「死」があるから人間は哲学する。
高校時代の社会科の教師が、授業中にそんなことを漏らしていた覚えがある。
当時の俺はその話に毛ほどの興味も持っていなかったから聞き流すだけで済ませていたが、今、その言葉の意味が少しずつわかりかけてきた気がする。
急に、死ぬことが怖くなった。
実際に一度死にかけて、弥生と会って、母の死をリプレイして、ハルカに脅しをかけられて。今この瞬間にも、俺の背中には黒い影が張りついているのではないかと気が気でない。
身近にあると感じられるものは知りたくなる。だから俺は、「死」を知りたくなった。でも、一度知ってしまったら戻れない。
その不可逆性が俺を苦しめる。
「……死にたくねえなあ」
アパートの俺の部屋。弥生と話をするために、俺はここに戻ってきている。
「いきなり、どうしたのよ」
弥生はといえば、クッションの上に足を崩して座りながらこちらを向いている。
「いろいろあったからな。俺が死んだらどうなるんだろう、と思ってな」
弥生は不思議そうに俺の顔を見つめながら、手に持ったティーカップを口元で傾けた。
「なるようになるでしょう」
取り付く島もない答えが返ってくる。
そうだな――……おそらく、またあの不可解な書類に記入させられて、窓口に持っていくことになる。すると、今度はスムーズに受理されて手続きが完了してしまう。……その後どうなるかは、やっぱり俺にはわからなかった。
「一体、どうしたのよ」
弥生が紅茶味の溜め息をついた。
「……俺が死ねばお前がループから出られるとしたらどうする?」
「え?」
「どうする?」
詳しい説明は何もしない。ただ、弥生がどうしたいかだけを尋ねた。
「そりゃ、出たいけど……助くんはお父さんの恩人だし、それに……」
そこまで言って口をつぐんだ弥生は、「とにかく、そんなことできないわ」とだけ言った。
「そうか」
「その話、ハルカから?」
「……ああ」
次の瞬間、何の考えもなく肯定したことを俺は後悔した。
「――ハルカと、会ったの?」
「……え、あ、いや……」
失敗だった。弥生にはハルカは休暇を取ったのだと伝えてあったことを今さら思い出し、俺は言い訳に困ってしまった。
「どうして私に会いに来なかったの?」
休暇中だと言った以上、忙しかった、なんてのは言い訳にならない。急に仕事が入ったというのも、見え見えの嘘だ。
「答えて」
しどろもどろになる俺に、鋭い視線が突き刺さる。
「答えて!」
語気を荒げる弥生に気圧されながらも、俺はとにかく弥生をなだめようとした。
「とにかく、落ち着けよ」
「……なら、答えて」
口が渇く。ああ、ハルカ、俺に嘘をつかせるお前が悪いんだ。
――俺は嘘が苦手なんだ。
「……ハルカは――」
そんな目で見るな、と言いたかった。できることなら、弥生には俺に背を向けて、耳を塞いでいて欲しかった。
「――もう、お前の担当じゃないんだそうだ」
弥生の手から離れたティーカップがフローリングとぶつかって、高い音を立てた。なんとか割れることを免れたカップの中からは、琥珀色の温かい涙がこぼれ出したように見えた。
クッションが紅茶を吸って茶色く染まる。シミはだんだんと広がっていく。
「嘘よね?」
「嘘じゃない」
――だから俺は、嘘をつくのが嫌いなんだ。
「いつ戻ってくるの?」
「わからない。いつか戻ってくるかもしれないし、戻ってこないかもしれない」
それがバレたとき、損をするのは嘘をついた側だけじゃないから。
「……口止め、されてたんだ」
言い訳だった。
「おかしいとは思ってたわ」
肩を震わせて、弥生が呟く。
「……ごめんなさい。クッションにこぼしちゃったわ。布巾、ある?」
「あ、ああ」
俺は立ち上がると、流しで適当な布巾を濡らして弥生に渡した。
黙々と床とクッションを拭う弥生は、落ち着いているように見える。
「……もっと取り乱すかと思ってた」
「私もよ……あと一週間したら……『そして誰もいなくなった』、ね」
有名な一文を引用して、弥生は満足そうに笑っている。
「そんなこと言ってる場合かよ」
「いいのよ。いずれ、私がループから出るときにはお別れだったんだから」
目の前に座っている彼女は、俺の想像をはるかに凌ぐ強かさを持っていた。
「それより、残りの時間をどうするか考えましょう。そのために呼んだんでしょう?」
「ああ……」
なんだか、終始弥生に主導権を握られている気がする。
「……それで、よければ」
弥生は恥ずかしそうにうつむきながら、こう言った。
「――返事も」
「今、か?」
「私たちには時間がないのよ」
弥生の顔から恥じらいがあっという間に消え失せた。強い口調に、俺は従うしかなかった。
そのとき、水滴が窓を打つ音が聞こえた。
――雨だ。
冷たい雨が降り出した。
「雨ね」
弥生から眼を逸らして、窓の方を向いていた俺に彼女が言う。
「ああ、雨だ」
何の用もなさない、無意味なやりとり。
結晶に姿を変えなかった水が、窓を、屋根を、そして外のアスファルトを打つ。
「……弥生、俺、さ」
お互い窓越しに外を眺めたまま、目は合わせない。
――表を見たって、霧がかかっていて遠くのものはほとんど見えやしないのに。
「わからないんだ」
「ええ、そうでしょうね」
弥生は優しく言った。きっと、頷いていたのかもしれない。
「俺、不器用だから」
弥生がこちらを見ているのを感じた。右頬が熱くなる。
「沙織のこともあるし……」
俺は弥生の方へ向き直った。
「だから、俺――」
その後は、言えなかった。
何が起こったのか、一瞬わからなかった。胸に衝撃を感じて、次の言葉が喉を上がっていかなかったのだ。
気がつくと、弥生は俺の背中に手を回して、胸に顔をうずめていた。
「……やっぱり、返事はいらないわ」
くぐもった声が、真下から聞こえる。
「わがままでごめんなさい……」
その声は、まるで深い霧の向こう側から伝わってきたようだった。
「何もかも、久しぶりだったのよ」
密着した体勢に顔が赤くなる。だが今離れられたら、赤面しているのがわかってしまう。
「お父さんが笑ってるのを見たのも、新しい友達ができたのも、バレンタインに贈り物なんかしたのも……――好きな人ができたのも……全部、全部久しぶりだったのよ」
出会ってからしばらく、俺はこいつのことを「冷たい」女だと思っていた。
冷静で、感情の起伏に乏しくて、死に向かう人間にとんでもない質問を投げかけたり……。
――ならば今、俺が胸に感じる熱はなんだ?
「あと少しで、みんないなくなっちゃうんだったら、せめて少しだけ、夢を見せて」
「……ああ」
俺は艶のある黒髪の上に優しく手を置いた。
「お願いがあるの」
「なんでも、いくらでも聞いてやるよ」
偽りのない気持ちで、俺は誓った。
「みんなで、遊びに行きましょう」
「ああ、いいよ」
「それでまた、ご飯でも食べに行きましょう」
「もちろん、構わない」
「……一度だけでいいから、デートしましょう」
「――それがお望みとあらば」
雨が降り続いている。どうして、今まで雪だったものが雨に変わったのか。
それは、暖かくなってきたからに決まっている。
だったら、どうして暖かくなってきたのだろうか。
……それは、俺たちの別れが近いからだ。