毎週一度は金沢家に訪れ、沙織に夕食をご馳走になる。沙織は本当に料理が上手い。
今日も夕食を同じように振舞ってもらい、タッパーに分けてもらってから帰って来た。
ついつい沙織といると時間を忘れてしまい、アパートの自室に戻ってきたのは日付が変わってからになってしまった。
食事の最中も特にいつもと変わることなく、テレビを見つつ、他愛もないことを話題にして談笑する。高校に進学してからずっと独り暮らしをしてきた俺が寂しさを感じずに済んでいるのは、金沢家と、薫の存在によるところが大きかった。
俺はそのひと時をとても大切にしていたし、沙織も楽しそうにしてくれる。沙織の両親も、俺のことを実の息子のように扱ってくれている。こう思ってみると、俺の周囲にいる人たちに、俺は頭が上がらないというか、感謝をしてもしきれない。
――お母さんの見舞に弥生を連れていくのもどうかと思ったが、とりあえず誘ってみよう。
電話番号を交換してから初めて、電話帳から「望月 弥生」を選択する。携帯電話に発信すると、すぐに繋がった。
「高宮です」
面と向かっての会話では敬語を使わないような相手に、電話越しには敬語を使ってしまう感覚は、日本人なら誰でも共感できると俺は勝手に思っている。
『……助くん? 何か用?』
眠そうな女性の声が、電話機特有の音質で耳に伝わってくる。
「あ、ごめん、寝てた? 寝てたよな……」
十二時を回っているのだから、もうすでに寝ていてもおかしくない時間帯だ。電話をかける前に気がつくべきだった。
俺は夜型だから、深夜二時、三時くらいまでは平気で起きていられる。仲のいい友達なんかには時間を気にせずメールしたりするから、その癖がここで出てしまった。
『気にしないで』
「本当に悪い」
『こんな時間に電話してくるってことは、何か大切なことなんでしょう?』
俺にとっては確かに、母代わりの人の見舞は大切なことだが、赤の他人の彼女にとっては全く関係のない話だ。でも仕方ない、このまま大切なことだってことで話を進めてしまおう。
「……協力するとか言っといてなんなんだけど――明日、ちょっと付き合って欲しいんだ」
『何処へ?』
彼女の声に纏わりついていた眠気は、もう感じられなくなってきた。
「お母さんの、と言っても実の母じゃないんだけどさ、お見舞いに」
きっと嫌がるだろうな、と思っていた俺だったが、弥生の反応は違っていた。
『いいわよ』
「え、いいの?」
予想に反した彼女の応答に、俺の声は少し上ずってしまった。恥ずかしい。
『とりあえず一緒に行動することから始めたいの』
「ああ、なるほどね」
物怖じしない子だ。
『何時ぐらいに、何処へ?』
「そうだな……一番近くの市民病院あるだろ?」
『家から近いわ』
それなら話は早い。
「そこに入院してるから、市民病院に午後二時ってことで」
『わかったわ』
弥生もハルカも、話が早くて助かるな。二人の話を、喫茶店でなかなか飲み込めなかった俺がなんだか理解力に乏しいみたいで嫌だな。あれでも、普通の人よりはかなり早く理解できたとは思うが……。
「遅くに電話して悪かったな。これからは気を付けるよ」
『……うん。そうして』
受話器越しの声は、再び眠気を含んだものへと変化した。
……やっぱり、寝てるところを電話で叩き起こされるのは誰だって嫌だよな。
「気を遣えないとダメだよな。もう安心して寝てくれ」
『……おやすみなさい』
「ん。おやすみ」
向こうから通話を切ったのを確認して、俺も携帯を置いた。
――さて、俺も寝よう。
「こんな夜中に電話してくるなんて、何だったの?」
私が通話を終えた後、ハルカが私に尋ねてくる。
「明日、病院に行くことになったわ」
「病院?」
「助くんが母親のお見舞いに行くのに付き合えって」
「……ふうん」
ハルカが顎に人差し指を当てて何やら考えている。
「ま、行ってきなよ。私は行けないけど……」
「……ん、わかった」
最近、特に助くんと会ってから、ハルカは単独行動を取る頻度が増えたように思う。ただの偶然なんだろうか。
彼女には彼女の都合が――仕事だろうとは思うが――あるのだろう。
「ホントは弥生のことも見てなきゃいけないんだけどさ、やらなくちゃいけないこと増えちゃって」
「いいの」
神様が友達としてこんなに長く私と付き合ってくれているだけでも、十分凄いことだ。
――私はこれ以上、ハルカに何を望めようか。
「おやすみなさい」
私は返事をしなかった。
二月の空は厚い雲に覆われていた。日の光が届かない地上の空気は冷たく、鋭い。灰色の空へ向かって伸びる十二階建ての白い建物は、上空で空と同化して見える。
その大きな総合病院の入口の前には、小さな女性が立っていた。俺と待ち合わせをしてる人だ。
「……寒いだろ? 中で待っててくれれば良かったのに」
「あ……」
彼女の顔の下半分にかかったマフラーの中から、くぐもった声が聞こえた。
「ここで待ってるのが確実だと思ったから」
「風邪引いたらどうするんだ……とりあえず入ろう」
「うん」
そういえばハルカがいないが……まあ、あいつにもやることがあるんだろう。
エレベーターに乗り込んで、「8」のボタンを押す。乗っているのは俺と弥生の二人だけだ。
「昨日は遅くに電話しちゃってごめんな」
昨夜のことについて謝る。
「気にしないで」
怒ってるのか、許してくれているのか分かりづらいが、ここは本人が気にしていないというのだから、信じておこう。
八階に到着して、軽い音と共にドアが開く。
俺は目当ての病室を探して、廊下を歩きだす。弥生は無言でついてくる。
「……ここだ。お前のことは俺からも紹介するから」
「……」
沈黙を了承ととらえた俺は、「金沢 京子 様」と書かれた札がかかっている病室のドアを、二回ノックする。
「お母さん、助が来たよ」
個室の中から出てきたのは沙織だった。
「あら、助? 久しぶりね」
ベッドの上で起き上がっている母の声がした。
「全然お見舞いに来てなくて、ごめんなさい」
俺は頭を下げつつ病室の中へと入っていった。
「……あら? そこに立ってるのは?」
母は弥生を指差す。
「俺の友達というか……、ちょっと訳があって一緒に来てもらったんだ」
俺が話したくないのを察したのか、深くは追求してこない。
しかし……痩せた――いや、やつれたというべきか。前に病室で見た姿よりも、かなり細く見える。
「失礼します」
弥生も遅れて、やっと入ってきた。
「助がお世話になっているみたいね」
「いえ……そんなことは」
弥生が小さな声で答えているのを聞きながら、俺はリンゴの入ったスーパーの袋をベッドの横の机に置いた。
「リンゴ買ってきたから食べて」
「あら、ありがとう」
痩せた顔の目尻に皺が寄る。その仕草は、病人特有の弱々しさを感じさせる。俺を母として育てて来てくれた人が弱っているのを見るのは辛い。
「体調は?」
「良好ね……今のところ」
冗談っぽく付け足すが、とても冗談には聞こえない。
――この人はもうすぐ死ぬ。それを自分で分かっているのだろうか。
もうすぐ、俺たちにも会えなくなるというのに。
「私、リンゴ剥きましょうか」
「そうねえ、お願いするわ」
弥生の申し出を受ける。弥生はテーブルの脇に置いてあった果物ナイフを取ると、慣れた手つきでリンゴの皮を剥き始めた。
「弥生、上手いな」
――女の子らしいところもあるもんだ。感心して声をかける。
「まあね」
そっけなく返される。
「弥生ちゃんって言うのね、嬉しいわ、こんな知らないおばさんのお見舞いになんか来てくれて」
「……助くんのお母さまに会ってみたかったんです」
勘違いされちまいそうなセリフだな。
「嬉しいこと言ってくれちゃうわね」
――どうやら、お母さんは弥生を気に入ってくれたらしい。そして思いついたように言った。
「ねえ沙織、せっかくリンゴ戴いたんだし、暖かい紅茶を買ってきてくれないかな」
「わかった、行ってくる」
沙織が財布を持って病室を出て行こうとする。
「あ、いいよ、俺が行ってくるから」
俺は沙織を引き留めようとした。
「私が行くからいいよ。助はお母さんと話してて。お母さん、助とずっと話したがってたんだから」
……そういえばそうだったな。
「そうか、わかった。ありがとな」
沙織はコートを羽織って出て行った。
「……何でコートを?」
弥生が訝しげに言う。確かに、紅茶など病院の売店で買えばいいのだから、コートは不要だ。
「私の好きな紅茶はここにはないのよ」
「……そんなこだわりが」
そういえば、金沢家に厄介になってた時、やたらにいい茶やコーヒーを飲まされてた気がするな。
「……それよりお母さん、最近放って置きっ放しで本当に悪かったね」
「ううん、いいのよ。死ぬ前に助と話ができてよかったわ」
彼女は軽々しく「死」と口にする。
……自分の死期を悟っているのだ。覚悟を決めている。
そんな人を目の前に、俺は何を言っていいのか分からなくなった。そして、迷いや悲しみが混ざった表情が俺の顔に出てしまったらしい。
「そんな顔しないで――ちょっとお別れするだけだから。それに、もうちょっとは持つと思うんだ」
ちょっとのお別れ――果たして本当にちょっとなのだろうか。
「お母さんこそ、そんな言い方ないだろ。まだ――」
「助かるかも、って?」
俺の言葉は、母に優しく引き継がれた。
「いいのよ、そんな慰め。――遅いか早いか、それだけの違いなのに、皆、デリケートな問題だと思って触れようとしないの。一番冷静なのは案外、本人だったりするわけ」
――達観している。なんだ、この落ち着きようは。
死は人に真理をも悟らせてしまうのか。俺の方がよっぽど動揺しているじゃないか。
「……あの、ひとつ聞きたいんですが」
意外にも、弥生が話に入ってきた。
「ええ、もうすぐ居なくなる私でいいなら答えるわよ」
ブラックな受け応えだ。
「――死んでしまうことと、永遠を生き続けること、どちらが残酷なことだと思いますか?」
……弥生、お前は――。
重い運命を背負った二人に挟まれ、俺は息苦しい思いだった。
ベッドの上の女性は、ゆっくりと口を開く。
「哲学的なお話ね……それにあなた、何か大変なことを抱えてる」
死に対して悟りを開いてしまった人は、他人の心に敏感になる。彼女の澄んだ目は、確実に、弥生の心臓の中心を、核を捉えていた。
「……はい」
「あんまり抱え込んじゃダメよ。助に相談しなさい」
何を言ってるんだ、あなたは。人に忠告している暇があったら、自分の命の期限を気にしてくれ――。
「……もうしました」
「そう……まあ、そうじゃないかって思ってた」
そう言って、弥生に微笑みかける。
「あのね――私は死んだことがないから、よくわからないわ」
柔らかい表情のまま、母は語り始める。
「正直言うとね、死にたくない。この世に未練はたくさんあるわ」
でも、と続ける。
「でも、でもね――『今すぐにでも死にたい』なんて言ったら、それは負けなの。『永遠に死にたくない』と言う人は、まだちょっと幼いだけ」
「……分かりません」
「今はそれでいいけど、いつか必ず分からなければならなくなるわよ」
俺は、静かに彼女の話を聞いていた。静謐な病室で、今にも消え入ってしまいそうな命の持ち主が「死」を語る。暖房が十分に効いているはずなのに、鳥肌が立つのを感じた。
「ただ、今を生きてみればいい。私にはもうそれは叶わないし、永遠に死にたくないなんて言っているうちは、そんなことは出来ないけどね。――なんだかくさくなっちゃったけど、これぐらいかな」
照れ隠しに笑う母。
「……ありがとうございました。変な話をすみません」
「いいのよ」
無表情な弥生。
弥生は今の母の話に、何かを感じ取ってくれただろうか。
「助」
母が俺の名を呼ぶ。
「沙織のことは任せるわ。お父さんと一緒に、面倒見てあげてね……あの子、ショック受けちゃうだろうけど」
「……もちろん」
言わずもがなだ。
弥生は黙り込んで、何か考えているようだった。
心の底でまだ「死にたい」などと思っているようじゃ、俺はお前を助けようとは思えない。母を利用しているようで気が引けたが、これを再確認するために俺は弥生を連れて来たんだ。
――死ぬことと永遠を生きること、どちらが辛いか。
――お前は、どう思う?