三話 闇より深し狂気 五章
5、新たな道
「はぁ・・・はぁ・・・くっ!!」
蒼夜は荒い息を吐きながら、眼前に迫った凶器を寸前で転がり避けた。間一髪で避けた鋭い一撃は触れるだけで致命傷になる。体を打ち付けてでも避けなければならなかった。
怪物はたどたどしいながらも、一歩着実に蒼夜へと近づいていた。
怪物は今、左足を失っている。蒼夜の爆発で吹き飛ばしたのだ。しかし、蒼夜もそのときに右肩に傷を負ってしまった。怪物は左足を失いながらも、その腕を振り下ろすのを止めなかったから。それは強靭な肉体と理性が残っていないことを蒼夜は感じた。
「あのときより・・・段違いに強い。」
あの男――――黒神 明の能力は、感情の暴走だと蒼夜は考えていた。三重の持論もといBASFの考えで、能力の発現は感情の高まりからくるものだとされている。
あの男に睨まれたときの感覚は、確かに『恐怖』だった。『恐怖』で体が動かなくなるということがあるように、『恐怖』は感情を揺さぶるのに最適だ。そして隙に付け入るのも『恐怖』だ。
そこから、能力を無理矢理引き出す。無理矢理引き出された能力は、本人には扱え切れず、やがて暴走する。そこに理性の入る余地などなく、体の形態も変えて本能のままに行動する。つまり『食欲』『睡眠欲』『性欲』である。その中でも生きるために『食欲』が先行される。夏にあった事件でも、女が過剰に『食欲』を求め殺人を行ったのは、このためだろう。
残ったのは黒神への忠心だけ。
「グゥルルルル・・・・・」
目の前の怪物は人型をかろうじて保っているが、人の名残はない。
今回、蒼夜が確証をもってここに来たのは理由がある。
黒神の能力が人に恐怖を植え付け、能力を暴走させるなら、あまりにもシチュエーションが当てはまっているからだ。
大量殺人事件――――昨日起きた、外れの村での謎の大量殺戮。動機も目的も何もかもが不明のこの事件は、黒神と関連付けると納得がいく。
人が特に恐怖を覚えるのはいつだろうか。それは人によって異なると思うが、それは大抵『死』に直面する瞬間だろう。
人は『死』を間近にしたとき、少なからず動揺してしまう。それが多ければ多いほど衝撃は大きくなる。
その大きい動揺は黒神によって大きな力となる。それを黒神は自分の思い通りに動かせるのだ。その力を得るために黒神は作戦を実行した。
「予想は、合っていた。しかし、これほどまで戦力が違うってのはな。」
蒼夜は頭で今までのことを整理しながらも、焦っていた。肩に残った跡は予想以上に深かったらしい。血が傷口から溢れ出し、指先は震えて動かせない。体を動かそうとするが肩に激痛が走り、吐き気がし出した。
「・・・・・情けねーな。俺はよぉ・・・」
この8年間。黒神を追いかけながら自由に生活していた。だが、それは間違いだったのか?
ザク・・・ザクッ・・・
ゆがむ視界で顔を上げると、怪物が右腕を横に、左腕を縦に構えた。後ろに逃げることのできない蒼夜を確実に仕留めるためだった。次の瞬間、腕が振り切られ、蒼夜は苦笑した。
バッ、バコッ!!
とても軽い音がした。一番戸惑ったのは怪物だった。不穏な空気を感じた。手ごたえが感じられない。何故かシューッ、と気体が漏れる音がする。
「こんなやつに、手間かけるとは。リーダー失格だな。」
苦笑しながら呟いた蒼夜の両腕にはスプレー缶が握られていた。缶は器用にも怪物の攻撃を防ぐように爪が刺さっていた。爪の長さが直径より長い分、手の平と腕から出血があるが被害は小さい。そして音の発生源はその缶の穴からだった。
怪物は危険だと無意識に感じ、距離をとろうとするが、片足失っていて思うように動けなかった。
「無駄だぜ。距離をとったって、もう遅い。」
蒼夜は缶を放り出すと内ポケットからビンを取り出すと足元に投げつけた。中から液体が飛び散った。
「派手にぶっ飛んじまいな。」
蒼夜は自分の指先を点火した。
「ん・・・そっちか!?」
激しい爆発音を聞いて三重は緩やかな山道から、森の中に続く獣道へと無理矢理カーブさせた。赤いボディに傷がつくのも構わずありえないスピードで掻き分けていった。無論、中にいる三人も激しい振動で体が揺れたが、何故かカップに残った飲みかけのコーヒーはこぼれることなく鎮座していた。
時折後ろから悲痛な叫びが聞こえてきて、
「舌かまないように口を閉じてて。」
と、注意したがすでに遅かったようだ。
ところで、さっきの爆発音。十中八九、蒼夜が爆発を起こしたのだと思うが、三重は不安に感じた。
蒼夜は、普段あまり大きな爆発を起こさない。それは他の物への被害を最小限に留める配慮なのだが、それでも仕事はなんなくこなしていた。・・・・と、なると今、蒼夜はこれほどの爆発を起こさなければならないほど、危険な状態なのかもしれない。そんな風に考えていた。
それなら、一刻も早く助けに向かわなければならない。
・・・過ちは繰り返さない・・・
そんな強い気持ちが高ぶり、コーヒーの水面に波紋が広がった。
しかし、そんな強い気持ちも暗い夜道を見通すことはできない。蒼夜の姿が見つからず、焦燥感が沸いてきた。まさか、自分は方向を間違えたのか?
「もう少しだ。」
「っっ!?」
突然、後ろから顔を出し、絶が口を開いた。あまりにも突然で主語がない言葉だったので、どもってしまった。
「兄貴は生きてる。・・・でも弱々しそうだ。攻撃を受けているのかもしれない。三重さん急ごう。」
そう急かされて、三重は離し始めていたペダルを踏みなおした。
前は車のライトで照らされているが、木々で遠くまで光が届かない。それなのに絶はさらに遠くに蒼夜の姿を発見したと言い、蒼夜の状態まで分かっている様に話した。
信じられないような話だが、その言葉で三重も決心がついたのは確かだった。止まっていても何も始まらないのだ。なら動いた方が絶対にいい。
そう思いながら、三重はミラー越しに絶の顔を見ると、不思議な光景があった。
絶の目が普通では無かった。だからと言って蒼夜から聞いていた、赤い瞳でもない。その瞳は今までとは変わった色を発する、決心の溢れたものになっていた。
しかし、それはすぐに消え、いつもの黒に戻り、また絶自身も気づいていないようだった。
こんな、一刻を争うというときに側に未知のことが起こるのは、ときに不安要素になることが多い。だが、三重は奇妙な光景を見た後、一人静かに口元を吊り上げた。
何故か分からないが、この一件で絶が成長し、いい方向に進んでいると感じたからだ。
そして、また自分達の道も――――
三重がアクセルを踏みしめてから、数分後。森の中でも少し開けた場所に出た。焦げた匂いが立ち込めていたので、蒼夜の爆発で出来た場所なのが分かる。
三人は同時に車を降りた。敵が近くにいないか注意しながら蒼夜の姿を探した。
「・・・・きゃっ!」
突然、ムゥが叫んだ。絶と三重が駆けつけるとムゥが目を背けながら、ソレを示していた。ソレは人間の手足のようなものだった。しかし、明らかに違う点があった。それは何本もの棘がまるで骨が皮膚を突き破ったかのようについていたことだ。
「大丈夫。兄貴じゃない。」
絶が目を背けるムゥに言ってやると、ムゥは何故か首を振った。
「蒼夜さんじゃにゃいのは分かってます。ただ・・・」
「・・・ただ?」
ムゥがソレを見ないように絶の方を向いた。
「見るのが怖いんですぅ・・・」
死体を見るのが。そう、死を見るのは誰だって怖いはずだ。だからムゥの反応はもっともらしいものだ。
いつの間にか、死を見慣れた自分がいるのに気づいて、絶は黙って死体に向き直った。ムゥは三重とともに、違う場所に蒼夜を探し始めた。
絶が死体をまたいで、森の奥の方に行くと胴体だっただろう黒こげの物体があった。
ソレをよく観察すると、焦げているのは表面だけで、傷跡から生々しい肉が見えていた。
あの爆音と場の状況からして大きな爆発だったはずだが、熱には耐性があり、止めを指したのはその風圧らしかった。だから、蒼夜は苦戦を強いられたのか。
さらに調べようとナイフを取り出そうとした時、視界に違和感を感じた。
「・・・ぐっ!」
突如、目に熱が集まり、視界が赤く染まり始め、いつもの能力が発動しそうだったが、何故か黒い衝動はこみ上げてこなかった。その後感じたことの無い新しい痛みが走り、目を押さえた。
閉じた目の中でさえ世界は赤だったが、痛みが引くとともに青が混じり始めた。
「・・・・何だ。これは?」
目を開けると、『紫』で景色は塗りたくられていた。
不思議な感覚だった。赤い景色もごく最近見始めたが、なぜかその状況に既に体が慣れていた。しかし、『紫』の世界は体の中に異物が入ったように、本能が受け入れがたかった。
だが、『赤』の世界と共通していることが一つだけあった。
「これは、何と関係があるんだ?」
薄い紫の中で、死体の胴体の中に繋がっている、より強い紫をした『線』を見ながら、絶は呟いた。
森の中をサイレンの音が伝わってきた。その音の方を三重とムゥはチラリと見る。音を発生し続けるパトカーから降りてきたのは藤木と月宮だった。
パトカーから降りると、月宮は周りを見渡すと唖然とした。
「なんだ、これは?一面真っ黒じゃないか。やはり爆発が起こって・・・」
その後ろから、藤木も顔を覗かせるが、反応は月宮と大して変わらなかった。
「登場が遅いですよ、警察さん。・・・これは蒼夜の能力で一面焼けちゃったのよ。驚くのもいいけど、先に蒼夜を探してくれない?あの馬鹿、爆発の勢いで飛ばされちゃったみたい。」
三重が簡潔に説明して、二人はなんとなく分かったようなあいまいな顔になった。
「それで、夏楼 蒼夜の特徴とかはないのかね?」
「・・・そうね。SABF特注の耐熱素材を使った革ジャンを着ていると思うわ。」
「革ジャンか。分かった。我々はあちらの方を探してくる。行くぞ月宮。」
そう言って、藤木と月宮は逆の方向に進んでいった。
「そうだ、ムゥちゃん。さっきから絶の姿が見えないんだけど。」
思い出したように三重がムゥに聞く。
「それがさっきの死体の所で、別れたきり見てにゃいんです。もしかしたらまだあそこにいるのかも・・・・」
と、小首を傾げながらムゥは答えた。三重もそれを聞いた後口に手を当てて悩んだ。
一応蒼夜が戦っていたはずの敵の死骸は見つけた。だけど、それだけではまだ安全かどうか判断できない。もしかしたら、他にも敵がいるかもしれない。それ以前にあの男―――黒神 明の行方も分かっていない。
今、単独行動に出るのは危険。絶を呼びに行くべきか。蒼夜を探すのに集中するか・・・・・あああああ!!
「元はといえば、蒼夜が悪いんじゃない!私達に何も言わずに一人で勝手なことをするから!」
こんなことをしてる場合じゃないのに、と思いながらも、怒りを半焼した気の幹に回し蹴りの形でぶつけた。
気が振動で素早く揺れ、焦げた葉がパラパラと落ちていく。
後ろで、ムゥがうわあ、すごい力とのんきに感動しながら見ていた。しかし、二度三度同じ後景を見ていると、黒い葉から出てきた何かに目を奪われた。
「三重さん。止まってくださーい!!」
しかし、ムゥが大声を上げて三重が静止したのは、人らしき影が地面に落ちた後だった。
「ぐはぁっ!?」
地面に叩きつけられて息が出来ないのか、それとも体中にある傷のせいか、転げまわっていたのは蒼夜だった。
三重もムゥも唖然としていて、蒼夜が転がり続けるのただ見ていた。
「俺を殺す気か!」
と、いう謝罪要求は三重の沈黙の足の裏で踏み潰された。
「うるさい。助けに来てやったんだからゴチャゴチャ言わない。それと状況説明。」
「・・・・・・・・・・・・」
「早く言いなさいよ。」
「あのー、三重さん?顔から足を動かさにゃいと喋れにゃいんじゃ・・・」
ムゥの一言で三重が冷静になったのか足を地面についた。それでもピリピリとした怒りは収まってくれない。
口の中に入った土を吐き出しながら、蒼夜は経歴を喋り出した。
「・・・敵は俺が一体倒した。だが、あの男の能力上、他にも『獲物』を隠しているかもしれない。それに肝心のあの男の姿を見ていない。だから爆風で運良く飛ばされた木の上で作戦を立てようとしてたら・・・ぐふっ!」
いつの間にか、三重の足が蒼夜の内臓を圧縮しようとしていた。その動きは目の良いムゥでも見えなかった。
「嘘はつかなくて良いの。どうせ、爆風の衝撃で気を失って、運良く木の枝に体が引っかかったんでしょ。体がボロボロなのに何が『作戦を立てようとしてた』よ。それに、燃料だって残ってないじゃない。」
「持ってきた分は無くなったが、中に蓄えて・・・うぅ」
「さっき、あんたの体に『触れた』から分かってるのよ。自分の体なんだから把握してるはずよね。今、運転しても大丈夫なぐらいシラフだわ。血も流しすぎてる。」
さきほど、ムゥが三重の足だと思っていたものは、三重の能力で動かしていた水だった。三重の腰あたりから伝った水は、今、蒼夜の傷口から少量ずつ赤く滲み出て、三重の体に逆流していく。そして気がつけば水は消えている。
「私が言うのもなんだけど・・・約束は守るもんよね。ね、ムゥちゃん?」
三重は蒼夜を見下ろしながら、ムゥに聞いた。ムゥはまさかこのタイミングに話しかけられるとは思ってなかったので詰まりながらも答えた。
「え?―――あ、そうです!・・・ヤクソクは守らなきゃいけないって誰かが言ってました。」
「・・・・だ、そうだけど?」
間が空いた。
「・・・・・スマン。」
蒼夜はかすれた声で一言謝った。三重の口が吊り上った。
「いいよ。許したげる。」
あっさりと三重は引き下がった。ムゥは驚いていた。容赦無い暴言が吐かれると思っていた。さらに驚いて思わず顔を上げた蒼夜の目の前に三重は居なかった。
「全部終わったら、後で色々おごってもらうけどね。」
蒼夜の脇を通り過ぎながら、三重はうれしそうに付け加えた。その行く手には蒼夜が対峙したものと同様な姿をしたものが数体、三重を睨みつけていた。
ムゥもその姿を見つけると指先に鉤爪を出現させながら、三重の後を追おうとしたが、三重が静止させた。
「大丈夫。一人でいけるわ。」
「でも・・・・・」
心配そうなムゥの袖を蒼夜が引っ張り止めた。
「ここからはプロに任せとけ。あいつ、嘘はつかないから。」
蒼夜はボロボロで疲れきっている顔に笑みを浮かべていた。ムゥは蒼夜が手を離した後もその場でおとなしくなった。
そのとき、三重の直線状にいた怪物が三重に襲い掛かった。怪物は三メートルはある距離を一回の跳躍で一息に縮め、体を切り裂かんばかりに鋭い手足の爪を立てていた。
しかし、怪物は三重の一定の距離に迫ると、いっきに失速し空中で血飛沫をあげて肉塊となって地面に散らばった。
普段柔らかい紙も、時に自分の指を切ってしまうこともあるのだ。ならばそれは水も同じ。高圧縮された水をとてつもない速さで噴出すれば、ダイヤモンドですら切れてしまう、『ウォーターカッター』もとい、『ウォータージェット』という力を手にすることが出来るのだ。
三重は右手と左手を一定間隔に開いて構えていた。その両手の間にはピアノ線のように細い水の線が架けられていた。
「さて、次はどこから来るのかしら。全部受け止めて切り返してあげるけど。」
三重は怪物たちを見ながら、笑ってガンを飛ばした。
三重がわざと周りに伝わるように大声を張り上げ挑発すると、前方にいた三体の怪物は一瞬身構えたが、一呼吸置いて面を天に突き上げた。
「アォオオオーーン!!」
狼の遠吠えに似た雄叫びは、やはり狼のそれと意味も同じようだった。両脇の茂みの置くから草を掻き分ける音が聞こえてきた。他の怪物が同胞の声を聞きつけてやってきたのだろう。
三重はその音を聞くと迷わず、喉を晒した状態の怪物たちに向かって駆けた。それを見て怪物たちも叫ぶのを止め、目前に迫る敵に集中を向けた。
三重は走りながら、腰に携帯していた2丁の拳銃を両手に取り、瞬時に狙いを定め撃った。弾丸は中央の怪物に3、右に2、左も2発ずつ撃ち込んだ。時刻は夜の上、三重の動作は素早く弾の軌道を読むのは困難だった。
しかし、怪物たちはそれらを瞬時に悟り、腕を使って防御、あるいは体を傾けて弾を避けた。
「・・・目は良いみたいね。」
三重はそれを予測していたのか、既に武器を持ち替えていた。両手で構えたそれは銃身に布のような物を提げた、小型のマシンガンだった。次の瞬間、一斉に何十発という銃声が鳴り響いた。
怪物たちもこれには避けるすべも無く、一様に腕を盾にして、身を守りに入る。三重はそれに対して弾が尽きるまで撃ち続け、無くなると銃身に提げていた暗視ゴーグルを装着し、怪物たちの様子を見る。
小型故、威力は通常のものに比べて劣るが、それでも殺傷能力はある。それを集中して喰らえばひとたまりも無いが、怪物たちの腕はかすり傷程度しか残していなかった。
「思ったより頑丈。動く石造を相手しているような感じ。」
マシンガンを投げ捨てながら、一人呟いたかと思うと、三重は突然前に走り出した。数瞬後、三重が立っていた場所には、左右の茂みから飛び出してきた、二体の怪物達の棘が空を切っていた。そして獲物を仕留めんと力のこもった腕は、対面にいた怪物の顔をそれぞれが振りぬいた。
二体の怪物の頭が空中でオレンジが潰れるように砕け散るのを、三重は尻目に見ながら闇を走った。
「まさか、相打ちで消えてくれるとは思わなかったけど、・・・・あの怪力はヤバイわ。」
当初、両脇からの攻撃を避けるために走り出したが、三重はそれを止めようとはせず、そのまま攻撃に移った。中央の怪物も三重に向かって突進する。そして勢いをつけながら右を振りぬいた。その拳は三重の顔に直撃し、先ほど同様肉片を飛び散らせる・・・・はずだった。
怪物は腕に感じる違和感に気づいた。人を殺したときの生暖かい血の温もりが感じられない。今は逆にひんやりと冷たい・・・。怪物は己の右腕を確かめようとしたとき、左端に何かが映った。
「グッルルルゥゥオオオッ!!」
怪物は痛みに叫び声を上げる。怪物の左目には大振りなナイフが刺さっている。
突き刺したのは勿論、背後に回っている三重だ。
三重は先頭を始めたときから、自分の液体を操る能力を使い、体の表面に薄い膜を張るように水を纏っていた。そして怪物たちに走り出したときに頭付近の水を『固定』した。
その後、怪物の近くまで駆け寄ると足元に滑り込み、振りぬかれる腕を回避。『固定』された水は慣性の法則でそのまま怪物に突っ込み、拳に直撃した。つまり、怪物が攻撃を当てたのは三重によって『固定』された、ただの水だったのだ。
三重は地べたで暴れ狂う怪物の動きを水で拘束して、動けなくなった怪物の頭を初めに持っていた拳銃で3発撃ち抜いた。怪物は激しい痙攣を起こした後、ピクリとも動かなくなった。
「頭に3発もブチ込まないと死なないなんて、なんてめんどくさい体なのかしら。」
そんな風に愚痴りながら、怪物の頭からナイフを抜いた。怪物の左目からどす黒い血が噴出した。ナイフに血がべっとり付いたが気にせず、即座に後ろを振り向く。二体の怪物が同時に飛び掛ってきていた。
三重は横に跳んだ。背をすれすれで怪物の棘が通った。三重は手の平に水を集めるとクッションにしてハンドスプリングの要領で起き上がった。
怪物たちが着地したところを頭部を狙い、撃つ。手前の怪物は着地しながら腕で防ぐが、弾は当たる度にはじけ、徐々に体を濡らしていく。
水を弾の形に変えて発射する、さきほど行った水を使った囮の応用版。弾には威力はさほど無いが、当てた水を動かすことができれば、リスクを冒さず手元まで潜り込むことができる。
それに怪物はすぐに気づき、体を動かそうとしたがすでに両手、両足ともに水で縛られ動かない。
「もう遅いわ。残念でした。」
三重は銃を持ち替え、頭に定め撃つ。一発、二発、弾は正確に怪物の頭に当たる。だが、三発目のトリガーを引く直前で、怪物は倒れた。
「ブシュアアアアーー!!」
その後ろから返り血を盛大に受け、体中を真紅に染めた最後の敵が飛び出した。
三重は驚きながらもトリガーを引くが、怪物の素早い動きでかわされ、弾は肩に当たるが、怪物は躊躇せず爪で仕留めにかかる。
それでもすかさず、三重も水を駆使して対抗しようと、体の前に水の壁を作る。
怪物が攻撃したところを水を絡ませて封じれば、倒すことができる。そう、三重が確信したと同時に怪物の爪は水の壁を突き破っていた。
あまりのことに驚きを隠せない。
「なんで通れるの!?その力だったら突き破れるわけが・・・・!!」
迫りくる狂気を前にしながら、それだけが頭を占め、そしてたどり着いたのは自分の犯した失敗、そして爪に付着した血だった。
受け止めきれないと悟りつつも、拳銃を盾にして爪を防ぐ。爪は拳銃をたやすく砕く。それを握っていた手にまで爪は届きはしなかったが、その力で腕は数箇所折れ、反動で三重の体は後ろに飛び、地面を転がった。
右腕から大量の血が流れ出すのを朦朧とする頭で感じながら、地面を見つめ回想する。
三重の能力には欠点があった。
それは、動かすことのできる液体に問題がある。
三重の能力は動かす液体が大量で、そしてなにより純粋であるとき、最高の精度とパワーが出せる。そこに不純物が混じると能力が最大限に発揮できなくなる。
そう、三重の犯した失敗は血のことを認識していなかったこと。怪物の突然の動きでそれを怠ってしまった。
爪に付いていた血は鉄壁であった水の壁に流れ、綻びを作ってしまった。そこから壁は崩壊し、そしてこの結果。
決定的な自分のミス。それが分かったところで、なにもかもが遅かった。
ザク・・・ザク・・・
ゆっくり忍び寄る足音。
暗い闇に一人取り残され、死の足音が近づくのを聞く。息を止められない。
「・・・・・そう・・や・・・」
荒い息で搾り出した声は闇に葬られた。
足音が止まり、三重はゆっくりと目を閉じた。
キュイィィーーンッ
耳をつんざくような金属音で、三重は闇に嵌りかけた意識を持ち上げた。細い足が見える。傷が癒えて包帯がとれたスラリとした足が猫のようだった。
「蒼夜さんに言われたけど、やっぱり見てるだけなんてできません」
両の手に付いた鉤詰めで怪物の攻撃を受け止め、その視線を睨みながら口早にムゥは言った。
「三重さんは言いましたよね。―――困ったときは人に押し付けろって。だから困ったときは呼んでくださいよ。私達は仲間なんですから」
ムゥがジリジリと次第に怪物を押しはじめた。怪物の力を上回っているのだ。
三重はこの事件で絶の成長が見られると思っていた。しかし、実は近くにいたムゥもまた成長していることにいうことに今更だが気づいた。
「ここで、私がしっかり・・・しなきゃ」
左腕に水を集めて、体勢を立て直そうとする。地面に叩きつけられたときに左腕を打ちつけたらしく痺れが残っている。水の扱いもままならないがなんとか立つことができた。
前を見ると、ムゥが相手を力で圧倒し、怪物の巨体が小さく縮こまっている。もしかしたら自分の助けなんて要らないのかもしれない。地面で伏せっていた方が楽だったかしら。そんな風に自虐的に笑みを浮かべようとした。
だが、怪物の口から吐き出されそうなソレを見て、やっぱり自分の判断は正しかったことを知る。
「ムゥちゃん!・・・伏せて!!」
声を張り上げて、左手を前に構える。手の平に吸い付いつくように付いていた水を手の平から切り離し、前方に向けて放つ。数メートル前にはムゥの背中がある。それでもこのタイミングで撃たなければ間に合わない。
弾丸となった水が一メートルまでの距離になってムゥは三重の意味することが分かり、体を屈めた。怪物はムゥを追おうとするが、視界に目の前に迫る水の弾丸に目を奪われる。その一瞬で怪物の口の中の準備が整った。
まもなく怪物の口から放たれたドロリとした、あえて言えばゲロのようなものは空中で弾丸と交じり合った。正確にはそのドロリとしたものを、ピュアでクリアな水が形を変えて包み込んだ。そして、そのまま水などは直下で地面に落ちた。
ジュワッ
熱したフライパンで目玉焼きを作るときのような音を立てて、地面が溶けた。
「強力な胃酸・・・・まさかとは、思ったけ、ど・・」
ドサッと崩れるように三重は倒れた。
「三重さん!」
ムゥは叫んだが、返事は返ってこない。駆け寄って無事を確かめたいが、目の前の敵を置いてそんな真似はできなかった。怪物の目はまだ狩の目をしていた。
ゆっくりとムゥは腕を構えたが、飛び込もうとはしなかった。三重が最後に防いでくれた酸の攻撃はとても強力で危険だ。安易に飛び込めば餌食になるだろう。だから前に進めない。だからと言って、待っていて何か打開策があるかといえば、それすら無い。敵が攻撃を仕掛けたならそれを全力で受け止めるしか。
後ろには三重が倒れている。引き下がるわけにはいかない。
「私が・・・みんなを守るんだ」
目の前の敵と戦うのは怖い。血を見るのが怖い。傷つくのが怖い。傷つけるのが怖い。
それでも戦わなくちゃいけないんだ。
ムゥは目の前の敵を睨んだ。それを合図に怪物が素早く腕を突き出した。ムゥはそれを体をそらしてかわし、通りすぎようとする腕に、銀の鉤爪を突き立てた。怪物は悲鳴一つ立てず、むしろそのまま、腕を振りぬく。一陣の風が吹いた。
鉤爪が引っかかったままのムゥは空中に放り出された。その細い体は高く舞い上がり、きりもみしながら降下する。
下にはすでに怪物が待ち構えていた。そして鋭い爪で串刺しにせんと腕を突き上げた。ムゥはちょうど先端部分に当たるように落ちていった。
しかし、そこに刺さることは無かった。爪が迫る一瞬、体を急激に回転させ、下を向いた。そして両手の爪の合間を縫うように、怪物の手首を掴み、怪物の腕に着地した。
その華麗な動作は、狙ってしたものではない。猫の本能そのものだった。
腕に着地した直後、落ちた反動でさらに怪物の懐にもぐりこみ、顔を引き裂こうと腕をクロスさせる。怪物はそれを体ごと倒して避けた。お互い地面に倒れ、すぐに起き上がる。
火花が散る。両者の爪と爪がぶつかった。同じ体勢。同じシチュエーション。
「あ・・・・・くっ」
しまったと思ったが、もう遅かった。怪物の口から溶解液がたれている。相手から離れようと後ろに身を引こうとして、怪物に押し込まれた。体勢が斜めになり力を入れにくくなった。
さっきより状況が悪くなってしまった。
「どうすれば――――」
抜け出す術がなく、このままではあの溶解液で体を溶かされてしまう。怪物の顔が歪む。勝利を確信したように口元を緩めた。
そのとき、ふと怪物の力が抜けた。ムゥはすぐさま手を振り解き、後ろに飛ぶ。怪物は徐々に緩めた口をさらに緩めながら、倒れた。口から溜まった溶解液が流れ出した。土が蒸発していく中で怪物は二度と動かなかった。
倒れた怪物の背にはナイフが一本深く刺さっていた。ムゥはそのナイフに見覚えがあった。
「絶さん・・・・」
「よう、またせたな。」
怪物の背後から現れた絶は軽く手を上げて答えた。ムゥはそれを見て、安心して思わず涙が出そうになるのをこらえて絶に飛びついた。
「まったく、遅いですよ」
「少し調べていたんだ。・・・すまん」
「そうですか・・・いえ。別に怒ってませんよ。良かったです、来てくれて」
ムゥは絶の胴に抱きついた。
「あぁ。お前も良くがんばったな。」
絶の手がムゥの頭を軽くなでた。ムゥは誇らしげな気持ちになったが、それで重要なことを思い出した。
「そうだ!三重さんと蒼夜さんが怪我を負ってるんです。早く手当てしにゃいと」
「あの二人がか?・・・よくわかんねーが様子を見に行こう。」
二人で連れ添い歩こうと一歩踏み出すと、草陰から黒い影が飛び出してきた。