弥生のことも心配だが、優先事項は親父さんの弁護をしに行くことだ。
俺は混み合ったホームの人と人との間を抜け、冬服にコート、マフラーを身につけた学生にぶつかり、階段を登ろうとしていたサラリーマンの前に割り込んで迷惑そうに顔をしかめられながらも駅員室へと向かった。
「俺は何もやってないって言ってるじゃないですか!」
弥生の父親が必死に自分の潔白を主張している。
「嘘つくなよてめえ!」
それに逆上した、三人組のうちの一人の男が咆えた。
それを二人の制服を着た駅員がなだめようと苦労している様子も見て取れた。
俺が駅員室に入った時に見たのは、そんな光景だ。
「どうされました?」
ただでさえ雑多で狭い部屋だというのに、俺を加えて合計七人がいる空間はとても窮屈に思えた。
「そこの方たちと同じ車両に乗っていた者ですが……騒ぎを聞きつけたもので」
最初に俺に話しかけてきた身長の高い方の駅員の眉が上がった。
「何かご覧になったということですか?」
「ええ、どうもそこの方が痴漢しているようには見えなかったので」
わざとらしく言ってみる。
本来こういった場で虚偽の証言をすることはよくないのだろうが、「痴漢しているようには見えなかった」のは本当のことだ、と自分に言い訳をした。
「お兄さん、何言ってるの? このおじさんが私の体、触ってきたんだけど?」
三人組の中の女が俺に突っかかってきた。
俺はあくまで真摯な態度を崩さない。
「ですから、もしかしたら他の人が――」
「まあ、そういった話は警察の方でお願いします」
駅員の一人が俺の言葉を遮った。
それと同時に、親父さんの顔がみるみるうちに青ざめていく。
「……警察?」
「ええ、私どもとしてもこういった問題は警察の方に相談することになっておりますので」
「どうしてだ、俺は何もしてないんだぞ!?」
「ふざけんな! 何もしてないだと?」
彼の弁明に、三人組のうちの金髪の男が食ってかかった。
それからしばらく、当事者たちでの話し合いが続いた。
被害者とその同伴という立場にいる三人の態度は大きく、また主張も決して曲げなかった。
俺は最初に少し話をしただけで、警察官が迎えに来るまでそれ以上何も言えなくなってしまった。
そして気が付いたら――……。
「……ごめん」
「……」
初めて見る彼女の部屋は整然としていた。
弥生はベッドに腰かけて俯きながら、小さく鼻をすすった。
片付いた部屋の隅に置いてあるストーブは冷たいままで、この空間は二重の意味で寒かった。
俺は部屋の入口の扉の前で突っ立ったまま、彼女の方を見つめていた。
俺も弥生も――そしていつの間にか姿を現したハルカも、ずっと押し黙ったまま……部屋の時計がデジタルでは、針が時を刻む音さえもしない。
弥生は泣いてはいなかったが、ずっと俯いたまま唇を噛んでいた。
「とりあえず座って」
十分も経っただろうか、弥生は口を開いた。
俺は黙ったまま彼女の言葉に従い、フローリングに直に腰を下ろした。
「これ使って」
彼女は足元のクッションを掴むと、両手で下から俺に向けて放り投げた。
「……ああ、ありがと」
俺は必要以上に柔らかいクッションを尻の下に敷いて座った。
腰を完全に下ろしたとき、彼女は口を開いた。
「電話、間に合わなかったわ」
「――電話?」
彼女は誰かと約束でもしていたのだろうか――こんな時にそれはないだろう。
「お母さんに取らせちゃった、久々に」
『家で「旦那さんが痴漢を働きました」って電話を受ける母の姿を何回も見てきたわ、嫌というほどね。もう見てられなくて。だから、最近は、無理やりにでも電話には私が出るの』
初めて会ったとき、弥生がそう言ったことが、ふっと頭をよぎった。
「――助くんを責めるつもりはまったくない……ないけど」
声の震えは寒いからじゃない。
「やっぱり、無理だったんじゃないかな」
俺は拳を固く握りしめて歯を食いしばった。まるで、痛みに耐えるように。
痛いのは俺じゃないのに。
「いや、また明日警察の方に俺が行くことになってるから、そしたらちゃんと証言する――」
「ホントはほとんど見えてなかったんでしょ?」
彼女が少し上げた顔の左半分だけが見えた。
弥生の左目だけが俺を見ていた。
「やっぱり、未来を変えるなんてそう簡単にできることじゃないのよ」
今度はハルカの方を見やった。
ハルカはただ悲しそうな顔をしながら弥生を見つめ返していた。
「だから助くん――もう、いいよ」
「もういい?」
「残りの三週間一緒にいてくれればそれでいい。あなたと薫ちゃんと沙織さんみたいな友達ができた夢を、あと三週間だけ見せてくれればいい」
ショックなんだろう。
母親に電話を取らせたところを久々に体験したり、父親が捕まるところを直接見たり――一度「もしかしたら」と思ったことがダメだったり。
「なあ、弥生……もう一度」
「助」
俺を呼んだのはハルカだった。
名前を呼んだ。それだけだった。
それでも、弥生のそばにいる時には滅多に見せない彼女の真剣な表情は、俺を制止するのに充分すぎた。
もう一度、もう一度だって?
もう一度何をすればいいんだ。何かしたところで――たとえば極端な話、弥生がこのままループから出られたとして――親父さんが捕まって裁判まで行くことはもう変わらない。よほどのことがなければ、いや、俺がよほどのことをしなければ変わらないだろう。
「助くん――悪いけど、一人にしてちょうだい」
俺は黙ったまま立ち上がった。
俺も一人になりたかった。
「明日、また来るよ」
そう言うと弥生は少しだけ表情を緩めて、「ええ」と言った。
俺はゆっくりと自宅へ戻った。
体の芯が冷えるのに十分なくらいの時間をかけて、ゆっくりと。
当然のことながら、俺が帰って来ても部屋の中は今朝出かけたときと何ら変わりないままだ。
万年床の布団は敷きっぱなし、テーブルの上のコップは出したまま、雑誌は山積み。
そう、何にも変わりがない。
「なーんにも……」
――甘く考えすぎていたんだ。
こんなことで弥生の力になれるなんて考えた俺がどうしようもないくらい愚かだったんだ。
今回の件は、俺に未来を変えることの難しさを大いに痛感させた。
――こんなことではいけない。
そうは思うものの、今度はハルカの悲しそうな表情が浮かぶ。
まるで、残念だけど、簡単に未来は変わらない――そう言いたげな表情。
――お前はもしかして知ってるのか。俺たちがどうなるのかを。
――教えてくれはしないのか、俺たちがどうすればいいのかを。
――そうまでに役立たずなのか、神様ってヤツは。
――どうしてこんなに役立たずなんだ、俺ってやつは。
明日も警察に出向かなければならない。
別に俺が事件を起こしたわけじゃないのに、後ろめたさのようなものを感じた。
俺自身が、誰もが認める神になって、「この人は無罪だ」――一言、そう言ってやれれば解決するのに。
こんなはずじゃなかった。
失意の海に溺れながら、俺はただ天井のシミを見つめていた。