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だいいちわ 「ドキッ☆ 気になるアイツは大学生!?」

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 結局のところ、それは事故のようのなものだったのだろう。
 しかし私はあまりにも浮かれていて、素面だったら気付けたであろう微かな兆候を見逃し、顧みることを忘れただひたすらに突っ走っていた。
 そうだ。男に振られるなんてこと、何度も経験してきたはずだ。それはもちろん辛いことには違いないのだけれど、それでも私はその度に乗り越えてきた。あの人は私の求める人でなかったのだと。交差することのない道を歩んでいるのだと自らに言い聞かせて。
 気持ちを切り替える―――得意なのだ、私は。そうやって生きてきたのだ。
 だから昨日、春木に振られたことだって、すぐ思い出に出来るはずだった。
「ああ」
 暗い部屋の中、私はベッドで膝を抱えている。
 涙が止まらなかった。みっともない、醜い自己憐憫に酔いしれていた。何故だろう、こんなこと今までなかったのに。
 そんなにも、私は春木が好きだったのだろうか―――




 連鎖というものは一度悪い方へ廻りだすと手が付けられなくなるものだな。
 夏休みに入ると同時に始めたアルバイト先のコンビニエンスストア。そのレジ台から客のいない店内をぼうっと見渡しながら、私はそんなとりとめの無い思索に耽っていた。
 良い方へ繋がっていた時も確かにあったはずなのだが、今ではどうやってそれを維持していたのか見当もつかない。
 とにかく退屈なのだった。あれほど憧れていた高校生活も一年を過ぎると、目新しく新鮮な感動というものを日々に見出すのは至難の業だ。あと半年もすれば本格的に受験を中心とした緊張感溢れる生活を手に入れられるだろうが―――その気になれば、今からでも遅いくらいなのだが、やはり煩わしいと思わずにはいられなかった―――私には今、これといってやるべきこと、やりたいことが無かった。今までの人生には無かった決定的な断点が突如としてできてしまっていた。
 アルバイトを始めたのは金が欲しかったからではない。幸か不幸か、私の家は裕福だったし、親も甘かった。
 ただ刺激が欲しかった。ゆっくりと死を待つような、異常に長い一日を一秒でも早く進めるために。
 だが期待していたそれも、私の欲求不満を解消することなど到底できなかった。余計なストレス源を抱え込んだだけだった。
 わずか二週間で、如何に後腐れなくこのアルバイトを辞めるか、それだけしか考えられなくなっていた。
 もはや癖となった溜息を吐くのと同時に、来客を告げるチャイムの間抜けなメロディが店内に響く。
 派手な柄が入った黒地の半袖シャツに太めのジーパン。無精ひげを生やした二十代と思しきその男は、店内に足を踏み入れると同時に顔を私から逸らし、そのまま街路に面した雑誌コーナーに直行する。
「いらっしゃいませ」
 半ば無意識に口をついたその言葉に私は内心うんざりしながらも、視線はその男に吸い寄せられていた。
 一目見て、なにか怪しいと思った。そわそわしている。
 テレビで以前放映していた「万引きGメン」を思い出す。番組では何人もの万引き犯を紹介していたが、目の前にいる男の挙動から受ける印象が、モザイクで顔を隠された愚かな窃盗犯たちとよく似ていた。
 注意深く観察していると、あることに気付く。
 男は積まれている少年漫画雑誌の一つを手に取り眺めているが、まさに「眺めて」いるだけだった。読んでいない。時折ちらちらとこちらを、店内を振り返る。
 再びチャイムが鳴り響き、若い女性が入ってきた。いかにもOL風で、パリっとしたキャリアスーツが良く似合っている。ふと、近くに小さな印刷会社があったことを思い出した。そこの社員だろうか、昼食には幾分遅い時刻だ。私も朝から何も口にしていなかったので、妙な親近感を覚えてしまう。
 彼女は店内を二周りほどしてから、弁当類とペットボトルのお茶を持ってレジに立った。
 マニュアル通りに会計作業をこなしながら、私の意識は先ほどの男へ向かう。
 彼は既に雑誌コーナーを離れ、今は男性化粧品の棚を前にしゃがみ込んでいた。レジからは死角になってよく見えない。防犯ミラーに映った小さな影が辛うじて確認できるだけだ。
 あまりにも分かりやすくて、思わず吹き出しそうになる。店員がレジ作業にかかっている時が隙だとでも思っているのだろうか。もっとうまくやれよと、肩を叩いてやりたくなった。
 会計を済ませた女性客が店を出るのを追うような形で、男もドアへ向かって歩き出す。ここで呼び止めてこそ正しい店員の在り方なのだろうが、その時は何もかもが面倒だったので私は知らん振りをする事に決めていた。「もう好きにしてくれ」という気分だった。
「お客様」
 それでも、妙に責任感の強い人間はいるもので、春木はその典型例のような男だった。とにかく手を抜くことを知らない。どんなに下らないことでも、大真面目に当たらないと気がすまない性分らしかった。
 阿呆が、恐らくどこか頭の前あたりが緩いのだろう、そう軽蔑しきっていた。しかし何故か、この男見ていると安心できるのだった。我ながらおかしな感覚だった。
 私よりも「下」の人間だと認識したからだろうか。違うと思う。
 でも、きっと、結局―――
 私が春木と出会い、そして振られるまでの四ヶ月間余り、この退屈極まりないアルバイトを続けられた理由はただひとつ、こいつが横に立っていたからなのだろう。



 春木は妙に綺麗な顔をした、細身の男。
 化粧でもしているような白い肌。長い睫毛。男装した女のような妖しい色気とは裏腹に、低く優しい響きの落ち着いた声。
 客の少ない街外れのコンビニ―――私が入る時間帯は品出しや棚整理が終わると、残るのはレジ業務くらいでとにかく暇になる―――で、シフトが重なる私と春木は自然と会話を交わすようになっていた。
 はじめのうちはただの退屈しのぎだったのだが、気付けば春木との時間を楽しむようになっていた。
 春木は大学生らしい。二十歳だそうだ。
「どこの大学ですか」
 訊くと、彼は有名な私大の名をあげた。例のとても澄んだ、心地よい声で。きっと歌うまいんだろうな。そんなどうでもいいことをぼんやり考えたのを憶えている。
「すごいですね。頭いいんだ」
 私の兄と同じ大学だった。兄は私と違って非常に優秀な人間だ。憎たらしいほどに。
 春木は恥ずかしそうに目を逸らし、「そんなことないよ」とはにかむ。なよなよとした男だった。
 いい人には違いないのだろう。しかし私の好みではなかった。その容姿も相まって、彼からは「男」を感じられない。
 だからあの事が起こるまで、私は彼を全く意識していなかった。
 まったくどこにでも転がっているような、気恥ずかしい程にスタンダードな話だ。
 もうすぐその日のシフトが終わろうかという時分、泥酔したひどい臭いのする男が私に絡んできた。
 レジ台ごしに私の手首を掴み、執拗に引っ張る。「俺と遊びに行こう」などと喚きながら。馬鹿だと、死ねばいいのにと思った。
 ぶん殴ってやりたかったが、あれほど嫌だったこのアルバイトを馘首になるのがこの時は恐ろしくて、躊躇われた。なんとなく、春木と離れがたかった。
「やめてください」
 精一杯いじらしく、涙を浮かべて拒絶を試みる。しかしどうやら逆効果だったらしく、男は煙草の脂で黄色く染まった歯を見せびらかせるように醜く笑いながら、ますます強く私を引っ張った。
 ああ、もういいや。
 全てが面倒になり、拳で追い払おうと空いた右手を握り締めたとき、男の手が唐突に離れた。
 目を疑うとは正にこのことなのだろう。24缶入りの缶コーヒーのケースを持ち上げることにも苦労する程に非力なはずの春木が、土木作業員と思しき屈強な男の手首を妙な方向に捻じ曲げ、組み伏せていた。春木は男の耳元に口を寄せ、
「下手に動くと折れますよ」
 ぼそり、と囁いた。
 後で聞いた話だが、実際のところ春木は格闘技経験者でもなんでもなく、以前に雑誌で読んだ護身術特集のひとつを試してみたら偶々うまく決まってしまい、春木本人もかなり驚いたそうだ。
 それでも効果は覿面で、男は何事か喚き散らしながらも逃げるように店を出て行った。
「迷惑なお客さんだよね。何様なんだろう」
「お客様じゃないですか」
 私の冗談に微笑むの春木の瞳はぞっとするほど透明で、無垢だった。
 こんな目をする男を、私は今までただの一度だって見たことがなかった。
 以前付き合っていた男は、街で肩をぶつけられ難癖をつけられた時、そいつを殴り倒したあと私に笑いかけた。
「俺って強いだろう?」という顔をして。得意満面に。私の知る男は、みんなそうだった。
 そのたびに私は彼らを心底軽蔑し、同時に吐き気を催した。
 だが春木は―――なんと言えばいいのだろう、淡々として、虚勢というものが全く無い。
 迷惑な人間を追い払った。事務的と言っていいほどに、ただそれだけだった。
 今になって思えば、それは当然のことだったのだけれど。
 春木は私に興味などなかったのだから。私の前で良い格好をしようなどと、思ってもみなかったに違いない。
 しかし不覚にも、私は春木に見惚れた。その不穏な、未知の雰囲気に呑まれていた。
「手、大丈夫?」
 痕がついてるよ、そう言って春木が私の手首に触れる。思わず、払いのけるように手を引いた。
 自分でも信じられない程に胸が高鳴っていた。肋骨が窮屈に感じられるくらいに。頬が熱くなる。きっと真っ赤に赤面していることだろう。恥ずかしさと春木の手を乱暴に振り払った後悔とで涙が滲んできた。
 それを見て、春木が驚いたように「ごめん」と謝る。
「なんで春木さんが謝るんですか。何も悪いこと、してないでしょ」
 なんて頭の悪い台詞だろうと、言った後で後悔した。彼は私のために行動してくれたのに。私を思って、謝ってくれたのに。
 優しいのだった。彼は、どうしようもなく。
 不用意なまでのその優しさがまた、私を惹きつけた。今までの私ならば、今までの男ならば、疑念をもって不快に思うはずだったのだが。



 それ以来、アルバイトの時間は至福の時となった。辞めるなどと考えていたのが嘘のようだった。
 四時間ずっと春木を見ていられる。隣に立っていられる。春木を感じていられる。
 朴訥、というのが最も簡素で的確に春木を表す言葉だと思う。外見こそどこぞのヴィジュアル系バンドのようだが、親しくなればなるほどその外見から受ける印象との乖離に驚かされた。簡潔で自己装飾に興味がなく―――その所為だろうか、いつでも誰かを気にかけている。
 私が犯した失敗がいつの間にか解決していて、問題とならなかったことが何度かあった。春木は何も言わなかったが、彼が密かに手を尽くしたことは明らかだった。
 お節介であることは確かであろう。私の為にならないと、そう言う人もいるだろう。だが私はますます彼を好きにっていった。
 あれほど青々しく茂っていた木々の葉も大分枯れ落ち、しかしコートを出すにはまだ早い―――訳も無く寂寞が大気に一匙落とされ薄く引き延ばされたような―――そんなある日のことだった。
 相変わらず客のいない店内を少しでも活気づけようと流れる流行歌に掻き消されそうなほどの小声で、なんの前触れも無く春木が言った。
「咲ちゃんって彼氏とか、いるの?」
 来た。
 思わずガッツポーズを取りそうになる腕を、隙あらば緩もうとする唇を必死に抑えながら、持ちうる限り最大限の演技力をもって「え?」とだけ訊きかえす。
 しつこく私を下の名前で呼ぶように頼み、精一杯可愛く見えるように自らを磨き、春木にアプローチしてきた甲斐があった。
 恋人の有無の確認。
 これはまさしく、私に気がある証拠だろう。今まで付き合ってきた男は大抵の場合皆そこから始めたし、事実私も、春木に何度この問いをしようと思ったかわからない。
「彼氏。いるのかなって」
「いるように見えますか」
 念のため少々焦らしてみる。効き過ぎた暖房の所為だろうか、背中に汗が滲むのがありありと感じられた。
「どうだろう。咲ちゃん、可愛いから。いてもおかしくないよね」
 今度こそ堪え切れなかった。だらしなく頬が緩み、「えへへ」と馬鹿丸出しの笑いがこぼれる。
 確信したのだ。春木は私に惚れていると。少なくとも、狙っているのは間違いない。
「いませんよ彼氏なんて。どフリーです」
「あ、そうなんだ。意外だな」
 春木が小さく「良かった」と呟いたのを、私は聞き逃さなかった。いや、実際には聞き取れていなかったのかもしれない。とにかく彼の薄くて形の良い唇がそう動いたように見えたのを、私は都合よく脳内変換した。
「あの、春木さんは」
「なに?」
 片方の眉を上げ、春木が私に微笑みかける。
 ああ、どうしてこいつはこんなにも綺麗な顔をしているのだろう。
「彼女、いるんですか」
 よい機会なので、ずっと気になっていたことを訊いてみる。
 心臓が破裂しそうなほどに激しく収縮と拡張を繰り返していたが、表面は澄ましていた。
「彼女は…いないよ」
 何か戸惑ったように歯切れが悪かった。初めて見る春木のそんな態度は少なからず気になったが―――
 そうか、いないのか。
 自分でも怖いくらいに、その事実が嬉しかった。




 一度立ち止まって現状を把握しようと試みる冷静さが少しでも私にあれば、私がなぜ春木にここまで魅かれるのか、すぐにわかったはずだ。
 しかしその頃の私は酩酊状態もいいところで、まったく気付かなかった。
 春木の目を見れば、私が映っていないことなど明らかなのに。いや、無意識にでも気付いていたからこそ、私は彼に焦がれていたのだろう。そうでなければ、私は決して彼を愛しはしなかった。
『彼は私に興味など無いから、私は安心できた』のだ。とてもとても単純なこと。他の男のように警戒する必要が無いから―――兄のように―――春木に心を寄せ、知らぬ間にのめり込んでいった。
 気付いたときには、もちろん、もう手遅れだった。
 春木を好きになり過ぎていた。
2, 1

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