彼女は孤独と寄り添う
八月二十二日。ほぼ一週間ぶりに僕は地元から帰ってきてアパートの駐輪場にバイクを停めた。
「あー、疲れた。もうしばらくバイク運転したくねー」
「帰ってきたね」
「麻奈家送る前にちょっと休んでかない?」
「うん、いいよ」
ポケットから部屋の鍵を取り出した。久しぶりに見るキーホルダー付きのそれを指でクルクルと回しながらドアの前へとやってきたところで僕は、それをドアノブに刺したのだがふと違和感に気が付く。
「あれ?」
「どうしたの?」
後ろから不思議そうに聞いてくる彼女の返事に答えず、僕は先ほど右に回した鍵を起こし、もう一度右へと回した。普段ならガチャリと音がして少し重たくなる感触があるはずなのだがそれがなく、僕はそのまま左へと倒した。
ガチャリ。
「…………」
最後に家を出た時の事を思い出す。戸締りは入念にしたはずだったので鍵を締め忘れたという事はありえない。しかしその筈の家の鍵が誰かによって開けられていた。
「麻奈、ちょっとここにいて」
「う、うん」
僕の体が少し強張り、その硬さが彼女にも伝わったのか短い返事が返ってきた。僕は音を立てず息を一つ吐く。先程よりもゆっくりと、鍵を逆方向へと回す。回し切る寸前で一度止めてもう一つ速度を落とす。
ガ、チャリ。
鍵が開いた。鍵をそのままにしてドアノブを掴み、音もなく回す。
慎重に行くべきかどうか悩んだが、そういうのは面倒くさくて性に合わなさそうだったので、勢いに任せる事にした。
勢いよくドアを開け靴を履いたまま、部屋へと飛び込む。
フローリングの床にブーツが擦れてクシャッ、と空気を裂くような音を立てながら僕は通路を飛び越え、一つしかない部屋へと飛び込んだ。
「誰かいんのかこらあああああ……あ?」
通路と部屋を区切るドアを吹き飛ばすような勢いで、そう叫びながら侵入した。
なにがあってもすぐに対応出来るようにと両手を前へと突き出す。
だがそこにいた者を見て、意気込んでいた僕の声は途端尻すぼみになった。
「……あーあーうるさーいよー」
「……智史?」
「誰だぁよー。そんな騒がなくても聞いてます。僕はきーてますよ」
そこにいたのは、顔を赤くして床に大の字になって寝転がっている智史だった。そのすぐ傍には幾つものアルコール飲料の缶がころころと転がっている。酔っ払っているのは彼の間延びした口調ですぐに分かった。
その彼が――僕の部屋だというのに――突然の来訪者にも、全くどうでもいい、と言うかなにがなんだか分かっていないと言う感じで目を閉じたままヒラヒラと手を持ち上げて振って見せていた。
「康弘君?」
麻奈が静かになった部屋の様子に大丈夫そうだと思ったらしく入ってきたが、彼女もだらしなく寝転んでいる智史の姿を見て呆気にとられ同時に「お酒臭い」と鼻を押さえる。
「おい、こら、智史。なにやってんだ、起きろ、おい」
ペチペチと彼の頬を平手で軽く叩く。
「うー、うーん、やめて」
「やめてじゃねーよ、おい、殴るぞ」
「あー……里美? 帰ってきたの?」
僕は殴る事にした。
「……ごめん」
彼は頭の辺りがやけに痛い、と言いながら僕達にそう謝罪した。
「寝てる時にベッドの角にでも打ったんだろ」
そう適当に誤魔化しながらいつから僕の部屋にいるのか尋ねると、三日前ほどかららしい。どうやって入ったのかは聞くまでもなかった。僕はアパートに設置されているダイヤルロック式のポストに予備の鍵を置いているのだが智史はそのダイヤルを知っている。以前にも僕が家を空けた時に彼が遊びに来た時などはその鍵を使っていた。
「あー、飲みすぎたみたいだ」
「みたいだね」
麻奈が転がっている空き缶の数を見てげんなりとする。三日で彼が飲んだにしては多すぎる量で、この様子だと温くなっているのも気にせず飲んでいたようなのでかなり悪酔いしていたのだろう。
「なにやってんだよ」
「なにって?」
まだ酔いが冷め切っていないような間抜けな返事。
「なんで俺の部屋で一人で酒飲んでんだよ。あ、もしかして晶とかと一緒だったのか? つか学校の皆はどうしてる?」
「さあ?」
「さあって」
「知らないよ、もうどうでもいいんだよ、そんな事。晶もどこにいるのか分からないし」
やけっぱちにそう答える智史は「あーあ」と怠惰そうにぼやくとまだ開いていない酒を見つけて手を伸ばした。覚束ない指先のままなんとかそれを開けると、まるで僕達がいる事もどうでもいいと言った感じで、一気飲みしようとする。
「おい、なにやってんだよ」
「飲みたいんだよぉ、飲ませてくれよ」
「やめろよ」
僕は彼から酒を取り上げようと手を伸ばす。
「触るなよ!」
その手が彼によって振り払われる。
突然のその激昂に、僕はどう反応すればいいのか分からず固まってしまう。
「智史君? どうしたの?」
「もういいんだよ。なぁ、俺の事はほっといてくれよ。お前の家だけど俺に構わないでくれ」
麻奈の心配する様子も届かないようで、彼は子供のように頭を抱え込んだ。
「どしたんだよ、おい」
智史。なにがあったんだよ。
僕の知っている智史は例え悪酔いする事はあっても、こんな風に限度を超えて飲み続けるようなことはしないし、酔っ払ったって少しは理性を残していたはずだし、そんな自暴自棄な台詞を言うような奴じゃないだろう?
だが、今目の前にいる智史は僕達に触れる事を頑なに拒否するように自分の殻の中に篭ろうとしていた。
「麻奈、ごめん。ちょっと二人にしてもらえるかな」
「……うん、それはいいけど」
「家歩いて帰れそうかな? 荷物とかは後で俺届けるよ。ごめんな」
「ううん、気にしないで」
彼女も自分はいないほうがいいと判断したらしく、素直に頷き、僕は玄関まで彼女を見送った。
「康弘君。智史君の話ちゃんと聞いてあげてね?」
「聞けたらな」
「康弘君だったら大丈夫だよ。だって友達でしょ? それに、康弘君に会いたくて家に来てたんだと思うの」
その言葉に頷いて、僕はしばらく家へ帰って行く彼女の背中姿を見つめた。
ドアを閉め智史の元へと戻る。彼は彼女が帰った事もどうでもいい事のようでピクリとも動かない。
「なあ」
「…………」
「聞いてる?」
「……聞いてるよ」
「じゃあ、なんか言えよ」
テーブルをずらし、足元のゴミを適当に隅の方に押しやり、彼の正面に胡坐を欠いて座る。
「別に、ない」
「ない訳ねーだろ」
「本当にない」
「お前になくても俺は聞きたい事が山ほどある」
そして本当なら、お前からは地元に帰ってどうだった? なんてそんな事を聞いてほしかった。
なぁ、いいとこだったんだぜ、俺の田舎。親父とおかんは元気だったし、幼馴染みがいるんだけどそいつら結婚しててさ。俺と麻奈も結婚式を挙げたりしちまってさ。ほら、これ指輪いいだろ? 幼馴染みが用意してくれたんだぜ、羨ましいだろ? ぶっちゃけ、俺こうやって家帰ってきてお前がいなかったら麻奈とやらしい事してたかもしれないな。しょうがなくね?
そう言うの今のお前が聞いたら鬱陶しいと思うかな。
「なにがあったんだよ。俺らがいなくなってから」
「なにもない」
「智史い!!」
息を吐くよりも早く。右手を突き出し彼のシャツの襟首を掴んだ。そのまま立ち上がらせ、壁へと勢いよく押し付ける。
俯いていた彼がそれでようやく僕の目を見た。
空洞。
そうとしか表現できない。
なにもなく、なにも写っていない眼差しが、そこにあった。
「いい加減にしろよ、おい」
「……離せよ」
怒りも、戸惑いも、恐怖もない。ただ面倒くさいと思えるような言葉。
窓の向こうで蝉達のやかましい鳴き声が聞こえてくる。それはきっと煩わしいもののはずで、だけど今それがなくなり沈黙が落ちると、まるでその無言と言う空間の中で智史の姿も消えていってしまいそうな錯覚を覚える。
「帰ってこいよ、智史」
帰ってこい。優しかった智史。
彼の首元を押さえている僕の両手は、彼が消える事を拒むかのように執拗に力が篭る。
「もういいんだって」
「なにがいいんだよ!?」
「もう生きててもしょうがないよ。俺なにもやれる事ないじゃないか。自業自得だけどさ、もうなにもかもが手遅れなんだよ。今、死ぬとしても別にいいような気がする。死ぬ事が怖いから、自分で死ぬ事が出来ないだけで、もし誰か俺を殺してくれるなら、お願いしたいよ。今すぐ殺してくれって」
「……なに言ってんだ?」
その言葉の意味を受け入れられず、僕は目を見開く。
「もういいだろ、あとちょっとで死ぬんだ。それが早くなっても、別に変わりは――」
「ふざっけんなよ、おい!!」
僕はもう聞いていられない。
殴った。
みしり、と音と共に、僕の拳と彼の皮膚がぐにゃりとへこむ感触。
僕に支えられて立っていただけの智史はその支えを失うとペラペラの紙切れのように、足をもつれさせ無様に床に転がった。
「立てよ」
「…………」
智史は動かない。立って殴り返してこようとする気配もない。
なにが、彼をここまでさせてしまったのだろうか。
僕は彼を無理やり起こすとベッドにもたれさせる。
「智史、どうしちまったんだよ。本当のお前はどこに行っちまったんだよ。なぁ、ほんの一週間前だぞ? それまでお前は、知りもしない誰かのために皆と頑張ってやってきてただろう? それがなんでこんな抜け殻になっちまったんだ?」
「無駄なんだよ」
「なにがだよ」
「頑張ったって無駄なんだよ、康弘。本当の絶望の前には、俺達なんかが幾ら頑張ったって、そんなものは無駄な抵抗でしかないんだよ」
もう一度、伸ばした手はやはり振り払われていた。
智史は、僕達が立ち上がったときに倒れてしまって、床へとゆっくりと液体が転がっている缶をつかむと汚れも気にせずそれを口へと運んだ。
変わり果ててしまったその姿に呆然としている僕の前で彼はそれを飲み干すと、もう話すことはなく、僕と向かい合っているのも不愉快だと言うような顔をしてフラフラと立ち上がると僕の横を通り過ぎ、部屋から出て行った。
「智史」
返事は返ってこない。
ドアの閉まる音が聞こえる。
僕は、体が固まってしまったように、そこから動けずにいた。
沈黙に重さはあるのだろうか? もしあるとするならば今その重圧からようやく開放されたと言うように、蝉達が再びやかましく鳴き声をあげだした。
いや、もしかすると蝉は最初からずっと鳴きっぱなしで、この部屋の沈黙が壁となって、その音を掻き消してしまっていただけなのかもしれない。
智史がいなくなってから僕は自分の中の虚無感を忘れようと部屋の掃除をする事にした。ゴミ袋に大量の空き缶やスナック菓子の袋を分別もせずに放り込み、床の染みなどを雑巾で拭き取りある程度綺麗になったところで、麻奈の家に行く事にした。本当なら彼女の両親に挨拶もするべきだったのだが、憔悴しきっている僕を見ると、麻奈は皆でよく行っていた喫茶店にでも行こうと僕を連れ出した。
幸いなことに喫茶店はまだ開いていたものの、マスターが言うにはもう客は殆ど来なくなってしまったようだった。以前と違い機械ではなく、マスターが自分で挽いてドリップしたコーヒーはいつもより苦味があるような気がしたがやはり美味しいと感じた。
カウンターではなく、テーブル席を借りると、気を遣ってくれたのかなにかあったら裏にあるから呼んでね、と言い残し店内には僕と麻奈だけとなった。
「ちょっと前にね、真尋が家に訪ねてきたらしいの。今家にいるから帰ってきたら来てほしいって」
「そう」
「母さんが、その時の真尋もやっぱりちょっと元気がなさそうだったって」
「麻奈の家は大丈夫だった?」
「うん。父さんも母さんも弟もちょっと疲れてるけど元気だよ」
智史が晶はどこにいるのか分からないと言っていた事を思い出す。皆、学校から出て行ってしまったのだろうか。
ライフラインが寸断されてしまってからの学校がどうなっているのか僕達には分からない。だがやはりどこかで狂ってしまったのだろうか。僕達は今までそういってきたものの殆どに頼りきった生活を送っていた。携帯電話一つ取ってもどこにいたってすぐに連絡を取れていたが、いざそれがなくなると今誰がどこにいるのかもまったく分かる事が出来ない。
「智史君家に帰ったのかな」
「多分」
「私達がいない間に大変なことがあったのかな」
「分からない。結局なにも聞けなかった」
本当の絶望。
智史が言っていたその言葉を思い出す。一体彼はなにを見たのだろう。
「真尋も今落ち込んでるのかも」
僕はテーブルに置かれている、誰も来なくても綺麗に掃除されている小さな容器を取るとコーヒーにシロップを注いだ。いつもより少し多めに入れる。
「私、この後真尋の家に行こうと思うんだけど、康弘君どうするの?」
「いや、やめとく。そっちもそっちで俺がいないほうがいいかもしれない」
「そう」
皆、どこに行ってしまったのだろう?
八月の頭、ここで談笑をしていたり、一人で小説を読んでいた人達は今はどこでなにをしているのだろう?
変わったのは世界だろうか。僕達自身だろうか。
「じゃあ、今日は家に帰る?」
「いや、学校に行ってみる」
「学校に?」
「うん」
「誰もいないかもしれないよ?」
少し不安そうな声。
それは世界のせいではない。
大きな目が心配そうに僕を見る。
それは僕達自身のせい。
だってそれは数日前までは輝いていたものだから。この今と同じ世界で。
「誰もいなかったらそれはそれでいいよ。でもさ、やっぱずっとあそこに住んでたし。俺からしたら半分家みたいなものだったしな。それがどうなってるのかやっぱり気になるから行ってくるよ」
「分かった」
そう話を終えた僕達は立ち上がるとマスターに帰りますと伝え喫茶店を出た。マスターはよかったらまたおいで、今度は四人で、と言い僕は「そうします」と伝える。きっと彼は客が来るか来ないか分からなくても、毎日この店の掃除をするのだろう。こうやって不意にやってきた僕達が以前と同じくゆっくり過ごす事が出来るように。
駐輪場で麻奈と別れると僕は自転車を学校の方向へと向かわせた。
「あー、疲れた。もうしばらくバイク運転したくねー」
「帰ってきたね」
「麻奈家送る前にちょっと休んでかない?」
「うん、いいよ」
ポケットから部屋の鍵を取り出した。久しぶりに見るキーホルダー付きのそれを指でクルクルと回しながらドアの前へとやってきたところで僕は、それをドアノブに刺したのだがふと違和感に気が付く。
「あれ?」
「どうしたの?」
後ろから不思議そうに聞いてくる彼女の返事に答えず、僕は先ほど右に回した鍵を起こし、もう一度右へと回した。普段ならガチャリと音がして少し重たくなる感触があるはずなのだがそれがなく、僕はそのまま左へと倒した。
ガチャリ。
「…………」
最後に家を出た時の事を思い出す。戸締りは入念にしたはずだったので鍵を締め忘れたという事はありえない。しかしその筈の家の鍵が誰かによって開けられていた。
「麻奈、ちょっとここにいて」
「う、うん」
僕の体が少し強張り、その硬さが彼女にも伝わったのか短い返事が返ってきた。僕は音を立てず息を一つ吐く。先程よりもゆっくりと、鍵を逆方向へと回す。回し切る寸前で一度止めてもう一つ速度を落とす。
ガ、チャリ。
鍵が開いた。鍵をそのままにしてドアノブを掴み、音もなく回す。
慎重に行くべきかどうか悩んだが、そういうのは面倒くさくて性に合わなさそうだったので、勢いに任せる事にした。
勢いよくドアを開け靴を履いたまま、部屋へと飛び込む。
フローリングの床にブーツが擦れてクシャッ、と空気を裂くような音を立てながら僕は通路を飛び越え、一つしかない部屋へと飛び込んだ。
「誰かいんのかこらあああああ……あ?」
通路と部屋を区切るドアを吹き飛ばすような勢いで、そう叫びながら侵入した。
なにがあってもすぐに対応出来るようにと両手を前へと突き出す。
だがそこにいた者を見て、意気込んでいた僕の声は途端尻すぼみになった。
「……あーあーうるさーいよー」
「……智史?」
「誰だぁよー。そんな騒がなくても聞いてます。僕はきーてますよ」
そこにいたのは、顔を赤くして床に大の字になって寝転がっている智史だった。そのすぐ傍には幾つものアルコール飲料の缶がころころと転がっている。酔っ払っているのは彼の間延びした口調ですぐに分かった。
その彼が――僕の部屋だというのに――突然の来訪者にも、全くどうでもいい、と言うかなにがなんだか分かっていないと言う感じで目を閉じたままヒラヒラと手を持ち上げて振って見せていた。
「康弘君?」
麻奈が静かになった部屋の様子に大丈夫そうだと思ったらしく入ってきたが、彼女もだらしなく寝転んでいる智史の姿を見て呆気にとられ同時に「お酒臭い」と鼻を押さえる。
「おい、こら、智史。なにやってんだ、起きろ、おい」
ペチペチと彼の頬を平手で軽く叩く。
「うー、うーん、やめて」
「やめてじゃねーよ、おい、殴るぞ」
「あー……里美? 帰ってきたの?」
僕は殴る事にした。
「……ごめん」
彼は頭の辺りがやけに痛い、と言いながら僕達にそう謝罪した。
「寝てる時にベッドの角にでも打ったんだろ」
そう適当に誤魔化しながらいつから僕の部屋にいるのか尋ねると、三日前ほどかららしい。どうやって入ったのかは聞くまでもなかった。僕はアパートに設置されているダイヤルロック式のポストに予備の鍵を置いているのだが智史はそのダイヤルを知っている。以前にも僕が家を空けた時に彼が遊びに来た時などはその鍵を使っていた。
「あー、飲みすぎたみたいだ」
「みたいだね」
麻奈が転がっている空き缶の数を見てげんなりとする。三日で彼が飲んだにしては多すぎる量で、この様子だと温くなっているのも気にせず飲んでいたようなのでかなり悪酔いしていたのだろう。
「なにやってんだよ」
「なにって?」
まだ酔いが冷め切っていないような間抜けな返事。
「なんで俺の部屋で一人で酒飲んでんだよ。あ、もしかして晶とかと一緒だったのか? つか学校の皆はどうしてる?」
「さあ?」
「さあって」
「知らないよ、もうどうでもいいんだよ、そんな事。晶もどこにいるのか分からないし」
やけっぱちにそう答える智史は「あーあ」と怠惰そうにぼやくとまだ開いていない酒を見つけて手を伸ばした。覚束ない指先のままなんとかそれを開けると、まるで僕達がいる事もどうでもいいと言った感じで、一気飲みしようとする。
「おい、なにやってんだよ」
「飲みたいんだよぉ、飲ませてくれよ」
「やめろよ」
僕は彼から酒を取り上げようと手を伸ばす。
「触るなよ!」
その手が彼によって振り払われる。
突然のその激昂に、僕はどう反応すればいいのか分からず固まってしまう。
「智史君? どうしたの?」
「もういいんだよ。なぁ、俺の事はほっといてくれよ。お前の家だけど俺に構わないでくれ」
麻奈の心配する様子も届かないようで、彼は子供のように頭を抱え込んだ。
「どしたんだよ、おい」
智史。なにがあったんだよ。
僕の知っている智史は例え悪酔いする事はあっても、こんな風に限度を超えて飲み続けるようなことはしないし、酔っ払ったって少しは理性を残していたはずだし、そんな自暴自棄な台詞を言うような奴じゃないだろう?
だが、今目の前にいる智史は僕達に触れる事を頑なに拒否するように自分の殻の中に篭ろうとしていた。
「麻奈、ごめん。ちょっと二人にしてもらえるかな」
「……うん、それはいいけど」
「家歩いて帰れそうかな? 荷物とかは後で俺届けるよ。ごめんな」
「ううん、気にしないで」
彼女も自分はいないほうがいいと判断したらしく、素直に頷き、僕は玄関まで彼女を見送った。
「康弘君。智史君の話ちゃんと聞いてあげてね?」
「聞けたらな」
「康弘君だったら大丈夫だよ。だって友達でしょ? それに、康弘君に会いたくて家に来てたんだと思うの」
その言葉に頷いて、僕はしばらく家へ帰って行く彼女の背中姿を見つめた。
ドアを閉め智史の元へと戻る。彼は彼女が帰った事もどうでもいい事のようでピクリとも動かない。
「なあ」
「…………」
「聞いてる?」
「……聞いてるよ」
「じゃあ、なんか言えよ」
テーブルをずらし、足元のゴミを適当に隅の方に押しやり、彼の正面に胡坐を欠いて座る。
「別に、ない」
「ない訳ねーだろ」
「本当にない」
「お前になくても俺は聞きたい事が山ほどある」
そして本当なら、お前からは地元に帰ってどうだった? なんてそんな事を聞いてほしかった。
なぁ、いいとこだったんだぜ、俺の田舎。親父とおかんは元気だったし、幼馴染みがいるんだけどそいつら結婚しててさ。俺と麻奈も結婚式を挙げたりしちまってさ。ほら、これ指輪いいだろ? 幼馴染みが用意してくれたんだぜ、羨ましいだろ? ぶっちゃけ、俺こうやって家帰ってきてお前がいなかったら麻奈とやらしい事してたかもしれないな。しょうがなくね?
そう言うの今のお前が聞いたら鬱陶しいと思うかな。
「なにがあったんだよ。俺らがいなくなってから」
「なにもない」
「智史い!!」
息を吐くよりも早く。右手を突き出し彼のシャツの襟首を掴んだ。そのまま立ち上がらせ、壁へと勢いよく押し付ける。
俯いていた彼がそれでようやく僕の目を見た。
空洞。
そうとしか表現できない。
なにもなく、なにも写っていない眼差しが、そこにあった。
「いい加減にしろよ、おい」
「……離せよ」
怒りも、戸惑いも、恐怖もない。ただ面倒くさいと思えるような言葉。
窓の向こうで蝉達のやかましい鳴き声が聞こえてくる。それはきっと煩わしいもののはずで、だけど今それがなくなり沈黙が落ちると、まるでその無言と言う空間の中で智史の姿も消えていってしまいそうな錯覚を覚える。
「帰ってこいよ、智史」
帰ってこい。優しかった智史。
彼の首元を押さえている僕の両手は、彼が消える事を拒むかのように執拗に力が篭る。
「もういいんだって」
「なにがいいんだよ!?」
「もう生きててもしょうがないよ。俺なにもやれる事ないじゃないか。自業自得だけどさ、もうなにもかもが手遅れなんだよ。今、死ぬとしても別にいいような気がする。死ぬ事が怖いから、自分で死ぬ事が出来ないだけで、もし誰か俺を殺してくれるなら、お願いしたいよ。今すぐ殺してくれって」
「……なに言ってんだ?」
その言葉の意味を受け入れられず、僕は目を見開く。
「もういいだろ、あとちょっとで死ぬんだ。それが早くなっても、別に変わりは――」
「ふざっけんなよ、おい!!」
僕はもう聞いていられない。
殴った。
みしり、と音と共に、僕の拳と彼の皮膚がぐにゃりとへこむ感触。
僕に支えられて立っていただけの智史はその支えを失うとペラペラの紙切れのように、足をもつれさせ無様に床に転がった。
「立てよ」
「…………」
智史は動かない。立って殴り返してこようとする気配もない。
なにが、彼をここまでさせてしまったのだろうか。
僕は彼を無理やり起こすとベッドにもたれさせる。
「智史、どうしちまったんだよ。本当のお前はどこに行っちまったんだよ。なぁ、ほんの一週間前だぞ? それまでお前は、知りもしない誰かのために皆と頑張ってやってきてただろう? それがなんでこんな抜け殻になっちまったんだ?」
「無駄なんだよ」
「なにがだよ」
「頑張ったって無駄なんだよ、康弘。本当の絶望の前には、俺達なんかが幾ら頑張ったって、そんなものは無駄な抵抗でしかないんだよ」
もう一度、伸ばした手はやはり振り払われていた。
智史は、僕達が立ち上がったときに倒れてしまって、床へとゆっくりと液体が転がっている缶をつかむと汚れも気にせずそれを口へと運んだ。
変わり果ててしまったその姿に呆然としている僕の前で彼はそれを飲み干すと、もう話すことはなく、僕と向かい合っているのも不愉快だと言うような顔をしてフラフラと立ち上がると僕の横を通り過ぎ、部屋から出て行った。
「智史」
返事は返ってこない。
ドアの閉まる音が聞こえる。
僕は、体が固まってしまったように、そこから動けずにいた。
沈黙に重さはあるのだろうか? もしあるとするならば今その重圧からようやく開放されたと言うように、蝉達が再びやかましく鳴き声をあげだした。
いや、もしかすると蝉は最初からずっと鳴きっぱなしで、この部屋の沈黙が壁となって、その音を掻き消してしまっていただけなのかもしれない。
智史がいなくなってから僕は自分の中の虚無感を忘れようと部屋の掃除をする事にした。ゴミ袋に大量の空き缶やスナック菓子の袋を分別もせずに放り込み、床の染みなどを雑巾で拭き取りある程度綺麗になったところで、麻奈の家に行く事にした。本当なら彼女の両親に挨拶もするべきだったのだが、憔悴しきっている僕を見ると、麻奈は皆でよく行っていた喫茶店にでも行こうと僕を連れ出した。
幸いなことに喫茶店はまだ開いていたものの、マスターが言うにはもう客は殆ど来なくなってしまったようだった。以前と違い機械ではなく、マスターが自分で挽いてドリップしたコーヒーはいつもより苦味があるような気がしたがやはり美味しいと感じた。
カウンターではなく、テーブル席を借りると、気を遣ってくれたのかなにかあったら裏にあるから呼んでね、と言い残し店内には僕と麻奈だけとなった。
「ちょっと前にね、真尋が家に訪ねてきたらしいの。今家にいるから帰ってきたら来てほしいって」
「そう」
「母さんが、その時の真尋もやっぱりちょっと元気がなさそうだったって」
「麻奈の家は大丈夫だった?」
「うん。父さんも母さんも弟もちょっと疲れてるけど元気だよ」
智史が晶はどこにいるのか分からないと言っていた事を思い出す。皆、学校から出て行ってしまったのだろうか。
ライフラインが寸断されてしまってからの学校がどうなっているのか僕達には分からない。だがやはりどこかで狂ってしまったのだろうか。僕達は今までそういってきたものの殆どに頼りきった生活を送っていた。携帯電話一つ取ってもどこにいたってすぐに連絡を取れていたが、いざそれがなくなると今誰がどこにいるのかもまったく分かる事が出来ない。
「智史君家に帰ったのかな」
「多分」
「私達がいない間に大変なことがあったのかな」
「分からない。結局なにも聞けなかった」
本当の絶望。
智史が言っていたその言葉を思い出す。一体彼はなにを見たのだろう。
「真尋も今落ち込んでるのかも」
僕はテーブルに置かれている、誰も来なくても綺麗に掃除されている小さな容器を取るとコーヒーにシロップを注いだ。いつもより少し多めに入れる。
「私、この後真尋の家に行こうと思うんだけど、康弘君どうするの?」
「いや、やめとく。そっちもそっちで俺がいないほうがいいかもしれない」
「そう」
皆、どこに行ってしまったのだろう?
八月の頭、ここで談笑をしていたり、一人で小説を読んでいた人達は今はどこでなにをしているのだろう?
変わったのは世界だろうか。僕達自身だろうか。
「じゃあ、今日は家に帰る?」
「いや、学校に行ってみる」
「学校に?」
「うん」
「誰もいないかもしれないよ?」
少し不安そうな声。
それは世界のせいではない。
大きな目が心配そうに僕を見る。
それは僕達自身のせい。
だってそれは数日前までは輝いていたものだから。この今と同じ世界で。
「誰もいなかったらそれはそれでいいよ。でもさ、やっぱずっとあそこに住んでたし。俺からしたら半分家みたいなものだったしな。それがどうなってるのかやっぱり気になるから行ってくるよ」
「分かった」
そう話を終えた僕達は立ち上がるとマスターに帰りますと伝え喫茶店を出た。マスターはよかったらまたおいで、今度は四人で、と言い僕は「そうします」と伝える。きっと彼は客が来るか来ないか分からなくても、毎日この店の掃除をするのだろう。こうやって不意にやってきた僕達が以前と同じくゆっくり過ごす事が出来るように。
駐輪場で麻奈と別れると僕は自転車を学校の方向へと向かわせた。
死ってなんなんだろうな。
人が本当に死ぬのは忘れられた時、なんて言うけれどじゃあ、もしかすると人だけでなくあらゆるものに死と言うものは隣り合っているのかもしれない。そして僕がやってきたこの学校も、死へと片足を突っ込もうとしているのかもしれなかった。
「なんだよ、これ」
僕は足を踏み入れた運動場で、そう乾いた声を出しながら、足元に散らばった窓ガラスの欠片の感触を不快に思いながら、真昼間だと言うのにまるで星のない夜の中に放り込まれたような暗闇に包まれているかのように以前とは変わり果てていた校舎を見上げた。
まるで歯抜けのように所々割られている窓ガラス。校舎に入ると至るところに放り捨てられているゴミの山。捨てられている煙草が溶けて黒くよどんだ液体。顔をしかめながらそれをよけ、僕は下駄箱から教室へと続く廊下に進んだ。
一体なにが起こってしまったのだろうか。そう思いながら近くの一年生の教室を覗き込んだ。確か前はそれなりに多いクラスの教室だったが、窓枠に近寄った僕の足音に中の生徒が気が付いたらしく、視線がこちらへと向けられたが、僕はその視線に背筋が冷たくなる。
中にいるのは数人だった。
その数人が、まるで僕を親の敵とでも言うように憎悪を込めた目で睨んでいる。その殆どがまるでホームレスのような薄汚れた格好で、体は皮膚が水分を失ったかのようにかさかさと乾いて、まるで棒人形のように痩せ細っていた者もいた。
「……なに見てんだよ」
壁に体を支えてもらっているように座り込んでいる一人がそう言ってきた。
「いや、久しぶりに学校に来たんだけど、お前ら……大丈夫か?」
「うるせえよ」
「なぁ、あんたなんか食う物持ってない?」
数人が僕のほうへと近寄ってくる。
彼らに比べて小奇麗な僕を見ながら「いいな、美味いもんでも食ってる? まだ残ってるんだろ?」と呟くその目に妖しい光が点っていた。
「いや、今はない」
「嘘つけよ! おい!」
窓越しに僕と向かい合った男がそう叫び、いつの間に出したのか、なぜそんな物を持っているのか分からないナイフを僕に向かって突き出した。いきなりの事に目を丸くすると、もう一人が手を伸ばしてきて僕の襟首を掴む。
「なぁ、俺達ここ二日なにも食べてないんだよ。お前一日分くらい食わなくてもいいだろ? 俺らに分けてくれよ」
「……頼んでんのか? 脅してんのか?」
「どっちでもいいからさっさと出せよ!」
そう言って更にナイフを僕のほうへと近づけたところで、僕はその腕を取りぐるりと捻った。短い悲鳴が上がり、突然の事に対応できなかったのか、それとも逆らう力が既にないのだろうか指が開かれナイフが落ちる。そのまま手を窓枠へと多少力を抜いてぶち当てると同時に、僕を掴んでいたもう一人の手も乱暴に振り払った。
廊下側に落ちたナイフを拾いながら、戸惑うような表情をしている彼らを睨みつける。
しかし、なにを言えばいいのか分からない。彼らはより一層僕を強く睨みつけているがそれが僕に対しての憎悪ではなく、追い込まれた事で無意識の内に歪んで溢れ出した生存本能だった。
「なぁ……一体、なにがあったんだ?」
「なにがって、なんだよ」
「なんでこんなにボロボロになっちまってるんだよ。停電してからお前らになにがあったんだ?」
「本気で聞いてんの?」
僕に敵わないと悟ったのか彼らは諦めたように腰を下ろしながら、僕の言葉を鼻で笑った。
「まともな暮らしが送れないんだからこうなるのも当たり前だろ」
「だからって、ここまで」
校舎も人もボロボロになってしまうのか?
「俺らが苦しんでるのにさぁ、幸せそうな奴がいるとか不公平じゃん」
悪びれもせずにそう言う。頭が痒いのか、しきりに彼は髪を掻き毟った。
「自分達でなんとかしろよ」
「出来たら苦労しねえよ。最初は俺達もそうしようと思ってたよ。けどさ、無駄なんだよ。やってもやっても切りがないだろ」
「俺達だって奪われたりしてんだよ。それなら自分達でやるより奪う方が楽だろ?」
「……クラスの他の奴らは?」
以前と違い廊下にも殆ど人の姿は見られなかった。
一人が溜め息を吐くように答える。
「学校出てったに決まってるだろ? 今ここに残ってんのは俺らみたいにどうしようもない奴だけだよ」
それを聞いて僕はその教室を離れ2-Cへ向かう事にした。
足が思い。
まるで校舎は大きな墓石となったようだった。今ここに――新たな生活を築くことが出来ない――取り残された者達の死を受け入れながら、同時に崩壊していこうとしている。
もし僕も、田舎へと帰らずここに残っていればその一人となっていたのだろうか? それを否定出来るかどうかは分からなかった。現代社会の恩恵に縋って生きていた僕達はそれを失うとあまりに無力な存在だった。その結果がこの荒廃だとするならば、僕達が一体今までやってきた生活とはなんだったのだろう。僕達は一体なにに生きる糧を見つけ出していたのだろう。
大切なものが失われていく。他のなにかが失われる事で、それ以外の全ても消えていこうとしている。
(なぁ、なくなったのは生きていくのが便利になるだけの道具だったものの筈だろ? どうしてそれがなくなっただけで、本当に生きていくものに必要なものまで俺達の中から消えていっちゃうんだよ。消えたのは人間じゃねーぞ、皆はちゃんとここに、目の前にいるんだぞ。どうしてそれを憎むようになっちまうんだよ)
二階へと上がったところで、階上の方が騒がしい事に気がつき、僕はふと目を向けた。その視線に階段からこちらへと浮かびながら転がってくる姿が一杯に広がる。僕は咄嗟に身を投げ出し、その体が床にバウンドする前に受け止めた。
「おい、大丈夫か?」
返事がなく、どうやら気絶しているようだった。僕は彼を下ろし階段の上にいる相手を睨みつける。
「あー、やなちん久しぶり」
「……仙道。なにやってんだ?」
「あ、怒ってる? 待って、待って。俺からケンカ始めたんじゃないよ。そいつが売ってきたから仕方なく買っただけで」
僕はもう返事もするのも無駄だと思い、階段を数段飛ばすように一気に駆け上がると有無を言わさず顔面を殴った。わざと派手に地面に転がる仙道に馬乗りになる。
「お前から売ろうが、買おうがあそこまでやる必要ないだろ」
「あのさぁ、やなちん」
「なんだ」
「やなちん、学校にいなかったから分かってないかもしれないけど、あそこまでやらないと切りがないの。ホント殺す気で皆やってくるんだから。けちょんけちょんにして、絶対無理って分からせないと後ろから刺されそうになったりして大変なんだから」
「……そんなに酷いのか?」
「酷いよ。あ、煙草持ってる? よかったらちょうだい」
彼から離れ一本渡す。薄汚れた階段の踊り場に彼は座り直し、僕も同じように煙草を吸う事にした。仙道は「あー久しぶりに殴られたー」などと笑う。
「お前、元気そうだな」
「元気じゃない。遥はやっぱり付き合ってくれないし。俺自分からはケンカ全然してないのに」
「そういう事じゃねーよ。飯とかちゃんと食ってるって意味だ」
「飯食わないとやってられない」
「そうじゃなくて、飯とか毎日用意出来てんのか? って事だ」
どうも彼とは話が噛み合わない。
「食料貯めてるから。まぁ、それでケンカ売られちゃうんだけど、寄越せって」
「貯めてるなら分けてやれよ」
「無理。無理無理。音楽室の人数分くらいしかないもん。来る奴来る奴全員に上げてたら俺達の分なくなっちゃう」
僕はふと遥と以前ハンバーガーやポテトを大量に運んだ事を思い出す。まだ残っているかは分からないが、きっとそれも身内だけで消費されているのだろう。
髪質が天然なのか今も逆立っている銀髪を見ながら、僕は学校を出て行かないのかと尋ねる。
「うーん、他に行くところもないし。窓とか割ってる奴いるけど別に涼しいからちょうどいいし。汚いのには慣れてる。俺より他に学校から出てったほうがいい奴いると思う」
「なんで、それでもいるのかな」
「さーあー」
考える気もないらしく大げさにかぶりを振って煙草を床に押し付けた。
今一番人間らしいのは彼なのかもしれない。
思い出が蘇る。それは僕達が二年生に進級して少し経ち、新しいクラスメイトにも慣れてきた春頃の事だ。その頃の皆は活き活きとした表情をしていて下らない世間話でも大げさに笑っていた。それはきっと愛想笑いではなく心からのものだったと思う。もしそれが相手に合わせているだけの社交辞令でも、そこにはきっと思いやりがあった筈だし、それは高校を卒業するまで、あるいは卒業してもずっと続いていく筈のものだった。
だが、僕が今見ているのは、その思い出の中にいる表情など海の藻屑と化したかのように、憂いを帯びた姿だった。予想はしていたが、実際に仲の良かったクラスメイト達に、久しぶりに帰ってきた僕に対して全くの無頓着だと言うのは胸が痛んだ。
「……帰ってきたんだね」
「おう」
そう声をかけてきたのは小林だった。僕はそう言ってもらった事に少し安堵する。
小林はすこしやつれてはいたが、表情は以前と同じように穏やかな笑みを浮かべていた。
「元気か?」
「……あんまり元気とは言えないかな。皆疲れきってるよ」
「みたいだな」
教室を見回す。
そうやって皆を見ている途中で小笠原を見かけた。彼女も同じように僕を見ていた。僕はそこで普段とは違う彼女の様子に「おや?」と思うが、彼女の方は僕からすぐに目を逸らしてしまった。
「なぁ、小林。小笠原、皆と話すようになったのか?」
「え? あぁ、そうなんだよ。最近からだけど、ちょっと皆と打ち解けられたみたいだ」
「へえ」
少し意外な光景に感嘆を漏らす。僕はてっきりこんな状況では小笠原はますます他人と距離を置いてしまうのではないか、と思っていた。数人で円を囲むようにして集まっており、誰かの背に阻まれて僕からは小笠原の表情が見える程度だったが、なにを話しているのかはこちらまでは聞こえてこないが、少ないながら何度か口を開いているようだった。
「よかったじゃん。小林、手助けしてやったんだろ?」
「手助けと言うほどではないけどね」
「いや、今までも充分やってたじゃん。ちゃんと報われたな」
「そうだね。それはよかったと思う」
僕の言葉に目を細めて小笠原の方を見ている小林を見やった。その表情は本当に満足しているようだ。僕は以前小林が「僕は乾電池のような存在で、その役目が終われば用済み」と言っていた事を思い出し、もしかするとこの光景を少し寂しく思ってたりするのだろうか、とも思ったがそういう気配もなかった。
僕はそちらへと近寄ってみる。
「久しぶり」
そう声をかけると、何人かが僕へと振り向いた。同時に小笠原の姿も見えて、僕は体が凍ってしまったように固まる。
生気のない視線。
それは小笠原のものではない。彼女の周りにいる皆の視線だ。今まで、僕が見た事もないような。
智史のものとも違う。あの悲しい空洞のような眼差しとも違い、そこにあるのは絶望すら通り越して、尚今以上の闇の深遠を望む能動的な狂気が、ここにはあった。
その中で、小笠原は、彼女は僕の記憶の中と変わらない表情のまま僕を見つめている。この世の全てがつまらない。そうでも言いたげな彼女だが、僕は息を飲んだ。
彼女は今日も黒い服に身を包んでいた。だけど、いつもと一つだけ違うところがある。長袖ではなく、彼女は半袖のTシャツに身を通していた。
細く、白い腕が白日の届かない教室の片隅で外気に晒されている。皮膚の表面に無数に走っている幾つもの傷と共に。
「どうしたの?」
僕の心を見透かしたように、小笠原が尋ねてきた。
「なんで……隠すのをやめたんだ?」
僕の問いに彼女は答えず、その傷を愛でるかのように軽く撫ですさる。僕はそこで作られた円の中心にある空洞の場所になにがあるのか気がついた。
銀色に光る剃刀がそこにはあった。
僕ははっとして、傍にいる生徒の一人の肩を引き寄せる。
「……なんでだよ」
手首の辺りにまだ薄いものの、はっきりと脈を横切るようにして走っている線があった。
「なによ、柳」
以前は明るかった筈の女子がはっきりとした嫌悪感と拒絶を表す。僕は全員の姿を改めて見回した。
深さも数もバラバラだが、皆同じように手首に傷を刻んでいる。
もう、傷を負っているのは小笠原だけではなかった。
だから、隠す必要はなくなった。
「お前ら、なんでこんな事してんだよ! やめろよ!」
僕は剃刀を取り上げる。誰も抵抗はせず、握り締めた剃刀をもう一度床にたたきつけるとそれをブーツで思い切り踏みつけた。パキっと音を立てて取っ手の部分が折れる。
「……小笠原さん、剃刀ってまだあるよね」
「あるわ」
「それならよかった」
叫んだ僕をそれでも皆は無視するように、淡々と口を開いた。背を向けられた僕は怒りか、恐怖か、体が震えるのを覚えながら、再び彼らへと手を伸ばす。
「おい! そんな事してなんになるんだよ!?」
「うるさいな、邪魔しないでよ」
うっとうしい。
まるで耳元で騒ぐ蚊でも払うような動作でそう手を振り払われる。
「小林」
僕は円から少し離れていた彼に声をかけた。よく見ると彼もアディダスのリストバンドを外している。
「どういう事だよ。なんなんだよ、これは」
「彼女が望んだ事だよ」
「嘘だ!」
僕はその場で叫び声を上げた。その叫びはしかし誰にも届かず、無へといとも簡単に飲み込まれていくようだ。
「違うだろ、こうじゃないだろ。小笠原が望んでたのは皆と打ち解ける事じゃなかったのか? それとも彼女が望んでたのは最初っからこんな関係だったのか? なぁ、小林、答えろよ。お前が思っていた小笠原の変化ってのはこんなのだったのか?」
「彼女が幸せなら、それはそれでいいと思うんだ。それに、変わったのは彼女じゃない」
これが幸せ?
僕は無言のまま彼へと尋ねたが、同じく無言の小林がなにを伝えようとしているのか僕には理解する事が出来なかった。
視線をもう一度小笠原へと向ける。
確かに、変わったのは彼女ではなく皆なのかもしれない。彼女が変わったのはただ傷を隠さなくなった事だけで、それ以外はなにも変わった様子はなく、今も、以前と変わらず無感情で、全てがつまらないと思っているように無表情だった。
小笠原が、僕と小林を見る。
最後に見たのは僕達のどちらだったのだろうか。彼女は逃げるように目を逸らした。
違う。僕は沈黙の中叫ぶ。
こんなのは幸せじゃない。
誰が今幸せだと思っているんだ?
変わってしまった?
違う。皆忘れてしまっただけだろう? なぁ、思い出せよ。そんな幸せなんて望んでなかっただろう? お前らが望んでいた幸せってのはもっと別の場所にあったはずだろ? それを忘れて勘違いした幸せに溺れて消してしまっていいのか?
小笠原、お前はどうなんだ? お前は、これでいいのか? これが、いいのか?
「いいんだよ、これで。これでいいから、ここに残っているんだよ。最後に残った僕達は出ていった皆をずっと見送ってきた。後を追って出ていこうとはせずに残った僕達が望んだ形が、今のこの姿なんだ」
背中越しに小林はまるで詩でも詠むようにスラスラとそう言った。
なぁ、小林。お前も変わっちまったのかな。変わっちまって、もうこれでいいやって思った?
なんで、出ていかずに残る事を選んだんだろう。
きっと寂しかったからなんだ。
そしてあまりに深い寂しさに襲われて、それを紛らわすやり方を、いつしか忘れてしまったんだよ。
人が本当に死ぬのは忘れられた時、なんて言うけれどじゃあ、もしかすると人だけでなくあらゆるものに死と言うものは隣り合っているのかもしれない。そして僕がやってきたこの学校も、死へと片足を突っ込もうとしているのかもしれなかった。
「なんだよ、これ」
僕は足を踏み入れた運動場で、そう乾いた声を出しながら、足元に散らばった窓ガラスの欠片の感触を不快に思いながら、真昼間だと言うのにまるで星のない夜の中に放り込まれたような暗闇に包まれているかのように以前とは変わり果てていた校舎を見上げた。
まるで歯抜けのように所々割られている窓ガラス。校舎に入ると至るところに放り捨てられているゴミの山。捨てられている煙草が溶けて黒くよどんだ液体。顔をしかめながらそれをよけ、僕は下駄箱から教室へと続く廊下に進んだ。
一体なにが起こってしまったのだろうか。そう思いながら近くの一年生の教室を覗き込んだ。確か前はそれなりに多いクラスの教室だったが、窓枠に近寄った僕の足音に中の生徒が気が付いたらしく、視線がこちらへと向けられたが、僕はその視線に背筋が冷たくなる。
中にいるのは数人だった。
その数人が、まるで僕を親の敵とでも言うように憎悪を込めた目で睨んでいる。その殆どがまるでホームレスのような薄汚れた格好で、体は皮膚が水分を失ったかのようにかさかさと乾いて、まるで棒人形のように痩せ細っていた者もいた。
「……なに見てんだよ」
壁に体を支えてもらっているように座り込んでいる一人がそう言ってきた。
「いや、久しぶりに学校に来たんだけど、お前ら……大丈夫か?」
「うるせえよ」
「なぁ、あんたなんか食う物持ってない?」
数人が僕のほうへと近寄ってくる。
彼らに比べて小奇麗な僕を見ながら「いいな、美味いもんでも食ってる? まだ残ってるんだろ?」と呟くその目に妖しい光が点っていた。
「いや、今はない」
「嘘つけよ! おい!」
窓越しに僕と向かい合った男がそう叫び、いつの間に出したのか、なぜそんな物を持っているのか分からないナイフを僕に向かって突き出した。いきなりの事に目を丸くすると、もう一人が手を伸ばしてきて僕の襟首を掴む。
「なぁ、俺達ここ二日なにも食べてないんだよ。お前一日分くらい食わなくてもいいだろ? 俺らに分けてくれよ」
「……頼んでんのか? 脅してんのか?」
「どっちでもいいからさっさと出せよ!」
そう言って更にナイフを僕のほうへと近づけたところで、僕はその腕を取りぐるりと捻った。短い悲鳴が上がり、突然の事に対応できなかったのか、それとも逆らう力が既にないのだろうか指が開かれナイフが落ちる。そのまま手を窓枠へと多少力を抜いてぶち当てると同時に、僕を掴んでいたもう一人の手も乱暴に振り払った。
廊下側に落ちたナイフを拾いながら、戸惑うような表情をしている彼らを睨みつける。
しかし、なにを言えばいいのか分からない。彼らはより一層僕を強く睨みつけているがそれが僕に対しての憎悪ではなく、追い込まれた事で無意識の内に歪んで溢れ出した生存本能だった。
「なぁ……一体、なにがあったんだ?」
「なにがって、なんだよ」
「なんでこんなにボロボロになっちまってるんだよ。停電してからお前らになにがあったんだ?」
「本気で聞いてんの?」
僕に敵わないと悟ったのか彼らは諦めたように腰を下ろしながら、僕の言葉を鼻で笑った。
「まともな暮らしが送れないんだからこうなるのも当たり前だろ」
「だからって、ここまで」
校舎も人もボロボロになってしまうのか?
「俺らが苦しんでるのにさぁ、幸せそうな奴がいるとか不公平じゃん」
悪びれもせずにそう言う。頭が痒いのか、しきりに彼は髪を掻き毟った。
「自分達でなんとかしろよ」
「出来たら苦労しねえよ。最初は俺達もそうしようと思ってたよ。けどさ、無駄なんだよ。やってもやっても切りがないだろ」
「俺達だって奪われたりしてんだよ。それなら自分達でやるより奪う方が楽だろ?」
「……クラスの他の奴らは?」
以前と違い廊下にも殆ど人の姿は見られなかった。
一人が溜め息を吐くように答える。
「学校出てったに決まってるだろ? 今ここに残ってんのは俺らみたいにどうしようもない奴だけだよ」
それを聞いて僕はその教室を離れ2-Cへ向かう事にした。
足が思い。
まるで校舎は大きな墓石となったようだった。今ここに――新たな生活を築くことが出来ない――取り残された者達の死を受け入れながら、同時に崩壊していこうとしている。
もし僕も、田舎へと帰らずここに残っていればその一人となっていたのだろうか? それを否定出来るかどうかは分からなかった。現代社会の恩恵に縋って生きていた僕達はそれを失うとあまりに無力な存在だった。その結果がこの荒廃だとするならば、僕達が一体今までやってきた生活とはなんだったのだろう。僕達は一体なにに生きる糧を見つけ出していたのだろう。
大切なものが失われていく。他のなにかが失われる事で、それ以外の全ても消えていこうとしている。
(なぁ、なくなったのは生きていくのが便利になるだけの道具だったものの筈だろ? どうしてそれがなくなっただけで、本当に生きていくものに必要なものまで俺達の中から消えていっちゃうんだよ。消えたのは人間じゃねーぞ、皆はちゃんとここに、目の前にいるんだぞ。どうしてそれを憎むようになっちまうんだよ)
二階へと上がったところで、階上の方が騒がしい事に気がつき、僕はふと目を向けた。その視線に階段からこちらへと浮かびながら転がってくる姿が一杯に広がる。僕は咄嗟に身を投げ出し、その体が床にバウンドする前に受け止めた。
「おい、大丈夫か?」
返事がなく、どうやら気絶しているようだった。僕は彼を下ろし階段の上にいる相手を睨みつける。
「あー、やなちん久しぶり」
「……仙道。なにやってんだ?」
「あ、怒ってる? 待って、待って。俺からケンカ始めたんじゃないよ。そいつが売ってきたから仕方なく買っただけで」
僕はもう返事もするのも無駄だと思い、階段を数段飛ばすように一気に駆け上がると有無を言わさず顔面を殴った。わざと派手に地面に転がる仙道に馬乗りになる。
「お前から売ろうが、買おうがあそこまでやる必要ないだろ」
「あのさぁ、やなちん」
「なんだ」
「やなちん、学校にいなかったから分かってないかもしれないけど、あそこまでやらないと切りがないの。ホント殺す気で皆やってくるんだから。けちょんけちょんにして、絶対無理って分からせないと後ろから刺されそうになったりして大変なんだから」
「……そんなに酷いのか?」
「酷いよ。あ、煙草持ってる? よかったらちょうだい」
彼から離れ一本渡す。薄汚れた階段の踊り場に彼は座り直し、僕も同じように煙草を吸う事にした。仙道は「あー久しぶりに殴られたー」などと笑う。
「お前、元気そうだな」
「元気じゃない。遥はやっぱり付き合ってくれないし。俺自分からはケンカ全然してないのに」
「そういう事じゃねーよ。飯とかちゃんと食ってるって意味だ」
「飯食わないとやってられない」
「そうじゃなくて、飯とか毎日用意出来てんのか? って事だ」
どうも彼とは話が噛み合わない。
「食料貯めてるから。まぁ、それでケンカ売られちゃうんだけど、寄越せって」
「貯めてるなら分けてやれよ」
「無理。無理無理。音楽室の人数分くらいしかないもん。来る奴来る奴全員に上げてたら俺達の分なくなっちゃう」
僕はふと遥と以前ハンバーガーやポテトを大量に運んだ事を思い出す。まだ残っているかは分からないが、きっとそれも身内だけで消費されているのだろう。
髪質が天然なのか今も逆立っている銀髪を見ながら、僕は学校を出て行かないのかと尋ねる。
「うーん、他に行くところもないし。窓とか割ってる奴いるけど別に涼しいからちょうどいいし。汚いのには慣れてる。俺より他に学校から出てったほうがいい奴いると思う」
「なんで、それでもいるのかな」
「さーあー」
考える気もないらしく大げさにかぶりを振って煙草を床に押し付けた。
今一番人間らしいのは彼なのかもしれない。
思い出が蘇る。それは僕達が二年生に進級して少し経ち、新しいクラスメイトにも慣れてきた春頃の事だ。その頃の皆は活き活きとした表情をしていて下らない世間話でも大げさに笑っていた。それはきっと愛想笑いではなく心からのものだったと思う。もしそれが相手に合わせているだけの社交辞令でも、そこにはきっと思いやりがあった筈だし、それは高校を卒業するまで、あるいは卒業してもずっと続いていく筈のものだった。
だが、僕が今見ているのは、その思い出の中にいる表情など海の藻屑と化したかのように、憂いを帯びた姿だった。予想はしていたが、実際に仲の良かったクラスメイト達に、久しぶりに帰ってきた僕に対して全くの無頓着だと言うのは胸が痛んだ。
「……帰ってきたんだね」
「おう」
そう声をかけてきたのは小林だった。僕はそう言ってもらった事に少し安堵する。
小林はすこしやつれてはいたが、表情は以前と同じように穏やかな笑みを浮かべていた。
「元気か?」
「……あんまり元気とは言えないかな。皆疲れきってるよ」
「みたいだな」
教室を見回す。
そうやって皆を見ている途中で小笠原を見かけた。彼女も同じように僕を見ていた。僕はそこで普段とは違う彼女の様子に「おや?」と思うが、彼女の方は僕からすぐに目を逸らしてしまった。
「なぁ、小林。小笠原、皆と話すようになったのか?」
「え? あぁ、そうなんだよ。最近からだけど、ちょっと皆と打ち解けられたみたいだ」
「へえ」
少し意外な光景に感嘆を漏らす。僕はてっきりこんな状況では小笠原はますます他人と距離を置いてしまうのではないか、と思っていた。数人で円を囲むようにして集まっており、誰かの背に阻まれて僕からは小笠原の表情が見える程度だったが、なにを話しているのかはこちらまでは聞こえてこないが、少ないながら何度か口を開いているようだった。
「よかったじゃん。小林、手助けしてやったんだろ?」
「手助けと言うほどではないけどね」
「いや、今までも充分やってたじゃん。ちゃんと報われたな」
「そうだね。それはよかったと思う」
僕の言葉に目を細めて小笠原の方を見ている小林を見やった。その表情は本当に満足しているようだ。僕は以前小林が「僕は乾電池のような存在で、その役目が終われば用済み」と言っていた事を思い出し、もしかするとこの光景を少し寂しく思ってたりするのだろうか、とも思ったがそういう気配もなかった。
僕はそちらへと近寄ってみる。
「久しぶり」
そう声をかけると、何人かが僕へと振り向いた。同時に小笠原の姿も見えて、僕は体が凍ってしまったように固まる。
生気のない視線。
それは小笠原のものではない。彼女の周りにいる皆の視線だ。今まで、僕が見た事もないような。
智史のものとも違う。あの悲しい空洞のような眼差しとも違い、そこにあるのは絶望すら通り越して、尚今以上の闇の深遠を望む能動的な狂気が、ここにはあった。
その中で、小笠原は、彼女は僕の記憶の中と変わらない表情のまま僕を見つめている。この世の全てがつまらない。そうでも言いたげな彼女だが、僕は息を飲んだ。
彼女は今日も黒い服に身を包んでいた。だけど、いつもと一つだけ違うところがある。長袖ではなく、彼女は半袖のTシャツに身を通していた。
細く、白い腕が白日の届かない教室の片隅で外気に晒されている。皮膚の表面に無数に走っている幾つもの傷と共に。
「どうしたの?」
僕の心を見透かしたように、小笠原が尋ねてきた。
「なんで……隠すのをやめたんだ?」
僕の問いに彼女は答えず、その傷を愛でるかのように軽く撫ですさる。僕はそこで作られた円の中心にある空洞の場所になにがあるのか気がついた。
銀色に光る剃刀がそこにはあった。
僕ははっとして、傍にいる生徒の一人の肩を引き寄せる。
「……なんでだよ」
手首の辺りにまだ薄いものの、はっきりと脈を横切るようにして走っている線があった。
「なによ、柳」
以前は明るかった筈の女子がはっきりとした嫌悪感と拒絶を表す。僕は全員の姿を改めて見回した。
深さも数もバラバラだが、皆同じように手首に傷を刻んでいる。
もう、傷を負っているのは小笠原だけではなかった。
だから、隠す必要はなくなった。
「お前ら、なんでこんな事してんだよ! やめろよ!」
僕は剃刀を取り上げる。誰も抵抗はせず、握り締めた剃刀をもう一度床にたたきつけるとそれをブーツで思い切り踏みつけた。パキっと音を立てて取っ手の部分が折れる。
「……小笠原さん、剃刀ってまだあるよね」
「あるわ」
「それならよかった」
叫んだ僕をそれでも皆は無視するように、淡々と口を開いた。背を向けられた僕は怒りか、恐怖か、体が震えるのを覚えながら、再び彼らへと手を伸ばす。
「おい! そんな事してなんになるんだよ!?」
「うるさいな、邪魔しないでよ」
うっとうしい。
まるで耳元で騒ぐ蚊でも払うような動作でそう手を振り払われる。
「小林」
僕は円から少し離れていた彼に声をかけた。よく見ると彼もアディダスのリストバンドを外している。
「どういう事だよ。なんなんだよ、これは」
「彼女が望んだ事だよ」
「嘘だ!」
僕はその場で叫び声を上げた。その叫びはしかし誰にも届かず、無へといとも簡単に飲み込まれていくようだ。
「違うだろ、こうじゃないだろ。小笠原が望んでたのは皆と打ち解ける事じゃなかったのか? それとも彼女が望んでたのは最初っからこんな関係だったのか? なぁ、小林、答えろよ。お前が思っていた小笠原の変化ってのはこんなのだったのか?」
「彼女が幸せなら、それはそれでいいと思うんだ。それに、変わったのは彼女じゃない」
これが幸せ?
僕は無言のまま彼へと尋ねたが、同じく無言の小林がなにを伝えようとしているのか僕には理解する事が出来なかった。
視線をもう一度小笠原へと向ける。
確かに、変わったのは彼女ではなく皆なのかもしれない。彼女が変わったのはただ傷を隠さなくなった事だけで、それ以外はなにも変わった様子はなく、今も、以前と変わらず無感情で、全てがつまらないと思っているように無表情だった。
小笠原が、僕と小林を見る。
最後に見たのは僕達のどちらだったのだろうか。彼女は逃げるように目を逸らした。
違う。僕は沈黙の中叫ぶ。
こんなのは幸せじゃない。
誰が今幸せだと思っているんだ?
変わってしまった?
違う。皆忘れてしまっただけだろう? なぁ、思い出せよ。そんな幸せなんて望んでなかっただろう? お前らが望んでいた幸せってのはもっと別の場所にあったはずだろ? それを忘れて勘違いした幸せに溺れて消してしまっていいのか?
小笠原、お前はどうなんだ? お前は、これでいいのか? これが、いいのか?
「いいんだよ、これで。これでいいから、ここに残っているんだよ。最後に残った僕達は出ていった皆をずっと見送ってきた。後を追って出ていこうとはせずに残った僕達が望んだ形が、今のこの姿なんだ」
背中越しに小林はまるで詩でも詠むようにスラスラとそう言った。
なぁ、小林。お前も変わっちまったのかな。変わっちまって、もうこれでいいやって思った?
なんで、出ていかずに残る事を選んだんだろう。
きっと寂しかったからなんだ。
そしてあまりに深い寂しさに襲われて、それを紛らわすやり方を、いつしか忘れてしまったんだよ。
逃げ出すように教室を飛び出て、足早に廊下を歩いたところで足元にあるゴミに躓いた。毒づくように蹴り飛ばしたゴミは転がった先でまた別のゴミにぶつかりその動きを止める。至るところに積み重なったゴミの山に、今の僕達の姿が映し出されているようだった。校舎の中が薄汚れていくのと同時に、僕達の中にも汚れがたまっていく。一向に片付けられる気配はない。
窒息しそうだ。
頭を抱えて座り込んだ僕のすぐ傍を、男子生徒がよろよろとした足取りで通りかかった。彼は「うぅ、うぅ」となにかを言おうとしているが、うまく言葉に変換する事が出来ずにそれしか出てこなくなってしまったかのような唸り声をあげていたが、俯いている僕をしばらく見ると、そのまま向こうへと歩き去っていった。
(……病んでる)
その単語がぽつりと頭の中に浮かぶ。
皆病んでしまっている。精神を病んでいる。
精神病? 僕はそれを理解出来ない。表面上なら表現することが出来る。鬱、ボーダー、アスペルガー症候群、統合失調症、メンヘラ、そう言った単語と共に脳内物質の分泌が上手く行われず思考能力が一部分停滞してしまう、そのために通院し、投薬をする事でその症状を緩和させる必要がある、と言う理論もある程度なら理解できる。しかしその精神は僕には理解出来ない。脳の機能低下は理解出来ても、精神に刻まれて出来た傷によって歪んでしまった心を理解する事は出来ない。
そう、彼らはきっと傷ついて打ちひしがれてしまった。その見えない痛みによって形を変えたのは見えない心なのだ。だけど、そうやって傷ついたからと言って、先程の光景のように目に見える傷を作る事になる理由が僕には見当がつかなかった。
どうすればいい?
割られて開きっぱなしになっている窓の外から鴉が一羽侵入してきた。その黒い体は、警戒するべき相手がいない事を確認すると嘴でゴミの山を突付き始めた。どうやら食べられるものがあるか探っているらしい。バサバサ、と僅かな距離を飛ぶたびに起こる羽の音が酷く耳障りで、お目当ての物を見つけ出すと再び窓から外へと飛び去っていった。まるでバカにするような鳴き声を一つ残して。僕はその飛んでいく姿を眺めながら校舎の外を見つめる。きっと狂っているのはここだけではない。だが、今なら僕はその狂った場所から逃げ出して、僕が望む正常な場所へと戻る事はそんなに難しい事ではない。
ここに残る事を選んだのは彼らだ。
小林の言う事は正しいのかもしれない。僕は残らないと言う選択をし、今日見た事を忘れて、残り僅かな時間を穏やかに過ごせばいいのかもしれない。
(そうかもしれない。そうかもしれない。そうかもしれない……)
……なぁ、そんなに何回も自分に言い聞かせるのは、無理やり自分にそれを抑え付けようとしているんじゃないか?
胸の中で何度もそう呟いていたが、急にその言葉を思い出し僕ははっとして顔を上げた。辺りを見回すが近くには誰もいないが、その声の持ち主が誰のものかという事はすぐに分かった。
その台詞は以前、智史が僕に告げた台詞だ。
その台詞を聞いたのはちょうど一年程前で学校が夏休みに入ろうとしていた頃だった。当時の僕は夏休みに地元に帰るか帰らないかで悩んでいた。帰らないのが少し寂しいとは思っていたのだが、夏休みになったからってすぐに地元に帰ったりするとホームシックにでもかかっていると思われるのが癪だと言う下らない理由でグダグダと悩んでいたのだ。その時、僕にどうするのか聞いてきた智史に僕は「いいんだって、帰らない。これでいいんだって」と自分にも言い聞かせるようにして、言っていたのだが、彼は僕の心を見透かすようにそう言ってきた。
……そうやって無理やり自分に言い聞かせても、どうせ後で悔やむような事になるかもしれないよ。だったら、本当にやりたい事をやって後悔する方がいいじゃないか。
そうだ。僕はそう言われ、結局帰る事にした。今でもあの時の行動は間違ってないと思う。
「……分かってる」
僕はぽつりとそこにいない彼に向かって返事を返す。
……分かってるんなら、自分に嘘つくのやめよう。
「……分かってる。俺は俺の思う事をやる。それで後でまた面倒な事になってもそれはその時考えりゃいい」
……そう。だけど独りよがりじゃダメだよ。相手の事を考えて、お互いにとっての正しい選択をするんだ。
「……分かってる。俺は正義じゃない。だからいつも正しい訳がない。だけど相手も正義じゃない。だから間違ってる時もある。だけど正しいのも確かだ。でもだからと言ってその間違いを見逃していいわけじゃない」
……それで、今はどうしたい?
「…………」
僕は目を閉じる。どうしたい、俺はどうしたい。
パン。
いつから智史もそうするようになっただろう。今、彼に背中を叩かれたような気がして、同時に笑ったような気がした。
……頑張れよ。頑張ればいつか報われるよ。報われなかったら、その時は俺も手伝ってやるから。
本当かよ。僕は愚痴る。本当だったら今すぐやってきてくれよ。
けどまぁ、ありがとうな。
「分かってる」
ゆっくりと目を開いた。
空が赤い。
先程の鴉とは恐らく違うと思われる一羽が再びやってこようとしていたが、僕を見て諦めたように身を翻した。
「そりゃこんだけゴミに囲まれてたら気も狂うわ」
彼らはどうしたい?
どうして腕を切りたい? 小笠原の血を流した腕を見て、悲鳴を上げて恐怖に顔を歪めた自分達が、どうして今はそちら側へと足を踏み入れる。
リスカってSOSなんだよ。ああやって腕に傷を作って周りの人にそれを見せて、心配をしてもらってんだ。死ぬ気なんかないし、自分から助けてって言えない臆病な奴らなんだよ。
どこかで齧った知識を自慢げにひけらかしている誰かがそう言っていた。
なぁ、でもさ。他にもあるだろ。助けを求める方法。それこそ正常者でも、自分をちょっと可哀想に仕立てて誰かが手を差し伸べてくれるのを待つ真似する事あるだろ。どうして彼や彼女らはそれだけの事で自分の身を傷つけるような選択をしてしまう?
もしかするとそれは、贖罪なのかもしれない。彼や彼女達は自分達の事をいつもいつも責めているのかもしれない。自分達は罪人で罰せられるべき存在だと思っているのかもしれない。もしくは自分達のような者が誰かに救われる事を期待する事すら過ちだと思っているのかもしれない。だけど、本当に誰にも救いの手を必要とせず孤独と真正面に向き合っている事なんて誰にも出来ない事だろう?
だから、彼女達は償いに我が身を傷つけるのかもしれない。自分に傷をつけて、痛みを背負う事で、引き換えに誰かの手に触れる事を許す権利を得ようとしているのかもしれない。
助けてって言ってるんだよ。
リスカをすると癒されるんだってさ。意味わかんねーよな。
確かに分からない。
彼女が傷つけているのは、自分の腕ではなく、血管ではなく、その皮と肉の向こうにある膿のような己の罪なのだろうか。それを切る事によって一つずつ消していこうとしているのかもしれない。
さぁ、僕はどうしたい。
罪は生まれる。罰は降り注ぐ。許しがやってくるかは分からない。
そして、誰が罪を作り、誰が罰を落とし、誰が許す事を行う。
それは誰でもない孤独と言う名前を持つ事もある。
窒息しそうだ。
頭を抱えて座り込んだ僕のすぐ傍を、男子生徒がよろよろとした足取りで通りかかった。彼は「うぅ、うぅ」となにかを言おうとしているが、うまく言葉に変換する事が出来ずにそれしか出てこなくなってしまったかのような唸り声をあげていたが、俯いている僕をしばらく見ると、そのまま向こうへと歩き去っていった。
(……病んでる)
その単語がぽつりと頭の中に浮かぶ。
皆病んでしまっている。精神を病んでいる。
精神病? 僕はそれを理解出来ない。表面上なら表現することが出来る。鬱、ボーダー、アスペルガー症候群、統合失調症、メンヘラ、そう言った単語と共に脳内物質の分泌が上手く行われず思考能力が一部分停滞してしまう、そのために通院し、投薬をする事でその症状を緩和させる必要がある、と言う理論もある程度なら理解できる。しかしその精神は僕には理解出来ない。脳の機能低下は理解出来ても、精神に刻まれて出来た傷によって歪んでしまった心を理解する事は出来ない。
そう、彼らはきっと傷ついて打ちひしがれてしまった。その見えない痛みによって形を変えたのは見えない心なのだ。だけど、そうやって傷ついたからと言って、先程の光景のように目に見える傷を作る事になる理由が僕には見当がつかなかった。
どうすればいい?
割られて開きっぱなしになっている窓の外から鴉が一羽侵入してきた。その黒い体は、警戒するべき相手がいない事を確認すると嘴でゴミの山を突付き始めた。どうやら食べられるものがあるか探っているらしい。バサバサ、と僅かな距離を飛ぶたびに起こる羽の音が酷く耳障りで、お目当ての物を見つけ出すと再び窓から外へと飛び去っていった。まるでバカにするような鳴き声を一つ残して。僕はその飛んでいく姿を眺めながら校舎の外を見つめる。きっと狂っているのはここだけではない。だが、今なら僕はその狂った場所から逃げ出して、僕が望む正常な場所へと戻る事はそんなに難しい事ではない。
ここに残る事を選んだのは彼らだ。
小林の言う事は正しいのかもしれない。僕は残らないと言う選択をし、今日見た事を忘れて、残り僅かな時間を穏やかに過ごせばいいのかもしれない。
(そうかもしれない。そうかもしれない。そうかもしれない……)
……なぁ、そんなに何回も自分に言い聞かせるのは、無理やり自分にそれを抑え付けようとしているんじゃないか?
胸の中で何度もそう呟いていたが、急にその言葉を思い出し僕ははっとして顔を上げた。辺りを見回すが近くには誰もいないが、その声の持ち主が誰のものかという事はすぐに分かった。
その台詞は以前、智史が僕に告げた台詞だ。
その台詞を聞いたのはちょうど一年程前で学校が夏休みに入ろうとしていた頃だった。当時の僕は夏休みに地元に帰るか帰らないかで悩んでいた。帰らないのが少し寂しいとは思っていたのだが、夏休みになったからってすぐに地元に帰ったりするとホームシックにでもかかっていると思われるのが癪だと言う下らない理由でグダグダと悩んでいたのだ。その時、僕にどうするのか聞いてきた智史に僕は「いいんだって、帰らない。これでいいんだって」と自分にも言い聞かせるようにして、言っていたのだが、彼は僕の心を見透かすようにそう言ってきた。
……そうやって無理やり自分に言い聞かせても、どうせ後で悔やむような事になるかもしれないよ。だったら、本当にやりたい事をやって後悔する方がいいじゃないか。
そうだ。僕はそう言われ、結局帰る事にした。今でもあの時の行動は間違ってないと思う。
「……分かってる」
僕はぽつりとそこにいない彼に向かって返事を返す。
……分かってるんなら、自分に嘘つくのやめよう。
「……分かってる。俺は俺の思う事をやる。それで後でまた面倒な事になってもそれはその時考えりゃいい」
……そう。だけど独りよがりじゃダメだよ。相手の事を考えて、お互いにとっての正しい選択をするんだ。
「……分かってる。俺は正義じゃない。だからいつも正しい訳がない。だけど相手も正義じゃない。だから間違ってる時もある。だけど正しいのも確かだ。でもだからと言ってその間違いを見逃していいわけじゃない」
……それで、今はどうしたい?
「…………」
僕は目を閉じる。どうしたい、俺はどうしたい。
パン。
いつから智史もそうするようになっただろう。今、彼に背中を叩かれたような気がして、同時に笑ったような気がした。
……頑張れよ。頑張ればいつか報われるよ。報われなかったら、その時は俺も手伝ってやるから。
本当かよ。僕は愚痴る。本当だったら今すぐやってきてくれよ。
けどまぁ、ありがとうな。
「分かってる」
ゆっくりと目を開いた。
空が赤い。
先程の鴉とは恐らく違うと思われる一羽が再びやってこようとしていたが、僕を見て諦めたように身を翻した。
「そりゃこんだけゴミに囲まれてたら気も狂うわ」
彼らはどうしたい?
どうして腕を切りたい? 小笠原の血を流した腕を見て、悲鳴を上げて恐怖に顔を歪めた自分達が、どうして今はそちら側へと足を踏み入れる。
リスカってSOSなんだよ。ああやって腕に傷を作って周りの人にそれを見せて、心配をしてもらってんだ。死ぬ気なんかないし、自分から助けてって言えない臆病な奴らなんだよ。
どこかで齧った知識を自慢げにひけらかしている誰かがそう言っていた。
なぁ、でもさ。他にもあるだろ。助けを求める方法。それこそ正常者でも、自分をちょっと可哀想に仕立てて誰かが手を差し伸べてくれるのを待つ真似する事あるだろ。どうして彼や彼女らはそれだけの事で自分の身を傷つけるような選択をしてしまう?
もしかするとそれは、贖罪なのかもしれない。彼や彼女達は自分達の事をいつもいつも責めているのかもしれない。自分達は罪人で罰せられるべき存在だと思っているのかもしれない。もしくは自分達のような者が誰かに救われる事を期待する事すら過ちだと思っているのかもしれない。だけど、本当に誰にも救いの手を必要とせず孤独と真正面に向き合っている事なんて誰にも出来ない事だろう?
だから、彼女達は償いに我が身を傷つけるのかもしれない。自分に傷をつけて、痛みを背負う事で、引き換えに誰かの手に触れる事を許す権利を得ようとしているのかもしれない。
助けてって言ってるんだよ。
リスカをすると癒されるんだってさ。意味わかんねーよな。
確かに分からない。
彼女が傷つけているのは、自分の腕ではなく、血管ではなく、その皮と肉の向こうにある膿のような己の罪なのだろうか。それを切る事によって一つずつ消していこうとしているのかもしれない。
さぁ、僕はどうしたい。
罪は生まれる。罰は降り注ぐ。許しがやってくるかは分からない。
そして、誰が罪を作り、誰が罰を落とし、誰が許す事を行う。
それは誰でもない孤独と言う名前を持つ事もある。
本当の絶望、と智史と同じ台詞を諏訪先輩も口にした。以前とうって変わってだらしない様子で、生気を吸い取られたような面持ちだったが、それでも学校に残っているのは、まだ学校に残っている他の生徒の様子がやはり気にかかっているようではあったが、だからと言ってもはや行動を起こす気力を残ってはいないようだった。
「本当の絶望ってなんなんですか?」
「言葉通りの意味だよ」
「いや、俺には全然意味が分からないです。言いたい事は分かりますよ。ライフラインが全て止まって前と同じような生活が送れなくなって、争いが起こって今までいた皆がバラバラになっていった、って言いたいんでしょう? でも、俺にはそれが本当の絶望だなんて思えないです。だって俺達、死ぬんですよ。あの日、七月二十日、そうなる事が決まった日、俺達は確かに絶望しました。その瞬間こそが俺達にとっての本当の絶望だったんですよ。だってそうでしょう? あと一ヶ月ちょっとをどう生きたところで俺達は死んでしまうんですよ? なにも残らない。今まで積み重ねてきた物すら全て消えてしまう。愛も友情も記憶も、全部終わる。俺はあの時、もう生きる意味なんかないって思った。俺だけじゃない、他の皆もそうだった。そしてその通り、八月三十一日を待たずして、命を絶った人もいる。上杉直人と植田智子のように。二人は確かにあの時包まれていた、本当の絶望に。それを俺は否定する事は出来ない。でも、でも俺達は違う。俺達はあの日の絶望を乗り越えてここまでやってきたんだ。例えもうすぐ死ぬ事になっても、その限りある残された時間でやれる事をやる事を選んで生きる道を選んだんだ。俺達はもうとっくの昔に本当の絶望なんてものと対面してて、でもそれを皆やっつけて笑いあって死ぬ事にしたんだ。そうでしょう? それが――大変なのは分かるよ、けど――たかだか電気が使えない、水道から水が出ない、それくらいの事でバラバラになっちまうんだよ。俺達はそんなものがあるから生きる事を選んだわけじゃない。生きる理由はもっと他の場所にあったはずだ。思い出してくれ、諏訪先輩が俺達をまとめようとしたのは、皆にとっていい生き方をするためだっただろ? 皆あんただからそれについてきたんだ。皆あんたに期待してたんだ。なのになんで今蹲ってるんだ。今こそ、こんな時だからこそあんたの力が必要なんだ」
「…………」
諏訪先輩は無言だった。喉がカラカラに渇き、僕は口の中にたまった唾をぐっと飲み込む。
「……僕一人じゃどうにもならないよ」
「それは、思い込みです」
そう言い残し、僕は彼の教室を出た。同じ階にある音楽室を覗いたが遥はちょうどどこかへと行っているようだった。原付の鍵を渡そうと思っていたのだが当てが外れ、ふと彼女の友人に預けておこうかと思ったが、やはり自分で渡す事に決めた。
「しゃあないか」
どうやら誰かの力を今すぐに借りるのは諦めたほうがよさそうだった。ならば今は一人でやるしかない。
ズボンの裾を膝の辺りまで捲くり上げ、半袖のシャツも肩まで引き上げ、前髪をヘアバンドで止め動きやすい格好になる。腕時計を見ると午後八時を回ったところで、僕は三階の廊下の端から端までを見渡すと、大きく息を吐いた。
「よし、やるか」
そして僕は床に散らばっているゴミの山に手を伸ばし、教室にあった黄色い大きなゴミ袋へと放り込んだ。小さな物から、両手に抱えるような大きさのゴミもあり、すぐに袋の一つが一杯になり、その口を閉じて隅へと寄せると僕はまた新しい袋を取り出す。そうやって端っこから反対側の端っこまで全てのゴミを拾っていく。全力で走れば一分と経たず辿り着くはずのその距離が今ではとても遠くに思える。ゴミの中にはガラス片などもあり、慎重にそれを拾いながら、破れないように二重にした別の袋へと入れる。
「……今日中に終わるかな……これ」
早くも出てきた汗を拭いながら、僕は腰を屈め一つ一つゴミを拾う。
以前部屋を片付けられない女性のワンルームを片付けるとゴミ袋が二十個にもなった、と言うバラエティ番組を見て、その部屋のありさまと最後に捨てるためにまとめられたゴミ袋の山を見て唖然としたものだが、六畳だか八畳だかの部屋だけでもそのありさまだったのに、校舎全体となると一体どれほどになるのだろうかと思うとげんなりとしたが、あえてそれは考えない事にした。
「君、なにしてるの?」
声をかけられ振り向く。そこには奇異の視線で僕を見ている上級生の女子生徒が立っていた。
「掃除です」
「掃除?」
「はい。こんなに汚いと気が参っちゃうでしょ。俺昔マンガで汚い家には悪い気が集まりやすいって見たんですよ。だからまず校舎を綺麗にしようと思って」
「で、綺麗にしてどうするの?」
「そんだけっす」
「そんだけ?」
「だって、家が汚れたら掃除するでしょ? 当たり前じゃないっすか」
その先輩は自分に向けられた微笑が一体なにを表すのかも理解出来ないと言うように、さかんに首を何度か傾げると「あ、そう」とだけ言って僕からさっさと離れていってしまった。どうやら僕を手伝おうと言う気にはまったくなってくれなかったらしい。もしかすると単なる気まぐれでやってると位にしか思われていないのかもしれなかった。
「ちょっとくらい大変だね、とか言ってくれてもいいじゃんかよ」
くそ、と自分の気持ちが萎えてしまわないようにわざと明るい調子で言い、僕は煙草を咥えた。目の前を漂う煙を煩わしいと思いながら亀のようにのろのろと前進し、煙草が短くなると靴の裏で火を揉み消し、袋へと投げ捨てた。灰は廊下に落としていたがまぁ、いいかと思う。どうせ後でこの埃を取るためにモップもかけなければならない。小さな塵も残っているので先に箒で掃く必要もあった。
パンパンに膨れ上がった袋がそれなりに貯まったところで、それを外まで運び出す。一度にもてるのはせいぜい四つで僕は何度も階段を往復している内に足の方もパンパンになってしまった。少し自棄気味に窓から運動場に放り投げてやろうかと思ったが、下に人がいて怪我をする可能性もあるし、袋が裂けてまたそこで拾う羽目になるのはバカらしかったので、結局アップダウンを繰り返す。僕達が使っている校舎ではなく旧校舎の裏手にある焼却炉の前にゴミを溜めて言ったがやがてそこにも置き場がなくなると僕は幾つか先に燃やすことにした。入るだけの袋を放り込み、ゴミ袋の一つから紙を取り出し、ライターでそれに火をつけ放り込むと焼却炉の蓋を閉じる。程なくして高いところから黒い煙が昇り始めた。
しばらくあの煙が止まる事はないだろう。僕はそう思うと多少憂鬱だったがやれやれと腰を軽く叩き、再び三階へと上がり、ようやく廊下のゴミを全て拾い上げると今度は教室のゴミを拾う事にした。
中にいる先輩達に「ゴミ捨てるんでちょっと失礼します」と軽く会釈をすると、彼らは僕がまるで頭がいかれてしまっているんだろうか、とでも言うような目で見てきたが、僕が気にせずゴミをさっさと拾うとそれ自体に文句を言う事もなかった。幾つか教室を回り、どこでも似たような態度で迎えられたが、
「ありがとう」
「え?」
そんな事を言ってもらえるとは思ってなかった僕が今度はきょとんとした顔をする。
「綺麗にしてくれて」
「あぁ、いや、いいっすよ」
彼はそれ以上はなにも言わず、座り込んだままだ。
それでも、僕はほんの少し嬉しくなっている自分が気付いていた。どうやら僕は恐ろしいほど単純な人間らしい。
三階のゴミを全て外に運び出す頃には、とっくに深夜を過ぎてしまっていた。僕は教室に残っていた麻奈が用意したアロマキャンドルの火を頼りに床にモップをかけていた。残念な事に彼女がたくさん用意した蝋燭達は殆ど使われる事がなかったらしい。僕はなんの香りかは分からないが、その甘い匂いに少し癒されながら汚れたモップをバケツに突っ込んだ。川原から汲んできた水は何度目かの汚れを吸い込んで黒く濁り、僕はまた下まで降りなければならないと溜め息を零す。教室の皆は寝入っているようなので、そちらはもう今日は諦める事にした。また明日やろう。それにまだやらなければならない事があったのでそろそろ掃除の方も切り上げたかった。もう一度水を汲みに行く事がないようにたっぷりと水を入れたバケツを運ぶのは難事だったが、そのおかげもあって、廊下の全てへとモップを掛け終える事が出来た。
「あー、マジ疲れた」
達成感と脱力感で僕は床に寝転がった。モップを掛けたばかりの床はまだ水分が残っていてひんやりとしていたが、それ以上に埃を踏む嫌な感触がなくなったのが心地よかった。
どれくらいそうしていただろうか。僕はふと眠気に襲われうつらうつらとしたが、慌てて体を起こす。思えば朝からずっと寝ていない。頭がぼんやりとし、体が眠る事をしきりに訴えていたが、僕はそれを拒否し引きずるようにして階段を下りる。
「あー眠い。だるい。死にそうだ。暑い。暗い。なんとかなんねーのか、くそったれ」
ひたすら思いつく言葉を口にする。そうしていると眠気を誤魔化せると思ったが出てくる言葉があまりにネガティブなものばかりで僕は苦笑してしまう。一体なにをしているのだろうか。
歌でも歌おう、と思った。
ヘタクソだが、どうせ聞いている者などこんな時間にいる訳がないので僕は恥ずかしげもなく口を大きく開く。どちらかと言えば、それを聞かれてしまって恥ずかしい思いをしても誰かがいてくれる事があればいいと思うが、学校から外に出て歩く道の上にいるのは前にも後ろにも僕を除いて誰もおらず少し寂しくなる。自分がやっている事は無駄なのだろうか。僕が出来る事など所詮どうでもいい事でしかないのかもしれない。
「~~魂に火をつけろ。真っ青に凍り付いちゃう前に。My soul is fryin’ like a fireball……」
そんな事を忘れるようにB’zの「FIREBALL」を歌う。
~~誰にも寄りかからないでやっていく事は、信用するなとか友情捨てろって事じゃなくて、クジが外れてもネチネチ愚痴らず前に進めるかどうかだろう。
とぼとぼと川原を歩く途中で蛍の群れを見かけた。僕はその小さな集まりが放つ光の放物線を追いかけ、筋のようにうっすらと残る残光と、僕の瀬を追い越して飛んでいく姿を追いかける。その光を追いかけるように幾つかの光が後を追った。離れる事を拒むように。
自分がここにいる事を伝えるように一際明るい光が点った。
「~~You know my soul is fryin’ like a fireball いいかげんな情熱も灰になれ。どうでもいい信念も灰になれ。飛んでゆける、空を燃やしながら。夢の元へ、そして自分の下へ」
君は知ってるかい? 僕の魂は火の玉のように飛ぶことが出来る。
「~~え~い、え~い、え~ぃ」
魂と一緒に僕の体も飛ぶことが出来ればいいけど、と僕は膝に手を付いた。体力くらいしか取り得がない僕も流石に疲れきっているようだったが、本当に大変なのはまだこれからだった。やってきたのは大型スーパーで、僕は開け放たれた自動ドアをくぐる。とにかく食べる物を見つけようと思ったのだが目ぼしいものはあまり見つけることが出来なかった。ただ、普段は立ち入る事がない従業員専用と書かれたドアをくぐり物置のような場所に米があるのを見つけ、僕は近くにあった台車にそれを乗せる。ずしりとした重さのそれをせっかくだからあるだけ持っていこうと思った。どうせ、今残っているのならもうこれ以上必要とされていないのだろう。それ以外に見つけられたのはパック詰めされた味噌と、乾燥わかめと揚げ麩に塩とかふりかけくらいだったが、それらも全て持って帰る事にした。タイヤが付いているとは言え、かなりの重量になった荷台を押すのは一苦労だった。やってきた道を再び引き返す。
「……頑張れ、頑張れ、俺」
悲鳴を上げる荷台を僕はひたすら学校へと向かって押し続ける。顔を上げる事すら億劫になり、荒い呼吸が耳に響き、汗に濡れた僕の腕から足までがガクガクと震えている。最初そうやって励ましていた声も次第に出なくなり、タイヤが転がる音と、足が上手く上がらず地面を擦る音だけが聞こえる。
ガタガタ、ガタン
「うお!?」
道の少し大きな石に気付かず、片方のタイヤが乗り上げてしまいバランスを崩す。ぐらぐらと積み上げられた米袋が道路へと大きな音を立てるのと共に僕もそちらへと転がった。
「…………」
米の上に転がったおかげで痛みはなかったが、僕はそこから立ち上がれず呆然とその場にうつぶせに倒れこんだ。
何個か持って来て味噌のパックの一つが地面に叩きつけられ中身が飛び出し、その匂いに吐き気を覚える。
(……まぁ、しょうがないって)
そう慰めるように言い聞かせるが、体がそれに答えてくれない。
もういいって。よくやったよ。一人でがんばったって。ここでやめても誰も責めやしないよ。な、帰ろう。学校じゃなくて家に帰って、麻奈に会いに行って……会いに行って、
(……言い訳でもすんの?)
腕時計を見る。午前五時。もう少し歩けば学校に着く距離だ。
僕は腕立て伏せをするように両手を地面に付きたて、懸命に体を起こした。
「…………」
僕は黙々と、道路に転がった品物を再び荷台へと積み上げる。いつもなら片手で持ち上げられるようなそれらを両手で持ち、まるで老人のような緩慢な動作で。長い時間をかけてようやく積みなおすと、僕は再び歩みを始める。
「…………」
僕を、待っている人はいるだろうか。
僕の行いを、受け止めてくれる人はいるだろうか。
僕の意思に、意義を見出してくれる人はいるだろうか。
分からない。そんな事はどうでもいいから。
僕は、彼らの罪を背負う事は出来るだろうか。
彼らの罰を代わりに受ける事は出来るだろうか。
彼らに許しを与える事が出来るだろうか。出任せの許しではなく、本当の許しを。
「…………」
僕達は旅をしていた。この世に生まれてから今までずっと。旅立つ場所も、向かう場所も全く別々の旅。時折道が重なってはやがて別れる。そしてその間に僕達は背中に背負ったバッグには入らない荷物を増やして、また旅を続ける。道がどこまで続いているのかも分からないままに。いつ終わるのかも分からないままに。僕達は進み続ける。けど、そうやって進み道を、誰かのために引き返す事があってもいいと思うんだ。道なんてない場所を誰かのために傷を負ってでも突き進む事があってもいいと思うんだ。そうやってしまった事で、バッグから他のなにかが転がってしまうとしても。
なぁ、その時なくしてしまった荷物をさ、君に新たにねだるような真似なんてしないよ。君の大事なものが失われなければ、それは僕にとっても新しい荷物を貰ったようなものだから。
「…………」
東から姿を見せ始めた太陽の欠片に僕は目を細め、まるで生き返るように校舎が白い姿を浮かび上がらせていく。
「本当の絶望ってなんなんですか?」
「言葉通りの意味だよ」
「いや、俺には全然意味が分からないです。言いたい事は分かりますよ。ライフラインが全て止まって前と同じような生活が送れなくなって、争いが起こって今までいた皆がバラバラになっていった、って言いたいんでしょう? でも、俺にはそれが本当の絶望だなんて思えないです。だって俺達、死ぬんですよ。あの日、七月二十日、そうなる事が決まった日、俺達は確かに絶望しました。その瞬間こそが俺達にとっての本当の絶望だったんですよ。だってそうでしょう? あと一ヶ月ちょっとをどう生きたところで俺達は死んでしまうんですよ? なにも残らない。今まで積み重ねてきた物すら全て消えてしまう。愛も友情も記憶も、全部終わる。俺はあの時、もう生きる意味なんかないって思った。俺だけじゃない、他の皆もそうだった。そしてその通り、八月三十一日を待たずして、命を絶った人もいる。上杉直人と植田智子のように。二人は確かにあの時包まれていた、本当の絶望に。それを俺は否定する事は出来ない。でも、でも俺達は違う。俺達はあの日の絶望を乗り越えてここまでやってきたんだ。例えもうすぐ死ぬ事になっても、その限りある残された時間でやれる事をやる事を選んで生きる道を選んだんだ。俺達はもうとっくの昔に本当の絶望なんてものと対面してて、でもそれを皆やっつけて笑いあって死ぬ事にしたんだ。そうでしょう? それが――大変なのは分かるよ、けど――たかだか電気が使えない、水道から水が出ない、それくらいの事でバラバラになっちまうんだよ。俺達はそんなものがあるから生きる事を選んだわけじゃない。生きる理由はもっと他の場所にあったはずだ。思い出してくれ、諏訪先輩が俺達をまとめようとしたのは、皆にとっていい生き方をするためだっただろ? 皆あんただからそれについてきたんだ。皆あんたに期待してたんだ。なのになんで今蹲ってるんだ。今こそ、こんな時だからこそあんたの力が必要なんだ」
「…………」
諏訪先輩は無言だった。喉がカラカラに渇き、僕は口の中にたまった唾をぐっと飲み込む。
「……僕一人じゃどうにもならないよ」
「それは、思い込みです」
そう言い残し、僕は彼の教室を出た。同じ階にある音楽室を覗いたが遥はちょうどどこかへと行っているようだった。原付の鍵を渡そうと思っていたのだが当てが外れ、ふと彼女の友人に預けておこうかと思ったが、やはり自分で渡す事に決めた。
「しゃあないか」
どうやら誰かの力を今すぐに借りるのは諦めたほうがよさそうだった。ならば今は一人でやるしかない。
ズボンの裾を膝の辺りまで捲くり上げ、半袖のシャツも肩まで引き上げ、前髪をヘアバンドで止め動きやすい格好になる。腕時計を見ると午後八時を回ったところで、僕は三階の廊下の端から端までを見渡すと、大きく息を吐いた。
「よし、やるか」
そして僕は床に散らばっているゴミの山に手を伸ばし、教室にあった黄色い大きなゴミ袋へと放り込んだ。小さな物から、両手に抱えるような大きさのゴミもあり、すぐに袋の一つが一杯になり、その口を閉じて隅へと寄せると僕はまた新しい袋を取り出す。そうやって端っこから反対側の端っこまで全てのゴミを拾っていく。全力で走れば一分と経たず辿り着くはずのその距離が今ではとても遠くに思える。ゴミの中にはガラス片などもあり、慎重にそれを拾いながら、破れないように二重にした別の袋へと入れる。
「……今日中に終わるかな……これ」
早くも出てきた汗を拭いながら、僕は腰を屈め一つ一つゴミを拾う。
以前部屋を片付けられない女性のワンルームを片付けるとゴミ袋が二十個にもなった、と言うバラエティ番組を見て、その部屋のありさまと最後に捨てるためにまとめられたゴミ袋の山を見て唖然としたものだが、六畳だか八畳だかの部屋だけでもそのありさまだったのに、校舎全体となると一体どれほどになるのだろうかと思うとげんなりとしたが、あえてそれは考えない事にした。
「君、なにしてるの?」
声をかけられ振り向く。そこには奇異の視線で僕を見ている上級生の女子生徒が立っていた。
「掃除です」
「掃除?」
「はい。こんなに汚いと気が参っちゃうでしょ。俺昔マンガで汚い家には悪い気が集まりやすいって見たんですよ。だからまず校舎を綺麗にしようと思って」
「で、綺麗にしてどうするの?」
「そんだけっす」
「そんだけ?」
「だって、家が汚れたら掃除するでしょ? 当たり前じゃないっすか」
その先輩は自分に向けられた微笑が一体なにを表すのかも理解出来ないと言うように、さかんに首を何度か傾げると「あ、そう」とだけ言って僕からさっさと離れていってしまった。どうやら僕を手伝おうと言う気にはまったくなってくれなかったらしい。もしかすると単なる気まぐれでやってると位にしか思われていないのかもしれなかった。
「ちょっとくらい大変だね、とか言ってくれてもいいじゃんかよ」
くそ、と自分の気持ちが萎えてしまわないようにわざと明るい調子で言い、僕は煙草を咥えた。目の前を漂う煙を煩わしいと思いながら亀のようにのろのろと前進し、煙草が短くなると靴の裏で火を揉み消し、袋へと投げ捨てた。灰は廊下に落としていたがまぁ、いいかと思う。どうせ後でこの埃を取るためにモップもかけなければならない。小さな塵も残っているので先に箒で掃く必要もあった。
パンパンに膨れ上がった袋がそれなりに貯まったところで、それを外まで運び出す。一度にもてるのはせいぜい四つで僕は何度も階段を往復している内に足の方もパンパンになってしまった。少し自棄気味に窓から運動場に放り投げてやろうかと思ったが、下に人がいて怪我をする可能性もあるし、袋が裂けてまたそこで拾う羽目になるのはバカらしかったので、結局アップダウンを繰り返す。僕達が使っている校舎ではなく旧校舎の裏手にある焼却炉の前にゴミを溜めて言ったがやがてそこにも置き場がなくなると僕は幾つか先に燃やすことにした。入るだけの袋を放り込み、ゴミ袋の一つから紙を取り出し、ライターでそれに火をつけ放り込むと焼却炉の蓋を閉じる。程なくして高いところから黒い煙が昇り始めた。
しばらくあの煙が止まる事はないだろう。僕はそう思うと多少憂鬱だったがやれやれと腰を軽く叩き、再び三階へと上がり、ようやく廊下のゴミを全て拾い上げると今度は教室のゴミを拾う事にした。
中にいる先輩達に「ゴミ捨てるんでちょっと失礼します」と軽く会釈をすると、彼らは僕がまるで頭がいかれてしまっているんだろうか、とでも言うような目で見てきたが、僕が気にせずゴミをさっさと拾うとそれ自体に文句を言う事もなかった。幾つか教室を回り、どこでも似たような態度で迎えられたが、
「ありがとう」
「え?」
そんな事を言ってもらえるとは思ってなかった僕が今度はきょとんとした顔をする。
「綺麗にしてくれて」
「あぁ、いや、いいっすよ」
彼はそれ以上はなにも言わず、座り込んだままだ。
それでも、僕はほんの少し嬉しくなっている自分が気付いていた。どうやら僕は恐ろしいほど単純な人間らしい。
三階のゴミを全て外に運び出す頃には、とっくに深夜を過ぎてしまっていた。僕は教室に残っていた麻奈が用意したアロマキャンドルの火を頼りに床にモップをかけていた。残念な事に彼女がたくさん用意した蝋燭達は殆ど使われる事がなかったらしい。僕はなんの香りかは分からないが、その甘い匂いに少し癒されながら汚れたモップをバケツに突っ込んだ。川原から汲んできた水は何度目かの汚れを吸い込んで黒く濁り、僕はまた下まで降りなければならないと溜め息を零す。教室の皆は寝入っているようなので、そちらはもう今日は諦める事にした。また明日やろう。それにまだやらなければならない事があったのでそろそろ掃除の方も切り上げたかった。もう一度水を汲みに行く事がないようにたっぷりと水を入れたバケツを運ぶのは難事だったが、そのおかげもあって、廊下の全てへとモップを掛け終える事が出来た。
「あー、マジ疲れた」
達成感と脱力感で僕は床に寝転がった。モップを掛けたばかりの床はまだ水分が残っていてひんやりとしていたが、それ以上に埃を踏む嫌な感触がなくなったのが心地よかった。
どれくらいそうしていただろうか。僕はふと眠気に襲われうつらうつらとしたが、慌てて体を起こす。思えば朝からずっと寝ていない。頭がぼんやりとし、体が眠る事をしきりに訴えていたが、僕はそれを拒否し引きずるようにして階段を下りる。
「あー眠い。だるい。死にそうだ。暑い。暗い。なんとかなんねーのか、くそったれ」
ひたすら思いつく言葉を口にする。そうしていると眠気を誤魔化せると思ったが出てくる言葉があまりにネガティブなものばかりで僕は苦笑してしまう。一体なにをしているのだろうか。
歌でも歌おう、と思った。
ヘタクソだが、どうせ聞いている者などこんな時間にいる訳がないので僕は恥ずかしげもなく口を大きく開く。どちらかと言えば、それを聞かれてしまって恥ずかしい思いをしても誰かがいてくれる事があればいいと思うが、学校から外に出て歩く道の上にいるのは前にも後ろにも僕を除いて誰もおらず少し寂しくなる。自分がやっている事は無駄なのだろうか。僕が出来る事など所詮どうでもいい事でしかないのかもしれない。
「~~魂に火をつけろ。真っ青に凍り付いちゃう前に。My soul is fryin’ like a fireball……」
そんな事を忘れるようにB’zの「FIREBALL」を歌う。
~~誰にも寄りかからないでやっていく事は、信用するなとか友情捨てろって事じゃなくて、クジが外れてもネチネチ愚痴らず前に進めるかどうかだろう。
とぼとぼと川原を歩く途中で蛍の群れを見かけた。僕はその小さな集まりが放つ光の放物線を追いかけ、筋のようにうっすらと残る残光と、僕の瀬を追い越して飛んでいく姿を追いかける。その光を追いかけるように幾つかの光が後を追った。離れる事を拒むように。
自分がここにいる事を伝えるように一際明るい光が点った。
「~~You know my soul is fryin’ like a fireball いいかげんな情熱も灰になれ。どうでもいい信念も灰になれ。飛んでゆける、空を燃やしながら。夢の元へ、そして自分の下へ」
君は知ってるかい? 僕の魂は火の玉のように飛ぶことが出来る。
「~~え~い、え~い、え~ぃ」
魂と一緒に僕の体も飛ぶことが出来ればいいけど、と僕は膝に手を付いた。体力くらいしか取り得がない僕も流石に疲れきっているようだったが、本当に大変なのはまだこれからだった。やってきたのは大型スーパーで、僕は開け放たれた自動ドアをくぐる。とにかく食べる物を見つけようと思ったのだが目ぼしいものはあまり見つけることが出来なかった。ただ、普段は立ち入る事がない従業員専用と書かれたドアをくぐり物置のような場所に米があるのを見つけ、僕は近くにあった台車にそれを乗せる。ずしりとした重さのそれをせっかくだからあるだけ持っていこうと思った。どうせ、今残っているのならもうこれ以上必要とされていないのだろう。それ以外に見つけられたのはパック詰めされた味噌と、乾燥わかめと揚げ麩に塩とかふりかけくらいだったが、それらも全て持って帰る事にした。タイヤが付いているとは言え、かなりの重量になった荷台を押すのは一苦労だった。やってきた道を再び引き返す。
「……頑張れ、頑張れ、俺」
悲鳴を上げる荷台を僕はひたすら学校へと向かって押し続ける。顔を上げる事すら億劫になり、荒い呼吸が耳に響き、汗に濡れた僕の腕から足までがガクガクと震えている。最初そうやって励ましていた声も次第に出なくなり、タイヤが転がる音と、足が上手く上がらず地面を擦る音だけが聞こえる。
ガタガタ、ガタン
「うお!?」
道の少し大きな石に気付かず、片方のタイヤが乗り上げてしまいバランスを崩す。ぐらぐらと積み上げられた米袋が道路へと大きな音を立てるのと共に僕もそちらへと転がった。
「…………」
米の上に転がったおかげで痛みはなかったが、僕はそこから立ち上がれず呆然とその場にうつぶせに倒れこんだ。
何個か持って来て味噌のパックの一つが地面に叩きつけられ中身が飛び出し、その匂いに吐き気を覚える。
(……まぁ、しょうがないって)
そう慰めるように言い聞かせるが、体がそれに答えてくれない。
もういいって。よくやったよ。一人でがんばったって。ここでやめても誰も責めやしないよ。な、帰ろう。学校じゃなくて家に帰って、麻奈に会いに行って……会いに行って、
(……言い訳でもすんの?)
腕時計を見る。午前五時。もう少し歩けば学校に着く距離だ。
僕は腕立て伏せをするように両手を地面に付きたて、懸命に体を起こした。
「…………」
僕は黙々と、道路に転がった品物を再び荷台へと積み上げる。いつもなら片手で持ち上げられるようなそれらを両手で持ち、まるで老人のような緩慢な動作で。長い時間をかけてようやく積みなおすと、僕は再び歩みを始める。
「…………」
僕を、待っている人はいるだろうか。
僕の行いを、受け止めてくれる人はいるだろうか。
僕の意思に、意義を見出してくれる人はいるだろうか。
分からない。そんな事はどうでもいいから。
僕は、彼らの罪を背負う事は出来るだろうか。
彼らの罰を代わりに受ける事は出来るだろうか。
彼らに許しを与える事が出来るだろうか。出任せの許しではなく、本当の許しを。
「…………」
僕達は旅をしていた。この世に生まれてから今までずっと。旅立つ場所も、向かう場所も全く別々の旅。時折道が重なってはやがて別れる。そしてその間に僕達は背中に背負ったバッグには入らない荷物を増やして、また旅を続ける。道がどこまで続いているのかも分からないままに。いつ終わるのかも分からないままに。僕達は進み続ける。けど、そうやって進み道を、誰かのために引き返す事があってもいいと思うんだ。道なんてない場所を誰かのために傷を負ってでも突き進む事があってもいいと思うんだ。そうやってしまった事で、バッグから他のなにかが転がってしまうとしても。
なぁ、その時なくしてしまった荷物をさ、君に新たにねだるような真似なんてしないよ。君の大事なものが失われなければ、それは僕にとっても新しい荷物を貰ったようなものだから。
「…………」
東から姿を見せ始めた太陽の欠片に僕は目を細め、まるで生き返るように校舎が白い姿を浮かび上がらせていく。
僕は用具入れから大きいスコップを持ち出すと運動場にそれを付きたてた。硬い地面はスコップにえぐられる事を拒むようにしていたが、ある程度掘り起こすと諦めたように柔らかになった。そうして二箇所ほど穴を掘ったところで以前バーベキューをした時に使ったブロックと薪や、校内の食堂にあったかなり大きな鍋を運んできた。上手く火を起こせるかどうかは分からなかったが、親父がやっていたのを思い出しながら薪を並べる。想像通り初めはなかなかうまくいかなかったが、なんどか紙を燃やして放り込んでいるうちに赤い炎が踊り始めた。
「……よし」
僕はうまく行ったことに軽く感動しながら、水の入った鍋に米を入れた。水はどうやらライフラインが止まる前に大量に水道水を溜め込んでいたらしい。一番悩んでいた水が簡単に手に入ったのは幸運だった。思えば僕に食べ物をねだってきた下級生も飲み物を寄越せとは言わなかった。本当になにも飲まず食わずなら食べ物よりも水分を欲しがる筈なので本当に大量に準備していたのだろう。ただ日数が経っているので一度沸騰させてある。それだけで大丈夫なのかどうかは僕には分からないがやらないよりはマシのはずだった。隣では味噌汁用に同じように大きな鍋が並んでいる。
「……米がこれくらいで、水はこれくらいでいいんだよな、確か」
炊飯器以外でしかも大量の米を沸かす事など経験がなかったので幾許かの不安はあったが、いつまでも悩んでいても仕方がないので目分量で測った鍋を火にかけた。
火も消えてしまうような様子はなく、僕はほっと一息ついた。しばらくぼんやりと座って過ごすが、やがて鍋と蓋の隙間からふつふつと泡が漏れ出すのを見て、僕はしどろもどろになる。
「ええっと、こうやって吹いてきたら炊けたって事だったっけ? あれ? もうちょっとやったほうがいいのか? いや、でももしほっといて焦げといたらやばいしな」
確認しようにも僕以外誰もいない。
しょうがないので一度蓋を取ってみる事にした。内心ひやひやしながら蓋を掴む。中から開放されたことを喜ぶように蒸気が吹き上がった。
「……出来た、か?」
白くなったご飯を見て、僕は恐る恐る覗き込む。ぱっと見た感じではちゃんと炊けているようだった。味見をしてみようとスプーンで少量すくって、普段食べている物よりその感触が柔らかいような気がしたが、そのまま口に含んで、僕は慌てて吐き出した。
「おえ!? まず!」
まるで出来の悪いおかゆのような出来具合に僕は閉口してしまう。
「……もうちょっと置いとくか」
本当に大丈夫だろうか、と余計不安になったが、最悪やり直せばいいだろうと決め、味噌を鍋へと突っ込んだ。面倒くさくなってきて乾燥わかめを水で戻す事無くそのまま揚げ麩と共に入れる。もうどうとでもなれという心境だったが、もう一度時間を置いて出来上がったご飯は、今度は水分が足りなかったようでぱさぱさな口当たりだったが、食べられないほどではなかったので、これでよしとする事にした。
「康弘君? なにしてるの?」
「あ?」
僕はその声に酷く懐かしさを感じながら振り向いた。
「麻奈? なんでここに?」
「ちょっと、私もいるんですけど」
そう口を尖らせたのは真尋で、こちらは本当に久しぶりに見る顔だったが、懐かしいというよりは相変わらずだな、と思わせられる。
「二人で康弘君の家に行ったんだけど、いなかったから学校にいるのかもと思って」
「あぁ、なるほど」
僕は唐突に彼女を抱きしめたい衝動に駆られるが横に真尋もいるので我慢する事にする。
「で、なにやってんの?」
「見て分からんのか。朝飯を作ったんだ」
「なんでこんなとこで?」
真尋の矢継ぎ早の疑問に頭痛を感じ、僕は頬を引きつらせながら答える。
「こんなとこってなんだよ。学校で食うんだから学校で作るのが自然だろうが」
「全然意味が分かんないんだけど。それになに? この量」
「もういい。お前は黙ってろ」
これ以上疲れるのはごめんだ。
僕は準備が出来た事を確認すると立ち上がる。そして校舎へと向き直ると職員室から持ってきたハンドスピーカーを拾い上げた。体育教師が体育祭の練習などで使っていたものだが、自分が使ってみるとなるとすこし子供心にわくわくした。
スイッチを入れ『あーあー、マイクテス、テステス』と口にする。僕の行動を理解出来ないらしい二人が、そんな僕を見て眉根を寄せるが、僕は笑うだけで「ちょっと耳塞いでろ」と伝えた。
ようやく素直に僕のいう事を聞いた真尋と麻奈が耳を押さえ、僕はとりあえずこれで一旦打ち止めだ、と言う思いと共に思い切り息を吸い込む。
『はーい、中央高校の皆さーん! おはようございまーす! おはよーござーまーす! 朝です! 起きましょう!』
と思い切り叫んだ。自分でも驚くほどの大きな声に鼓膜が震える。
校舎の中にいた何人かも驚いたらしく何事かと窓からこちらを覗こうと姿を見せた。だがまだ閉じこもっている連中がいるらしく、僕は更に叫ぶ。
『くおらぁ! 起きんかー! お前らー! いつまで寝てんだボケどもー! さっさと起きて出て来い!』
「うるせえええ!!」
どうやら機嫌を損ねたらしく、どこかからいかにも不快だといった叫び声が聞こえてきたが、僕は構わずそちらを見て指を突きつけた。
『お前がうるせえ! あぁ!? マジぶっ殺すぞ、おい!? やんのか、こら!?』
僕に向かって叫んでいた連中が僕の顔を見て叫ぶのをやめた。やれやれ、どうも僕はそれなりに悪名が通ってしまっているのかもしれない。
「なんなんだよ、こんな朝っぱらから!?」
その問い掛けに合わせるように真尋が「ちょっと、なにがしたいのよ、あんたは!?」と肩を叩いてくる。
もうそんな強く押さないでくれ。本当は今にも倒れそうなんだ。
だが、どうやら大体の生徒が僕の呼びかけに目を覚ましてこちらを見ているようだと確認をしたところで、僕はほんの少しのストレス発散を込めた叫びはもう終わりにする事にした。
全く、どうでもいい事でもわざわざスピーカーを使っていた教師の気持ちが分かるというものだ。こんなに気持ちのいいものは中々見つけられない。
『朝ご飯が出来た。多分人数分あるから、食べたい奴、って言うか全員、食堂から食器を持って運動場集合してくださーい。とろとろしてると冷めちゃうからはい、さっさと集合!』
思っていた以上に皆素早く食器を持ってやってきたため、今度は逆に『落ち着け! 順番に並べ!』と諌めるような事もあったが、どうやら無事に人数分食事を分け与える事は出来たようだった。並んだ生徒達にご飯や味噌汁を注ぐのは麻奈と真尋に代わってもらう事にした。
列が途切れ、全員が食べているのを見ていると麻奈が残った分を僕にと差し出してくれたのを受け取る。
「お疲れ様、大変だったでしょ?」
「そりゃもう本当に」
僕がしみじみ頷くと彼女はまるでそれを癒そうかとするように僕の頭を撫でた。それが心地よくてしばらく上の空だったが、周りから聞こえてくる声に耳を傾けた。
「美味いね」
「うん、おいしい」
「本当にね、こうやってご飯ちゃんと食べられるなんて夢みたいだ」
「美味い、美味い」
中には涙を流しながら食べている者もいる。その中に2-Cの生徒もいた。その内の一人が僕と目が合うと昨日の事もあってか気まずそうに目を逸らそうとしたが、それよりも先に僕は首を振って、手を上げた。
それを見た彼は、僕の言いたい事を理解してくれたらしく頬に涙の筋を残したまま、口にご飯を含んだまま大きく微笑み、慌てて飲み込もうとして咽こんだ。その様子にお互いニヤニヤと笑い合う。
僕は、あぁ、よかったのかな、これで、と思う。
彼に、救いの手を差し伸べる事が出来ただろうか。腕を切ることとは違う喜び。そして彼のように微笑む事が出来るような喜びがまだここにあるという事を思い出してもらえただろうか。隣で女子生徒が「もう、汚い」とこちらも笑っていた。
僕が作った、どうしようもなく塩を振ってもふりかけをかけても、味噌汁と混ぜても――そもそも味噌汁も――不味いとしか思えないご飯は、それでもその温かさを体の中に届ける事が出来たようだ。
だが、僕がどれだけ探しても、運動場の中に小笠原の姿を見つける事は出来なかった。そして小林の姿もない。彼らに聞いてみると、教室にはいた、と答える。
その時、僕は射抜くような視線の気配を感じた。無意識の内に僕の視線は自然と2-Cへと引き寄せられる。
それはこうやって離れた場所からでも分かる。
太陽に照らされることを拒む真白の肌。長袖から解放された彼女の手が窓枠へとかけられて、僕を真正面に捉えている。
黒い前髪に隠れるようだが、僕はその眼差しをしっかりと捉えたような気がした。そこにあったのは、先程の僕を射抜くような視線ではなく、ある意味では彼女の普段通りの――いや、やはり普段よりも虚無を感じさせる眼差しだった。
「……よし」
僕はうまく行ったことに軽く感動しながら、水の入った鍋に米を入れた。水はどうやらライフラインが止まる前に大量に水道水を溜め込んでいたらしい。一番悩んでいた水が簡単に手に入ったのは幸運だった。思えば僕に食べ物をねだってきた下級生も飲み物を寄越せとは言わなかった。本当になにも飲まず食わずなら食べ物よりも水分を欲しがる筈なので本当に大量に準備していたのだろう。ただ日数が経っているので一度沸騰させてある。それだけで大丈夫なのかどうかは僕には分からないがやらないよりはマシのはずだった。隣では味噌汁用に同じように大きな鍋が並んでいる。
「……米がこれくらいで、水はこれくらいでいいんだよな、確か」
炊飯器以外でしかも大量の米を沸かす事など経験がなかったので幾許かの不安はあったが、いつまでも悩んでいても仕方がないので目分量で測った鍋を火にかけた。
火も消えてしまうような様子はなく、僕はほっと一息ついた。しばらくぼんやりと座って過ごすが、やがて鍋と蓋の隙間からふつふつと泡が漏れ出すのを見て、僕はしどろもどろになる。
「ええっと、こうやって吹いてきたら炊けたって事だったっけ? あれ? もうちょっとやったほうがいいのか? いや、でももしほっといて焦げといたらやばいしな」
確認しようにも僕以外誰もいない。
しょうがないので一度蓋を取ってみる事にした。内心ひやひやしながら蓋を掴む。中から開放されたことを喜ぶように蒸気が吹き上がった。
「……出来た、か?」
白くなったご飯を見て、僕は恐る恐る覗き込む。ぱっと見た感じではちゃんと炊けているようだった。味見をしてみようとスプーンで少量すくって、普段食べている物よりその感触が柔らかいような気がしたが、そのまま口に含んで、僕は慌てて吐き出した。
「おえ!? まず!」
まるで出来の悪いおかゆのような出来具合に僕は閉口してしまう。
「……もうちょっと置いとくか」
本当に大丈夫だろうか、と余計不安になったが、最悪やり直せばいいだろうと決め、味噌を鍋へと突っ込んだ。面倒くさくなってきて乾燥わかめを水で戻す事無くそのまま揚げ麩と共に入れる。もうどうとでもなれという心境だったが、もう一度時間を置いて出来上がったご飯は、今度は水分が足りなかったようでぱさぱさな口当たりだったが、食べられないほどではなかったので、これでよしとする事にした。
「康弘君? なにしてるの?」
「あ?」
僕はその声に酷く懐かしさを感じながら振り向いた。
「麻奈? なんでここに?」
「ちょっと、私もいるんですけど」
そう口を尖らせたのは真尋で、こちらは本当に久しぶりに見る顔だったが、懐かしいというよりは相変わらずだな、と思わせられる。
「二人で康弘君の家に行ったんだけど、いなかったから学校にいるのかもと思って」
「あぁ、なるほど」
僕は唐突に彼女を抱きしめたい衝動に駆られるが横に真尋もいるので我慢する事にする。
「で、なにやってんの?」
「見て分からんのか。朝飯を作ったんだ」
「なんでこんなとこで?」
真尋の矢継ぎ早の疑問に頭痛を感じ、僕は頬を引きつらせながら答える。
「こんなとこってなんだよ。学校で食うんだから学校で作るのが自然だろうが」
「全然意味が分かんないんだけど。それになに? この量」
「もういい。お前は黙ってろ」
これ以上疲れるのはごめんだ。
僕は準備が出来た事を確認すると立ち上がる。そして校舎へと向き直ると職員室から持ってきたハンドスピーカーを拾い上げた。体育教師が体育祭の練習などで使っていたものだが、自分が使ってみるとなるとすこし子供心にわくわくした。
スイッチを入れ『あーあー、マイクテス、テステス』と口にする。僕の行動を理解出来ないらしい二人が、そんな僕を見て眉根を寄せるが、僕は笑うだけで「ちょっと耳塞いでろ」と伝えた。
ようやく素直に僕のいう事を聞いた真尋と麻奈が耳を押さえ、僕はとりあえずこれで一旦打ち止めだ、と言う思いと共に思い切り息を吸い込む。
『はーい、中央高校の皆さーん! おはようございまーす! おはよーござーまーす! 朝です! 起きましょう!』
と思い切り叫んだ。自分でも驚くほどの大きな声に鼓膜が震える。
校舎の中にいた何人かも驚いたらしく何事かと窓からこちらを覗こうと姿を見せた。だがまだ閉じこもっている連中がいるらしく、僕は更に叫ぶ。
『くおらぁ! 起きんかー! お前らー! いつまで寝てんだボケどもー! さっさと起きて出て来い!』
「うるせえええ!!」
どうやら機嫌を損ねたらしく、どこかからいかにも不快だといった叫び声が聞こえてきたが、僕は構わずそちらを見て指を突きつけた。
『お前がうるせえ! あぁ!? マジぶっ殺すぞ、おい!? やんのか、こら!?』
僕に向かって叫んでいた連中が僕の顔を見て叫ぶのをやめた。やれやれ、どうも僕はそれなりに悪名が通ってしまっているのかもしれない。
「なんなんだよ、こんな朝っぱらから!?」
その問い掛けに合わせるように真尋が「ちょっと、なにがしたいのよ、あんたは!?」と肩を叩いてくる。
もうそんな強く押さないでくれ。本当は今にも倒れそうなんだ。
だが、どうやら大体の生徒が僕の呼びかけに目を覚ましてこちらを見ているようだと確認をしたところで、僕はほんの少しのストレス発散を込めた叫びはもう終わりにする事にした。
全く、どうでもいい事でもわざわざスピーカーを使っていた教師の気持ちが分かるというものだ。こんなに気持ちのいいものは中々見つけられない。
『朝ご飯が出来た。多分人数分あるから、食べたい奴、って言うか全員、食堂から食器を持って運動場集合してくださーい。とろとろしてると冷めちゃうからはい、さっさと集合!』
思っていた以上に皆素早く食器を持ってやってきたため、今度は逆に『落ち着け! 順番に並べ!』と諌めるような事もあったが、どうやら無事に人数分食事を分け与える事は出来たようだった。並んだ生徒達にご飯や味噌汁を注ぐのは麻奈と真尋に代わってもらう事にした。
列が途切れ、全員が食べているのを見ていると麻奈が残った分を僕にと差し出してくれたのを受け取る。
「お疲れ様、大変だったでしょ?」
「そりゃもう本当に」
僕がしみじみ頷くと彼女はまるでそれを癒そうかとするように僕の頭を撫でた。それが心地よくてしばらく上の空だったが、周りから聞こえてくる声に耳を傾けた。
「美味いね」
「うん、おいしい」
「本当にね、こうやってご飯ちゃんと食べられるなんて夢みたいだ」
「美味い、美味い」
中には涙を流しながら食べている者もいる。その中に2-Cの生徒もいた。その内の一人が僕と目が合うと昨日の事もあってか気まずそうに目を逸らそうとしたが、それよりも先に僕は首を振って、手を上げた。
それを見た彼は、僕の言いたい事を理解してくれたらしく頬に涙の筋を残したまま、口にご飯を含んだまま大きく微笑み、慌てて飲み込もうとして咽こんだ。その様子にお互いニヤニヤと笑い合う。
僕は、あぁ、よかったのかな、これで、と思う。
彼に、救いの手を差し伸べる事が出来ただろうか。腕を切ることとは違う喜び。そして彼のように微笑む事が出来るような喜びがまだここにあるという事を思い出してもらえただろうか。隣で女子生徒が「もう、汚い」とこちらも笑っていた。
僕が作った、どうしようもなく塩を振ってもふりかけをかけても、味噌汁と混ぜても――そもそも味噌汁も――不味いとしか思えないご飯は、それでもその温かさを体の中に届ける事が出来たようだ。
だが、僕がどれだけ探しても、運動場の中に小笠原の姿を見つける事は出来なかった。そして小林の姿もない。彼らに聞いてみると、教室にはいた、と答える。
その時、僕は射抜くような視線の気配を感じた。無意識の内に僕の視線は自然と2-Cへと引き寄せられる。
それはこうやって離れた場所からでも分かる。
太陽に照らされることを拒む真白の肌。長袖から解放された彼女の手が窓枠へとかけられて、僕を真正面に捉えている。
黒い前髪に隠れるようだが、僕はその眼差しをしっかりと捉えたような気がした。そこにあったのは、先程の僕を射抜くような視線ではなく、ある意味では彼女の普段通りの――いや、やはり普段よりも虚無を感じさせる眼差しだった。
「智史君、今なにしてるのかな」
「分かんない。家にはいると思うけど」
「真尋、会いに行かないの?」
「うん、考えてるけど」
ぼんやりとした頭にその会話が聞こえ、僕はうっすらと目を開けた。どうも本格的に眠気に襲われてしまったようで、僕は保健室のベッドに寝かされていたようだが、しばらく干されていないらしい布団は湿気たような臭いと感触でざわりとした。
「怖いのよ、会うのが。今の智史はもうすっかり元気をなくしちゃって。新しい事を始めるような気力も失っちゃったのよ。そんな彼に私がなに言えるんだろうって。ううん、怖いのは、そうやってなにかを言ってる私そのものを否定されちゃったら、その時私智史の前でおかしくなっちゃいそうで」
僕がまだ眠っていると思っている二人に合わせるように僕は黙っていた。
彼女達は少し離れた丸椅子に座っているようで、僕は耳を傾ける。
「空しくなっちゃうよね。こういう時って本当は支えてあげるべきじゃない? 友達としてもさ。でもダメ。本当にダメな時ってあるのよね。どうしたらいいのか全然分からなくて、もしかしたら余計に傷つけちゃうんじゃないかとか考えちゃって結局動けなくなっちゃう。二人ともそこら辺に転がってる石ころみたい。自分じゃ動く事も出来ないし、他人には蹴られてころころ転がるだけだし、拾い上げて貰ったり拾ったり、そういうのって気紛れだったり、石に価値がないと無理なんだって」
「そんな事ないよ、真尋」
「私さぁ、康弘ならなんとかしてくれるんじゃないかなってちょっと思ってた。智史を立ち直らせて、また何事もないように笑えるようになって、私達四人でまた出かけるようになったり出来るかなって。でも、それもどうなのかなって。じゃあ、私なんなんだろ。智史が康弘と私をどう思ってるかじゃなくてね、智史を想ってる私の気持ちはなんなんだろって。だって私智史の事好きじゃない? 恋愛って意味で。なのに康弘に頼るのってなんか間違ってる気がするのよ。私、あの二人が本当に仲いい事は知ってるよ。でも私が智史を想う気持ちは負けてないって思うんだ。でも今こうやって康弘を当てにしてる私はなんなんだろうって」
臆病とか、恐怖と言うのだろうか。僕はぼんやりと彼女の告白にそんな事を考えていた。きっと僕以上に智史の事を想っているからこそ、かけるべき言葉を見つけられなくなってしまうのではないだろうか。例えば、今彼女になんて言えばいいのか分からない僕のように。
「でも真尋、このままじゃ余計離れていっちゃうだけだよ? それでいいの?」
「よくない」
「じゃあ、今のままじゃダメだよ」
二人のどちらかが動いたのか、椅子のずれる音が聞こえた。
「もし康弘君のおかげで智史君が笑うようになっても、その時真尋素直にそれを受け入れられるの? 自分の中に引っ掛かりを残したまま、笑いあえたとして真尋はそれで満足できるの? 私ね、康弘君と付き合える事になって本当に嬉しかったの。きっとこれが幸せなんだって思った。そういうのね、もしどうせもうすぐ死んじゃうからいい、って思ってたら感じる事も出来ない気持ちだと思うの。真尋、私達まだ時間残ってるじゃない、その時間をちゃんと使おう? 真尋の言葉を届けに行こうよ。届かなくてもいいから。そうしないと、真尋自分にもなにも言えなくなっちゃうよ」
「意味、あるのかな。届かない言葉に」
「あるよ。それに本当の言葉なら、欠片も届かない言葉なんてないって私思うから」
「康弘君、さっき起きてたでしょ?」
「なんの事?」
そうとぼけたが彼女はお見通しと言うように笑われた。
「康弘君寝相悪いんだもん。いつも寝返りとかうってるのに、さっきは全然動かなかったもん」
「……きっと背中が布団の湿気で張り付いちゃったんだよ」
「さっき見てた時はちゃんと寝返りしてたよ」
「あ、そう」
誤魔化しきれないようで僕は「起きてたけどぼうっとしてたからよく覚えてない」と言うと彼女は「ふーん、そうなんだ」とだけ言いそれ以上は追求してこないようだった。真尋は先ほど保健室から出て行った。きっと康弘の家に向かったのだろう。智史の事は彼女に任せようと思えた。そうするのが正しい気がしたし、むしろ僕は邪魔なんだと言い聞かせた。
「俺、どれくらい寝てた?」
昼の十二時だと彼女が腕時計を見る。今や腕時計は必需品となっていた。どうやら四時間ほど眠っていたようだが以前倦怠感は残っている。脳ももう少し睡眠を要求していたが、僕はベッドから体を半分起こした。
「まだ寝てたほうがいいよ。康弘君全然寝てないんでしょ? クラスの子が言ってたよ」
「大丈夫だよ。麻奈、クラスの奴と話したの? なんの話?」
「私達がいない間の事とかかな、大変だったみたい」
「腕の傷、見た?」
「うん……けど、なんであんな事したんだろうって言ってたよ」
「そっか」
僕はじっと彼女の顔を見つめる。彼女はそのなんでも吸い込んでくれそうな瞳を僕に返した。きっと真尋もその瞳に見つめられた事だろう。僕達には限界がある。だからそれを埋めあうために人と人は支えあっているのかもしれない。
「じゃあ、俺は俺のやれる事をまたやんないとな」
「また、学校を掃除するの?」
「そう。ごめんな、お前に構ってやれなくて」
そう言うと彼女は笑って首を横に振った。
「いいよ。そういうの康弘君らしいし、私も手伝うから」
僕達は保健室を出て二階に上がった。相変わらず汚れている廊下を見てげんなりするが麻奈がゴミ袋を広げているのを見て僕はなんとか自分を奮い立たせる。
「麻奈小さいの拾ってくれればいいよ。大きいのは俺がやるから」
「うん。けど凄い量だよね」
「まったく」
二人でもきっと丸一日かかるだろう。僕達は諦観したように黙々とゴミを拾っていたが、そうやってしばらくいたところで声をかけられた。
「掃除してるの?」
遠慮がちなその声に僕は頷いた。あまり面識がない生徒だったが朝運動場で見た記憶がある彼は「……よかったら手伝っていいかな」と言った。
「マジで?」
「うん、僕でよかったら」
「いや、助かるよ。すっげー助かる」
「本当? それならよかった」
と彼はにこりと微笑むと新しいゴミ袋に手を伸ばした。僕はその彼の姿を眺めていると、また何人かがこちらへとやってきて「さっきはご飯ありがとう」と言い、ゴミを拾い出した。僕は「いいよ、気にしないで」と大した事ではないと装ったが、それはそうしないと自分の中の感情が今にも踊りだしそうだったからだった。
「康弘君、よかったね」
「そうだな」
隣で麻奈も嬉しそうにしている。僕達は全員で二階の掃除を始めた。僕が少し休憩をしようと階段に座り込んでいると三階から諏訪先輩がやってきて、相変わらず格好はだらしなかったけど、雰囲気は以前のしゃんとしたものが蘇っていて彼は何人かを引き連れながら、座っていた僕を見つけると「やぁ」と手を上げた。
「僕達も手伝うよ。三階の廊下は柳君がしてくれたから、一階に行ってくる」
「やる気、出ました?」
「君が作ってくれたご飯が美味しかったからかな」
メガネのずれを直しながら彼は「本当に君には助けて貰ってるね」と言うので「お互い様です」と返すと「じゃあ、また」と言い残し階段を下りていった。
ぞろぞろと続くその集団を見送り、僕は廊下を見渡す。この人数ならきっと思ったよりもずっとはやく校舎は綺麗になるだろう。
だが、その中にいない人影が僕は気になっていた。全員が手伝ってくれている訳ではないがその中には小林の姿もなかった。他のクラスメイト達はいるのだが、彼がこういった時に姿を見せないのは違和感があった。小笠原もいないので彼女に寄り添っているのだろうか。僕は断りを入れて二人を探すことにしたが、教室へと行ってみると二人をすぐに見つけることが出来た。僕はその呆気なさに気を抜いたが、僕を見た小林はすこし強めに睨んできた。
「なんだよ、小林」
「どうして、こんな事をするんだ」
「こんな事って……掃除の事か? 朝飯の事か?」
「どちらもだよ」
僕は彼の台詞に二の句を告げなくなる。まさか彼が僕の行動を否定するなんて事は全く考えていなかった。むしろ僕に同調して手伝ってくれるとすら思っていた。
そして同時に気がつく。
運動場で感じた射抜くような視線を僕に送っていたのは、今小林の後ろに座り込んでいる小笠原ではなく、彼なのだと。僕は今再び向けられているその視線に背筋がひやりとした。
彼は少し気が動転しているようだった。
「もう少しだったのに! どうして邪魔をするんだ」
「落ち着けよ」
伸びてきた彼の手を振り払う。彼は悔しそうに歯噛みした。
「どうしたんだよ、小林。お前ちょっと変だぞ」
なんとか冷静になろうとそう言うが、彼には届かないようだった。
「君には分からないんだ。僕達が、僕がどれだけ苦しんでいるのかなんて事を。分からないから、そうやって自己満足を押し付けるのか!?」
「なに言ってんだよ!?」
「小林君」
熱くなっていた僕達を覚ますかのように、彼女の氷のような言葉が投げかけられ、僕達は小笠原の方を見た。彼女は僕を見ず、小林を見ながら首を縦か横か判別のしにくい角度で動かすと、それきり俯いてしまった。小林はそれで平静を取り戻したようだったが、僕を再び見ると「二人にしてほしい」と暗に教室から出て行ってくれと伝えてきた。
「なぁ、小林。お前は俺が自己満足って言うけど――」
「いいから」
僕の言葉は遮られ、僕は諦めると教室から出る事にした。2-Cの教室は他の教室と比べると随分清潔さを保たれていた。それを望んでいたのは小笠原だったのだろうか。
(僕が、どれだけ苦しんでいるか、か)
僕は彼らにとっては余計な事をしてしまったのだろうか。小林は昨日までの僕がいなかった教室での光景を歓迎していたのかもしれない。それを僕は壊してしまったのだろうか。
きっと小笠原にとっての幸せを彼はあの時がそうだと思ったのかもしれない。
(けど、小笠原のためだけに、他の奴らの笑顔を奪ってたら、意味がないと思うんだ、小林)
新しいゴミ袋を取り出しながら、僕はそっと呟いた。
そう、僕はこの時それが全くの見当違いだという事に気がついてなどいなかった。
「彼女がどれだけ苦しんでいるか」ではなく「僕がどれだけ苦しんでいるか」と言った彼の言葉を僕は、てっきり彼女のために苦心している自分の事を彼は言っているのだと思っていた。だけどそれはそうではなく、その通り、彼は自分の苦しみを吐露していたのだ。それは予想外の出来事に戸惑った彼がつい零した本音だったのだろう。
なぁ、小林。
僕はお前の本音を今まで聞いた事があったんだろうか?
「自分は電池のような存在」だと言った時、あの言葉を向けていたのは遥にだっただろう?
僕は、お前の本音を聞けた事があったんだろうか、今までに。
麻奈が一度家に帰ると言うので、それを見送り夜になると皆もそろそろ寝ようかと言い出したが、僕はもう少し続ける事にした。眠気は感じたが、中途半端な時間に眠ってしまったためかすぐに寝られそうになかったのだ。ゴミはもう殆ど外へと運び出されており、僕は近所のスーパーから持ってきたダンボールとゴムテープで開いた窓を塞ごうとしていた。飛び出した窓ガラスの破片を怪我をしないように外しながらダンボールを窓枠に合わせていると、いつの間にかやってきていたらしい小笠原が「まだやるの?」と声をかけた。
「あぁ、小笠原か。もう少しやるかな」
「そう……邪魔?」
「全然。なんなら手伝う?」
「…………」
沈黙してしまった彼女に僕は苦笑すると一旦手を止め、壁にもたれた。彼女は再び長袖のシャツに腕を通していた。
「なんか用があるんだろ? どうした?」
「私の事、もう怒ってないの?」
「そうだな、今はもう怒ってないし、前は悪かったよ」
素直にそう謝ると、彼女は安心したのか、気が抜けたのか「そう」とだけ言うと僕と同じように壁にもたれた。僕達は並んでしばらく無言で過ごし、風に揺れるアロマキャンドルの火を見つめた。彼女が「いい匂いね、これ」と言うので「そうだな。これ名前忘れたけど落ち着かせてくれる匂いなんだって」と教えると「橘さんが用意したんでしょう? 彼女そういうところ気が利くわね」とどうやら彼女の事を褒めてもらったようなので「まあな」と言う。
「やめてって言ったらどうするの?」
「掃除とかか?」
「明日も皆のために朝ご飯を作るんでしょう?」
「本当は夜も作りたかったんだけどな。ちょっと出来なかったな」
「私、また皆と話せなくなるわ」
「どうして?」
僕はアロマキャンドルの火で煙草をつけた。その匂いが煙草にも移るような錯覚を覚える。
「皆以前の場所に帰ろうとするから。私といると、傷をつけていた事を思い出さないわけにはいかないし、それがなくなったら私達に共有するものはないもの」
「だから、やめてほしい?」
「ねぇ、どうしてあなたはそこまでするの? 一人で他人に笑われてバカにされるような目で見られて、体がボロボロになっても。ここに残っていたのはそういうのを諦めた人達だったのよ。一人じゃなにも出来なくて、弱くて、お互いを慰めあう事でなんとか満足を得られるような」
「違うよ、小笠原。諦めたんじゃない、ちょっと忘れてしまっただけだ。俺はそれを思い出してもらっただけだよ」
「どちらでもいいわ、そんな事」
相変わらず抑揚のない言葉だが、僕はこんな風に彼女とちゃんと僕に話すのは初めてだった。
「よかったのよ、きっと。今のままで。私達は昨日までの生き方でもよかった筈なの。あなたがいなければ、私達はああやって教室でひっそりと蹲って隕石が落ちる日までを過ごしただろうけど、それはそれで私達は納得してたの」
「お前は、そうしていたかったの?」
聞き返すと、彼女はしばし黙り込み、背中を壁にくっつけたままずるずるとその場に腰を下ろした。
「……そうよ、それでよかったの」
僕も彼女に倣い廊下に座り込む。
「まぁ、先に謝っとくよ。多分これから言う事俺の自己満足だから」
夜の校舎は静かで、光のない廊下はまるでどこまでも永遠に続いているかのようだった。きっと僕達の心もこの果ての見えない廊下のように奥底を覗く事など誰にも出来ないのかもしれない。
「なに?」
「お前はそれでいいって言うけどやっぱ俺違うと思う。あんなふうに生気のない顔で皆で集まって腕を切って、それはそれでありだとか、やっぱ俺には理解出来ないよ。色んな生き方があるとは思うけどさ、その色んな生き方ってのはあくまでなにをするかであって、空っぽな表情になる事を認める事じゃないと思うんだ。心の底から笑ったり泣いたり、そういう事があってやっと俺達は幸せって言えるんじゃないかな。だから、上手く言えないけどやっぱり皆、あの時感じていたのは幸せとかじゃないし、ならそんな生活を続ける事は不幸だと思うんだ。だから俺は皆にそれを取り戻して貰いたかったんだよ」
「……それで誰かが幸せを感じてたとしても、あなたはそれを奪うの?」
「いや、奪う気はないよ。あのさ、お前は俺がお前から皆を連れていってしまったって思ってるかもしれないけど、それちょっと違うんだ。俺、お前も連れていきたい。お前を取り残したりせずに、お前も幸せな場所に連れていってやりたい。なぁ、俺お前が笑ったりしてるとこ見た事ないんだ。それは昨日もそうだし、小笠原が望んでるものも本当は違うんじゃないのか? あの生活は偶然転がり込んできたもので、お前はそれでなんとなくまぁ、これでもいいか、って思ってただけじゃないのか? 本当にお前が望んで、小林が頑張ってた皆と打ち解けたいって思って望んでた姿ってあれなのか?」
だってお前は以前と全く変わっていないじゃないか。そのなにもかもつまらないと言う目は。
「…………」
僕は煙草を揉み消すと、まだ残っていたゴミ袋の中へと放り込んだ。
彼女の沈黙に、怒っているのだろうかと思ったが、僕の予想に反し、彼女は至って落ち着いたままだった。
「しょうがないのよ。私に望んだものがあるとしても、もうそういうの出来ないわ」
「そんな事ないだろ。皆やり直してる。お前だって出来る」
「皆が出来たからってなんなの? だから私にも出来るって?」
僕はひるんだが、彼女はそんな僕に「精神病の人って誰かの励ましをそうやってネガティブに受け取ってしまうものなの」とまるで他人事のように言った。
「私が言いたいのはそういう事じゃなくて」
「じゃあ、なんなんだよ」
「欲しいものはもうないの。私が欲しいものは、もうこの世に存在しないの」
「……どうしてそう思う」
「思うんじゃなくて本当にないのよ」
彼女はまだなにかを言おうとしたが、ぱくぱくと少しだけ動かしてやがてその動きは止まってしまった。彼女自身それをどう言えばいいのか分からないようだった。そして言えば言うほど傷が広がる、とも思っているようだった。
「本当になにも欲しいものがないなら、なんで今こうやって俺にやめて、なんて言うんだ?」
「そうね、私どうかしてたわね」
僕はなんとか彼女からの言葉を聞こうとしたが、もう彼女は再び心に蓋をしてしまったようだった。吐息を一つ残し立ち上がり僕の前から立ち去ろうとする。引き止める事は出来ないようだが「なぁ、一つだけ聞いていいか?」と言うと「なに?」と背中越しにこちらを見た。
「俺達を教室に呼んだのって、お前なんだろ? あのメール送ったの」
「そうよ」
彼女は事も無げにそう言った。僕は「だったら」と言おうとする。
だったら、それはお前が皆と一緒にいたいって望んだなによりの証じゃないのか? 皆と打ち解けたいって望んだなによりの証じゃないのか? お前は今までずっと皆と離れて生きているようだってずっと俺も皆も思っていたかもしれないけど、お前は死を迎える事になった時、そんな皆と一緒に願ったって言う、なによりの証じゃないのか?
「どうして分かったの?」
「誰もメール出した事を自分だって言う奴がいなかったから」
「そうよね、隠すような事じゃないもの、普通は」
「なぁ、小笠原――」
「でも今はちょっと後悔してるわ」
その台詞を残し彼女は僕の前から夜の闇の中に紛れていくように姿を消した。
(なんで?)
彼女の台詞の真意が分からず、僕はその疑問を何度も反芻した。だがそれに対して僕が正解を導けるはずなどなかった。僕と彼女の視線は同じ光景を見ていたはずなのに、ずっとずっと離れあった場所で、交差する事もなかった。一つのサイコロを見て見える数字を答えろ、と言われた時、僕が4と言えば彼女は2と言うのではないだろうか。
彼女は今なんのために生きているのだろうか。それは彼女を見続ければ分かるのだろうか? 360度あらゆる角度から見つめれば理解出来るのだろうか。
「分かんない。家にはいると思うけど」
「真尋、会いに行かないの?」
「うん、考えてるけど」
ぼんやりとした頭にその会話が聞こえ、僕はうっすらと目を開けた。どうも本格的に眠気に襲われてしまったようで、僕は保健室のベッドに寝かされていたようだが、しばらく干されていないらしい布団は湿気たような臭いと感触でざわりとした。
「怖いのよ、会うのが。今の智史はもうすっかり元気をなくしちゃって。新しい事を始めるような気力も失っちゃったのよ。そんな彼に私がなに言えるんだろうって。ううん、怖いのは、そうやってなにかを言ってる私そのものを否定されちゃったら、その時私智史の前でおかしくなっちゃいそうで」
僕がまだ眠っていると思っている二人に合わせるように僕は黙っていた。
彼女達は少し離れた丸椅子に座っているようで、僕は耳を傾ける。
「空しくなっちゃうよね。こういう時って本当は支えてあげるべきじゃない? 友達としてもさ。でもダメ。本当にダメな時ってあるのよね。どうしたらいいのか全然分からなくて、もしかしたら余計に傷つけちゃうんじゃないかとか考えちゃって結局動けなくなっちゃう。二人ともそこら辺に転がってる石ころみたい。自分じゃ動く事も出来ないし、他人には蹴られてころころ転がるだけだし、拾い上げて貰ったり拾ったり、そういうのって気紛れだったり、石に価値がないと無理なんだって」
「そんな事ないよ、真尋」
「私さぁ、康弘ならなんとかしてくれるんじゃないかなってちょっと思ってた。智史を立ち直らせて、また何事もないように笑えるようになって、私達四人でまた出かけるようになったり出来るかなって。でも、それもどうなのかなって。じゃあ、私なんなんだろ。智史が康弘と私をどう思ってるかじゃなくてね、智史を想ってる私の気持ちはなんなんだろって。だって私智史の事好きじゃない? 恋愛って意味で。なのに康弘に頼るのってなんか間違ってる気がするのよ。私、あの二人が本当に仲いい事は知ってるよ。でも私が智史を想う気持ちは負けてないって思うんだ。でも今こうやって康弘を当てにしてる私はなんなんだろうって」
臆病とか、恐怖と言うのだろうか。僕はぼんやりと彼女の告白にそんな事を考えていた。きっと僕以上に智史の事を想っているからこそ、かけるべき言葉を見つけられなくなってしまうのではないだろうか。例えば、今彼女になんて言えばいいのか分からない僕のように。
「でも真尋、このままじゃ余計離れていっちゃうだけだよ? それでいいの?」
「よくない」
「じゃあ、今のままじゃダメだよ」
二人のどちらかが動いたのか、椅子のずれる音が聞こえた。
「もし康弘君のおかげで智史君が笑うようになっても、その時真尋素直にそれを受け入れられるの? 自分の中に引っ掛かりを残したまま、笑いあえたとして真尋はそれで満足できるの? 私ね、康弘君と付き合える事になって本当に嬉しかったの。きっとこれが幸せなんだって思った。そういうのね、もしどうせもうすぐ死んじゃうからいい、って思ってたら感じる事も出来ない気持ちだと思うの。真尋、私達まだ時間残ってるじゃない、その時間をちゃんと使おう? 真尋の言葉を届けに行こうよ。届かなくてもいいから。そうしないと、真尋自分にもなにも言えなくなっちゃうよ」
「意味、あるのかな。届かない言葉に」
「あるよ。それに本当の言葉なら、欠片も届かない言葉なんてないって私思うから」
「康弘君、さっき起きてたでしょ?」
「なんの事?」
そうとぼけたが彼女はお見通しと言うように笑われた。
「康弘君寝相悪いんだもん。いつも寝返りとかうってるのに、さっきは全然動かなかったもん」
「……きっと背中が布団の湿気で張り付いちゃったんだよ」
「さっき見てた時はちゃんと寝返りしてたよ」
「あ、そう」
誤魔化しきれないようで僕は「起きてたけどぼうっとしてたからよく覚えてない」と言うと彼女は「ふーん、そうなんだ」とだけ言いそれ以上は追求してこないようだった。真尋は先ほど保健室から出て行った。きっと康弘の家に向かったのだろう。智史の事は彼女に任せようと思えた。そうするのが正しい気がしたし、むしろ僕は邪魔なんだと言い聞かせた。
「俺、どれくらい寝てた?」
昼の十二時だと彼女が腕時計を見る。今や腕時計は必需品となっていた。どうやら四時間ほど眠っていたようだが以前倦怠感は残っている。脳ももう少し睡眠を要求していたが、僕はベッドから体を半分起こした。
「まだ寝てたほうがいいよ。康弘君全然寝てないんでしょ? クラスの子が言ってたよ」
「大丈夫だよ。麻奈、クラスの奴と話したの? なんの話?」
「私達がいない間の事とかかな、大変だったみたい」
「腕の傷、見た?」
「うん……けど、なんであんな事したんだろうって言ってたよ」
「そっか」
僕はじっと彼女の顔を見つめる。彼女はそのなんでも吸い込んでくれそうな瞳を僕に返した。きっと真尋もその瞳に見つめられた事だろう。僕達には限界がある。だからそれを埋めあうために人と人は支えあっているのかもしれない。
「じゃあ、俺は俺のやれる事をまたやんないとな」
「また、学校を掃除するの?」
「そう。ごめんな、お前に構ってやれなくて」
そう言うと彼女は笑って首を横に振った。
「いいよ。そういうの康弘君らしいし、私も手伝うから」
僕達は保健室を出て二階に上がった。相変わらず汚れている廊下を見てげんなりするが麻奈がゴミ袋を広げているのを見て僕はなんとか自分を奮い立たせる。
「麻奈小さいの拾ってくれればいいよ。大きいのは俺がやるから」
「うん。けど凄い量だよね」
「まったく」
二人でもきっと丸一日かかるだろう。僕達は諦観したように黙々とゴミを拾っていたが、そうやってしばらくいたところで声をかけられた。
「掃除してるの?」
遠慮がちなその声に僕は頷いた。あまり面識がない生徒だったが朝運動場で見た記憶がある彼は「……よかったら手伝っていいかな」と言った。
「マジで?」
「うん、僕でよかったら」
「いや、助かるよ。すっげー助かる」
「本当? それならよかった」
と彼はにこりと微笑むと新しいゴミ袋に手を伸ばした。僕はその彼の姿を眺めていると、また何人かがこちらへとやってきて「さっきはご飯ありがとう」と言い、ゴミを拾い出した。僕は「いいよ、気にしないで」と大した事ではないと装ったが、それはそうしないと自分の中の感情が今にも踊りだしそうだったからだった。
「康弘君、よかったね」
「そうだな」
隣で麻奈も嬉しそうにしている。僕達は全員で二階の掃除を始めた。僕が少し休憩をしようと階段に座り込んでいると三階から諏訪先輩がやってきて、相変わらず格好はだらしなかったけど、雰囲気は以前のしゃんとしたものが蘇っていて彼は何人かを引き連れながら、座っていた僕を見つけると「やぁ」と手を上げた。
「僕達も手伝うよ。三階の廊下は柳君がしてくれたから、一階に行ってくる」
「やる気、出ました?」
「君が作ってくれたご飯が美味しかったからかな」
メガネのずれを直しながら彼は「本当に君には助けて貰ってるね」と言うので「お互い様です」と返すと「じゃあ、また」と言い残し階段を下りていった。
ぞろぞろと続くその集団を見送り、僕は廊下を見渡す。この人数ならきっと思ったよりもずっとはやく校舎は綺麗になるだろう。
だが、その中にいない人影が僕は気になっていた。全員が手伝ってくれている訳ではないがその中には小林の姿もなかった。他のクラスメイト達はいるのだが、彼がこういった時に姿を見せないのは違和感があった。小笠原もいないので彼女に寄り添っているのだろうか。僕は断りを入れて二人を探すことにしたが、教室へと行ってみると二人をすぐに見つけることが出来た。僕はその呆気なさに気を抜いたが、僕を見た小林はすこし強めに睨んできた。
「なんだよ、小林」
「どうして、こんな事をするんだ」
「こんな事って……掃除の事か? 朝飯の事か?」
「どちらもだよ」
僕は彼の台詞に二の句を告げなくなる。まさか彼が僕の行動を否定するなんて事は全く考えていなかった。むしろ僕に同調して手伝ってくれるとすら思っていた。
そして同時に気がつく。
運動場で感じた射抜くような視線を僕に送っていたのは、今小林の後ろに座り込んでいる小笠原ではなく、彼なのだと。僕は今再び向けられているその視線に背筋がひやりとした。
彼は少し気が動転しているようだった。
「もう少しだったのに! どうして邪魔をするんだ」
「落ち着けよ」
伸びてきた彼の手を振り払う。彼は悔しそうに歯噛みした。
「どうしたんだよ、小林。お前ちょっと変だぞ」
なんとか冷静になろうとそう言うが、彼には届かないようだった。
「君には分からないんだ。僕達が、僕がどれだけ苦しんでいるのかなんて事を。分からないから、そうやって自己満足を押し付けるのか!?」
「なに言ってんだよ!?」
「小林君」
熱くなっていた僕達を覚ますかのように、彼女の氷のような言葉が投げかけられ、僕達は小笠原の方を見た。彼女は僕を見ず、小林を見ながら首を縦か横か判別のしにくい角度で動かすと、それきり俯いてしまった。小林はそれで平静を取り戻したようだったが、僕を再び見ると「二人にしてほしい」と暗に教室から出て行ってくれと伝えてきた。
「なぁ、小林。お前は俺が自己満足って言うけど――」
「いいから」
僕の言葉は遮られ、僕は諦めると教室から出る事にした。2-Cの教室は他の教室と比べると随分清潔さを保たれていた。それを望んでいたのは小笠原だったのだろうか。
(僕が、どれだけ苦しんでいるか、か)
僕は彼らにとっては余計な事をしてしまったのだろうか。小林は昨日までの僕がいなかった教室での光景を歓迎していたのかもしれない。それを僕は壊してしまったのだろうか。
きっと小笠原にとっての幸せを彼はあの時がそうだと思ったのかもしれない。
(けど、小笠原のためだけに、他の奴らの笑顔を奪ってたら、意味がないと思うんだ、小林)
新しいゴミ袋を取り出しながら、僕はそっと呟いた。
そう、僕はこの時それが全くの見当違いだという事に気がついてなどいなかった。
「彼女がどれだけ苦しんでいるか」ではなく「僕がどれだけ苦しんでいるか」と言った彼の言葉を僕は、てっきり彼女のために苦心している自分の事を彼は言っているのだと思っていた。だけどそれはそうではなく、その通り、彼は自分の苦しみを吐露していたのだ。それは予想外の出来事に戸惑った彼がつい零した本音だったのだろう。
なぁ、小林。
僕はお前の本音を今まで聞いた事があったんだろうか?
「自分は電池のような存在」だと言った時、あの言葉を向けていたのは遥にだっただろう?
僕は、お前の本音を聞けた事があったんだろうか、今までに。
麻奈が一度家に帰ると言うので、それを見送り夜になると皆もそろそろ寝ようかと言い出したが、僕はもう少し続ける事にした。眠気は感じたが、中途半端な時間に眠ってしまったためかすぐに寝られそうになかったのだ。ゴミはもう殆ど外へと運び出されており、僕は近所のスーパーから持ってきたダンボールとゴムテープで開いた窓を塞ごうとしていた。飛び出した窓ガラスの破片を怪我をしないように外しながらダンボールを窓枠に合わせていると、いつの間にかやってきていたらしい小笠原が「まだやるの?」と声をかけた。
「あぁ、小笠原か。もう少しやるかな」
「そう……邪魔?」
「全然。なんなら手伝う?」
「…………」
沈黙してしまった彼女に僕は苦笑すると一旦手を止め、壁にもたれた。彼女は再び長袖のシャツに腕を通していた。
「なんか用があるんだろ? どうした?」
「私の事、もう怒ってないの?」
「そうだな、今はもう怒ってないし、前は悪かったよ」
素直にそう謝ると、彼女は安心したのか、気が抜けたのか「そう」とだけ言うと僕と同じように壁にもたれた。僕達は並んでしばらく無言で過ごし、風に揺れるアロマキャンドルの火を見つめた。彼女が「いい匂いね、これ」と言うので「そうだな。これ名前忘れたけど落ち着かせてくれる匂いなんだって」と教えると「橘さんが用意したんでしょう? 彼女そういうところ気が利くわね」とどうやら彼女の事を褒めてもらったようなので「まあな」と言う。
「やめてって言ったらどうするの?」
「掃除とかか?」
「明日も皆のために朝ご飯を作るんでしょう?」
「本当は夜も作りたかったんだけどな。ちょっと出来なかったな」
「私、また皆と話せなくなるわ」
「どうして?」
僕はアロマキャンドルの火で煙草をつけた。その匂いが煙草にも移るような錯覚を覚える。
「皆以前の場所に帰ろうとするから。私といると、傷をつけていた事を思い出さないわけにはいかないし、それがなくなったら私達に共有するものはないもの」
「だから、やめてほしい?」
「ねぇ、どうしてあなたはそこまでするの? 一人で他人に笑われてバカにされるような目で見られて、体がボロボロになっても。ここに残っていたのはそういうのを諦めた人達だったのよ。一人じゃなにも出来なくて、弱くて、お互いを慰めあう事でなんとか満足を得られるような」
「違うよ、小笠原。諦めたんじゃない、ちょっと忘れてしまっただけだ。俺はそれを思い出してもらっただけだよ」
「どちらでもいいわ、そんな事」
相変わらず抑揚のない言葉だが、僕はこんな風に彼女とちゃんと僕に話すのは初めてだった。
「よかったのよ、きっと。今のままで。私達は昨日までの生き方でもよかった筈なの。あなたがいなければ、私達はああやって教室でひっそりと蹲って隕石が落ちる日までを過ごしただろうけど、それはそれで私達は納得してたの」
「お前は、そうしていたかったの?」
聞き返すと、彼女はしばし黙り込み、背中を壁にくっつけたままずるずるとその場に腰を下ろした。
「……そうよ、それでよかったの」
僕も彼女に倣い廊下に座り込む。
「まぁ、先に謝っとくよ。多分これから言う事俺の自己満足だから」
夜の校舎は静かで、光のない廊下はまるでどこまでも永遠に続いているかのようだった。きっと僕達の心もこの果ての見えない廊下のように奥底を覗く事など誰にも出来ないのかもしれない。
「なに?」
「お前はそれでいいって言うけどやっぱ俺違うと思う。あんなふうに生気のない顔で皆で集まって腕を切って、それはそれでありだとか、やっぱ俺には理解出来ないよ。色んな生き方があるとは思うけどさ、その色んな生き方ってのはあくまでなにをするかであって、空っぽな表情になる事を認める事じゃないと思うんだ。心の底から笑ったり泣いたり、そういう事があってやっと俺達は幸せって言えるんじゃないかな。だから、上手く言えないけどやっぱり皆、あの時感じていたのは幸せとかじゃないし、ならそんな生活を続ける事は不幸だと思うんだ。だから俺は皆にそれを取り戻して貰いたかったんだよ」
「……それで誰かが幸せを感じてたとしても、あなたはそれを奪うの?」
「いや、奪う気はないよ。あのさ、お前は俺がお前から皆を連れていってしまったって思ってるかもしれないけど、それちょっと違うんだ。俺、お前も連れていきたい。お前を取り残したりせずに、お前も幸せな場所に連れていってやりたい。なぁ、俺お前が笑ったりしてるとこ見た事ないんだ。それは昨日もそうだし、小笠原が望んでるものも本当は違うんじゃないのか? あの生活は偶然転がり込んできたもので、お前はそれでなんとなくまぁ、これでもいいか、って思ってただけじゃないのか? 本当にお前が望んで、小林が頑張ってた皆と打ち解けたいって思って望んでた姿ってあれなのか?」
だってお前は以前と全く変わっていないじゃないか。そのなにもかもつまらないと言う目は。
「…………」
僕は煙草を揉み消すと、まだ残っていたゴミ袋の中へと放り込んだ。
彼女の沈黙に、怒っているのだろうかと思ったが、僕の予想に反し、彼女は至って落ち着いたままだった。
「しょうがないのよ。私に望んだものがあるとしても、もうそういうの出来ないわ」
「そんな事ないだろ。皆やり直してる。お前だって出来る」
「皆が出来たからってなんなの? だから私にも出来るって?」
僕はひるんだが、彼女はそんな僕に「精神病の人って誰かの励ましをそうやってネガティブに受け取ってしまうものなの」とまるで他人事のように言った。
「私が言いたいのはそういう事じゃなくて」
「じゃあ、なんなんだよ」
「欲しいものはもうないの。私が欲しいものは、もうこの世に存在しないの」
「……どうしてそう思う」
「思うんじゃなくて本当にないのよ」
彼女はまだなにかを言おうとしたが、ぱくぱくと少しだけ動かしてやがてその動きは止まってしまった。彼女自身それをどう言えばいいのか分からないようだった。そして言えば言うほど傷が広がる、とも思っているようだった。
「本当になにも欲しいものがないなら、なんで今こうやって俺にやめて、なんて言うんだ?」
「そうね、私どうかしてたわね」
僕はなんとか彼女からの言葉を聞こうとしたが、もう彼女は再び心に蓋をしてしまったようだった。吐息を一つ残し立ち上がり僕の前から立ち去ろうとする。引き止める事は出来ないようだが「なぁ、一つだけ聞いていいか?」と言うと「なに?」と背中越しにこちらを見た。
「俺達を教室に呼んだのって、お前なんだろ? あのメール送ったの」
「そうよ」
彼女は事も無げにそう言った。僕は「だったら」と言おうとする。
だったら、それはお前が皆と一緒にいたいって望んだなによりの証じゃないのか? 皆と打ち解けたいって望んだなによりの証じゃないのか? お前は今までずっと皆と離れて生きているようだってずっと俺も皆も思っていたかもしれないけど、お前は死を迎える事になった時、そんな皆と一緒に願ったって言う、なによりの証じゃないのか?
「どうして分かったの?」
「誰もメール出した事を自分だって言う奴がいなかったから」
「そうよね、隠すような事じゃないもの、普通は」
「なぁ、小笠原――」
「でも今はちょっと後悔してるわ」
その台詞を残し彼女は僕の前から夜の闇の中に紛れていくように姿を消した。
(なんで?)
彼女の台詞の真意が分からず、僕はその疑問を何度も反芻した。だがそれに対して僕が正解を導けるはずなどなかった。僕と彼女の視線は同じ光景を見ていたはずなのに、ずっとずっと離れあった場所で、交差する事もなかった。一つのサイコロを見て見える数字を答えろ、と言われた時、僕が4と言えば彼女は2と言うのではないだろうか。
彼女は今なんのために生きているのだろうか。それは彼女を見続ければ分かるのだろうか? 360度あらゆる角度から見つめれば理解出来るのだろうか。
「そろそろかな」
「多分ね」
「康弘君、もうお味噌汁出来たよ?」
「あーこっちももう出来たと思う」
僕達は数人で朝食の準備に取り掛かっていた。手伝ってもらったおかげか、昨日よりもご飯は上手く炊けたし、味噌汁にはジャガイモや人参が入っていて昨日の物よりもちゃんとしたものだった。
僕達は朝食を食べ終わると、掃除はもう殆ど終わっていたし、ちょっと息抜きしようと言う話になり、運動場でサッカーをする事にした。サッカーコートの外ではバドミントンやバレーをしている人もいる。座り込んでいた諏訪先輩を強引に誘ってみたが、どうやら彼はサッカーが苦手らしく、派手に空振りをしてしまい、それを見た僕達に大笑いされると、彼は恥ずかしそうに顔を赤くした。
僕はそんな彼を尻目にドリブルを始め一人抜いたところで右足を振りぬいたが力みすぎたようでボールはゴールを飛び越えていってしまった。周りからのブーイングに謝りながらボールの元へ走りコートに投げ返すと、休憩すると伝え僕は校舎の中へと入った。僕は小林を探し教室へと向かったが、そこにいた小笠原に彼がどこにいるのかと尋ねると「分からない」と返され、彼女も教室から出て行ってしまった。他にも残っていた生徒にも聞いてみるが、全員首を横に振る。
「どうしたの?」
「いや、大した事じゃないんだけどな」
「ちょっと悩んでたみたい」
女子生徒が少し心配そうに言う。どんな様子だったのかと聞いてみるが彼女は「なんとなくそう思っただけだから」と濁した。
「多分、私達のせいかも」
「なんで?」
「……私達さ、結構小林君に甘えてたんだ。正直どうしたらいいか分からなくてやけくそになってたんだけど。小林君がそんな私達を救ってくれたって言うか。まぁ、今思うとさ、やっぱり手を切ったりするのってやだな、って思うんだけど、その時は本当に救われた気がしたのよね」
「けどそれをやめてしまったから、悪いって?」
「多分、小林君だから私達を責める訳じゃないと思うけど……なんて言うかさ、救ってもらったけど、また次のいい事を見つけてすぐそっち行っちゃって気悪くしたかなって」
「小林はそんな風に思ったりしないと思うけど」
「私もそう思うけど……正直さ、小笠原さんに話しかけにくくなっちゃってさ……我に返っちゃうとやっぱりあんなに腕が傷だらけの姿を思い出すと今でもぞくっとしちゃうのよね」
やはり、小笠原と皆の距離は再び開いてしまったのだろうか。僕は思わずため息を零していた。きっと皆を繋いでいたのはその傷だけで、それ以外の小笠原を知る事などなかったのではないだろうか。今までは小笠原と言う彼女が持つ傷を共有する事でなんとかやってきていた。そして小林が小笠原と彼女達を繋ぐ橋のような存在だったのだろうが、事が済んでしまえば皆また橋を渡り彼女から離れていってしまった。
尚も彼を探すがどこにいるのか見当もつかず、ぶらぶらと歩きながら屋上へと向かう。僕以外には誰もおらずフェンス越しに運動場でまだ遊んでいる皆を見ていると小林がやってきた。僕は煙草を取り出そうとした手を止めて彼に振り向く。
「小笠原さんから柳君が僕を探してたって聞いて屋上に来てみたんだけど見つけられてよかったよ」
「あぁ、俺屋上よく来てたもんなぁ」
とぼけたようにそう言うと彼は小さくだけ笑い、傍のビーチチェアに腰を下ろした。その隣に僕も座る。
「なにか用があった?」
「つか、小林さぁ、朝飯食べに来いよ。お前と小笠原の二人分くらい残ってるんだからさ。食わないと元気でないぞ」
「あぁ、ごめん、そうだね。けどちょっとそういう気分になれなくて」
「なんか悩みでもあんのか?」
「いや……」彼は一度否定をし「……いや、そうかもしれないね」ともう一度繰り返す。
「小笠原とも話したんだけど、小林も俺が余計な事したって思ってる?」
一瞬、沈黙。その無言が僕は少し辛い。それは肯定を表しているようだから。小林は「そんな事はないよ」と返す自分がその一瞬を生んだ事に気がついているのだろうか。
「皆も感謝していると思う。僕にはああいった事は出来ないしね。柳君のおかげで皆正気を取り戻したように思うよ。余計な事だなんてとんでもない」
「それならいいんだけどさ」
「教室での事はごめん。僕もちょっとどうかしてたみたいだ」
「小笠原がまた一人になっちまう、とか考えた?」
彼は左手の手首を、右手で軽く掴んだ。
そこにはあのどしゃぶりの雨の日からつけられた細い傷跡が走っている。リストバンドをしていたが、彼はそれを外すとぽいと放った。目の高さまで腕を持ち上げその傷を見つめ僕からはその傷が見えなくなる。
「しょうがないのかもしれない、そう思った」
「え?」
「無理なものはなにをやっても無理なのかもしれないって」
「小笠原が誰かと仲良くする事?」
「……心に色があるとして、その色を変える事は出来ないのかもしれない。皆生まれた時からきっと決まった色を持っているんだよ。それを変えようとして違う色を塗りたくっても、それは上辺でしかなくて、何かの拍子にそれは雨に打たれたように消されてしまい、本当の色が顔を出してくる。時には他人に合わせて自分で色を変える事もあるけれど、僕も、柳君も、小笠原さんも、皆もそうで、本質は変えられない」
やれやれ、と言うように彼は首を振った。
「小笠原さんの色に合う人はいなかった、そう考えるのが妥当なのかもしれない。彼女も周りの色に合わせる事が出来なかった。類は友を呼ぶ、と言うしね。最近じゃ百人に一人は精神的な病気を抱えているそうだよ。中央高校の生徒数は四百から五百だから彼女を含めて精神に病を抱えている人があと数人いたのかもしれない。だけど、だからってその数人が無条件に互いを認められるわけじゃない。彼女は自分の事が嫌いだし、病気を憎んでもいるけど逆に自己愛が激しく、病気を受け入れるような人もいる。彼女と向き合えるような人はここにはいなかったのかもしれない」
昨日とは違い、冷静な口調だった。曖昧だったものが全て明確になったと言うように迷いのない口調ですらすらと歌うようで、僕はそこに口を挟む事が出来なかった。そして、僕は彼に否定されたのだと分かった。彼女と向き合える人達はここにはいないと言うその中には僕も含まれていた。
「俺のやり方じゃダメなのか?」
「きっと、他の人にとってはいい事だったと思う。それに彼女にとっても悪いとは思わない。いいとか悪いとかじゃないんだよ、ただ彼女が欲しいものは、そうではないと言うだけで結局どうでもいい事なんだよ、きっと。重要なのはその自分にはどうでもいい事に他人は感情を開く事が出来るし、そのどうでもいい事のために人は自分から離れていく。そして他人はそれをどうでもいいと思う事がないのに、自分にはどう頭を捻ってもやはりどうでもいいとしか思えないそのギャップも理解出来ない。彼女からもそうだし、周りもそうなんだよ、だから、彼女が欲しいものも、ここにいる人達には分からないだろう」
「そんなの分からないだろ? 俺も、他の奴らもたとえ苦痛を感じたって、その痛みを我慢して向き合う事は出来る」
「依存症というものがある。人によって程度は様々だけど、ある人は恋人がいるかいないかと言うだけで精神に支障をきたしてしまう人がいる。それだけを聞くと僕達はその人に対し、単なる甘えたがりのだらしない性格だと思ってしまうものだろう? 恋人がいるから頑張れるけど恋人がいなければなにもやる気が起きないなんて馬鹿げてる。そんなもので日常生活を送れなくなるのは自分が怠慢だから、と思う。でもきっと本人にとっては事実なんだろう。見方を変えれば、恋人の一人も作れない自分は無能だ、自分が恋人に選ばれないのは人として価値がないからだ、他の皆は休みの日にはデートをしてお互いを必要だとしている中、自分は誰にも必要とされていない、そんな世の中は不公平だ。視野狭窄ではあるけれど、逆にその状況がそうさせているとも言えるし、そもそもそういうものなんだよ、精神病と言うのは。繊細とか、優しすぎる人が精神病にかかりやすい、なんて言うけどそんなのは半信半疑で誰でもなるし、自己中心的な人でも楽天家でもある日急に誰でもなる可能性がある。だけどなるまでは理解出来ない。そしてなった時に気付くんだよ、あぁ、こういうものなのかって」
「だから、彼女とは違う俺には理解する事は出来ないってか」
「と言うよりも、彼女が欲しいものを与える事はきっと出来ないんだよ。それは柳君が彼女に向き合っていないからという事じゃない。向き合っても、与えられないものは存在する」
「お前は与えられるのか?」
「……どうやら、無理なようだ」
僕は、彼が肯定すると思っていたんだ。
そう、僕なら与えられる。僕だけは彼女を理解してあげる事が出来る。きっと、そう言うと思っていた。きっと僕と小林の間には今まで感じる事がなかった溝を生んでしまっていて、もしかすると僕達は背を向けてその溝から離れていってしまうのかもしれないけど、そうやって歩き出した小林の先には小笠原が待っていて、僕の知らないところで手を取り合うのだと。柳君、君には無理だけど、僕には出来る、君も誰もなにをしたって彼女を救う事は出来ないけど、僕だけは救う事が出来るって。例え僕達の友情が瓦解する事になったとしても、僕はそうなるのなら寂しいけれど、それはそれでいいのかもしれないと思っていたんだ。
なのに、彼が言ったのは否定だった。
「無理?」
その単語がぽつりと吐き出された。
もう欲しいものはないの。
小笠原の言葉を思い出す。それは本当だったのだろうか?
なぁ、小林、嘘だって言ってくれよ。俺がやってきた事を余計な事したって、恨んで憎んで大嫌いになってもいいから、今だけは許してくれないか? お前は、なんとか出来るんだろう? そして俺達もまだやれる事あるだろう、本当は? いっその事僕達を切り捨てて二人でどっか遠い場所に行くような事になったって、そうする事で彼女が欲しいものを見つけられるようにお前は手を引っ張ってあげるんだろう?
「そう、無理なんだ」
彼は天を仰いだ。
「僕がやってきた事も、もうお終いだ。それに、柳君の事は本当に悪いと思っていないよ。今の姿がやっぱり正しい事だと思うんだ。僕が間違っていたんだ、誰かの色を無理やり変える事なんて出来ないし、そうしたところで募るのは空しさばかりだしね。結局のところ、僕には大それた話だったんだよ、普段から誰かの代替品でしかない電池のような僕が、今更になって誰もが求めてやまない太陽のようになる事なんて」
君はまさに太陽だけどね、と彼は空を見上げながらいつもの屈託のない微笑を浮かべた。その裏にはきっと寂しさや悲しみが含まれているはずなのに、彼はきっといつもそれを全く他人に見せてこなかったのだろう。
「俺さ、諦め悪いんだ。やめろとか無理とか言われたら余計やりたくなるような天邪鬼だし、本当に出来ない事なんてこの世にないって思ってるような奴なんだ。だからさ、小笠原とかお前とか――」
「いい天気だね、今日」
自分でもなにを言っているのか分からない僕の台詞を、あやすように穏やかにそう言う。
「あ? あぁ、そうだな」
「きっと夜になったら綺麗な星が見られるよ。最近、屋上から星を眺める事にはまっててね、眼下には殆ど光がない真っ暗で静かな世界に、存在を邪魔されなくなった星が以前よりも輝いて見えるような気がするんだ。柳君」
「なに?」
「今日、一緒に星を見ないか? 僕と、君と、小笠原さんの三人で」
「三人で?」
「そう、三人で」
深夜二時に屋上で会おう。
そう小林は言い、僕は皆が寝静まった中、時間が近付くと立ち上がり教室を後にした。
二人の姿は教室にはなかった。別れてから結局小林は教室に戻ってくる事はなく、それは小笠原も同じだった。
「…………」
静かな廊下を僕は無言で歩き屋上へと向かう。
ぎぃ、と重い音を立てるドアを開けた。四角いドアから出て視界が広がり、僕は彼に言われた通りに満天の星空を見上げた。雲一つなく無数に輝いている色とりどりの星を眺めながら僕は二人の姿を探した。
「やめて!」
僕はその声にはっとして振り向き、目を見開く。
声の持ち主である小笠原は、夏空の下でがちがちと歯を震わせ一点を見つめていた。彼女は一歩足を踏み出そうとする度に体も揺れ、僕は「小笠原!」と叫ぶ。僕がいる事に気がついていなかったらしい彼女は僕がいる事に驚いたようだった。ふと力が抜けたのか状態が歪み僕は「危ない!」と悲鳴のような声を出した。
彼女は屋上に備え付けられている落下防止用のフェンスを越えて、狭い隙間の上になんとか立っていた。下を見下ろせば硬い地面が暗闇と共に見渡せるその場所で、彼女はなんとか前に進もうとしていた。
僕は彼女の声の向けられた先を追いかける。
「柳君、ちょっと来るの遅かったね」
「……小林」
「綺麗だろう? 本当に」
小林が、フェンスの向こう側で、僕を見て微笑んだ。
「なにやってんだ」
「最後に、三人で星を見たかったんだ。それだけだよ」
フェンスを挟んで僕達は正対した。同時に高く容易には乗り越えられそうもないフェンスの切れ目を探すが、それは僕の背後にまで続いており、彼のところへと辿り着くまでかなりの時間を要するだろう。
彼は僕の考えを見透かしたように「こっちには来ないでほしいんだ。柳君に邪魔されたら、どうしようもないだろうから」と苦笑する。
「なにやってんだ! 小林!」
僕は彼へと近づき、目の前にあるフェンスを叩き付けた。がしゃんと音が鳴り、ゆらゆらと震えるが、小林は動じる事無く、僕に一歩だけ近付いた。網目の隙間から見る小林は、場所さえ変われば普段と変わらないように思えたが、しかしよくよく見ればその目には、ぎらぎらとした獣のような狂気の光があった。
「柳君」
「あ?」
「本当の絶望ってなんだろうか」
「……お前もそれかよ」
「きっと、それはずっと前からあったんだよ、僕の場合。影のように四六時中いつも付き纏っていた。希望と一緒にね。僕はそれを感じていつも窒息しそうになったよ、気が狂うと思った。僕が笑えば笑うほど、僕の胸の中でその圧迫感は肥大していったよ。皆は僕の事をこう言う。いい人、優しい人、思いやりがある人、僕はそれを聞く度に冗談じゃないと笑い飛ばし、唾を吐き捨ててやりたかった」
「なんだって?」
「僕は、そんな奇特な人間じゃないんだよ。そんなのは僕の表面上だけを見た薄っぺらな言葉でしかなかった。僕はね、ただ、愛されたかったんだよ。僕は誰かに必要とされる存在になりたかった。なるほど、誰かは僕にこう言ったよ。こんな事小林君にしか相談出来ないから、こんなお願い聞いてくれるの小林君しかいないから、そういうものが僕が生きている理由だと。でもそう言われた時、僕はそいつを殴りたかった。殴って、地面にこすり付けて気絶するまで蹴りを入れて口から血を吐き出すまでボロボロにしてやりたい衝動に駆られてしょうがなかった。それが僕が生きる理由? 僕ではなく、他の誰かへと僕以上に向けられている思いを伝えるために存在し、僕自身にはそんな思いが届けられる事はない人生が僕の生きる理由だと言うのか? ふざけるなって思ったよ、僕は誰かのためになんて生きたくもなかった。そう、僕は僕のために生きてくれる誰かが欲しかった。誰よりも僕を思い、慕い、僕がいない日常なんて想像できない、そんな想いを僕は求めていたんだ」
「今まで、全員を騙してきてたってのか?」
「騙すつもりなんてこれっぽちもなかったよ。僕はいつだって誠意を尽くしてきたはずだ。そう、僕は誰よりも他人を愛した。決して僕は独りよがりに僕を一方的に愛してくれだなんて事は言わなかった。僕は誰かを愛し、誰かは僕を愛する。僕が望んだのはそんなものだよ。いつだって誰かを傷つけないように微笑んだし、泣いている人には彼や彼女らのために僕は至って沈痛な表情になっては、同じ痛みを感じていた。それは柳くんだって分かるだろう? 僕はいつでも心を開いていた。きっとそれがいつか形として帰ってくると恋焦がれながらね。そう、僕はいつも希望を抱いていた。だが、それはいつも絶望へと転じたよ。皆僕から離れていく、姿を消す。僕はいつも誰かにとっての最愛にはなれなかった。それでも僕は希望を追いかけ続けたよ。追いかけて追いかけて、いつの頃からか、僕にとっての希望はいつも冷や汗交じりのものだった。今回こそ報われるだろうか、それとも今回も希望は裏切られるのだろうか。いつもいつも、僕は誰かに抑え付けられているかのように希望を覚えるたびに頭痛を感じた」
「やめろ、小林。やめるんだ。こっちに来い。なぁ、分かったからこっちに来い。頼むから!」
「分かる訳がない。君は僕とは違う」
「もういいでしょう!?」
彼の傍までやってきた小笠原が、涙を流しながら彼の手を取った。彼女はその手を繋いだまま力尽きてしまったようにその場に座り込むと荒い息をついた。そのかすれた吐息の中に「やめて……やめて……」と言う言葉が続いた。
「ねぇ、柳君、どうして僕が彼女を皆に受け入れてもらえるようにしてたか、考えた事ある?」
「……あるよ。お前がどんだけ苦労してたか、彼女のためにどんだけ頑張ってたか、俺だけじゃない、他の奴らだってそれは分かってる」
小林は彼女に目線を合わすように腰を下ろした。僕は絞り出す自分の声がどこかとても遠い場所から聞こえてくるようだった。
二人を見下ろすように水滴を一つ零したような真っ白い満月が光っている。まるでクレーターの一つ一つを視認出来るかのようなはっきりとした姿だった。
「それは、違うんだ。僕は彼女のためにがんばってなんて、全くいなかったんだよ」
「そんな事ねーよ! お前は小笠原のためによくやったじゃねーか!」
「本当だよ。僕が彼女のために頑張ってたなんて言うのは君達の錯覚で、僕はその錯覚を利用してただけなんだ」
「……嘘だろ? ……小林」
僕は蹲っている小笠原を見下ろした。彼女は激しく肩を揺らしながら、地面に手をついていたが、彼の言葉を聞いて、僕らを見上げないまま地面に爪を立て、がり、と言う、音を、立てた。
フェンスを握る手が離れてしまいそうになる。そのまま体が崩れてその場に崩れてしまいそうになる。僕は彼の言葉が理解出来ない。
僕は、僕達は、今まで一体なにを見てきたのだろうか。
教室でいつも居場所がないように一人で窓際の席に腰掛け、窓から外を眺めていた小笠原の事を僕達はどんな目で見ていたのだろう。
そんな小笠原に、優しく微笑み朗らかに声をかける小林の事を、僕達はなにを思い見ていたのだろう。
「初めからそうするつもりだった訳じゃない。そう、最初の頃はただ彼女の事が気にかかっていたのは確かだよ。けどその内思ったんだ。僕は無力で、どうする事も出来ない一人の女の子を助けようとしていて、皆はそんな僕を時折感心するような目で見ていた。直接言われる事もある。小林君、あの子に普段から話しかけてあげて偉いよね、だって。僕はその時気付いたんだ。彼女に向ける行為が、それ以外の誰かに通じる事にね。その日から、僕は今までよりも彼女を気にかけるようにしたよ。困っていれば積極的に助けたし、寂しそうだと思えばなんでもいいから話しかけた。彼女はそんな僕に次第に心を開いてくれたし、そうなってくると周りも僕の事を今までよりも違う視線を向けるようになった。彼女を介する事で、僕は今まで手が届かなかった場所に届くようになった。柳君も見ただろう? あの生きる気力を失ってしまっていたクラスメイト達を。僕がそんなクラスメイト達の心に侵入するのは簡単な事だったよ。ただ笑いかけ、優しい言葉をかける、それだけなら大した事ではないけれど、あの状況で受け取るその行為は彼や彼女らにとっては神様に救いの手を差し出してもらえたような感じだったんだろう。皆、僕にその手を委ねてきた。僕はその時戦慄すらした、絶頂を迎えたとも思ったよ。僕はようやく手に入れたんだ。僕を求める人。僕の言葉を待っている人。僕に微笑んで貰うのを待ち続けている人。希望だよ、ついに僕は希望を手に入れた。彼女と一緒に手を切り、安堵を得る。そんなものは僕に支配された事での副産物でしかない。僕が手に入れたのは、僕を愛する人を手に入れ、そして今まで誰も救う事が出来なかった小笠原久美と言う少女に居場所を与えてあげた、僕が救ってあげた、彼女に希望を与えてあげた僕を作り出すためでしかなかった」
「……彼女は、小笠原は、おまえを当てにしてたんだぞ……なぁ、俺は見てたんだ、小笠原が困った時、いつもお前を探してた事。小林、そんな事しなくたってお前を本当に必要としてる奴はいたんだぞ。ここにいたんだ! なぁ! 小笠原はお前に本当の希望を見てたんだ! なのに、なんでそれを利用する必要があったんだ!? なんで他の奴らにまで求めなきゃいけなかったんだ!?」
「彼女一人じゃ足りなかった、そうとしか言えない。僕は、誰からも必要とされたかったんだ。君が帰ってこなければあの世界はもう少し続いていたはずだったんだけどね……柳君、僕は太陽になったと思っていたんだ、皆を照らして、色も変える事が出来る気がした。でも、本当の太陽にはやはり敵わなかったみたいだ。正直言うとかなり悔しかったよ。ああするのに結構時間がかかったのに、君はたった二日程度でそれを変えてしまったから」
「……小笠原の事は」
彼女の事は考えなかったのか?
あの時、俺を責めたのはそれが理由だったのか?
彼女が再び居場所をなくし皆から離れていく事を思い、僕を憎んだんじゃなかったのか?
小林は、僕の問いに、彼女の肩に手を置きながら「あぁ」と呟いた。
「それは、もういいんだよ。あれは元々彼女のための場所なんかじゃなかったから。それに彼女は本当はもう学校に来たくなかったんだ。あの雨の日からね。あの時、康弘君に学校に来ようとしてるのは彼女の意思だと言ったけど、本当は僕が来るように彼女に言ってたんだよ。彼女を失うわけにはいかなかったから。上杉直人と植田智子が自殺した日、屋上にいた君に声をかけるように言ったのも僕だ。君が、彼女を追い込んでくれればくれるほど、彼女は僕に助けを求めたから」
「……ふざっけんなよ、小林ぃ!」
「……もうやめて!! いいじゃない……それでいいでしょう? 柳君、もういいのよ。彼は悪くないの。だから、もういいの」
僕は激昂した。
これほどまで誰かに怒りを覚えた事があっただろうか?
全てが、なにもかもが全て自分のためだけでしかなかったと言うのか。彼女を利用し、救うどころか更に傷つけるような事をしていたと言うのか。フェンスにしがみつく。細かな網目が僕に握り潰されてぐにゃりと歪む。
だが小笠原は、彼の台詞を聞いても、彼に伸ばした手を離しはしなかった。
「よくねーよ!! 小笠原!! これでいいのかよ!? お前こいつのために来たくない学校にそれでも来てたんだろ!? それをこいつは利用してたんだぞ!?」
「いいのよ!! それでいいの! 柳君には関係ないでしょう!?」
「なに言ってんだ!? マジなに言ってんだ!」
「悪いのは私なのよ! ……だから、もう彼を責めないで。お願い」
後半の台詞は、彼女の双眸から溢れた涙声でかすれていた。小笠原はぶるぶるとその体を震わせ何度も「お願い、お願い」とと言いそれはやがて「ごめんなさい」に変わっていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……私が全部悪いのよ……だからもうやめて……」
「……なんでだよ。なんでだよ、小笠原。お前、騙されてたんだぞ。お前にかけられてた言葉は全部嘘だったんだぞ? なんで許せるんだよ、お前が謝るんだよ」
僕も泣いていた。今だって、僕はまだ小林の言葉を信じられなかった。これは悪夢で、僕は今眠りの中で目覚めれば何事もなかったように小林と小笠原が並んで静かにやり取りを交わしているのではないかとすら思っていた。
「小林、お前、手首……自分で切ったのか? 嘘のためにわざわざ自分の体、傷つけたのか?」
希望を得るためならそんな傷は些細な物じゃないとでも思ったのだろうか。小林は僕の言葉にその傷を見る。そして「別に、今更こんな傷増えても大した事じゃないんだ」と言うと、彼は着ていたボタンシャツに手をかけ、ボタンを外した。
満月に照らされた小林の姿を見て僕は言葉を失っていた。彼の外気に晒された胸板から腹部まで走っていたのは、目を背けたくなるような無数の剃刀傷だ。無数のミミズが這っているようなその体を見て、ようやく僕は、僕には欠けていて、小林が持っていた小笠原との共通点がなんだったのかを知った。
「腕を切ると、日常生活に不便だろう? 彼女のように夏でも長袖を着なくちゃいけなくなってしまったりね」
「……いつから……切ってたんだ?」
「ずっと前からだよ。小笠原さんや君と知り合うよりずっと前から。僕も彼女と同じように精神に病を抱えていて通院していた。だからかな、彼女が自分と同じだという事はあってしばらくして分かったよ。僕達は互いの傷を見ては慰めあったりした事もある。僕のほうがよっぽど重症だけどね」
もっとも、僕はうまく隠す事が出来ていたから、そうと思われる事はあまりなかったけどね、と自嘲気味に笑った。
「まぁ、そうじゃなければ彼女も僕にここまで心を開いてくれる事はなかったかもしれないね」
小林が立ち上がった。まだぶつぶつと呟いている小笠原を見下ろし、僕の方を一瞥すると、くるりと反転し僕に背を向けた。僕はそれを見てフェンスにしがみつく。
小林が一歩足を進め、その場で足を揃えて立った。彼の髪が風で浮き上がる。あと一歩踏み出せばそこは虚空で、僕は狂ったようにその場であがいた。
「小林。待て。止まれ。待ってくれ! やめろ! 小笠原、止めろ! 止めてくれ!」
その言葉が届いたのか、いや、逆に僕の言葉は届いていないようだった。彼女はよろよろと生と死の境界線上に立ち、今にもその身を死の側へと投げ出そうとしている傍で立ち上がると彼に手を伸ばした。
「やめて、小林君、死なないで」
「もういいんだ」
「いつも言ってたじゃない! 死んだらダメだって! 私に言ってたじゃない!」
「それは、君が本当に死ぬ気なんて欠片もなかったからだよ」
彼女が放心したように、黙り込んだ。小林は正面にある白い満月を見ながら、肩の荷が全て下りたかのように溜め息を一つ吐き、穏やかな声を紡いだ。
「君は何度も死にたいと言ったけど、それは全部嘘だよ。君は本当は死にたくなんてないし、生きたがっていた。もし、君が本当に死にたがっていたなら、僕がそれを肯定した時があったかもしれない。そして今も、本当に死にたいと思っている君がいるなら、僕が誘う事もなく、僕の隣に立っていたんだろうね」
「おい! 小林!」
僕の声は届かない。小林は、背を向けたまま片手をあげた。僕にではなく小笠原へと向けて。
「ありがとう。僕と、僕の嘘に付き合ってくれて。君の優しさを利用して本当に申し訳なかったと思う。最後に一つだけ我が侭を聞いてくれるかな。僕の体はどこか遠く皆に気付かれないところに捨てて欲しい。僕の事で君に迷惑をかけたくないし、親に引き取られることはまっぴらごめんだからね。頼むよ」
じゃあ。
その言葉が最後だった。
その言葉を最後に、小林は境界線上をくぐる一歩を踏み出し――
「小林!!」
――一瞬にしてその姿を屋上から消した。
「多分ね」
「康弘君、もうお味噌汁出来たよ?」
「あーこっちももう出来たと思う」
僕達は数人で朝食の準備に取り掛かっていた。手伝ってもらったおかげか、昨日よりもご飯は上手く炊けたし、味噌汁にはジャガイモや人参が入っていて昨日の物よりもちゃんとしたものだった。
僕達は朝食を食べ終わると、掃除はもう殆ど終わっていたし、ちょっと息抜きしようと言う話になり、運動場でサッカーをする事にした。サッカーコートの外ではバドミントンやバレーをしている人もいる。座り込んでいた諏訪先輩を強引に誘ってみたが、どうやら彼はサッカーが苦手らしく、派手に空振りをしてしまい、それを見た僕達に大笑いされると、彼は恥ずかしそうに顔を赤くした。
僕はそんな彼を尻目にドリブルを始め一人抜いたところで右足を振りぬいたが力みすぎたようでボールはゴールを飛び越えていってしまった。周りからのブーイングに謝りながらボールの元へ走りコートに投げ返すと、休憩すると伝え僕は校舎の中へと入った。僕は小林を探し教室へと向かったが、そこにいた小笠原に彼がどこにいるのかと尋ねると「分からない」と返され、彼女も教室から出て行ってしまった。他にも残っていた生徒にも聞いてみるが、全員首を横に振る。
「どうしたの?」
「いや、大した事じゃないんだけどな」
「ちょっと悩んでたみたい」
女子生徒が少し心配そうに言う。どんな様子だったのかと聞いてみるが彼女は「なんとなくそう思っただけだから」と濁した。
「多分、私達のせいかも」
「なんで?」
「……私達さ、結構小林君に甘えてたんだ。正直どうしたらいいか分からなくてやけくそになってたんだけど。小林君がそんな私達を救ってくれたって言うか。まぁ、今思うとさ、やっぱり手を切ったりするのってやだな、って思うんだけど、その時は本当に救われた気がしたのよね」
「けどそれをやめてしまったから、悪いって?」
「多分、小林君だから私達を責める訳じゃないと思うけど……なんて言うかさ、救ってもらったけど、また次のいい事を見つけてすぐそっち行っちゃって気悪くしたかなって」
「小林はそんな風に思ったりしないと思うけど」
「私もそう思うけど……正直さ、小笠原さんに話しかけにくくなっちゃってさ……我に返っちゃうとやっぱりあんなに腕が傷だらけの姿を思い出すと今でもぞくっとしちゃうのよね」
やはり、小笠原と皆の距離は再び開いてしまったのだろうか。僕は思わずため息を零していた。きっと皆を繋いでいたのはその傷だけで、それ以外の小笠原を知る事などなかったのではないだろうか。今までは小笠原と言う彼女が持つ傷を共有する事でなんとかやってきていた。そして小林が小笠原と彼女達を繋ぐ橋のような存在だったのだろうが、事が済んでしまえば皆また橋を渡り彼女から離れていってしまった。
尚も彼を探すがどこにいるのか見当もつかず、ぶらぶらと歩きながら屋上へと向かう。僕以外には誰もおらずフェンス越しに運動場でまだ遊んでいる皆を見ていると小林がやってきた。僕は煙草を取り出そうとした手を止めて彼に振り向く。
「小笠原さんから柳君が僕を探してたって聞いて屋上に来てみたんだけど見つけられてよかったよ」
「あぁ、俺屋上よく来てたもんなぁ」
とぼけたようにそう言うと彼は小さくだけ笑い、傍のビーチチェアに腰を下ろした。その隣に僕も座る。
「なにか用があった?」
「つか、小林さぁ、朝飯食べに来いよ。お前と小笠原の二人分くらい残ってるんだからさ。食わないと元気でないぞ」
「あぁ、ごめん、そうだね。けどちょっとそういう気分になれなくて」
「なんか悩みでもあんのか?」
「いや……」彼は一度否定をし「……いや、そうかもしれないね」ともう一度繰り返す。
「小笠原とも話したんだけど、小林も俺が余計な事したって思ってる?」
一瞬、沈黙。その無言が僕は少し辛い。それは肯定を表しているようだから。小林は「そんな事はないよ」と返す自分がその一瞬を生んだ事に気がついているのだろうか。
「皆も感謝していると思う。僕にはああいった事は出来ないしね。柳君のおかげで皆正気を取り戻したように思うよ。余計な事だなんてとんでもない」
「それならいいんだけどさ」
「教室での事はごめん。僕もちょっとどうかしてたみたいだ」
「小笠原がまた一人になっちまう、とか考えた?」
彼は左手の手首を、右手で軽く掴んだ。
そこにはあのどしゃぶりの雨の日からつけられた細い傷跡が走っている。リストバンドをしていたが、彼はそれを外すとぽいと放った。目の高さまで腕を持ち上げその傷を見つめ僕からはその傷が見えなくなる。
「しょうがないのかもしれない、そう思った」
「え?」
「無理なものはなにをやっても無理なのかもしれないって」
「小笠原が誰かと仲良くする事?」
「……心に色があるとして、その色を変える事は出来ないのかもしれない。皆生まれた時からきっと決まった色を持っているんだよ。それを変えようとして違う色を塗りたくっても、それは上辺でしかなくて、何かの拍子にそれは雨に打たれたように消されてしまい、本当の色が顔を出してくる。時には他人に合わせて自分で色を変える事もあるけれど、僕も、柳君も、小笠原さんも、皆もそうで、本質は変えられない」
やれやれ、と言うように彼は首を振った。
「小笠原さんの色に合う人はいなかった、そう考えるのが妥当なのかもしれない。彼女も周りの色に合わせる事が出来なかった。類は友を呼ぶ、と言うしね。最近じゃ百人に一人は精神的な病気を抱えているそうだよ。中央高校の生徒数は四百から五百だから彼女を含めて精神に病を抱えている人があと数人いたのかもしれない。だけど、だからってその数人が無条件に互いを認められるわけじゃない。彼女は自分の事が嫌いだし、病気を憎んでもいるけど逆に自己愛が激しく、病気を受け入れるような人もいる。彼女と向き合えるような人はここにはいなかったのかもしれない」
昨日とは違い、冷静な口調だった。曖昧だったものが全て明確になったと言うように迷いのない口調ですらすらと歌うようで、僕はそこに口を挟む事が出来なかった。そして、僕は彼に否定されたのだと分かった。彼女と向き合える人達はここにはいないと言うその中には僕も含まれていた。
「俺のやり方じゃダメなのか?」
「きっと、他の人にとってはいい事だったと思う。それに彼女にとっても悪いとは思わない。いいとか悪いとかじゃないんだよ、ただ彼女が欲しいものは、そうではないと言うだけで結局どうでもいい事なんだよ、きっと。重要なのはその自分にはどうでもいい事に他人は感情を開く事が出来るし、そのどうでもいい事のために人は自分から離れていく。そして他人はそれをどうでもいいと思う事がないのに、自分にはどう頭を捻ってもやはりどうでもいいとしか思えないそのギャップも理解出来ない。彼女からもそうだし、周りもそうなんだよ、だから、彼女が欲しいものも、ここにいる人達には分からないだろう」
「そんなの分からないだろ? 俺も、他の奴らもたとえ苦痛を感じたって、その痛みを我慢して向き合う事は出来る」
「依存症というものがある。人によって程度は様々だけど、ある人は恋人がいるかいないかと言うだけで精神に支障をきたしてしまう人がいる。それだけを聞くと僕達はその人に対し、単なる甘えたがりのだらしない性格だと思ってしまうものだろう? 恋人がいるから頑張れるけど恋人がいなければなにもやる気が起きないなんて馬鹿げてる。そんなもので日常生活を送れなくなるのは自分が怠慢だから、と思う。でもきっと本人にとっては事実なんだろう。見方を変えれば、恋人の一人も作れない自分は無能だ、自分が恋人に選ばれないのは人として価値がないからだ、他の皆は休みの日にはデートをしてお互いを必要だとしている中、自分は誰にも必要とされていない、そんな世の中は不公平だ。視野狭窄ではあるけれど、逆にその状況がそうさせているとも言えるし、そもそもそういうものなんだよ、精神病と言うのは。繊細とか、優しすぎる人が精神病にかかりやすい、なんて言うけどそんなのは半信半疑で誰でもなるし、自己中心的な人でも楽天家でもある日急に誰でもなる可能性がある。だけどなるまでは理解出来ない。そしてなった時に気付くんだよ、あぁ、こういうものなのかって」
「だから、彼女とは違う俺には理解する事は出来ないってか」
「と言うよりも、彼女が欲しいものを与える事はきっと出来ないんだよ。それは柳君が彼女に向き合っていないからという事じゃない。向き合っても、与えられないものは存在する」
「お前は与えられるのか?」
「……どうやら、無理なようだ」
僕は、彼が肯定すると思っていたんだ。
そう、僕なら与えられる。僕だけは彼女を理解してあげる事が出来る。きっと、そう言うと思っていた。きっと僕と小林の間には今まで感じる事がなかった溝を生んでしまっていて、もしかすると僕達は背を向けてその溝から離れていってしまうのかもしれないけど、そうやって歩き出した小林の先には小笠原が待っていて、僕の知らないところで手を取り合うのだと。柳君、君には無理だけど、僕には出来る、君も誰もなにをしたって彼女を救う事は出来ないけど、僕だけは救う事が出来るって。例え僕達の友情が瓦解する事になったとしても、僕はそうなるのなら寂しいけれど、それはそれでいいのかもしれないと思っていたんだ。
なのに、彼が言ったのは否定だった。
「無理?」
その単語がぽつりと吐き出された。
もう欲しいものはないの。
小笠原の言葉を思い出す。それは本当だったのだろうか?
なぁ、小林、嘘だって言ってくれよ。俺がやってきた事を余計な事したって、恨んで憎んで大嫌いになってもいいから、今だけは許してくれないか? お前は、なんとか出来るんだろう? そして俺達もまだやれる事あるだろう、本当は? いっその事僕達を切り捨てて二人でどっか遠い場所に行くような事になったって、そうする事で彼女が欲しいものを見つけられるようにお前は手を引っ張ってあげるんだろう?
「そう、無理なんだ」
彼は天を仰いだ。
「僕がやってきた事も、もうお終いだ。それに、柳君の事は本当に悪いと思っていないよ。今の姿がやっぱり正しい事だと思うんだ。僕が間違っていたんだ、誰かの色を無理やり変える事なんて出来ないし、そうしたところで募るのは空しさばかりだしね。結局のところ、僕には大それた話だったんだよ、普段から誰かの代替品でしかない電池のような僕が、今更になって誰もが求めてやまない太陽のようになる事なんて」
君はまさに太陽だけどね、と彼は空を見上げながらいつもの屈託のない微笑を浮かべた。その裏にはきっと寂しさや悲しみが含まれているはずなのに、彼はきっといつもそれを全く他人に見せてこなかったのだろう。
「俺さ、諦め悪いんだ。やめろとか無理とか言われたら余計やりたくなるような天邪鬼だし、本当に出来ない事なんてこの世にないって思ってるような奴なんだ。だからさ、小笠原とかお前とか――」
「いい天気だね、今日」
自分でもなにを言っているのか分からない僕の台詞を、あやすように穏やかにそう言う。
「あ? あぁ、そうだな」
「きっと夜になったら綺麗な星が見られるよ。最近、屋上から星を眺める事にはまっててね、眼下には殆ど光がない真っ暗で静かな世界に、存在を邪魔されなくなった星が以前よりも輝いて見えるような気がするんだ。柳君」
「なに?」
「今日、一緒に星を見ないか? 僕と、君と、小笠原さんの三人で」
「三人で?」
「そう、三人で」
深夜二時に屋上で会おう。
そう小林は言い、僕は皆が寝静まった中、時間が近付くと立ち上がり教室を後にした。
二人の姿は教室にはなかった。別れてから結局小林は教室に戻ってくる事はなく、それは小笠原も同じだった。
「…………」
静かな廊下を僕は無言で歩き屋上へと向かう。
ぎぃ、と重い音を立てるドアを開けた。四角いドアから出て視界が広がり、僕は彼に言われた通りに満天の星空を見上げた。雲一つなく無数に輝いている色とりどりの星を眺めながら僕は二人の姿を探した。
「やめて!」
僕はその声にはっとして振り向き、目を見開く。
声の持ち主である小笠原は、夏空の下でがちがちと歯を震わせ一点を見つめていた。彼女は一歩足を踏み出そうとする度に体も揺れ、僕は「小笠原!」と叫ぶ。僕がいる事に気がついていなかったらしい彼女は僕がいる事に驚いたようだった。ふと力が抜けたのか状態が歪み僕は「危ない!」と悲鳴のような声を出した。
彼女は屋上に備え付けられている落下防止用のフェンスを越えて、狭い隙間の上になんとか立っていた。下を見下ろせば硬い地面が暗闇と共に見渡せるその場所で、彼女はなんとか前に進もうとしていた。
僕は彼女の声の向けられた先を追いかける。
「柳君、ちょっと来るの遅かったね」
「……小林」
「綺麗だろう? 本当に」
小林が、フェンスの向こう側で、僕を見て微笑んだ。
「なにやってんだ」
「最後に、三人で星を見たかったんだ。それだけだよ」
フェンスを挟んで僕達は正対した。同時に高く容易には乗り越えられそうもないフェンスの切れ目を探すが、それは僕の背後にまで続いており、彼のところへと辿り着くまでかなりの時間を要するだろう。
彼は僕の考えを見透かしたように「こっちには来ないでほしいんだ。柳君に邪魔されたら、どうしようもないだろうから」と苦笑する。
「なにやってんだ! 小林!」
僕は彼へと近づき、目の前にあるフェンスを叩き付けた。がしゃんと音が鳴り、ゆらゆらと震えるが、小林は動じる事無く、僕に一歩だけ近付いた。網目の隙間から見る小林は、場所さえ変われば普段と変わらないように思えたが、しかしよくよく見ればその目には、ぎらぎらとした獣のような狂気の光があった。
「柳君」
「あ?」
「本当の絶望ってなんだろうか」
「……お前もそれかよ」
「きっと、それはずっと前からあったんだよ、僕の場合。影のように四六時中いつも付き纏っていた。希望と一緒にね。僕はそれを感じていつも窒息しそうになったよ、気が狂うと思った。僕が笑えば笑うほど、僕の胸の中でその圧迫感は肥大していったよ。皆は僕の事をこう言う。いい人、優しい人、思いやりがある人、僕はそれを聞く度に冗談じゃないと笑い飛ばし、唾を吐き捨ててやりたかった」
「なんだって?」
「僕は、そんな奇特な人間じゃないんだよ。そんなのは僕の表面上だけを見た薄っぺらな言葉でしかなかった。僕はね、ただ、愛されたかったんだよ。僕は誰かに必要とされる存在になりたかった。なるほど、誰かは僕にこう言ったよ。こんな事小林君にしか相談出来ないから、こんなお願い聞いてくれるの小林君しかいないから、そういうものが僕が生きている理由だと。でもそう言われた時、僕はそいつを殴りたかった。殴って、地面にこすり付けて気絶するまで蹴りを入れて口から血を吐き出すまでボロボロにしてやりたい衝動に駆られてしょうがなかった。それが僕が生きる理由? 僕ではなく、他の誰かへと僕以上に向けられている思いを伝えるために存在し、僕自身にはそんな思いが届けられる事はない人生が僕の生きる理由だと言うのか? ふざけるなって思ったよ、僕は誰かのためになんて生きたくもなかった。そう、僕は僕のために生きてくれる誰かが欲しかった。誰よりも僕を思い、慕い、僕がいない日常なんて想像できない、そんな想いを僕は求めていたんだ」
「今まで、全員を騙してきてたってのか?」
「騙すつもりなんてこれっぽちもなかったよ。僕はいつだって誠意を尽くしてきたはずだ。そう、僕は誰よりも他人を愛した。決して僕は独りよがりに僕を一方的に愛してくれだなんて事は言わなかった。僕は誰かを愛し、誰かは僕を愛する。僕が望んだのはそんなものだよ。いつだって誰かを傷つけないように微笑んだし、泣いている人には彼や彼女らのために僕は至って沈痛な表情になっては、同じ痛みを感じていた。それは柳くんだって分かるだろう? 僕はいつでも心を開いていた。きっとそれがいつか形として帰ってくると恋焦がれながらね。そう、僕はいつも希望を抱いていた。だが、それはいつも絶望へと転じたよ。皆僕から離れていく、姿を消す。僕はいつも誰かにとっての最愛にはなれなかった。それでも僕は希望を追いかけ続けたよ。追いかけて追いかけて、いつの頃からか、僕にとっての希望はいつも冷や汗交じりのものだった。今回こそ報われるだろうか、それとも今回も希望は裏切られるのだろうか。いつもいつも、僕は誰かに抑え付けられているかのように希望を覚えるたびに頭痛を感じた」
「やめろ、小林。やめるんだ。こっちに来い。なぁ、分かったからこっちに来い。頼むから!」
「分かる訳がない。君は僕とは違う」
「もういいでしょう!?」
彼の傍までやってきた小笠原が、涙を流しながら彼の手を取った。彼女はその手を繋いだまま力尽きてしまったようにその場に座り込むと荒い息をついた。そのかすれた吐息の中に「やめて……やめて……」と言う言葉が続いた。
「ねぇ、柳君、どうして僕が彼女を皆に受け入れてもらえるようにしてたか、考えた事ある?」
「……あるよ。お前がどんだけ苦労してたか、彼女のためにどんだけ頑張ってたか、俺だけじゃない、他の奴らだってそれは分かってる」
小林は彼女に目線を合わすように腰を下ろした。僕は絞り出す自分の声がどこかとても遠い場所から聞こえてくるようだった。
二人を見下ろすように水滴を一つ零したような真っ白い満月が光っている。まるでクレーターの一つ一つを視認出来るかのようなはっきりとした姿だった。
「それは、違うんだ。僕は彼女のためにがんばってなんて、全くいなかったんだよ」
「そんな事ねーよ! お前は小笠原のためによくやったじゃねーか!」
「本当だよ。僕が彼女のために頑張ってたなんて言うのは君達の錯覚で、僕はその錯覚を利用してただけなんだ」
「……嘘だろ? ……小林」
僕は蹲っている小笠原を見下ろした。彼女は激しく肩を揺らしながら、地面に手をついていたが、彼の言葉を聞いて、僕らを見上げないまま地面に爪を立て、がり、と言う、音を、立てた。
フェンスを握る手が離れてしまいそうになる。そのまま体が崩れてその場に崩れてしまいそうになる。僕は彼の言葉が理解出来ない。
僕は、僕達は、今まで一体なにを見てきたのだろうか。
教室でいつも居場所がないように一人で窓際の席に腰掛け、窓から外を眺めていた小笠原の事を僕達はどんな目で見ていたのだろう。
そんな小笠原に、優しく微笑み朗らかに声をかける小林の事を、僕達はなにを思い見ていたのだろう。
「初めからそうするつもりだった訳じゃない。そう、最初の頃はただ彼女の事が気にかかっていたのは確かだよ。けどその内思ったんだ。僕は無力で、どうする事も出来ない一人の女の子を助けようとしていて、皆はそんな僕を時折感心するような目で見ていた。直接言われる事もある。小林君、あの子に普段から話しかけてあげて偉いよね、だって。僕はその時気付いたんだ。彼女に向ける行為が、それ以外の誰かに通じる事にね。その日から、僕は今までよりも彼女を気にかけるようにしたよ。困っていれば積極的に助けたし、寂しそうだと思えばなんでもいいから話しかけた。彼女はそんな僕に次第に心を開いてくれたし、そうなってくると周りも僕の事を今までよりも違う視線を向けるようになった。彼女を介する事で、僕は今まで手が届かなかった場所に届くようになった。柳君も見ただろう? あの生きる気力を失ってしまっていたクラスメイト達を。僕がそんなクラスメイト達の心に侵入するのは簡単な事だったよ。ただ笑いかけ、優しい言葉をかける、それだけなら大した事ではないけれど、あの状況で受け取るその行為は彼や彼女らにとっては神様に救いの手を差し出してもらえたような感じだったんだろう。皆、僕にその手を委ねてきた。僕はその時戦慄すらした、絶頂を迎えたとも思ったよ。僕はようやく手に入れたんだ。僕を求める人。僕の言葉を待っている人。僕に微笑んで貰うのを待ち続けている人。希望だよ、ついに僕は希望を手に入れた。彼女と一緒に手を切り、安堵を得る。そんなものは僕に支配された事での副産物でしかない。僕が手に入れたのは、僕を愛する人を手に入れ、そして今まで誰も救う事が出来なかった小笠原久美と言う少女に居場所を与えてあげた、僕が救ってあげた、彼女に希望を与えてあげた僕を作り出すためでしかなかった」
「……彼女は、小笠原は、おまえを当てにしてたんだぞ……なぁ、俺は見てたんだ、小笠原が困った時、いつもお前を探してた事。小林、そんな事しなくたってお前を本当に必要としてる奴はいたんだぞ。ここにいたんだ! なぁ! 小笠原はお前に本当の希望を見てたんだ! なのに、なんでそれを利用する必要があったんだ!? なんで他の奴らにまで求めなきゃいけなかったんだ!?」
「彼女一人じゃ足りなかった、そうとしか言えない。僕は、誰からも必要とされたかったんだ。君が帰ってこなければあの世界はもう少し続いていたはずだったんだけどね……柳君、僕は太陽になったと思っていたんだ、皆を照らして、色も変える事が出来る気がした。でも、本当の太陽にはやはり敵わなかったみたいだ。正直言うとかなり悔しかったよ。ああするのに結構時間がかかったのに、君はたった二日程度でそれを変えてしまったから」
「……小笠原の事は」
彼女の事は考えなかったのか?
あの時、俺を責めたのはそれが理由だったのか?
彼女が再び居場所をなくし皆から離れていく事を思い、僕を憎んだんじゃなかったのか?
小林は、僕の問いに、彼女の肩に手を置きながら「あぁ」と呟いた。
「それは、もういいんだよ。あれは元々彼女のための場所なんかじゃなかったから。それに彼女は本当はもう学校に来たくなかったんだ。あの雨の日からね。あの時、康弘君に学校に来ようとしてるのは彼女の意思だと言ったけど、本当は僕が来るように彼女に言ってたんだよ。彼女を失うわけにはいかなかったから。上杉直人と植田智子が自殺した日、屋上にいた君に声をかけるように言ったのも僕だ。君が、彼女を追い込んでくれればくれるほど、彼女は僕に助けを求めたから」
「……ふざっけんなよ、小林ぃ!」
「……もうやめて!! いいじゃない……それでいいでしょう? 柳君、もういいのよ。彼は悪くないの。だから、もういいの」
僕は激昂した。
これほどまで誰かに怒りを覚えた事があっただろうか?
全てが、なにもかもが全て自分のためだけでしかなかったと言うのか。彼女を利用し、救うどころか更に傷つけるような事をしていたと言うのか。フェンスにしがみつく。細かな網目が僕に握り潰されてぐにゃりと歪む。
だが小笠原は、彼の台詞を聞いても、彼に伸ばした手を離しはしなかった。
「よくねーよ!! 小笠原!! これでいいのかよ!? お前こいつのために来たくない学校にそれでも来てたんだろ!? それをこいつは利用してたんだぞ!?」
「いいのよ!! それでいいの! 柳君には関係ないでしょう!?」
「なに言ってんだ!? マジなに言ってんだ!」
「悪いのは私なのよ! ……だから、もう彼を責めないで。お願い」
後半の台詞は、彼女の双眸から溢れた涙声でかすれていた。小笠原はぶるぶるとその体を震わせ何度も「お願い、お願い」とと言いそれはやがて「ごめんなさい」に変わっていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……私が全部悪いのよ……だからもうやめて……」
「……なんでだよ。なんでだよ、小笠原。お前、騙されてたんだぞ。お前にかけられてた言葉は全部嘘だったんだぞ? なんで許せるんだよ、お前が謝るんだよ」
僕も泣いていた。今だって、僕はまだ小林の言葉を信じられなかった。これは悪夢で、僕は今眠りの中で目覚めれば何事もなかったように小林と小笠原が並んで静かにやり取りを交わしているのではないかとすら思っていた。
「小林、お前、手首……自分で切ったのか? 嘘のためにわざわざ自分の体、傷つけたのか?」
希望を得るためならそんな傷は些細な物じゃないとでも思ったのだろうか。小林は僕の言葉にその傷を見る。そして「別に、今更こんな傷増えても大した事じゃないんだ」と言うと、彼は着ていたボタンシャツに手をかけ、ボタンを外した。
満月に照らされた小林の姿を見て僕は言葉を失っていた。彼の外気に晒された胸板から腹部まで走っていたのは、目を背けたくなるような無数の剃刀傷だ。無数のミミズが這っているようなその体を見て、ようやく僕は、僕には欠けていて、小林が持っていた小笠原との共通点がなんだったのかを知った。
「腕を切ると、日常生活に不便だろう? 彼女のように夏でも長袖を着なくちゃいけなくなってしまったりね」
「……いつから……切ってたんだ?」
「ずっと前からだよ。小笠原さんや君と知り合うよりずっと前から。僕も彼女と同じように精神に病を抱えていて通院していた。だからかな、彼女が自分と同じだという事はあってしばらくして分かったよ。僕達は互いの傷を見ては慰めあったりした事もある。僕のほうがよっぽど重症だけどね」
もっとも、僕はうまく隠す事が出来ていたから、そうと思われる事はあまりなかったけどね、と自嘲気味に笑った。
「まぁ、そうじゃなければ彼女も僕にここまで心を開いてくれる事はなかったかもしれないね」
小林が立ち上がった。まだぶつぶつと呟いている小笠原を見下ろし、僕の方を一瞥すると、くるりと反転し僕に背を向けた。僕はそれを見てフェンスにしがみつく。
小林が一歩足を進め、その場で足を揃えて立った。彼の髪が風で浮き上がる。あと一歩踏み出せばそこは虚空で、僕は狂ったようにその場であがいた。
「小林。待て。止まれ。待ってくれ! やめろ! 小笠原、止めろ! 止めてくれ!」
その言葉が届いたのか、いや、逆に僕の言葉は届いていないようだった。彼女はよろよろと生と死の境界線上に立ち、今にもその身を死の側へと投げ出そうとしている傍で立ち上がると彼に手を伸ばした。
「やめて、小林君、死なないで」
「もういいんだ」
「いつも言ってたじゃない! 死んだらダメだって! 私に言ってたじゃない!」
「それは、君が本当に死ぬ気なんて欠片もなかったからだよ」
彼女が放心したように、黙り込んだ。小林は正面にある白い満月を見ながら、肩の荷が全て下りたかのように溜め息を一つ吐き、穏やかな声を紡いだ。
「君は何度も死にたいと言ったけど、それは全部嘘だよ。君は本当は死にたくなんてないし、生きたがっていた。もし、君が本当に死にたがっていたなら、僕がそれを肯定した時があったかもしれない。そして今も、本当に死にたいと思っている君がいるなら、僕が誘う事もなく、僕の隣に立っていたんだろうね」
「おい! 小林!」
僕の声は届かない。小林は、背を向けたまま片手をあげた。僕にではなく小笠原へと向けて。
「ありがとう。僕と、僕の嘘に付き合ってくれて。君の優しさを利用して本当に申し訳なかったと思う。最後に一つだけ我が侭を聞いてくれるかな。僕の体はどこか遠く皆に気付かれないところに捨てて欲しい。僕の事で君に迷惑をかけたくないし、親に引き取られることはまっぴらごめんだからね。頼むよ」
じゃあ。
その言葉が最後だった。
その言葉を最後に、小林は境界線上をくぐる一歩を踏み出し――
「小林!!」
――一瞬にしてその姿を屋上から消した。
「嘘なのよ」
小笠原は短く僕にそう告げた。
「あの雨の日、小林君に告白されたの。そう、断ったわ。どうしてって、彼の事を恋愛対象として見られなくなったから。あの日から、小林君は変わってしまったのね。きっと、私にも裏切られたって思ってしまったのかもしれない。でも誤解しないでね? 彼は彼が言ったように私をただ利用しているだけではなかったの。私は随分彼に助けられたし、感謝してるわ。ただ、私が彼を愛していないと知って、彼は他の人を求めるようになったのね。そういう意味では利用してたと言えるけど、それは私はしょうがないと思うから。学校に行きたくなかったのは確かよ。あんな事になってもう皆の顔を見るのも辛かったから。でも彼には私が必要だったのね、どういう意味でかは、分かるでしょう? 私は彼に償いをしないといけないの思ったの。彼の告白に答えられなかった事や、恋愛と言う視点だけでなく、私が彼を必要だと思ってあげられなかった事や、今までしてもらった事を思えば、私は学校に彼が望むとおり、行かなきゃいけないと自分に言い聞かせてた。だから、あなたがいなくなってからの学校での生活は私は別になんとも思わなかったし、誰が腕を切っても特になんの感慨も沸かなかったわ。だってそれは所詮まやかしのようなものだから、あの人達は決して私の事を深く理解する事は出来なかったし、私だって理解できなかったけど、彼がそれで満足ならいいと思ってた。あなたは私に幸せそうじゃないって言うけど、当然よね。私にはなにもなかったのよ、あの空間は。いつからかしら、小林君が変わったのは。もしかすると最初からで、私が気がついてなかったのかもしれないけれど、いつからか彼は誰かからの愛とか信頼とかそういったものに執着するようになっていったわ。多分、私達が付き合うことになったとしても、それは変わらなかったかもしれないわね、しょうがないのかもしれないけれど……そういうものだから。きっと彼は色んな人からの愛が欲しかったんだと思う。私のような病気持ちでなんの取り柄もなくてみすぼらしい存在からの愛なんかじゃ満足できないのよ。彼は自分の事を私とは違って愛する事が出来ていたし、その自分に見合う存在を欲しがっていたし、それは私のような出来そこないでは埋められないものなのよ。柳君はそう、そんなことはないって言うけれど、なんとなく分かるの。私は彼にはついていけなかったわ。彼の言うとおり、彼に比べれば私は症状的にはまだ軽い方なのよ、きっと。だからふと思いつきであんなメールを送って自分もそこに加わって、誰かが声をかけてくれるのを期待したりしてしまうんだけど、彼はそんなのは無駄だと思っていたから。きっと、彼は最初から分かってたのね、メールを送ったのは私だっていう事も。多分彼の目には私は目の前に人参をぶらさげた馬のように見えたんじゃないかしら。誰かが私に近付いてくれる事を期待して、それが出来ずに孤立している私は彼にすぐ縋り付いてしまった。今思えば愚かな事をしたって思うわ。あの時、私が彼じゃなくてクラスメイト全員にメールを送ったりしなければこんな事にはならなかったし、私も違う私でいたと思う……いつから彼を恋愛対象として見られなくなったか? 上杉さんと植田さんが亡くなってあなたに話す事を言われた時かしら、私は時折死にたいと思ったり口にする事もあったけど本当に死ぬ事なんて到底出来なかったし、リアリティもなかったわ。怖かったしね。その時思ったの、彼は私とは見ているものが全くの異質だという事にね。だから、彼はあなたが私に嫌悪感を抱いて――きっとクラスの中心のあなたが私を嫌えば周りも距離を取ると思ったのね――私が彼を尚求めるようになると言っていたけれど、私はむしろあの日から彼と距離が離れていくようだったわ」
僕達は学校から離れた名前もない山に小林の遺体を運び、二人でスコップで穴を掘ると、そこに彼を埋めた。僕はそれを最初反対したが、彼女は彼の意思をかなえてあげたいと言い結局僕が折れる事にした。小林も、本人が願った事だし、僕よりも彼女の意思を汲んだ方が彼にとって幸せな気がした。
「なぁ、お前、もう欲しいものはないって言ったよな。それって小林の事か」
「そうね。もうあの小林君はいなかったから」
「それ以外は、なにもないのか?」
「ええ――敢えて言うなら私はもう一人になりたいの。学校にも行かないで、誰にも会わないで一人で過ごしたい。それでいいのよ。私は彼とは違って誰かに必要とされたいとも思わないし、誰の事も必要だと思わないの。ただそっと、一人で死までの時間を過ごすわ。もう、誰かといる理由もなくなったから。私も嘘をついていたのよ、自分に。誰か心を開ける人が欲しい、そんな風に。だけど、今はもうそんな事は思わないわ」
彼女は何色なのだろう、僕は何色なのだろう、小林は何色だったのだろう。
僕達は涙を枯らすまで泣き、それが済めば今度は人形のように黙々と黙り込んだ。
最後に見た小林の安らかな顔が土の中に埋もれ、僕達は無言のまま山を降りると彼女は「ありがとう」と僕に声をかけ「さようなら」と言い学校とは反対方向へと歩いていった。
僕はなにかを言おうとし、しかしなにを言ってももう意味はないのだろう、と思い「さようなら」と返した。
彼女の濡れたように艶のある黒い髪、病的なほどに白く美しい肌、そして赤い血。
その後ろ姿をしばらく見送ってから、僕は彼女とは反対方向へと踵を返した。
一人の少年の命が幕を下ろし、一人の少女の演技にも幕が下りた。
彼女は、彼女だけの幸せとは言えないが、しかしそれでも彼女にとっての安息をようやく手に入れる事が出来た。僕に出来る事はもうない。
なにが正しくて、なにが間違っているのか。なにが罪で、なにが罰なのか、なにが許しなのか。
それを決めるのは時として他人であり、自分でもある。
他人は自分の決断を批判する時もあれば、肯定をする時もある。
他人の決断に自分は納得する事もあれば、否定をする時もある。
そして彼女は今回自分にとっての決断を自分でしたという事だ。
僕達にとってそれは間違っており、罰のように思えるそれを、彼女は許し、正しい事として選んだ。
彼女は、孤独と寄り添う事を選んだ。
小笠原は短く僕にそう告げた。
「あの雨の日、小林君に告白されたの。そう、断ったわ。どうしてって、彼の事を恋愛対象として見られなくなったから。あの日から、小林君は変わってしまったのね。きっと、私にも裏切られたって思ってしまったのかもしれない。でも誤解しないでね? 彼は彼が言ったように私をただ利用しているだけではなかったの。私は随分彼に助けられたし、感謝してるわ。ただ、私が彼を愛していないと知って、彼は他の人を求めるようになったのね。そういう意味では利用してたと言えるけど、それは私はしょうがないと思うから。学校に行きたくなかったのは確かよ。あんな事になってもう皆の顔を見るのも辛かったから。でも彼には私が必要だったのね、どういう意味でかは、分かるでしょう? 私は彼に償いをしないといけないの思ったの。彼の告白に答えられなかった事や、恋愛と言う視点だけでなく、私が彼を必要だと思ってあげられなかった事や、今までしてもらった事を思えば、私は学校に彼が望むとおり、行かなきゃいけないと自分に言い聞かせてた。だから、あなたがいなくなってからの学校での生活は私は別になんとも思わなかったし、誰が腕を切っても特になんの感慨も沸かなかったわ。だってそれは所詮まやかしのようなものだから、あの人達は決して私の事を深く理解する事は出来なかったし、私だって理解できなかったけど、彼がそれで満足ならいいと思ってた。あなたは私に幸せそうじゃないって言うけど、当然よね。私にはなにもなかったのよ、あの空間は。いつからかしら、小林君が変わったのは。もしかすると最初からで、私が気がついてなかったのかもしれないけれど、いつからか彼は誰かからの愛とか信頼とかそういったものに執着するようになっていったわ。多分、私達が付き合うことになったとしても、それは変わらなかったかもしれないわね、しょうがないのかもしれないけれど……そういうものだから。きっと彼は色んな人からの愛が欲しかったんだと思う。私のような病気持ちでなんの取り柄もなくてみすぼらしい存在からの愛なんかじゃ満足できないのよ。彼は自分の事を私とは違って愛する事が出来ていたし、その自分に見合う存在を欲しがっていたし、それは私のような出来そこないでは埋められないものなのよ。柳君はそう、そんなことはないって言うけれど、なんとなく分かるの。私は彼にはついていけなかったわ。彼の言うとおり、彼に比べれば私は症状的にはまだ軽い方なのよ、きっと。だからふと思いつきであんなメールを送って自分もそこに加わって、誰かが声をかけてくれるのを期待したりしてしまうんだけど、彼はそんなのは無駄だと思っていたから。きっと、彼は最初から分かってたのね、メールを送ったのは私だっていう事も。多分彼の目には私は目の前に人参をぶらさげた馬のように見えたんじゃないかしら。誰かが私に近付いてくれる事を期待して、それが出来ずに孤立している私は彼にすぐ縋り付いてしまった。今思えば愚かな事をしたって思うわ。あの時、私が彼じゃなくてクラスメイト全員にメールを送ったりしなければこんな事にはならなかったし、私も違う私でいたと思う……いつから彼を恋愛対象として見られなくなったか? 上杉さんと植田さんが亡くなってあなたに話す事を言われた時かしら、私は時折死にたいと思ったり口にする事もあったけど本当に死ぬ事なんて到底出来なかったし、リアリティもなかったわ。怖かったしね。その時思ったの、彼は私とは見ているものが全くの異質だという事にね。だから、彼はあなたが私に嫌悪感を抱いて――きっとクラスの中心のあなたが私を嫌えば周りも距離を取ると思ったのね――私が彼を尚求めるようになると言っていたけれど、私はむしろあの日から彼と距離が離れていくようだったわ」
僕達は学校から離れた名前もない山に小林の遺体を運び、二人でスコップで穴を掘ると、そこに彼を埋めた。僕はそれを最初反対したが、彼女は彼の意思をかなえてあげたいと言い結局僕が折れる事にした。小林も、本人が願った事だし、僕よりも彼女の意思を汲んだ方が彼にとって幸せな気がした。
「なぁ、お前、もう欲しいものはないって言ったよな。それって小林の事か」
「そうね。もうあの小林君はいなかったから」
「それ以外は、なにもないのか?」
「ええ――敢えて言うなら私はもう一人になりたいの。学校にも行かないで、誰にも会わないで一人で過ごしたい。それでいいのよ。私は彼とは違って誰かに必要とされたいとも思わないし、誰の事も必要だと思わないの。ただそっと、一人で死までの時間を過ごすわ。もう、誰かといる理由もなくなったから。私も嘘をついていたのよ、自分に。誰か心を開ける人が欲しい、そんな風に。だけど、今はもうそんな事は思わないわ」
彼女は何色なのだろう、僕は何色なのだろう、小林は何色だったのだろう。
僕達は涙を枯らすまで泣き、それが済めば今度は人形のように黙々と黙り込んだ。
最後に見た小林の安らかな顔が土の中に埋もれ、僕達は無言のまま山を降りると彼女は「ありがとう」と僕に声をかけ「さようなら」と言い学校とは反対方向へと歩いていった。
僕はなにかを言おうとし、しかしなにを言ってももう意味はないのだろう、と思い「さようなら」と返した。
彼女の濡れたように艶のある黒い髪、病的なほどに白く美しい肌、そして赤い血。
その後ろ姿をしばらく見送ってから、僕は彼女とは反対方向へと踵を返した。
一人の少年の命が幕を下ろし、一人の少女の演技にも幕が下りた。
彼女は、彼女だけの幸せとは言えないが、しかしそれでも彼女にとっての安息をようやく手に入れる事が出来た。僕に出来る事はもうない。
なにが正しくて、なにが間違っているのか。なにが罪で、なにが罰なのか、なにが許しなのか。
それを決めるのは時として他人であり、自分でもある。
他人は自分の決断を批判する時もあれば、肯定をする時もある。
他人の決断に自分は納得する事もあれば、否定をする時もある。
そして彼女は今回自分にとっての決断を自分でしたという事だ。
僕達にとってそれは間違っており、罰のように思えるそれを、彼女は許し、正しい事として選んだ。
彼女は、孤独と寄り添う事を選んだ。