田中孝史と云う男

雨が降っている。

しとしとさあさあしとしとしと―――

秋の秋霖、と云う奴だと朝のニュースで言っていた。

そして、夕焼けもないまま夜が来る。

あたしの好きなよるが。



Ｔｏｌｅｌｅｌｅｌｅｌｅ――ｔｏｌｅｌｅｌｅｌｅｌｅ――
カチッ「この電話番号は現在電波の届かないところにおります。電話番号をお確かめの――」
ピッ

「出ろよ」

溜め息と一緒にずるずるとベッドに滑り落ちた。

夜の１１時になっても彼氏である田中孝史には連絡つかず。

というか、今月は声も聞いてない。今月じゃないなあ、先月あたりからだから……

あたしは指折り数えて、その日数分を思い知ってがっくりと溜め息を吐いた。

コレじゃ本当に恋人なのかどうか、怪しくなってくるというもんだ。

浮気は出来るような奴じゃないと思うけど、もう二年付き合っていて、この状態はどうかと思う。

雨は止む気配もなく、風が出てきたのか轟々と唸り声を出し始めていた。





「ご！ごめんなさい！！」

「は、はぁ…」

そういって無造作なのか寝癖なのか判らない頭を思い切り良く下ろした男は、１時間にあたしを好きになってしまったと言った。

１時間前ってどういうことだああ？てめーガイシャか、と思ったのは言うまでもなく。


大学も完全に慣れ切った３年生の秋だ。

そう、丁度羊雲が沢山浮いていて、あたしは夢中でカメラを切っていた頃の事。

あたしはいっぱしのカメラマン気取りだったのだ。

まあ今ではそこそこ食えていけるカメラマンになれたけど、その頃はまだダメダメのダメ作だった。と思う。


あたしは苦笑いと微妙すぎる怒りを抱えつつ、あーごめんねーと手を振った。

「いやーあたし、そういうの今はちょっと」

「あっいやっあの！とっ！友達でもいいんで！な、何なら下僕でもいいので！」

あなたの側に居てもいいですか！？

とボサヘアーのダサルックのガリガリは真っ赤になってあたしに言った。


こいつバカだと思ったのは言うまでもなく。




でもまー、紆余曲折あり、大波乱ありで、あたしはぶっちゃけどう考えてもバカ変人の田中孝史を好きになっちゃったわけで。


この男は、所謂「変人バカ天才」というやつで、とにかく人間を間違えて育ってる。

いろいろな賞は取ってるし、学会では顔パスだし、トロフィーも盾も半端なく貰ってるし、何より信じられない事に今は大学教授でもある。

一体全体誰がこいつの授業をありがたがって受けに来るんだか。

未だに靴下は別々のを穿いてくるし、デート中なのに「来た来た！」とか言って自分の研究やら作品やら論文やらに篭っちゃうんだよ？

しかも、信じられない事にあたしのことをまだ「恋人」として認識して無い恐れもある。

証拠はこのメール履歴だけでも充分に取れる。

前に送ったメールの返信はなく、その二日前に『生きてるの？』と送ったメールには『見付かりそう』と返ってきた。


な　に　が　？　（まじばかじゃんこいつしねよ！！！）


『ご飯食べた？あたし今日は上海風スパゲッティ！』と送れば、『角砂糖買ってこなくちゃ』と返るってくるし、

『やった！！仕事大成功！今度アンブルで合同評価会開いてもらえそうだよ！うれしいよ～～о（＾▽＾）о』と送れば、『傘だ！』と返ってくる。

まともなメールにならない。（キャッチボール不可）

その上、前に出掛けた映画館の中ではポップコーンを見つめて、

「キャラメルはカラメル、カラメルは砂糖だから、砂糖はサトウキビだよね？んーうん、食べない方がいいよ」

と忠告してくれた。

とりあえず殴っておいたけど。


こんな変人と２年間、辛抱づよーーーく付き合ってる（のかどうか）あたしを、友達はアンタも酔狂だよねえ、と言う。

そりゃそうだろう。

天才と呼ばれ変人扱いされちゃうような男なんか、普通は適当に放っておいてかっこよくて優しい人のところへ行けばいいのだ。

まあ、あたしもそう不細工な方じゃないから、普通くらいにはそういう話もある。


１回だけ、すごくあたし好みの人に真剣に告白されて、あたしは田中孝史と別れようとした事がある。

確か、あれは去年の夏。

世の中は恋の花咲くムード満天で、あたしも田中にちょっとウンザリしかけてた頃だった。

仕方ない、とは、思うよね。

その人は映像関係の会社に勤めてて、あたしがカメラで食べてても良いと言ってくれたし、あたしも何度も会って友達のように接してたから、それなりに驚いたけど。

それでも、「好条件」の相手だなあ、と思ったのだ。

まだ全然仕事はしたいけど、結婚できない女の身なんて知れてるっちゃ知れてるし。

だから、田中の家に乗り込んだ。

というか、研究室兼自宅だけど。


余りにも紙と本が散乱して、ゴミ箱が溢れちゃったような部屋で、あたしはどうにか正座をして言った。

「だから、別れてほしいの」

沈黙。

「その人、すごくいい人なの。あたしのこと、ちゃんと考えてくれてるし、だから別れて」

沈黙。

「……ねえ、ちょっとあんた聞いてるの？！」

「聞いてるよ。すッごく真剣に、これ以上なく深刻且つ正常に」

「だったらうんとかすんとか…」

あたしがウンザリして溜め息を付くと、突然、田中孝史はパソコンの前に座っていた回転イスをぐるりと回してずかずかとあたしの前に立ちふさがった。

ぎょっとしてあたしは思わずのけぞった。

「なっ！なによ！も、文句あるの！？大体アンタあたしに恋人っぽくしてくれなかったじゃない！全然意味わかんないし！

　あたしだって普通の恋愛したいわよ！アンタみたいな天才なのか変人なのかよく判んないのよか、彼の方が判りやすくてい…」

「愛してるんだ！！！」

あたしの言葉を遮って、そう言ったボサヘアーのダサルックのガリガリはがばっと土下座した。

「あ、あ、あんたね…」

「愛してる！！誰よりも何よりもどんなものよりも愛してるんだよ由香ちゃん！！だから！だからっおっおねっがい…だかっらああぁぁ……」

ゆがぢゃんの側にいざぜでええぇぇぇぇと大泣きした。


そういう何ともなっさけないところも、実は結構あたしのツボでもあったりなかったり。

とにかく、本当に予測不可能な訳の判んない奴なのだ。






「でもこーんなに放置されたのも久々だなあー。あたし結構メールしてるし。大抵一言は返ってくるし。忙しかったもんなあ、あたし」

先々月あたりからあたしの念願の写真集が出るからって、あっちへこっちへと走っていたし、田中は田中でまた何か新しいのを見つけたとかニュースでやっていた。

本人は写真しか出なかったけど。

家で死んでるのかしらん…死んでそうだなあ。

ご飯食べてたのかなあ。あたし、結構作りに行ってやってたんだけど。

どうかなあ、この約１ヵ月と半月。食ってたかなあ。

でも今更会いに行くのもシャクだ。あたしが悪いわけでもなしに。

――何となく―こうして誰かを想っている自分って、ちょっと思春期の女の子みたい。

あたしはベッドの上で一人でニヤニヤした。

でも、想ってる相手が「生まれながらの変人バカ天才田中孝史」って最悪な感じだ。

溜め息だけは時間と平行してダラダラ流れていく。

「一体あんたのご主人はどこで何してんのよ。ケータイまで切ってさ」

あたしは、部屋の中で唯一田中との思い出があるテディベアの鼻をつついた。

それは、あたしの去年の誕生日の１０月４日、つまり殆ど１周年の記念みたいにして田中がくれたものだ。

あたしは田中に誕生日の「た」の字も言ってないのに、当日朝早く突然あたしの家に来て、「お、おめ、でとう」とか言って押し付けて真っ赤になって逃げていったシナだ。

一体どこの誰から聞き出したんだか。

それも気になるッちゃー気になるけど。




で、大事なそのあたしの２３歳の誕生日まで、あと１０分。

「どーなのよ、若き天才田中孝史ー」

テディベアは田中のように押し黙ったまま、あたしの顔を黒く光る目に映し出した。

色々とまとまらない事を考えていると、会社で仲良くなった年下の新人ライターを思い出した。

柴犬のようなクリッとした目を持った可愛い感じの男の子で、あたしの事をお姉ちゃんのように慕ってくれている。

すごく純な子だ。あの子は可愛い。判りやすい。

はーあああぁぁぁ――

「…まーた浮気でもしよっかなー……どーでもよくなってきた」


Ｐｙｙｙｎｐｏｏｏｏｎ――どんどんどんどん！！「ゆっ、ゆかちゃあーーん！！」



やれやれ寝ちまおう、と布団をかぶると、犯人が完全に判る声と近所迷惑なノックが聞こえた。

来たのか、と重たい腰を上げて厳重な安アパートの鍵とチェーンを解いた瞬間、田中孝史があわててボサヘアーのびしょぬれ頭を突っ込んできた。

「まっ間に合った！？僕間に合ってるかな？！ゆかちゃん！」

「あー間に合ってマース新聞結構デース」

「ああぁぁっ閉めないで閉めないでごめんごめんごめんさないたっ！痛いよ痛いいたい！挟まってる顔かおー！！」

「やーねえ、はさんでんのよ」

あたしは仕方なくバッチリドアに挟んだ田中の顔をはずしてあげた。

ひどいよー終電ギリギリだったのにーびしょぬれだったんだよー、と文句を言いながら普通に上がろうとする田中をあたしは押しやった。

「何勝手に入ろうとしてんのよ。女一人の家に勝手に入っちゃいけませーん、て習わなかったのお母さんに」

「えっなっ？！習うものだったの！？ご、ごめんなさい！知らなかった…」

バカめ。んなこたー誰もならわねーし教えねーよ。気がつけよ。

「そーう、じゃ今度から気をつけるのね。バイ♪」

あたしは平然とした顔でそのままドアを閉めようとした。

「ええっ！閉めないで閉めないで！！」

「まだ何か？天才バカ変人の田中孝史さん。あたしもう用事ないんですけども」

「ああそんな殺生な…ゴメン、ごめんなさい。僕が悪かったよー」

「何に対して怒ってるのかわかってるのかなあ、それ。真実味がないなー」

「うーううう……３５日間と１０時間と４７分間と２５秒間由香ちゃんと話もせずメールもせず電話も出ず家にも行かなかった事について」

「随分細かいなおい…まあ、わかってるじゃないの。で？」

「し、仕事が沢山入って家から出られなくて、出たら沢山人が来て、人の沢山居るところに連れてかれて、喋ったり立ったり座ったり怒ったり困ったりしてました……」

「ふう～～～ん。で？」

あたしは意地悪そうに田中を見やった。

痩せている。

雨に濡れたせいで余計貧相な状態になっている。

ガリガリどころか「愛犬大好き！ほねっこワンダフル」も驚きの骨皮具合だ。

こいつ絶対全く食ってなかったな。超偏食家だしなー。

ピーマンにんじんオクラシイタケトマト豚のコマ肉うどんリンゴバナナキウイグレープフルーツ他多数、だーめだもんなこいつ。

あたしのどうでもいい思考に全く関係なく、田中は非常に難解な数式を見つけて、必死になってそれを解こうとしている顔になって白くなったり青くなったりした。

「ああー、うーあーと…あのうー…えと…あのー」

あたしは唐突に特大の笑顔になってドアノブを握り締めた。

「おやすみなさい！あたし明日は漸くもらえた休日なの、ヒマしてられないの！やりたい事沢山あるからね！彼氏見つけに行ったりね！グッナイ！！」

「あああわわわわちょっちょっちょーーまって！！！」

思い切りよくあたしがドアを閉めようとすると、思いのほか強い力で食い止められた。

いや、違った。靴突っ込んだだけだった。

「あああのね！２３歳の誕生日、おめでとう！！」

そう言って田中は突っ込んだ靴分だけの隙間から、にょっきり細い腕を出した。

手には、大きなダイヤモンドのちっちゃな指輪がはまったケースが乗っかっていた。


これからも君の側に居てもいいかな？と控えめすぎて雨に流されそうな声で、田中孝史は言った。


なんていうバカなんだ、とあたしが思ったのは言うまでもなく。

















「そう言えばなんであんなに忙しかったわけ？ケータイまで繋がらなかったし」

「あ、それね、ケータイは料金払い忘れてただけ。さっきコンビニで払ったから大丈夫だと思うよ」

「…バカじゃん」

「う…あ、でもね。忙しかったのはちょっとお金がほしかったからなんだよ。ホラ、結婚指輪ってどれ位するのか知らなかったからさー僕。ちょっと頑張ったでしょ？」

「………バカじゃん。給料３か月分だよ」

「ええっ！そうなの！？し、知らなかった…。あ、でもそれ…多分３か月分じゃないよ、うん」

「え、そうなの！？このやろう安物かよ！！」

「ち、違うよお！な殴らないで痛いいたいー！」

「一体幾らよー！正直におっしゃい！！」

「い、一千万ちょっとくらい…？」

「い…いいいいーーっ！？！？！」

「大きいダイヤがいいんですって言ったら、だったらコレがお薦めですよーって。どれがいんだか判んなかったから、とりあえずと思って…

　あ、だ、だめだった！？あ、サイズとか聞いたんだけどあってなかった！？だ、ダメなら今からでも返品して………由香ちゃん？どしたの？」

「………やっぱりただのバカじゃん」

「えっ！？そ、そうかな？！」