5.二度目の選択 <10.22> <10.29>
5
「……酷い、ね」
サナは溜息をついた。
「ああ」
父が殺された当時の話を終えたロイは、座ったまま壁にもたれかかった。横にはレイリが座っている。
月明かりすら通さない暗い部屋の中で、三人は向かい合って座っていた。他の住民の静かな寝息が聞こえる。
「でも、少し気分が楽になった。不思議だな、何も変わっていないのに」
呟くロイに、サナは穏やかな微笑みを向けた。
「何だってそうだよ。中に溜め込むと苦しくなる。外に出すと楽になる。ね、レイリ」
同意を求められたレイリは微笑んで頷いた。
「うん、そうよね」
「ほら、レイリもそうだって」
サナは嬉しそうにロイを見た。ロイは軽く頷き、レイリに目を向ける。目の合ったロイとレイリは、しばし見つめ合った。
サナは見つめ合っている二人を面白そうに眺めた。その視線に気付き、ロイは少し慌てた様子でレイリから目を逸らす。
「そろそろ寝ようか。もう遅い」
「ん、そだね」
「うん」
三人はそれぞれ、自分達の寝床に向かった。その途中、ロイがふとサナを振り返り、その背中に声をかけた。
「……サナ」
「ん?」
「君の――」
君の「目的」とは何だ、そう聞こうとしてロイは口をつぐんだ。
自分には目的があるとサナが言ったあの夜、ロイはその内容を聞き返さなかった。それ以来、二人はその話題に触れていない。
「いや……何でもない。おやすみ」
「なに?」
「いいんだ」
「そう。じゃ、おやすみ」
ロイは聞くことができなかった。サナの目的が何であれ、この国に捕らえられた以上、それが叶うことはないだろう。
せめて、元々無関係のサナだけでも、この国から逃れることができないだろうか……そんなことを考えながら、ロイは眠りに落ちていった。
数日が経ち、担当の兵士がロイ達の部屋で食事を取る日が来た。
兵士はいつものように味のない食事に悪態をつき、部屋に唾を吐いて帰っていった。
「相変わらず、嫌な奴だねぇ」
サナが軽い調子で言った。ロイとレイリが小さく苦笑して頷く。他の同僚達も既に慣れた様子で、サナをたしなめるような事はなかった。声に出して同意こそしないものの、微かに頷く者もいた。
その夜、部屋の皆が寝静まった頃、突然ドアが乱暴に蹴り開けられた。部屋の住民達が飛び起きる。
「全員、出てきてそこに並べ!」
中に入ってきた兵士が言った。後ろにもう一人、兵士がいる。どちらも、先程この部屋で食事を取ったいつもの兵士とは違う兵士だった。
ロイ達は布団を跳ね除け、兵士の前に整列した。
列に加わったロイとレイリが不安そうに顔を見合わせる。サナの姿が見当たらないのだ。
便所だろう、ロイは目でレイリにそう合図した。レイリも目で頷き、ロイから視線を外した。
ロイはふと違和感を覚えた。サナがいないのは、今夜に限ったことではなかった。ロイは悪夢にうなされ、夜中に目を覚ますことがよくある。その度にサナはいないのだ。
しかし、今のロイにそのことを考える余裕はなかった。それどころではない。目の前にいる兵士二人は、いつもより更に醜悪な表情でこちらを睨んでいる。
整列した住民達を見回し、兵士が口を開いた。
「先程、ここで食事をとった兵が城に帰った途端、腹を下した。この部屋の調理係は誰だ」
ロイは愕然とした。背筋に冷たい感触が走る。隣にいるレイリの顔は一瞬で蒼白となった。部屋が緊張に包まれる。
「お前か?」
兵士は近くに立っていた女に目をやった。指名された女は後ずさり、激しく首を横に振った。
後ろの方にいたレイリが青い顔で、口をぱくぱくと動かした。声は出ず、代わりに震えながら片手を挙げた。兵士の視線がレイリに向く。
「お前か。前に出ろ」
足がすくんで動けないレイリに兵士は歩み寄り、腕を強く握って力任せに引いた。レイリは引きずられるようにして同僚達の前に出る。兵士が手を離すと、レイリはその場に膝から崩れた。腰が抜けたのだ。
兵士二人はレイリを見下ろした。
「今日の食事に何を入れた。言え」
レイリはうずくまって俯いたまま、首を横に振った。
「答えられんのか」
たまりかねてロイが一歩前に踏み出し、震えながら口を開いた。
「僕達も、全く同じ食事をしました。だから、食事が原因では――」
ロイの言葉は途中で遮られた。兵士が彼のみぞおちに蹴りを入れたのだ。ロイは腹を押さえ、咳き込みながらうずくまる。
「お前には聞いていない。次は撃つぞ」
兵士は腰の銃を抜き、撃鉄を起こした。
レイリが涙に濡れた顔を上げ、すぐ横でうずくまっているロイにすり寄り、彼を守るように覆いかぶさった。
兵士が冷たい表情で、ロイを包んだレイリの背中を見下ろす。
「……何をしてる」
兵士はレイリを蹴飛ばした。レイリは小さく悲鳴を上げ、地面に転がった。ロイが膝をついたまま顔を上げる。
「レイリ……!」
声を上げたロイの顔面に、もう一人の兵士が蹴りを入れた。ロイは後ろ向きに倒れ込む。
レイリを蹴った兵士が、仰向けに倒れているレイリに歩み寄り、上から彼女の顔を覗き込んだ。
「ほう、よく見るとわりと可愛い顔してんじゃねえか。この部屋にいるってことは、まだ十八になってないんだろうが……」
レイリは頭を起こし、腰を地面につけたまま後ずさった。その顔は恐怖と絶望に覆われている。
ロイは蹴られた顔を手で押さえ、ふらつく体で上体を起こした。鼻と口から血が流れている。
「どうせ死ぬんだ。その前に、喰っておくか」
兵士はそう言って唇を舐めた。後ろにいる、ロイを蹴った兵士も卑猥な笑みを浮かべる。
「い……や……」
レイリが擦れた声を絞り出した。彼女は怯えた顔で二人の兵士を見上げている。その体は金縛りにあったように全く動かない。
兵士はゆっくりとレイリに近づき、腰を落としてレイリの服に手をかけた。その後ろでは、もう一人の兵士がにやつきながら二人を見下ろしている。同僚達は皆レイリから目を背け、一様に俯いた。
四年前の出来事が、走馬灯のようにロイの脳裏を駆け抜けた。自分の大切な人が、目の前で理不尽な暴力に犯される。
ロイは立ち上がり、腕をだらりと垂らした。四年前に自分を押さえつけていた兵士は、今はいない。
兵士に衣服を剥ぎ取られていくレイリの顔が見えた。抵抗すら出来ず、ただ涙を流している。レイリとロイの目が合った。ロイの頭の中で、何かが弾けた。
ロイは、レイリに手をかけていた兵士に向かって突進し、そのまま兵士を突き飛ばした。意表をつかれた兵士は顔面から地面に倒れ込む。ロイは、仰向けになっているレイリを守るように覆いかぶさり、強く抱き締めた。
「ロイ……」
レイリが涙声で彼の名を呟き、その背中に両手を回した。
数秒の静寂があった。ロイに突き飛ばされた兵士は、少し離れた場所でうずくまり、ぶつけた顔面を押さえている。
傍らに立ち一部始終を見ていた兵士は、唖然とした表情でロイを見つめていた。目の前で起こった事が信じられないのだ。彼らはウルが王位について以来、自分達に逆らった者を見たことがなかった。
同僚達も俯いていた顔を上げ、床で抱き合っている二人を唖然とした表情で見つめている。
突き飛ばされた兵士が立ち上がり、肩を震わせながら鬼の形相で二人を振り返った。
「貴様……今自分が何をしたか、わかっているのか……」
異常な興奮状態にあって思考を失っていたロイは、兵士の言葉ではっと我に返った。自分のしたこと、これから自分が辿るであろう運命が一気に脳裏を巡り、気が狂いそうな恐怖に襲われる。
しかし、彼の顔のすぐ側には、愛しい人の顔があった。体全体で彼女の温もりを感じていた。ロイは震えながらもう一度、レイリを強く抱き締めた。彼女もロイの背中に回した手に力を込める。ロイはレイリの耳元で囁いた。
「愛してる」
「私も……」
ロイは顔を上げ、レイリの唇に口づけた。
「……!」
目の前で口づけを交わす二人に逆上した兵士が駆け寄り、ロイの腹を思い切り蹴り上げた。ロイは激痛に顔を歪めるが、レイリを抱き締める腕は離さない。レイリも涙を流しながら、ロイを抱き締める腕に力を込めた。
抱き合ったまま離れない二人を、兵士は幾度も蹴った。同僚達は顔をしかめて俯いている。
十数分が経った。レイリを庇い、より多く蹴られたロイの意識は既に朦朧としている。しかし、それでも二人は離れない。蹴っている方の兵士の息は既に切れ始めている。横で見ていた兵士が口を開いた。
「おい、もういいだろ。こんな馬鹿共はさっさと殺して、帰ろうぜ」
息を切らした兵士はチッと口をならした。
「……そうだな」
兵士は改めて銃を取り出し、銃口をロイの背中に向けた。
「感謝しろよ。仲良く一緒に殺してやる」
ロイとレイリはぎゅっと目を瞑り、お互いを強く抱き締めた。
二人が死を覚悟し、住民達が目を瞑った瞬間、銃声とは違う鈍い音が部屋に響いた。
「……よくここまでやれるよ、無抵抗の人を相手に」
レイリは聞き覚えのある声に、目を開けた。ロイも振り向こうとしたが、身体が言うことをきかない。
「サ……ナ……?」
擦れた声で呟くレイリの視線の先に、サナが立っていた。
ロイ達に向けて銃を構えていたはずの兵士は、部屋の壁際に倒れており、口から泡を吹いて気を失っている。
横に立っていた兵士がサナから飛び退き、慌てて銃を抜いた。
「お、おまえ、いったい何を……!」
兵士はサナに銃口を向けた。サナは兵士を睨みつけ、向けられた銃を意にも介さない様子で、ゆっくりと兵士に詰め寄った。
「王が変わって後ろ盾を得ただけで、あなた達はどうしてここまで冷酷になれるの?」
「来るな! それ以上近づくと撃つぞ!」
兵士は後ずさりながら叫んだ。
「撃てば?」
サナは足を止めず、兵士との距離を更に詰める。
兵士はサナの胸に狙いをつけ、銃の引き金を引いた。乾いた音が部屋に響く。
その瞬間、目の前にいたはずのサナが、兵士の視界から消えた。
「なっ……」
目を丸くした兵士に、後ろから声がかかる。
「あなた達はどうして、」
全身で危機を感じ、反射的にその場から飛び退きながら身を翻して振り返った兵士に、サナは一歩で間合いを詰め、踊る様に蹴りを放った。
吹っ飛んだ兵士の体は勢いよく壁に叩きつけられ、既に倒れていた兵士の上に、覆いかぶさるように倒れ込んだ。
兵士二人は完全に気を失い、ぴくりとも動かない。
サナは一つ溜息をつき、ロイとレイリに駆け寄った。なんとか体を起こしたロイを、すぐ横でレイリが支えている。
二人の前に、サナは膝をついた。
「大丈夫? ごめんね、遅れて。遠くまで出ていたから」
レイリは目に涙を浮かべてサナを見つめた。頭は目の前の出来事についていけなかったが、サナが自分達を守ってくれた事だけは理解できた。
「ありがとう、サナ……ありがとう……」
サナは微笑んだ。
「二人とも、頑張ったね……ロイ、かっこ良かったよ」
ロイは顔を上げ、焦点の定まらない目でサナを見つめた。
「サナ……君はいったい――」
「何てことをしてくれたんだ」
ロイの言葉は遮られた。ロイとレイリは顔を上げ、サナは膝をついたまま後ろを振り返った。
同僚の一人が、前に出てサナを見下ろしていた。