プレゼント
頭にタオルを巻いていても、額からはとめどなく汗が流れ、僕は肩にもかけてあったそれで顔を拭った。
「あっちぃ」
八月ももう終わるというのに、暑さは一向に収まる気配もなく、僕はげんなりと乾いた悲鳴を上げる。
「柳君、そっちはどう?」
「あー、ぼちぼち、一応言われたとおりに出来たと思うけど」
ミリタリーマニアの割りに膨れた腹を持つ青柳は、僕と同じように汗を拭いながらなにか問題はないかと最初から確認してみると背中を向けた。僕はそうやっている間暇を潰すようにして暑苦しい体育館の床に這わせてあるコードと、そのコードに保護用に重ねてある黒いビニールテープが剥がれたりしている場所がないかどうかを見直す。一通り見終わると、僕は入り口辺りに腰を下ろし、あまり昨日から眠っていなかったため感じる眠気をごまかそうと大きく上体を伸ばしたりした。
「青柳ー、どうよー?」
丁度正反対の、体育館の奥にいる彼にそう叫ぶと、彼は大きな声を出すのが億劫だったのか、両手を挙げて大きく丸を僕に作ってみせた。
「絶対大丈夫!?」
更に聞くと、今度は右手だけを残し、親指だけを立ててみせる。
「よっしゃー、サンキューな」
その言葉に彼はなにを思ったのか、満足げな顔と共に、両手を挙げてピースサインを返してきた。
ちょっと休憩しよう、と彼に声をかけ寝転がったところで、僕の顔の辺りに影が落ちた。
「ちぃーっす」
「遥じゃん。メチャ久しぶり」
あいも変わらずミニスカート姿の彼女が僕のすぐ傍に立ち僕を見下ろしていた。少し角度をずらせばそのミニスカートの向こう側が覗けそうだったが、僕がなにを考えてるのか分かりでもしたのか、彼女はすっと体の位置を変えると僕の腹の辺りに爪先を当てた。
「マジ久しだよー。元気してた? 学校の皆元気そうじゃん」
「お前どこ行ってたんだよ?」
「ダチの家とか?」
「あ、そ。まぁ、いいや。これ鍵返すわ」
「あー、別にいいのに、もう」
本当は彼女の物とは違うその鍵だが、彼女は全く気がついていないようだった。彼女はキーホルダーを指に絡めてクルクルと回しながら、僕の隣に座る。
「仙道から聞いたんだけど、あのメールアンタが書いたんだって?」
「あぁ、そうそう」
「アンタ本当諦め悪いよね、マジ私達もうすぐ死ぬじゃん。それなのによくやるよ」
「まーな」
「ま、でも、ちょっといいかなって思ったけどね」
「マジ? だろ? な」
調子のんなよ、と鼻で笑われ僕は同じく笑い返した。彼女はごろりと寝転がりその背中にコードが当たったらしく「なにこれ?」と目を丸くした。
「思い出作りの準備中なの。お前、テープ剥がすなよ」
「大丈夫よ。思い出作りって、なに、これでなにすんの?」
興味津々と言った感じの彼女に僕は「昼の三時くらいから始める予定なんだけどな」と言いながら、晶から一つ貰ったピックを取り出し彼女に見せながら答えた。
「ラジオ」
「皆、来るかな」
「さぁ」
「さぁ、って浦沢君、そんなあっさりと言わなくても」
「そうだよ。もうちょっと期待出来る様な事言えよ」
「晶君のギターが上手ければ来てくれるかもね」
「それを言うなって!」
「もー、あんたらうるさい!!」
「真尋、真尋も落ち着いてよ」
体育館でのラジオ放送のための準備を追え、アンプなども運び終えた僕が教室に戻ってくると麻奈が用意したらしいおにぎりを一つ手に取った。炊飯器で炊いたらしいおにぎりの中には梅干が入っていて口の中から涎が溢れた。
「智史、緊張とかしてんじゃねーの?」
彼は僕のからかいに「まぁ、多少は」と正直に答えたがそれ以上に睡魔と戦っているようだった。昨日あれから智史と晶は浦沢と原田に連絡をして、もう来る事もないと言っていたスタジオにあっさりとんぼ返りをすると、朝方までずっと音合わせをしていたらしい。学校に戻ってから少し眠ったようだがまだ抜け切っていないようだった。そして彼らが寝ている間、僕はラジオ放送を行うための準備を青柳と二人で進めていた。
「浦沢と原田はやっぱ慣れたもん?」
冷たい氷の入ったお茶を飲みながら、二人に晶がそう尋ねるのを聞く。
「うーん、まぁ、慣れてると言えば慣れてるけど。ちょっとやりにくいかも」
「あ、やっぱり浦澤君もそう思うんだ」
「ちょっとね」
二人の言い分に僕はそういうものなのだろうか、と首を捻る。
「そんなに違いあるかぁ?」
「ライブハウスに来るような子は元々バンドが好きな子がメインだからね。こっちも好き勝手出来るんだけど。てゆうか、あれだよね、柳君自分は関係ないからって余裕だね」
「なに言ってんだよ。気持ちだけは充分あるぜ、これでも」
「どうだか」と浦沢が皮肉っぽく言う。彼のそんな態度にはもうすっかり慣れてしまった。なんせ数時間前にも似たような事を言われたところだったのだから。僕は残りのおにぎりを全て口に放り込んで喉の奥へと流し込んでから嬉々として返事をする。
「実際やったら気持ちいいかもしれないぜ? 全校生徒の前で演奏するってのは」
そう、僕はせっかく演奏をするなら、ラジオの向こうにいる人だけではなく、学校にやってくる皆にも聞かせよう、と提案をしていた。その提案に最初誰もが否定的な反応を示した。あくまで彼らがやろうとしてたのはラジオ放送での演奏とトークであって、人前でやるという予定はなかったのだ。
だけど僕はどうしても皆の前で演奏してほしい、と頼んだ。
僕は彼らに期待していたのだ。もし、ラジオを聴いている誰かに、彼らがなにかを思わせる事が出来るのなら、それを今日あのメールを見てやってきてくれる皆にも聞かせてやりたかった。そして例え失敗に終わってしまったとしても、僕は彼らの姿を皆にも見てもらいたかったのだ。
「俺はやってもいいよ」
そう言ったのは智史だった。
どうせ、受けなかったら皆適当に聞き流すだろうし、笑い話にでもするさ。聞いてくれる子がいるんならそうやって皆と一緒にラジオをやるのもいいかもしれないな。元々二、三人聞いてくれればいいやって感じで始めたようなもんだし。
「あーあ。目の前で受けてないって言うの見ると結構へこむんだよね」
「ちょっと、脅すなよ!」
晶の緊張交じりの声を聞き流した浦沢は「まぁ、リーダーは智史君だし、智史君がそうするんでいいならやるよ」と答えた。そして浦沢とは正反対の温和な表情の原田は「頑張れば皆も聞いてくれるよ。きっと晶君がギター弾いてるところ見たら知り合いも驚くんじゃないかな」と白い歯を覗かせた。
僕達は悶々とあのメールを見て来てくれる人達を待ち続けた。午前中はちらほらとやってくる程度で、やはりもう皆学校にはやってきてくれないのだろうか、とやきもきしたが、昼を過ぎた頃からその数は増えてきていた。僕は校舎から校門から続く道路に見かけられる皆の顔を見て、智史達に「おい、結構来だしたぞ」と喜ぶように伝えると、彼らも手を叩き、そろそろ体育館に移動しようと立ち上がった。
「麻奈、皆と一緒に行っててくれよ。俺皆にラジオの事教えてくるからさ」
「うん、分かった。一人でいいの?」
「いい、いい。聞いてみようと思う奴らだけ来てくれればいいって智史も思ってるだろうしそんな大げさにする訳でもないからさ」
と僕は既に用意していた拡声器を得意げに回して見せると「康弘君、それ気に入って使いたいだけじゃないの?」と悪戯っぽく笑い「じゃあまた後でね」と出て行く全員を教室から見送り、僕は彼らとは反対方向へと歩き、運動場へと移動した。
運動場では、久しぶりに顔を見て懐かしさを覚えたらしい何人かが、お互いの近況を話し合ったりしてそれなりに人の姿を見かけられた。その中に僕達のクラスメイトもおり、彼彼女らは校舎から出てきた僕を見ると「久しぶり」と声をかけてきた。
「おう、お前ら元気してた?」
「まあまあってところ。康弘もメール見て来た?」
「いや、あれ送ったの、俺だから」
そう言うと「そうなんだ」と若干驚いたようだった。僕は他の奴らにメールしてくれたかを聞くと、何人かに送ってみたけど、もう届いてる奴もいて、俺もまた他の奴から送られてきてメチャクチャだったぞ、と笑った。
「行こうかどうしようか迷ったんだけどさ。もうこのまま家でゆっくりしてようかなって。けどやっぱ、このまま学校の皆の顔見ないのも寂しいかなって思ってさ」
「そっか、ありがとな」
「いや、いいきっかけになったと思うよ、あのメール。ところで、そのスピーカーどしたの?」
「あぁ、これ? いや、三時からさぁ、体育館で智史達がラジオするんだよ。それをちょっと皆に伝えとこうと思ってさ。よかったらお前も来てくれよ」
「へぇ、そういや、家のラジオでもまた誰かやってたの聞いたわ。いいじゃん、面白そうだし行くよ」
「おう、頼むわ」
じゃあ、と彼と別れ僕は運動場の中央辺りで立ち止まると、何度か咳払いをして拡声器のスイッチをオンにした。前回と同様にマイクテストをしているとそれだけで周りの視線が僕のほうへと向けられる。少々気恥ずかしいものがあるが、あえて気にしないようにして、あまり力まないように自然な感じを心がける。
『こんちわーっす。今日の昼の三時から体育館でラジオ放送をやろうと思っていまーす。なんか演奏とかもやるらしいんで、もしよかったら皆見に来てくださーい。で、よかったらこれから来る人達にもそのラジオの事教えてあげてください。よろしくっす』
そう言い終えて僕はぺこりと頭を下げてその場からさっさと立ち去ろうとした。だが、思ったよりも皆興味があったのか、逃げるように足早に去ろうとする僕を誰かが呼び止めて、どんなラジオをするのか、と尋ねて僕が僕もよくは知らない、と曖昧な返事をしていると次から次へと質問が飛び交ってきた。
「いや、ラジオするの俺じゃないんで、分かんない。詳しい事とかはラジオ聞くまでのお楽しみって事で」
「ちょっと今から体育館行ってみようかな」
「誰がラジオするの? 浦澤君? じゃあ行ってみようかな。彼かっこいいから私好きなのよねー」
思った以上の反響で、もう僕を余所に盛り上がりだした皆から僕はなんとか抜け出す。
この様子なら聞きに来る人が誰もいない、と言う事はなさそうで、僕は安堵しながら時間までどう過ごそうかと思い、もう体育館にいるべきだろうかと思っていると、後ろからシャツの裾をくい、と引かれた。振り返るとそこには思わず必要以上に見下ろしてしまいそうになる紅と蒼の双子が並んでいた。
「あぁ、お前らも来てくれたんだ」
「はい。ねぇねぇ、康弘。久美ちゃん来てるか知らないですか?」
「小笠原? いや、多分来てないんじゃないかな」
「そうですか」
紅がしょんぼりと肩を落とす。隣では蒼がそんな彼女を励ますように頭を撫でていた。
僕はあの日のやり取りの事など努めて忘れてしまったかのように彼女に答える。
「気になる?」
「うん、ちょっと最近は学校に来るのが怖かったんですけど……。話では小笠原さんは来てるって聞いてたから今日会えるかなって思って」
「あーそだよな、ちょっとバカな奴ばっか残っちゃってたからなぁ」
「康弘自分もいたんでしょ?」
蒼にそう突っ込まれ、僕は「やかましい」と彼女の頭をぐりぐりと両手で挟み込む。彼女は大きな悲鳴を上げながら許しを求めてきた。
「まぁ、紅がそうやって心配するのもしょうがないと思うけどな」
紅は溜め息を吐いた。
「久美ちゃん来ると思いますか?」
その質問に「来ないだろう」と言う以上の返答を僕は見つける事が出来なかった。僕は彼女にあのメールが届いただろうかどうかと思考する。僕の携帯にも当然諏訪先輩と仙道のものにも入っていない彼女のアドレスへと、メールを送ってくれた人はいるのだろうか。
「……そうだなぁ」
そう、その質問にはそうとしか言えない。なので僕はその質問には答えない事にした。腕時計を見て時間を確認する。まだ三時までは幾らか余裕があった。
「紅と蒼が彼女に会いたいんだったら、会いに行けばいいんじゃないかな?」
「あっちぃ」
八月ももう終わるというのに、暑さは一向に収まる気配もなく、僕はげんなりと乾いた悲鳴を上げる。
「柳君、そっちはどう?」
「あー、ぼちぼち、一応言われたとおりに出来たと思うけど」
ミリタリーマニアの割りに膨れた腹を持つ青柳は、僕と同じように汗を拭いながらなにか問題はないかと最初から確認してみると背中を向けた。僕はそうやっている間暇を潰すようにして暑苦しい体育館の床に這わせてあるコードと、そのコードに保護用に重ねてある黒いビニールテープが剥がれたりしている場所がないかどうかを見直す。一通り見終わると、僕は入り口辺りに腰を下ろし、あまり昨日から眠っていなかったため感じる眠気をごまかそうと大きく上体を伸ばしたりした。
「青柳ー、どうよー?」
丁度正反対の、体育館の奥にいる彼にそう叫ぶと、彼は大きな声を出すのが億劫だったのか、両手を挙げて大きく丸を僕に作ってみせた。
「絶対大丈夫!?」
更に聞くと、今度は右手だけを残し、親指だけを立ててみせる。
「よっしゃー、サンキューな」
その言葉に彼はなにを思ったのか、満足げな顔と共に、両手を挙げてピースサインを返してきた。
ちょっと休憩しよう、と彼に声をかけ寝転がったところで、僕の顔の辺りに影が落ちた。
「ちぃーっす」
「遥じゃん。メチャ久しぶり」
あいも変わらずミニスカート姿の彼女が僕のすぐ傍に立ち僕を見下ろしていた。少し角度をずらせばそのミニスカートの向こう側が覗けそうだったが、僕がなにを考えてるのか分かりでもしたのか、彼女はすっと体の位置を変えると僕の腹の辺りに爪先を当てた。
「マジ久しだよー。元気してた? 学校の皆元気そうじゃん」
「お前どこ行ってたんだよ?」
「ダチの家とか?」
「あ、そ。まぁ、いいや。これ鍵返すわ」
「あー、別にいいのに、もう」
本当は彼女の物とは違うその鍵だが、彼女は全く気がついていないようだった。彼女はキーホルダーを指に絡めてクルクルと回しながら、僕の隣に座る。
「仙道から聞いたんだけど、あのメールアンタが書いたんだって?」
「あぁ、そうそう」
「アンタ本当諦め悪いよね、マジ私達もうすぐ死ぬじゃん。それなのによくやるよ」
「まーな」
「ま、でも、ちょっといいかなって思ったけどね」
「マジ? だろ? な」
調子のんなよ、と鼻で笑われ僕は同じく笑い返した。彼女はごろりと寝転がりその背中にコードが当たったらしく「なにこれ?」と目を丸くした。
「思い出作りの準備中なの。お前、テープ剥がすなよ」
「大丈夫よ。思い出作りって、なに、これでなにすんの?」
興味津々と言った感じの彼女に僕は「昼の三時くらいから始める予定なんだけどな」と言いながら、晶から一つ貰ったピックを取り出し彼女に見せながら答えた。
「ラジオ」
「皆、来るかな」
「さぁ」
「さぁ、って浦沢君、そんなあっさりと言わなくても」
「そうだよ。もうちょっと期待出来る様な事言えよ」
「晶君のギターが上手ければ来てくれるかもね」
「それを言うなって!」
「もー、あんたらうるさい!!」
「真尋、真尋も落ち着いてよ」
体育館でのラジオ放送のための準備を追え、アンプなども運び終えた僕が教室に戻ってくると麻奈が用意したらしいおにぎりを一つ手に取った。炊飯器で炊いたらしいおにぎりの中には梅干が入っていて口の中から涎が溢れた。
「智史、緊張とかしてんじゃねーの?」
彼は僕のからかいに「まぁ、多少は」と正直に答えたがそれ以上に睡魔と戦っているようだった。昨日あれから智史と晶は浦沢と原田に連絡をして、もう来る事もないと言っていたスタジオにあっさりとんぼ返りをすると、朝方までずっと音合わせをしていたらしい。学校に戻ってから少し眠ったようだがまだ抜け切っていないようだった。そして彼らが寝ている間、僕はラジオ放送を行うための準備を青柳と二人で進めていた。
「浦沢と原田はやっぱ慣れたもん?」
冷たい氷の入ったお茶を飲みながら、二人に晶がそう尋ねるのを聞く。
「うーん、まぁ、慣れてると言えば慣れてるけど。ちょっとやりにくいかも」
「あ、やっぱり浦澤君もそう思うんだ」
「ちょっとね」
二人の言い分に僕はそういうものなのだろうか、と首を捻る。
「そんなに違いあるかぁ?」
「ライブハウスに来るような子は元々バンドが好きな子がメインだからね。こっちも好き勝手出来るんだけど。てゆうか、あれだよね、柳君自分は関係ないからって余裕だね」
「なに言ってんだよ。気持ちだけは充分あるぜ、これでも」
「どうだか」と浦沢が皮肉っぽく言う。彼のそんな態度にはもうすっかり慣れてしまった。なんせ数時間前にも似たような事を言われたところだったのだから。僕は残りのおにぎりを全て口に放り込んで喉の奥へと流し込んでから嬉々として返事をする。
「実際やったら気持ちいいかもしれないぜ? 全校生徒の前で演奏するってのは」
そう、僕はせっかく演奏をするなら、ラジオの向こうにいる人だけではなく、学校にやってくる皆にも聞かせよう、と提案をしていた。その提案に最初誰もが否定的な反応を示した。あくまで彼らがやろうとしてたのはラジオ放送での演奏とトークであって、人前でやるという予定はなかったのだ。
だけど僕はどうしても皆の前で演奏してほしい、と頼んだ。
僕は彼らに期待していたのだ。もし、ラジオを聴いている誰かに、彼らがなにかを思わせる事が出来るのなら、それを今日あのメールを見てやってきてくれる皆にも聞かせてやりたかった。そして例え失敗に終わってしまったとしても、僕は彼らの姿を皆にも見てもらいたかったのだ。
「俺はやってもいいよ」
そう言ったのは智史だった。
どうせ、受けなかったら皆適当に聞き流すだろうし、笑い話にでもするさ。聞いてくれる子がいるんならそうやって皆と一緒にラジオをやるのもいいかもしれないな。元々二、三人聞いてくれればいいやって感じで始めたようなもんだし。
「あーあ。目の前で受けてないって言うの見ると結構へこむんだよね」
「ちょっと、脅すなよ!」
晶の緊張交じりの声を聞き流した浦沢は「まぁ、リーダーは智史君だし、智史君がそうするんでいいならやるよ」と答えた。そして浦沢とは正反対の温和な表情の原田は「頑張れば皆も聞いてくれるよ。きっと晶君がギター弾いてるところ見たら知り合いも驚くんじゃないかな」と白い歯を覗かせた。
僕達は悶々とあのメールを見て来てくれる人達を待ち続けた。午前中はちらほらとやってくる程度で、やはりもう皆学校にはやってきてくれないのだろうか、とやきもきしたが、昼を過ぎた頃からその数は増えてきていた。僕は校舎から校門から続く道路に見かけられる皆の顔を見て、智史達に「おい、結構来だしたぞ」と喜ぶように伝えると、彼らも手を叩き、そろそろ体育館に移動しようと立ち上がった。
「麻奈、皆と一緒に行っててくれよ。俺皆にラジオの事教えてくるからさ」
「うん、分かった。一人でいいの?」
「いい、いい。聞いてみようと思う奴らだけ来てくれればいいって智史も思ってるだろうしそんな大げさにする訳でもないからさ」
と僕は既に用意していた拡声器を得意げに回して見せると「康弘君、それ気に入って使いたいだけじゃないの?」と悪戯っぽく笑い「じゃあまた後でね」と出て行く全員を教室から見送り、僕は彼らとは反対方向へと歩き、運動場へと移動した。
運動場では、久しぶりに顔を見て懐かしさを覚えたらしい何人かが、お互いの近況を話し合ったりしてそれなりに人の姿を見かけられた。その中に僕達のクラスメイトもおり、彼彼女らは校舎から出てきた僕を見ると「久しぶり」と声をかけてきた。
「おう、お前ら元気してた?」
「まあまあってところ。康弘もメール見て来た?」
「いや、あれ送ったの、俺だから」
そう言うと「そうなんだ」と若干驚いたようだった。僕は他の奴らにメールしてくれたかを聞くと、何人かに送ってみたけど、もう届いてる奴もいて、俺もまた他の奴から送られてきてメチャクチャだったぞ、と笑った。
「行こうかどうしようか迷ったんだけどさ。もうこのまま家でゆっくりしてようかなって。けどやっぱ、このまま学校の皆の顔見ないのも寂しいかなって思ってさ」
「そっか、ありがとな」
「いや、いいきっかけになったと思うよ、あのメール。ところで、そのスピーカーどしたの?」
「あぁ、これ? いや、三時からさぁ、体育館で智史達がラジオするんだよ。それをちょっと皆に伝えとこうと思ってさ。よかったらお前も来てくれよ」
「へぇ、そういや、家のラジオでもまた誰かやってたの聞いたわ。いいじゃん、面白そうだし行くよ」
「おう、頼むわ」
じゃあ、と彼と別れ僕は運動場の中央辺りで立ち止まると、何度か咳払いをして拡声器のスイッチをオンにした。前回と同様にマイクテストをしているとそれだけで周りの視線が僕のほうへと向けられる。少々気恥ずかしいものがあるが、あえて気にしないようにして、あまり力まないように自然な感じを心がける。
『こんちわーっす。今日の昼の三時から体育館でラジオ放送をやろうと思っていまーす。なんか演奏とかもやるらしいんで、もしよかったら皆見に来てくださーい。で、よかったらこれから来る人達にもそのラジオの事教えてあげてください。よろしくっす』
そう言い終えて僕はぺこりと頭を下げてその場からさっさと立ち去ろうとした。だが、思ったよりも皆興味があったのか、逃げるように足早に去ろうとする僕を誰かが呼び止めて、どんなラジオをするのか、と尋ねて僕が僕もよくは知らない、と曖昧な返事をしていると次から次へと質問が飛び交ってきた。
「いや、ラジオするの俺じゃないんで、分かんない。詳しい事とかはラジオ聞くまでのお楽しみって事で」
「ちょっと今から体育館行ってみようかな」
「誰がラジオするの? 浦澤君? じゃあ行ってみようかな。彼かっこいいから私好きなのよねー」
思った以上の反響で、もう僕を余所に盛り上がりだした皆から僕はなんとか抜け出す。
この様子なら聞きに来る人が誰もいない、と言う事はなさそうで、僕は安堵しながら時間までどう過ごそうかと思い、もう体育館にいるべきだろうかと思っていると、後ろからシャツの裾をくい、と引かれた。振り返るとそこには思わず必要以上に見下ろしてしまいそうになる紅と蒼の双子が並んでいた。
「あぁ、お前らも来てくれたんだ」
「はい。ねぇねぇ、康弘。久美ちゃん来てるか知らないですか?」
「小笠原? いや、多分来てないんじゃないかな」
「そうですか」
紅がしょんぼりと肩を落とす。隣では蒼がそんな彼女を励ますように頭を撫でていた。
僕はあの日のやり取りの事など努めて忘れてしまったかのように彼女に答える。
「気になる?」
「うん、ちょっと最近は学校に来るのが怖かったんですけど……。話では小笠原さんは来てるって聞いてたから今日会えるかなって思って」
「あーそだよな、ちょっとバカな奴ばっか残っちゃってたからなぁ」
「康弘自分もいたんでしょ?」
蒼にそう突っ込まれ、僕は「やかましい」と彼女の頭をぐりぐりと両手で挟み込む。彼女は大きな悲鳴を上げながら許しを求めてきた。
「まぁ、紅がそうやって心配するのもしょうがないと思うけどな」
紅は溜め息を吐いた。
「久美ちゃん来ると思いますか?」
その質問に「来ないだろう」と言う以上の返答を僕は見つける事が出来なかった。僕は彼女にあのメールが届いただろうかどうかと思考する。僕の携帯にも当然諏訪先輩と仙道のものにも入っていない彼女のアドレスへと、メールを送ってくれた人はいるのだろうか。
「……そうだなぁ」
そう、その質問にはそうとしか言えない。なので僕はその質問には答えない事にした。腕時計を見て時間を確認する。まだ三時までは幾らか余裕があった。
「紅と蒼が彼女に会いたいんだったら、会いに行けばいいんじゃないかな?」
小笠原の住んでいるマンションは、住んでいる人がそのまま部屋を放置してしまったのか幾つかのドアは中途半端に開け放たれたままになっていたが、廊下自体は今も残っている人たちの手によって掃除がちゃんと行われているらしく、薄汚れたようなイメージはなかった。僕達三人は彼女と両親が住んでいるはずの三階まで上がり、小笠原と書かれている表札を見つけるとインターホンを押した。
しばらく反応がなく、僕がもう一度押してみようかと迷った頃、静かに扉が小さく開かれ、僕はその僅かな隙間の向こう側にいる女性と目が合うと「こんにちは」と挨拶する。彼女が小笠原の母親だろうと言う事はすぐに見当がついた。彼女によく似た――と言うよりも彼女が似ていると言うべきか――白い肌に、黒い濡れたような髪が印象的だった。
「あの、どなた?」
「中央高校の生徒です。柳って言います。久美さんに会いに来たんですけど」
紅と蒼も頭を下げ自己紹介をすると、母親は僕達が尋ねてきた事に目を丸くした。小笠原のもとに誰かが尋ねてくると言う事そのものに驚いているようですらあった。
「久美さん、いますか?」
「あ、今ここにはいないんです」
「え? 出かけてるんですか?」
「いえ、そうじゃなくてね」
彼女は、言いにくい事を抱えている事が分かる戸惑った様子で、しばらく口をつぐんだが、今更隠してもしょうがないと思ったようだった。そこで玄関から出てきて、廊下の先を僕達に指し示した。
「そこの、三つ向こうの部屋があるんだけど、今はそこにいるわ」
「三つ向こうの部屋ですか?」
「そう、元々は若い女子大生の子が県外からやってきていて住んでいたんだけど、出て行っちゃってから、久美がたまに使ってるの。鍵もらったみたいで」
「へぇ、じゃあ、ちょっと行ってみます」
頭を下げようとしたところで、彼女に「友達?」と尋ねられ、僕は返答に詰まった。きっと小笠原が同じ質問をされても首を縦に振ってくれないような気はした。だがそうやって悩んでいると紅と蒼が即座に「はい、そうです!」と元気よく答えていた。
「そう、私あの子から友達の事なんて聞いた事がなかったから」
彼女は隠そうとしても隠し切れずに溢れ出る倦怠感のような空気を滲ませながら溜め息を吐いた。実の母親である彼女も、小笠原との分厚い壁のような境界線をやはり感じていたのだろうか。
「最近は私もあの子と話してないんだけど、よかったらゆっくりしていってあげて」
「分かりました」
今度こそ、僕はお辞儀をし、彼女に背を向けた。歩き出したところで玄関が閉じるバタン、と言う音が聞こえる。小笠原と両親は今までどのような暮らしを送ってきていたのだろうか。ダイニングで一緒に食事を共にする事もきっとあっただろう、リビングでは一緒にテレビを見たりする事はどうだろうか、きっとあったであろう彼女の個室で彼女は一人でなにを思い、そしてその個室を抜け出して更に離れた部屋を三つも挟んだ今の部屋に移り、更に距離を置いてしまった小笠原は、今なにを思っているのだろうか。
疲れきった顔で玄関を開けた母親は、もしかするとそれまで泣いていたのかもしれなかった。
玄関の前に立ち、僕はインターホンを押す。ピンポーン、と音が鳴るが返事はなかった。もう一度押してみるがやはり返事はない。まさかどこかに出かけているのだろうか、と思いつつ、玄関へと耳を寄せてみると、中から音楽が鳴っているのが微かに聞き取れた。僕はその曲がなんなのかは分からなかったが、ピアノだけで演奏されているその曲は静かで穏やかな気分にさせられる。
「いる……みたい」
心配そうな双子にそう声をかけながらもう一度インターホンを押すがやはり反応がない。
どうしようかと僕は立ち尽くした。すると紅が僕の隣に並んできて「久美ちゃん! 紅だけどよかったら開けて!」と声を出した。
「蒼もいるよー! ちょっとお話しようよ!」
それでも返ってくるのはピアノの音だけで、僕はやはり無理だろうかと諦めそうになる。
だけど双子の姉妹はそれでも諦めずに、硬い玄関の向こうにいる彼女へと呼びかけ続けた。
どれくらい、そうしていただろうか。僕がもう一度インターホンを押そうか、どうか考えていた頃、向こう側で、鍵が開けられる音が聞こえた。
「…………」
無言のまま、小笠原が玄関を開けその顔を見せた。
彼女は、紅と蒼だけではなく僕がいる事に若干不思議そうな表情を浮かべ「なにか用?」と注意しなければピアノの音にかき消されてしまいそうな声量でそう言った。
「あぁ、よかったー、久美ちゃんいて!」
「最近なにしてるのかなって思って来ちゃったです!」
返事を返したのは僕ではなく、小笠原はその台詞にどう言い返そうかさんざん迷った後「よかったら入る?」と言った。
「どうして来たの?」
マンションは女子大生が一人で住むにはやたら広いと思える間取りだった。リビングに通されて双子がそこに腰を下ろしたところでお茶を入れるから柳君手伝って、と言われ僕は素直に彼女に従うとキッチンへとついていった。二人には声が届かないそこで、彼女はそう言った。
「迷惑だった?」
「私は一人になりたいって、あの時言ったでしょう?」
「それは分かってるよ」
夏だと言うのに彼女はポットに水を入れるとコンロに置き火をつけた。弱火にしているらしく、四人分の量は大したことないがそれでも少し時間がかかりそうだった。僕は上の棚から紅茶のパックを取り出そうとして背伸びをしている彼女の隣に立ち替わりに取ってやると彼女は視線をこちらには向けないまま「ありがとう」とだけ言う。
「あなたにはお礼を言う事が多いわね」
「いや、そんなに多くないと思うぞ、ホント」
「そうかしら」
「つか、料理は出来ないけど紅茶を淹れるのは出来るんだな」
「バカにしてるの?」
「いや、単なる感想」
ポットにパックを入れるだけじゃない、と呆れたように言われる。
「それに、話を逸らさないでよ」
「いや、逸らしてないよ。どうして来たのかってだろ? それは俺に聞かれても困る」
「どういう事?」
「ここに来る事を決めたのは俺じゃなくてあっちの双子。話があるのも双子。俺はついてきただけだから」
僕は戸棚から適当にカップを四つ取り出すと、あまり使われていないようで埃が溜まっていたそれを洗っておく事にした。隣ではきょとんとした顔をして小笠原が僕を見ている。
「それ、なんの違いがあるの?」
「お前が一人になりたいって事を、あの双子は知らないから、お前の理由も理由にはならないって事」
「あなたが止めてくれればよかったでしょう?」
「それは無理だよ」
「どうして?」
「止められないものもこの世にはある。お前だってそうだろ? お前が一人でいる事を俺は止められなかった。それと一緒でここにあいつらが来る事を俺は止められないよ。こうやって一緒に来たのは、あくまで付き添いみたいなものだから」
「そういう発想って、意味があるのかしら?」
「さぁ」
僕は正直に答える。
「そういう事を言うなら発想に意味なんて求める事に意味はあるのかって話だ。意味を求めるべきなのはその発想からの行動にじゃないといけない。こう思うんですけど、だけで全てを判断する事なんて出来ないだろ? ちゃんとやる事やってから決めないとな」
そうじゃないと、僕達が僕達でバラバラでいる理由がないだろう?
そう、僕はお前に届けることが出来なかった。
お前は、お前が思うお前が望む形を見つけた。
けど、それは僕と君との間だけの話だ。あの双子の姉妹、紅と蒼は、まだ君に届けたいものが残っている。届けようとする行為を続けようとしている。
「別にお前が拒否をするならそれはそれで自由に選べばいいさ。でも、あの二人がお前のためにこうやって会いに来るのもあいつらの自由だろ?」
「それはずるい言い方だわ」
「いや、マジであいつらも、無理なら無理で諦めるさ。納得もすると思うよ。ちゃんと話せばさ」
「私が一人になりたい事?」
「それもあるし」
お湯が沸いたようだった。僕は彼女が用意したお盆に食器を並べる。
「贈り物を送って、いつでも喜べよとは言えない」
「贈り物?」
「そうそう。きっと皆、色んな奴らに色んな贈り物を持ってんだよ。それを渡さずにいつまでも自分で持ってる事って我慢出来ないんだよ。賞味期限が過ぎる前に相手に渡さずにはいられないんだ」
でもまぁ、逆に言えばそうやって幾らでもあんだから取捨選択する権利があるのも当然だろ、と僕は彼女が汲んでくれた紅茶のカップを取るとその場で口につけた。随分熱いそれに僕は顔をしかめ、下を出す。
「あつ!」
「当たり前でしょう?」
「まぁ、でもいい味だと思うわ。じゃあ、俺帰るから」
「そうなの?」
「おう。双子には三人で話せって言ってあるから。それに俺色々忙しいんだよ。もうすぐ学校でラジオとかやらないといけないしな。ま、ぶっちゃけ俺はいてもいなくてもどうでもいいんだけどな」
「じゃあ、あなたはじめから来なくてもいいじゃない。なにしに来たの?」
「来てくれって頼まれたからさ」
「それだけで来たの?」
そうだよ、と答えると彼女は僕に心底不思議そうな眼差しを向け、それを受けた僕は出来る限り爽やかな苦笑を返した。
「いや、人生にはさ、脇役が必要な時もあるんだよ。今俺がそれな訳」
「あなたが脇役?」
「そう、今この場においては、俺は脇役で、でもやっぱちょっとは必要だったんだとは思ってる」
しばらく反応がなく、僕がもう一度押してみようかと迷った頃、静かに扉が小さく開かれ、僕はその僅かな隙間の向こう側にいる女性と目が合うと「こんにちは」と挨拶する。彼女が小笠原の母親だろうと言う事はすぐに見当がついた。彼女によく似た――と言うよりも彼女が似ていると言うべきか――白い肌に、黒い濡れたような髪が印象的だった。
「あの、どなた?」
「中央高校の生徒です。柳って言います。久美さんに会いに来たんですけど」
紅と蒼も頭を下げ自己紹介をすると、母親は僕達が尋ねてきた事に目を丸くした。小笠原のもとに誰かが尋ねてくると言う事そのものに驚いているようですらあった。
「久美さん、いますか?」
「あ、今ここにはいないんです」
「え? 出かけてるんですか?」
「いえ、そうじゃなくてね」
彼女は、言いにくい事を抱えている事が分かる戸惑った様子で、しばらく口をつぐんだが、今更隠してもしょうがないと思ったようだった。そこで玄関から出てきて、廊下の先を僕達に指し示した。
「そこの、三つ向こうの部屋があるんだけど、今はそこにいるわ」
「三つ向こうの部屋ですか?」
「そう、元々は若い女子大生の子が県外からやってきていて住んでいたんだけど、出て行っちゃってから、久美がたまに使ってるの。鍵もらったみたいで」
「へぇ、じゃあ、ちょっと行ってみます」
頭を下げようとしたところで、彼女に「友達?」と尋ねられ、僕は返答に詰まった。きっと小笠原が同じ質問をされても首を縦に振ってくれないような気はした。だがそうやって悩んでいると紅と蒼が即座に「はい、そうです!」と元気よく答えていた。
「そう、私あの子から友達の事なんて聞いた事がなかったから」
彼女は隠そうとしても隠し切れずに溢れ出る倦怠感のような空気を滲ませながら溜め息を吐いた。実の母親である彼女も、小笠原との分厚い壁のような境界線をやはり感じていたのだろうか。
「最近は私もあの子と話してないんだけど、よかったらゆっくりしていってあげて」
「分かりました」
今度こそ、僕はお辞儀をし、彼女に背を向けた。歩き出したところで玄関が閉じるバタン、と言う音が聞こえる。小笠原と両親は今までどのような暮らしを送ってきていたのだろうか。ダイニングで一緒に食事を共にする事もきっとあっただろう、リビングでは一緒にテレビを見たりする事はどうだろうか、きっとあったであろう彼女の個室で彼女は一人でなにを思い、そしてその個室を抜け出して更に離れた部屋を三つも挟んだ今の部屋に移り、更に距離を置いてしまった小笠原は、今なにを思っているのだろうか。
疲れきった顔で玄関を開けた母親は、もしかするとそれまで泣いていたのかもしれなかった。
玄関の前に立ち、僕はインターホンを押す。ピンポーン、と音が鳴るが返事はなかった。もう一度押してみるがやはり返事はない。まさかどこかに出かけているのだろうか、と思いつつ、玄関へと耳を寄せてみると、中から音楽が鳴っているのが微かに聞き取れた。僕はその曲がなんなのかは分からなかったが、ピアノだけで演奏されているその曲は静かで穏やかな気分にさせられる。
「いる……みたい」
心配そうな双子にそう声をかけながらもう一度インターホンを押すがやはり反応がない。
どうしようかと僕は立ち尽くした。すると紅が僕の隣に並んできて「久美ちゃん! 紅だけどよかったら開けて!」と声を出した。
「蒼もいるよー! ちょっとお話しようよ!」
それでも返ってくるのはピアノの音だけで、僕はやはり無理だろうかと諦めそうになる。
だけど双子の姉妹はそれでも諦めずに、硬い玄関の向こうにいる彼女へと呼びかけ続けた。
どれくらい、そうしていただろうか。僕がもう一度インターホンを押そうか、どうか考えていた頃、向こう側で、鍵が開けられる音が聞こえた。
「…………」
無言のまま、小笠原が玄関を開けその顔を見せた。
彼女は、紅と蒼だけではなく僕がいる事に若干不思議そうな表情を浮かべ「なにか用?」と注意しなければピアノの音にかき消されてしまいそうな声量でそう言った。
「あぁ、よかったー、久美ちゃんいて!」
「最近なにしてるのかなって思って来ちゃったです!」
返事を返したのは僕ではなく、小笠原はその台詞にどう言い返そうかさんざん迷った後「よかったら入る?」と言った。
「どうして来たの?」
マンションは女子大生が一人で住むにはやたら広いと思える間取りだった。リビングに通されて双子がそこに腰を下ろしたところでお茶を入れるから柳君手伝って、と言われ僕は素直に彼女に従うとキッチンへとついていった。二人には声が届かないそこで、彼女はそう言った。
「迷惑だった?」
「私は一人になりたいって、あの時言ったでしょう?」
「それは分かってるよ」
夏だと言うのに彼女はポットに水を入れるとコンロに置き火をつけた。弱火にしているらしく、四人分の量は大したことないがそれでも少し時間がかかりそうだった。僕は上の棚から紅茶のパックを取り出そうとして背伸びをしている彼女の隣に立ち替わりに取ってやると彼女は視線をこちらには向けないまま「ありがとう」とだけ言う。
「あなたにはお礼を言う事が多いわね」
「いや、そんなに多くないと思うぞ、ホント」
「そうかしら」
「つか、料理は出来ないけど紅茶を淹れるのは出来るんだな」
「バカにしてるの?」
「いや、単なる感想」
ポットにパックを入れるだけじゃない、と呆れたように言われる。
「それに、話を逸らさないでよ」
「いや、逸らしてないよ。どうして来たのかってだろ? それは俺に聞かれても困る」
「どういう事?」
「ここに来る事を決めたのは俺じゃなくてあっちの双子。話があるのも双子。俺はついてきただけだから」
僕は戸棚から適当にカップを四つ取り出すと、あまり使われていないようで埃が溜まっていたそれを洗っておく事にした。隣ではきょとんとした顔をして小笠原が僕を見ている。
「それ、なんの違いがあるの?」
「お前が一人になりたいって事を、あの双子は知らないから、お前の理由も理由にはならないって事」
「あなたが止めてくれればよかったでしょう?」
「それは無理だよ」
「どうして?」
「止められないものもこの世にはある。お前だってそうだろ? お前が一人でいる事を俺は止められなかった。それと一緒でここにあいつらが来る事を俺は止められないよ。こうやって一緒に来たのは、あくまで付き添いみたいなものだから」
「そういう発想って、意味があるのかしら?」
「さぁ」
僕は正直に答える。
「そういう事を言うなら発想に意味なんて求める事に意味はあるのかって話だ。意味を求めるべきなのはその発想からの行動にじゃないといけない。こう思うんですけど、だけで全てを判断する事なんて出来ないだろ? ちゃんとやる事やってから決めないとな」
そうじゃないと、僕達が僕達でバラバラでいる理由がないだろう?
そう、僕はお前に届けることが出来なかった。
お前は、お前が思うお前が望む形を見つけた。
けど、それは僕と君との間だけの話だ。あの双子の姉妹、紅と蒼は、まだ君に届けたいものが残っている。届けようとする行為を続けようとしている。
「別にお前が拒否をするならそれはそれで自由に選べばいいさ。でも、あの二人がお前のためにこうやって会いに来るのもあいつらの自由だろ?」
「それはずるい言い方だわ」
「いや、マジであいつらも、無理なら無理で諦めるさ。納得もすると思うよ。ちゃんと話せばさ」
「私が一人になりたい事?」
「それもあるし」
お湯が沸いたようだった。僕は彼女が用意したお盆に食器を並べる。
「贈り物を送って、いつでも喜べよとは言えない」
「贈り物?」
「そうそう。きっと皆、色んな奴らに色んな贈り物を持ってんだよ。それを渡さずにいつまでも自分で持ってる事って我慢出来ないんだよ。賞味期限が過ぎる前に相手に渡さずにはいられないんだ」
でもまぁ、逆に言えばそうやって幾らでもあんだから取捨選択する権利があるのも当然だろ、と僕は彼女が汲んでくれた紅茶のカップを取るとその場で口につけた。随分熱いそれに僕は顔をしかめ、下を出す。
「あつ!」
「当たり前でしょう?」
「まぁ、でもいい味だと思うわ。じゃあ、俺帰るから」
「そうなの?」
「おう。双子には三人で話せって言ってあるから。それに俺色々忙しいんだよ。もうすぐ学校でラジオとかやらないといけないしな。ま、ぶっちゃけ俺はいてもいなくてもどうでもいいんだけどな」
「じゃあ、あなたはじめから来なくてもいいじゃない。なにしに来たの?」
「来てくれって頼まれたからさ」
「それだけで来たの?」
そうだよ、と答えると彼女は僕に心底不思議そうな眼差しを向け、それを受けた僕は出来る限り爽やかな苦笑を返した。
「いや、人生にはさ、脇役が必要な時もあるんだよ。今俺がそれな訳」
「あなたが脇役?」
「そう、今この場においては、俺は脇役で、でもやっぱちょっとは必要だったんだとは思ってる」
僕は三時を少し過ぎてしまいそうになりそうだと、僕は学校までの道程を走りながら考えた。
「もう始まってる?」
『やってるよ。康弘君、いまどのあたり?』
「えーっともうちょっとで着くとは思うけど、まさかもう演奏してるとか?」
『それはまだだけど』
「そっか。じゃあ急いで戻るから。人集まってる?」
『すごいよ。体育館人でいっぱい』
跳ねるような麻奈の声。
僕はそれを聞いて、電話をしまうと再び全力で走る。そして辿り着く頃には息が上がってしまい、口の中に溜まった唾を吐き出すと、水道の水を浴びるように飲んでは喉に詰まらせて咽返った。
体育館には麻奈が言ったとおり生徒で溢れかえっていた。僕はなんとかそこに入ろうとするのだが混雑しているため中々前に進む事が出来なかった。
「どこ行ってたのさ」
ようやく群集から抜けだし、ラジオ放送のための機械が置いてある二階への階段を上ると青柳が非難がましく口を尖らせた。二階と言っても大した広さはなく、人の幅二人分程度の通路がぐるりと一階を囲んでいるだけなので、僕達以外には上に上がってきている者はいなかった。
「悪い、悪い。で、ラジオはどう? 順調?」
「今のところ上手くいってるよ」
と彼は、携帯型の小型ラジオを僕に差し出した。そこからは確かに今階下で体育館の端に作られたステージにいる四人の声が聞こえてきていた。
「すげぇじゃん、やるなぁ、青柳」
「いや、それほどでも」
褒められると彼は素直に照れて頭をかいた。
僕は手摺から身を乗り出して、ステージにいる智史達を見下ろす。
「いや、でもラジオ初めてやるって事で、なに話そうとか考えてたんだけどいざ本番となると緊張するね」
「今更なに言ってんだよ。頼むよ、これから演奏もあるのに」
その嘆くような晶の台詞に皆が軽く笑う。
僕もなんだかその姿がおかしくて一人でつい笑ってしまった。
マイクを握ってパイプ椅子に腰掛けながら談笑するように話している四人の姿は、いつもと同じようで、だけどやっぱりなんか違うような気がして、僕も一人の観客として彼らの話に耳を傾ける。
「元々はね、僕ら四人と、あとはちょっと手伝ってくれる人達だけでひっそりやろうと思ってたのにね、こうやってみんなの前でやるような事にいきなりなっちゃって驚いたよね。晶君なんか、もうギター失敗したらどうしようしか言わなくなるんだもん」
「ちょっと! 原田、バラすなよ!」
「いいじゃん。そういう頑張ってる姿って印象いいと思うよ」
「あいつら好き勝手言ってんなぁ」
なんとなく原田と浦沢もいつもより軽妙な喋りだった。やはり智史と晶と違って人前に立つことに慣れているのだろうか。智史が何度か噛んだりしながら話し、二人はそれをフォローするように相槌を打っては思わず笑ってしまうようなボケを挟んだりもしていた。
「まあ、でもこうやって無事にラジオを送れる事になってちょっと俺安心しました。ここまで来るまで本当に大変だったよね。はじめは俺と晶と、あと康弘って俺の友達、いや、親友がいるんだけど、その三人で始めようってなって、ほとんど手探りでさ、歌を歌おうってなって浦沢と原田が手伝ってくれる事になって、晶なんて楽器出来ないから必死で今まで練習したし、その間、真尋と麻奈、その二人にも凄い助けられたし、今こうやってラジオを流せてるのは青柳って子が全部やってくれたりしてさ。えーっと、だからなんて言うか、本当この四人だけじゃなくて本当皆のおかげでそうやって頑張ってきたからこそ、今こうやってラジオ出来てるんだと思います。もし、そうじゃなかったらさ、こうやってライフラインが復帰しててもやらずじまいで終わってたかもしれないって思う。あぁ、だからこうやってライフラインを復活させてくれた人達にも本当感謝しないといけないよね。そういう想いみたいなのが凄く濃縮されてたから、またこうやって俺達集まれたんじゃないかな」
彼は少し照れたように頭をかきながらそう言った。
「青柳、お前の事言ってるぞ」
「うわぁ、これで俺も全国区だなぁ」
「なに言ってんだよ。じゃあ、俺も全国区か?」
そうやってふざけあっていると、浦沢が「じゃあちょっと青柳と柳君にも一言貰おうかな」と言い出した。
「は!? なに言ってんだ!?」
唐突の事に、僕は乗り出した姿勢のまま、ステージへと叫び返した。晶がそんな僕を見て「今康弘が凄い喋りたがってる」と適当な事を言い出し、体育館中の視線が僕達に注がれ、騒がしくなった。
「いやいや、そんな無理無理。なぁ、青柳」
と僕は振り返ったが、彼は既に用意されていたらしいマイクを握り締めていた。座っていた椅子から立ち上がると「あ、こんにちは、青柳です」と満面の笑顔を浮かべている。
「……喋る気満々じゃねーか」
「今日はですね、本当に裏方ですけどどんな形でもこのラジオに参加させてもらえて光栄です! 僕は無線とかが元々大好きでこうやってラジオ放送なんか出来て嬉しく思っています! 聞いてくれている皆さん、ありがとう!」
「いやいや、青柳、喋りすぎだから」
「あ、ごめん、浦澤君」
どっと体育館に笑いが起こり、彼はあははと笑うとなんの躊躇いもなく、僕にもマイクを渡した。
僕はそのいきなり渡されたマイクに「マジかよ、おい」と零すが、既に全員が僕の言葉を待っているようだった。
「ちょっと、智史。麻奈と真尋にも喋らせてやれよ」
「なに言ってんだよ。康弘がいない間にとっくに喋ってくれたよ、二人とも」
「マジかよ!?」
僕はそんな自分の声が、すぐ傍にあるラジオから既に聞こえているのが既にこっぱずかしかった。よく普段聞いている自分の声と録音した声は違うと言うが、確かに今こうやってスピーカーを通して聞こえる自分の声は、今喋っているのに、自分のものではないような気がした。
「しょうがねーなあ」
僕は諦めて、改めてマイクを握りなおす。
「あ、あー、こんちわっす。康弘です。今日はね、本当こんなバカな俺達のラジオを聞いてくれてありがとうございます。あのー、身内の俺が言うのもなんなんですけど、結構がんばってるんで、聞いてやってください」
「それだけかよー、つまんねーぞー、康弘ー」
誰かが僕に向かってそう叫び、僕はマイクを握ったまま「うるせぇ! いきなり喋れるか!」と叫び返した。
原田がリスナーに「今ねぇ、周りから話がつまんねーぞ、って野次が飛んでる」と説明をしている。
僕は、顔を赤くしたままマイクの電源を切り、智史達に向かって両腕で大きく終了を知らせる×印を作って見せながら手摺から離れ奥に引っ込んだ。
「はい、以上青柳と康弘でした」
体育館からなぜか拍手が起こる。
僕ははぁ、と溜め息を吐いて、慣れない事をするならせめて心の準備がほしいものだと愚痴った。
「青柳、絶対知ってたろ」
「うん、柳君には内緒にしとこうって皆で決めてたんだけどね」
「なんだよ、それは!?」
僕は再び叫んだ。
いいんだよ、俺は。裏方で。
そんな事を思いながらもラジオは順調に進んでいた。
一時間ほど喋ると皆慣れてきたのか、最近なにしてたか、なんて世間話も交えるようになり、僕は再び手摺に身を乗り出しながら、ポケットにしまってあった携帯電話を取り出した。メモリダイヤルの中にある一つの番号を呼び出しかける。
コール音が鳴ったと思うと、すぐに相手に繋がった。
『はーい、もしもし、康弘?』
「ういーっす、元気?」
『うん、元気元気、久しぶり』
その言葉どおり久しぶりに聞く彼女の声は、しかし以前と代わり映えしない明るいものだった。
「今、なにやってんの? 里美」
『今? 今はねぇ、たっくんと沖縄にいるの。海綺麗だよ、海』
彼女――里美は、そう言うと一度『ちょっと待って』と言うとどうやら近くにいるらしいたっくんに僕からの電話だと言う事を伝えているようだった。
「電話して大丈夫だった?」
『康弘相手にたっくんも嫉妬しないでしょ、だいじょぶだよ。で、どうかしたの?』
「あぁ、それなんだけどさぁ、今近くにラジオあるかな」
『ラジオ? あ、あるよ。なに? ラジオがどうかした?』
僕はその声を聞きながら、視線は智史へと向けた。
なぁ、智史。これでお前はよかったんだよな? 里美のために始めようとしたラジオ。けど今は、もうそれだけのためじゃないんだよな。なにを見つける事が出来た? なにか生み出す事が出来た? このラジオが終わった時、お前は満足出来るだろうか? 後悔を覚えるだろうか? でも、そんなのは大した問題じゃないよな? お前の傍には皆がいるもんな。そして、胸の中にあったでかい傷を乗り越える事が出来た、お前がいるんだよな。
「今、智史がさぁ、晶とかと一緒にラジオしてんだよ。学校で皆でさ、よかったらお前にも聞かせてやりたくてさ」
『智史君? 智史君が今ラジオやってるの? それ、すごいね! どこのチャンネル?』
「95-603」
ごそごそと音が聞こえ、どうやらラジオをつけようとしているようだった。しばらくして『うわ、本当智史君の声だ、懐かしー』と声がする。
『あれ? けど康弘はラジオ参加してないの?』
「してねーよ」
『なんで?』
「なんでって、俺が喋る必要ないだろ」
『えーだって、智史君と康弘はセットでしょ?』
「バカ言うなよ。んな訳ねーだろ? それにさぁ、主役は二人もいらねぇだろ」
『主役?』
「そう、主役」
このラジオにまつわる物語の主役。
「智史がこの物語の主役なんだから、俺は別にいてもいなくてもどっちでもいいんだよ」
そう、この物語の主役は僕じゃない。
僕はその事を知ったんだ。間もなく終わる世界の中で。
僕も、皆も、同じこの世界に存在するバラバラの、名前を持つ語り手。
今世界に溢れる数ある物語のその中の一つ。その中で今僕は智史と言う主役を見つめている何人かの語り手の中の、単なる一人。
彼女は、納得したのかしないのか適当な返事を返し、しきりにラジオを聞いては歓声を上げていた。
『なんかラジオで友達の声聞くって変な感じだね』
「まぁ、そだな。たっくんは元気?」
『うん、今はずっと一緒にいるからね』
彼女はあっけらかんとそう言い、僕は「そっか」と笑い返す事しか出来なかった。
「じゃあ、二人でラジオ聞いてくれよな」
『うん、あ、康弘』
「あん?」
『ありがとうね、教えてくれて』
「いや、気にすんなよ」
なぁ、智史。ありがとうだって。残念ながらお前はやっぱ友達みたいだけど、まぁ、いいじゃん、ラジオ聞いてくれるみたいだしさ。
もし里美にラジオの事教えた事がばれたら、お前は僕に怒るだろうか? 脇役である僕のアクションはお前の物語にどんな色を今添えたのだろうか。
でもさ、やっぱ、ちょっとくらい聞いてもらいたいだろ、沖縄だかなんだか知らないけど、こうやって例えバラバラでも同じ世界に存在している彼女にも、お前の、話。
だって、愛と言う贈り物を欠片として相手に届けずにいる事など不可能なんだから。
『そっちも皆元気そうだね』
「あぁ、元気だよ」
色々あったけど、僕達は今、元気だよ。
「皆、多分こういう事考えた事があると思うんだけどさ。もし自分がもうすぐ死ぬとなったらなにをしたいか、って言う事」
そこで一旦話を区切り、智史はペットボトルの水を口に含んだ。
「正直、俺はなにも思い浮かばなかったよ。全くないって事じゃないよ。こうやってラジオをしようとか、皆と会って遊んだり色々な事したいって思った。でも逆に言ったらそれだけで、それって死ななくても出来るような事ばかりなんだよね。例え話の時はそれこそ、色んな事を思いついた気がするよ。どうでもいい事からご大層な事まで、今こうやってみんなの前で言うには恥ずかしすぎるような事も。でも本当に死ぬんだってなった時、どうだろうか、そんな数々の妄想じみた発想は何一つとして浮かんでこなかった。皆はどうだろう? なにか特別なものを見つけたりしただろうか。今、僕達は学校にいて、一時期は皆で過ごしたりもしたけどそうしている間にも色々な事があったよ、いい事も、悪い事もね。俺には到底理解出来ない事も数え切れないくらいあった。もしかしたら本人も理解出来ていないし、苦しんでいたのかもしれない。けど、それでもさ、俺達は続けるしかないんだよね。そういう事。理解出来なくても、苦しくても、例え残り少なくても、未来のために俺達は今のまま立ち止まってる訳にはいかないって、皆そう思ってたと思うんだ。悔いなく死ぬ事って言うのは、よりよい未来のために生きる事と同義なんだよ。本当はそういう事は死ぬから気付く事ではなくて、あと百年生きたって、一年後の未来のために今歯を食いしばるって言う事と変わらない筈なんだよね、でもやっぱりふとそういう事を忘れてしまって、俺達はいつも曖昧に生きる事を選んでしまっては、誰かの視線に怯えて歩む事を恐れたり、言い訳を繰り返して、なにもしなかった自分を一人で許しては、届かなかったあの未来の事を本心とは裏腹に大したものではなかった、なんて嘯いて、目を逸らして、訪れてしまう望まない未来の中で後悔をしてたんだ。俺も、その内の一人だったよ。うん、今ね、もうどうしようもない後悔が俺の中にあるんだ。それはずっと前からずっと胸の中でわだかまっていて、俺はいつも本当にこれでいいんだろうか、っていつも自分に言っていたはずなのに、どこかで、これでいいんだよ、って自分を押さえ込んでしまっていた。その結果が今の俺なんだよね。そういう事、誰だってあるんだろうし、無理な事ってこの世の中にはやっぱりあるんだろうって思う。うん、残念だけど。悲しみも苦しみも、いつもいつも上手く避けてばかりはいられない。誰か、じゃなくて、皆。俺が今まで生きて触れ合った人達、皆。色んなものを背負っては泣いたりするような事があった。でもさ、きっとあるんだよ、この世界にはちゃんと。苦しみと同等の喜びがさ。俺は、それを見つけたと思うんだ。なにも思い浮かばない今のままでさ。過去に背負った傷は消えないかもしれないけれど、その傷の痛みを忘れてしまう事が出来る喜びを。それは今こうやってここにいるだけでも感じる事は出来る。きっとこのラジオが終わって、俺達が解散してしまってもきっと忘れる事はないし、当然消えてしまう事なんて絶対ないものなんだ。だから、俺は明日も明後日も最後の日まで、生きられる。苦しみと喜びを一緒に抱えて、それでも笑って生きていく事が出来る。そしてそれに気付いて、そして俺が手に入れられる事が出来たのは、俺じゃなく、今ここにいる俺の友達のおかげだよ。皆がいるから、生きられるし、それ以外もうなにもいらないって思うんだ。なにも思い浮かばなかったんじゃなくて、本当に欲しいものはもう俺は殆ど手に入れていたんだよ。ただ、その忘れていた事を、思い出せたんだ。宝物は、ここにある。そして、俺の宝物が誰かの宝物へとなれる事がある。だから皆も、自分の中のその宝物を、まだ渡せていない相手がいるなら今からちゃんと届けてほしいんだ。その、どんなものよりも価値がある君からのプレゼントを」
体育館が静まり返る。
僕は手摺から身を乗り出していたその姿勢のまま、ただ、無言で拍手をした。
それはゆっくりと伝染していき、体育館中に響き渡った。
彼らはそれを聞きながら、座っていた椅子から立ち上がると、自分達の楽器を手に取った。
再び静寂が広がる。
浦沢が確認するように腹に響くようなベースの音を唸らせた。
「じゃあ、そろそろ、ラジオも終わります。その前に僕達の歌を聞いてください。曲名は――」
まるで目に見えない衝撃がそこで飛散したかのような、音の爆発に負けないように僕達は声を張り上げた。
たった一曲しかないそれに乗り遅れる事がないように。
後で後悔したりするような事がないように。
そしてその中で、僕は体育館の入り口辺りで大幅に遅れてきたため、前に進む事が出来ず、諦めてその場でなんとか彼らを見ようと飛び跳ねている双子と、その二人のすぐ後ろで静かに佇んでいる少女を見かけた。
いいと、思うよ。
お前が望んだ幸せと、食い違ってしまったような日が一日くらいあっても。
お前が、今はそう望んだのなら。
プレゼントを、受け取ったのなら。
「もう始まってる?」
『やってるよ。康弘君、いまどのあたり?』
「えーっともうちょっとで着くとは思うけど、まさかもう演奏してるとか?」
『それはまだだけど』
「そっか。じゃあ急いで戻るから。人集まってる?」
『すごいよ。体育館人でいっぱい』
跳ねるような麻奈の声。
僕はそれを聞いて、電話をしまうと再び全力で走る。そして辿り着く頃には息が上がってしまい、口の中に溜まった唾を吐き出すと、水道の水を浴びるように飲んでは喉に詰まらせて咽返った。
体育館には麻奈が言ったとおり生徒で溢れかえっていた。僕はなんとかそこに入ろうとするのだが混雑しているため中々前に進む事が出来なかった。
「どこ行ってたのさ」
ようやく群集から抜けだし、ラジオ放送のための機械が置いてある二階への階段を上ると青柳が非難がましく口を尖らせた。二階と言っても大した広さはなく、人の幅二人分程度の通路がぐるりと一階を囲んでいるだけなので、僕達以外には上に上がってきている者はいなかった。
「悪い、悪い。で、ラジオはどう? 順調?」
「今のところ上手くいってるよ」
と彼は、携帯型の小型ラジオを僕に差し出した。そこからは確かに今階下で体育館の端に作られたステージにいる四人の声が聞こえてきていた。
「すげぇじゃん、やるなぁ、青柳」
「いや、それほどでも」
褒められると彼は素直に照れて頭をかいた。
僕は手摺から身を乗り出して、ステージにいる智史達を見下ろす。
「いや、でもラジオ初めてやるって事で、なに話そうとか考えてたんだけどいざ本番となると緊張するね」
「今更なに言ってんだよ。頼むよ、これから演奏もあるのに」
その嘆くような晶の台詞に皆が軽く笑う。
僕もなんだかその姿がおかしくて一人でつい笑ってしまった。
マイクを握ってパイプ椅子に腰掛けながら談笑するように話している四人の姿は、いつもと同じようで、だけどやっぱりなんか違うような気がして、僕も一人の観客として彼らの話に耳を傾ける。
「元々はね、僕ら四人と、あとはちょっと手伝ってくれる人達だけでひっそりやろうと思ってたのにね、こうやってみんなの前でやるような事にいきなりなっちゃって驚いたよね。晶君なんか、もうギター失敗したらどうしようしか言わなくなるんだもん」
「ちょっと! 原田、バラすなよ!」
「いいじゃん。そういう頑張ってる姿って印象いいと思うよ」
「あいつら好き勝手言ってんなぁ」
なんとなく原田と浦沢もいつもより軽妙な喋りだった。やはり智史と晶と違って人前に立つことに慣れているのだろうか。智史が何度か噛んだりしながら話し、二人はそれをフォローするように相槌を打っては思わず笑ってしまうようなボケを挟んだりもしていた。
「まあ、でもこうやって無事にラジオを送れる事になってちょっと俺安心しました。ここまで来るまで本当に大変だったよね。はじめは俺と晶と、あと康弘って俺の友達、いや、親友がいるんだけど、その三人で始めようってなって、ほとんど手探りでさ、歌を歌おうってなって浦沢と原田が手伝ってくれる事になって、晶なんて楽器出来ないから必死で今まで練習したし、その間、真尋と麻奈、その二人にも凄い助けられたし、今こうやってラジオを流せてるのは青柳って子が全部やってくれたりしてさ。えーっと、だからなんて言うか、本当この四人だけじゃなくて本当皆のおかげでそうやって頑張ってきたからこそ、今こうやってラジオ出来てるんだと思います。もし、そうじゃなかったらさ、こうやってライフラインが復帰しててもやらずじまいで終わってたかもしれないって思う。あぁ、だからこうやってライフラインを復活させてくれた人達にも本当感謝しないといけないよね。そういう想いみたいなのが凄く濃縮されてたから、またこうやって俺達集まれたんじゃないかな」
彼は少し照れたように頭をかきながらそう言った。
「青柳、お前の事言ってるぞ」
「うわぁ、これで俺も全国区だなぁ」
「なに言ってんだよ。じゃあ、俺も全国区か?」
そうやってふざけあっていると、浦沢が「じゃあちょっと青柳と柳君にも一言貰おうかな」と言い出した。
「は!? なに言ってんだ!?」
唐突の事に、僕は乗り出した姿勢のまま、ステージへと叫び返した。晶がそんな僕を見て「今康弘が凄い喋りたがってる」と適当な事を言い出し、体育館中の視線が僕達に注がれ、騒がしくなった。
「いやいや、そんな無理無理。なぁ、青柳」
と僕は振り返ったが、彼は既に用意されていたらしいマイクを握り締めていた。座っていた椅子から立ち上がると「あ、こんにちは、青柳です」と満面の笑顔を浮かべている。
「……喋る気満々じゃねーか」
「今日はですね、本当に裏方ですけどどんな形でもこのラジオに参加させてもらえて光栄です! 僕は無線とかが元々大好きでこうやってラジオ放送なんか出来て嬉しく思っています! 聞いてくれている皆さん、ありがとう!」
「いやいや、青柳、喋りすぎだから」
「あ、ごめん、浦澤君」
どっと体育館に笑いが起こり、彼はあははと笑うとなんの躊躇いもなく、僕にもマイクを渡した。
僕はそのいきなり渡されたマイクに「マジかよ、おい」と零すが、既に全員が僕の言葉を待っているようだった。
「ちょっと、智史。麻奈と真尋にも喋らせてやれよ」
「なに言ってんだよ。康弘がいない間にとっくに喋ってくれたよ、二人とも」
「マジかよ!?」
僕はそんな自分の声が、すぐ傍にあるラジオから既に聞こえているのが既にこっぱずかしかった。よく普段聞いている自分の声と録音した声は違うと言うが、確かに今こうやってスピーカーを通して聞こえる自分の声は、今喋っているのに、自分のものではないような気がした。
「しょうがねーなあ」
僕は諦めて、改めてマイクを握りなおす。
「あ、あー、こんちわっす。康弘です。今日はね、本当こんなバカな俺達のラジオを聞いてくれてありがとうございます。あのー、身内の俺が言うのもなんなんですけど、結構がんばってるんで、聞いてやってください」
「それだけかよー、つまんねーぞー、康弘ー」
誰かが僕に向かってそう叫び、僕はマイクを握ったまま「うるせぇ! いきなり喋れるか!」と叫び返した。
原田がリスナーに「今ねぇ、周りから話がつまんねーぞ、って野次が飛んでる」と説明をしている。
僕は、顔を赤くしたままマイクの電源を切り、智史達に向かって両腕で大きく終了を知らせる×印を作って見せながら手摺から離れ奥に引っ込んだ。
「はい、以上青柳と康弘でした」
体育館からなぜか拍手が起こる。
僕ははぁ、と溜め息を吐いて、慣れない事をするならせめて心の準備がほしいものだと愚痴った。
「青柳、絶対知ってたろ」
「うん、柳君には内緒にしとこうって皆で決めてたんだけどね」
「なんだよ、それは!?」
僕は再び叫んだ。
いいんだよ、俺は。裏方で。
そんな事を思いながらもラジオは順調に進んでいた。
一時間ほど喋ると皆慣れてきたのか、最近なにしてたか、なんて世間話も交えるようになり、僕は再び手摺に身を乗り出しながら、ポケットにしまってあった携帯電話を取り出した。メモリダイヤルの中にある一つの番号を呼び出しかける。
コール音が鳴ったと思うと、すぐに相手に繋がった。
『はーい、もしもし、康弘?』
「ういーっす、元気?」
『うん、元気元気、久しぶり』
その言葉どおり久しぶりに聞く彼女の声は、しかし以前と代わり映えしない明るいものだった。
「今、なにやってんの? 里美」
『今? 今はねぇ、たっくんと沖縄にいるの。海綺麗だよ、海』
彼女――里美は、そう言うと一度『ちょっと待って』と言うとどうやら近くにいるらしいたっくんに僕からの電話だと言う事を伝えているようだった。
「電話して大丈夫だった?」
『康弘相手にたっくんも嫉妬しないでしょ、だいじょぶだよ。で、どうかしたの?』
「あぁ、それなんだけどさぁ、今近くにラジオあるかな」
『ラジオ? あ、あるよ。なに? ラジオがどうかした?』
僕はその声を聞きながら、視線は智史へと向けた。
なぁ、智史。これでお前はよかったんだよな? 里美のために始めようとしたラジオ。けど今は、もうそれだけのためじゃないんだよな。なにを見つける事が出来た? なにか生み出す事が出来た? このラジオが終わった時、お前は満足出来るだろうか? 後悔を覚えるだろうか? でも、そんなのは大した問題じゃないよな? お前の傍には皆がいるもんな。そして、胸の中にあったでかい傷を乗り越える事が出来た、お前がいるんだよな。
「今、智史がさぁ、晶とかと一緒にラジオしてんだよ。学校で皆でさ、よかったらお前にも聞かせてやりたくてさ」
『智史君? 智史君が今ラジオやってるの? それ、すごいね! どこのチャンネル?』
「95-603」
ごそごそと音が聞こえ、どうやらラジオをつけようとしているようだった。しばらくして『うわ、本当智史君の声だ、懐かしー』と声がする。
『あれ? けど康弘はラジオ参加してないの?』
「してねーよ」
『なんで?』
「なんでって、俺が喋る必要ないだろ」
『えーだって、智史君と康弘はセットでしょ?』
「バカ言うなよ。んな訳ねーだろ? それにさぁ、主役は二人もいらねぇだろ」
『主役?』
「そう、主役」
このラジオにまつわる物語の主役。
「智史がこの物語の主役なんだから、俺は別にいてもいなくてもどっちでもいいんだよ」
そう、この物語の主役は僕じゃない。
僕はその事を知ったんだ。間もなく終わる世界の中で。
僕も、皆も、同じこの世界に存在するバラバラの、名前を持つ語り手。
今世界に溢れる数ある物語のその中の一つ。その中で今僕は智史と言う主役を見つめている何人かの語り手の中の、単なる一人。
彼女は、納得したのかしないのか適当な返事を返し、しきりにラジオを聞いては歓声を上げていた。
『なんかラジオで友達の声聞くって変な感じだね』
「まぁ、そだな。たっくんは元気?」
『うん、今はずっと一緒にいるからね』
彼女はあっけらかんとそう言い、僕は「そっか」と笑い返す事しか出来なかった。
「じゃあ、二人でラジオ聞いてくれよな」
『うん、あ、康弘』
「あん?」
『ありがとうね、教えてくれて』
「いや、気にすんなよ」
なぁ、智史。ありがとうだって。残念ながらお前はやっぱ友達みたいだけど、まぁ、いいじゃん、ラジオ聞いてくれるみたいだしさ。
もし里美にラジオの事教えた事がばれたら、お前は僕に怒るだろうか? 脇役である僕のアクションはお前の物語にどんな色を今添えたのだろうか。
でもさ、やっぱ、ちょっとくらい聞いてもらいたいだろ、沖縄だかなんだか知らないけど、こうやって例えバラバラでも同じ世界に存在している彼女にも、お前の、話。
だって、愛と言う贈り物を欠片として相手に届けずにいる事など不可能なんだから。
『そっちも皆元気そうだね』
「あぁ、元気だよ」
色々あったけど、僕達は今、元気だよ。
「皆、多分こういう事考えた事があると思うんだけどさ。もし自分がもうすぐ死ぬとなったらなにをしたいか、って言う事」
そこで一旦話を区切り、智史はペットボトルの水を口に含んだ。
「正直、俺はなにも思い浮かばなかったよ。全くないって事じゃないよ。こうやってラジオをしようとか、皆と会って遊んだり色々な事したいって思った。でも逆に言ったらそれだけで、それって死ななくても出来るような事ばかりなんだよね。例え話の時はそれこそ、色んな事を思いついた気がするよ。どうでもいい事からご大層な事まで、今こうやってみんなの前で言うには恥ずかしすぎるような事も。でも本当に死ぬんだってなった時、どうだろうか、そんな数々の妄想じみた発想は何一つとして浮かんでこなかった。皆はどうだろう? なにか特別なものを見つけたりしただろうか。今、僕達は学校にいて、一時期は皆で過ごしたりもしたけどそうしている間にも色々な事があったよ、いい事も、悪い事もね。俺には到底理解出来ない事も数え切れないくらいあった。もしかしたら本人も理解出来ていないし、苦しんでいたのかもしれない。けど、それでもさ、俺達は続けるしかないんだよね。そういう事。理解出来なくても、苦しくても、例え残り少なくても、未来のために俺達は今のまま立ち止まってる訳にはいかないって、皆そう思ってたと思うんだ。悔いなく死ぬ事って言うのは、よりよい未来のために生きる事と同義なんだよ。本当はそういう事は死ぬから気付く事ではなくて、あと百年生きたって、一年後の未来のために今歯を食いしばるって言う事と変わらない筈なんだよね、でもやっぱりふとそういう事を忘れてしまって、俺達はいつも曖昧に生きる事を選んでしまっては、誰かの視線に怯えて歩む事を恐れたり、言い訳を繰り返して、なにもしなかった自分を一人で許しては、届かなかったあの未来の事を本心とは裏腹に大したものではなかった、なんて嘯いて、目を逸らして、訪れてしまう望まない未来の中で後悔をしてたんだ。俺も、その内の一人だったよ。うん、今ね、もうどうしようもない後悔が俺の中にあるんだ。それはずっと前からずっと胸の中でわだかまっていて、俺はいつも本当にこれでいいんだろうか、っていつも自分に言っていたはずなのに、どこかで、これでいいんだよ、って自分を押さえ込んでしまっていた。その結果が今の俺なんだよね。そういう事、誰だってあるんだろうし、無理な事ってこの世の中にはやっぱりあるんだろうって思う。うん、残念だけど。悲しみも苦しみも、いつもいつも上手く避けてばかりはいられない。誰か、じゃなくて、皆。俺が今まで生きて触れ合った人達、皆。色んなものを背負っては泣いたりするような事があった。でもさ、きっとあるんだよ、この世界にはちゃんと。苦しみと同等の喜びがさ。俺は、それを見つけたと思うんだ。なにも思い浮かばない今のままでさ。過去に背負った傷は消えないかもしれないけれど、その傷の痛みを忘れてしまう事が出来る喜びを。それは今こうやってここにいるだけでも感じる事は出来る。きっとこのラジオが終わって、俺達が解散してしまってもきっと忘れる事はないし、当然消えてしまう事なんて絶対ないものなんだ。だから、俺は明日も明後日も最後の日まで、生きられる。苦しみと喜びを一緒に抱えて、それでも笑って生きていく事が出来る。そしてそれに気付いて、そして俺が手に入れられる事が出来たのは、俺じゃなく、今ここにいる俺の友達のおかげだよ。皆がいるから、生きられるし、それ以外もうなにもいらないって思うんだ。なにも思い浮かばなかったんじゃなくて、本当に欲しいものはもう俺は殆ど手に入れていたんだよ。ただ、その忘れていた事を、思い出せたんだ。宝物は、ここにある。そして、俺の宝物が誰かの宝物へとなれる事がある。だから皆も、自分の中のその宝物を、まだ渡せていない相手がいるなら今からちゃんと届けてほしいんだ。その、どんなものよりも価値がある君からのプレゼントを」
体育館が静まり返る。
僕は手摺から身を乗り出していたその姿勢のまま、ただ、無言で拍手をした。
それはゆっくりと伝染していき、体育館中に響き渡った。
彼らはそれを聞きながら、座っていた椅子から立ち上がると、自分達の楽器を手に取った。
再び静寂が広がる。
浦沢が確認するように腹に響くようなベースの音を唸らせた。
「じゃあ、そろそろ、ラジオも終わります。その前に僕達の歌を聞いてください。曲名は――」
まるで目に見えない衝撃がそこで飛散したかのような、音の爆発に負けないように僕達は声を張り上げた。
たった一曲しかないそれに乗り遅れる事がないように。
後で後悔したりするような事がないように。
そしてその中で、僕は体育館の入り口辺りで大幅に遅れてきたため、前に進む事が出来ず、諦めてその場でなんとか彼らを見ようと飛び跳ねている双子と、その二人のすぐ後ろで静かに佇んでいる少女を見かけた。
いいと、思うよ。
お前が望んだ幸せと、食い違ってしまったような日が一日くらいあっても。
お前が、今はそう望んだのなら。
プレゼントを、受け取ったのなら。