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最後の五日間、そして(弥生)

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 寝起きの霞んだ頭に、今日の日付がぼんやりと浮かぶ。
 二月二十八日。――残り一日。
 三月になるまで残り一日であり、俺が生き返る手続きが完了するまで残り一日であり、弥生の二百数回目のループが次回へ移るまで残り一日である。そして、弥生と二人で過ごす約束をしている最後の一日でもある。
 俺はゆっくりと起き上がり、なるべく音を立てないよう、身支度を済ませた。朝食は弥生と一緒にとろうと約束してある。
 どこへ行くのか――いや、誰と行くのか。
 それを沙織に尋ねられたら答えに詰まってしまう自分が容易に想像できたから、最後まで沙織を起こさぬよう、俺はほぼ無音で顔を洗い、歯を磨き、髪を整え、服を着替え、食卓の上に「出かける」とだけ書いたメモを残し、玄関の扉までたどり着いた。
 スニーカーをつっかけて、ドアの取っ手に手をかける。
「行ってきます」
 習慣か、それとも後ろめたさがそうさせたのか。出発を告げる言葉が無意識に漏れた。
 小さな声ではあったが、起きてからあらゆる音を立てまいと努力してきた自分が途端にバカらしくなって、わざと力強く、眠っている沙織が起きてしまうかもしれないほど大きな音を立てて、俺は玄関の戸を閉めた。

 三月はすぐそこ、それを感じさせるような暖かさだ。まだ影の長い時間帯だが、朝の気温だけでも季節感の違いがわかる。待ち合わせは俺たちが初めて話をした喫茶店にした。半ば強引に呼び止められ、にわかには信じがたい話を聞かされたあの店だ。
 場所選びがあまりにベタだとも思ったが、きっと弥生の言う「デート」とはそういうものなんだろう。

 十分ほどして、目的地に着いた。
 店内には仕事前のサラリーマンや、毎朝姿を見せるのだろう、マスターと仲がいいらしい常連が数人――その中で弥生を見つけるのは容易だった。
「早いな」
「そうかしら」
 挨拶はそれだけだ。
 俺はメニューを手にとって、朝食を決めるべく目を通す。
「弥生、お前も朝飯まだか?」
「ええ」
「じゃあ一緒に頼もう」
 なんだかギクシャクして落ち着かない。ここ一ヶ月、毎日のように顔を合わせているはずの弥生が、まるで別人のように見えた。

 人の良さそうなマスターに注文を告げると、俺たちは改めて向き合う。
 ……一体俺は、この一ヶ月何をしたかったのだろうか。目の前の彼女の顔が、そんな思いを湧き上がらせてくる。
 何がやりたくて、何をすべきで、何ができて、何ができなかったのか。有意なようで、無為な一ヶ月。
 その最後の一日を、まさか彼女とデートして終えるとは思ってもみなかった。
 ずっと人恋しかったんだろう。そう思うと、切れ長のキツい眼さえもが可愛く見えてくる。
 友人に、ましてや恋人になるにはあまりに短すぎた二月。浅すぎた付き合いだった。
 それでも、時計の短針があと一回りもしないうちに、目の前に座っている彼女と会えなくなると思うと、寂しさがこみ上げてくるのはごまかしようがなかった。
「……どうだった?」
 ふと、尋ねてみたくなった。
「何のことかしら」
「このひと月、ちょっとはいつもと違ったか? 死にたくなくなったか?」
 弥生の唇が震えた気がした。
「それは……どうかしら」
 口角を吊り上げて、悪戯に笑う。
「どうかしら、ってことはないだろ」
 俺が食い下がると、弥生は静かにこう言った。
「今年がもし閏年だったら……私の世界は、あと二十四時間分広かったかもしれないわね……二月二十九日が欲しくなるなんて、ここに来て初めてよ」
 でも、と弥生は続ける。
「まだ今月は終わってないもの……最後の最後までわからないわ」
 返す言葉がなくなって、俺たちは朝食をとり終わるまで無言のままだった。

 静かに朝の一時が流れていく。何の会話もない朝食は、不思議と苦ではなかった。周りに人が居て、それなりに音が耳に入ってくるからかもしれないし、元々俺たちは、会話をしなくても自然に二人で居られるようなタイプなのかもしれない。
 けれど、赤い唇が今さらになって沈黙を嫌った。
「……ふたつ、約束をしてほしいの」
 俺は目を見開いて、先を促す表情を作る。
「今日は最後まで、十二時まで一緒にいてくれる?」
 今夜十二時――弥生はまた、永遠の如月に溶ける。
「……ああ」
 俺が頷いたのを見て、弥生はもう一つの約束を口にする。
「今日のことは、誰にも秘密にしておいて」
 その瞳は、乙女のものに他ならなかった。
「誰にも秘密?」
「そう誰にも……どこへ行って、何をして、どんな会話をして……とにかく、日付が変わるまでの出来事、全部よ」
「何だ、二人だけの秘密ってやつか?」
 嫌に真剣な様子だったので、あえて軽口を叩いてみる。
 すると、弥生は意外にも笑った。
「そういう意味もあるかもしれないわね」
「……他にどういう意味があるんだよ」
 もったいつけた言い回しに、俺はやきもきしていた。
「まだ自分の知らない世界に、自分と同じ記憶を持った人がただ一人だけ居たとしたら――」
 詩人が詠うように――。
「なんだか、その記憶を通して私も同じ世界にいるような感じがするんじゃないかしら」
 ――彼女は言い切った。
 どう返事をすればいいのかわからなかった。返事はいらないかもしれなかった。
「ロマンチストだな」
 何か言わなくては気の済まない心が、まるで人の気持ちを鑑みない皮肉屋のように、俺にそうとだけ言わせた。
「ダメかしら」
 彼女はまた笑った。
「……いや、ダメじゃない――」
 こういうのも、悪くない……かな。
「それじゃ、行こうか」
 俺たちは立ち上がる。
「どこへ?」
「そうだな――」
 周囲を見渡すと、この時間帯、席はまだかなり埋まっていることがわかる。
「ここは人が多いからな、二人きりになってから話すよ」
「あら、どうして?」
 テーブルの上の伝票に代金を添える。
「どこへ行って、何をして――これから日付が変わるまでのことは、誰にも秘密だから、な」
 俺は、弥生の手を引いた。
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