小ぢんまりとした木造建築は、中も外も満遍なく煤けて見えた。
その訳は、面している路地が全く整備されておらず、年中砂埃の吹き晒しに合うに起因し、
通行人も一々、その程度のみすぼらしさを咎める狭量さを持たぬ事も手伝って、
ずぼらな家主は碌すっぽ掃除をしない由に帰結する。
終にはお天道様も呆れて、天日の配当を見限ったのではないか知らん。
そのような湿窟でも、無事に蕎麦屋の看板を掲げており、
更には昼間から二人の客人に恵まれているのは、真に不思議千万の奇跡である。
本日二度目の奇跡である。
ただ、その客人の動向というのが奇天烈を極めていた。
他の蕎麦食い同志は一人もおらぬと言うのに、わざわざ、
店内の隅に押し付けられているかのような、帳場から最も離れた卓を陣として、
双方向かい合って、無言の内に緊張を払っていた。
背高のっぽの、年長と見える一人は、そっと銀縁の眼鏡を外して卓に落ち着ける。
それに相対する少年は、入店時からそわそわして落ち着かない。
蕎麦はとうに参上していた。しかし、客の人数に反して碗の数は一つである。
そのたった一つの碗に、一方はじっくりと、一方はちらちらと視線を降らせていた。
唯の碗ではない。峻峰聳える崇高なる碗である。
粉々と刻まれた長葱が、緑と白の爽やかな色彩を示しつつ、
堆くも微動だにせず鎮座して、その下の蕎麦本体の存在を完全に抹殺していた。
高さは、一寸、二寸、三寸。まだ足りない。頗る壮大である。
下部は碗の縁に沿って幅広に取られているが、
視線を上げるに従い、急勾配を以って徐々に窄まってくる。
この状態で僅かな刺激、喩え鼻息程度の軽微なものであろうと、一度干渉すれば、
瞬く間に全体の均衡の妙を失い、その奇観が雲散霧消するのは明らかである。
それだけに留まらず、今も帳場の影から慄き見守る家主もとい店主が、
崩れ落ちた葱の欠片を回収しに急襲する運びとなる。
当然、これは店主自身の趣向などではない。頼まれたってやりたくもない。
しかし、顔面蒼白の少年を伴った、知識人風の男性から、
この子は病気で、余命幾許もない。そこで、失礼とは思うが、
彼のたっての希望で、蕎麦の上に屹然と立つ葱の山を見せてはくれないか。
などと真面目ったらしい表情で言われれば、多少は考えざるを得ない。
こんなぼろ屋で、静かに蕎麦を友とする男である。金はない。
蕎麦ばかり食って滋養がないから、頭も良くなければ、腕っ節だって立たない。
とても門前払いを言い渡す甲斐性は無いのであった。
さても、そんなふざけた冗談を吐き、人を丸め込んで済ましていられるのは、
説明するまでもない、日本の誇る二君が片割れ、安西京その人である。
先の通り、現在は眼鏡を外していて特徴の一つを失ってはいるが、
顎ほどに伸ばして、前部をごっそり左分けた艶髪と、
穏やかな顔つきに似合わぬ鋭い細眉とで、充分判別が付く。
安西の言葉は大抵は嘘、或いは根拠の判然としないものであるから、
従って、先ほど店主に伝えた一節にも、事実は露ほども含まれていない。
もちろん、葱山は彼が見たかっただけの話である。
「見たまえ。緑と白という組み合わせは、実によく映える。
そこを考えるに、葱とは、美の星の下に生まれた植物だね。
瓜もそうだが、あれは駄目だ。形状がね、人に媚びてるよ。いや、その点葱は立派さ。
真直ぐに伸びて、己の道に疑いを持っていないね。人間もこうありたいもんだ。」
如何に誉められようと、こうも無残な姿を晒されては、葱だって喜びようもない。
相手をさせられている少年は、居心地悪そうにつくねんと座っていた。
「で、君は葱ではなかったわけだ、一君。
ともかく、腹も減ったろう。存分に食いたまえ。僕は食べなくても平気な性質だから。
――御主人。大丈夫だから、奥で煙草でも吸ってなさい。こちらは心配ないから。」
安西の雑言で、葱が少なからず散らばったのを認め、
主人は突入の体勢に入っていたが、このたった一言で厨房の方へ引っ込められてしまった。
一少年の伏目には、静かな憎悪が漂い始める。