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イカスミカレー

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目が覚めると、カレーの臭いがした。

しかも微妙に焦げている臭いが。

「…?………っ!?」

飛び起きるとそのまま転びそうな体勢でキッチンへ駆け込んだ。ああ、ナベが!

火を止め、シンクの中へナベを放り込み、水をかけてようやく安心した。小窓を開けると黒い煙が外へ溶け出していった。

「~~~彰!」

テーブルで寝こけている少年を怒鳴りつけ、無理やり起こす。

「む…たけ…兄?」
「たけ兄?じゃない!なんだこれは!どーしてくれる!」
「あ、カレー!」

彰はナベに駆け寄り、がっくりと肩を落とした。ああ、肩を落としたいのはこっちだ!

俺は無言で水を止め、ナベを指差し、彰の顔を見た。

「…カレーを…作ろうとして、たけ兄昨日カレー食べたいって言ってたし、それで…それで…ごめんなさい」
「俺は、確かに昨日、カレーが食いたいなぁといった。覚えてるとも、ちゃーんと!だからってな、ナベを黒焦げにしてくれとは言わなかったし、
 土曜の朝っぱらから食いたいとも言わなかった!どうしてくれる、俺の家にナベはこれ一つなんだぞ!」
「ご、ごめんなさい。ちゃんと洗うよ。綺麗にする。ダメだったら…弁償して…」
「バイトも出来ない中坊がどうやって弁償してくれるって言うんだ!え?!あーもー!ったく、だからお前を泊めたくなかったんだ!今日中に家に帰れよ!?」

途端、彰は俯いて黙った。

無言のまま、時間がすぎてゆく。溜め息が、自然に口から流れた。どうしようもない。

全く、久々の土曜日の休日だって言うのに!



彰は俺のおじの子供だ。つまり、従弟に当たる。だからって別にどうと云うわけじゃあない。

うちの家庭は少々親戚付き合いが頻繁で、よくよく集まる親戚だっていうだけだ。

でも、そんな家庭がイヤで俺はようやく自分の食い扶ちを稼げるようになり、家を出て、このアパートに越してきたのだ。

それが、もう4年も前になるだろうか。

彰は生まれた時から知っていた。おじが大層子煩悩で、うちの親父と相当仲の良い釣り友達だったからだ。

だから、俺が10の時から彰はずっと俺のあとを付いてきていた。

正直言って、邪魔臭かったのは事実だ。しかし、俺も彰も一人っ子で、凡そ15年もの(つまり、彰が産まれてこっち)月日を、擬似兄弟のような格好で過ごせば、

自然、情が移る。弟のように可愛がっていた時期もある。


が、しかし、それとコレとは問題が違う。


彰はつい10日前、突然俺のアパートにやってきた。

おじと喧嘩した、家に泊めてくれ、と云うのである。そりゃあ反対したとも。俺ももう25だ。おじや、おじの奥さんの気持ちも判らなくもないし、子供じゃない。

しかし、風のうわさで彰が精神科に通院していると聞いていた上、その日、俺は彼女に捨てられてしまい、人恋しかったのだ。何とも情けない理由だ。

それでも、彰が居る事により、俺は二日間ぐらいはフられた気分を紛らわせた。彰も、最初の一歩は塞いでいたものの、兄弟のように慕ってくれている事もあり、

奇妙な同居生活は順調のように思えた。




それも、一昨日までだ。


一昨日、俺は仕事で、彰が来てから始めて会社で徹夜した。まあ、電話で帰れない旨を伝えただけで、俺はすぐに仕事へ戻った。

彰だってもう15だ。一人で留守番くらいできるだろう。それが甘かった。

朝7時の電車に乗って、くたくたになって帰った家は、床一面の紅緋だった。

パニクった。彰はぐったりとし、名前を何度か呼んでようやく目が覚めた。

「どうした!コレは一体何なんだ!?どこか怪我をしたのか?彰、おい、おい!」
「…ん…たけに…おかえ…り」
「おかえりじゃねーって!怪我は?!どこだ、見せてみろ」
「ケガ…してない。違う。違うよ…」

俺は慌てて彰の真っ赤になった服を脱がせ、身体をあちこち点検した。が、ケガどころかかすり傷一つない。

俺の様子を見て、彰が突然笑い出した。ぎょっとして彰の顔を見ると、目にクマが出来ている。俺も出来ているかもしれないが、それでも彰の顔色よりはマシだ、と思った。

「ふふ…あはははは違うよ違う違う!血じゃないよ、これ、あはは!ははははは!」
「な、なにがおかしい。血じゃないって?」
「くくふふふふふ、そう、血じゃないよ、ねぇほら、コレ見てよ、ケチャップ!」
「け…ケチャップぅっ!?」

言われて見れば、ケチャップ臭い。でろでろの床の赤を救って、恐る恐る口に含むと、まさしくケチャップそのものだった。

がっくりきたのは言うまでもなく、俺はこっぴどく彰を叱りつけ、頭を叩いて激怒した。

「いいか!ちゃんと俺が起きるまでに片して置けよ!全く、こっちが好意で置いてやってると思ってお前ってヤツは!!」
「ごめ…ごめんなさい…たけ兄……いや!いやだ、殴らないで!」
「?…一回しか叩いてないだろ」

と、突然彰の態度が豹変した。頭を抱え、小さく縮こまり、部屋の隅へ逃げてゆく。

なんだよ、おい、と手を伸ばすと、大声で叫びだした。

「やだあああ!いやだ、いやだいやだいやだいやだあああああああああああああ殴らないでええええ!!!!!」


それから彰は気を失い、結局俺は部屋を片し、彰を横たわらせ、どっと眠りについた。





彰はさっきから立ちっぱなしで、ナベをこすっている。いや、洗っているのか。

ゴム手袋を買っておいて良かった、と密かに思った。使わない予定で買ったんだけどな。

「…彰」

声をかけると、僅かに肩が震えた。ように見えた。彰の背丈は、まだ俺を抜かしていない。

おじは俺よりも背の小さい人だったから、多分あれ以上伸びないかもしれない。まあ、成長期だからわからないか。

「彰、お前もうおじさんとこ、帰れよ」
「………」

ガシュガシュガシュガシュ。ナベと鉄たわしのすれる音だけが響く。

「心配してるぞ、お袋さんとか。おじさんだって一人息子なんだ、帰ってちゃんと話せば、多少は理解し合えるはずだ」
「……」

ガシュガシュガシュガシュ。

「あんまり自信ないなら、俺も付いていってやるし。明日も休みだから、な?」
「………」

ガシュガシュガシュガシュ。

「受験、厭なのか?」

手が止まり、たわしの音が止まった。ビンゴゲームは終了だ。

「厭なら、高校なんざ行かなくてもいい。どうせ高校入ったって中退するやつもいるし、それで生きられないわけじゃねー。どうにでもなる、そんなのは」
「………」
「ようは、お前が、彰、お前がどうしたいのかってことだ。厭ならいやで、しなくて良い。学校も、勉強も。どうなんだ?」
「……たけ兄は、…家、どうして出たの?」

質問を質問で返す。いやな問答だ。好きじゃない。

「家が嫌いだったからだ。親父も、お袋も、親戚も、あの家も、俺は全部嫌いだから、俺は出てきたんだ。仕事も遠いところだったし、今の生活に満足してる。
 お前は違うだろ?厭なんだろ。いやだから、俺のところへ逃げてきた。電話の一本も入れず、俺への弁解もおじさんとの喧嘩、で終わりだ。
 それはかまわない。俺もそういう時期があったし、それで充分だと思う。だいたい、面倒臭いからな。俺は面倒は嫌いだ。
 でもな、これから、お前ここに居てもいいなんて、そんな甘い事考えてんなら話は別だ。俺はお前を追い出す。いつかな。今でも良い。ここは俺の家だからな。
 そうしないのは、彰がちゃんと考えてないからだ。考えるやつは、こんなところで立ち止まったりしない。どうしたい?
 お前は、どうしたいんだ?彰」

彰はじっと動かず、ナベを見つめているようだった。ステンレスの、結構丈夫で高かったナベだ。

「そのナベ、綺麗になったか?」
「え?」
「ナベ」
「あ、うん。もう…だいぶ」
「ナベもフライパンも、そのまな板も包丁も、全部俺が初めての給料で買ったんだ。茶碗も、皿もコップも。俺は料理をしたかったからな。どうもコンビニは好きじゃない。
 でも、デパートに買いに行ったときは恥ずかしかった。男一人、ふらふらスーツであっち行ったりこっち来たりしてなー何を買えばいいか判らなかったし。
 そしたらな、食器売り場のおじさんがきてさ、変なオヤジだったなあ、急にお客様、なんて声掛けられて、びっくりしたの何の。普通声なんて掛けられないと思ってたからさ。
 そいで、そのナベを俺に見せてなんていったと思う?」
「…コレなんか、いかがでしょう?」

俺はにんまり笑って、大きくばってんを作った。

「はずれ!そのオヤジさ、ナベを手にとってさ、お客様、このナベはあなたに買われたがっております。どうか、買ってやってください」
「何、それ。新手の商品解説なの?」
「さあ?それで、俺はびっくりして、は?っていったんだ。したらオヤジは、このナベは何度真っ黒焦げになっても、使えます、あなたが使ってくだされば。
 この子はもう何年も売れ残ってしまい、私も大変手を焼いておりました。しかし、今、この瞬間あなたに買われたがったのです。あなたの手に触れた途端、です。
 このナベは、あなたが磨けば磨くほど、コレで料理を作れば作るほど、頑丈になります」

彰は自分の手の中にある鉄たわしを見て、ナベを見た。きょとん、としている。

俺はニヤニヤ笑って、ホントだぞ、といった。

「…それで、たけ兄は買っちゃったんだ」
「そ。変だろ。でも、おれは買ってやらなくちゃって思っちまった。よくわかんねーけどな。ナベも欲しかったし、オヤジの話も気に入ったのかもしれん」
「磨けば磨くほど頑丈になる?」
「ああ、なる。ステンレスだから、汚れも早々つかない。いいナベだ。フライパンもステンレスだ。俺はそいつを一回だけ焦がしたが、磨いたら新品同様になった」

彰はおもむろにナベを水で流した。真っ黒になった泡沫が流れ、中から新品のように綺麗になったステンレスのナベが現れた。

じっとそれを眺めた彰は、ゴム手袋を取り、自分の手を石鹸で洗った。

俺はそれを見て、自分の高校時代を思い出した。あの時、俺は友達と遊んで、バイトばかりしていた。

「お前はそのナベだ。まだ、お前はスミで汚れてる。真っ黒だ。泡沫もついてる」

彰は手を拭き、俺の前の椅子に座った。不安げな顔はそこになく、何を見つめようと目を凝らしていた。

にやり、思わず笑ってしまった。

「だから、磨かなきゃならん。多分、俺もまだスミだらけだ。皆スミだらけだ。真っ黒で、汚い。でも、それは洗うと銀色のナベになる。何でも作れる。便利ないいナベだ」
「…僕も、なれる?」
「誰でもなれる。だたし、なろうと思わなきゃ、なれやしない。初めからなれないと思ったら、そのままだ。誰も買ってくれない。誰も見ないし、使わない」
 
彰は、うん、と頷いた。それだけで充分だ、と俺は思った。



俺はその夜、彰にイカスミカレーを作ってやった。昼にやっていた王女様のブランチ、と云う番組で紹介されていたレシピをもとに、彰と一緒に作った。

イカスミってもんは初めて食べたが、どうにも食べ慣れそうもない、といったら、彰に笑われた。

彰も、イカスミって変な味、と言って、泣いた。







それから彰は、1ヶ月かに何回かの割合で遊びに来た。毎回作るのはカレーライス。

受験に合格した日、俺は彰にイカスミカレーを作ってやった。彰はイカスミって上手いね、と言って笑った。
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