 その軌道は物理法則から外れたもので、向こうへ行ったと思えば後ろから出てくるような具合に速いというより、瞬間的に移動しているようだった。
 ユウトは瞬時に目で追うことをやめる。
 漠然とした軌道の中心を見極めて、そこを訪れるタイミングで拳を突き出すだけだ。
 ばきという音がアリスの部屋に響く。
「っきゃ――」
 破片はアリスのいるベッドの方まで撥ねたようだ。
『パワー判定、Aクラス。ステージ9に移行します』
「さっきからこのクラスってなんだ」
「今だとそうね、3の使い魔と同等ってことらしいわ。スーシィの見立てではあんたはその上の4ってことらしいけど、なんかだめみたいね……」
 期待はずれということだろうか。ユウトはもう少し真剣になろうとする。
 金色の玉はビーズのように細かく分裂し、無尽蔵に動き回っている。
 どんな動きでこようとまとめてたたき壊すという気概とは裏腹におかしな声が上がった。
『全部でいくつあるか、答えなさい』
「――は?」
 これを数えろと言うのだろうか。まるで数の子のようにひしめく玉は肉眼では捉えきれない。
 百……二百……、ユウトはそれでも期待に応えるべくその動きを把握しながら数を数えるが、途端に光りは集束して一つになる。
「さんびゃ――」
『時間切れです』
「えぇっ!」
「ふぅ、終わったみたいね」
 アリスは地面に転がったそれを拾い上げると机の中にしまった。
「結果は……?」
「全部言ってたでしょ。あれが全てよ」
 3の使い魔止まりということという事実を突きつけられたようでユウトは少し悔しい。
「こういうの何ていうのかしら、修行不足?」
「うっ――」
「それじゃ、もう寝るから出て行って」
 結局寝る前に変な汗をかいただけになったなとユウトはアリスの部屋を後にして思った。
 
 ユウトのいなくなった部屋でアリスは机の中のものを取り出す。
 先ほどしまった黄金の玉は未だ光り続けたままだった。
『契約解除における存命時間を算出します――』
 アリスの部屋で、一つの声が響き渡った。
「…………やっぱりやめよう」
 アリスはそっとその魔導具をしまった。ユウトの実力を正確に分析したところで、使い魔として新しい主を捜すのには時間が必要だった。
 アリスは部屋の明かりを消して、そっとネグリジェの下の不格好なシャツをまくり上げる。浮かび上がった魔法陣をアリスは見ていた。
 空の大きな月明かりがアリスの部屋に冷たい光りを差し込んでいった。

246, 245

  

 次の日、アリスは早朝から慌ただしくユウトの部屋を訪れた。
 朝の鍛錬を欠かさず行うようにしていたユウトは思わぬ人物に狐に摘まれたような顔で、アリスを見返す。
「どうせなんだから、隣り街まで遊びに行きましょ」
 今すぐよと息巻くアリスにユウトは少しばかりの不安と期待を寄せて学園を出た。
 しかし、アリスの機嫌はある人物によって損なわれる。
「――あんたが何といおうと二人だけよ」
「でも……」
 学園門の前で薄黄色の髪を揺らす碧と翆のオッドアイはルーシェの姿だった。
 誰もいない学園に制服で佇むルーシェは、一人時間が止まったかのようにユウトとアリスの顔を見比べている。
「でももだってもないッ。ユウトは私の使い魔よ」
「ユウトが断れば私は構わないよ、けど……旅先でフラムの術が発生してしまったら、どうするの?」
 ルーシェはただユウトのそばにいたいのではなく、自分が大会で掛けてしまったユウトへの呪いについて心配していた。
「まだ大会が終わって日が浅いし、このまま発てば無事ではすまないかも……クラスの全生徒が参加した術がどれほどの規模でユウトに働いているのかわからないんだよ」
 ルーシェは諭すようにアリスを説得するが、アリスは眉間に寄せたシワを戻さない。
「せめて、フラムに術を解いて貰って」
「そうだな、一応フラムに会ってから――」
「ッるさい!」
 アリスの中で何かがはじけ飛んだ。
 自分の思い通りにならない焦燥感と、刻一刻と募る不安の塊。ほんのささやかな時間すら手に入らない現実。
 学園に人気がなくなったことで、アリスは気丈な振る舞いで普段抑えていた感情がわずかに漏れてしまった。
「私の邪魔を……しないでよ……」
 ユウトにはアリスが何故そこまで怒るのか理解できないでいた。
 ルーシェもそれは同じで、アリスを怒らせてはユウトにも迷惑がかかると思い口を噤む。
「……わかった、行こう」
 アリスは俯いたままユウトの後ろを歩き出す。
「いいわよ、学園長に会ってくる……」
 そう言い残して一人学園へ戻っていくアリス。
 気まずい雰囲気がルーシェとの間に流れる。
「あの」「あのさ」
 お互いによそよそしく声をかける二人。
「ルーシェの方からでいいよ」
「あ、うん。……えっと、私もう行くから……」
「え? 一緒に来ないのか?」
「フラムに会いにってことは、私がいちゃ嫌なんだろうし……」
 それくらいわかるよとルーシェはぎこちない微笑を見せた。
 ユウトはそんなルーシェに疑問をぶつける。
「その、ルーシェはどこか学園の外に会いに行く人とかはいないのか」
 ルーシェの微笑が消える。
「私、迷惑だった?」
 捨てられた小動物を思わせる崩れ顔にユウトは慌てた。
「いやっ、そういうわけじゃない」
 ユウトはルーシェのことが気になっただけだった。肌寒い風が二人の間を吹き抜ける。
「そうだな……ルーシェはあの後どこへ行ったんだ?」
 大戦後に姿を消したルー。
 ドラゴンである目の前の少女は一度ユウトの前から姿を消した。
「私はあの大戦でお母さんを助けるために戦ってたの」
 聞けばイノセントドラゴンの血統はある時代を境に代々人間に姿を化けさせて生きてきたという。
 それが、不意の事故で母親の正体がイノセントドラゴンであると父親である夫にばれてしまう。
 最愛の妻が人間ですらないと知った父親は母とその子であるルーシェを酷く恐れ、国へ密告。そこから事態は急変していった。
「でも、ユウトは私がドラゴンになって喋っても全然平気そうで……一緒に命までかけてくれた……」
「それは、俺はこの世界の人間じゃないしな……」
「私だって似たようなものなの。人間の姿で子は残せるけど、人間じゃない……お母さんはそれを隠せっていうけど、私はそんなの嫌なの。だからユウトに――」
 不意に空間が歪み、白衣の老人が姿を現す。
「ほっほ、丁度そろっておるようで手間が省けたわ」
 フラムは白髭をひとなですると二人を交互にみやった。
「何か蜜語の途中だったのかの? 月下老人にはちと早いのう」
「いいから、話しを進めて頂戴」
 アリスは後ろから現れ、ユウトの手前へ行き、フラムとルーシェを見るように立つ。
「ふむ、告白大会での話しじゃがの、あの効果は切らせてもらうことにしようと思う」
「…………」
 ルーシェは何も言わずにフラムを見ていた。
「ただしじゃ、アリスの行く先にはミス・ラグランジェルの使い魔をつけて行って貰うのじゃ」
「は? なによそれ」
 アリスの反発にフラムは低い声を上げた。
「何か問題あるかの?」
「い、いえ……」
「お主らも知っての通り、ミス・ラグランジェルの強さは一流のメイジにも匹敵するじゃろう。そしてその使い魔は先の戦いで凄まじい強さを持っておった。護衛と利便性を考えれば完璧じゃ」
「……いいの?」
「良いぞ、ワシが許可する」
 かくして遊びに行くという行為はユウトのみぞ知るルーシェとアリスの三人で行くことになった。
「それじゃ、呼んでくるから」
 ルーシェは気まずそうに校舎裏の森へ消えていく。最後にユウトに見せた小さな微笑みが哀しげだった。
「そういえば、前回は召還したんだっけ? あの時ルーシェはどこにいたのかしら」
「さぁ……?」
 しばらくして上空からドラゴンが降り立つ。
「クルル……」
「なんか元気のない使い魔ね。こんなんで大丈夫なの」
 ルーシェはドラゴン化したものの、やはり騙しているのは気が引けるのか目を伏せていた。
「ほっほ、吉報を待っておる」
 ルーシェの翼が横に開かれた瞬間マナの気圧が高まり、わっと上昇する。途端にアリスが歓声を上げた。
「えっ、何これ凄い! スーシィやフラムのドラゴンよりずっと乗りやすいわ!」
「クゥ」
 辺りに充ち満ちたマナの大気はアリスたちが感じる風の一切を遮断し、安定した飛行に徹している。
 ユウトはルーシェがムリにそうした飛行をしていることを感じて少し気が重たくなった。
「――無理しなくていいんだぞ?」
「……」
「何よ、無理って」
 アリスは顔をしかめてユウトを見るが、ユウトには視線を逸らすくらいしかできない。
 あっという間に学園の姿は小さくなっていき、山々が連なる上空を飛行する。
「そのまま真っ直ぐ行ったところにあるはずよ」
 渓谷の間をくぐりながら見えてきたのは広大な海とそれに隣接する断壁の上に並ぶ街並みだった。
 中央には緩やかな傾斜があり、二つの巨大なU字型の港が構えられている。
「立派な都市じゃないか」
「凄いでしょ、この国の色んな物資がここから飛び交うのよ」
 ジャポルは陸の上にありながら世界一の国だと言われていたが、普通は逆で港が最も栄える街になるだろう。
 ユウトはそんな疑問をアリスに投げかけた。
「今じゃジャポルが世界一なのは力と富だけよ。物資の種類はそれなりにあるけど、こういった港には質量で全然及ばないでしょうね。それでもお金の為にみんなジャポルに商いをしに行きたがる、物価が高いから。結果としてジャポルは全ての国を中継するような大都市になったわけ」
 普段いろんな勉強が残念なアリスはやけに流通には詳しかった。
 ユウトより賢いことが主人としての矜持を取り戻させたのか、アリスはその後上機嫌で宿へたどり着いた。
「はぁ、疲れたわ」
 ルーシェの使い魔が街に入るのを拒んだために森から歩くはめになった。
 イノセントドラゴンであることはばれなくても、新種のように思われてしまっては大変なことになるだろう。
 ユウトはルーシェの行方が心配になりながらもアリスとこうして森を降りて宿まで歩いたのだった。
 黒のワンピースに身を包んだアリスからはわずかに火照った気が上がっている。
 ユウトに部屋まで荷物を運ばせると同時にお風呂を済ませたらしい。
「ジャポルで止まった宿よりはマシね」
 白壁に華柄の装飾が施された部屋はベッドとテーブル以外にこれといった物は置かれていない。
 森から歩いて来た途中で日は沈んでいたので、アリスとユウトは活動を明日にすることにした。
「何て言うか、ようやく解放された気分」
「そうだな」
 そう言うとアリスはベッドへ潜り込んでしまった。
「あんたも汗を流しておきなさいよね!」
 何かをはぐらかされたような気もするが、ユウトはこの世界に来てから風呂というものがあまり一般的ではないことを知った。
「学園は風呂があるんだよな……」
 マナ入りの怪しい風呂だが、疲れを取るには大変優れた風呂だ。
 そうこうしているうちに脱衣所に来たが、どうも様子が変に見える。
 のれんが男女で分けられていない。
 見ると入り口の片隅に男女別に時間が割り当てられていた。
「これを見てアリスは先に入ったのか……」
 丁度アリスがあがった辺りで女性の入浴時間は終わっていた。
 のれんをくぐり入ると何だか妙な気分になる。
 間違えていないか時間をもう一度確かめようかと思いつつもユウトは脱ぎ終わってしまう。
「いや、人の気配がするせいか」
 湯気で中は見えないが、さきほどアリスが出てすぐに入った男がいるようだった。
 ――ガラガラ。
 なじみのある音を立てて湯気の中へと突き進む。
 しかし、直後ユウトの体は凍り付いた。
「え……」
 薄黄色のセミロングが視界に飛び込んできたのだ。
 後ろ姿のそれは見紛うことなく女の子のものだった。
 歳はアリスと同じくらいか、それより下だがかなり危機的状況にあることは間違いなかった。
 戻ろう、そう思った時だった。
 気配でも感じたのか、目の前の女の子は振り返ってしまう。
「…………」
 一瞬叫ばれるかと思ったが、その気配はない。
 しかし、女の顔はみるみるうちに上気し、たまらず俯いた。
「ごめん、すぐ出て行く」
「待って」
 聞き覚えのある声がそこから発せられた。
「……ルーシェ?」
「うん」
 それでも彼女を正視することができないユウトは後ろを向けながら話し掛ける。
「入り口の案内を見たか? あれによるとここはもう男湯になるみたいで――」
「私の記憶ではまだしばらく時間があったはずだけど……」
「え?」「え?」
 ――ガラガラ。
 まずいと思ったユウトは咄嗟に水浴びをしていたルーシェを抱えて岩場の影まで飛んだ。
「ひゃっ――」
 ルーシェが本当はドラゴンでなければ絶対に出来ない行動だった。
 今は人間化しているが、ドラゴンだと思えば容易くそれは行動に移すことが出来たのだ。
「な、なんで私まで」
「男だったらどうするんだ?」
 裸で接触している恥ずかしさはルーシェが一入だった。ユウトも相手が本当はドラゴンとはいえ今はただの女の子だ。その肌の柔らかさに思わず意識してしまいそうになる。
「んっ……でもユウトだって――」
「しっ」
 ユウトは入ってきた気配を確認すると、それは小さな子供の姿をしている。
「なんだ、子供か……」
 しかし、性別が分からない。頭にタオルを巻いているせいだ。
 顔立ちも遠くてよくわからないでいた。
「確かに入ったわよね」
 よく聞く声のようが気がして、ユウトは目を懲らしてみる。
「せっかく用事が早く済んで、ユウトの生体を調べるための格好の機会だったのに、どういうことかしら」
 スーシィだ! ユウトは確信した。
 何故かはわからないが、スーシィに後を着けられていた。
 そしてスーシィはあろうことか杖をタオルから取り出して呪文を唱え始める。
「Leye o navelia(剪定の眼)」
 わっと湯気が消え、スーシィの目の前にマナで作られた球体が出現する。
「ルーシェ、まずい、俺たちが隠れているのがバレる」
「でもどうしたらいいの」
「あれはマナの流れを見る魔法だ。ルーシェの周りに流れてるマナを察知されたら終わりだ。なんとかその辺を上手くする魔法を――」
 ルーシェは頷き、杖を持たない状態で詠唱を始める。
「――Ma kekuaiur(皇帝の審判)」
 ぽこりという音と共に急激に視野が低くなる。
 声が出せなくなり、息苦しささえ感じたユウトはルーシェに助けを求めようとした。
「ゲコゲ……」
 ユウトは聞いたこともないほどおかしな声を発した……。
 
「!」
 スーシィが何かに気がつく。
「おかしいわ、こんな旅館の一角に街を吹き飛ばすほどの魔法を使った痕跡があるなんて……私の魔法がおかしくなったのかしら」
 そこはユウトたちが先ほどまでいた岩場の影だった。
 スーシィの魔法がマナの動きを読み取り、そこに暴走した環境マナを捉えている。
「……そろそろ誰が入ってくるとも限らないわね」
 スーシィは物足りない顔をしながら浴場を後にした。
「はぁ……」
 気のゆるみと同時にルーシェのかけた魔法が解かれる。
 そこは最初の岩場と反対に位置する岩場。
 ルーシェとユウトはここで動物に化けていた。
 ――ぼん。
 ユウトは一瞬のうちに視界が高くなるのを感じた。
「うわっ――」
 覚束ない脚に思わず倒れてしまう。
 勢いがてらにルーシェのほうに倒れたユウトは覆い被さる。
「……あっ……」
 ルーシェの顔が上気し、ユウトも徐々にその行動のなんたるかを理解する。
「ご、ごめん」
 慌てて離れるもルーシェはどこか呆けたように無言のままだった。
「あの、あのね、私は――」
 その先の言葉がユウトには聞きとれなかった。聞き返すとルーシェは一瞬少し悲しげな表情をした後に湯泉から出て行ってしまう。すっかり待たせたアリスのことを思い出したユウトだったが、戻ってみればアリスはベッドの上で小さく息を立てていた。



 次の日、なかなか起きないアリスを見かねてユウトは一人街の中を散歩していた。
 浴場で言ったことは結局なんだったのか、あの後からルーシェは顔を真っ赤にして慌ててどこかへ行ってしまっていた。
「大事……なのかな」
 ユウトは街角を曲がり、停船所へいく。
そこでは今まさに船が入ろうとしているところだった。
「へぇ……」
 広大な海をバックに独特な雰囲気を持つこの停船所は大きな活気に満ちあふれていた。
「どいたどいた!」
 ユウトの背後から筋肉質の巨漢と大の男が数十人がやってきて港の淵へ走っていく。
 停船した船に足場を掛けながら巨漢は指示を叫び、迅速な行動を開始する。
 積み荷はほとんどが木箱に入っており、何が運ばれているのかわからなかった。
 ユウトはそのまま立ち去ろうとする。
「兄ちゃん、ちょっと待ちな」
 その声にユウトは振り返る。巨漢が一人腕を組んでユウトを睨め付けていた。
「その格好、この辺のもんじゃないだろ。どうだ、バイトがてらに手伝いでもしないか」
 意外な台詞にユウトは思わず目を白黒させる。
 思えばユウトはアリスと会ってからは一銭も所持していなかった。
 少しくらい自分のお金がなければこれから必要になることが来るかもしれない。
「少しくらいなら」
「お、話しのわかる兄ちゃんだな」
 男は嬉々としてユウトを迎えた。
 どうやら人手は相当に足りなかったらしく、ユウトは一人で木箱を何百と積み降ろした。
「はぁ、いい体してるとは思ったが、予想以上にやるじゃねぇか」
 汗一つかかずにそれだけの仕事をやり終えてしまったユウトはしまったと思いつつも男の賞賛を素直に喜んだ。
「役に立てたようで良かった」
「役になんてもんじゃねえ、このままうちで雇いたいくらいでぇ」
 そういって男は気前よくユウトに十ゴールドを握らせた。
「え、こんなに……」
「ははは、あの働きに比べたら少ないくらいじゃないか。この先どこかで働くことがあったら是非うちに来てくれ」
 快活な笑いを飛ばすと男は貿易商人のところへ歩いて行った。
「やばい、遅くなったかもしれない」
 ユウトも夢中になっていたため、時間の感覚がない。
 急いで宿へ戻る。
カウンターを抜けて、アリスの部屋へ行くとちょうど寝間着姿で現れる人影があった。
「アリス?」
「ん、うん……」
 どこか間の抜けた表情でほわほわとした空気に包まれているようだった。
「先に着替えないと――うわ、下着が落ちてるよっ」
 アリスの踝のあたりに白い衣が輪になってかかっている。
 しばらくアリスはそれを見つめた後、そのままの脚でユウトを蹴り飛ばした。
「!」
 勢いよく閉まる扉。
 どっちがふざけているのかとユウトは思った。
 入り口から放たれてそのまま廊下で待つこと数分、ユウトの前にしおらしくも俯いたアリスの姿があった。
「あの、なんか勘違いしたみたい……」
「あ? ああ……」
 いつものアリスらしくない。時刻はとっくに朝食の時間を過ぎてるし、元気も覇気も切れ切れだった。
「いくわよ」

 白髪の後ろ姿が揺れる。
 アリスにはこの街にきた理由があるようだった。
 黒いマントに身を包み、ユウトの先を行く。
 通り過ぎる者は皆、アリスのその身なりに目を引いた。
「アリス、何か目的があるんじゃないのか……?」
「あるわよ、今もその目的を遂行してる最中じゃない」
「は……?」
 何やらよくわからないが、そういうことならいいかとユウトは前を見る。
「あのね――」
「大丈夫か? 顔が赤いけど」
「別に、気のせいなんじゃないの」
 さっさと着いてきなさいよというアリスは視線という視線を集めているようだった。
それからしばらくして、アリスが街の中央で何か騒ぎが起きているのを指さして近寄ろうとしたとき、街に駐在する衛兵に呼び止められた。
「!」
 ユウトは身構えたが、それより速く衛兵たちは二人を包囲した。
「無駄な抵抗はやめて大人しくしろ。お前達を国家反逆、及び侮辱行為の容疑で連行する」
 アリスがフードを脱ぐ。
「どういうつもり? 私たちが何をしたっていうのよ!」
 すると衛兵の一人が気まずそうに言った。
「現在街の中でマントを着用している者は徹底的に取り調べられることになっている……悪いが来て貰うぞ」
 黒マントがそんなに珍しいとは思えず、アリスとユウトは首をかしげる。
 その気になれば突破できる衛兵達に黙ってついていくしかない。
 一応という話しでアリスたちは杖と剣まで押収され、衛兵がすぐ脇に立って手首に縄をつけた。
「はぁ」
 少し離れたところにいるアリスの表情は浮かないものだった。
「あの、この街で何かあったんですか?」
 ユウトはそう尋ねるも衛兵は黙って取り合おうとしない。
 しばらくすると、大きな営舎が見えてくる。
 外側を石造りの塀で囲い、建物は他の住宅と比べると数倍は大きかった。
「また来たのか、仕事とはいえ休みたいぜ……」
 門番の衛兵はユウト達を中へ通す。
 何故こんな事態になっているのか見当もつかないアリスとユウトは言われるがままに建物へと入っていく。
 建物の中は男臭く、清掃もあまり行き届いているとは言いにくい場所だった。
 奥に連行され、階段を下へ降りていく。
「よし、お前達は一緒に取り調べを行う。ここで待て」
 そう言いながら鉄柵の中へ押し込められる二人。
 がちゃんと金属が鳴り、ユウトとアリスは閉じ込められる格好となる。
 部屋はわずかなエレメンタルによる灯りがわずかにあるだけで、ユウトはここが一切マナが使用できない特殊な建築がなされていることを知る。
「アリス、大丈夫か」
「……ええ」
 肩を抱きながらアリスはそう答える。
「そういえば、どうしてマントだったんだ?」
「――今朝から妙に寒気がするのよ、体の内側から冷えてる……」
 一瞬ユウトは風邪かと思ったが、昨日までのアリスは問題なかったはずだった。
「俺の服を使うか?」
「いらない」
 反響する声が石造りの部屋全体に響き渡る。
 それと交代するように徐々に大きくなる声があった。
「や、何ですかここは! 私がマントをしていたのは偶然ですってばッ」
 がちゃりと目の前の扉が開けて見知らぬ影が踊り入ってくる。
「きゃあ!」
 それを合図に無情に閉じられる扉。
 ユウトは咄嗟にその華奢な影を支えた。
「あ、ありがとうございます」
 その姿を睨みつけるアリス。
 徐々に状況を把握したのか、少女は徐にユウトから飛び退いた。
「すみませんっ、私ったらお二人がそういう仲だとは知らずに」
 アリスは毛を逆立てる。
「は? 何言ってんのよ」
「いえ、とんでもないです。お似合いです」
 少女は両手を目の前でぶんぶんと振りながら必死に言った。
「あ、私、マリエと言います。……お互い災難でしたね」
 暗い牢に虚しくその言葉が響いた。
「私はアリス。こっちは使い魔のユウトよ」
「使い魔? メイジの方だったんですか!」
 マリエは急に首を垂れてアリスにお辞儀する。
「ご無礼をお許し下さい。てっきり恋人同士なのかと……」
「……」
「それで、使い魔って言っても普通の人間みたいに見えますね。なんだかとっても凛々しい感じもするわ」
 ぺたぺたとユウトを触るマリエに狼狽えるユウト。
「あんまり触らないで頂戴」
「あ、ごめんなさい……」
 しばらくの沈黙が続いた。どこからか風の流れる音だけが静寂の中に響き、アリスは壁にもたれて座り込んだ。
「あの、お二人は国のメイジなんですか?」
「囚われてる時点で違うに決まってるでしょ、私たちは学生よ」
「へぇ……」
 アリスは肩に首を埋めて溜息をついた。
「なんだか災難続きだわ……」
 マリエが一瞬ユウトの顔を見て、すぐに思い立ったように口を開いた。
「大丈夫ですよ、私たち殺されるわけじゃないみたいですし。少しの間の我慢です」
 それがどれほどの慰めなのかユウトには図れなかった。
「マリエはどうして捕まったんだ?」
 マリエは驚いた顔をしてユウトを見た。
「喋れたんですね! 驚きました!」
「何だと思ってたのよ……」
 アリスは呟きながら肩をさすった。
「私は代々赤実の苗木を栽培していまして、今日はたまたま市場へ向かう途中だったんです。その時はいつもマントを着ていないんですが、今日に限って着ていたらこんなことに……」
 マリエはくりくりとした目で戯けて見せて、そこまでは聞いてませんよねと付け加えた。
「じゃあ、あんたは私たちと違って魔法すら使えないってこと?」
「えっ、そういえばそうですね!」
「はぁ……」
 ユウトは黙った。
「そうなると、衛兵たちが私たちを捕まえた理由はマントしかないのね」
「マントなんてそんなの誰でも着るものじゃあないですか」
「…………」
 こつこつと石畳に叩く革靴の音が響く。
 徐々に近づき、それは牢の入り口で止まった。
「出ろ」
 そう言われ、連れ出されたのはアリスだった。
 ユウトは目線でアリスを追ったが、首を振って拒否を示される。
 しばらくして、同じ兵がまたやってきてマリエを連れて行った。
「…………」
「最後はお前だな」
 プレートを胸板に貼り付けた屈強そうな男はユウトに牢から出るよう催促する。
 ユウトは事の成り行きを伺うように指示に従った。
 暗室の廊下を抜けると、徐々に喧騒が聞こえる。
むわっと拓けた空間には光りと雑踏。そこには大勢のマントを羽織った人集りがあった。
「ユウト!」
 後ろから呼び止められた先にはアリスとマリエの姿があった。
「無事か」
「えっ、ええ」
 マントを全員つけていることからも全員が何らかの容疑者であることは確かだった。
「皆さん、マントをつけてますね」
 ユウトたち以上に若い者はいないが、それでも上は老人から下は大人たちだ。
「ここ、出口がない地下室になってるみたいね」
「え、外の建物じゃないんですか?」
「窓辺に魔法が掛けられてるのがわかる? 火のエレメンタルで作られた細工ガラス。あれが地下である証拠ね」
「連中は俺たちを出すつもりがないようだな」
 地響きに似た音が部屋の後方から放たれ、一同は息を潜める。
 音の主は見えないものの、そこに誰かいるかのように声が聞こえる。
『静粛に』
 ざわざわとした空気が一瞬で静まった。
『皆さんご存知の通り、先日領主の城へ不法侵入、及びに名誉毀損行為を行う狼藉者が現れた』
「聞いてないわ……」
「お二人とも知らなかったんですか?」
『これに伴い、王国を始めとした領主は総力を挙げて調査に乗り出したところ、ある重要な手がかりを掴んだのです』
 そう言って頭上に提示されたマントはアリス達と同じ黒いマントだった。
『このマントがどこの物とはわかりませんが、あなた方の現在着用しているマントと相似しているものと言えるでしょう』
 一同は皆ざわめき立ち、緊張や不安を隠せないようだった。
 一説にはこのような王国への暴挙があった場合、疑いのある者は多かれ少なかれその真偽とは関係なく処罰されてきた。
 それはユウトもアリスも知っている。
 得にユウトが見てきた任務では戦犯で無罪を主張しながらも死んでいったメイジが多くいた。
『我々の領主様であらせられるアグリュネド様は寛大な御心によってお前達に潔白を証明するチャンスをお与えになさった』
 取り出されたのは頭の大きさほどある黒い輪のようなものだった。
「なにあれ?」
 不可解な物体に一同は訝しむ。
「お前達にはこれをつけてもらう。そして、契約書にサインを行えば、晴れて釈放となるだろう」
 周囲のざわめきは当然だろう。
 サインをしなければどうなるか――知らない者はいない。
「それは横暴だろう!」
 ユウトの横から出てきた一人の男が大声を張り上げた。
『横暴?』
「そうだっ、お前らそんなこと言って結局は俺たちを奴隷のようにしたいだけじゃないか!」
 途端にそう言い終わった男の体が宙に舞い、ぐしゃりと不快な音を立てて地に落ちた。
「――――わぁあああ!」
 その声は八方から発せられ、ユウトはアリスを掴んで男から離れた。
「な、なに。どういうこと?」
 完全に事切れた男を目にしたアリスはあまりに突然の事態を飲み込めないでいる。
「逆らったら殺されるってことだ」
「私たちが何をしたっていうの?」
「何もしてないさ。けれど、今は逆らったら……」
 男の凄惨な最後が蘇る。
 濃厚なマナの残り香が辺りへ霧散しているのがわかる。
「ど、どうしましょう」
 マリエの顔にも深刻な翳りが浮かぶ。
『一人ずつこちらの部屋に入りなさい』
 指し示された地面に矢印が浮かび上がり、その先に人がくぐれるような入り口ができる。
 このままじゃまずい――。
 ユウトの脳裏にはそう叫ぶ声があったが、どうしようもなくその時は来た。
『――次』
 アリスたちを残してほとんどの数が入り口の先へと消えた今、次はアリスを指していた。
「…………」
 重々しい足取りでアリスはそこをくぐろうとする。
『私は一人ずつだと言ったはずだが?』
「これは私の使い魔です」
『……ルーンを見せよ』
 ユウトは手首を掲げる。淡いピンクが輝いている。
『よろしい』
 まるで囚人のような扱いに憤りを隠せない。
 入り口からくぐった先には拓けた小部屋が用意されていた。
 外壁は今までと変わらない石造りだったが、中央に机が一つ用意されている。
 その上に載せられた1枚の羊皮紙が契約の内容を綴っていた。

 ――魔法契約。

・契約前提
汝は謀反、及び国家反逆罪の容疑により一切の弁明を許されない状況にある。
これにより、今後の行動に活動の監視を行う処置を執るものとする。

一、 汝はいかなる場合においても、他国への侵入を我が国の許可なしに行えないものとする。
二、 国王宮殿への接近は認めないものとする。
三、 我が国への貢献を常に行うものとし、自身の潔白を証明する努力を行う事。
四、 反逆の意志ありと判断された際には死を持って制裁にあたる旨を了承されたし。

 

 ふるふると羽筆を持つアリスの双肩が震えている。
 ユウトはかける言葉は見つからず、ただなり行きに身を任せるしかなかった。
「こんなの、奴隷の契約と一緒じゃないの」
 反逆した者と同等、そう言われているに等しい。
 アリスはここにきて自分の不運を呪うしかなかった。

 首に嵌まった輪はまさしく、犬を繋ぐ首輪のように黒光りしている。
 空は既に星一つない暗転に覆われて、アリスの行方を遮るように闇が広がっていた。
 いつもなら栄えある街の街灯も今日は特に暗くしんみりとしている。
「マリエ、どうなったのかな……?」
 ユウトたちはあれからマリエを見ていなかった。
 アリス達は兵士に連れられて今の場所まで誘導されたのだ。
 罪人の烙印ともいえる首輪を付けた状態でもうこの街にはいられないだろう。
 アリスはここにきた不運を呪いながら一刻も早く帰ってしまいたかった。
「……」
「ちょっと、ルーシェの使い魔を探してくる」
 ユウトの考えにアリスも賛成する。この街は今混乱している。
 王国が侵入者一人に手こずるようでは王国たる権威がないからだ。
 必死の犯人探しにこれ以上巻き込まれるのは得策ではないと判断したユウトは闇の中に一人アリスを置き去りにしてルーシェを探しに発った。
 
 ユウトは宿に行く途中で強いマナの気配を感じ取る。
 恐らくはルーシェのものだろうとそちらへ向かった。
「スーシィ?」
 スーシィは街並み外れた森の入り口をじっと見つめたまま動かないで居た。
「ユウト?」
 こちらの気配に気がついたのか、スーシィはそっと視線をこちらに向ける。
「アリスが大変なんだ、王国の衛兵に捕まって――」
 ユウトが顛末を告げるとスーシィの表情はにわかに堅くなった。
「なるほどね、けれど今はこいつが先よ」
 突如、闇から踊り出てきた黒い影は一瞬でスーシィの胴を一閃した。
「――っ!」
 ユウトは咄嗟に距離を取ったものの、スーシィはぴくりとも動かない。
 ザザザザ――。
 藪の中を風が縫うように駆ける様はまるで人並み外れた動きだった。
 ユウトが全速力で走るよりも、ずっと速い。
「Gikura !!(穿て)」
 背後からスーシィの声が上がり、高速の土属性魔法が影を捉える。
 しなやかな草をもマナの気だけで飛散してしまうその威力は影にとっても驚異だったに違いない。
 闇の中で影は大きく宙返り、森の中へと姿をくらました。
「速すぎるわね……」
「スーシィ、怪我はないのか!」
 ユウトは剣を抜く暇さえない応酬だった。
「ええ、大丈夫よ。私とユウトを見てまた森へ入ってしまったけれど」
 まだだ、とユウトは思った。
 恐らくスーシィが狙われたのは敵の気分とかじゃない。きっと知られてはならないことを知ったのだと。
「スーシィはここで何をしてたんだ?」
「私? 気になることがあったのよ」
「気になること?」
「異質なマナがこの街に漂ってるの。本来は何十にも封印されていなきゃならないような異質なマナが……」
 スーシィはそれを追ってここにたどり着いたという。
「王室直属の領主が必死になって取り返そうとしている何か。恐らくあの禍々しいマナはそれなんでしょうね……」
「でも、おかしくないか? そんなのここの自衛団だってわかるだろ?」
「わからないわよ、異質なマナが読み取れるのは異質なマナを持った人間じゃないと」
「えっ?」
 夜風が一陣吹き去って不穏な気配が強くなる。
「やっぱりまずかったわね、その異質を吐き出す物を先に横取りしちゃおうとしちゃったのは……」
 通りで相手は殺しにきているわけだとユウトは納得した。
 スーシィのしたことは王室の手先か、秘密を知った危険人物と勘違いされたに違いない。
 月が暗雲の中からひっそりと顔を出した時、その影は跳ねた。
「lolo ultulmerl…kiki uruikmel…dada slorijiol…imim aliekso….(エレメンタルに対なるものたちよ)」
 五芒星の魔法陣が輝く中で影はユウト達の真上に踊り出た。
 月光を背に浮かび上がったシルエットはユウトと同じ黒髪。
 ――ガキン。
 蒼い火花がユウトと影の間で散る。
「君は……っ」
 小さい鼻に優しそうな黒い瞳がユウトを真っ直ぐ視ていた。
「マリエ……?」
「Kile nla Atem !!(爆ぜろ)」
 突如、スーシィの魔法で影は後方へ数十メイルも吹き飛ぶ。
 しかし、彼女は空中で巧みに姿勢を持ち直し、着地と同時にその勢いで森へと消える。
「仕留め損なった? 嘘ッ、即死の威力で放ったはずよ!」
 簡易レジスト如きでは致命傷を避けられないはずである魔法が効果の薄いことに驚きを隠せないスーシィ。
「やっぱりはかられてる」
「?」
「私の前半の長詠唱(ロングスペル)はその後の大魔法の詠唱を超短縮するためにあるんだけど、それはある条件で消えるの」
「瞬きか?」
 ユウトはスーシィが魔法を使うときは絶対にしていない行動を即座に連想できた。それはユウトが幾度もの戦いで培った洞察力でもある。
「ええ、空間に固定するスペル配列にマナの効果を相乗させていないといけないから、瞬きをすると安定しなくなるのよ」
 先は風が吹いたことでスーシィは再び詠唱を開始することになったのだとユウトは納得する。
「相当訓練したんだな」
「どうしてそう思うの?」
「だって俺が来るまでは普通に大魔法を使っていたからそれまでは瞬きをしていなかったってことだろう?」
 スーシィはわずかに口元を微笑して闇へ目を向ける。
「私のネタが割れる時間はそう遅くはないわ。ユウト、今からでも逃げていいのよ」
「何いってんだ、見殺しにしろっていうのか?」
 再び風が吹く。
 スーシィの目はまだ闇の彼方を穿っている。
「見殺し? これは忠告よ。相手は一介の戦士やメイジじゃない恐らく歳だけにしたらただの子供。けれど対等以上にやり合えるのはリゴの魔導師くらいだわ」
 闇から巨大な魔物が殺気を放っているような凄まじい重圧が押し寄せてくるのをユウトは感じた。スーシィは慌ててユウトを急き立てる。
「早く!」
 悔しくも自分には勝てる相手ではないとユウトは判断する。敵を斬ることに躊躇いはなくても、実力で遠く及ばないのは殺気の強さでわかった。
 これほどの殺気を放つ相手に運が良くても差し違えることが精一杯だとユウトは思った。
「スーシィ……」
「いいから、はやく……」
 一度来た道を全力で戻り始める。
 ユウトが初撃で殺されなかったのはお互いが知り合いだっただけじゃない。
 わずかな殺気の緩和剤に同じ黒髪黒瞳のこの世界では珍しい風貌、そんなものがあったからあの瞬間はお互いに躊躇った。
 だが、次の瞬間に見せた彼女の殺気はユウトが今まで見てきたどんな殺気よりも強かった。
 殺し慣れた者以上に殺すことを存在意義としたかのような者にしか身につかないと思えるほど研ぎ澄まされた気配にユウトとマリエの圧倒的な差が感じ取れてしまう。
「くそっ……」
 とにかくアリスを付近から離さなければならない。
 スーシィが負けてしまったらユウトが戦う確立も高まり、その時はマリエの仲間もいるかもしれないのだ。
 林の道なき場所を突き進み、アリスのいた場所へと戻る。                                                                     しかし、そこにアリスの姿はない。
「アリス!」
 叫んでみてようやくアリスの声が木景から聞こえた。
「ユウト……?」
 ユウトは心の底から安堵すると同時に普段は絶対にないような怯えるアリスがそこにいた。
「どうしたんだ、アリス」
「ご、ごめん。動けない……」
 アリスは腰を草の上に落として震えていた。
「何か、巨大なマナの気配が近づいてきて、最初は学園長かと思ったんだけど……私」
 空を流れていったそれにアリスは酷く恐怖を感じたという。マリエの仲間なのだろうかとユウトは思う。
 アリスを背負おうと近づくと、アリスは首を振ってあからさまに拒否する。
「ダメ! 近づかないで!」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ」
 鼻をつくにおいが何が起きているかを物語っている。普通じゃない何かが起こり始めていた。
「いいから、早くここを離れないと俺たちも殺される」
「私たちも? もって――」
 叫き散らそうとするアリスの口を押さえてスーシィが命を賭けてユウトたちを逃がすために闘っているというとアリスは大人しくなった。
「あんな化け物じゃ俺も太刀打ちできそうにない……」
 背中にひんやりとした感触が伝ってくるが、気にしている場合ではなかった。
 恐らくアリスが見たものはマリエを遙かに超える何かだろう。
 ユウトが気がつかなかったのは不思議だが、もしかしたらアリスを何かと勘違いして姿を現したのかもしれない。
 それだとアリスだけが分かったのも頷けるからだ。ユウトはアリスを背負って漆黒の森を駆け出した。

248, 247

  

 林がごうごうと大きくしなっている。
 閃光に起こった爆風は街に異常を知らせるのに充分だった。
 スーシィは肩に大きな傷を負いながら木の根元に背中を預けている。
 致命傷の傷口から流れる血の色は何故皆同じなのだろうとつまらぬことを考えていた。
 一方スーシィの気配を見つめているマリエには受けた傷などほとんどない。
 にも関わらず、追撃はしないでいた。
「……殺せない」
 マリエは一人闇の彼方へ呟き、あの女を殺すには自分も死ぬ覚悟が必要だと認識する。
 ――ガサ。
 マリエは半回転、黒柄のサーベルを後方の相手に突きつけた。
 そこにはフードの中から覗く、色白い女がいつの間にか無表情で立っている。
「いつからそこにいた」
「…………」
 頬にある十字のタトゥーはマリエも同じく持つ組織のものだ。
「生きていたのね、マリ」
 死人のような掠れた声がマリエの鼓膜を震わせる。
「やっぱり、お前の仕業だったの」
「……ガンダグルとルゼルには先に逝って貰ったわ……ゲートの鍵は、もう手に入ったのだから……」
「貴様一人で……あの二人を?」
 色白の女は応えず草のなびく音が流れる。
 女はゆっくりとその片腕を持ち上げて、手のひらを前へ突き出した。
「moruge agle(死者の総願)」
 どす黒いマナが手のひらから伝い漏れ出す。
「ッ――」
 ゆっくりと地中に呑まれたそれは大地を揺るがしながら何かを形作っていく。
 地中から無数に生えてくる異形の影。それはかろうじて人の影を保つ魔だった。
突如それらが一斉にマリエへと襲いかかる。数にして20、リゴの魔導師。それを証明する胸元の五芒星を見て容易に理解した。
 マリエは一瞬で勝算がないと見て、山峡へ向かって疾走していく。
「……そこにいるの、お出でなさい」
 女はぞっとするような冷たい目をして、スーシィのいる木蔭へ近づいてきた。
 何処かで聞いた気がする声。スーシィは諦観と共に影から身を現した。
「…………」
 女は何も言わない。ただ、スーシィは目を見開いて言葉を失った。
「奇縁とはあるものね、イシス」
 女はフードを軽く払うとそこにはスーシィと同じくした黒髪と紫の瞳があった。
「お母様――?」
 女はにやりと嗤うと片手を挙げる。
 それを合図に風が二人を包んだ。
「これは……」
 みるみるうちに二人の距離は開いていき、気づけば自分が風に乗って飛ばされているのがわかる。
 もうさきほどの女の姿は見えない。
「クゥ」
 竜化したルーシェが飛んでいるスーシィを見つけ背に乗せて浮遊する。
 今のところ追ってくる気配はなく、スーシィが学園へ戻れば治癒できると告げたときその意識は途切れた。

 夜の帳が下りた山中ではまだアリスとユウトが森を駆けていた。月夜の明かりが木々に遮られ木下は漆黒と化している。それを嫌ってユウトは大きく木の上を跳ぶように強いられていた。
「……もう、大丈夫なんじゃないかしら」
 無言のまま突き進むユウトには焦りの表情がある。枝先がユウトの頬に赤い筋を刻むのも構わず、ただ遠くへ逃げる行為。それを知ってか、月に照らされたアリスの顔にも影が潜む。川を飛び越え、崖をまたぐユウトは獣型の使い魔と遜色ない動きだった。それでも、ユウトは焦燥の表情をより深く浮かべて、何かに追われるように走り続けていた。
「くそ! なんなんだよ今日は!」
 唐突にユウトは脚を止めた。闇の中にユウトの声は消える。アリスの静かな呼吸とユウトの大きく吸い込む息。静まり返った森に息づくものたちの気配はない。
「……」
 次に何が来るのか。アリスは白い手先にしなと力を込めて不安を言葉にした。
「ユウト……これからあれと戦うの……?」
 近づく異様な気配にアリスは敗北を悟る。あれは敵というのも烏滸がましい何かであると直感してしまったのだ。アリスの開きかけた才かもしれない。
「アリス、一人で走れるか?」
 首を横に振るアリス。滅多なことでは気丈さを崩さないアリスが芯から怯えるそのしぐさはユウトの心を揺るがした。
ごうとしなる木々。この場に空気というものが存在すればアリスの叫びはユウトに聞こえたに違いない。
 巨人の脚ほどある木が次々と折れていく。焚き火に耳を近づけたか、川のせせらぎを森全体で奏るのような木々の傾倒音。
 音をかたちどる空間が抉られ、ユウトは剣を地面の腹まで突き刺してその爆風をやり過ごす。ユウトたちを森から浮き彫りにするようにして現れた影は人ならざる魔の影だった。
「これは……なに……?」
 ユウトの背中でアリスの体に力がこもる。全身がわなわなと震え、異質すぎる黒いマナの気配に現実から隔絶されたような錯覚が起きた。
「アリス、降ろすぞ」
 双眼は目の前の敵を睨め付け、気は鋭利に研ぎ澄まされる。
 たった一体の闇。それは全身から無数の手か触手のようなものを瞬くように一瞬生やした。異常さと強さだけなら先に見たマリアを超えていると確信してしまう。
 ユウトは逃げられないことを悟り、是非もなく蒼き剣を天に掲げて死闘の前触れに構える。黒い影には命がない。それに向かって行くのは死だとして、向かわないという選択肢がない。恐怖を原動力に変える他に活路がなかった。
ユウトは死の舞いへ駆け出した。
 直後の黒き影の反応は2人の想像を遙かに超えていた。月下におけるユウトの蒼い軌跡は分裂したように輝き、一撃が二撃になる。黒い影はユウトと同じ四肢になりて、ユウトの剣を事も無げに両手で受け止めてみせた。
「アリス! 魔法を!」
 言下にアリスの火属性魔法が二人の間に光として通る。刹那に光る2人の姿は闇と光。
「――」
「――」
 ユウトは持ちうる最大限の集中力によって引き延ばされた体感時間の中で相手の表情を見据える。炎が通り過ぎる間際、その造けいにユウトは息を呑む。顔が見えればユウトは相手のあらゆる戦闘心理を割り出せる、そのはずだった。
 黒い剣先がユウトの胸を掠める。影の斬撃は剣ではなく、影そのものだった。そしてその敵の表情がユウトには信じられなかった。
 これをアリスに見せてはいけない。どこかでユウトはそう感じてしまった。
「Flables explizt!(爆発の火)」
 爆ぜる黒煙に包まれながら影は無音の体躯をしならせる。まるで効いていない。蒼い剣に絡まる黒い斬撃は黒にとっては児戯だった。織り目を縫うように光と影が火明かりの中で交錯する。
敵の注意を引きアリスから遠ざけていくユウトは時間稼ぎに過ぎない攻防を繰り返す。その数はとうに千へ届こうとしていた。ユウトがいくら剣の魔力を解放して斬撃を1つ2つと増やそうとも決して影の本体にその剣が到達することはない。
 刹那、2つの斬撃が接触した瞬間に起こったのはマナの奔流だった。空間が一瞬引き縮み拡大される現象は周囲の風を呑み込んだ。
 それはマナと異物(イレギュラー)の衝突。マナは概念を質量とし、質量は物質として世界に存在している。敵は物質でもマナでもない何か。その2つがぶつかるとき、その場には不明の熱反応が生み出されていた。
『――Knia sald zix(風の怒り)』
 上空が光ると同時にユウトのそばにあった大木が切り裂かれる。裂けた傷は燃え上がり、耳を劈く音が山々を打ち鳴らした。
『Chaser..(さらなる追撃)』
 影はひるんだユウトへの追い打ちはせずに後方へ飛び上がった。しかし、空にいる追撃の主にとってはその程度の回避は逃げた内には入らない。二度目の閃光は影に走り、その物体は赤く光ったかと思うとコマにでも弾かれたように森の中へと吹き飛んだ。
「ルーシェ!」
 雷鳴が鳴り終わるとアリスがそう叫んだ。ユウトは上空を見る気にはなれない。
 影がいつまた襲ってくるかわからないのだ。
「ユウト、もう大丈夫だよ」
 その言葉でユウトはようやく地面に膝を立てて息をついた。ユウトも敵の気配が完全に途絶えたことは気が付いていたが恐怖がそれを許さないでいたのだ。
「本当に倒したのか?」
「うん、あれだけの自律行動を強制する魔法なら本人の防御力は考えられていないはずだから。しかも、レジストなしにあれを受けて動けるものはないはずだよ」
 ようやくルーシェの顔を見ることができたユウトはその蒼白な顔色に驚く。それに気が付いていたのはアリスの方が先だった。
「あなた具合が悪いの?」
「今の魔法は普通じゃないから……竜族に伝わる奥の手みたいなもので加減なしにやるとマナがほとんどなくなるの」
「私のマナを持っていって。ルーシェなら、出来るでしょ?」
「そんなことしちゃだめ。私の必要量はその……膨大すぎるから」
 ルーシェはもともとがドラゴンであるせいかアリスの申し出は断った。自然回復のほうが奪うより効率が良いことはユウトだけが知っていた。
「俺はちょっと敵を見てくる」
「うん、気をつけて」
 ユウトは茂みに横たわったその敵の顔を剣で潰すとアリスたちの元へと戻った。
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