a little delusion syndrome
「えぇ、えぇ、分かります」
なぜ、人は苛立つと速度を増そうとするのだろう。
それは相手に求めると言う点でもそうだし、自分の中においてもそうだ。自覚なんてものはないけれど。
「そんな事を言われても困ります。それはそっちの問題でしょ?」
例えばこの着慣れないスーツを脱ぐ事を許して貰えればそれは少しは楽になるだろうか?
左手に鞄を持ち、右手に携帯電話を持っていたがストレスのせいでふと煙草に火をつけてしまい、肩と頬に携帯を挟むようにしながら灰を落とすと言う動作が煩わしく、余計イライラするようになってしまったが、今すぐ煙草を地面へと吐き捨て携帯をまた右手で持てば少しでも緩和されるだろうか。しかしまだ半分程度残っているそれを捨てるのはなんだか酷く損をしたような気持ちになるかもしれない。そう言えば小林先輩はいつも二口、三口吸うだけで煙草を灰皿に押し付けては、またすぐに次の煙草に手をかけていた。それに自分が口出しをすると癖だからの一言で済まされてしまった事を思い出す。一本目の煙草を消さずに灰皿に置いておけばいいのだ。呆れながらそんな事を思いもしたが、口煩い後輩だと思われて得な事など一つもないので黙っておく事にした。
「え? なんですか? すいません、ちょっと聞こえませんでした」
結局鞄を脇に抱えれば少しはマシだろうという結論に辿り着いた。
マルボロを吸い出して何年になるだろうか。思えば初めて口にした煙草は友人から一本貰ったマルボロライトだったが自分で最初に買ってみたのはセブンスターだった。その頃は色んな味を吸ってみたくて色々と試してみたものの分かったのは、美味いか不味いかであり、細かな味の違いと言うものなどピンと来ないと言う事で、結局パッケージのセンスでマルボロになったと言うだけの事だ。ニコチンが極端に少なくなければ大体は吸う事が出来る。たまにマルボロなんて吸えないと言う輩がいるがきっと彼らはこだわりの中に生きている人種なのだろう。それはあそこのラーメンしか自分には合わないと豪語して、他の店を極端にこき下ろす石頭のようなものだ。貧乏舌の自分はもしかすると少し得をしているのかもしれない。わざわざ飲食店に足を運び料理の味にケチをつけるなんて不毛な事をしないで済むのだから。
「えぇ、それはもうそちらの言う通りでいいです。大した問題じゃないし」
人込みを掻き分ける。人口密度。過密になればなるほど比例して目には見えない表現の仕様のない濃さが生まれる。それは少しネガティブで、時折一部によってはポジティブだが、そのポジティブさが余計回りをネガティブにさせると言う悪循環も含んでいる。息苦しさと言えばそうなのかもしれない。自分が吸っているのはもしかすると二酸化炭素ではないだろうか。いや、もしくはそれでも、当然酸素でもなく、もっとけばけばしい、買い物帰りらしいカップルとぶつかりそうになり、慌てて身をよじって激突は免れたものの、その去り際に出た二人の舌打ちだったり溜め息の中に含まれている毒素のようなものなのかもしれない。そう言えば菜穂の誕生日がもうすぐだ。彼女はプレゼントになにが欲しい? と言う類の質問を酷く嫌う。とは言え、彼女が求めるセンスに合致しないプレゼントを贈ってしまいでもすればやはり少し不機嫌になる。全く恋人と言う存在はプラスマイナスをいつでも積み重ねては危ういバランスを取っている天秤のようなものだと思う。ケーキは無難にショートケーキでいいだろう。スポンジの間にも苺が挟んであるようなやつがいい。それは僕の趣味だが、そういう細かな芸当は彼女も嫌いではないはずだ。
「いいですか? 僕には関係のない話です。あなたがなんとかしないとどうにもならないでしょう」
信号が赤になって僕はピタリと足を止める。外側の速度が0になってしまう。それを埋めようと内側の速度が自然と空回りを始めるがそれはドラマでよくある集中を増す事によって脳の回転が増す、などと言う訳の分からないものではなく、焦燥だとかそういったものに近い。似ているものをあえて挙げるなら天才バカボンに出てくる所構わず拳銃を撃ちまくるおまわりさんがバカボンのパパを追いかけようとしている時の、渦を巻いたような足の部分の方がよっぽど現実にありえるものとしてはしっくり来るような気がするが、そんな事誰に熱弁しても理解して貰えないだろう。信号が点滅したところで予測発進を仕掛けた車と、赤になる前に突っ切ろうとした車が衝突しそうになり派手にクラクションが鳴った。思わず全員の視線がそちらへと向けられる。完全に静止しあった二台がその視線を恥ずかしがるかのようにゆっくり蛇行し、それぞれの道筋へと車体を戻すと今度は逃げ出すように走り去っていった。どれだけCMで環境への優しさを訴えても、上がり続ける性能は僕らの中に優しさを生み出す事は決してないし、むしろそこに求められるのはバリューであり、見栄でもあるし。とは言え、今アメリカのビッグ3に乗っていると言ったらあまりいい顔はしてもらえないかもしれない。メルセデスの新型に乗れば、上級の女にも乗る事が出来るだろうが、どちらもいつかは中古扱いで、また新しい物(者)に手を出すのだろう。
「そうですね。言いたい事は分かります。けど、それじゃ今更納得してくれないのは分かるでしょう?」
再び歩き出して、僕は小さな開放感と安堵感を手にする。どうせなら少し薄暗くて薄汚いが人通りがあまり多くない路地裏に入ってしまおうかと考える。そうだ。そうしてしまおう。案ずるより産むが易しだ。かなり広い歩道の真ん中辺りを歩いていたが、少しずつそちらへと近寄る。大きければ大きいほど秩序を失うのはなんでも一緒で、国であろうと、政府だろうと、会社だろうと、学校だろうと、公園だろうと、この道路であろうと一緒で、意見がぶつかるのも、肩がぶつかるのも、きっと根底に潜んでいるのはさして変わらないのかもしれない。塵が積もりすぎて肥大しすぎた山のせいで前が見えないのなら壊してしまえばいいと言っているようなもので、憩うとか愛でるとか安らぐと言ったものに適しているのはきっと程々なものがいいのだろう。癒し系女優が流行として一時期持て囃されても、芸能界の頂点に立てないのはきっとそのポジションがある意味で正しいからなのだろう。
「はい、そうですね。分かりました。お願いしますね。え? なんですか?」
『あのさ。そう言えば今まで忘れてたんだけど』
「はい」
『君の名前、なんだっけ?』
あぁ、この人はなにを言っているのだろう。ならあなたの名前はなんだっけ?
そんなもの必要ない世界が今ここにあったのに。
なぜ、そういう下世話な事を最後に思い出してしまうのだろう。
そもそも、僕とあなたはなにを話していましたっけ?
どうしていつも最初は不可思議さにベロベロに酔って酔いしれて楽しむ事が出来るのに、最終的には、浮気していた痕跡を一切なくしてしまおうとポケットを覗いたりネクタイをちゃんと締めたり、肩の辺りに女の髪の毛がついていないかチェックしたりしてからいつも通り笑顔を浮かべている嫁が待っているいつもの家に帰ろうとするけちなサラリーマン宜しく、いつもの場所へと帰ろうとするのだろう。
酔って、酔って、吐くまで酔って、それでもまた酔えばいいのに。「いいですか? 酔ったあなたを世間は認めなくても、酔ったあなたが存在する世界があるのなら、それは世界はそれを認めてると言う事なんですよ」どうしてそういう事を言うんですか? 安心、普通、常識。自由、束縛、マンネリ。解き放たれたいと嘆いていたのはあなたでしょう?「えぇ、えぇ、分かってます。分かってます。それが本音だったとしたら僕は最初からイライラする事もなかったです。あなたが口にしていたのは単なる憧れと言う理想でしかなく、己の信念や概念、行動への奮発となりえるものではなかったと言う事」それでも僕に夢の話に付き合ってもらおうとしていた事。
煙草のような熱さもなく、恋人のようなときめきもなく、ケーキのような甘さもなく、なにかを壊してしまえるような力もなく、結局あるのはこの寂しくてなにもない空っぽの路地裏だけがあなただ。
きっと、それでもあなたのような人は言う。
『名前を知りたい』
その名前を知った時、あなたが得るのは安心。
つまらない安心。
もう戻れない。
「僕の名前は
なぜ、人は苛立つと速度を増そうとするのだろう。
それは相手に求めると言う点でもそうだし、自分の中においてもそうだ。自覚なんてものはないけれど。
「そんな事を言われても困ります。それはそっちの問題でしょ?」
例えばこの着慣れないスーツを脱ぐ事を許して貰えればそれは少しは楽になるだろうか?
左手に鞄を持ち、右手に携帯電話を持っていたがストレスのせいでふと煙草に火をつけてしまい、肩と頬に携帯を挟むようにしながら灰を落とすと言う動作が煩わしく、余計イライラするようになってしまったが、今すぐ煙草を地面へと吐き捨て携帯をまた右手で持てば少しでも緩和されるだろうか。しかしまだ半分程度残っているそれを捨てるのはなんだか酷く損をしたような気持ちになるかもしれない。そう言えば小林先輩はいつも二口、三口吸うだけで煙草を灰皿に押し付けては、またすぐに次の煙草に手をかけていた。それに自分が口出しをすると癖だからの一言で済まされてしまった事を思い出す。一本目の煙草を消さずに灰皿に置いておけばいいのだ。呆れながらそんな事を思いもしたが、口煩い後輩だと思われて得な事など一つもないので黙っておく事にした。
「え? なんですか? すいません、ちょっと聞こえませんでした」
結局鞄を脇に抱えれば少しはマシだろうという結論に辿り着いた。
マルボロを吸い出して何年になるだろうか。思えば初めて口にした煙草は友人から一本貰ったマルボロライトだったが自分で最初に買ってみたのはセブンスターだった。その頃は色んな味を吸ってみたくて色々と試してみたものの分かったのは、美味いか不味いかであり、細かな味の違いと言うものなどピンと来ないと言う事で、結局パッケージのセンスでマルボロになったと言うだけの事だ。ニコチンが極端に少なくなければ大体は吸う事が出来る。たまにマルボロなんて吸えないと言う輩がいるがきっと彼らはこだわりの中に生きている人種なのだろう。それはあそこのラーメンしか自分には合わないと豪語して、他の店を極端にこき下ろす石頭のようなものだ。貧乏舌の自分はもしかすると少し得をしているのかもしれない。わざわざ飲食店に足を運び料理の味にケチをつけるなんて不毛な事をしないで済むのだから。
「えぇ、それはもうそちらの言う通りでいいです。大した問題じゃないし」
人込みを掻き分ける。人口密度。過密になればなるほど比例して目には見えない表現の仕様のない濃さが生まれる。それは少しネガティブで、時折一部によってはポジティブだが、そのポジティブさが余計回りをネガティブにさせると言う悪循環も含んでいる。息苦しさと言えばそうなのかもしれない。自分が吸っているのはもしかすると二酸化炭素ではないだろうか。いや、もしくはそれでも、当然酸素でもなく、もっとけばけばしい、買い物帰りらしいカップルとぶつかりそうになり、慌てて身をよじって激突は免れたものの、その去り際に出た二人の舌打ちだったり溜め息の中に含まれている毒素のようなものなのかもしれない。そう言えば菜穂の誕生日がもうすぐだ。彼女はプレゼントになにが欲しい? と言う類の質問を酷く嫌う。とは言え、彼女が求めるセンスに合致しないプレゼントを贈ってしまいでもすればやはり少し不機嫌になる。全く恋人と言う存在はプラスマイナスをいつでも積み重ねては危ういバランスを取っている天秤のようなものだと思う。ケーキは無難にショートケーキでいいだろう。スポンジの間にも苺が挟んであるようなやつがいい。それは僕の趣味だが、そういう細かな芸当は彼女も嫌いではないはずだ。
「いいですか? 僕には関係のない話です。あなたがなんとかしないとどうにもならないでしょう」
信号が赤になって僕はピタリと足を止める。外側の速度が0になってしまう。それを埋めようと内側の速度が自然と空回りを始めるがそれはドラマでよくある集中を増す事によって脳の回転が増す、などと言う訳の分からないものではなく、焦燥だとかそういったものに近い。似ているものをあえて挙げるなら天才バカボンに出てくる所構わず拳銃を撃ちまくるおまわりさんがバカボンのパパを追いかけようとしている時の、渦を巻いたような足の部分の方がよっぽど現実にありえるものとしてはしっくり来るような気がするが、そんな事誰に熱弁しても理解して貰えないだろう。信号が点滅したところで予測発進を仕掛けた車と、赤になる前に突っ切ろうとした車が衝突しそうになり派手にクラクションが鳴った。思わず全員の視線がそちらへと向けられる。完全に静止しあった二台がその視線を恥ずかしがるかのようにゆっくり蛇行し、それぞれの道筋へと車体を戻すと今度は逃げ出すように走り去っていった。どれだけCMで環境への優しさを訴えても、上がり続ける性能は僕らの中に優しさを生み出す事は決してないし、むしろそこに求められるのはバリューであり、見栄でもあるし。とは言え、今アメリカのビッグ3に乗っていると言ったらあまりいい顔はしてもらえないかもしれない。メルセデスの新型に乗れば、上級の女にも乗る事が出来るだろうが、どちらもいつかは中古扱いで、また新しい物(者)に手を出すのだろう。
「そうですね。言いたい事は分かります。けど、それじゃ今更納得してくれないのは分かるでしょう?」
再び歩き出して、僕は小さな開放感と安堵感を手にする。どうせなら少し薄暗くて薄汚いが人通りがあまり多くない路地裏に入ってしまおうかと考える。そうだ。そうしてしまおう。案ずるより産むが易しだ。かなり広い歩道の真ん中辺りを歩いていたが、少しずつそちらへと近寄る。大きければ大きいほど秩序を失うのはなんでも一緒で、国であろうと、政府だろうと、会社だろうと、学校だろうと、公園だろうと、この道路であろうと一緒で、意見がぶつかるのも、肩がぶつかるのも、きっと根底に潜んでいるのはさして変わらないのかもしれない。塵が積もりすぎて肥大しすぎた山のせいで前が見えないのなら壊してしまえばいいと言っているようなもので、憩うとか愛でるとか安らぐと言ったものに適しているのはきっと程々なものがいいのだろう。癒し系女優が流行として一時期持て囃されても、芸能界の頂点に立てないのはきっとそのポジションがある意味で正しいからなのだろう。
「はい、そうですね。分かりました。お願いしますね。え? なんですか?」
『あのさ。そう言えば今まで忘れてたんだけど』
「はい」
『君の名前、なんだっけ?』
あぁ、この人はなにを言っているのだろう。ならあなたの名前はなんだっけ?
そんなもの必要ない世界が今ここにあったのに。
なぜ、そういう下世話な事を最後に思い出してしまうのだろう。
そもそも、僕とあなたはなにを話していましたっけ?
どうしていつも最初は不可思議さにベロベロに酔って酔いしれて楽しむ事が出来るのに、最終的には、浮気していた痕跡を一切なくしてしまおうとポケットを覗いたりネクタイをちゃんと締めたり、肩の辺りに女の髪の毛がついていないかチェックしたりしてからいつも通り笑顔を浮かべている嫁が待っているいつもの家に帰ろうとするけちなサラリーマン宜しく、いつもの場所へと帰ろうとするのだろう。
酔って、酔って、吐くまで酔って、それでもまた酔えばいいのに。「いいですか? 酔ったあなたを世間は認めなくても、酔ったあなたが存在する世界があるのなら、それは世界はそれを認めてると言う事なんですよ」どうしてそういう事を言うんですか? 安心、普通、常識。自由、束縛、マンネリ。解き放たれたいと嘆いていたのはあなたでしょう?「えぇ、えぇ、分かってます。分かってます。それが本音だったとしたら僕は最初からイライラする事もなかったです。あなたが口にしていたのは単なる憧れと言う理想でしかなく、己の信念や概念、行動への奮発となりえるものではなかったと言う事」それでも僕に夢の話に付き合ってもらおうとしていた事。
煙草のような熱さもなく、恋人のようなときめきもなく、ケーキのような甘さもなく、なにかを壊してしまえるような力もなく、結局あるのはこの寂しくてなにもない空っぽの路地裏だけがあなただ。
きっと、それでもあなたのような人は言う。
『名前を知りたい』
その名前を知った時、あなたが得るのは安心。
つまらない安心。
もう戻れない。
「僕の名前は
「なんなのよ!? アンタは?」
「正義の味方です!」
そう言うと自称正義の味方は親指をピシっと立てた。きっと歯を覗かせる事があったならキラリン、とかそう言った感じで輝かせるために日夜涙ぐましい努力も欠かさないだろう。村上沙織に取ってはむしろそれを見ないで済むのは喜ばしい事である。
自称正義の味方は白けきった彼女の思惑などとんと気付いていないのかそれとも気付いた上で露とも気にしていないのか、どこを見ているのか分からない眼差しで両手を腰に当てると満足そうに「はっはっはー」と高笑いした。ワナワナと自分の体が震えるのを彼女は気付いたが、なんとか堪える。そして、そのまま彼女は踵を返した。
「じゃ!」
「ぬおおおおお!! ちょっと待てえええい!!!」
「ちょっと!! 触らないでよ!!」
背中から肩をつかまれた彼女は悲鳴のような声を上げると、その手を振り払い、尚も迫ろうとしてくる輩に向かって足蹴りを見舞った。
「あいた、あいた」
となんだか可愛らしい悲鳴が上がる。最も沙織からしてそれがどれほどの痛みなのかは分からなかった。
なんせこの自称正義の味方――沙織から言わせてもらえば単なる変質者――とやらは、その名の通りと言うべきなのか顔は覆面で覆われているのだ。そのまま体と繋がっているボディスーツのようなもので。
「……で、ですね。さっきも言いましたけどわたくし正義の味方なんですね。はい」
なぜ自分は道端に正座などさせられているのだろう。
道行く子供が彼を指差し「ママー、あの人なにしてるのー?」などと言っている。彼からすればそんな子供を母親は折檻するべし、と思っているのだが「こら! 見ちゃいけません!」と努めて冷静に母親はそれだけ言うとそそくさと子供の手を引いて立ち去ってしまった。
「……不条理だ!!」
「やかましい!!」
「……はい。申し訳ございません」
自分よりきっと年下だろうと思われる少女の剣幕にあっさり負け、彼は頭を地面にこすり付けた。
沙織はあの覆面ってビニールかなんかなのかなー、息とかどうしてるのかなー、目のところに穴でも開いてるのかなー、それってちょっとださいかも。などと考える。背中を覗いてもファスナーらしいものは見当たらない。
「やめて」と懇願する彼にそれでもこれでもか、と蹴り続けようやく大人しくなったのだが、よくよく考えるとこの光景は中々恥ずかしいものがある。
「もう立てば?」
「ありがとうございます!!」
シュパッ。
本当にそんな音でも聞こえてきそうな勢いで自称正義の味方は立ち上がった。体にスプリングでも仕込んでいるのだろうか。
「で」
「はっはっは! なんだい!?」
「……やっぱ正座しとく?」
「すみません。なんでしょうか」
「なんで私に付きまとうわけ?」
「付きまとうなんてとんでもない!!」
「ぎゃあああああ!!」
彼は掌を握り締めたかと思うと、まるで自分の正当性を主張するにはこれしかないとでも言うように沙織の肩を掴みかかってきた。どこで呼吸しているのか「ふー、ふー」と荒々しい鼻息が聞こえる。
「この変質者があああ!!」
研ぎ澄まされたナイフのような鋭い右フックがどっからどう見ても変質者にしか見えない男へと突き刺さった。
「私が死ぬって?」
「……そうだ」
「いや、そこカッコつけないでいいから。苦渋に満ちた表情とか分からないから」
どちらかと言えば死ぬのは私ではなくてお前だろう、と沙織は胸中でごちた。
いや、むしろ死ぬべきと言うべきか。
「で、なんで私が死ぬのよ」
「臭いだ!」
「あーなんか変態度アップ」
「ちなみに私は数キロ先の酔いつぶれたキャバ嬢の臭いを察知し助けた事もある」
「アンタ絶対変態」
それはどういった臭いなのだろうか。
思わず後ずさるが変態は、その分、いやそれ以上にずずいと距離を詰めてきた。「寄るな」と触るのも嫌になったのか不潔なものを見るように、しっし、と手で払う。
「大体、その分かりやすい臭いはともかく、死ぬ臭いってなんなのよ」
「死臭だ。先ほど君とすれ違った時確かに私はその臭いを察知した」
確信があるのか、腕を組みうんうんと大仰に頷く。
そして、再びまるでモデルのように親指をピシっと立てる。
「しかし大丈夫だ! 私が来たからには君をあらゆる危機から救ってやるぞ!!」
「あーはいはい」
沙織はもう相手にするのも疲れてしまったのか適当に返事を返す。
しかし、自分が死ぬ、と唐突に言われるのはいくらこのような変態相手でも気にはかかった。
「ねぇ、ところで死臭ってどんな臭いなの?」
「うむ! それは老衰を間近に控えた老婆が持つあの独特の加齢臭のような――」
「今日このコートおばあちゃんに借りてきたのよね」
「…………」
「…………」
長い、長い沈黙が降りた。
同時に、幕も下りた。
後日、急に病院に連れて行こうとする孫娘に怪訝な顔をしながらも、待合室で二人で会話をしているうち、まぁ、こうやって孫が心配して病院に連れてきてくれてありがたいのかもねぇ。こうやってゆっくり話も出来たし。などと、まったく健康ですよ、と医者にお墨付きをもらった沙智恵さんはほのぼのと思ったりもした。
ただ隣で「騙されたあああ!!」と叫んでるのが気にはなったが。
「沙織、病院でそんな騒ぐんじゃないわよ」
笑顔でそう言う祖母の様子に沙織は少々落ち着いたものの、次見つけたらあいつは殺そう、と心に誓うのであった。
「ぎゃああああ!!」
「正義の味方悲鳴を聞きつけ今推参!! さぁ、悪はどこだ!!」
「お前じゃあああ!!」
どうやら今日も世界は平和だ。
「正義の味方です!」
そう言うと自称正義の味方は親指をピシっと立てた。きっと歯を覗かせる事があったならキラリン、とかそう言った感じで輝かせるために日夜涙ぐましい努力も欠かさないだろう。村上沙織に取ってはむしろそれを見ないで済むのは喜ばしい事である。
自称正義の味方は白けきった彼女の思惑などとんと気付いていないのかそれとも気付いた上で露とも気にしていないのか、どこを見ているのか分からない眼差しで両手を腰に当てると満足そうに「はっはっはー」と高笑いした。ワナワナと自分の体が震えるのを彼女は気付いたが、なんとか堪える。そして、そのまま彼女は踵を返した。
「じゃ!」
「ぬおおおおお!! ちょっと待てえええい!!!」
「ちょっと!! 触らないでよ!!」
背中から肩をつかまれた彼女は悲鳴のような声を上げると、その手を振り払い、尚も迫ろうとしてくる輩に向かって足蹴りを見舞った。
「あいた、あいた」
となんだか可愛らしい悲鳴が上がる。最も沙織からしてそれがどれほどの痛みなのかは分からなかった。
なんせこの自称正義の味方――沙織から言わせてもらえば単なる変質者――とやらは、その名の通りと言うべきなのか顔は覆面で覆われているのだ。そのまま体と繋がっているボディスーツのようなもので。
「……で、ですね。さっきも言いましたけどわたくし正義の味方なんですね。はい」
なぜ自分は道端に正座などさせられているのだろう。
道行く子供が彼を指差し「ママー、あの人なにしてるのー?」などと言っている。彼からすればそんな子供を母親は折檻するべし、と思っているのだが「こら! 見ちゃいけません!」と努めて冷静に母親はそれだけ言うとそそくさと子供の手を引いて立ち去ってしまった。
「……不条理だ!!」
「やかましい!!」
「……はい。申し訳ございません」
自分よりきっと年下だろうと思われる少女の剣幕にあっさり負け、彼は頭を地面にこすり付けた。
沙織はあの覆面ってビニールかなんかなのかなー、息とかどうしてるのかなー、目のところに穴でも開いてるのかなー、それってちょっとださいかも。などと考える。背中を覗いてもファスナーらしいものは見当たらない。
「やめて」と懇願する彼にそれでもこれでもか、と蹴り続けようやく大人しくなったのだが、よくよく考えるとこの光景は中々恥ずかしいものがある。
「もう立てば?」
「ありがとうございます!!」
シュパッ。
本当にそんな音でも聞こえてきそうな勢いで自称正義の味方は立ち上がった。体にスプリングでも仕込んでいるのだろうか。
「で」
「はっはっは! なんだい!?」
「……やっぱ正座しとく?」
「すみません。なんでしょうか」
「なんで私に付きまとうわけ?」
「付きまとうなんてとんでもない!!」
「ぎゃあああああ!!」
彼は掌を握り締めたかと思うと、まるで自分の正当性を主張するにはこれしかないとでも言うように沙織の肩を掴みかかってきた。どこで呼吸しているのか「ふー、ふー」と荒々しい鼻息が聞こえる。
「この変質者があああ!!」
研ぎ澄まされたナイフのような鋭い右フックがどっからどう見ても変質者にしか見えない男へと突き刺さった。
「私が死ぬって?」
「……そうだ」
「いや、そこカッコつけないでいいから。苦渋に満ちた表情とか分からないから」
どちらかと言えば死ぬのは私ではなくてお前だろう、と沙織は胸中でごちた。
いや、むしろ死ぬべきと言うべきか。
「で、なんで私が死ぬのよ」
「臭いだ!」
「あーなんか変態度アップ」
「ちなみに私は数キロ先の酔いつぶれたキャバ嬢の臭いを察知し助けた事もある」
「アンタ絶対変態」
それはどういった臭いなのだろうか。
思わず後ずさるが変態は、その分、いやそれ以上にずずいと距離を詰めてきた。「寄るな」と触るのも嫌になったのか不潔なものを見るように、しっし、と手で払う。
「大体、その分かりやすい臭いはともかく、死ぬ臭いってなんなのよ」
「死臭だ。先ほど君とすれ違った時確かに私はその臭いを察知した」
確信があるのか、腕を組みうんうんと大仰に頷く。
そして、再びまるでモデルのように親指をピシっと立てる。
「しかし大丈夫だ! 私が来たからには君をあらゆる危機から救ってやるぞ!!」
「あーはいはい」
沙織はもう相手にするのも疲れてしまったのか適当に返事を返す。
しかし、自分が死ぬ、と唐突に言われるのはいくらこのような変態相手でも気にはかかった。
「ねぇ、ところで死臭ってどんな臭いなの?」
「うむ! それは老衰を間近に控えた老婆が持つあの独特の加齢臭のような――」
「今日このコートおばあちゃんに借りてきたのよね」
「…………」
「…………」
長い、長い沈黙が降りた。
同時に、幕も下りた。
後日、急に病院に連れて行こうとする孫娘に怪訝な顔をしながらも、待合室で二人で会話をしているうち、まぁ、こうやって孫が心配して病院に連れてきてくれてありがたいのかもねぇ。こうやってゆっくり話も出来たし。などと、まったく健康ですよ、と医者にお墨付きをもらった沙智恵さんはほのぼのと思ったりもした。
ただ隣で「騙されたあああ!!」と叫んでるのが気にはなったが。
「沙織、病院でそんな騒ぐんじゃないわよ」
笑顔でそう言う祖母の様子に沙織は少々落ち着いたものの、次見つけたらあいつは殺そう、と心に誓うのであった。
「ぎゃああああ!!」
「正義の味方悲鳴を聞きつけ今推参!! さぁ、悪はどこだ!!」
「お前じゃあああ!!」
どうやら今日も世界は平和だ。
シアワセノカタチ
彼女は、僕を殴る。
僕は、そういう時どこを見ようか悩み結局彼女の目ではなく、鼻の辺りを見つめる事にしている。
その度に、彼女はそうする僕をいつもじっと見詰める。
ドメスティックバイオレンスと誰かは言い、悪趣味な人はSMと言う。冷めた人に限ってツンデレだなんて的外れな事を言う。
肝心な僕達はそれをなんて表現すればいいか分からない。
殴られる事には元々慣れていた。小さい頃僕の父親は仕事のストレスを抱えて帰ってきてはよく母さんや僕や妹をぶった。そうやって一頻り殴られた後父さんは泣いて僕達に謝ったが、母さんは延々と続く暴力に耐え切れず離婚を申し出た。
「誰のおかげでお前達は生活できていると思っているんだ!!」
テーブルの上に差し出された離婚届を見て、父さんはいつもと同じ台詞を口にした。僕と妹は隣の部屋でその声を聞きながら淡々とそれを聞き流していた。もう、慣れてしまっていたのかもしれない。母さんはその日殴られながら何度も「お願いします」を繰り返した。父さんも最終的には離婚を受け入れる事になった。母さんはその翌年、僕と妹に新しい父親を紹介した。信二さんと言う男は僕と妹に「これから皆で仲良くやっていこう」と微笑み、その翌年母は妊娠し、更にその翌年、僕と妹をぶつようになった。母さんが殴る時に口にする言葉は「あんた達なんていなきゃよかったのに!」だった。父さんと同じように母もある時期を越えると、まるで人格が切り替わったのかと思うように静かに泣いた。僕が中学生になる頃、母は腕力で勝てないと悟ったらしくぶたれる事はなくなったが、その代わりに母さんは少しおかしくなったようだった。ある日、信二さんが僕を呼び出して、僕が母さんを苛めていると言うような事を切り出してきた。その頃、お互いに無視することはあっても、苛め、と言われると身に覚えなどなかったのではっきりと否定をすると、信二さんは僕の頬をはたいた。信二さんは少し悲しそうな顔をして、僕が母さんだけでなく、信二さんと母さんの間に生まれた子供の事を殴っていると聞いた。と教えられた。そんなの嘘ですよ、母さんはちょっと頭がおかしいんですよ。その台詞は、ある意味での離婚届だった。高校を卒業して僕は家を出る事にした。その頃、すでにぐれていた妹は学校の外で作ったらしい男の家に転がり込んでいて、僕を引き止める人は誰もいなかった。
僕は不出来なのかもしれない。
そんな風に思い出したのがいつ頃からかは思い出せないが、今ではきっとそうなのだろうと思っている。
だから日本人なのにヒッチコックと名乗る彼女――本名は知らない――が「あんたダメね」と言う度に「そうだね」と返す。
「ねぇ、シェルダン。あんたはマイナスを愛してるのよ」
「どういう事?」
その日ヒッチコックは上機嫌で帰ってきて、酔っ払っているらしく朝は入念にセットされていた髪をボロボロに乱してワイシャツのボタンが外れて赤いレースが着いたブラジャーを見せながら、僕の足元にあったプラスチックのゴミ箱を抱えて僕の頭に振り下ろした。僕は振り回されてその勢いで、破られたA4サイズのペーパーや僕がさっき捨てたばかりの煙草の灰が部屋の中で洪水のように渦巻きながら飛ぶ光景を見ながら再び振り下ろされるゴミ箱をこめかみの辺りで受けていた。
「あなたにとって世界でプラスと思われている事はマイナスで、マイナスと思われているものこそがプラスだとあなたは思ってるのよ、シェルダン」
「よく分からないよ、ヒッチコック。僕は、一々物事に点数なんてつけない」
「人はそのプラスマイナスを感情と呼ぶのよ。あなたはいつも感情なんてないような顔をしてるけど、本当にゼロになる事なんて出来ないわ」
彼女が今まで僕を殴ってきた人達と違うのは、殴っている間僕と会話をする事を望んだ。今までの人達は殴っている間ただただ黙っている事を強制してきた。そうして殴る事で感情を吐き出すと、今度は僕の許しの言葉も必要とせず、泣いて自分を責めては満足したように僕の前から姿を消した。
ヒッチコックは違う。彼女は殴る意味をいつも探し、僕に殴られる理由を尋ねた。そしてその答えはずっと分からないまま、僕達はその理由を探すために、殴り、殴られた。
ヒッチコック。
そう名乗る彼女と出会った時、僕はやはり殴られていた。その時僕を殴っていたのは名前も知らない男だった。彼は家を出て当てもなくさ迷っていた僕と道端で肩をぶつけると、態度が気に入らないと言って殴りかかってきた。派手に転んだ僕を見た男はそれを見て満足したらしく揚々と歩き去った。僕は道端にしばらく寝転がって、周囲の人達がそんな僕を気味悪そうな目で見ていたが、そんな周囲の視線など構いやしないと言った感じの足音が聞こえ、その音が寝転がった僕の頭のすぐ傍で止まり、空を見ていた僕の視界に彼女が割り込んできた。
「さっきから見てたんだけど」
「…………」
「殴る事に理由ってあるの? ないの?」
「…………」
「答えなさいよ」
「あるんじゃないかな」
「でも殴られる事にアンタは理由いらないのね」
「…………」
「ねぇ」
「…………」
「ちょっと着いておいでよ」
彼女はそう言うと僕を起こす事無くさっさと歩き出した。僕は立ち上がるのは酷く億劫だったけれど、いつまでも寝転がっていて警察でも呼ばれたら困るので着いていく事にした。その日彼女は自分の事をヒッチコックと呼んでと言いアンタはシェルダンねと言った。近くのバーで彼女はまるで恋をした少女のように頬が赤くなるまで酒を飲み、ラブホテルに入ってセックスをして、次の日彼女の家に一緒に帰ってきた僕を殴った。
「なんで殴ったか分かる?」
「分からない」
「私も分からない。理由なくても殴れるみたい」
そう笑った。
その日から僕達の共同生活は始まり、彼女は一週間に一度ほど「私シェルダンの事愛してるみたい」と言い、そして毎日、僕を殴った。ヒッチコックは人はゼロにはなれないと言ったけど、そうしている時の僕達はとてもゼロに近いと僕は思う。殴る理由も殴られる理由もないその暴力は感情的ではなく、機械的だと僕は思ったし、いつしか彼女は理由がない理由があるじゃない、と分かるような分からないような事を言うようになり、僕はやっぱり分からない、と言葉をほしがる彼女に正直にそれだけ伝えると、割れてしまった花瓶から零れて水浸しになった床に雑巾をかけた。
妹は僕の事をマゾだと言った。お兄ちゃん、あのバカな親のせいでおかしくなっちゃったんだよ。ヒッチコックの事を話すと、そのヒッチコックって人可哀想な人だと言った。その人もおかしいんじゃない? そうかもしれない。だけどそれならそれでいいような気がする。なに言ってんのよ、お兄ちゃん。それ以上付き合ってたらもっとおかしくなっちゃうよ。せっかくあの家から出たんだから楽しい事して人生やり直さなきゃ。私、お兄ちゃんの事は本気で心配してるんだからね。
ありがとう、と言って僕は携帯電話を折りたたみテーブルに放り投げた。僕は今ヒッチコックの稼ぎで暮らしていて紐のような生活を送っていた。彼女が仕事に言っている間に僕は掃除や洗濯を済まし、彼女が帰ってくる時間を見計らっては風呂を沸かし、ご飯を作る。そして、殴られる。
「ねぇ、ヒッチコック」
「なに?」
その日、機嫌が悪かったのかそれとも良かったからなのか、いつも以上に攻撃的だったヒッチコックはガラス製の灰皿で僕の頭を殴った。どうやら切れてしまったらしく額から零れた血液が僕の左目に入り込んだ。半分だけ赤く染まった世界は焦点が狂うのも手伝ってまるで悪趣味な妄想が目の前に具現化されたように歪んで見えた。
「君はプラスを愛する? それともマイナスを愛する?」
「私?」
「そう」
「私はプラスを愛するわよ」
「そう。ねぇ、ヒッチコック」
「なに?」
「プラスを愛する君と言う存在はプラスだろうか。マイナスだろうか」
「さぁ、どうかしら」
「僕はきっとマイナスなんだろう」
「そうね、あなたはマイナスで、マイナスを愛するわ」
「ねぇ、ヒッチコック。僕にとって世界はプラスもマイナスも数えようがないほど溢れている。そんな幾つもの1や5や10と言った数字を足したり引いたり掛けたり割ったりして、人は生きていくんだろう?」
「そうね。そうだと思うわ」
「僕達は足しているのか? 引いているのか? 掛けているのか? 割っているのか? ヒッチコック僕はマイナスだ。君はどっちだろう。プラスか? マイナスか? 君はプラスを愛すると言った。ならば君が望む世界はそうなのだろう。ならこの部屋と言う世界は今プラスなのだろうか? もしくは今プラスへ転じようとしている最中なのだろうか? 例えば君がプラスだとしよう。なら僕と混ざり合う事でプラスを生み出すには足すか引くかのどちらかだ。掛けたり割ったりすればマイナスになってしまう。だけどそうしたところで生み出されるのは君と言うプラスが僕と言うマイナスに引きずり込まれているだけだ。10が5になったり3になったりもしかするとマイナス5になっているかもしれない。決して君が愛するプラスが増えていく事はない。そして」
「そして?」
「もし掛ける事割る事でプラスが生まれると仮定した場合、プラスを愛しているはずの君は、マイナスの存在だと言う事になる。ヒッチコック、僕がマイナス5としよう。君もマイナス5だ。ほら、掛ければプラス25だ。プラスを愛している君が望んでいる通りの数字だ。もしかするとこの数字はプラス同士の人間を足し合わせても中々到達する事が出来ない数字かもしれない。君は愛する場所を手に入れられたのかもしれない。だけど」
「だけど?」
「再び離れてしまうとヒッチコック。君はやはりマイナス5だ。プラスとは正反対の位置にいる正反対の人間だ。そう言わざるを得ない。僕達は殴ることに理由はないと言う結論に達しかけた。だがそこにはやはり理由があったんだ。その理由とは、マイナスのまま、君がプラスになる事」
「あなたが殴られる理由は?」
「ないよ」
僕は久しぶりの饒舌に喉が渇くのを覚えた。
「そんなものはない。僕はプラスにも、マイナスにも、興味がないんだよ。殴られる僕に、理由なんてない」
その日から、彼女は僕を殴る事をやめ、ヒッチコックと名乗る事もなくなった。彼女は平凡でしょう? と言いながら本名を名乗ったが、僕はそれを覚えていない。彼女は人が変わったかのように以前と同じように炊事洗濯をする僕の事を有難がるようになり、週に一回だったセックスを三日に一回望むようになり、新しく買った花瓶に明るい色の花を挿すようになった。僕はその変化に彼女が無理をしているのだと言う事はすぐに分かったが、口にするのはやめておく事にした。
誰にでも、生き方がある。父さんにも母さんにも信二さんにも妹にも。そして世界をプラスとマイナスで表現し、自分をマイナスだと思い込み、プラスになろうと今もがいている彼女の生き方に僕が口を挟む事に意味などないような気がした。ある日、僕は彼女が仕事に行くのを見送った後、簡単に掃除を済ませた後、家を出た。ポストに鍵を残して。もしかすると携帯電話に連絡が来るかもしれないと思ったが、何日経っても彼女の名前がディスプレイに表示される事はなく、しばらくして僕は電話帳からその「ヒッチコック」と言う名前を消した。きっと、彼女はまた別の世界を見つけたのだ。それがどんなものかは、僕には分からない。
お兄ちゃんはマゾなのよ。妹の言葉がふと蘇る。
もしかするとその言葉は正解なのかもしれない。
僕達がやっていたのは、足し算でも引き算でも掛け算でも割り算でもなく、むしろそうやって溶け合う事のない受動的な自慰行為の延長線上だったのかもしれない。彼女は僕と言う人間の形をしたバイブレーターを手に入れたような感覚だったのかもしれない。それはそれでいいのかもしれない。一時でも彼女が快楽を手にしたのなら。例え僕と言う玩具に飽きたとしても、きっとまた別の玩具を手に入れる事はそんなに難しい事ではないと思うから。
「ねぇ、また傷増えたんじゃない?」
「そうだね」
「そんなに酷いの? 今の彼女」
「そうだね」
「お兄ちゃん、別れたほうがいいよ」
「いや、いいんだ」
「なんで? ねぇ、殴られるのが嫌で、あの家を出たんじゃないの?」
「どうだろう。そうじゃないかもしれない」
「じゃあ、なんで?」
「さぁ、分からない。ただ」
「ただ?」
「愛だとか、情だとか、そういうものが無意味だと思う。だから殴る事にも意味がないように思う。全て亡羊に生きている間の付属品のような気がする。だから、僕はどうでもいいのかもしれない。ただ、相手が僕にいてほしいからそれに今付き合っているだけのような気がする。そしてそれはそれで、いいのかもしれない」
僕達はそう話を終え喫茶店から出ると「やっぱりお兄ちゃんマゾなんだよ」と言う妹を見送り、彼女の待つ家へと帰る事にした。もしかするとそればかり言って笑って済ましてしまう妹も少しおかしいのかもしれない。僕は後日、知人から妹が彼氏に対して酷い暴力を振るっていると言う話を聞き、そう、と笑顔を零した。僕達はきっと正反対のようで、きっと同じ地平線に立ち、同じ光景を見ている。
彼女は、僕を殴る。
僕は、そういう時どこを見ようか悩み結局彼女の目ではなく、鼻の辺りを見つめる事にしている。
その度に、彼女はそうする僕をいつもじっと見詰める。
ドメスティックバイオレンスと誰かは言い、悪趣味な人はSMと言う。冷めた人に限ってツンデレだなんて的外れな事を言う。
肝心な僕達はそれをなんて表現すればいいか分からない。
殴られる事には元々慣れていた。小さい頃僕の父親は仕事のストレスを抱えて帰ってきてはよく母さんや僕や妹をぶった。そうやって一頻り殴られた後父さんは泣いて僕達に謝ったが、母さんは延々と続く暴力に耐え切れず離婚を申し出た。
「誰のおかげでお前達は生活できていると思っているんだ!!」
テーブルの上に差し出された離婚届を見て、父さんはいつもと同じ台詞を口にした。僕と妹は隣の部屋でその声を聞きながら淡々とそれを聞き流していた。もう、慣れてしまっていたのかもしれない。母さんはその日殴られながら何度も「お願いします」を繰り返した。父さんも最終的には離婚を受け入れる事になった。母さんはその翌年、僕と妹に新しい父親を紹介した。信二さんと言う男は僕と妹に「これから皆で仲良くやっていこう」と微笑み、その翌年母は妊娠し、更にその翌年、僕と妹をぶつようになった。母さんが殴る時に口にする言葉は「あんた達なんていなきゃよかったのに!」だった。父さんと同じように母もある時期を越えると、まるで人格が切り替わったのかと思うように静かに泣いた。僕が中学生になる頃、母は腕力で勝てないと悟ったらしくぶたれる事はなくなったが、その代わりに母さんは少しおかしくなったようだった。ある日、信二さんが僕を呼び出して、僕が母さんを苛めていると言うような事を切り出してきた。その頃、お互いに無視することはあっても、苛め、と言われると身に覚えなどなかったのではっきりと否定をすると、信二さんは僕の頬をはたいた。信二さんは少し悲しそうな顔をして、僕が母さんだけでなく、信二さんと母さんの間に生まれた子供の事を殴っていると聞いた。と教えられた。そんなの嘘ですよ、母さんはちょっと頭がおかしいんですよ。その台詞は、ある意味での離婚届だった。高校を卒業して僕は家を出る事にした。その頃、すでにぐれていた妹は学校の外で作ったらしい男の家に転がり込んでいて、僕を引き止める人は誰もいなかった。
僕は不出来なのかもしれない。
そんな風に思い出したのがいつ頃からかは思い出せないが、今ではきっとそうなのだろうと思っている。
だから日本人なのにヒッチコックと名乗る彼女――本名は知らない――が「あんたダメね」と言う度に「そうだね」と返す。
「ねぇ、シェルダン。あんたはマイナスを愛してるのよ」
「どういう事?」
その日ヒッチコックは上機嫌で帰ってきて、酔っ払っているらしく朝は入念にセットされていた髪をボロボロに乱してワイシャツのボタンが外れて赤いレースが着いたブラジャーを見せながら、僕の足元にあったプラスチックのゴミ箱を抱えて僕の頭に振り下ろした。僕は振り回されてその勢いで、破られたA4サイズのペーパーや僕がさっき捨てたばかりの煙草の灰が部屋の中で洪水のように渦巻きながら飛ぶ光景を見ながら再び振り下ろされるゴミ箱をこめかみの辺りで受けていた。
「あなたにとって世界でプラスと思われている事はマイナスで、マイナスと思われているものこそがプラスだとあなたは思ってるのよ、シェルダン」
「よく分からないよ、ヒッチコック。僕は、一々物事に点数なんてつけない」
「人はそのプラスマイナスを感情と呼ぶのよ。あなたはいつも感情なんてないような顔をしてるけど、本当にゼロになる事なんて出来ないわ」
彼女が今まで僕を殴ってきた人達と違うのは、殴っている間僕と会話をする事を望んだ。今までの人達は殴っている間ただただ黙っている事を強制してきた。そうして殴る事で感情を吐き出すと、今度は僕の許しの言葉も必要とせず、泣いて自分を責めては満足したように僕の前から姿を消した。
ヒッチコックは違う。彼女は殴る意味をいつも探し、僕に殴られる理由を尋ねた。そしてその答えはずっと分からないまま、僕達はその理由を探すために、殴り、殴られた。
ヒッチコック。
そう名乗る彼女と出会った時、僕はやはり殴られていた。その時僕を殴っていたのは名前も知らない男だった。彼は家を出て当てもなくさ迷っていた僕と道端で肩をぶつけると、態度が気に入らないと言って殴りかかってきた。派手に転んだ僕を見た男はそれを見て満足したらしく揚々と歩き去った。僕は道端にしばらく寝転がって、周囲の人達がそんな僕を気味悪そうな目で見ていたが、そんな周囲の視線など構いやしないと言った感じの足音が聞こえ、その音が寝転がった僕の頭のすぐ傍で止まり、空を見ていた僕の視界に彼女が割り込んできた。
「さっきから見てたんだけど」
「…………」
「殴る事に理由ってあるの? ないの?」
「…………」
「答えなさいよ」
「あるんじゃないかな」
「でも殴られる事にアンタは理由いらないのね」
「…………」
「ねぇ」
「…………」
「ちょっと着いておいでよ」
彼女はそう言うと僕を起こす事無くさっさと歩き出した。僕は立ち上がるのは酷く億劫だったけれど、いつまでも寝転がっていて警察でも呼ばれたら困るので着いていく事にした。その日彼女は自分の事をヒッチコックと呼んでと言いアンタはシェルダンねと言った。近くのバーで彼女はまるで恋をした少女のように頬が赤くなるまで酒を飲み、ラブホテルに入ってセックスをして、次の日彼女の家に一緒に帰ってきた僕を殴った。
「なんで殴ったか分かる?」
「分からない」
「私も分からない。理由なくても殴れるみたい」
そう笑った。
その日から僕達の共同生活は始まり、彼女は一週間に一度ほど「私シェルダンの事愛してるみたい」と言い、そして毎日、僕を殴った。ヒッチコックは人はゼロにはなれないと言ったけど、そうしている時の僕達はとてもゼロに近いと僕は思う。殴る理由も殴られる理由もないその暴力は感情的ではなく、機械的だと僕は思ったし、いつしか彼女は理由がない理由があるじゃない、と分かるような分からないような事を言うようになり、僕はやっぱり分からない、と言葉をほしがる彼女に正直にそれだけ伝えると、割れてしまった花瓶から零れて水浸しになった床に雑巾をかけた。
妹は僕の事をマゾだと言った。お兄ちゃん、あのバカな親のせいでおかしくなっちゃったんだよ。ヒッチコックの事を話すと、そのヒッチコックって人可哀想な人だと言った。その人もおかしいんじゃない? そうかもしれない。だけどそれならそれでいいような気がする。なに言ってんのよ、お兄ちゃん。それ以上付き合ってたらもっとおかしくなっちゃうよ。せっかくあの家から出たんだから楽しい事して人生やり直さなきゃ。私、お兄ちゃんの事は本気で心配してるんだからね。
ありがとう、と言って僕は携帯電話を折りたたみテーブルに放り投げた。僕は今ヒッチコックの稼ぎで暮らしていて紐のような生活を送っていた。彼女が仕事に言っている間に僕は掃除や洗濯を済まし、彼女が帰ってくる時間を見計らっては風呂を沸かし、ご飯を作る。そして、殴られる。
「ねぇ、ヒッチコック」
「なに?」
その日、機嫌が悪かったのかそれとも良かったからなのか、いつも以上に攻撃的だったヒッチコックはガラス製の灰皿で僕の頭を殴った。どうやら切れてしまったらしく額から零れた血液が僕の左目に入り込んだ。半分だけ赤く染まった世界は焦点が狂うのも手伝ってまるで悪趣味な妄想が目の前に具現化されたように歪んで見えた。
「君はプラスを愛する? それともマイナスを愛する?」
「私?」
「そう」
「私はプラスを愛するわよ」
「そう。ねぇ、ヒッチコック」
「なに?」
「プラスを愛する君と言う存在はプラスだろうか。マイナスだろうか」
「さぁ、どうかしら」
「僕はきっとマイナスなんだろう」
「そうね、あなたはマイナスで、マイナスを愛するわ」
「ねぇ、ヒッチコック。僕にとって世界はプラスもマイナスも数えようがないほど溢れている。そんな幾つもの1や5や10と言った数字を足したり引いたり掛けたり割ったりして、人は生きていくんだろう?」
「そうね。そうだと思うわ」
「僕達は足しているのか? 引いているのか? 掛けているのか? 割っているのか? ヒッチコック僕はマイナスだ。君はどっちだろう。プラスか? マイナスか? 君はプラスを愛すると言った。ならば君が望む世界はそうなのだろう。ならこの部屋と言う世界は今プラスなのだろうか? もしくは今プラスへ転じようとしている最中なのだろうか? 例えば君がプラスだとしよう。なら僕と混ざり合う事でプラスを生み出すには足すか引くかのどちらかだ。掛けたり割ったりすればマイナスになってしまう。だけどそうしたところで生み出されるのは君と言うプラスが僕と言うマイナスに引きずり込まれているだけだ。10が5になったり3になったりもしかするとマイナス5になっているかもしれない。決して君が愛するプラスが増えていく事はない。そして」
「そして?」
「もし掛ける事割る事でプラスが生まれると仮定した場合、プラスを愛しているはずの君は、マイナスの存在だと言う事になる。ヒッチコック、僕がマイナス5としよう。君もマイナス5だ。ほら、掛ければプラス25だ。プラスを愛している君が望んでいる通りの数字だ。もしかするとこの数字はプラス同士の人間を足し合わせても中々到達する事が出来ない数字かもしれない。君は愛する場所を手に入れられたのかもしれない。だけど」
「だけど?」
「再び離れてしまうとヒッチコック。君はやはりマイナス5だ。プラスとは正反対の位置にいる正反対の人間だ。そう言わざるを得ない。僕達は殴ることに理由はないと言う結論に達しかけた。だがそこにはやはり理由があったんだ。その理由とは、マイナスのまま、君がプラスになる事」
「あなたが殴られる理由は?」
「ないよ」
僕は久しぶりの饒舌に喉が渇くのを覚えた。
「そんなものはない。僕はプラスにも、マイナスにも、興味がないんだよ。殴られる僕に、理由なんてない」
その日から、彼女は僕を殴る事をやめ、ヒッチコックと名乗る事もなくなった。彼女は平凡でしょう? と言いながら本名を名乗ったが、僕はそれを覚えていない。彼女は人が変わったかのように以前と同じように炊事洗濯をする僕の事を有難がるようになり、週に一回だったセックスを三日に一回望むようになり、新しく買った花瓶に明るい色の花を挿すようになった。僕はその変化に彼女が無理をしているのだと言う事はすぐに分かったが、口にするのはやめておく事にした。
誰にでも、生き方がある。父さんにも母さんにも信二さんにも妹にも。そして世界をプラスとマイナスで表現し、自分をマイナスだと思い込み、プラスになろうと今もがいている彼女の生き方に僕が口を挟む事に意味などないような気がした。ある日、僕は彼女が仕事に行くのを見送った後、簡単に掃除を済ませた後、家を出た。ポストに鍵を残して。もしかすると携帯電話に連絡が来るかもしれないと思ったが、何日経っても彼女の名前がディスプレイに表示される事はなく、しばらくして僕は電話帳からその「ヒッチコック」と言う名前を消した。きっと、彼女はまた別の世界を見つけたのだ。それがどんなものかは、僕には分からない。
お兄ちゃんはマゾなのよ。妹の言葉がふと蘇る。
もしかするとその言葉は正解なのかもしれない。
僕達がやっていたのは、足し算でも引き算でも掛け算でも割り算でもなく、むしろそうやって溶け合う事のない受動的な自慰行為の延長線上だったのかもしれない。彼女は僕と言う人間の形をしたバイブレーターを手に入れたような感覚だったのかもしれない。それはそれでいいのかもしれない。一時でも彼女が快楽を手にしたのなら。例え僕と言う玩具に飽きたとしても、きっとまた別の玩具を手に入れる事はそんなに難しい事ではないと思うから。
「ねぇ、また傷増えたんじゃない?」
「そうだね」
「そんなに酷いの? 今の彼女」
「そうだね」
「お兄ちゃん、別れたほうがいいよ」
「いや、いいんだ」
「なんで? ねぇ、殴られるのが嫌で、あの家を出たんじゃないの?」
「どうだろう。そうじゃないかもしれない」
「じゃあ、なんで?」
「さぁ、分からない。ただ」
「ただ?」
「愛だとか、情だとか、そういうものが無意味だと思う。だから殴る事にも意味がないように思う。全て亡羊に生きている間の付属品のような気がする。だから、僕はどうでもいいのかもしれない。ただ、相手が僕にいてほしいからそれに今付き合っているだけのような気がする。そしてそれはそれで、いいのかもしれない」
僕達はそう話を終え喫茶店から出ると「やっぱりお兄ちゃんマゾなんだよ」と言う妹を見送り、彼女の待つ家へと帰る事にした。もしかするとそればかり言って笑って済ましてしまう妹も少しおかしいのかもしれない。僕は後日、知人から妹が彼氏に対して酷い暴力を振るっていると言う話を聞き、そう、と笑顔を零した。僕達はきっと正反対のようで、きっと同じ地平線に立ち、同じ光景を見ている。
退屈な非日常
切れ切れの隙間から覗く向こうの世界は、古びたビデオのようだ、と小関和夫はいつも思うがそういうものを好む。
「なにしてるんですか?」
「いや、別に? なんで?」
職場の同僚である川西卓にそう質問しかえした。小関はなにもない振りをするのが得意だった。と言うより作業をしながら思考だけを遠くに置いているだけなので今までそんなふうに言われる事はなかったので、そう声をかけられた事が少し意外ではあった。
「いや、大した事じゃないです」
「そう」
川西はそう言うと自分の作業場へと視線を戻した。小関はもしかすると思考に陥りすぎて、それが行動に現れていたのかもしれないと思い、自分を少し責めた。あくまで今は仕事中で仕事に支障をきたすようではいけない。とは言え川西自身は彼のそのような思いなど露とも気が付いていなかった。話しかけたのも、ただ退屈だったからだし、ふと見回した時に同じように退屈そうな顔をしていると思ったからであわよくば時間を潰そうと思っていた程度のものだったのだが、彼の態度に当てが外れたと思うと早々に会話を打ち切る事にした。
元々小関はあまり口数が多いタイプではない。仕事はちゃんとしているので後輩が意見を求める事はあるが、彼が仕事終わりに連れ添って遊びに出かけたり、羽目を外す姿を見た事などないし、彼のプライベートがどんなものなのかも、よく分からない。
「あーあ、早く終わらないかな」
川西のぼやきを聞き流す。特に返事をする必要はないように思えた。
ただ、早く終わっても特にする事はないし、終わらなくても思考は別の場所で常に続いている。
人生とは川のようだと小関は思う。ただ、上流から下流へと流れていくだけのもの。
泳ぎ方は自由にすればいい。ただ流されるだけだとしてもそれも一つの流れではある。例え溺れたとしても、それはそうだ。
「小関、俺、死のうと思うんだ」
「急にどうした?」
友人ではあるが、高校を卒業してから連絡を取るのは一年に一回あるかないか位の付き合いになっていた重松裕也が電話越しにそう言ってきた。彼の事を思い出そうとして蘇るのはいつも、学生服を着て授業中先生にばれないように漫画を読んでいたあの背中姿だ。卒業してからそれなりに立つが、久しぶりに会った彼は以前よりも少し太っていたようだったが、こうやって電話越しに話している時に想像する彼は今も学生服を見に纏っている。生来明るい性格だった彼は、いつも同じ面子で静かに過ごした小関と違い、友人も多く昼休みになっては教室を飛び出しどこかへと飛び出していた。そんな彼が今友人の中でも特別親しいとは思えない自分に、死のうと思う、と蚊の鳴くような声でそう告げられた。
なにがあったのだろう、とは思わなかった。なにかがあってそう思った事は間違いないし、それを聞く気にもならなかった。重松は聞いてくれない事に若干戸惑いと、それ以上に安心感を覚える。理由を説明すると言う事は、原因を思い出すという事だし、その作業は今の彼には苦行だった。
「本当に死ぬの?」
引き止める、と言うよりも単なる確認のようにそう聞かれた。これがもっと親しい友人達だったら今頃必死になって、説得をしてくれていたのかもしれなかった。
なにがあったんだよ。辛い事はあるかもしれないけど元気出そうぜ。その内いい事があるからさ。今日は俺が飯でも奢ってやるから出てこいよ。なんなら女も紹介してやるからさ。死ぬなんて言ったらダメだよ、今死ぬなんて勿体無いぜ。
事実、まだ決めかねている時にふと身近にいた人間に「死ぬってどんなものかな?」と尋ねてみると、相手は軽く質問したつもりだと言うのに滅多な事言うもんじゃない、としばらく小言に付き合わされた。そしていざ死ぬと決めて、ふと寂しくなり誰かの声を聞きたいと思った時、今の自分の本心をただ黙って聞いてくれるのは小関だけのような気がした。どうしてかは分からない。彼とそれまでお互いの人生観を語り合ったりするような事もなかったし、二人だけの共有した思い出と言えるようなものもないが、だからこそ、一歩離れた場所で自分の全体像を俯瞰のような視線で見ており、それ以上なにも言わない彼が楽だと思ったのかもしれない。
「うん、死ぬ。けど」
「けど?」
「死ぬ勇気がないんだ。情けないんだけど」
小関は思う。
重松、君は僕を友人ではなくフリーコールの電話相談室のようなものだと思っているから、そんな事を伝えられるんだ。君は、本当の友人に本性を曝け出してあとずされる事を、死を間近に迎えてでも恐れているから、金輪際連絡がなくなっても構わない僕に連絡をしてきたんだ。
そして、
「じゃあ、僕が殺してあげようか?」
「本気で言ってるのか?」
「ばれなければいいんだ。君が本当に死にたいなら殺してあげよう」
例え僕が君を殺した事で、世間に後ろ指を刺されるような事になったとしても、あの世で君が罪を感じないで済むように、僕を選んだんだろう。
重松はもし本当に殺してくれるなら、貯金の数千万を全てやってもいいと冷静にそう告げてきた。自分が行く前に全て引き出しておいてくれ、と告げ電話を切った。携帯電話も、手も、どちらもひんやりとしていて、まるで世間話が終わった後と大差ないように小関はベッドへと転がり込んだ。
数千万が手に入ったらどうするか、とまず考え、明日には「やっぱり死ぬのやめる」と重松が言ってくるかもしれないと考えた。
重松がなぜ死ぬのか、重松が死んだらどうなるのか、自分は重松を殺してどう思うだろうか。もしその殺人がばれたら自分はどうなるだろうか。そういった事は考えなかった。
翌日、準備が出来たと言う重松の電話に従い、仕事休みの前日、一度家に帰ってから風呂に入ると車ではなくJRで彼が住んでいる隣県へと向かった。それは車を運転するのが面倒というだけで駅からはタクシーに乗った。どうせ数千万が入るのだから、その中に交通費も含まれていると思えば安い物だった。途中あまり大きくないデパートに立ち寄り皮製の手袋を買った。店員にすぐ使うので袋はいらないと言い、値札を取り外して貰うとその場で身につけた。
午後十時ごろ、彼の家の前にやってきて少し離れた場所から電話をかける。すぐ傍にいるから鍵を開けてくれ、と伝えた。返事どおり玄関へとやってきてドアのぶを回すとドアはすぐに開いた。
「久しぶり」
「久しぶり」
小関の、そう言われたから言い返した、と言う感じの台詞に重松は苦笑した。久しい彼の姿を見て、そういえばこんな顔だったと思い出す。なぜか、自分の中で小関の顔は目や鼻や口と言った部分部分での造形を思い出すことは出来ても、それを上手く整える事が出来なかった。思い出すべき表情がなかったのかもしれない。笑ったり、怒ったり、悲しんでいる姿は思い出として胸に残しやすいが、無表情と言うものはなにもない空洞のようでうまく掴む事が出来なかった。
「本当に来てくれたんだな」
「どうして?」
「こんな事引き受けてくれるとは思わなかったから。怖くないのか?」
小関は「遺書は書いてくれた?」と言い、事前にそう言われていた重松は「もう済ました」と答えると「なら大丈夫だろう」と質問には答えなかった。
「じゃあ、やるよ。君は酒と睡眠薬を同時に服用して自殺する。それでいい?」
「あぁ、別に死に方なんてどうでもいい」
既に用意していた酒と通院していた心療内科で処方された一週間分の睡眠薬。
果たしてその量で誤っても死に至る事が出来る事など出来るだろうか、と思ったが追求する事はやめておく事にした。もし、不審死と判断されても、自分にはあまり関係がないような気がした。
重松は顔を赤くするまで酒を飲み途中「やっぱ死ぬのやめようかなー」などと息巻いた。それでも睡眠薬を手袋越しに手渡すと彼は素直に全てアルコールと共に喉へと流し込んだ。まるで酒のつまみ代わりと言うように。
程なくして彼が床に転がって寝息をかきはじめた。
小関は彼の鼻と口を抑えた。
彼の体が一旦ピクリと止まり、その直後苦しさから逃れようと無意識に左右へと揺れる。それでも脱力仕切っている体では空しい抵抗だった。
「うう! うう!」
なにも考えない。目を閉じる事もしない。ただ、死に行く友人を見つめるがその視線にも意味はない。
一体、なにをすればこの景色にピタリとはまるのだろうか。しかしピタリとはまろうとも思わない。
なら、これでいい。
動かなくなった重松の腕を取り脈を確認する。どうやら望みどおり死ぬ事が出来たようで、ゆっくりとそれを床に下ろすと、家から出てやってくる前に作ってもらった合鍵を使い鍵を閉めた。
数千万円は思っていたよりも小さなアタッシュケースに入れられており、JRは明日になれなければ乗れないのでそれを左手に持ちながらしばらく歩いたところで漫画喫茶に入った。会員証を作らなくてもいいらしいその店の店員は雑な対応で札を手渡すと、もう用はないと言うように席へと彼を促し、素直にそれに従い入ったブースの中で、眠る事にした。
「なにしてるんですか?」
「いや、別に? なんで?」
「いや、大した事じゃないです」
「そう」
そう言って離れていく川西の背中姿を見送る事無く、小関は自分の仕事を続ける。
目の前に積み上げられた雑多な光景の隙間を覗いてみる。
出来の悪い四コマ漫画を見ているようだが、かと言ってそこに起承転結なるものはなく、それでも小関はそこに目には見えないなにかがあると思っているようにその隙間に目を凝らしていた。
「ねぇ、川西君」
「なんすか?」
仕事終わりの帰り際、小関にそう呼び止められる。彼からこうやって声をかけられるのは珍しかったが、用件は彼にとっては面白くもつまらなくもないものだった。
「日曜日悪いんだけど僕の仕事受け持ってもらえるかな」
「え? どうしたんですか?」
「ちょっと友人の葬式に出ないといけなくてね。有給をもらったんだ」
「あ、そうなんですか? じゃあ、やっときますよ」
「悪いね」
「今度なんか奢ってください」
葬式に行くと言う彼に対して失礼な言葉だったろうか? と一瞬思ったが、小関はまるで気にしていないように「いいけど」と答えた。
「なに奢ってくれるんですか?」
「なにがいいの?」
「じゃあやっぱ居酒屋とかですか? 小関さんって給料なんに使ってるんですか?」
「特にないね」
「じゃあ、貯まってるでしょ」
「いや、普通だよ」
謙遜するようなその言い方に川西は、自分の計画性のない性格を嘆いた。
「俺すぐに使っちゃうからすぐにお金なくなっちゃうんですよねぇ。今数千万とかあったら人生やり直せる気がするんだけどなぁ」
その言葉に、小関は、一瞬首を傾げ、
「そうかもしれないね」
とだけ告げた。
切れ切れの隙間から覗く向こうの世界は、古びたビデオのようだ、と小関和夫はいつも思うがそういうものを好む。
「なにしてるんですか?」
「いや、別に? なんで?」
職場の同僚である川西卓にそう質問しかえした。小関はなにもない振りをするのが得意だった。と言うより作業をしながら思考だけを遠くに置いているだけなので今までそんなふうに言われる事はなかったので、そう声をかけられた事が少し意外ではあった。
「いや、大した事じゃないです」
「そう」
川西はそう言うと自分の作業場へと視線を戻した。小関はもしかすると思考に陥りすぎて、それが行動に現れていたのかもしれないと思い、自分を少し責めた。あくまで今は仕事中で仕事に支障をきたすようではいけない。とは言え川西自身は彼のそのような思いなど露とも気が付いていなかった。話しかけたのも、ただ退屈だったからだし、ふと見回した時に同じように退屈そうな顔をしていると思ったからであわよくば時間を潰そうと思っていた程度のものだったのだが、彼の態度に当てが外れたと思うと早々に会話を打ち切る事にした。
元々小関はあまり口数が多いタイプではない。仕事はちゃんとしているので後輩が意見を求める事はあるが、彼が仕事終わりに連れ添って遊びに出かけたり、羽目を外す姿を見た事などないし、彼のプライベートがどんなものなのかも、よく分からない。
「あーあ、早く終わらないかな」
川西のぼやきを聞き流す。特に返事をする必要はないように思えた。
ただ、早く終わっても特にする事はないし、終わらなくても思考は別の場所で常に続いている。
人生とは川のようだと小関は思う。ただ、上流から下流へと流れていくだけのもの。
泳ぎ方は自由にすればいい。ただ流されるだけだとしてもそれも一つの流れではある。例え溺れたとしても、それはそうだ。
「小関、俺、死のうと思うんだ」
「急にどうした?」
友人ではあるが、高校を卒業してから連絡を取るのは一年に一回あるかないか位の付き合いになっていた重松裕也が電話越しにそう言ってきた。彼の事を思い出そうとして蘇るのはいつも、学生服を着て授業中先生にばれないように漫画を読んでいたあの背中姿だ。卒業してからそれなりに立つが、久しぶりに会った彼は以前よりも少し太っていたようだったが、こうやって電話越しに話している時に想像する彼は今も学生服を見に纏っている。生来明るい性格だった彼は、いつも同じ面子で静かに過ごした小関と違い、友人も多く昼休みになっては教室を飛び出しどこかへと飛び出していた。そんな彼が今友人の中でも特別親しいとは思えない自分に、死のうと思う、と蚊の鳴くような声でそう告げられた。
なにがあったのだろう、とは思わなかった。なにかがあってそう思った事は間違いないし、それを聞く気にもならなかった。重松は聞いてくれない事に若干戸惑いと、それ以上に安心感を覚える。理由を説明すると言う事は、原因を思い出すという事だし、その作業は今の彼には苦行だった。
「本当に死ぬの?」
引き止める、と言うよりも単なる確認のようにそう聞かれた。これがもっと親しい友人達だったら今頃必死になって、説得をしてくれていたのかもしれなかった。
なにがあったんだよ。辛い事はあるかもしれないけど元気出そうぜ。その内いい事があるからさ。今日は俺が飯でも奢ってやるから出てこいよ。なんなら女も紹介してやるからさ。死ぬなんて言ったらダメだよ、今死ぬなんて勿体無いぜ。
事実、まだ決めかねている時にふと身近にいた人間に「死ぬってどんなものかな?」と尋ねてみると、相手は軽く質問したつもりだと言うのに滅多な事言うもんじゃない、としばらく小言に付き合わされた。そしていざ死ぬと決めて、ふと寂しくなり誰かの声を聞きたいと思った時、今の自分の本心をただ黙って聞いてくれるのは小関だけのような気がした。どうしてかは分からない。彼とそれまでお互いの人生観を語り合ったりするような事もなかったし、二人だけの共有した思い出と言えるようなものもないが、だからこそ、一歩離れた場所で自分の全体像を俯瞰のような視線で見ており、それ以上なにも言わない彼が楽だと思ったのかもしれない。
「うん、死ぬ。けど」
「けど?」
「死ぬ勇気がないんだ。情けないんだけど」
小関は思う。
重松、君は僕を友人ではなくフリーコールの電話相談室のようなものだと思っているから、そんな事を伝えられるんだ。君は、本当の友人に本性を曝け出してあとずされる事を、死を間近に迎えてでも恐れているから、金輪際連絡がなくなっても構わない僕に連絡をしてきたんだ。
そして、
「じゃあ、僕が殺してあげようか?」
「本気で言ってるのか?」
「ばれなければいいんだ。君が本当に死にたいなら殺してあげよう」
例え僕が君を殺した事で、世間に後ろ指を刺されるような事になったとしても、あの世で君が罪を感じないで済むように、僕を選んだんだろう。
重松はもし本当に殺してくれるなら、貯金の数千万を全てやってもいいと冷静にそう告げてきた。自分が行く前に全て引き出しておいてくれ、と告げ電話を切った。携帯電話も、手も、どちらもひんやりとしていて、まるで世間話が終わった後と大差ないように小関はベッドへと転がり込んだ。
数千万が手に入ったらどうするか、とまず考え、明日には「やっぱり死ぬのやめる」と重松が言ってくるかもしれないと考えた。
重松がなぜ死ぬのか、重松が死んだらどうなるのか、自分は重松を殺してどう思うだろうか。もしその殺人がばれたら自分はどうなるだろうか。そういった事は考えなかった。
翌日、準備が出来たと言う重松の電話に従い、仕事休みの前日、一度家に帰ってから風呂に入ると車ではなくJRで彼が住んでいる隣県へと向かった。それは車を運転するのが面倒というだけで駅からはタクシーに乗った。どうせ数千万が入るのだから、その中に交通費も含まれていると思えば安い物だった。途中あまり大きくないデパートに立ち寄り皮製の手袋を買った。店員にすぐ使うので袋はいらないと言い、値札を取り外して貰うとその場で身につけた。
午後十時ごろ、彼の家の前にやってきて少し離れた場所から電話をかける。すぐ傍にいるから鍵を開けてくれ、と伝えた。返事どおり玄関へとやってきてドアのぶを回すとドアはすぐに開いた。
「久しぶり」
「久しぶり」
小関の、そう言われたから言い返した、と言う感じの台詞に重松は苦笑した。久しい彼の姿を見て、そういえばこんな顔だったと思い出す。なぜか、自分の中で小関の顔は目や鼻や口と言った部分部分での造形を思い出すことは出来ても、それを上手く整える事が出来なかった。思い出すべき表情がなかったのかもしれない。笑ったり、怒ったり、悲しんでいる姿は思い出として胸に残しやすいが、無表情と言うものはなにもない空洞のようでうまく掴む事が出来なかった。
「本当に来てくれたんだな」
「どうして?」
「こんな事引き受けてくれるとは思わなかったから。怖くないのか?」
小関は「遺書は書いてくれた?」と言い、事前にそう言われていた重松は「もう済ました」と答えると「なら大丈夫だろう」と質問には答えなかった。
「じゃあ、やるよ。君は酒と睡眠薬を同時に服用して自殺する。それでいい?」
「あぁ、別に死に方なんてどうでもいい」
既に用意していた酒と通院していた心療内科で処方された一週間分の睡眠薬。
果たしてその量で誤っても死に至る事が出来る事など出来るだろうか、と思ったが追求する事はやめておく事にした。もし、不審死と判断されても、自分にはあまり関係がないような気がした。
重松は顔を赤くするまで酒を飲み途中「やっぱ死ぬのやめようかなー」などと息巻いた。それでも睡眠薬を手袋越しに手渡すと彼は素直に全てアルコールと共に喉へと流し込んだ。まるで酒のつまみ代わりと言うように。
程なくして彼が床に転がって寝息をかきはじめた。
小関は彼の鼻と口を抑えた。
彼の体が一旦ピクリと止まり、その直後苦しさから逃れようと無意識に左右へと揺れる。それでも脱力仕切っている体では空しい抵抗だった。
「うう! うう!」
なにも考えない。目を閉じる事もしない。ただ、死に行く友人を見つめるがその視線にも意味はない。
一体、なにをすればこの景色にピタリとはまるのだろうか。しかしピタリとはまろうとも思わない。
なら、これでいい。
動かなくなった重松の腕を取り脈を確認する。どうやら望みどおり死ぬ事が出来たようで、ゆっくりとそれを床に下ろすと、家から出てやってくる前に作ってもらった合鍵を使い鍵を閉めた。
数千万円は思っていたよりも小さなアタッシュケースに入れられており、JRは明日になれなければ乗れないのでそれを左手に持ちながらしばらく歩いたところで漫画喫茶に入った。会員証を作らなくてもいいらしいその店の店員は雑な対応で札を手渡すと、もう用はないと言うように席へと彼を促し、素直にそれに従い入ったブースの中で、眠る事にした。
「なにしてるんですか?」
「いや、別に? なんで?」
「いや、大した事じゃないです」
「そう」
そう言って離れていく川西の背中姿を見送る事無く、小関は自分の仕事を続ける。
目の前に積み上げられた雑多な光景の隙間を覗いてみる。
出来の悪い四コマ漫画を見ているようだが、かと言ってそこに起承転結なるものはなく、それでも小関はそこに目には見えないなにかがあると思っているようにその隙間に目を凝らしていた。
「ねぇ、川西君」
「なんすか?」
仕事終わりの帰り際、小関にそう呼び止められる。彼からこうやって声をかけられるのは珍しかったが、用件は彼にとっては面白くもつまらなくもないものだった。
「日曜日悪いんだけど僕の仕事受け持ってもらえるかな」
「え? どうしたんですか?」
「ちょっと友人の葬式に出ないといけなくてね。有給をもらったんだ」
「あ、そうなんですか? じゃあ、やっときますよ」
「悪いね」
「今度なんか奢ってください」
葬式に行くと言う彼に対して失礼な言葉だったろうか? と一瞬思ったが、小関はまるで気にしていないように「いいけど」と答えた。
「なに奢ってくれるんですか?」
「なにがいいの?」
「じゃあやっぱ居酒屋とかですか? 小関さんって給料なんに使ってるんですか?」
「特にないね」
「じゃあ、貯まってるでしょ」
「いや、普通だよ」
謙遜するようなその言い方に川西は、自分の計画性のない性格を嘆いた。
「俺すぐに使っちゃうからすぐにお金なくなっちゃうんですよねぇ。今数千万とかあったら人生やり直せる気がするんだけどなぁ」
その言葉に、小関は、一瞬首を傾げ、
「そうかもしれないね」
とだけ告げた。
SF
西暦2999年12月31日。
ミレニアムを祝うため僕は、渚に連れられて遊園地の人込みの中で、空を見上げていた。
なにもない空間に投影されたホログラム映像の時計があと五分で年が変わる事を教えてくれている。その近辺を遊園地のイメージキャラクターたちが光の尾を引きながら飛び回っていた。
「陸、もっと中央のほうに行こうよ」
「無茶言うなぁ」
遊園地の中央にあるタワーは年末年始限定のイリュミネーションを施されて、煌びやかに装丁されていたが、その近くには数日前からその場所を確保していたのかもしれないと思ってしまう程人が集まっていた。今僕達がいる場所ですら、歩くたびに人と肩が当たらないように気をつけないといけない。彼女は器用にその人並みを掻き分けるが、あまりそういった事が得意ではない僕は、何度か他人とぶつかり、その度に「すいません」と謝った。相手は同じように謝ったり、「いや、いいよ」と軽く流したり、無反応だったりと様々な対応を見せたが、一様に同じなのは、ミレニアムを迎えるイベントを前にそんな些細な事は笑って許してしまえる雰囲気だった。
「ここからでも充分見れるんだからいいじゃないか」
「それはそうだけど。ニュースでやってたけど、まだ秘密だけど最新技術を使って凄い事やるって言ってたから気になって」
「そんなの今日最新ってだけで、その内いつでも見られるようになる」
僕は当たり前の事を言うが、彼女は納得してくれなかった。まぁ、そうかもしれない。僕はその最新技術と言うものに全く興味がなかったが彼女はそうではない。「陸はムードってものが分かってないなぁ」と溜め息混じりに言われ、それは間違いがないと僕も同調した。如何せんこういうものにはあまり縁がない。
彼女が僕に背を向けて空を見上げている。キャミソール一枚で肩があらわになったその姿を僕は見つめた。僕と同い年の彼女が声を上げるたびに胸元の辺りまで伸びた栗色のストレートヘアーが踊るように揺れ、ミニスカートから、少し力を込めると折れてしまいそうな腰から伸びる細い足が伸びたり曲がったりしていた。ふと季節と言うものがなくなったのはいつだったろうか、と考える。確か2500年頃からだったはずだ。その頃から日本に冬が訪れる事はなくなった。それより前世界は地球温暖化を防ごうと躍起になっていた時代もあったが、環境を破壊せずに地球を常に温暖に保つ装置が開発され、今では朝から夜まで常に一定の気温が保たれている。
そういう話を渚にすると、彼女はあまり興味がないらしく「ふうん」と曖昧な返事をしたが、雪の話をする時だけは食いついてきたものだ。
「空から氷の結晶が落ちてくるんだ。雨と言うよりは白い花弁が舞っているような感じかな。場所によっては、雨よりも強く降る事もあるけど」
「ふうん。どうしてその雪は降るの?」
「雲があるだろう? 雲は水蒸気をはらんでいる。その水蒸気が空中の粒子と混ざり合い、気体から固体に変わり地面へと落下するんだ」
「雨とは違うんだ」
「地面に落ちる前に溶けてしまうと雨と言う事になる。気温によって変わるんだよ。今は0度以下になる事がないから見られないけれどね。正確に言うと違うけれど雪は白くてね。静かに降っている光景はとても綺麗なんだ。そう、人工のイリュミネーションよりもそちらのほうがいいと思う人もいるかもしれない。雪は地球と言う自然が生み出した芸術の一つなんだよ。渚が綺麗だって前に言っていた珊瑚礁が生息するような澄んだ海と同様にね」
「まるで見てきたように言うんだね」
「見たよ」
その僕の言葉に、その時彼女は、軽く突き出された瑞々しく形のいい唇が「どうやって?」と紡ぎ、アーモンド形の大きな目を僕に向けた。
「映像でだけどね。綺麗だったよ」
「なーんだ、テレビか。私もそれ見ればよかったな」
テレビではないんだけど、だけど僕はその過ちを指摘するのはやめておく事にした。どうせどうやってそれを見たかと言う事など伝えたところで、僕にも彼女にもなんら価値はなかったし、実際に触る事が出来ない物を自慢げに語ったってしょうがないと僕はたまに思う。
「陸って、たまに急に暗い顔になるよね」
「そんな事はないよ」
彼女の声に僕は思索から帰ってくる。
「せっかくのミレニアムにそんな顔してるの勿体無いよ」
「あぁ、そうだね」
僕達のすぐ傍を飛んでいるキャラクターに、飲み物を注文する。キャラクターに遊園地のパスポートを見せ、照合を済ますとキャラクターは「ちょっと待っててね!」と告げクルクルと飛び去っていった。パスポートにはセンサーが内蔵されており遊園地内ならどこにいても僕達を見失う事がない。キャラクターは両手にジュースを持って、この人込みの中でも迷う事無く僕達に「はい!」と飲み物を差し出してきた。一時期その機能が監視されているようだと問題になったりもしたそうだが、犯罪防止に大いに役立っている事と、なにより便利だからと言う事でその問題はすぐに立ち消えになったそうだ。僕にはそんな事を問題にしようとする連中がいる事事態が理解できない。何事にも文句を言う人はいるからね、と渚は呆れていた。
「ほら、もうすぐ時間」
彼女が空中の時計を指差し、僕もそれを追った。
23時59分。店内アナウンスが「さぁ、ミレニアムまで残り一分となりました」と告げている。
残り二十秒からカウントダウンを始めます、と教えられ僕達はタワーの方へと視線を向ける。
渚が僕のほうに近寄ってきて腕を組んできた。彼女は僕と視線を交わすと「えへへ」と嬉しそうに笑う。僕はそうしている彼女に人目を憚らずキスをした。彼女は僕がしようとしている事に気が付くと目を閉じ背伸びをしてこちらへと少し顔を寄せる。
「ねぇ、渚」
「なに?」
上気したような彼女の顔を見るのが恥ずかしく、僕は目を逸らす。
「葉山達臣って知ってる?」
「え? 誰?」
「葉山達臣」
彼女は少し考え込んだが首を振った。
「知らない」
「だろうね」
「なに? その人がどうかしたの?」
キスの後にそんな知らない男の話を始めた僕に、少し不機嫌そうだった。僕は少し宥めるような表情をしてタワーの方を指差す。
「ほら、もうすぐカウントダウンだよ」
「ちょっと、気になる。その人がなに?」
「そうだね」
そう呟いたところでカウントダウンが始まった。僕はそれに参加する事無く続きの言葉を口にする。
「どうかしたの? と渚が言ったけど、正確に言うと今はまだなにもしていない。いや、もうしていると言ってもいいか」
「え? なに!?」
周りの声に掻き消されてしまう僕の声を、それでも拾おうと彼女は負けじと声を出した。
「葉山達臣はね、工学系の大学に通っていて確か今21歳だ。彼は常日頃から鬱屈した感情を胸の内に秘めていたらしい。彼が言うには「周りの人はいつも僕を責めていた」らしい。葉山達臣はその正体のないプレッシャーから逃げ出したくてしょうがなかったそうだ。彼が思いついた方法は荒唐無稽だったが、単純ではあった。自分自身に、自分には力があると伝える事で、そのプレッシャーに打ち勝とうとしたらしい。彼はこうも言っている。「自分に自信を持てば変われるような気がした」だそうだ。彼は大学では至って平凡な成績だったらしい。だから多分、今回の事ももしかするとちょっとした手違いだったのかもしれない。彼はきっと自分が作った物がそこまでの惨事を引き起こしてしまうとは思っていなかったんだろう」
「どうしたの? 急になに言ってるの?」
僕の言っている事が全く理解出来ない渚は、怖がるように僕を見た。組んでいた腕が緩まり無意識の内に離れてしまう。僕はタワーから彼女へと正対すると、両手を彼女の両頬へと伸ばした。柔らかに膨らんだ感触を僕は空しさと共に感じる。
「渚、君は雪だ」
「え?」
「10!」とカウントダウンが続く。
「僕達は時として、この手で振れた事もこの目で見た事もないものを、まるでよく知っているかのように話す事がある。それは知識と言われるもので古今東西その知識は正しい物として存在している。そこには解釈があり、理論があり、整合性を持ち、リアリティを産む。だけどそこに感情はない。だけど僕達はいつもそこに感情と言う僕達の思考を加える事によって、色んな知識を歪曲させてしまう事がある。それはしょうがない事なんだ。ベートーベンやムンクやニーチェやアインシュタインを偉大だと言うのは事実だが、誰もがそういったものを賞賛しなければならないと言う歪曲があるのもまた事実だ。僕は彼らの事をなにも知らないけれどどんな生い立ちだったかは知っているし、知らない人にどんな生涯だったか教えてあげる事は出来る。だけどそこにあるのは僕に歪曲されてしまったイメージでしかない。本物ではないんだ。そう、君が見た事がない雪もそれと全く同じで、雪を見た事があるという僕も本当は君と変わらないかもしれない」
「どういう事?」
「この手で触れて、この目で見た雪も、君も、所詮は偽者だって事」
「6!」
その声に僕は目を伏せ、やってくる衝撃に体を緊張させた。
それは一瞬の事で、先を急いだ誰かの「5!」と言う声に皆が苦笑をしようとした頃、タワーの一階部分のすぐ傍で爆発が起こった。突然の事に現場はパニックとなり、付近にいて爆発に巻き込まれた人達は既に息絶えた者もいれば、手足を損ない嗚咽をあげる者もいる。無事だった人は混乱状態のままその場から逃げ出そうと、人波を掻き分けようとしていたが、皆がそうするためおしくらまんじゅうのように突き飛ばされては倒れ、別の誰かを倒し、その倒れた人に気付かないままその上を何人もが通り過ぎていった。
警備員達が駆けつけようとしているのを、僕は離れた場所で見ていた。葉山達臣はその光景の中ポツンと立ちすくんで、やってきた警備員に素直にその身を拘束されるそうだ。彼は自分が作った爆弾によってこのミレニアムを祝っている人達に復讐をしようともくろんでいたそうだが、誰かを殺すつもりは欠片としてなかったと言う。実際には十数人は死亡しそれ以上の重軽傷者もいたが、彼はただひたすらに「ただ、僕は見返したかった」と言い、後日自殺する。
悲惨な光景から少し離れた場所に僕達はいたが、渚が腰を抜かしてしまったのか、へなへなとその場に座り込んだ。
「もう大丈夫だよ。安心して」
「なんなの、これ」
「大丈夫」
僕はそう繰り返しながら、彼女はこれからどうなったのだろう、と思ったが、もしかすると「本当の彼女」はこの日、ここにはいなかったかもしれないし、もしくは別の男といたとして、もっとタワーの傍へと近付こうとして死んでいた可能性もある。そうだとすれば今彼女が胸にトラウマを抱えたとしても、それは大した問題ではなかった。
「そろそろ、お終いだ」
「……お終い?」
「そう。この世界での話は、もうお終い」
僕は目を開けた。コンピューターの電源を切り、椅子から立ち上がる。
時間を見て、僕は少し寝すぎてしまったようだ、と溜め息を吐いた。時計は1月1日になっており僕はミレニアムの瞬間を眠りと共に迎えてしまったのだが、どうせ一緒に過ごす相手もいないのだし、どうでもいい事だった。僕は2000年のミレニアムはどんなものだったのだろう、とぼんやりと考え「ハッピーミレニアム4000」と呟いた。
西暦4000年に僕は生きている。僕達の時代に流行っているのが時代逆行だった。タイムマシーンと言うものはいつの時代も度々夢のようにその姿を浮かび上がらせたが、僕達の時代でもそれはまだ開発されていない。僕達が行っている時代逆行はあくまでコンピューターにシミュレートされた仮想現実の過去を遡る事が出来るというだけだ。千年以上にも及ぶ過去のデータ構築は開発当初はなんども躓いたようだったが、今では誰もが気軽に利用できるようになっている。4000年になった事で。恐らくあと一月もすれば3999年のデータもすぐに作られるだろう。データの更新は今では簡単なものだった。僕達の遺伝子情報は生まれたときから国に管理され、あらゆる情報が登録されているし、なにより人口が1000年前に比べれば格段に少ないので作業量は大したものではなかった。
僕はコーヒーを飲みながら、次はいつの時代に行こうかと思うが、ふと自分は無駄な事をしているとも思う。それはきっと僕だけではなく、時代逆行をする誰もがふと思うことではないだろか。
渚。
彼女は実際に西暦3000年にその時代を生きていた筈だが、僕と過ごしていた彼女は正確に言うと、本物の彼女ではなく、コンピューターのデータを僕が弄り、4000年からやってきた僕の恋人になるという設定を入力されコントロールされた、いわば仮想の人間とも言えた。彼女を選んだ理由に特に深い理由はなく、容姿が好みに近かっただけというものだ。実際の彼女は当時どんな暮らしをしていたのだろうと思うが、それはしばし時を共に過ごして浮かぶ郷愁のようなものだ。中には仮想現実の中に本物の恋愛を見つけて、現実に生きる事をやめてしまうような人もいるそうだが、僕自身にはその神経はとても理解できるものではなかった。
結局のところ、僕達になにもかも好き勝手に弄られ、都合のいいように存在するように改竄された彼女達はデータの集合体でしかなく、それは、そう、あくまで本物ではなく、データとして作られているだけの雪とさして変わらないような気がする。たとえコンピューターの中で去年のデータをいじくったとしても現実での未来はなにも変わる事はないし、そのデータもリセットしてしまえば全て何事もなかったようにまた同じ光景が蘇るだけなのだ。
僕は再びコンピューターの電源をつけ、ネットに繋ぎ、あの遊園地の事を検索する。
ミレニアムでの爆破事件は今でも探せば情報を見つけられた。葉山達臣の名前も所々で見かけられる。僕はその中である情報を探し出し、そしてあぁ、そんなものか、と吐息を一つ零した。
『で、さぁ、当時の最新技術ってなんだったの?』
『あぁ、あれ確か人口太陽のお披露目だったらしいよ。3002年から本格的に稼動しだしたけどテストを兼ねてやってみる予定だったらしい』
『は? そんなもんミレニアムに発表するほどのもんなの?』
『1000年前の事に文句言うなよ。当時は凄い発明だったんだよ』
なるほどね、と僕は、窓の外を見つめた。
午前1時。外には人口太陽が日の光を注ぎ街に影を落としている。
僕は、当時の彼らが知っていた事を知識としては知っているけれど、その感覚を知らない。
この世界には2000年にはあった雪も、そして3000年にはあった夜も、ない。
西暦2999年12月31日。
ミレニアムを祝うため僕は、渚に連れられて遊園地の人込みの中で、空を見上げていた。
なにもない空間に投影されたホログラム映像の時計があと五分で年が変わる事を教えてくれている。その近辺を遊園地のイメージキャラクターたちが光の尾を引きながら飛び回っていた。
「陸、もっと中央のほうに行こうよ」
「無茶言うなぁ」
遊園地の中央にあるタワーは年末年始限定のイリュミネーションを施されて、煌びやかに装丁されていたが、その近くには数日前からその場所を確保していたのかもしれないと思ってしまう程人が集まっていた。今僕達がいる場所ですら、歩くたびに人と肩が当たらないように気をつけないといけない。彼女は器用にその人並みを掻き分けるが、あまりそういった事が得意ではない僕は、何度か他人とぶつかり、その度に「すいません」と謝った。相手は同じように謝ったり、「いや、いいよ」と軽く流したり、無反応だったりと様々な対応を見せたが、一様に同じなのは、ミレニアムを迎えるイベントを前にそんな些細な事は笑って許してしまえる雰囲気だった。
「ここからでも充分見れるんだからいいじゃないか」
「それはそうだけど。ニュースでやってたけど、まだ秘密だけど最新技術を使って凄い事やるって言ってたから気になって」
「そんなの今日最新ってだけで、その内いつでも見られるようになる」
僕は当たり前の事を言うが、彼女は納得してくれなかった。まぁ、そうかもしれない。僕はその最新技術と言うものに全く興味がなかったが彼女はそうではない。「陸はムードってものが分かってないなぁ」と溜め息混じりに言われ、それは間違いがないと僕も同調した。如何せんこういうものにはあまり縁がない。
彼女が僕に背を向けて空を見上げている。キャミソール一枚で肩があらわになったその姿を僕は見つめた。僕と同い年の彼女が声を上げるたびに胸元の辺りまで伸びた栗色のストレートヘアーが踊るように揺れ、ミニスカートから、少し力を込めると折れてしまいそうな腰から伸びる細い足が伸びたり曲がったりしていた。ふと季節と言うものがなくなったのはいつだったろうか、と考える。確か2500年頃からだったはずだ。その頃から日本に冬が訪れる事はなくなった。それより前世界は地球温暖化を防ごうと躍起になっていた時代もあったが、環境を破壊せずに地球を常に温暖に保つ装置が開発され、今では朝から夜まで常に一定の気温が保たれている。
そういう話を渚にすると、彼女はあまり興味がないらしく「ふうん」と曖昧な返事をしたが、雪の話をする時だけは食いついてきたものだ。
「空から氷の結晶が落ちてくるんだ。雨と言うよりは白い花弁が舞っているような感じかな。場所によっては、雨よりも強く降る事もあるけど」
「ふうん。どうしてその雪は降るの?」
「雲があるだろう? 雲は水蒸気をはらんでいる。その水蒸気が空中の粒子と混ざり合い、気体から固体に変わり地面へと落下するんだ」
「雨とは違うんだ」
「地面に落ちる前に溶けてしまうと雨と言う事になる。気温によって変わるんだよ。今は0度以下になる事がないから見られないけれどね。正確に言うと違うけれど雪は白くてね。静かに降っている光景はとても綺麗なんだ。そう、人工のイリュミネーションよりもそちらのほうがいいと思う人もいるかもしれない。雪は地球と言う自然が生み出した芸術の一つなんだよ。渚が綺麗だって前に言っていた珊瑚礁が生息するような澄んだ海と同様にね」
「まるで見てきたように言うんだね」
「見たよ」
その僕の言葉に、その時彼女は、軽く突き出された瑞々しく形のいい唇が「どうやって?」と紡ぎ、アーモンド形の大きな目を僕に向けた。
「映像でだけどね。綺麗だったよ」
「なーんだ、テレビか。私もそれ見ればよかったな」
テレビではないんだけど、だけど僕はその過ちを指摘するのはやめておく事にした。どうせどうやってそれを見たかと言う事など伝えたところで、僕にも彼女にもなんら価値はなかったし、実際に触る事が出来ない物を自慢げに語ったってしょうがないと僕はたまに思う。
「陸って、たまに急に暗い顔になるよね」
「そんな事はないよ」
彼女の声に僕は思索から帰ってくる。
「せっかくのミレニアムにそんな顔してるの勿体無いよ」
「あぁ、そうだね」
僕達のすぐ傍を飛んでいるキャラクターに、飲み物を注文する。キャラクターに遊園地のパスポートを見せ、照合を済ますとキャラクターは「ちょっと待っててね!」と告げクルクルと飛び去っていった。パスポートにはセンサーが内蔵されており遊園地内ならどこにいても僕達を見失う事がない。キャラクターは両手にジュースを持って、この人込みの中でも迷う事無く僕達に「はい!」と飲み物を差し出してきた。一時期その機能が監視されているようだと問題になったりもしたそうだが、犯罪防止に大いに役立っている事と、なにより便利だからと言う事でその問題はすぐに立ち消えになったそうだ。僕にはそんな事を問題にしようとする連中がいる事事態が理解できない。何事にも文句を言う人はいるからね、と渚は呆れていた。
「ほら、もうすぐ時間」
彼女が空中の時計を指差し、僕もそれを追った。
23時59分。店内アナウンスが「さぁ、ミレニアムまで残り一分となりました」と告げている。
残り二十秒からカウントダウンを始めます、と教えられ僕達はタワーの方へと視線を向ける。
渚が僕のほうに近寄ってきて腕を組んできた。彼女は僕と視線を交わすと「えへへ」と嬉しそうに笑う。僕はそうしている彼女に人目を憚らずキスをした。彼女は僕がしようとしている事に気が付くと目を閉じ背伸びをしてこちらへと少し顔を寄せる。
「ねぇ、渚」
「なに?」
上気したような彼女の顔を見るのが恥ずかしく、僕は目を逸らす。
「葉山達臣って知ってる?」
「え? 誰?」
「葉山達臣」
彼女は少し考え込んだが首を振った。
「知らない」
「だろうね」
「なに? その人がどうかしたの?」
キスの後にそんな知らない男の話を始めた僕に、少し不機嫌そうだった。僕は少し宥めるような表情をしてタワーの方を指差す。
「ほら、もうすぐカウントダウンだよ」
「ちょっと、気になる。その人がなに?」
「そうだね」
そう呟いたところでカウントダウンが始まった。僕はそれに参加する事無く続きの言葉を口にする。
「どうかしたの? と渚が言ったけど、正確に言うと今はまだなにもしていない。いや、もうしていると言ってもいいか」
「え? なに!?」
周りの声に掻き消されてしまう僕の声を、それでも拾おうと彼女は負けじと声を出した。
「葉山達臣はね、工学系の大学に通っていて確か今21歳だ。彼は常日頃から鬱屈した感情を胸の内に秘めていたらしい。彼が言うには「周りの人はいつも僕を責めていた」らしい。葉山達臣はその正体のないプレッシャーから逃げ出したくてしょうがなかったそうだ。彼が思いついた方法は荒唐無稽だったが、単純ではあった。自分自身に、自分には力があると伝える事で、そのプレッシャーに打ち勝とうとしたらしい。彼はこうも言っている。「自分に自信を持てば変われるような気がした」だそうだ。彼は大学では至って平凡な成績だったらしい。だから多分、今回の事ももしかするとちょっとした手違いだったのかもしれない。彼はきっと自分が作った物がそこまでの惨事を引き起こしてしまうとは思っていなかったんだろう」
「どうしたの? 急になに言ってるの?」
僕の言っている事が全く理解出来ない渚は、怖がるように僕を見た。組んでいた腕が緩まり無意識の内に離れてしまう。僕はタワーから彼女へと正対すると、両手を彼女の両頬へと伸ばした。柔らかに膨らんだ感触を僕は空しさと共に感じる。
「渚、君は雪だ」
「え?」
「10!」とカウントダウンが続く。
「僕達は時として、この手で振れた事もこの目で見た事もないものを、まるでよく知っているかのように話す事がある。それは知識と言われるもので古今東西その知識は正しい物として存在している。そこには解釈があり、理論があり、整合性を持ち、リアリティを産む。だけどそこに感情はない。だけど僕達はいつもそこに感情と言う僕達の思考を加える事によって、色んな知識を歪曲させてしまう事がある。それはしょうがない事なんだ。ベートーベンやムンクやニーチェやアインシュタインを偉大だと言うのは事実だが、誰もがそういったものを賞賛しなければならないと言う歪曲があるのもまた事実だ。僕は彼らの事をなにも知らないけれどどんな生い立ちだったかは知っているし、知らない人にどんな生涯だったか教えてあげる事は出来る。だけどそこにあるのは僕に歪曲されてしまったイメージでしかない。本物ではないんだ。そう、君が見た事がない雪もそれと全く同じで、雪を見た事があるという僕も本当は君と変わらないかもしれない」
「どういう事?」
「この手で触れて、この目で見た雪も、君も、所詮は偽者だって事」
「6!」
その声に僕は目を伏せ、やってくる衝撃に体を緊張させた。
それは一瞬の事で、先を急いだ誰かの「5!」と言う声に皆が苦笑をしようとした頃、タワーの一階部分のすぐ傍で爆発が起こった。突然の事に現場はパニックとなり、付近にいて爆発に巻き込まれた人達は既に息絶えた者もいれば、手足を損ない嗚咽をあげる者もいる。無事だった人は混乱状態のままその場から逃げ出そうと、人波を掻き分けようとしていたが、皆がそうするためおしくらまんじゅうのように突き飛ばされては倒れ、別の誰かを倒し、その倒れた人に気付かないままその上を何人もが通り過ぎていった。
警備員達が駆けつけようとしているのを、僕は離れた場所で見ていた。葉山達臣はその光景の中ポツンと立ちすくんで、やってきた警備員に素直にその身を拘束されるそうだ。彼は自分が作った爆弾によってこのミレニアムを祝っている人達に復讐をしようともくろんでいたそうだが、誰かを殺すつもりは欠片としてなかったと言う。実際には十数人は死亡しそれ以上の重軽傷者もいたが、彼はただひたすらに「ただ、僕は見返したかった」と言い、後日自殺する。
悲惨な光景から少し離れた場所に僕達はいたが、渚が腰を抜かしてしまったのか、へなへなとその場に座り込んだ。
「もう大丈夫だよ。安心して」
「なんなの、これ」
「大丈夫」
僕はそう繰り返しながら、彼女はこれからどうなったのだろう、と思ったが、もしかすると「本当の彼女」はこの日、ここにはいなかったかもしれないし、もしくは別の男といたとして、もっとタワーの傍へと近付こうとして死んでいた可能性もある。そうだとすれば今彼女が胸にトラウマを抱えたとしても、それは大した問題ではなかった。
「そろそろ、お終いだ」
「……お終い?」
「そう。この世界での話は、もうお終い」
僕は目を開けた。コンピューターの電源を切り、椅子から立ち上がる。
時間を見て、僕は少し寝すぎてしまったようだ、と溜め息を吐いた。時計は1月1日になっており僕はミレニアムの瞬間を眠りと共に迎えてしまったのだが、どうせ一緒に過ごす相手もいないのだし、どうでもいい事だった。僕は2000年のミレニアムはどんなものだったのだろう、とぼんやりと考え「ハッピーミレニアム4000」と呟いた。
西暦4000年に僕は生きている。僕達の時代に流行っているのが時代逆行だった。タイムマシーンと言うものはいつの時代も度々夢のようにその姿を浮かび上がらせたが、僕達の時代でもそれはまだ開発されていない。僕達が行っている時代逆行はあくまでコンピューターにシミュレートされた仮想現実の過去を遡る事が出来るというだけだ。千年以上にも及ぶ過去のデータ構築は開発当初はなんども躓いたようだったが、今では誰もが気軽に利用できるようになっている。4000年になった事で。恐らくあと一月もすれば3999年のデータもすぐに作られるだろう。データの更新は今では簡単なものだった。僕達の遺伝子情報は生まれたときから国に管理され、あらゆる情報が登録されているし、なにより人口が1000年前に比べれば格段に少ないので作業量は大したものではなかった。
僕はコーヒーを飲みながら、次はいつの時代に行こうかと思うが、ふと自分は無駄な事をしているとも思う。それはきっと僕だけではなく、時代逆行をする誰もがふと思うことではないだろか。
渚。
彼女は実際に西暦3000年にその時代を生きていた筈だが、僕と過ごしていた彼女は正確に言うと、本物の彼女ではなく、コンピューターのデータを僕が弄り、4000年からやってきた僕の恋人になるという設定を入力されコントロールされた、いわば仮想の人間とも言えた。彼女を選んだ理由に特に深い理由はなく、容姿が好みに近かっただけというものだ。実際の彼女は当時どんな暮らしをしていたのだろうと思うが、それはしばし時を共に過ごして浮かぶ郷愁のようなものだ。中には仮想現実の中に本物の恋愛を見つけて、現実に生きる事をやめてしまうような人もいるそうだが、僕自身にはその神経はとても理解できるものではなかった。
結局のところ、僕達になにもかも好き勝手に弄られ、都合のいいように存在するように改竄された彼女達はデータの集合体でしかなく、それは、そう、あくまで本物ではなく、データとして作られているだけの雪とさして変わらないような気がする。たとえコンピューターの中で去年のデータをいじくったとしても現実での未来はなにも変わる事はないし、そのデータもリセットしてしまえば全て何事もなかったようにまた同じ光景が蘇るだけなのだ。
僕は再びコンピューターの電源をつけ、ネットに繋ぎ、あの遊園地の事を検索する。
ミレニアムでの爆破事件は今でも探せば情報を見つけられた。葉山達臣の名前も所々で見かけられる。僕はその中である情報を探し出し、そしてあぁ、そんなものか、と吐息を一つ零した。
『で、さぁ、当時の最新技術ってなんだったの?』
『あぁ、あれ確か人口太陽のお披露目だったらしいよ。3002年から本格的に稼動しだしたけどテストを兼ねてやってみる予定だったらしい』
『は? そんなもんミレニアムに発表するほどのもんなの?』
『1000年前の事に文句言うなよ。当時は凄い発明だったんだよ』
なるほどね、と僕は、窓の外を見つめた。
午前1時。外には人口太陽が日の光を注ぎ街に影を落としている。
僕は、当時の彼らが知っていた事を知識としては知っているけれど、その感覚を知らない。
この世界には2000年にはあった雪も、そして3000年にはあった夜も、ない。
リクライニングシート
私の彼氏は貧乏性。
「すっげー快適」
「あ、そう」
私は、彼の言葉に冷めた返事を返した。
二十歳を過ぎてもう五年になり、四捨五入をすれば三十になる彼は今年になって車を買い換えることにした。それまで乗っていた車はぼろい軽四で夏や冬はエアコンの効きが悪いし、ちょっと段差のある道を走ればCDの音が飛んでしまうし、走行距離はとっくに10万キロを越えていて何代型遅れしているのかもよく分からないようなもので私はそのアイディアに飛びついた。だって、そういうのって大事じゃない?
例えば人込み行きかう繁華街の駅前で私はデートだからと意気込んで二時間前から化粧を初め、髪にアイロンをかけ、確かにバーゲンセールで半額の値段で買いはしたけどそれでも二万円したブラウスを着て、入念に鏡で何度もおかしくないか確認なんてしていたのに、そんな私を迎えに来るのは、マフラーを改造して派手な音を鳴らす違反車と言うわけではなく、むしろ今にも止まってしまいそうな不安な情けなくてしょぼい音のためにやってきたのが少し遠くからでも分かる青いボディの軽四だと言うのだから。別にベンツを用意してほしいとまでは言わない。だけどせめて車と言う密室がもうちょっと特別な空気に包まれてしまうような、そんな淡い期待を抱いたって悪くはないはずだ。彼が気に入っているベンチシートのレザーシートはまだマシだと思うけど、でもそのレザーシートだって本皮ではなくて、合成革と言うよく分からない代物だし。
その日、彼が車を見に行くけど一緒に来る? と言うので私は喜んで「いいよ」と言った。
やってきたのは彼の友人が働いていると言う全国展開している車屋で、駐車場から出た私は綺麗に洗車され陳列された数々の車を見て心が躍った。近い場所にあったクラウンに近寄ると、店員さんに「よかったら中に入っていいですよ」と笑顔でドアを開けてもらう。その営業スマイルはとても輝いていたけど、その車内はそれ以上に輝いていた。肩がすっぽり包まれてしまうシートは座り心地が良かったし、ハンドルにはなんだかよく分からないボタンがゴテゴテと付いていたけど、そのゴテゴテがなんだか特別な気がしたし、中央に設置されているモニターは今は真っ暗でなにも写っていないけれどきっと最新の技術がそこには濃縮されているに違いない。こんな車で二人でデートでもしたら私はちょっととろけてしまいそうだ。そんな事を思っていたが、ふと見積書が置かれているのを見かけ、私はそれを見て現実へと引き戻された。
三百万円也。
うん、これはちょっと、夢を見過ぎているかもしれない。彼は節約家でそれくらい持っているかもしれないけれどさすがにこの金額はちょっと現実的ではない。私はそれをそろそろと戻すと他にも何台か見ながら彼の予算はどれくらいだろうかと値踏みをする事にした。
二百万? それくらいなら結構いい車が買えるだろう。もしそうなったら、一ヶ月くらいは私がご飯代は出してあげるようにしよう。
百万円? ちょっと安いかな。でも最近の車は値段も抑えてるし中古だったら掘り出し物が見つかるかもしれない。
そんな風にちょっとわくわくしながら歩いていたけど、向こうの方でここで働いている友人と話している彼を見かけ近寄ってみた。
「どう? いい車あった?」
「うん。そうだね」
彼も心なし新しい車を買う事が嬉しいのか朗らかな笑顔でそう言ってくる。
「もう決めたの!? どれ!?」
私も期待に胸を膨らませ、きょろきょろと辺りを見回した。あっちこっちにある車を彼が指差してくれるのを待つ。だが、そうやって指が指されたり、私がその先を追いかけるような事はなかった。
「いや、これ、これ」
「……は?」
彼がすぐそばにあった車に手を置くのを見て、私は自分の首がそちらに向くのを拒んでまるでギギギ、と錆びた鉄のような音が鳴りそうだったが、振り向かないわけにはいかなかった。そこに車があった事を気が付いていなかったわけではない。ただ、なんて言うかあえて自分の脳内からはそれは削除していたと言うか、存在していないものとして私の中では処理されていたのだ。
そこにあったのは、さっき私達がここにやってきたあのぼろい軽四とさして代わり映えしない、いや、洗車はされているからまだマシではあるけど、きっと車に興味がない人からしたら、青いボディが、白に変わっただけじゃない? と思ってもしょうがないような、軽四。
「え? これ?」
「うん。ま、前一回見に来ててその時からもう殆ど決めてたんだけどね。やっぱりこれにするよ。安いし」
安いし。
私はその言葉を反芻した。
安い。
彼が「よかったら乗ってみる?」と私を誘っているのだが、私は殆ど耳にそれを入れず、ただ静かに横に首を振った。
つまんない。なんかつまんない。
私が期待してたのは、もっとこう。
たかが車ではあるけれど、新しい生活に生まれ変わるような、ちょっとドラマティックな感じだったり。例えば用はないけど新しい車買ったしせっかくだからと言う事であてもなくドライブでもする事になって、今までは行かなかったような道を選んでちょっと迷子になったりしちゃうけどそうこうしている内に景色が綺麗な場所を偶然見つけて、二人でそれをちょっと眺めたりして、当然眺める時に新しい車に二人でよりかかって、まぁ、たまにはこんなのもいいかな、なんて笑いあったりとか、そういう期待じみた感じの事空想してしまうのってしょうがなくない?
けど目の前にある軽四を見てそんな私の甘い空想は言葉どおり空の彼方へとふわふわと浮かび消えていってしまったようだ。
「これ幾ら?」
「値段?」
聞かないほうがよかったかもしんない。
彼はとても嬉しそうに言った。お買い得だろ?
諸費用込み、車検二年付き。
締めて五十万円也。
「あ、前言ったお願いだけど大丈夫かな?」
「あぁ、あれ? 別に構わないけどどうすんの?」
「いいからいいから」
嬉しそうに話している彼の背中を見ながら、どうでもいいから早く帰ろうよ。と言いたくてしょうがなかった。
これ、と表現した白い軽四は一週間ほどして無事に彼の元へとやってきたらしい。
家に来いよ、と誘われた私は仕事が遅くなりそうだけどいい? とメールを打つ。いいよ、迎え行こうか? と返ってきたメールを見て私は溜め息を吐いた。
きっとやってくるのがクラウンだったらもうちょっと仕事を早く終わらせてしまおう、と言う気もするのだが。それでもお願いします、と伝え、時計が夜の八時を回る頃私は会社から外へと出た。
十分ほどで着く。とディスプレイのメールを見ながら私は彼から見やすい場所に移動しようとしながらとぼとぼと歩く。視線が足元の方へとうな垂れていく私を誰が責められるだろう。
いや、もしかすると私の価値もその程度のものなのかもしれない。そうだ、きっとクラウンなんて私には似合わないのだ。きっと周りはあの軽四なんかと思っている私がそれに乗り込むのを見てお似合いだときっとほくそ笑んでいるのだ。そんな被害妄想に浸っていると、そこにいる事を伝えるようにハザードランプがチカチカと点灯した。前の車と違って静かなため、近くまでやってきていたのに気がつかなかったらしい。暗くてよく分からなかったが、運転席の窓が開けられ彼が顔を出した。
「お疲れー」
「うん、お疲れ」
そう言いながら助手席へと入る。レザーシートではないその室内はなんだかちっとも新鮮味がなかった。彼はそんな私の心中など露知らずやっぱり新しい車はいいな、なんて上機嫌で私はまぁ、そうね、なんて適当な相槌を打つ。
「どっか行く?」
「あ、ちょっと俺んち来ない?」
「いいよ」
彼の提案に素直に従う。ドライブって気分でもない。
程なくして彼の家に着く。バックで入れるのも慣れたもので――当たり前か――駐車場から降りると私は玄関に向かおうとしたが、そこで彼が「ちょっとこっち来いよ」と私を手招いた。
「なに?」
「こっちこっち」
さして広くもない庭の方へと彼が歩いていく。なんだろう? と私は首をかしげながら付いていって、そこにあるものを見て「へ?」と間抜けな声を出した。
「どうしたの、これ?」
「いや、前の車もう廃車にするって言うからさ。せっかくなら貰えないかって言って貰ってきた」
「どうすんのよ、貰って」
そこにあったのは、あの青いボディの軽四の時に私が夏は暑いのよね、これ、と言っていたレザー張りのベンチシートだった。そのシートが今は車から取り外されて、なぜか彼の庭にどすんと居を構えている。
「いや、勿体無いじゃん? 俺も長い間乗ってたから愛着あったし。庭に置いたら気持ちいいかな、って前思いついてさ」
「気持ちいいってなにが?」
「こうやって座ってるの」
そう言うと彼は言葉どおりそこに腰掛け、呆けている私に隣に座るように促した。
「……ねぇ」
「ん?」
「楽しい? これ」
「庭に椅子あるってちょっと贅沢って感じしない? それにほら」
彼がシートの隣にあるレバーを弄ってリクライニングさせた。彼の体が横たわるように沈んでいきそれを見下ろしているとお前もやってみろよ、と言うので付き合ってみる。
そうして寝転がるようになった私が見たのは、空だった。
「綺麗だよなぁ。星空って」
彼が満足そうにそう言う。
あのさぁ。
星とかいつでも見れるでしょ? 立ってたって。車の運転中だって。会社からだって。
どこかでそんなふうに思いもするのだけど、たしかにこうやって彼の家の庭に、まるでソファみたいなシートに二人で並んで寝転がるように座って見る星空はいつもより少し綺麗な気がした。
「すっげー快適」
「あ、そう」
私は、彼の言葉に少し冷めた返事を返した。
でも、まぁ、いいか、と思う。
彼が持ってきてくれたビールで乾杯をして、私達はぼんやりと空を見ながら、今度どこか出かけようなんて話をする。
ボーナスで買ったスーツ。三万円。
彼が最近買い換えたらしいバンズのスニーカー。四千円。
二人で飲むビール。一本二百円。
白いボディの軽四。五十万円。
こうやってリクライニングしながら彼と星空を眺める時間。プライスレス。
きっと一億円でも売れないと思うんだ。
私の彼氏は貧乏性。
「すっげー快適」
「あ、そう」
私は、彼の言葉に冷めた返事を返した。
二十歳を過ぎてもう五年になり、四捨五入をすれば三十になる彼は今年になって車を買い換えることにした。それまで乗っていた車はぼろい軽四で夏や冬はエアコンの効きが悪いし、ちょっと段差のある道を走ればCDの音が飛んでしまうし、走行距離はとっくに10万キロを越えていて何代型遅れしているのかもよく分からないようなもので私はそのアイディアに飛びついた。だって、そういうのって大事じゃない?
例えば人込み行きかう繁華街の駅前で私はデートだからと意気込んで二時間前から化粧を初め、髪にアイロンをかけ、確かにバーゲンセールで半額の値段で買いはしたけどそれでも二万円したブラウスを着て、入念に鏡で何度もおかしくないか確認なんてしていたのに、そんな私を迎えに来るのは、マフラーを改造して派手な音を鳴らす違反車と言うわけではなく、むしろ今にも止まってしまいそうな不安な情けなくてしょぼい音のためにやってきたのが少し遠くからでも分かる青いボディの軽四だと言うのだから。別にベンツを用意してほしいとまでは言わない。だけどせめて車と言う密室がもうちょっと特別な空気に包まれてしまうような、そんな淡い期待を抱いたって悪くはないはずだ。彼が気に入っているベンチシートのレザーシートはまだマシだと思うけど、でもそのレザーシートだって本皮ではなくて、合成革と言うよく分からない代物だし。
その日、彼が車を見に行くけど一緒に来る? と言うので私は喜んで「いいよ」と言った。
やってきたのは彼の友人が働いていると言う全国展開している車屋で、駐車場から出た私は綺麗に洗車され陳列された数々の車を見て心が躍った。近い場所にあったクラウンに近寄ると、店員さんに「よかったら中に入っていいですよ」と笑顔でドアを開けてもらう。その営業スマイルはとても輝いていたけど、その車内はそれ以上に輝いていた。肩がすっぽり包まれてしまうシートは座り心地が良かったし、ハンドルにはなんだかよく分からないボタンがゴテゴテと付いていたけど、そのゴテゴテがなんだか特別な気がしたし、中央に設置されているモニターは今は真っ暗でなにも写っていないけれどきっと最新の技術がそこには濃縮されているに違いない。こんな車で二人でデートでもしたら私はちょっととろけてしまいそうだ。そんな事を思っていたが、ふと見積書が置かれているのを見かけ、私はそれを見て現実へと引き戻された。
三百万円也。
うん、これはちょっと、夢を見過ぎているかもしれない。彼は節約家でそれくらい持っているかもしれないけれどさすがにこの金額はちょっと現実的ではない。私はそれをそろそろと戻すと他にも何台か見ながら彼の予算はどれくらいだろうかと値踏みをする事にした。
二百万? それくらいなら結構いい車が買えるだろう。もしそうなったら、一ヶ月くらいは私がご飯代は出してあげるようにしよう。
百万円? ちょっと安いかな。でも最近の車は値段も抑えてるし中古だったら掘り出し物が見つかるかもしれない。
そんな風にちょっとわくわくしながら歩いていたけど、向こうの方でここで働いている友人と話している彼を見かけ近寄ってみた。
「どう? いい車あった?」
「うん。そうだね」
彼も心なし新しい車を買う事が嬉しいのか朗らかな笑顔でそう言ってくる。
「もう決めたの!? どれ!?」
私も期待に胸を膨らませ、きょろきょろと辺りを見回した。あっちこっちにある車を彼が指差してくれるのを待つ。だが、そうやって指が指されたり、私がその先を追いかけるような事はなかった。
「いや、これ、これ」
「……は?」
彼がすぐそばにあった車に手を置くのを見て、私は自分の首がそちらに向くのを拒んでまるでギギギ、と錆びた鉄のような音が鳴りそうだったが、振り向かないわけにはいかなかった。そこに車があった事を気が付いていなかったわけではない。ただ、なんて言うかあえて自分の脳内からはそれは削除していたと言うか、存在していないものとして私の中では処理されていたのだ。
そこにあったのは、さっき私達がここにやってきたあのぼろい軽四とさして代わり映えしない、いや、洗車はされているからまだマシではあるけど、きっと車に興味がない人からしたら、青いボディが、白に変わっただけじゃない? と思ってもしょうがないような、軽四。
「え? これ?」
「うん。ま、前一回見に来ててその時からもう殆ど決めてたんだけどね。やっぱりこれにするよ。安いし」
安いし。
私はその言葉を反芻した。
安い。
彼が「よかったら乗ってみる?」と私を誘っているのだが、私は殆ど耳にそれを入れず、ただ静かに横に首を振った。
つまんない。なんかつまんない。
私が期待してたのは、もっとこう。
たかが車ではあるけれど、新しい生活に生まれ変わるような、ちょっとドラマティックな感じだったり。例えば用はないけど新しい車買ったしせっかくだからと言う事であてもなくドライブでもする事になって、今までは行かなかったような道を選んでちょっと迷子になったりしちゃうけどそうこうしている内に景色が綺麗な場所を偶然見つけて、二人でそれをちょっと眺めたりして、当然眺める時に新しい車に二人でよりかかって、まぁ、たまにはこんなのもいいかな、なんて笑いあったりとか、そういう期待じみた感じの事空想してしまうのってしょうがなくない?
けど目の前にある軽四を見てそんな私の甘い空想は言葉どおり空の彼方へとふわふわと浮かび消えていってしまったようだ。
「これ幾ら?」
「値段?」
聞かないほうがよかったかもしんない。
彼はとても嬉しそうに言った。お買い得だろ?
諸費用込み、車検二年付き。
締めて五十万円也。
「あ、前言ったお願いだけど大丈夫かな?」
「あぁ、あれ? 別に構わないけどどうすんの?」
「いいからいいから」
嬉しそうに話している彼の背中を見ながら、どうでもいいから早く帰ろうよ。と言いたくてしょうがなかった。
これ、と表現した白い軽四は一週間ほどして無事に彼の元へとやってきたらしい。
家に来いよ、と誘われた私は仕事が遅くなりそうだけどいい? とメールを打つ。いいよ、迎え行こうか? と返ってきたメールを見て私は溜め息を吐いた。
きっとやってくるのがクラウンだったらもうちょっと仕事を早く終わらせてしまおう、と言う気もするのだが。それでもお願いします、と伝え、時計が夜の八時を回る頃私は会社から外へと出た。
十分ほどで着く。とディスプレイのメールを見ながら私は彼から見やすい場所に移動しようとしながらとぼとぼと歩く。視線が足元の方へとうな垂れていく私を誰が責められるだろう。
いや、もしかすると私の価値もその程度のものなのかもしれない。そうだ、きっとクラウンなんて私には似合わないのだ。きっと周りはあの軽四なんかと思っている私がそれに乗り込むのを見てお似合いだときっとほくそ笑んでいるのだ。そんな被害妄想に浸っていると、そこにいる事を伝えるようにハザードランプがチカチカと点灯した。前の車と違って静かなため、近くまでやってきていたのに気がつかなかったらしい。暗くてよく分からなかったが、運転席の窓が開けられ彼が顔を出した。
「お疲れー」
「うん、お疲れ」
そう言いながら助手席へと入る。レザーシートではないその室内はなんだかちっとも新鮮味がなかった。彼はそんな私の心中など露知らずやっぱり新しい車はいいな、なんて上機嫌で私はまぁ、そうね、なんて適当な相槌を打つ。
「どっか行く?」
「あ、ちょっと俺んち来ない?」
「いいよ」
彼の提案に素直に従う。ドライブって気分でもない。
程なくして彼の家に着く。バックで入れるのも慣れたもので――当たり前か――駐車場から降りると私は玄関に向かおうとしたが、そこで彼が「ちょっとこっち来いよ」と私を手招いた。
「なに?」
「こっちこっち」
さして広くもない庭の方へと彼が歩いていく。なんだろう? と私は首をかしげながら付いていって、そこにあるものを見て「へ?」と間抜けな声を出した。
「どうしたの、これ?」
「いや、前の車もう廃車にするって言うからさ。せっかくなら貰えないかって言って貰ってきた」
「どうすんのよ、貰って」
そこにあったのは、あの青いボディの軽四の時に私が夏は暑いのよね、これ、と言っていたレザー張りのベンチシートだった。そのシートが今は車から取り外されて、なぜか彼の庭にどすんと居を構えている。
「いや、勿体無いじゃん? 俺も長い間乗ってたから愛着あったし。庭に置いたら気持ちいいかな、って前思いついてさ」
「気持ちいいってなにが?」
「こうやって座ってるの」
そう言うと彼は言葉どおりそこに腰掛け、呆けている私に隣に座るように促した。
「……ねぇ」
「ん?」
「楽しい? これ」
「庭に椅子あるってちょっと贅沢って感じしない? それにほら」
彼がシートの隣にあるレバーを弄ってリクライニングさせた。彼の体が横たわるように沈んでいきそれを見下ろしているとお前もやってみろよ、と言うので付き合ってみる。
そうして寝転がるようになった私が見たのは、空だった。
「綺麗だよなぁ。星空って」
彼が満足そうにそう言う。
あのさぁ。
星とかいつでも見れるでしょ? 立ってたって。車の運転中だって。会社からだって。
どこかでそんなふうに思いもするのだけど、たしかにこうやって彼の家の庭に、まるでソファみたいなシートに二人で並んで寝転がるように座って見る星空はいつもより少し綺麗な気がした。
「すっげー快適」
「あ、そう」
私は、彼の言葉に少し冷めた返事を返した。
でも、まぁ、いいか、と思う。
彼が持ってきてくれたビールで乾杯をして、私達はぼんやりと空を見ながら、今度どこか出かけようなんて話をする。
ボーナスで買ったスーツ。三万円。
彼が最近買い換えたらしいバンズのスニーカー。四千円。
二人で飲むビール。一本二百円。
白いボディの軽四。五十万円。
こうやってリクライニングしながら彼と星空を眺める時間。プライスレス。
きっと一億円でも売れないと思うんだ。
ONE
来生太一には裕二と言う二つ違いの弟がいる。
「お兄ちゃんはさぁ、いいよな、頭良くて」
「お前はスポーツが出来るからいいじゃないか」
彼らは一つの才能をすっぱりと二つで分けてしまったかのように対照的な兄弟だった。兄は父親似で、弟は母親似なので並んで立っていても友人が兄弟だと思わず、それを説明するとよく驚かれるものだった。
小学校を卒業し、再び中学校へと一緒に家を出るようになって三ヶ月ほど立つ。最近は裕二は同学年の中のいいクラスメイトと一緒に通学するようになり、太一も級友と通うようになったが、仲のいい兄弟ではある。中学生になって初めての通知表を持ってかえってきた裕二は罰の悪そうな顔をしながら母親にそれを渡すと、彼女は「お兄ちゃんにちょっと勉強教えてもらったら?」と笑いながら言われ、その事に腹を立てたのか太一の部屋で頬を膨らませていた。母は朗らかな人なので、あまり気にしていないだろうし、毎日サッカー部の練習に明け暮れて汗臭い姿で帰ってくるのを見るのを楽しそうだと言う事を太一は知っている。
「ちょっと通知表見せてよ」
「えー、やだなぁ」
二人でやっていた対戦ゲームが一段落したところでそう言うと――太一はいつも負けていた――彼は面倒くさそうにそう言いながらも自分の部屋からそれを持ってきた。綺麗に1と2が並んでいたが体育のところだけは5の数字を見つけられた。それがなければ3段階のものと勘違いしそうになるそれを見て太一は苦笑した。同時に自分は体育が苦手なのでそのたった一つの5を羨ましいとも思う。
「ねぇ、勉強教えてよ。兄ちゃんなら簡単でしょ?」
「簡単とは言うけど、裕二が分かるようにならないと意味ないだろう?」
「分かるように教えてよ」
「裕二がちゃんと勉強しようって気になればね」
「えー、なんだよそれ」
「僕だって、適当に裕二にサッカーを教えてもらったくらいで上手くなれるならとっくにそうしてる」
「まぁ、そうだけどさ」
彼は溜め息をつきながらも指だけは勢いが衰える事はなく素早く動かすと、画面の中にいたキャラクターが悲鳴を上げてスローモーションの中地面へと倒れこんだ。「兄ちゃん下手だよなぁ」ともう勝つのが当たり前になってしまった裕二が喜びもせずにそう言い「才能とかセンスの問題なんだよ」と負け惜しみと言うよりも単なる感想でそう返した。
裕二は「ゲームの才能って他に活かす事出来るのかな?」としきりに首を傾げ、太一は「ほら、反射神経とか?」と人差し指を立てくるくると回した。
昔、裕二がふとこんな事を言った事がある。
「俺達ってさぁ。合体したら無敵じゃない?」
「なにそれ?」
意味が分からなかった太一だが、裕二は自分の中だけで勝手に理解されているらしいその言葉に楽しそうにうん、うんと頷いていた。
「ほら、何かと何かを足して2で割ると何々、とか言うじゃん。それをさ、俺達の場合割らずにいいとこ同士を足すだけにするんだよ。そしたらお互いの弱点とか全部なくなって完璧な人間になれるんじゃね?」
「あぁ、なるほど」
その時二人は我が家の一回の部屋にある畳敷きの部屋に作られた縁側で寝転がっていた。両親は親戚の家に行くからといって留守番を任せれていて、親がくれた一万円でデリバリーのピザを二枚注文し――余った金で裕二はチキンも頼んでいた――リビングでテレビを見ながらそれを食べていると、ふと裕二が「外涼しそうだなー」とポツリと漏らした。裕二が注文したこってりとした味付けのピザを一枚手に取り、指にまとわり付いたチーズを舐めながら見る窓の外は、梢の木が静かな風でそよぐように揺れ確かに涼しそうだった。「縁側行こうか」と太一が尋ねてみると裕二は「そうする」と言い、食べ尽くされたピザの箱を見てもっと早く気が付いていればと悔やみ、その代わりと言うように家の前にある自販機で二本ジュースを買った。
「悪いところも二倍になるじゃないか」
「なんで?」
「だって、いいところだけを上手く残す事なんて出来ないだろう?」
「分かってないなぁ。例えば兄ちゃんの運動の出来ないところは俺がカバーするし、勉強は兄ちゃんがカバーする。そうやって自分達の得意なところをお互いにカバーしていくんだから、悪いところは少なくなるに決まってるじゃん」
「そんな、美味しいとこ取りばかり出来るかな?」
ごろりと寝返りを打つ。開け放たれた窓から頬を撫でるように侵入してくる風が心地よくて、太一は眠気を感じた。庭で飼っている柴犬のタロウが二人が傍にいる事に気が付き構ってもらおうと、二、三度吠え、裕二は縁側から裸足のまま庭に出ると繋いでいた紐を離してやった。タロウはてっきり散歩に連れて行ってもらえると思っていたのだが、再び部屋へと戻ってしまう裕二を見て振っていた尻尾を下ろした。縁側に近付き、そこで丸くなる。
「出来るって。そうなったら楽しいだろうなー」
「だったらいいね」
それに今のままでもいいし、と胸中で呟いた。
もし合体なんて事が本当に起こり、完璧な人間になれたとしても、その時こうやって縁側で二人で寝転がりながら会話をするのが出来なくなるのは寂しい事だった。
いつの間にか二人ともそこで眠りこけてしまい、帰ってきた両親に起こされ、ゴミで荒れ放題になっていたリビングの片付けをするように叱られると裕二は「なんだよー、せっかく気持ちよく寝てたのにー」と愚痴を漏らした。
「いいじゃないか。二人ならすぐ終わるよ」
「そうだけどさ」
「ほら、二人の方がいい」
「は?」
「結局合体しててもあそこで寝ちゃって――二人とも寝てたからね――怒られてただろうし、二人の方が怒られるのも片付ける手間も半分ずつで済む」
「あぁ、なるほど。そう言われたら合体しない方がいいかも」
二人は笑いあった。
高校に進学すると、以前ほど二人でいる時間は少なくなった。太一が三年生になり、裕二も高校に進学したが、スポーツ推薦で別の高校へと入学したため、通学路は反対方向になり、互いの友人関係も把握しきれなくなっていった。裕二は中学の頃から変わらず汗臭い生活を送り、太一は塾に通いだした。太一が入学した高校は進学校で、中学の頃のように全科目優秀と言うわけにはいかなかったが、あまりトップを取ろうと言う気概もなく、大学も地元の大学を希望していたので、受験を間近に控えても他の級友ほどかりかりするような事はなかった。塾に通うのも今では専ら気が合う友人に会いに行くためと言う意味合いの方が強くなってきていて、自分と同じように勉強の方は適当にやっている数人と帰り際に喫茶店に寄る事にした。
「太一ってさぁ、彼女とかいるの?」
「いないよ」
席に着き注文を済ますとそう聞かれた。彼以外にいるのは、三人で全員他校の生徒同士だった。太一はその急な質問に噴出しそうになったが、正面に座っている秋穂という少女に動揺を悟られたくなかったので努めて平静を保った。
「そっちはいるの?」
「いないよ。欲しいけど最近告白して振られた」
「へぇ、告白したんだ」
感嘆するように聞くと彼は「まぁ、ずっと片思いだったからそろそろはっきりしたいと思ってさ」と遠くを見るような目をして答えたが、その告白した時の事を思い出したのか重い溜め息を吐いた。慰めていると「秋穂は彼氏いるの?」と不意に彼が尋ねた。秋穂は急に振られた事に驚いていたが「いないよ」と口にした。太一は目の前に置かれたコーヒーに手を伸ばし、自分はその台詞に対しあまり興味がないと言う態度を示そうとしたが、上手く伝わっているかどうかは自信がなかったし、もしかすると彼女に悪いように取られたかもしれないと後で思いなおし、自分を罵った。
「ただいま」
「おかえり」
「あぁ、裕二か」
家に帰ってくると偶然玄関前にいた裕二と出くわした。聞けば今からタロウを散歩に連れて行こうとしているらしかった。気をつけて、と言おうとしたが「よかったら兄ちゃんも来ない?」と言われ付き合う事にした。鞄を玄関に置き、二人でタロウを連れて家を出ると裕二はジュース奢るよ、と小銭を取り出した。高校生になってバイトを始めたようだった。飲食店とは聞いているが、どんな仕事をしているのかまでは聞いていない。
「なぁ、兄ちゃん」
「ん?」
二人はゆっくりと歩いた。少し年を取ったタロウはその以前と違って引っ張るようにして走り出すような事はなかった。
「兄ちゃんって彼女いる?」
「いきなりどうした?」
一日に二度同じ質問をされ、多少驚いたが、そんな事露も知らない裕二は逆にその反応に面食らった。いない、と彼が言うのを聞くと「そっかぁ。今まで付き合った事は?」と聞くと太一は少し困ったような顔をしてから「まぁ、あるけど」と言い「そっかぁ」ともう一度繰り返した。
「俺さぁ、今好きな子いるんだよね」
「へぇ」
しばらく他愛もない話をしていたが、ぐしゃぐしゃと髪の毛をかき乱し、照れくささを誤魔化すようにしてからそう切り出してきた。
「バイト先でさぁ、同い年の子なんだけど。俺、今まで付き合った事とかないからさ。どうしたらいいのかなって思って。兄ちゃんは自分から告白した? なんで別れたの? 付き合ってる時ってどんな事してた?」
矢継ぎ早にそう尋ねてくる。裕二は有意義な答えを期待しているようだったが、かと言ってその質問にいい答えを出してやるのはかなり難問だった。告白は自分からしたよ、と言うと裕二は更にそこに至るまでどういう付き合いをしたか、いつ告白をしようと決めたのか、一体どういうシチュエーションで告白したのか、と雪だるま式に質問を浴びせてくる。太一は「分からない」と返した。
「自分でもよく分からないな。多分その時は今告白しようと思ったはずなんだけど、どうしてその時だったのかも今じゃよく分からないし、正直確実に成功するとも思ってなかったよ、きっと」
「えー、なんだよそれ」
期待外れに裕二は肩を落とす。太一は「今俺も好きな子がいるんだ」と教えた。いるんだけど、その子がどう思っているのか全然分かっていない事や、二人で遊びに行きたいと思っているんだけどなかなか上手く誘えない事、同じ大学を受験するので二人とも受かればいいと思っている。
「そっか。兄ちゃんも困ってんのか」
「そうだよ。恋愛なんて誰でも悩むもんさ」
ふと昔、二人で縁側に寝転がっていた日の事を思い出す。小さな二人がだらしなく畳みの上に寝転がりジュースを飲みながら穏やかな風に吹かれていた。その時裕二は「俺達合体したら無敵じゃん」と夢のような事を言っていたのだ。その台詞はその時だけのもので、今はもう聞く事はなくなった。きっとそれを口にする事がなくなったのは、夢のような話をするのがばかばかしいと思った訳ではなく、正反対な僕達でも、お互いを認めつつ、欠点がある今の自分の事を認められるようになったからではないだろうか。
「裕二、俺達昔からなにもかも正反対な兄弟だって言われてたよね。もしかすると恋愛もそうなのかな」
「んー、どうだろう。けど今二人とも悩んでるしなぁ」
「そうだね」
きっと合体したとしても、その問題に対しては無敵と言う訳にはいかないようだった。だけどそれでも、その問題にバラバラのまま立ち向かっていくのだろう。勝つか負けるかは分からない。
「もし失恋したらジュースでも奢ってあげるよ」
「やな事言うなよ」
「初恋は実らないもんなんだ」
不満そうに口を尖らし「じゃあ、兄ちゃんが振られたら俺も奢ってやるから、その時は正直にちゃんと教えろよな」と言い返す。太一は「分かったよ」と笑いながらタロウの頭を撫でていた。
いつか、彼らが無敵になる日は来るだろうか? きっと誰もがそんな日は来ないと言うだろう。だが、それでも時の流れは、体の中にある無数の空洞をゆっくりとでも埋めていく事は出来る。
裕二は、高校になって二度目の通知表が帰ってくるとそれを自慢げに太一へと見せびらかした。そこには相変わらず体育だけが5だったが、1と2の数字は少し減って3の数字を見つけられるようになっていた。太一はその通知表に笑顔を返しながら、高校に入ってから始めたテニスラケットを取り上げるとくるくると指先だけで器用に回してみせた。
来生太一には裕二と言う二つ違いの弟がいる。
「お兄ちゃんはさぁ、いいよな、頭良くて」
「お前はスポーツが出来るからいいじゃないか」
彼らは一つの才能をすっぱりと二つで分けてしまったかのように対照的な兄弟だった。兄は父親似で、弟は母親似なので並んで立っていても友人が兄弟だと思わず、それを説明するとよく驚かれるものだった。
小学校を卒業し、再び中学校へと一緒に家を出るようになって三ヶ月ほど立つ。最近は裕二は同学年の中のいいクラスメイトと一緒に通学するようになり、太一も級友と通うようになったが、仲のいい兄弟ではある。中学生になって初めての通知表を持ってかえってきた裕二は罰の悪そうな顔をしながら母親にそれを渡すと、彼女は「お兄ちゃんにちょっと勉強教えてもらったら?」と笑いながら言われ、その事に腹を立てたのか太一の部屋で頬を膨らませていた。母は朗らかな人なので、あまり気にしていないだろうし、毎日サッカー部の練習に明け暮れて汗臭い姿で帰ってくるのを見るのを楽しそうだと言う事を太一は知っている。
「ちょっと通知表見せてよ」
「えー、やだなぁ」
二人でやっていた対戦ゲームが一段落したところでそう言うと――太一はいつも負けていた――彼は面倒くさそうにそう言いながらも自分の部屋からそれを持ってきた。綺麗に1と2が並んでいたが体育のところだけは5の数字を見つけられた。それがなければ3段階のものと勘違いしそうになるそれを見て太一は苦笑した。同時に自分は体育が苦手なのでそのたった一つの5を羨ましいとも思う。
「ねぇ、勉強教えてよ。兄ちゃんなら簡単でしょ?」
「簡単とは言うけど、裕二が分かるようにならないと意味ないだろう?」
「分かるように教えてよ」
「裕二がちゃんと勉強しようって気になればね」
「えー、なんだよそれ」
「僕だって、適当に裕二にサッカーを教えてもらったくらいで上手くなれるならとっくにそうしてる」
「まぁ、そうだけどさ」
彼は溜め息をつきながらも指だけは勢いが衰える事はなく素早く動かすと、画面の中にいたキャラクターが悲鳴を上げてスローモーションの中地面へと倒れこんだ。「兄ちゃん下手だよなぁ」ともう勝つのが当たり前になってしまった裕二が喜びもせずにそう言い「才能とかセンスの問題なんだよ」と負け惜しみと言うよりも単なる感想でそう返した。
裕二は「ゲームの才能って他に活かす事出来るのかな?」としきりに首を傾げ、太一は「ほら、反射神経とか?」と人差し指を立てくるくると回した。
昔、裕二がふとこんな事を言った事がある。
「俺達ってさぁ。合体したら無敵じゃない?」
「なにそれ?」
意味が分からなかった太一だが、裕二は自分の中だけで勝手に理解されているらしいその言葉に楽しそうにうん、うんと頷いていた。
「ほら、何かと何かを足して2で割ると何々、とか言うじゃん。それをさ、俺達の場合割らずにいいとこ同士を足すだけにするんだよ。そしたらお互いの弱点とか全部なくなって完璧な人間になれるんじゃね?」
「あぁ、なるほど」
その時二人は我が家の一回の部屋にある畳敷きの部屋に作られた縁側で寝転がっていた。両親は親戚の家に行くからといって留守番を任せれていて、親がくれた一万円でデリバリーのピザを二枚注文し――余った金で裕二はチキンも頼んでいた――リビングでテレビを見ながらそれを食べていると、ふと裕二が「外涼しそうだなー」とポツリと漏らした。裕二が注文したこってりとした味付けのピザを一枚手に取り、指にまとわり付いたチーズを舐めながら見る窓の外は、梢の木が静かな風でそよぐように揺れ確かに涼しそうだった。「縁側行こうか」と太一が尋ねてみると裕二は「そうする」と言い、食べ尽くされたピザの箱を見てもっと早く気が付いていればと悔やみ、その代わりと言うように家の前にある自販機で二本ジュースを買った。
「悪いところも二倍になるじゃないか」
「なんで?」
「だって、いいところだけを上手く残す事なんて出来ないだろう?」
「分かってないなぁ。例えば兄ちゃんの運動の出来ないところは俺がカバーするし、勉強は兄ちゃんがカバーする。そうやって自分達の得意なところをお互いにカバーしていくんだから、悪いところは少なくなるに決まってるじゃん」
「そんな、美味しいとこ取りばかり出来るかな?」
ごろりと寝返りを打つ。開け放たれた窓から頬を撫でるように侵入してくる風が心地よくて、太一は眠気を感じた。庭で飼っている柴犬のタロウが二人が傍にいる事に気が付き構ってもらおうと、二、三度吠え、裕二は縁側から裸足のまま庭に出ると繋いでいた紐を離してやった。タロウはてっきり散歩に連れて行ってもらえると思っていたのだが、再び部屋へと戻ってしまう裕二を見て振っていた尻尾を下ろした。縁側に近付き、そこで丸くなる。
「出来るって。そうなったら楽しいだろうなー」
「だったらいいね」
それに今のままでもいいし、と胸中で呟いた。
もし合体なんて事が本当に起こり、完璧な人間になれたとしても、その時こうやって縁側で二人で寝転がりながら会話をするのが出来なくなるのは寂しい事だった。
いつの間にか二人ともそこで眠りこけてしまい、帰ってきた両親に起こされ、ゴミで荒れ放題になっていたリビングの片付けをするように叱られると裕二は「なんだよー、せっかく気持ちよく寝てたのにー」と愚痴を漏らした。
「いいじゃないか。二人ならすぐ終わるよ」
「そうだけどさ」
「ほら、二人の方がいい」
「は?」
「結局合体しててもあそこで寝ちゃって――二人とも寝てたからね――怒られてただろうし、二人の方が怒られるのも片付ける手間も半分ずつで済む」
「あぁ、なるほど。そう言われたら合体しない方がいいかも」
二人は笑いあった。
高校に進学すると、以前ほど二人でいる時間は少なくなった。太一が三年生になり、裕二も高校に進学したが、スポーツ推薦で別の高校へと入学したため、通学路は反対方向になり、互いの友人関係も把握しきれなくなっていった。裕二は中学の頃から変わらず汗臭い生活を送り、太一は塾に通いだした。太一が入学した高校は進学校で、中学の頃のように全科目優秀と言うわけにはいかなかったが、あまりトップを取ろうと言う気概もなく、大学も地元の大学を希望していたので、受験を間近に控えても他の級友ほどかりかりするような事はなかった。塾に通うのも今では専ら気が合う友人に会いに行くためと言う意味合いの方が強くなってきていて、自分と同じように勉強の方は適当にやっている数人と帰り際に喫茶店に寄る事にした。
「太一ってさぁ、彼女とかいるの?」
「いないよ」
席に着き注文を済ますとそう聞かれた。彼以外にいるのは、三人で全員他校の生徒同士だった。太一はその急な質問に噴出しそうになったが、正面に座っている秋穂という少女に動揺を悟られたくなかったので努めて平静を保った。
「そっちはいるの?」
「いないよ。欲しいけど最近告白して振られた」
「へぇ、告白したんだ」
感嘆するように聞くと彼は「まぁ、ずっと片思いだったからそろそろはっきりしたいと思ってさ」と遠くを見るような目をして答えたが、その告白した時の事を思い出したのか重い溜め息を吐いた。慰めていると「秋穂は彼氏いるの?」と不意に彼が尋ねた。秋穂は急に振られた事に驚いていたが「いないよ」と口にした。太一は目の前に置かれたコーヒーに手を伸ばし、自分はその台詞に対しあまり興味がないと言う態度を示そうとしたが、上手く伝わっているかどうかは自信がなかったし、もしかすると彼女に悪いように取られたかもしれないと後で思いなおし、自分を罵った。
「ただいま」
「おかえり」
「あぁ、裕二か」
家に帰ってくると偶然玄関前にいた裕二と出くわした。聞けば今からタロウを散歩に連れて行こうとしているらしかった。気をつけて、と言おうとしたが「よかったら兄ちゃんも来ない?」と言われ付き合う事にした。鞄を玄関に置き、二人でタロウを連れて家を出ると裕二はジュース奢るよ、と小銭を取り出した。高校生になってバイトを始めたようだった。飲食店とは聞いているが、どんな仕事をしているのかまでは聞いていない。
「なぁ、兄ちゃん」
「ん?」
二人はゆっくりと歩いた。少し年を取ったタロウはその以前と違って引っ張るようにして走り出すような事はなかった。
「兄ちゃんって彼女いる?」
「いきなりどうした?」
一日に二度同じ質問をされ、多少驚いたが、そんな事露も知らない裕二は逆にその反応に面食らった。いない、と彼が言うのを聞くと「そっかぁ。今まで付き合った事は?」と聞くと太一は少し困ったような顔をしてから「まぁ、あるけど」と言い「そっかぁ」ともう一度繰り返した。
「俺さぁ、今好きな子いるんだよね」
「へぇ」
しばらく他愛もない話をしていたが、ぐしゃぐしゃと髪の毛をかき乱し、照れくささを誤魔化すようにしてからそう切り出してきた。
「バイト先でさぁ、同い年の子なんだけど。俺、今まで付き合った事とかないからさ。どうしたらいいのかなって思って。兄ちゃんは自分から告白した? なんで別れたの? 付き合ってる時ってどんな事してた?」
矢継ぎ早にそう尋ねてくる。裕二は有意義な答えを期待しているようだったが、かと言ってその質問にいい答えを出してやるのはかなり難問だった。告白は自分からしたよ、と言うと裕二は更にそこに至るまでどういう付き合いをしたか、いつ告白をしようと決めたのか、一体どういうシチュエーションで告白したのか、と雪だるま式に質問を浴びせてくる。太一は「分からない」と返した。
「自分でもよく分からないな。多分その時は今告白しようと思ったはずなんだけど、どうしてその時だったのかも今じゃよく分からないし、正直確実に成功するとも思ってなかったよ、きっと」
「えー、なんだよそれ」
期待外れに裕二は肩を落とす。太一は「今俺も好きな子がいるんだ」と教えた。いるんだけど、その子がどう思っているのか全然分かっていない事や、二人で遊びに行きたいと思っているんだけどなかなか上手く誘えない事、同じ大学を受験するので二人とも受かればいいと思っている。
「そっか。兄ちゃんも困ってんのか」
「そうだよ。恋愛なんて誰でも悩むもんさ」
ふと昔、二人で縁側に寝転がっていた日の事を思い出す。小さな二人がだらしなく畳みの上に寝転がりジュースを飲みながら穏やかな風に吹かれていた。その時裕二は「俺達合体したら無敵じゃん」と夢のような事を言っていたのだ。その台詞はその時だけのもので、今はもう聞く事はなくなった。きっとそれを口にする事がなくなったのは、夢のような話をするのがばかばかしいと思った訳ではなく、正反対な僕達でも、お互いを認めつつ、欠点がある今の自分の事を認められるようになったからではないだろうか。
「裕二、俺達昔からなにもかも正反対な兄弟だって言われてたよね。もしかすると恋愛もそうなのかな」
「んー、どうだろう。けど今二人とも悩んでるしなぁ」
「そうだね」
きっと合体したとしても、その問題に対しては無敵と言う訳にはいかないようだった。だけどそれでも、その問題にバラバラのまま立ち向かっていくのだろう。勝つか負けるかは分からない。
「もし失恋したらジュースでも奢ってあげるよ」
「やな事言うなよ」
「初恋は実らないもんなんだ」
不満そうに口を尖らし「じゃあ、兄ちゃんが振られたら俺も奢ってやるから、その時は正直にちゃんと教えろよな」と言い返す。太一は「分かったよ」と笑いながらタロウの頭を撫でていた。
いつか、彼らが無敵になる日は来るだろうか? きっと誰もがそんな日は来ないと言うだろう。だが、それでも時の流れは、体の中にある無数の空洞をゆっくりとでも埋めていく事は出来る。
裕二は、高校になって二度目の通知表が帰ってくるとそれを自慢げに太一へと見せびらかした。そこには相変わらず体育だけが5だったが、1と2の数字は少し減って3の数字を見つけられるようになっていた。太一はその通知表に笑顔を返しながら、高校に入ってから始めたテニスラケットを取り上げるとくるくると指先だけで器用に回してみせた。
Haven’s Garden
私、雨音琴子はちょっと変わっていると言われる。でもそう言う周りの評価ってどうでもいい事じゃない?
私の最近のお気に入りは矢倉響太のアコースティックギター。
プラスチックのピックを彼は使わない。いつも彼は自分の指だけでギターを弾く。フィンガーピッキング、と彼が言い「フィンガーピッキング」と私は鸚鵡のように繰り返し、とても素敵だと思う。言葉には重みがあると思う。響太が言うその言葉にはとても重みがあると私は思う。ずしりとした重さではなく、ゆったりとした上品な深みのある重さ。そういうものは世界にはあまり転がっているものではないから、出来る事なら私は携帯電話の録音機能を使って永久保存してしまいたいくらいだった。
フィンガーピッキング。
その言葉を布団の中で一人蹲りながら聞けたなら私は濡れてしまうかもしれない。そしてそれが機械で再生されるものではなく、一緒に布団の中にもぐって耳元で囁いて貰う事が出来るなら私は枕元に新しいパンツを用意でもしとかないと大変な事になっちゃうかもしれない。理性ってものと一緒に。
そう、私達はセックスをするような間柄ではないし、したい、と思うような感情もない。ただ、そういう雰囲気にもしなったらする事に抵抗はないし、彼の経験とかテクニックなんて知りもしないけどそれなりにいい体験にはなるかもしれない。
でも私と響太はそういうのしない。私は彼のギターを弾いているだけで充分。こうやってコンビニで買ってきたリキュールやソーダやオレンジジュースを並べて好きな時に好きな量を飲んで、彼のあまり広くないけど私が今座っている座る時に背伸びして腰掛けないといけない高いスツールや、そのスツールに合わせて置かれているガラス製の丸テーブルに頬杖をつく事が出来る彼の部屋に来られるだけで、私の欲求は殆ど満たされる。
「どうしてそんなにギターが好きなの? 自分で弾こうとは思わないの?」
「分かってないなぁ、響太は」
ギターを引く手を止めて足にそれを置いたまま壁にもたれて座り、お酒が入っているグラスを口につけるその姿を見て私はうっとりする。
「私が弾いたって似合わないでしょ? この部屋の光景に。こうやって綺麗な部屋で、テーブルには何本かの瓶が立っていて私が吸う煙草の灰がちょっと灰皿から零れてテーブルに落ちてるけどそれもまた乙な物だし、DVDの映画は楽しむよりもただ切なくなってくださいっていうだけの映画と言うより映像集みたいなテレビの色もいいでしょ? その中に響太がちょっと泣けちゃうような優しいギターを弾いてくれて、それを私はまどろみながら聞くのが最高にこの光景を美しいものにしてるの」
「俺は酒とかタバコの灰とかテレビとかと同じ舞台のセットか?」
「そうかもしれないけど、響太は主役なの。この舞台の中、他のなにかは欠けてもいいけど響太はいなくちゃいけないの」
「琴子の役所は?」
「観客」
足元に赤い色のカクテルを置く、フローリングの床にちょっと酔っているらしく乱雑に置かれたグラスはコツンと小気味の言い音を立てる。あぁ、なんで彼はこんなにも一々つぼを押さえてくるのだろうか。私は今オルガニズムを感じている事を白状してしまいたくなる。オナニーではなくセックスをしているのだと教えてあげたくなる。相手は決して体の触れていない響太であり、またこの部屋とであり、空気と言う目に見えないものとでもある。
「琴子は変わってる」
「よく言われる。でも私からすれば変わってるのは他の皆だし、私がなにを愛したってそれが私らしさじゃない?」
「愛してる。そんな台詞普通の人はあんまり言わないな」
彼はポツリとそう呟いた。彼も他の人と同じように私の事を変わってると言うけれど、結局彼は私のそういうところを認めてくれていた。だから私もこうやって天国みたいな空間を遠慮なく教授すると言う行為を行う事が出来ている。
「愛するって言葉、陳腐だなって思う時もある。たまに誰かが言ってるのを聞いてなに言ってんだこいつなんて思う時もある。かと思えば逆になんて劇的な言葉なんだろうって思う事もあるよ。そういう時はなんて返事をするべきか分からなくなる。むしろなにかを言う事なんて愚かな行為でその言葉を僕は黙って聞いているのがもっとも正しいのかもしれない。けど君が言うと変だな、あぁ、そうかって言う感覚になる。なんだろうね、重みを感じない。ただ愛するって言葉の正しい意味を使ってるだけって言う感じだ」
「それっていい事? 悪い事?」
「重みがないように、いいも悪いもないんじゃないかな。きっとそういうものなんだよ。僕個人の意見で言えば子守唄を聞いているようで心地がいいけど、人によっては反応が薄いように取られるかもね」
「別にいいのよ、他人なんて」
「そうだね、君はそう言う」
響太は嬉しそうに笑うと映画のDVDを止めて別のディスクを取り出した。流れ出したのは女性アーティストのライブで私達はそれをしばらく黙って聴いた。中盤あたりに差し掛かり私の好きな歌が始まり、観客の歓声が響く中でアーティストが歌いだすのと同時に、私も口ずさんだ。歌詞はうろ覚えで、曖昧なところはハミングで誤魔化しながら歌っていると響太が私にあわすようにギターを弾き始める。
軽い、重い、陳腐、劇的。
そう言うのってきっと誰もが全ての味を味わうのだと思う。ストロベリージャムみたいに甘いものもあれば緑茶みたいに苦いのもある。私はストロベリージャムが好きだけど、それを苦手な人もいて、私は他人を舐める事は切りがなくてとても退屈な行為だといつ頃からかそんな風に考え出した。
だから私はスプーンを持つ事にした。他人から舐めて貰うのを待つのをやめて私は自分から私を味わってもらう事にして、そうやって知ってもらった私の味に他人がどう思おうと気にしない事にしたし、私は自分の味を相手に知らせても、他人の味を積極的に知ろうとはしなかった。だって、なんか面倒くさいから。皆、瓶の蓋を硬く閉めてそれを開けようとするのは私にとっては馬鹿馬鹿しかった。
だけどそれを言うと響太は少し不機嫌そうだった。彼の場合、瓶の蓋を開けていたけど、それでも怒った。
「琴子は自分を大事にしすぎなんだよ」
「そうかしら?」
「そうだよ。自分はストロベリージャムでずっといたいって思ってるから他人の味を知ろうとしないんだ。僕の事だって実際全く知ろうとしない。君は今この部屋の事を愛してるって言うけどそれは本当すぎる。愛してるのは僕じゃないしギターじゃないし酒じゃないし映画でもない。ギターは本当はエレキギターでもいいし、コーラでもいいし派手なエフェクトでもいいし、主役の僕だって誰かと交替してもいいんだ。君が愛せるような光景が出来上がるならね」
私は彼のその発言を聞いて思わず条件反射的に「そうね」と言いそうになったが、私の中のなにかがそれを慌てて食い止めたせいで私は間抜けにも口をパクパクとゆっくり開け閉めすることになって、歯が重なり合いコン、コンと音が鳴った。
「びっくりした」
「僕がこんな事を思っている事?」
「ううん」
ポカンとした私の言葉に、彼はショックでも受けたのだろうかと思ったのか、ちょっと悪いな、と言う顔をしたが、私は「そうじゃないの」と言い、
「そうじゃないみたい」
ともう一度言った。
「二回も言う事じゃない」
「ううん、そうじゃなくてそのそうじゃないみたいはさっきのそうじゃないとはべつのものなの」
「どういう事?」
彼の疑問に私は再び沈黙。
言うべき言葉は分かっていた。私が悩んでいたのは別の事で、だけどそんな私の心境を知らない響太は私より先に口を開いた。
「琴子はさ、ちょっと周りに無頓着すぎるんだよ。例えば、君はこの光景を愛しててそれに君は満足してるだろう? じゃあ僕は? そういう事ちょっと考えてもいいと思うんだ。僕はこの光景をどう思っているんだろう? そういうの考えた事ある?」
「なかったかも」
「でしょ? だから僕も君を見習ってスプーンを持ってみる事にしたよ。ねぇ、琴子君は自分の事を観客だと言ったけど、僕にとっては君こそ主役だよ。そうやってスツールに腰掛け、怠惰に煙草を吸いながら僕が弾くギターに聞き耳を立てる。僕はそういう光景がとても好きだよ」
「光景?」
「そう、光景」
彼はそう言い終えると満足したように再びギターを手に取った。彼の指に押さえられて鳴るCコードの響き。私は彼の中で、その音と同時に存在している事に気がつく。
参った。どう言えばいいのかしら。
言いたい事は決まっている。
ねぇ、響太、私あなたの言ったとおり、あなたじゃなくて他の誰かで、アコースティックギターじゃなくてエレキギターで、お酒じゃなくてコーラで、映画じゃなくてエフェクトの光景って言うものを想像してみたの。確かにあまり悪い光景じゃないと思うわ。そこにいれば私はまどろむ事をやめてちょっと我を忘れたようにはしゃいだりしている自分になる事も難しくはないと思うの。
でも、やっぱりちょっと違うみたい。そこにいるのはやっぱり響太であってほしい。もし、そこにいるのがアコースティックギターを持って場にそぐわないとしても。他の誰かがその姿にブーイングをしても、私は響太のフィンガーピッキングで鳴らす音色が聞きたい。
参った。どう言えばいいのかしら?
ねぇ、響太、私この光景を愛していたのよ。そしてあなたもこの光景を愛していたでしょう?
けど、私今あなたに差し出されてあーんってして食べたその味のせいで、ちょっと私の中変わっちゃったみたい。
「ねぇ、響太」
「なに?」
どうしようもなくセックスしたくなっちゃった、あなたと。
私が言いたいのは結局それだけで、結局なにを迷っていたかという事は、彼が言う私の軽さも重さもない口調を消して、陳腐にならないように、劇的に伝えたいと思うのだけど、そうやって上手く伝えるにはどういえばいいだろう? と言うそれだけの事だった。
私、雨音琴子はちょっと変わっていると言われる。でもそう言う周りの評価ってどうでもいい事じゃない?
私の最近のお気に入りは矢倉響太のアコースティックギター。
プラスチックのピックを彼は使わない。いつも彼は自分の指だけでギターを弾く。フィンガーピッキング、と彼が言い「フィンガーピッキング」と私は鸚鵡のように繰り返し、とても素敵だと思う。言葉には重みがあると思う。響太が言うその言葉にはとても重みがあると私は思う。ずしりとした重さではなく、ゆったりとした上品な深みのある重さ。そういうものは世界にはあまり転がっているものではないから、出来る事なら私は携帯電話の録音機能を使って永久保存してしまいたいくらいだった。
フィンガーピッキング。
その言葉を布団の中で一人蹲りながら聞けたなら私は濡れてしまうかもしれない。そしてそれが機械で再生されるものではなく、一緒に布団の中にもぐって耳元で囁いて貰う事が出来るなら私は枕元に新しいパンツを用意でもしとかないと大変な事になっちゃうかもしれない。理性ってものと一緒に。
そう、私達はセックスをするような間柄ではないし、したい、と思うような感情もない。ただ、そういう雰囲気にもしなったらする事に抵抗はないし、彼の経験とかテクニックなんて知りもしないけどそれなりにいい体験にはなるかもしれない。
でも私と響太はそういうのしない。私は彼のギターを弾いているだけで充分。こうやってコンビニで買ってきたリキュールやソーダやオレンジジュースを並べて好きな時に好きな量を飲んで、彼のあまり広くないけど私が今座っている座る時に背伸びして腰掛けないといけない高いスツールや、そのスツールに合わせて置かれているガラス製の丸テーブルに頬杖をつく事が出来る彼の部屋に来られるだけで、私の欲求は殆ど満たされる。
「どうしてそんなにギターが好きなの? 自分で弾こうとは思わないの?」
「分かってないなぁ、響太は」
ギターを引く手を止めて足にそれを置いたまま壁にもたれて座り、お酒が入っているグラスを口につけるその姿を見て私はうっとりする。
「私が弾いたって似合わないでしょ? この部屋の光景に。こうやって綺麗な部屋で、テーブルには何本かの瓶が立っていて私が吸う煙草の灰がちょっと灰皿から零れてテーブルに落ちてるけどそれもまた乙な物だし、DVDの映画は楽しむよりもただ切なくなってくださいっていうだけの映画と言うより映像集みたいなテレビの色もいいでしょ? その中に響太がちょっと泣けちゃうような優しいギターを弾いてくれて、それを私はまどろみながら聞くのが最高にこの光景を美しいものにしてるの」
「俺は酒とかタバコの灰とかテレビとかと同じ舞台のセットか?」
「そうかもしれないけど、響太は主役なの。この舞台の中、他のなにかは欠けてもいいけど響太はいなくちゃいけないの」
「琴子の役所は?」
「観客」
足元に赤い色のカクテルを置く、フローリングの床にちょっと酔っているらしく乱雑に置かれたグラスはコツンと小気味の言い音を立てる。あぁ、なんで彼はこんなにも一々つぼを押さえてくるのだろうか。私は今オルガニズムを感じている事を白状してしまいたくなる。オナニーではなくセックスをしているのだと教えてあげたくなる。相手は決して体の触れていない響太であり、またこの部屋とであり、空気と言う目に見えないものとでもある。
「琴子は変わってる」
「よく言われる。でも私からすれば変わってるのは他の皆だし、私がなにを愛したってそれが私らしさじゃない?」
「愛してる。そんな台詞普通の人はあんまり言わないな」
彼はポツリとそう呟いた。彼も他の人と同じように私の事を変わってると言うけれど、結局彼は私のそういうところを認めてくれていた。だから私もこうやって天国みたいな空間を遠慮なく教授すると言う行為を行う事が出来ている。
「愛するって言葉、陳腐だなって思う時もある。たまに誰かが言ってるのを聞いてなに言ってんだこいつなんて思う時もある。かと思えば逆になんて劇的な言葉なんだろうって思う事もあるよ。そういう時はなんて返事をするべきか分からなくなる。むしろなにかを言う事なんて愚かな行為でその言葉を僕は黙って聞いているのがもっとも正しいのかもしれない。けど君が言うと変だな、あぁ、そうかって言う感覚になる。なんだろうね、重みを感じない。ただ愛するって言葉の正しい意味を使ってるだけって言う感じだ」
「それっていい事? 悪い事?」
「重みがないように、いいも悪いもないんじゃないかな。きっとそういうものなんだよ。僕個人の意見で言えば子守唄を聞いているようで心地がいいけど、人によっては反応が薄いように取られるかもね」
「別にいいのよ、他人なんて」
「そうだね、君はそう言う」
響太は嬉しそうに笑うと映画のDVDを止めて別のディスクを取り出した。流れ出したのは女性アーティストのライブで私達はそれをしばらく黙って聴いた。中盤あたりに差し掛かり私の好きな歌が始まり、観客の歓声が響く中でアーティストが歌いだすのと同時に、私も口ずさんだ。歌詞はうろ覚えで、曖昧なところはハミングで誤魔化しながら歌っていると響太が私にあわすようにギターを弾き始める。
軽い、重い、陳腐、劇的。
そう言うのってきっと誰もが全ての味を味わうのだと思う。ストロベリージャムみたいに甘いものもあれば緑茶みたいに苦いのもある。私はストロベリージャムが好きだけど、それを苦手な人もいて、私は他人を舐める事は切りがなくてとても退屈な行為だといつ頃からかそんな風に考え出した。
だから私はスプーンを持つ事にした。他人から舐めて貰うのを待つのをやめて私は自分から私を味わってもらう事にして、そうやって知ってもらった私の味に他人がどう思おうと気にしない事にしたし、私は自分の味を相手に知らせても、他人の味を積極的に知ろうとはしなかった。だって、なんか面倒くさいから。皆、瓶の蓋を硬く閉めてそれを開けようとするのは私にとっては馬鹿馬鹿しかった。
だけどそれを言うと響太は少し不機嫌そうだった。彼の場合、瓶の蓋を開けていたけど、それでも怒った。
「琴子は自分を大事にしすぎなんだよ」
「そうかしら?」
「そうだよ。自分はストロベリージャムでずっといたいって思ってるから他人の味を知ろうとしないんだ。僕の事だって実際全く知ろうとしない。君は今この部屋の事を愛してるって言うけどそれは本当すぎる。愛してるのは僕じゃないしギターじゃないし酒じゃないし映画でもない。ギターは本当はエレキギターでもいいし、コーラでもいいし派手なエフェクトでもいいし、主役の僕だって誰かと交替してもいいんだ。君が愛せるような光景が出来上がるならね」
私は彼のその発言を聞いて思わず条件反射的に「そうね」と言いそうになったが、私の中のなにかがそれを慌てて食い止めたせいで私は間抜けにも口をパクパクとゆっくり開け閉めすることになって、歯が重なり合いコン、コンと音が鳴った。
「びっくりした」
「僕がこんな事を思っている事?」
「ううん」
ポカンとした私の言葉に、彼はショックでも受けたのだろうかと思ったのか、ちょっと悪いな、と言う顔をしたが、私は「そうじゃないの」と言い、
「そうじゃないみたい」
ともう一度言った。
「二回も言う事じゃない」
「ううん、そうじゃなくてそのそうじゃないみたいはさっきのそうじゃないとはべつのものなの」
「どういう事?」
彼の疑問に私は再び沈黙。
言うべき言葉は分かっていた。私が悩んでいたのは別の事で、だけどそんな私の心境を知らない響太は私より先に口を開いた。
「琴子はさ、ちょっと周りに無頓着すぎるんだよ。例えば、君はこの光景を愛しててそれに君は満足してるだろう? じゃあ僕は? そういう事ちょっと考えてもいいと思うんだ。僕はこの光景をどう思っているんだろう? そういうの考えた事ある?」
「なかったかも」
「でしょ? だから僕も君を見習ってスプーンを持ってみる事にしたよ。ねぇ、琴子君は自分の事を観客だと言ったけど、僕にとっては君こそ主役だよ。そうやってスツールに腰掛け、怠惰に煙草を吸いながら僕が弾くギターに聞き耳を立てる。僕はそういう光景がとても好きだよ」
「光景?」
「そう、光景」
彼はそう言い終えると満足したように再びギターを手に取った。彼の指に押さえられて鳴るCコードの響き。私は彼の中で、その音と同時に存在している事に気がつく。
参った。どう言えばいいのかしら。
言いたい事は決まっている。
ねぇ、響太、私あなたの言ったとおり、あなたじゃなくて他の誰かで、アコースティックギターじゃなくてエレキギターで、お酒じゃなくてコーラで、映画じゃなくてエフェクトの光景って言うものを想像してみたの。確かにあまり悪い光景じゃないと思うわ。そこにいれば私はまどろむ事をやめてちょっと我を忘れたようにはしゃいだりしている自分になる事も難しくはないと思うの。
でも、やっぱりちょっと違うみたい。そこにいるのはやっぱり響太であってほしい。もし、そこにいるのがアコースティックギターを持って場にそぐわないとしても。他の誰かがその姿にブーイングをしても、私は響太のフィンガーピッキングで鳴らす音色が聞きたい。
参った。どう言えばいいのかしら?
ねぇ、響太、私この光景を愛していたのよ。そしてあなたもこの光景を愛していたでしょう?
けど、私今あなたに差し出されてあーんってして食べたその味のせいで、ちょっと私の中変わっちゃったみたい。
「ねぇ、響太」
「なに?」
どうしようもなくセックスしたくなっちゃった、あなたと。
私が言いたいのは結局それだけで、結局なにを迷っていたかという事は、彼が言う私の軽さも重さもない口調を消して、陳腐にならないように、劇的に伝えたいと思うのだけど、そうやって上手く伝えるにはどういえばいいだろう? と言うそれだけの事だった。
In the pool
十六歳にして芹沢洋子は自らの命を絶ち、取り残された僕達は遺影の中の微笑みなんて嘘だ、と言う事を伝えるためだけに集められたように思える葬式の中で、相槌を打つように涙を流したり、沈痛な表情を浮かべていた。
「退屈」
「そんな事言うもんじゃない」
「ただ口にするかしないかの違いじゃない」
もっともだ、と否定できるような言葉を持ち合わせていない僕は、内心でそう思ったがなにも言わない事にした。坂巻琴美の台詞はあくまで独り言のようで、僕の返事など求めていないような気がしたし、そもそも僕は彼女に対して伝えたい事など一つとしてなかった。そしてお互いにただ空白を埋めるだけの会話のやり取りなんて無為なものだと言う確信を抱いている事は間違いがなかった。
滞りなく葬式は進行し、黒い車に芹沢洋子の遺体が四角い長方形ごと収められると、僕達はその車が走り去っていくのを見送り解散する事になった。全員が黒い学校の制服を着て同じような表情をしていた僕達は彼女の家からある程度離れると、まるで道端にでも落としていた感情を拾い直したかのようにぱっと色を取り戻した。
けどなんで自殺なんてしたんだろうねー。
集団から逃れようと少し足早になり、女子生徒の集団を追い越したところで、その軽い口調の台詞が聞こえた。それは決して悲しみだとか、悔やみだとか言うような感情ではなく、好奇心とか興味と言う枠組みの物だと言うのはすぐに分かった。
さぁ、明るい子だったのにね、なんでなんだろ?
(その、なんで、が分かったとして、君達になにか意味があるのか?)
そんな事を考えている僕も、それは彼女達がなぜそんな事を気にするのだろう、と言う興味に動かされているだけに過ぎない。
芹沢洋子と言う僕にとって、ほんの少しだけ話をした事はあるものの、殆ど彼女の事なんて僕は知りもしない。水泳部に所属しているらしいがどちらかと言えば痩せ型で、一年中夏でも、冬でも、ばっさりとしたショートカットだった彼女は僕の知る限り、いつでも明るく微笑んでいた。美人と言う訳ではなかったが、愛嬌があったように思う。成績も上位を維持していたようだ。確か、妹がいるらしいと聞いた事があるが、僕が彼女の事を振り返って思い出せるのはその程度の誰もが知っているような事だ。
(だけど)
確かに、自殺するような子には見えなかったな、と思った。
「二神真さん、ですよね?」
そう、僕に芹沢洋子の妹である芹沢樹里が声をかけてきたのは、亡くなってもう座る物のいなくなった教室の机に置かれた花瓶に挿されている花に、水の入れ替えをする事を皆忘れてしまったために枯れてしまい、空っぽになってしまった頃だった。
「私、芹沢洋子の妹の樹里って言うんですけど、ちょっとお話出来ないですか?」
「どうして僕?」
率直にそう尋ねると、彼女はなにか言いにくい事でも抱えているのか口ごもった。どうやらその一言で意気消沈してしまったのか下級生の彼女はしゅんとしてしまい、僕は姉を失った妹の心境なんて理解する事なんて出来ないし、本人も簡単に整理できる事ではないだろう、と思い、少しなら構わない、と応えると彼女は僕の意に反して「じゃあ、ちょっとゆっくり話したいので放課後付き合ってください」と言うと、深々と頭を下げて逃げるように走り去っていってしまった。僕は彼女が足を踏み出すたびに揺れる長髪を呆気に取られながら見つめ、なんだか面倒くさい事になったと思い溜め息を吐く。
「あんた、芹沢洋子になんかしたの?」
坂巻琴美に妹の事を話すと、そう言って首を傾げた。僕はどう自分の頭の中を掘り下げても思い当たるものがなかったので首を横に振る。
「本当に?」
「別になにかに誓えるほど自信がある訳ではないけど。裁判でなら勝てるくらいの自信はあるかな」
「じゃあ、なんの用なのかしらね」
さぁ、なんなんだろうね。
君はきっとその用件の内容はどうでも良くて、知りたいのはどうして選ばれたのが僕で、僕と生前の芹沢洋子、もしくは芹沢樹里にどんな繋がりがあるのかという事なのだろうけど。
「あまり似てないんだね」
放課後になるとホームルームがいつもより早く終わったため、芹沢樹里の教室がある校舎に向かった。廊下に差し掛かったところで教室のドアが開き、帰宅しようとする生徒達が現れる。彼らは僕を見て上級生だとすぐに理解すると軽く会釈をして通り過ぎていった。彼女のクラスを聞いていなかったため、適当にその辺りをブラブラしていると彼女の方が先に見つけてくれたらしく「すいません、わざわざ来てもらって」と駆け寄ってきた。僕は「気にしないでいいよ。で、用事ってなにかな」と訪ねると、彼女は僕を学校から連れ出し近くの喫茶店へと入った。
「え?」
「顔。姉妹なのに」
それを切り出したのは、こうやってわざわざ喫茶店にまでやってきたのに、頼んだアイスコーヒーが半分ほどに減っても彼女の口から僕への用件が切り出されなかったため、単なる僕の気遣いのようなものだった。彼女は唐突な僕の言葉を聞き逃してしまったのか中空に浮かんだようなそれを、ややあって掴む事に成功すると、あぁ、と今度はなんの違和感もなく、小さく笑った。
「異母姉妹なんです、私達」
「あぁ、道理で」
「いつもは、適当に誤魔化すんですけどね、お姉ちゃんがお父さん似で、私がお母さん似だからとかって」
「なるほど」
確かに一歳しか離れていない異母姉妹と言うのは、あまり大っぴらに言いふらしたくなるような事ではない。だが、その事実を彼女はどうして僕にはあっさりと告白したのだろうか。
そんな僕の疑問に答えようと思ったのか、それともそうやって話した事で緊張のようなものが解れたからなのか、彼女はようやく用件を切り出してきた。
「あの、お姉ちゃん、二神さんの事好きだったんです」
その言葉に一体どう言えば彼女を満足させる返事となるのだろう、と僕は視線を泳がせた。
「正直信じられないな。意外、と言ったほうが正しいか。彼女はもっと明るいタイプが好きだと思っていたから」
思っていたから。と言うよりは今考えてそう思った。
だが、芹沢樹里は僕のその言葉に溜め息を吐くと、全く予想だにしていなかった言葉を口にする。
「学校でのお姉ちゃんは明るかった、って二神さんも思ってるんですよね」
「そうだね」
「お姉ちゃん、家では誰とも口を聞いてくれなかったんです。ずっと部屋に閉じこもってました」
私はお姉ちゃんの事、嫌いではなかったですけど、多分お姉ちゃんは私やお母さんの事は嫌いだったと思います。あと、お父さんとおじいちゃんとおばあちゃんの事も。お姉ちゃんが生まれた時、お母さんはもう妊娠してたそうです。結局お父さんはそれで離婚する事になったんですけど、おじいちゃんとおばあちゃんが凄く怒ったそうです。初孫で嬉しかったんでしょうね。洋子って名前もおばあちゃんが考えたそうです。
「幸せの絶頂と思っていたら、実は旦那は浮気をして妊娠していたとなればそれは怒るだろうね」
「そうですよね」
彼女は素直に頷くと話を続けた。
お姉ちゃんのお母さんは親権を放棄する事にしたらしいです。許せなかったんじゃないでしょうか。お姉ちゃんはお父さんが育てる事になったんですけど、同時に今のお母さんと私の問題もありました。結局お母さんと結婚して私もちゃんと産むって決めたそうです。けどおばあちゃんは私の名前は考えてくれなかったみたいですね。樹里って言うのはお母さんの名前から考えたんだと思います。
「おじいさんとおばあさんは君達の事を認めてなかったのかな」
「最初はそうだったかもしれないです。と言うよりお姉ちゃんに気を遣っていたのかもしれないですね状況が状況だから、構ってあげようとしてあげたのかもしれないです。お姉ちゃんもあの頃は懐いてましたし」
「あの頃はって事は過去形なんだね」
彼女は誰にも話さないでくれますか? と今更になって僕に確認してきた。
僕が頷くと彼女はほっとしたのか吐息を一つこぼした。
「当時は家もグチャグチャで、父さんは慰謝料の形にと住んでいたマンションを追い出されておじいちゃんと一緒に暮らしていました。うちは共働きで、私達の面倒は専ら祖父母が見ていたんです。私はあんまり覚えてはないんですけど、やっぱりお姉ちゃんの方ばかりを猫可愛がりしているような事はあったみたいです。その事で当時は結構揉めたそうなんですけど、そのせいでかお母さんは余計私を甘やかしたって言うか」
へぇ、と僕は芹沢洋子がそんな過去を抱えていたとは、と少し驚いていた。彼女からそういった話を聞いた事などなかったし、あの明るい表情の奥底にそんな葛藤があったとは予想だにしない事だった。
「溝、って言うんでしょうか。小学生でも高学年になると、もうそういうの私達も分かるじゃないですか。あ、なんかおかしいな、って言うの。私はあんまり祖父母に好かれてないな、って思ってたし、お姉ちゃんはお母さんの事あんまり好きじゃないだなって。母さんはその頃、お姉ちゃんの事も大事にしてるって言ってましたけど、やっぱり私とお姉ちゃんで扱いに差があるなって言うのは私も思ってましたから。その頃、実家を出る事になったんです。私達は四人で暮らす事になりました。当時は揉めたそうです。祖父母はお姉ちゃんは自分達が育てるなんて言ったそうです。結局お姉ちゃんも私達と一緒に暮らす事になりましたけどね」
「でも、うまくいかなかった」
「はい。お姉ちゃんは家で塞ぎがちになりました。父さんも母さんも私も色々話しかけたんですけど、最後まで無理でした」
「祖父母のところに行きたかったのかな」
「そうではないみたいです。どちらかと言うとお姉ちゃんは二人の事も嫌いになっていったみたいです。実際のところ二人の存在はプレッシャーだったみたいで、本当は開放されたと思っていたみたいです。実際、お姉ちゃんに結構高望みしてたみたいですね、お姉ちゃんもそれを理解してて勉強とか部活とか頑張ってたでしょ? 私よりずっと成績もいいし、運動も出来たんです、昔から。でも二人はもっともっとって感じでした。反面私はそんな感じでも母さんや父さんに甘やかされてたのであまりそういうプレッシャーとか考えた事がなかったんです。多分、お姉ちゃんはそれも気に入らなかったと思うんですけどね」
言い方は悪いが、芹沢洋子の目には不出来な妹の方が恵まれていると思えたのだろうか。彼女はきっと誰も競う相手のいない孤独なマラソンを続けていたのかもしれない。無責任な応援を送られ、決してリタイアする事の許されないゴールのないマラソン。
「あの、二神さんは、お姉ちゃんと仲が良かったんじゃないんですか?」
「正直に言うと特別仲が良かったとは僕は思っていない。好意を抱かれていたと言うのも今君に言われて知ったくらいだから」
そうなんですか、と彼女はがっかりしたように肩を落とした。僕はなんだか彼女に悪い事をしたような気分になるが、かと言ってどうしようもない事なのは明白だった。
「お姉ちゃん、家族以外の誰かがいるととても明るかったんです」
「そうだね」
「一度お姉ちゃんが家に友達を連れてきた事があるんですよ。私びっくりしました。あの家では一言も喋らず殆ど部屋から出てこないお姉ちゃんがリビングで笑ってて、お母さんにも明るく話しかけてるんですよ。私、あの時てっきりお母さんと仲直りしたんだって本気で思いましたもん。けど、友達が帰った途端、その笑顔がパタッとなくなるんです。まるで役者さんが撮影を終えたみたいな感じで。いつもの無表情に戻って部屋にさっさと戻っていっちゃうんです」
その時の事を思い出したのか、彼女の目つきが険しくなる。どうにかして僕にもその時彼女が覚えた違和感の正体を伝えようとしているようだった。
「私さっぱり意味が分からなくて。どうしてそんなに機械みたいに切り替えが出来るのかも分からないし、どうして他の人がいるとお母さんに向かって笑えるんだろうって」
「彼女は、ただ甘えたかったんじゃないかな」
僕はポツリと口にする。
「なんだかんだ言ってお母さんとやり直したいと思っていたんじゃないだろうか。ただ一人では難しいから友達と言うクッションを間に挟む事にしたんじゃないだろうか。きっとその明るさは友達ではなくお母さんに向けたものだったんじゃないだろうか」
「そうでしょうか」
「どうだろう。なにかに誓えるほどの自信もないし、裁判でも勝てそうにないけどね」
「でも学校でも明るかったでしょう? それはお母さんには全然関係ない事じゃないんですか?」
「お母さんには関係なくても、彼女本人がその明るさが本物だったかどうかと言う事はもう君も知っているだろう?」
だから、彼女は今この世にいない。
「そう、ですよね」
納得したのかどうか曖昧な返事を聞いて、僕はそろそろ店を出ようと彼女を促した。彼女は僕が帰りたがっていると思ったのか恐縮したように「長々とすみませんでした。私、二神さんとお姉ちゃんが仲いいと思ってたのでよければ話を聞かせてもらいたかったんです」と頭を下げる。
「いや、気にしないでいいよ。けどどうして彼女が僕の事を好きだって知ったの?」
「本人が言ってました。私達はたまにですけど話したりしてたので」
「どういうところがよかったんだろうね」
「顔が好みなんだそうです」
私が誘ったからと言って料金を支払おうとする彼女を制して、二人分の料金を払うと店を出た。実際、僕は早く帰りたかったし、彼女の話に好奇心がくすぐられる事も、自分の台詞が意味を持つと思うような事もなかった。
芹沢洋子の母親に見せた明るい笑顔が先程の言葉のように、素直になれないままそれでも母に愛を求めていた行動だろうと、そしてまたはその逆に、普段は見せない自分の明るい姿を家族に見せ付けることで、自分は今のままでも満たされているのだという、遠まわしな自分に触れようとしてくる家族への拒否反応だったのだとしても。
ただ、自殺してしまうような環境においても、人は内面ではなく外面で性を感じると言う事は面白い話だと思えた。
「そんだけ?」
「そうだね」
「つまらないわね」
「元から楽しいと思えるような事でもないさ」
そう言われればそうね、と坂巻琴美が呟く。芹沢樹里から誰にも言わないで、と言われていたので、彼女に教えたのは彼女が僕に好意を抱いていたらしい、と言う事だけだ。彼女はそれでも僕を上から下まで見下ろすと「なにがいいのかしらね」と本気で悩んでいるようだった。
「そうだね。僕もそこはちょっと疑問だった」
「自分で言う?」
「自分で言うのはなんだけど、あまり自分の顔が黙っていても恋心を抱いてくれるほど優れているとは思えない」
「そういうのって冷静に判断する事かしら? そもそも人の好みなんてそんなもんでしょ?」
「そうとも言えるけれど、例えば雑誌のモデルのような美人がそこにいたところでやはり急に恋心を抱く事なんてありえないと思う。鑑賞するには適しているけれどね。一目惚れと言うものを否定する訳じゃないけれど、それならもう少し違う相手を選んでもよかったように思える」
「じゃああんたは他になにかあると思ったって事?」
「そう。彼女の妹と話してから、少し生前彼女とどんな話をしたか思い出してみたんだ」
芹沢洋子は明るい。
少なくとも僕はそう思っていた。と言うよりそう定義していた。定義すると言う事はある一つの枠組みに当てはめると言う事に他ならない。僕は彼女を芹沢洋子としてではなく、クラスにいる明るい女子生徒と言う目線で見ていた。それは彼女だけでなく、誰もがそうで坂巻琴美も大きな枠組みの中では芹沢洋子となんら変わらない存在だった。
「二神君もなにかスポーツやればいいのに。身長高いからバスケとかいいんじゃない?」
「高いと言ってもバスケット選手としてみれば普通だし、背が高いからってだけでスポーツが出来るわけじゃない」
「理屈っぽいよね、二神君って」
彼女はそう言いながら笑い、半袖のシャツから覗く日焼けした腕をもう片方の腕でさすった。
「芹沢さんはどうして水泳を?」
「聞きたい?」
「言いたくないなら無理には聞かない」
不満げに頬を膨らませた。あのね、二神君、女の子が聞きたい? って言う時は聞いてほしいって事なんだよ。
「それは申し訳ない」と素直に謝り「どうして?」
「流れるプールが好きだったから。あれって泳がなくても勝手に進んでくれるじゃない? 楽だったのよね」
「部活では流れてくれないだろう?」
「それはそうなんだけど。浮いてる感覚が気持ちよかったのよ。力を抜けば抜くほどうまく浮かべるの。そうするとね、私今、なににも束縛されてないんだ、って思えて凄く解放的な気分になれるの」
あの時、僕はなんとなく彼女は日々の生活に束縛を彼女は覚えているのだろうか、と思ったのだが、それを尋ねる事はしなかった。彼女が「聞きたい?」と言う事をしなかったし、僕にとってその台詞の意味を知る事は意味のない事だったのだ。
僕にとって必要だったのはあくまで表面的な枠組みに括るための判断基準であり、それ以上の事を知ってしまえば新たに枠組みを作り細分化していかなければならないと言う事でしかない。僕にとって人付き合いとはあくまで日々の生活をスムーズに送るためのものでしかなかった。
「なるほど」
「二神君ってさ、話してると楽だよね」
「そうかな」
「うん、なんか鏡と話してるみたい」
「どういう意味?」
「なに言っても、自分にそのまんま返ってくるだけで見栄を張る必要とか、バカらしくなっちゃう。これ、褒めてるんだよ?」
「ならいい事だね」
「そうそう、そういうところ」
僕はきっと、彼女にとって、束縛のない水面だったのだろう。芹沢樹里から聞いた僕が知ろうとしなかった芹沢洋子はきっといつでも束縛をされていた。それは家でもそうだし、きっとこの彼女が明るく過ごしていたと思えた学校でもそうだったのだ。一体その束縛がどんなものだったのか知る事は出来ないし、もし知る事が出来ても、僕はそれを求める事はしないだろう。もう、彼女を定義する必要はないのだから。
そして同時に、彼女が本当に愛していたのは誰なのだろう、と思った。
きっと、彼女が僕に抱いていた好意は恋愛ではなく、安堵のようなものなのだろう、と僕は思っている。それは僕の定義と照らし合わせた場合、本当に波一つない水面で永遠にじっとしている事に耐えられる人間なんているはずがないからだ。ある程度の束縛も恋愛には必要だと思える。
(しかしもし本当にその相手が僕だとするなら、君は)
辛かったのだろう。僕はそう定義した。
机に座っていた僕の前を一人の男子生徒が通り過ぎた。彼は手に花瓶を持っており、そこには白い花が何輪か挿されていた。彼はそれを芹沢洋子の席に置き、無言で机の上に手を添える。僕が、その白い花が芹沢洋子の好きだった花だと言う事を知る事はなく、その事を知っているのは彼だけだった。だけど、そんな事を知りもしない僕はそんな彼の様子を見て、ただ、寂しそうだ、と感じていた。
十六歳にして芹沢洋子は自らの命を絶ち、取り残された僕達は遺影の中の微笑みなんて嘘だ、と言う事を伝えるためだけに集められたように思える葬式の中で、相槌を打つように涙を流したり、沈痛な表情を浮かべていた。
「退屈」
「そんな事言うもんじゃない」
「ただ口にするかしないかの違いじゃない」
もっともだ、と否定できるような言葉を持ち合わせていない僕は、内心でそう思ったがなにも言わない事にした。坂巻琴美の台詞はあくまで独り言のようで、僕の返事など求めていないような気がしたし、そもそも僕は彼女に対して伝えたい事など一つとしてなかった。そしてお互いにただ空白を埋めるだけの会話のやり取りなんて無為なものだと言う確信を抱いている事は間違いがなかった。
滞りなく葬式は進行し、黒い車に芹沢洋子の遺体が四角い長方形ごと収められると、僕達はその車が走り去っていくのを見送り解散する事になった。全員が黒い学校の制服を着て同じような表情をしていた僕達は彼女の家からある程度離れると、まるで道端にでも落としていた感情を拾い直したかのようにぱっと色を取り戻した。
けどなんで自殺なんてしたんだろうねー。
集団から逃れようと少し足早になり、女子生徒の集団を追い越したところで、その軽い口調の台詞が聞こえた。それは決して悲しみだとか、悔やみだとか言うような感情ではなく、好奇心とか興味と言う枠組みの物だと言うのはすぐに分かった。
さぁ、明るい子だったのにね、なんでなんだろ?
(その、なんで、が分かったとして、君達になにか意味があるのか?)
そんな事を考えている僕も、それは彼女達がなぜそんな事を気にするのだろう、と言う興味に動かされているだけに過ぎない。
芹沢洋子と言う僕にとって、ほんの少しだけ話をした事はあるものの、殆ど彼女の事なんて僕は知りもしない。水泳部に所属しているらしいがどちらかと言えば痩せ型で、一年中夏でも、冬でも、ばっさりとしたショートカットだった彼女は僕の知る限り、いつでも明るく微笑んでいた。美人と言う訳ではなかったが、愛嬌があったように思う。成績も上位を維持していたようだ。確か、妹がいるらしいと聞いた事があるが、僕が彼女の事を振り返って思い出せるのはその程度の誰もが知っているような事だ。
(だけど)
確かに、自殺するような子には見えなかったな、と思った。
「二神真さん、ですよね?」
そう、僕に芹沢洋子の妹である芹沢樹里が声をかけてきたのは、亡くなってもう座る物のいなくなった教室の机に置かれた花瓶に挿されている花に、水の入れ替えをする事を皆忘れてしまったために枯れてしまい、空っぽになってしまった頃だった。
「私、芹沢洋子の妹の樹里って言うんですけど、ちょっとお話出来ないですか?」
「どうして僕?」
率直にそう尋ねると、彼女はなにか言いにくい事でも抱えているのか口ごもった。どうやらその一言で意気消沈してしまったのか下級生の彼女はしゅんとしてしまい、僕は姉を失った妹の心境なんて理解する事なんて出来ないし、本人も簡単に整理できる事ではないだろう、と思い、少しなら構わない、と応えると彼女は僕の意に反して「じゃあ、ちょっとゆっくり話したいので放課後付き合ってください」と言うと、深々と頭を下げて逃げるように走り去っていってしまった。僕は彼女が足を踏み出すたびに揺れる長髪を呆気に取られながら見つめ、なんだか面倒くさい事になったと思い溜め息を吐く。
「あんた、芹沢洋子になんかしたの?」
坂巻琴美に妹の事を話すと、そう言って首を傾げた。僕はどう自分の頭の中を掘り下げても思い当たるものがなかったので首を横に振る。
「本当に?」
「別になにかに誓えるほど自信がある訳ではないけど。裁判でなら勝てるくらいの自信はあるかな」
「じゃあ、なんの用なのかしらね」
さぁ、なんなんだろうね。
君はきっとその用件の内容はどうでも良くて、知りたいのはどうして選ばれたのが僕で、僕と生前の芹沢洋子、もしくは芹沢樹里にどんな繋がりがあるのかという事なのだろうけど。
「あまり似てないんだね」
放課後になるとホームルームがいつもより早く終わったため、芹沢樹里の教室がある校舎に向かった。廊下に差し掛かったところで教室のドアが開き、帰宅しようとする生徒達が現れる。彼らは僕を見て上級生だとすぐに理解すると軽く会釈をして通り過ぎていった。彼女のクラスを聞いていなかったため、適当にその辺りをブラブラしていると彼女の方が先に見つけてくれたらしく「すいません、わざわざ来てもらって」と駆け寄ってきた。僕は「気にしないでいいよ。で、用事ってなにかな」と訪ねると、彼女は僕を学校から連れ出し近くの喫茶店へと入った。
「え?」
「顔。姉妹なのに」
それを切り出したのは、こうやってわざわざ喫茶店にまでやってきたのに、頼んだアイスコーヒーが半分ほどに減っても彼女の口から僕への用件が切り出されなかったため、単なる僕の気遣いのようなものだった。彼女は唐突な僕の言葉を聞き逃してしまったのか中空に浮かんだようなそれを、ややあって掴む事に成功すると、あぁ、と今度はなんの違和感もなく、小さく笑った。
「異母姉妹なんです、私達」
「あぁ、道理で」
「いつもは、適当に誤魔化すんですけどね、お姉ちゃんがお父さん似で、私がお母さん似だからとかって」
「なるほど」
確かに一歳しか離れていない異母姉妹と言うのは、あまり大っぴらに言いふらしたくなるような事ではない。だが、その事実を彼女はどうして僕にはあっさりと告白したのだろうか。
そんな僕の疑問に答えようと思ったのか、それともそうやって話した事で緊張のようなものが解れたからなのか、彼女はようやく用件を切り出してきた。
「あの、お姉ちゃん、二神さんの事好きだったんです」
その言葉に一体どう言えば彼女を満足させる返事となるのだろう、と僕は視線を泳がせた。
「正直信じられないな。意外、と言ったほうが正しいか。彼女はもっと明るいタイプが好きだと思っていたから」
思っていたから。と言うよりは今考えてそう思った。
だが、芹沢樹里は僕のその言葉に溜め息を吐くと、全く予想だにしていなかった言葉を口にする。
「学校でのお姉ちゃんは明るかった、って二神さんも思ってるんですよね」
「そうだね」
「お姉ちゃん、家では誰とも口を聞いてくれなかったんです。ずっと部屋に閉じこもってました」
私はお姉ちゃんの事、嫌いではなかったですけど、多分お姉ちゃんは私やお母さんの事は嫌いだったと思います。あと、お父さんとおじいちゃんとおばあちゃんの事も。お姉ちゃんが生まれた時、お母さんはもう妊娠してたそうです。結局お父さんはそれで離婚する事になったんですけど、おじいちゃんとおばあちゃんが凄く怒ったそうです。初孫で嬉しかったんでしょうね。洋子って名前もおばあちゃんが考えたそうです。
「幸せの絶頂と思っていたら、実は旦那は浮気をして妊娠していたとなればそれは怒るだろうね」
「そうですよね」
彼女は素直に頷くと話を続けた。
お姉ちゃんのお母さんは親権を放棄する事にしたらしいです。許せなかったんじゃないでしょうか。お姉ちゃんはお父さんが育てる事になったんですけど、同時に今のお母さんと私の問題もありました。結局お母さんと結婚して私もちゃんと産むって決めたそうです。けどおばあちゃんは私の名前は考えてくれなかったみたいですね。樹里って言うのはお母さんの名前から考えたんだと思います。
「おじいさんとおばあさんは君達の事を認めてなかったのかな」
「最初はそうだったかもしれないです。と言うよりお姉ちゃんに気を遣っていたのかもしれないですね状況が状況だから、構ってあげようとしてあげたのかもしれないです。お姉ちゃんもあの頃は懐いてましたし」
「あの頃はって事は過去形なんだね」
彼女は誰にも話さないでくれますか? と今更になって僕に確認してきた。
僕が頷くと彼女はほっとしたのか吐息を一つこぼした。
「当時は家もグチャグチャで、父さんは慰謝料の形にと住んでいたマンションを追い出されておじいちゃんと一緒に暮らしていました。うちは共働きで、私達の面倒は専ら祖父母が見ていたんです。私はあんまり覚えてはないんですけど、やっぱりお姉ちゃんの方ばかりを猫可愛がりしているような事はあったみたいです。その事で当時は結構揉めたそうなんですけど、そのせいでかお母さんは余計私を甘やかしたって言うか」
へぇ、と僕は芹沢洋子がそんな過去を抱えていたとは、と少し驚いていた。彼女からそういった話を聞いた事などなかったし、あの明るい表情の奥底にそんな葛藤があったとは予想だにしない事だった。
「溝、って言うんでしょうか。小学生でも高学年になると、もうそういうの私達も分かるじゃないですか。あ、なんかおかしいな、って言うの。私はあんまり祖父母に好かれてないな、って思ってたし、お姉ちゃんはお母さんの事あんまり好きじゃないだなって。母さんはその頃、お姉ちゃんの事も大事にしてるって言ってましたけど、やっぱり私とお姉ちゃんで扱いに差があるなって言うのは私も思ってましたから。その頃、実家を出る事になったんです。私達は四人で暮らす事になりました。当時は揉めたそうです。祖父母はお姉ちゃんは自分達が育てるなんて言ったそうです。結局お姉ちゃんも私達と一緒に暮らす事になりましたけどね」
「でも、うまくいかなかった」
「はい。お姉ちゃんは家で塞ぎがちになりました。父さんも母さんも私も色々話しかけたんですけど、最後まで無理でした」
「祖父母のところに行きたかったのかな」
「そうではないみたいです。どちらかと言うとお姉ちゃんは二人の事も嫌いになっていったみたいです。実際のところ二人の存在はプレッシャーだったみたいで、本当は開放されたと思っていたみたいです。実際、お姉ちゃんに結構高望みしてたみたいですね、お姉ちゃんもそれを理解してて勉強とか部活とか頑張ってたでしょ? 私よりずっと成績もいいし、運動も出来たんです、昔から。でも二人はもっともっとって感じでした。反面私はそんな感じでも母さんや父さんに甘やかされてたのであまりそういうプレッシャーとか考えた事がなかったんです。多分、お姉ちゃんはそれも気に入らなかったと思うんですけどね」
言い方は悪いが、芹沢洋子の目には不出来な妹の方が恵まれていると思えたのだろうか。彼女はきっと誰も競う相手のいない孤独なマラソンを続けていたのかもしれない。無責任な応援を送られ、決してリタイアする事の許されないゴールのないマラソン。
「あの、二神さんは、お姉ちゃんと仲が良かったんじゃないんですか?」
「正直に言うと特別仲が良かったとは僕は思っていない。好意を抱かれていたと言うのも今君に言われて知ったくらいだから」
そうなんですか、と彼女はがっかりしたように肩を落とした。僕はなんだか彼女に悪い事をしたような気分になるが、かと言ってどうしようもない事なのは明白だった。
「お姉ちゃん、家族以外の誰かがいるととても明るかったんです」
「そうだね」
「一度お姉ちゃんが家に友達を連れてきた事があるんですよ。私びっくりしました。あの家では一言も喋らず殆ど部屋から出てこないお姉ちゃんがリビングで笑ってて、お母さんにも明るく話しかけてるんですよ。私、あの時てっきりお母さんと仲直りしたんだって本気で思いましたもん。けど、友達が帰った途端、その笑顔がパタッとなくなるんです。まるで役者さんが撮影を終えたみたいな感じで。いつもの無表情に戻って部屋にさっさと戻っていっちゃうんです」
その時の事を思い出したのか、彼女の目つきが険しくなる。どうにかして僕にもその時彼女が覚えた違和感の正体を伝えようとしているようだった。
「私さっぱり意味が分からなくて。どうしてそんなに機械みたいに切り替えが出来るのかも分からないし、どうして他の人がいるとお母さんに向かって笑えるんだろうって」
「彼女は、ただ甘えたかったんじゃないかな」
僕はポツリと口にする。
「なんだかんだ言ってお母さんとやり直したいと思っていたんじゃないだろうか。ただ一人では難しいから友達と言うクッションを間に挟む事にしたんじゃないだろうか。きっとその明るさは友達ではなくお母さんに向けたものだったんじゃないだろうか」
「そうでしょうか」
「どうだろう。なにかに誓えるほどの自信もないし、裁判でも勝てそうにないけどね」
「でも学校でも明るかったでしょう? それはお母さんには全然関係ない事じゃないんですか?」
「お母さんには関係なくても、彼女本人がその明るさが本物だったかどうかと言う事はもう君も知っているだろう?」
だから、彼女は今この世にいない。
「そう、ですよね」
納得したのかどうか曖昧な返事を聞いて、僕はそろそろ店を出ようと彼女を促した。彼女は僕が帰りたがっていると思ったのか恐縮したように「長々とすみませんでした。私、二神さんとお姉ちゃんが仲いいと思ってたのでよければ話を聞かせてもらいたかったんです」と頭を下げる。
「いや、気にしないでいいよ。けどどうして彼女が僕の事を好きだって知ったの?」
「本人が言ってました。私達はたまにですけど話したりしてたので」
「どういうところがよかったんだろうね」
「顔が好みなんだそうです」
私が誘ったからと言って料金を支払おうとする彼女を制して、二人分の料金を払うと店を出た。実際、僕は早く帰りたかったし、彼女の話に好奇心がくすぐられる事も、自分の台詞が意味を持つと思うような事もなかった。
芹沢洋子の母親に見せた明るい笑顔が先程の言葉のように、素直になれないままそれでも母に愛を求めていた行動だろうと、そしてまたはその逆に、普段は見せない自分の明るい姿を家族に見せ付けることで、自分は今のままでも満たされているのだという、遠まわしな自分に触れようとしてくる家族への拒否反応だったのだとしても。
ただ、自殺してしまうような環境においても、人は内面ではなく外面で性を感じると言う事は面白い話だと思えた。
「そんだけ?」
「そうだね」
「つまらないわね」
「元から楽しいと思えるような事でもないさ」
そう言われればそうね、と坂巻琴美が呟く。芹沢樹里から誰にも言わないで、と言われていたので、彼女に教えたのは彼女が僕に好意を抱いていたらしい、と言う事だけだ。彼女はそれでも僕を上から下まで見下ろすと「なにがいいのかしらね」と本気で悩んでいるようだった。
「そうだね。僕もそこはちょっと疑問だった」
「自分で言う?」
「自分で言うのはなんだけど、あまり自分の顔が黙っていても恋心を抱いてくれるほど優れているとは思えない」
「そういうのって冷静に判断する事かしら? そもそも人の好みなんてそんなもんでしょ?」
「そうとも言えるけれど、例えば雑誌のモデルのような美人がそこにいたところでやはり急に恋心を抱く事なんてありえないと思う。鑑賞するには適しているけれどね。一目惚れと言うものを否定する訳じゃないけれど、それならもう少し違う相手を選んでもよかったように思える」
「じゃああんたは他になにかあると思ったって事?」
「そう。彼女の妹と話してから、少し生前彼女とどんな話をしたか思い出してみたんだ」
芹沢洋子は明るい。
少なくとも僕はそう思っていた。と言うよりそう定義していた。定義すると言う事はある一つの枠組みに当てはめると言う事に他ならない。僕は彼女を芹沢洋子としてではなく、クラスにいる明るい女子生徒と言う目線で見ていた。それは彼女だけでなく、誰もがそうで坂巻琴美も大きな枠組みの中では芹沢洋子となんら変わらない存在だった。
「二神君もなにかスポーツやればいいのに。身長高いからバスケとかいいんじゃない?」
「高いと言ってもバスケット選手としてみれば普通だし、背が高いからってだけでスポーツが出来るわけじゃない」
「理屈っぽいよね、二神君って」
彼女はそう言いながら笑い、半袖のシャツから覗く日焼けした腕をもう片方の腕でさすった。
「芹沢さんはどうして水泳を?」
「聞きたい?」
「言いたくないなら無理には聞かない」
不満げに頬を膨らませた。あのね、二神君、女の子が聞きたい? って言う時は聞いてほしいって事なんだよ。
「それは申し訳ない」と素直に謝り「どうして?」
「流れるプールが好きだったから。あれって泳がなくても勝手に進んでくれるじゃない? 楽だったのよね」
「部活では流れてくれないだろう?」
「それはそうなんだけど。浮いてる感覚が気持ちよかったのよ。力を抜けば抜くほどうまく浮かべるの。そうするとね、私今、なににも束縛されてないんだ、って思えて凄く解放的な気分になれるの」
あの時、僕はなんとなく彼女は日々の生活に束縛を彼女は覚えているのだろうか、と思ったのだが、それを尋ねる事はしなかった。彼女が「聞きたい?」と言う事をしなかったし、僕にとってその台詞の意味を知る事は意味のない事だったのだ。
僕にとって必要だったのはあくまで表面的な枠組みに括るための判断基準であり、それ以上の事を知ってしまえば新たに枠組みを作り細分化していかなければならないと言う事でしかない。僕にとって人付き合いとはあくまで日々の生活をスムーズに送るためのものでしかなかった。
「なるほど」
「二神君ってさ、話してると楽だよね」
「そうかな」
「うん、なんか鏡と話してるみたい」
「どういう意味?」
「なに言っても、自分にそのまんま返ってくるだけで見栄を張る必要とか、バカらしくなっちゃう。これ、褒めてるんだよ?」
「ならいい事だね」
「そうそう、そういうところ」
僕はきっと、彼女にとって、束縛のない水面だったのだろう。芹沢樹里から聞いた僕が知ろうとしなかった芹沢洋子はきっといつでも束縛をされていた。それは家でもそうだし、きっとこの彼女が明るく過ごしていたと思えた学校でもそうだったのだ。一体その束縛がどんなものだったのか知る事は出来ないし、もし知る事が出来ても、僕はそれを求める事はしないだろう。もう、彼女を定義する必要はないのだから。
そして同時に、彼女が本当に愛していたのは誰なのだろう、と思った。
きっと、彼女が僕に抱いていた好意は恋愛ではなく、安堵のようなものなのだろう、と僕は思っている。それは僕の定義と照らし合わせた場合、本当に波一つない水面で永遠にじっとしている事に耐えられる人間なんているはずがないからだ。ある程度の束縛も恋愛には必要だと思える。
(しかしもし本当にその相手が僕だとするなら、君は)
辛かったのだろう。僕はそう定義した。
机に座っていた僕の前を一人の男子生徒が通り過ぎた。彼は手に花瓶を持っており、そこには白い花が何輪か挿されていた。彼はそれを芹沢洋子の席に置き、無言で机の上に手を添える。僕が、その白い花が芹沢洋子の好きだった花だと言う事を知る事はなく、その事を知っているのは彼だけだった。だけど、そんな事を知りもしない僕はそんな彼の様子を見て、ただ、寂しそうだ、と感じていた。
LASTPASS
「はじめまして。柳君」
そう言われた時、まぁ、少なくとも悪い奴じゃないんだろうな、と僕には思えた。
「麻奈さぁ、告白されたんだって」
「ええええええええええええええ!!」
黒木真尋のその台詞に僕は絶叫を上げてしまったが、しばらくしてその事に後悔を覚えた。そのリアクションに彼女がニヤニヤとした笑みを浮かべたからだ。
「叫びすぎー」
「……あ、そう」
「今更ごまかそうとしても遅いから」
「なにをだよ」
「顔に書いてるよ。麻奈の事が好き好きって」
なに言ってんだ、と言いながらも僕は自分の頬をごしごしと強く擦っていた。
県外から中央高校に入学して半年が経とうとしていた。夏休みも終わり、うだるような暑さも過ぎ去ってくる頃になると、ようやくホームシックも治まった。黒木とは入学早々仲良くなった大川智史の紹介で知り合ったのだが、馬が合ったようで今はこうやってたまに二人で会う事もある。僕達は最近見つけた個人経営で脱サラしたらしい中年のおじさんがやっている喫茶店で向かい合っていた。名前を知らないので僕はマスターと呼んでいるが、穏やかそうな人で、一人で来る時はたまに話したりもするが、今はさして広くもない店内で叫んだ僕を少し見咎めるような目でこちらを見ていた。僕は恥ずかしくなり、座ったまま彼へと向かって頭を下げる。
「あんたって分かりやすいよね」
「だから違うって」
「ふーん」
彼女はさも楽しそうにアイスティーに入れたミルクをストローで掻き混ぜた。
僕はそのくるくると回るストローを憮然とした表情で無言のまま見つめていた。
「じゃあ、いいんだ。あの子が他の人と付き合っても」
「……誰だよ、告白した奴って」
「甲本圭君」
「知らないな」
「A組の子だよ。一昨日、告白されたんだって」
「で、橘はどうするって?」
その質問を口にする時、僕は先ほどオレンジジュースを口に含んだばかりだと言うのに、今はもうすっかりからからに乾いているような錯覚を覚えていた。実際はそんな事あるはずないのに、体の体温が上昇しすぎて蒸発してしまったのか、それとも逆に低下しすぎて凍ってしまったのか判断できない妙な違和感。
橘麻奈。
彼女と初めて会話をしたのは五月の初めだった。黒木が私の友達、と言って僕と智史に彼女を紹介した時、橘は少し照れくさいようなはにかんだ表情を浮かべ「よろしく」と微笑み、僕はほんの少し胸の動機が早まるのを感じた。
元々、彼女の事が気になっていたのかもしれない。僕はこの時、智史と黒木の友人になった事をなによりラッキーだったと思ったものだ。
『はぁ? そんなん俺に言われても分からんが』
「だわな」
僕は俊介の予想通りの台詞に溜め息を吐いた。その反応が不満だったらしく、彼は『やったら最初から電話してくんな』と口を尖らせていた。
「安藤は元気か?」
『安藤? 元気やぞ。つって夏休みにお前会ったやろ』
「そうだけどさ、なんとなく」
彼は僕の台詞にもう一度『元気やで』と言い、年末にはまた帰ってくるんやろ? と尋ねてきたが、僕が曖昧な返事をすると彼はつまらなさそうに『なんやぁ、俺らいっつも三人やったやん、康弘おらんと調子狂う』と嘆いた。僕は苦笑しながら出来たら帰るよ、と言い電話を切った。
幼馴染みは最後に『よー分からんけど頑張れよ』と言ってくれた。
テーブルに投げ出した携帯電話を見つめながら、僕は俊介ともう一人の幼馴染みであり、僕の初恋の相手でもある安藤夕子と、そこに一緒に並んでいる僕達三人の姿を回想する。
こうやって離れてみて、その光景をとても懐かしいとも思う。
僕は買ったばかりのソファベッドに大げさに転がると「あーあ」と声を出した。
いつか、そこに四人目として橘が加わる日が来る事があるだろうか?
それとも、僕は少しずつあの二人から離れていってしまうのだろうか? その考えに僕は気楽に「そんな事あるわけねーよ」と呟いた。
告白されて、ちょっとすぐには返事できないって言ったんだって?
その台詞がどうしても出てこない。
「どうしたの? 柳君」
「いやぁ……わり、ちょっと考え事してた」
「そう?」
小さく首を傾げる彼女は僕の心境など知るはずもなく、僕は彼女の隣の席に腰掛けていた椅子を引くと机に肩肘を突いてそこに頭を乗せた。昼休みの教室はそこそこに騒がしく、女子生徒の集団が今日の占いで恋愛運がいいだの悪いだのと言う内容で盛り上がっていたが、そもそもそこに運を使うような出来事があるのだろうか、と僕は聞いてみたくなった。そして自分の恋愛運はどんなものなのかも。
半袖から長袖へと最近変わった制服姿の橘は、思わず溜め息を吐いた僕を何事だろうと目を丸くしている。きっと黒木から告白された事を僕が聞いているとは夢にも思っていないのだろう。彼女はそういう子だ。素直過ぎて人を疑う事を知らないし、そうやって落ち込んでいる人を見るとすぐに我が事のように心配そうにする。
「あのさぁ」
「うん?」
甲本圭ってどんな奴?
つか、どんな知り合い?
告白されて返事保留って悩んでるって事?
俺、お前の事好きなんだけど気付いてる? ……訳ねーよな。
「…………」
聞きたい事は次から次へと浮かんできたが、どれも口に出すのは憚られた。僕は誤魔化すように机の上に放り出されていた僕のものではないシャープペンシルを掴んでクルクルと器用に回した。彼女がそれを見て「うまいね」と言うので「こんなの簡単に出来るよ」とやり方を教えてみせるが、彼女は何度か地面に落としてしまってはそれを拾いなおした。
「なんでだろ? 出来ない」
「そんなに指動かさなくてもいいよ」
そうしているうちに自然と彼女の手を取っていた。僕ははたとそれに気がついたが、今更手を離すのも逆に不自然なのでそのままにしておく事にした。彼女も、教えてもらう事に意識がいっているようで、なにも言わなかった。
「そうそう、そんな感じ」
「橘さん」
ようやくシャーペンが固定されたと思った時、椅子に座った僕達の頭上からその彼女を呼ぶ声が聞こえ、僕達は同時に視線を持ち上げた。
丁度僕達の重なった手の中央あたりに、知らない男子生徒が立っており、彼は彼女を一瞥し、今度は僕の方を見て、最後に自分の腰辺りにある手を見つめた。
「甲本君」
橘がそう言うのと同時に、思い出したように僕に握られている手をパッと引っ込めた。僕の空っぽになった両手はそれでもそこにまだなにかがあると言うようにしばらく佇んでいた。と言うよりも、呆気に取られていたせいでそうやって情けない妙な動きしか出来ないだけだったのかもしれない。
(こいつか)
どうやらこいつが僕の恋敵のようだ。
「誰?」
僕はなんとか感情を押し殺しながら何気ない素振りで、橘にそう尋ねた。
彼女は、あたふたとしながら、どう説明しようかと僕と彼を何度も見比べていた。
「えっと、あのね、甲本圭君。中学校が元々一緒で、その、友達なの」
「へぇ、そうなんだ。よろしく」
僕はそう言って再び彼を見上げた。
一体、今の自分はどんな表情をしているのだろうか?
自分ではあまり見たくない。けど、ちょっと麻奈には見てもらいたいようなやっぱり見てほしくないような感じ。そして、彼には見せ付けておきたいようなもののような気がする。
なぁ、感情に綺麗とか汚いとかあるのか?
そして恋、とか、愛、とかが綺麗なものだとしよう。けどそうやって生まれた綺麗な感情によって、汚い感情も生み出されようとしてるんだ。僕は、今愛憎の狭間にいる。
「君は?」
彼はその僕の内面から溢れ出している感情の渦を読み取ったのだろうか。
僕は右頬のあたりがひくつくのを覚えながら、椅子から立ち上がり彼へと向き直った。
「柳、柳康弘」
僕達は、その台詞なんて実際はどうでもよく、だけどお互いに本当に言いたい事はなにも口にしないまま、それでもなんとなく、その音として構成されず仕舞いの台詞を明確に受け取った。
「そう。橘さんの友達?」
「そう。友達」
そう言うと、彼は、いつの間にか出来上がっていたピンと張り詰めた空気を、緩めようとしたらしい。
僕に対して、穏やかに笑い返した。
だけど僕は余計いらっとくる。
あのな、お前な、それ絶対作り笑顔だろ。いや、そうじゃないとしても絶対計算してるだろ。橘の前だからって気取った態度してんじゃねーぞ。自分の方が大人びててしょうがないからここは引いておいてあげよう、とか余裕見せてんじゃねーぞ。
「はじめまして。柳君」
まぁ、少なくとも悪い奴じゃないんだろうな、とも僕には思えた。
けど、僕はこいつの事、嫌い。
しょうがない。それはしょうがない。
だって、俺は今汚いから。綺麗なものを見ても素直にそれを美しいとは言えない。
「ちょっと橘さん借りていいかな」
と言う甲本の台詞に、僕は物じゃねーぞ、こら、と言いそうになったが平静を装い「別にいいけど」と答えた。
橘は彼に「じゃあ、ちょっとここじゃなんだから」と言って教室から出て行こうとする彼と、僕を見比べたが、僕は「いいよ、行ってこいよ」と言うと「ごめんね」と言い席から立ち上がった。
僕は彼女に「いいって」と言って微笑んだが、彼女が教室のドアから出て行く後ろ姿を見ている頃にはそれはもう消えてしまっていた。
「ねぇねぇ、あの二人なんかあったの?」
近くで僕達のやり取りを見ていたらしい女子生徒の一人が、僕に興味津々と言った様子で尋ねてきたが僕は「さぁ?」と首を傾げるだけで、彼女はどうやらもう面白い話は聞けそうにないと判断したようだった。話しかけてすぐに離れるのは悪いからと言った感じでどうでもいい会話をしばらく続けると、彼女は集団へと戻り、再び今度は携帯で占いのサイトを見ては盛り上がりだしていた。
なぁ、喜ぶのは占いを見てではなくて、その占いが当たってからにした方がいいんじゃないか?
と思うが、きっと彼女達にとってはきっと本当は占いの結果なんて良くても悪くても、実際はどうでもよくて、ただ会話のネタの一つでしかないそれにそんな事を言うのはきっと愚かな事なのだろう。
僕は教室の時計を見て、昼休みの時間がもう半分もなく、きっと二人もそんなに大した話は出来ないだろう、と曖昧に予測し、自分の席に戻ると、もう一度シャーペンをクルクルと回した。
ふとやってきた晶が「康弘ー、今日バイトー? 休みだったら遊びに行こうぜー」と僕に言い、僕はそうしようかなぁ、と思いながら話している内に、昼休みは終わり、チャイムの音がなり終わる頃、橘が慌てて教室へと戻ってきた。彼女は間に合った事に安心しながら、きょろきょろと教室を見回し、彼女の方を見ていた僕と目が合うと、笑ったのか、悲しんでいるのか、判別しづらい表情を一瞬浮かべ、その少し細くなった目を僕から逸らしてしまった。
僕はそのまま席につく彼女を見つめていたが、あえてこちらを見ない彼女の様子に諦めて、教室へとやってきた教師の方へと向き直った。
教師は、昼休みにこの学校内で起こっている色々な出来事については全く興味ないですし、静かに勉強さえしてくれればどうでもいいですよ、と言った感じで僕達よりも教科書や黒板の方を見つめる回数の方が多かった。僕にとっては今はそれはむしろ好都合で、適当に開かれたノートは授業が終わっても殆ど白紙のままで、だけどそれに誰かがなにを言う事もなく、僕はただただシャーペンをくるくると回し続けていた。
クルクルクルクル。
「柳君、だったよね」
「そうだよ」
「予定がなければでいいんだけど、一緒に帰らない?」
放課後にそう尋ねてきた甲本に、僕は一瞬ポカンと間抜けな表情を浮かべたが、結局僕は晶にはメールで謝っておく事を選んだ。
橘の方を見るのはやめておいた。
きっと、僕も、彼女に今どんな表情をすればいいのか分からないから。
「なんか用か?」
「いや、特に用って程ではないんだけどね」
「なんだよ、それ」
「ちょっと話してみたくてさ」
まるで清涼飲料水みたいだ、と僕は甲本の印象をそんな風に思った。
澱みがなくて、澄んでいた。
「君、橘さんの事好きなんだろう?」
だから、そうやってあっさり確信をついた台詞を聞いても、自然と受け入れる事が出来たのかもしれない。
「好きだよ」
「だと思った。さっきは凄い勢いで睨まれたから」
「そうは言うけど、お前も目は笑ってなかったぞ」
「恋敵、だからね」
彼は小さく笑うと自販機でジュースを買った。選んだのは意外にもコーラで、柳君、なに飲む? お釣りあるし奢るよ、と言われ、僕は彼が押したボタンをもう一度押した。
「中学生からの友達なんだって?」
「そうだね」
「じゃあ、小学校も一緒か」
「いや、僕は中学の時にこっちに越してきたんだ。だから小学校は別だよ」
「あぁ、そうなんだ」
「そう」
そこで、彼は一旦言葉を区切り、一度吐息を吐くと「また、転校するんだ」と口にした。
「え?」
「来月。父さん転勤族なんだよ。ここは結構長くいたほうなんだ。本当は高校くらい変わらずに卒業したかったけど、まぁ、しょうがないね」
すらすらと紡がれるその言葉はとてもスムーズだった。まるで何度も口にする台詞を今まで練習してきたかのように。
いや、きっと今までにも彼は何度も口にしてきたのかもしれない。こうやっていつもいつも彼から別れの言葉を切り出し、もう慣れてしまっているのかもしれなかった。対して僕は、対して親しくなく、その上同じ女性に恋している相手からのその言葉に。どう返せばいいのか分からなかった。
「そうなんだ」
それだけを言うと、彼は楽しそうに小さく笑い、頭を撫でた。
「まぁ、いきなり言われても困るよね。今日初めて話したって言うのに」
「ちょっとな」
「それに僕も誘っておいてなんだけど、特に君と話そうと思うような事がないしね」
「はぁ? じゃあ、なんで誘ったんだよ」
「パスくらいはちゃんとしようと思ってさ」
「パス?」
「だから、彼女の事」
あぁ、と僕は思った。
彼はきっと振られてしまったのだ。
僕の沈黙を、彼は理解と受け取ったようだった。
僕達はしばらく無言のまま並んで歩き、赤い缶を時折口へと運んだ。
パス。
きっと彼がしたかったのはそれだけなんだろう、本当に。
中学校時代の彼女がどんな人だったのか、とか、彼女のどういうところが好きか、とか今まで二人でどんなやり取りを交わしてきたのか、とか一体どんな風に告白して、どんな風に振られたのか、そんな話をする気は一切ないし、僕に対して戦線布告をするようなつもりなんて毛頭ないようだった。
「次、どこに引っ越すのさ」
「愛媛県」
「あぁ、みかん」
「あぁ、やっぱりみかんだよね、愛媛って言えば」
僕達はそう言って笑いあった。
なぁ、好きな人と別れるって辛いな。告白して振られるって辛いな。お前ダブルパンチだな。ちょっと想像しただけでもきついな。遠距離恋愛でも彼女と付き合いたいって思うくらい好きなんなら尚更だよな。
だけど、僕もそういったものは言わない事にした。
きっと、僕も、彼も、慰めとか励ましが欲しい訳ではなかったから。
だから、まぁ、でも、お前には悪いけど、俺のほうがお前より彼女の事好きだから。
って、彼に誘われた時言おうと思ってた台詞も言わない事にして、僕達は他愛もない会話だけをして、別れた。
「まぁ、俺お前の事よく知らないけど、転校しても元気でな」
「うん、ありがとう」
「康弘?」
「わり、ちょっとぼーっとしてた」
智史は怪訝そうな顔をしたまま、上空へと向けている僕の視線を追いかけるように見上げた。
そうやって見上げた高い空には飛行機が飛んでおり、僕はここからではゆっくりに見えるその直線的な動きを追いかけていた。
「飛行機なんか見てどうしたんだ?」
「知り合いが乗ってるかもしれないって思って」
「知り合い?」
「まぁ、あんまり知らないんだけど。本当にあれに乗ってるかも分からねーし」
「旅行?」
「いや、引越し」
なにも知らない智史は、曖昧な台詞を繰り返す僕に不思議そうな顔をしながら「引越しか、お別れはちゃんとしたのか?」と言い、僕は「まぁ、一応は」ともう一度曖昧に答えた。
ポケットから煙草を取り出す。夏休みから吸い出したマルボロライトの金色のパッケージから一本取り出し、僕は煙を吐き出した。中空へと浮かぶ煙は、到底あの飛行機の高さまで届かず、風に流され儚く霧散した。
「ういーっす」
「あー、もうおそーい! どうせ康弘寝坊したんでしょ?」
「いや、わりぃわりぃ」
どうやら黒木にはお見通しのようで、駅前へとやってきた僕は素直に頭を下げた。彼女の隣では橘がくすくすと笑っている。
僕はふと、彼女はいなくなった甲本の事をどう思っているのだろうか、と考えた。
きっと、彼女の事だから、今でも少し気にしているのかもしれない。告白され振ってしまい、そして転校してしまい、いなくなった彼の事をまさに今考えていてもおかしくはなかった。
「じゃ、行こうか」
「おう」
そう言って僕達は歩き出し、自然と僕は橘と並んで歩くようになった。僕は彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩き談笑をしながら、ぼんやりと考える。
僕は汚いだろうか。
彼女が彼の事を忘れてしまえばいいと思う。転校してしまっても友人だからと連絡を取るような事がなければ嬉しい。転校した先でまた新しい恋を見つけ、橘の事なんて思い出さないようになってくれればいいと思う。
綺麗な恋がしたいから。綺麗な愛が欲しいから。
美しいものを得るために、人は時に自らを穢す。思わず目を逸らしたくなるほどに。
「真尋、今日はどこに行くの?」
「そうねぇ、智史はなにかないの?」
「なんでもいいよ」
いつか、その穢れすら美しいものだと言えるような日は来るのだろうか? 可愛らしいものだと笑い流せるようになるのだろうか? きっと誰もがそうで、そして僕は確かにどれだけ汚れても、いつかその汚れを洗い流せる日が来るのなら、少し、それを許してあげてもいいかもしれない、と思った。
「あのさぁ」
「なに? 柳」
「前から思ってたんだけどさぁ、お前ら二人は元々中学からの知り合いだからそうやって名前で呼んでるじゃん」
「あぁ、そうだな」
「俺もそうしていい?」
だから、今もちょっとこうやって汚い手を使う自分を、今は見て見ない振りをしてしまおう。
「あぁ、そう言えばそうよね、いいんじゃない? じゃあ、私も康弘って呼ぶし」
「そっか。じゃあ、橘も麻奈でいいよな? な、麻奈」
「え? う、うん。いいよ」
「じゃあ、俺の事も康弘でいいからさ」
「うん……康弘、君」
その一瞬間を置かれたくん付けに、真尋がケラケラと笑った。きっと彼女はお見通し。でもどうやら許してくれてるようだ。
僕は麻奈に「けどいきなり麻奈って慣れねーなぁ、なぁ、麻奈」と無闇に繰り返し、彼女を見つめた。
彼女は「私も。でも、その内慣れるよ」と、にこりと、初めて会った時どきりとしたあの微笑を浮かべた。
なぁ、一体世界はどれだけの愛と美しさと穢れで溢れている?
それらが一体どれだけ報われず、煙草の煙のように儚く消え去っている?
だけど、それらはまるで枯れた大地でも咲き誇る花のように、また生まれ続ける。
永遠に続く誰かから誰かへのパス。
僕は、君に、パスする。
君に、キャッチ、してもらいたいから。
最後の、パスになればいい。
それはきっと、綺麗だ。
「はじめまして。柳君」
そう言われた時、まぁ、少なくとも悪い奴じゃないんだろうな、と僕には思えた。
「麻奈さぁ、告白されたんだって」
「ええええええええええええええ!!」
黒木真尋のその台詞に僕は絶叫を上げてしまったが、しばらくしてその事に後悔を覚えた。そのリアクションに彼女がニヤニヤとした笑みを浮かべたからだ。
「叫びすぎー」
「……あ、そう」
「今更ごまかそうとしても遅いから」
「なにをだよ」
「顔に書いてるよ。麻奈の事が好き好きって」
なに言ってんだ、と言いながらも僕は自分の頬をごしごしと強く擦っていた。
県外から中央高校に入学して半年が経とうとしていた。夏休みも終わり、うだるような暑さも過ぎ去ってくる頃になると、ようやくホームシックも治まった。黒木とは入学早々仲良くなった大川智史の紹介で知り合ったのだが、馬が合ったようで今はこうやってたまに二人で会う事もある。僕達は最近見つけた個人経営で脱サラしたらしい中年のおじさんがやっている喫茶店で向かい合っていた。名前を知らないので僕はマスターと呼んでいるが、穏やかそうな人で、一人で来る時はたまに話したりもするが、今はさして広くもない店内で叫んだ僕を少し見咎めるような目でこちらを見ていた。僕は恥ずかしくなり、座ったまま彼へと向かって頭を下げる。
「あんたって分かりやすいよね」
「だから違うって」
「ふーん」
彼女はさも楽しそうにアイスティーに入れたミルクをストローで掻き混ぜた。
僕はそのくるくると回るストローを憮然とした表情で無言のまま見つめていた。
「じゃあ、いいんだ。あの子が他の人と付き合っても」
「……誰だよ、告白した奴って」
「甲本圭君」
「知らないな」
「A組の子だよ。一昨日、告白されたんだって」
「で、橘はどうするって?」
その質問を口にする時、僕は先ほどオレンジジュースを口に含んだばかりだと言うのに、今はもうすっかりからからに乾いているような錯覚を覚えていた。実際はそんな事あるはずないのに、体の体温が上昇しすぎて蒸発してしまったのか、それとも逆に低下しすぎて凍ってしまったのか判断できない妙な違和感。
橘麻奈。
彼女と初めて会話をしたのは五月の初めだった。黒木が私の友達、と言って僕と智史に彼女を紹介した時、橘は少し照れくさいようなはにかんだ表情を浮かべ「よろしく」と微笑み、僕はほんの少し胸の動機が早まるのを感じた。
元々、彼女の事が気になっていたのかもしれない。僕はこの時、智史と黒木の友人になった事をなによりラッキーだったと思ったものだ。
『はぁ? そんなん俺に言われても分からんが』
「だわな」
僕は俊介の予想通りの台詞に溜め息を吐いた。その反応が不満だったらしく、彼は『やったら最初から電話してくんな』と口を尖らせていた。
「安藤は元気か?」
『安藤? 元気やぞ。つって夏休みにお前会ったやろ』
「そうだけどさ、なんとなく」
彼は僕の台詞にもう一度『元気やで』と言い、年末にはまた帰ってくるんやろ? と尋ねてきたが、僕が曖昧な返事をすると彼はつまらなさそうに『なんやぁ、俺らいっつも三人やったやん、康弘おらんと調子狂う』と嘆いた。僕は苦笑しながら出来たら帰るよ、と言い電話を切った。
幼馴染みは最後に『よー分からんけど頑張れよ』と言ってくれた。
テーブルに投げ出した携帯電話を見つめながら、僕は俊介ともう一人の幼馴染みであり、僕の初恋の相手でもある安藤夕子と、そこに一緒に並んでいる僕達三人の姿を回想する。
こうやって離れてみて、その光景をとても懐かしいとも思う。
僕は買ったばかりのソファベッドに大げさに転がると「あーあ」と声を出した。
いつか、そこに四人目として橘が加わる日が来る事があるだろうか?
それとも、僕は少しずつあの二人から離れていってしまうのだろうか? その考えに僕は気楽に「そんな事あるわけねーよ」と呟いた。
告白されて、ちょっとすぐには返事できないって言ったんだって?
その台詞がどうしても出てこない。
「どうしたの? 柳君」
「いやぁ……わり、ちょっと考え事してた」
「そう?」
小さく首を傾げる彼女は僕の心境など知るはずもなく、僕は彼女の隣の席に腰掛けていた椅子を引くと机に肩肘を突いてそこに頭を乗せた。昼休みの教室はそこそこに騒がしく、女子生徒の集団が今日の占いで恋愛運がいいだの悪いだのと言う内容で盛り上がっていたが、そもそもそこに運を使うような出来事があるのだろうか、と僕は聞いてみたくなった。そして自分の恋愛運はどんなものなのかも。
半袖から長袖へと最近変わった制服姿の橘は、思わず溜め息を吐いた僕を何事だろうと目を丸くしている。きっと黒木から告白された事を僕が聞いているとは夢にも思っていないのだろう。彼女はそういう子だ。素直過ぎて人を疑う事を知らないし、そうやって落ち込んでいる人を見るとすぐに我が事のように心配そうにする。
「あのさぁ」
「うん?」
甲本圭ってどんな奴?
つか、どんな知り合い?
告白されて返事保留って悩んでるって事?
俺、お前の事好きなんだけど気付いてる? ……訳ねーよな。
「…………」
聞きたい事は次から次へと浮かんできたが、どれも口に出すのは憚られた。僕は誤魔化すように机の上に放り出されていた僕のものではないシャープペンシルを掴んでクルクルと器用に回した。彼女がそれを見て「うまいね」と言うので「こんなの簡単に出来るよ」とやり方を教えてみせるが、彼女は何度か地面に落としてしまってはそれを拾いなおした。
「なんでだろ? 出来ない」
「そんなに指動かさなくてもいいよ」
そうしているうちに自然と彼女の手を取っていた。僕ははたとそれに気がついたが、今更手を離すのも逆に不自然なのでそのままにしておく事にした。彼女も、教えてもらう事に意識がいっているようで、なにも言わなかった。
「そうそう、そんな感じ」
「橘さん」
ようやくシャーペンが固定されたと思った時、椅子に座った僕達の頭上からその彼女を呼ぶ声が聞こえ、僕達は同時に視線を持ち上げた。
丁度僕達の重なった手の中央あたりに、知らない男子生徒が立っており、彼は彼女を一瞥し、今度は僕の方を見て、最後に自分の腰辺りにある手を見つめた。
「甲本君」
橘がそう言うのと同時に、思い出したように僕に握られている手をパッと引っ込めた。僕の空っぽになった両手はそれでもそこにまだなにかがあると言うようにしばらく佇んでいた。と言うよりも、呆気に取られていたせいでそうやって情けない妙な動きしか出来ないだけだったのかもしれない。
(こいつか)
どうやらこいつが僕の恋敵のようだ。
「誰?」
僕はなんとか感情を押し殺しながら何気ない素振りで、橘にそう尋ねた。
彼女は、あたふたとしながら、どう説明しようかと僕と彼を何度も見比べていた。
「えっと、あのね、甲本圭君。中学校が元々一緒で、その、友達なの」
「へぇ、そうなんだ。よろしく」
僕はそう言って再び彼を見上げた。
一体、今の自分はどんな表情をしているのだろうか?
自分ではあまり見たくない。けど、ちょっと麻奈には見てもらいたいようなやっぱり見てほしくないような感じ。そして、彼には見せ付けておきたいようなもののような気がする。
なぁ、感情に綺麗とか汚いとかあるのか?
そして恋、とか、愛、とかが綺麗なものだとしよう。けどそうやって生まれた綺麗な感情によって、汚い感情も生み出されようとしてるんだ。僕は、今愛憎の狭間にいる。
「君は?」
彼はその僕の内面から溢れ出している感情の渦を読み取ったのだろうか。
僕は右頬のあたりがひくつくのを覚えながら、椅子から立ち上がり彼へと向き直った。
「柳、柳康弘」
僕達は、その台詞なんて実際はどうでもよく、だけどお互いに本当に言いたい事はなにも口にしないまま、それでもなんとなく、その音として構成されず仕舞いの台詞を明確に受け取った。
「そう。橘さんの友達?」
「そう。友達」
そう言うと、彼は、いつの間にか出来上がっていたピンと張り詰めた空気を、緩めようとしたらしい。
僕に対して、穏やかに笑い返した。
だけど僕は余計いらっとくる。
あのな、お前な、それ絶対作り笑顔だろ。いや、そうじゃないとしても絶対計算してるだろ。橘の前だからって気取った態度してんじゃねーぞ。自分の方が大人びててしょうがないからここは引いておいてあげよう、とか余裕見せてんじゃねーぞ。
「はじめまして。柳君」
まぁ、少なくとも悪い奴じゃないんだろうな、とも僕には思えた。
けど、僕はこいつの事、嫌い。
しょうがない。それはしょうがない。
だって、俺は今汚いから。綺麗なものを見ても素直にそれを美しいとは言えない。
「ちょっと橘さん借りていいかな」
と言う甲本の台詞に、僕は物じゃねーぞ、こら、と言いそうになったが平静を装い「別にいいけど」と答えた。
橘は彼に「じゃあ、ちょっとここじゃなんだから」と言って教室から出て行こうとする彼と、僕を見比べたが、僕は「いいよ、行ってこいよ」と言うと「ごめんね」と言い席から立ち上がった。
僕は彼女に「いいって」と言って微笑んだが、彼女が教室のドアから出て行く後ろ姿を見ている頃にはそれはもう消えてしまっていた。
「ねぇねぇ、あの二人なんかあったの?」
近くで僕達のやり取りを見ていたらしい女子生徒の一人が、僕に興味津々と言った様子で尋ねてきたが僕は「さぁ?」と首を傾げるだけで、彼女はどうやらもう面白い話は聞けそうにないと判断したようだった。話しかけてすぐに離れるのは悪いからと言った感じでどうでもいい会話をしばらく続けると、彼女は集団へと戻り、再び今度は携帯で占いのサイトを見ては盛り上がりだしていた。
なぁ、喜ぶのは占いを見てではなくて、その占いが当たってからにした方がいいんじゃないか?
と思うが、きっと彼女達にとってはきっと本当は占いの結果なんて良くても悪くても、実際はどうでもよくて、ただ会話のネタの一つでしかないそれにそんな事を言うのはきっと愚かな事なのだろう。
僕は教室の時計を見て、昼休みの時間がもう半分もなく、きっと二人もそんなに大した話は出来ないだろう、と曖昧に予測し、自分の席に戻ると、もう一度シャーペンをクルクルと回した。
ふとやってきた晶が「康弘ー、今日バイトー? 休みだったら遊びに行こうぜー」と僕に言い、僕はそうしようかなぁ、と思いながら話している内に、昼休みは終わり、チャイムの音がなり終わる頃、橘が慌てて教室へと戻ってきた。彼女は間に合った事に安心しながら、きょろきょろと教室を見回し、彼女の方を見ていた僕と目が合うと、笑ったのか、悲しんでいるのか、判別しづらい表情を一瞬浮かべ、その少し細くなった目を僕から逸らしてしまった。
僕はそのまま席につく彼女を見つめていたが、あえてこちらを見ない彼女の様子に諦めて、教室へとやってきた教師の方へと向き直った。
教師は、昼休みにこの学校内で起こっている色々な出来事については全く興味ないですし、静かに勉強さえしてくれればどうでもいいですよ、と言った感じで僕達よりも教科書や黒板の方を見つめる回数の方が多かった。僕にとっては今はそれはむしろ好都合で、適当に開かれたノートは授業が終わっても殆ど白紙のままで、だけどそれに誰かがなにを言う事もなく、僕はただただシャーペンをくるくると回し続けていた。
クルクルクルクル。
「柳君、だったよね」
「そうだよ」
「予定がなければでいいんだけど、一緒に帰らない?」
放課後にそう尋ねてきた甲本に、僕は一瞬ポカンと間抜けな表情を浮かべたが、結局僕は晶にはメールで謝っておく事を選んだ。
橘の方を見るのはやめておいた。
きっと、僕も、彼女に今どんな表情をすればいいのか分からないから。
「なんか用か?」
「いや、特に用って程ではないんだけどね」
「なんだよ、それ」
「ちょっと話してみたくてさ」
まるで清涼飲料水みたいだ、と僕は甲本の印象をそんな風に思った。
澱みがなくて、澄んでいた。
「君、橘さんの事好きなんだろう?」
だから、そうやってあっさり確信をついた台詞を聞いても、自然と受け入れる事が出来たのかもしれない。
「好きだよ」
「だと思った。さっきは凄い勢いで睨まれたから」
「そうは言うけど、お前も目は笑ってなかったぞ」
「恋敵、だからね」
彼は小さく笑うと自販機でジュースを買った。選んだのは意外にもコーラで、柳君、なに飲む? お釣りあるし奢るよ、と言われ、僕は彼が押したボタンをもう一度押した。
「中学生からの友達なんだって?」
「そうだね」
「じゃあ、小学校も一緒か」
「いや、僕は中学の時にこっちに越してきたんだ。だから小学校は別だよ」
「あぁ、そうなんだ」
「そう」
そこで、彼は一旦言葉を区切り、一度吐息を吐くと「また、転校するんだ」と口にした。
「え?」
「来月。父さん転勤族なんだよ。ここは結構長くいたほうなんだ。本当は高校くらい変わらずに卒業したかったけど、まぁ、しょうがないね」
すらすらと紡がれるその言葉はとてもスムーズだった。まるで何度も口にする台詞を今まで練習してきたかのように。
いや、きっと今までにも彼は何度も口にしてきたのかもしれない。こうやっていつもいつも彼から別れの言葉を切り出し、もう慣れてしまっているのかもしれなかった。対して僕は、対して親しくなく、その上同じ女性に恋している相手からのその言葉に。どう返せばいいのか分からなかった。
「そうなんだ」
それだけを言うと、彼は楽しそうに小さく笑い、頭を撫でた。
「まぁ、いきなり言われても困るよね。今日初めて話したって言うのに」
「ちょっとな」
「それに僕も誘っておいてなんだけど、特に君と話そうと思うような事がないしね」
「はぁ? じゃあ、なんで誘ったんだよ」
「パスくらいはちゃんとしようと思ってさ」
「パス?」
「だから、彼女の事」
あぁ、と僕は思った。
彼はきっと振られてしまったのだ。
僕の沈黙を、彼は理解と受け取ったようだった。
僕達はしばらく無言のまま並んで歩き、赤い缶を時折口へと運んだ。
パス。
きっと彼がしたかったのはそれだけなんだろう、本当に。
中学校時代の彼女がどんな人だったのか、とか、彼女のどういうところが好きか、とか今まで二人でどんなやり取りを交わしてきたのか、とか一体どんな風に告白して、どんな風に振られたのか、そんな話をする気は一切ないし、僕に対して戦線布告をするようなつもりなんて毛頭ないようだった。
「次、どこに引っ越すのさ」
「愛媛県」
「あぁ、みかん」
「あぁ、やっぱりみかんだよね、愛媛って言えば」
僕達はそう言って笑いあった。
なぁ、好きな人と別れるって辛いな。告白して振られるって辛いな。お前ダブルパンチだな。ちょっと想像しただけでもきついな。遠距離恋愛でも彼女と付き合いたいって思うくらい好きなんなら尚更だよな。
だけど、僕もそういったものは言わない事にした。
きっと、僕も、彼も、慰めとか励ましが欲しい訳ではなかったから。
だから、まぁ、でも、お前には悪いけど、俺のほうがお前より彼女の事好きだから。
って、彼に誘われた時言おうと思ってた台詞も言わない事にして、僕達は他愛もない会話だけをして、別れた。
「まぁ、俺お前の事よく知らないけど、転校しても元気でな」
「うん、ありがとう」
「康弘?」
「わり、ちょっとぼーっとしてた」
智史は怪訝そうな顔をしたまま、上空へと向けている僕の視線を追いかけるように見上げた。
そうやって見上げた高い空には飛行機が飛んでおり、僕はここからではゆっくりに見えるその直線的な動きを追いかけていた。
「飛行機なんか見てどうしたんだ?」
「知り合いが乗ってるかもしれないって思って」
「知り合い?」
「まぁ、あんまり知らないんだけど。本当にあれに乗ってるかも分からねーし」
「旅行?」
「いや、引越し」
なにも知らない智史は、曖昧な台詞を繰り返す僕に不思議そうな顔をしながら「引越しか、お別れはちゃんとしたのか?」と言い、僕は「まぁ、一応は」ともう一度曖昧に答えた。
ポケットから煙草を取り出す。夏休みから吸い出したマルボロライトの金色のパッケージから一本取り出し、僕は煙を吐き出した。中空へと浮かぶ煙は、到底あの飛行機の高さまで届かず、風に流され儚く霧散した。
「ういーっす」
「あー、もうおそーい! どうせ康弘寝坊したんでしょ?」
「いや、わりぃわりぃ」
どうやら黒木にはお見通しのようで、駅前へとやってきた僕は素直に頭を下げた。彼女の隣では橘がくすくすと笑っている。
僕はふと、彼女はいなくなった甲本の事をどう思っているのだろうか、と考えた。
きっと、彼女の事だから、今でも少し気にしているのかもしれない。告白され振ってしまい、そして転校してしまい、いなくなった彼の事をまさに今考えていてもおかしくはなかった。
「じゃ、行こうか」
「おう」
そう言って僕達は歩き出し、自然と僕は橘と並んで歩くようになった。僕は彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩き談笑をしながら、ぼんやりと考える。
僕は汚いだろうか。
彼女が彼の事を忘れてしまえばいいと思う。転校してしまっても友人だからと連絡を取るような事がなければ嬉しい。転校した先でまた新しい恋を見つけ、橘の事なんて思い出さないようになってくれればいいと思う。
綺麗な恋がしたいから。綺麗な愛が欲しいから。
美しいものを得るために、人は時に自らを穢す。思わず目を逸らしたくなるほどに。
「真尋、今日はどこに行くの?」
「そうねぇ、智史はなにかないの?」
「なんでもいいよ」
いつか、その穢れすら美しいものだと言えるような日は来るのだろうか? 可愛らしいものだと笑い流せるようになるのだろうか? きっと誰もがそうで、そして僕は確かにどれだけ汚れても、いつかその汚れを洗い流せる日が来るのなら、少し、それを許してあげてもいいかもしれない、と思った。
「あのさぁ」
「なに? 柳」
「前から思ってたんだけどさぁ、お前ら二人は元々中学からの知り合いだからそうやって名前で呼んでるじゃん」
「あぁ、そうだな」
「俺もそうしていい?」
だから、今もちょっとこうやって汚い手を使う自分を、今は見て見ない振りをしてしまおう。
「あぁ、そう言えばそうよね、いいんじゃない? じゃあ、私も康弘って呼ぶし」
「そっか。じゃあ、橘も麻奈でいいよな? な、麻奈」
「え? う、うん。いいよ」
「じゃあ、俺の事も康弘でいいからさ」
「うん……康弘、君」
その一瞬間を置かれたくん付けに、真尋がケラケラと笑った。きっと彼女はお見通し。でもどうやら許してくれてるようだ。
僕は麻奈に「けどいきなり麻奈って慣れねーなぁ、なぁ、麻奈」と無闇に繰り返し、彼女を見つめた。
彼女は「私も。でも、その内慣れるよ」と、にこりと、初めて会った時どきりとしたあの微笑を浮かべた。
なぁ、一体世界はどれだけの愛と美しさと穢れで溢れている?
それらが一体どれだけ報われず、煙草の煙のように儚く消え去っている?
だけど、それらはまるで枯れた大地でも咲き誇る花のように、また生まれ続ける。
永遠に続く誰かから誰かへのパス。
僕は、君に、パスする。
君に、キャッチ、してもらいたいから。
最後の、パスになればいい。
それはきっと、綺麗だ。