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2/21 : 背中合わせ、向かい合わせ

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 背中合わせ。互いの熱を感じる。光のない部屋、二人の呼吸の音、背後から伝わる暖かさ――それが全てだった。二人の時間は止まっている。
 幼いころに幾度となく泊まりに来たこの部屋で、今と同じようにして沙織と一緒に眠ったことも数え切れないほどある。しかし、今や俺と沙織は大人の男と女であって、昔のようにはいかない。
 何か喋ってしまったら凍りついた時が進み始めてしまうような気がして、俺はしばらく目も口も閉じたままでいた。
 ……でも、もう限界だ。
「……さお、起きてるよな」
「うん」
 まるで俺が話しかけるのがわかっていたかのような素早いレスポンス。沙織はずっと、俺から話を切り出すのを待っていたらしい。
「やっぱり昨日、寂しかったのか」
 気の毒なことに、お父さんはまた出張先に戻っている。だからこの部屋だけでなく、この家の中には俺たち以外いない。だから別段声をひそめる必要もないはずなのだが、どうしてか俺はほとんど喉を使わずに声を出していた。
「……うん」
「悪かったな……独りにして」
 この体勢では沙織の顔を窺うことはできない。逆に、沙織に俺の表情を悟られることもない。
「うん……」
 三度同じセリフを繰り返した沙織が、俺の後ろで大きく動いた。布団の擦れる音がして、背中の熱が和らいだ。きっと、沙織がこちら側を向いたのだ。
「沙織……」
 返事はない。代わりに、俺の体は後ろから沙織の細い腕に抱き締められた。
「おい、沙織……?」
 途端に心拍数が急上昇する。あまりにこの部屋が静かすぎて、俺の心音が沙織に聞こえてしまうのではないかと心配になった。
 沙織は俺の背中に顔をうずめたまま、頭を左右に振った。
「――やっぱり、ダメだよ……」
 くぐもった、消え入りそうな声。まるで俺の背中に聞かせようとしているのかのようだった。
 密着しているせいで、声は呼気と一緒に肌に当たって、寝間着代わりに身につけているトレーナーごとその部分を湿らせる。
「……悲しいのが、忘れられないよ……」
 沙織は俺の体にしがみつくようにしながら呟いた。
 俺は言葉を慎重に選んで、沙織を諭しにかかる。
「ついこの間のことだろ? 無理に忘れなくていいんだよ」
「でも……無理に忘れないと、ずっと……ずっと、このままになっちゃう気がして……お母さんのことを忘れるつもりはないけど……でも――」
 沙織は別に、お母さんが死んだことを忘れたいわけじゃない。「悲しみ」だけを忘れたいのだ。
 ……だけどな、沙織……――それは絶対にできないことなんだよ。
「私、今忘れないと、ずっと――」
「……いいじゃねえか、忘れなくても」
 俺の腹の上で組まれた沙織の両手に、俺の手を重ねる。
「どういうこと……?」
「忘れられないなら、ずっと悲しんでてやれよ。ずっとだ」
「ずっと?」
「もちろん普段はそんな様子を微塵も見せないように過ごすんだ。だけど、これから何十年と経ってもしも忘れかけたとしても、必ず心のどこか隅っこの方にそいつを抱えて生きて、抱えたまま死ぬ」
 沙織は先ほどと同じように俺の背に顔を預けたまま、微動だにしない。
 自分でも何を言っているかよくわからなかった。赤の他人が聞いたら、あまりに陳腐だと嘲るかもしれないと思った。
 違うんだよ。それは、洗練された陳腐さなんだ。
 ――こんな時に一番効くのは、ありふれた、安っぽい、陳腐な定型文なんだと俺は思う。
 俺は体を抱く沙織の腕を優しく解いて、体の向きを百八十度入れ替えた。間近で見る沙織の瞳には、俺の顔だけが映っていた。
「……それで次にお母さんに会ったときに、『こんなに悲しかったんだぞ、この悲しみをどうしてくれる』ってぶつけてやれ。向こうが申し訳なくなるくらいに悲しんでみろ」
 沙織を安心させたくて、そして、自分自身の抱いた悲しみも誤魔化したくて、こんな言葉を紡いだ。
 生ける者の理屈。「どうか、悲しまないで」と言い遺して死ぬる者には理解できない論理。
 残されし者の必死の抵抗。その死に立ち会わなかった他人には測りかねる戯言。
 そう、同情はしてくれても理解してくれない他人には分かってくれとは言わない。ただ、俺と沙織だけがわかっていればいい。二人だけでいいのだ。

 しばらく、真空みたいな静寂が続いた。もう二度とこの空間の空気は揺れないのではないかとまで錯覚しそうになる。
 やがて、ずっと俯いていた沙織が口を開いた。
「……それでも耐えられなくなったら、助を頼ってもいい?」
「ああ」
 一度、二度と、俺は沙織の頭を撫でた。
 そして、俺の胸のあたりで撫でられていたはずの沙織の顔が目の前に迫ったかと思うと……。
 ――柔らかい、湿った感触が俺の唇を射抜いた。
「……じゃあ、今……今……」
 充分に水分を湛えた瞳が光りながら俺を見つめている。
 ――応じたい。応えてやりたい。
 今度は俺から唇を奪ってやろうと沙織の頭に手をかけた刹那、あいつのことが脳裏をよぎった。
『私、きっと――』
 頭の中の弥生の像が、俺の動きを止めた。
 弥生に返事をする前に沙織と「こういうこと」になるのは、とてつもなく悪いことのような気がする。
 だが、沙織の潤んだ眼が俺の躊躇いを許さなかった。
 俺は沙織を仰向けに寝かせ、沙織の肩の脇に手をついて、真上から沙織に覆いかぶさるような姿勢をとる。
 ――もう、止まらなかった。
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