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 桃太郎。それは日本の誰もが知っている超有名な童話だ。ある日川から流れてきた大きな桃から生まれた桃太郎が犬、猿、雉のお供を連れて鬼を退治する、というストーリーだ。
 そんな桃太郎が、この21世紀の日本に蘇ったのだった。

 おぎゃあ、おぎゃあ。岡山県倉敷市のとある総合病院。その1室で、彼は産声をあげた。現代の桃太郎は桃から生まれなんかしない。現代の桃太郎は桃尻を持つ母、山本幸子から生まれてくるのだ。
「幸子、よくやった……! よくやったな!」
母子の前で顔をくしゃくしゃにして話しかけるこの男は桃太郎の父、山本則夫だ。現代の桃太郎の父は芝刈りになんて行かない。芝川(静岡県富士宮市富士郡にある町)に行くことはある。仕事で。
「あなた……」
「よくやった……ありがとう……幸子。実はな、男の子が生まれたら、付けようと思っていた名前があるんだ。太郎。太郎だ」
「太郎……。いい名前ね」
「ああ。お前は、今日から山本太郎だ。よろしくな、太郎。お前の、父さんと母さんだぞ……!」
 かくして、後に現代の桃太郎、と呼ばれる山本太郎がこの世に生れ落ちたのだった。

 さて、そんな山本太郎が何故桃太郎と呼ばれるようになるのか。それは、彼の小学校の入学式の日に原因があった。入学式も終わり、初めてクラスで顔を合わせ、自己紹介をするときのことだった。太郎より出席番号が一つ早い山田光男が自己紹介を終え、太郎の順番が来たときだった。太郎は予想外に緊張してしまったのだ。そして緊張のまま迎えた自己紹介のおかげで、彼は桃太郎、と呼ばれるようになったのである。
「1年3組27番やまももたろうです! よろしくおねがいします!」

 入学して早々桃太郎、なんて自己紹介をしてしまった太郎だが、小学校の6年間は割と平和に過ごせた。確かにあの自己紹介の直後はからかわれたりもしたのだが、それもすぐに慣れたし、周りの皆もすぐに飽きてしまったのだ。彼の桃太郎、という呼び名はただのあだ名へと一瞬にして変貌を遂げたのである。また、そんなキャッチーなあだ名ゆえに、太郎には多くの友達が出来た。そしてあまりに長い間桃太郎と呼ばれ続けたせいで、いつの間にか彼には桃太郎の精神が宿っていた。いつか鬼を退治する。それを今生の責務として捉えていたのである。

 太郎は、中学もそのまま同じ学区内の公立中学校に入学した。周りの面々も同じ地区だった奴らが多かったので、彼の桃太郎、というあだ名は廃れることはなかったのである。だが、中学になればやはり新しい面子も増える。その中には勿論、いわゆる不良と呼ばれる者もいた。鬼島重樹。彼は間違いなく、不良、と呼ばれるような存在であった。

 太郎は生まれてからの12年間で、正義感溢れ、眉毛のしっかりとしたりりしい顔つきの少年へと成長していた。則夫と幸子の教育が良かったためなのか、幼い頃に見たと特撮のせいなのかは分からないが、とにかくその性分のせいで、彼はクラス内の不良の存在が許せなかった。だからといって、それを廃絶しようというわけでもなかった。出来ることなら、クラスの秩序を崩さずに、全員が仲良く出来れば良いと考えていたのである。そんな彼だから、クラス内の委員会を決める際には、迷わずクラス委員に立候補した。しかし、あえなく落選した。クラス委員には牛乳瓶の底のようなレンズの眼鏡を掛けた少年が当選した。童話の桃太郎だってカリスマ性があったわけではない。きび団子で買収していたに過ぎないのだ。何も根回しをしなかった太郎が落選したのは、ある意味では当然のことだったのだ。太郎は結局、給食委員に落ち着いたのだった。現代の桃太郎はきび団子(岡山県が誇る定番のお土産)なんかは配らない。給食委員の仕事でクラスの皆に肉団子を配るのだ。

 入学して1ヶ月半が経った頃。GWも明けて、誰も彼も休み気分が抜けていない5月のある日のことだった。太郎は小学校からの友人である、乾健治と気だるい昼休みを教室の窓際で話しながらすごしていた。
「今週のチャンピオン読んだ?」
「ああ、読んだわ。まさか克己がなあ……」
最初は他愛もない話だった。漫画の話、音楽の話、GWをどう過ごしたのか。そんな話を続けていると当然乾がはっと気づいたように話を切り出した。
「あ、そうそう。知っとるか? オニのこと」
オニ、とはクラス1、いや、学年1の不良、鬼島重樹のことである。苗字の「鬼島」と彼自身が持つ独特の存在感のために、こんな呼び名が付けられていたのだ。
「オニがどしたんな?」
「いや、実はな、オニって元々良くない噂が流れとったじゃん。何か小学校の時に教師を殴って転校しただとか、小学校の時にすでに不良グループの頭張っとったとか」
「ああ、確かに聞いたことはあるわ」
「そんでな、ほら、オニGW明けてからずっと学校来とらんじゃろ? あれ何か謹慎中らしいんよ」
「まじで? 何でな?」
「いや、3組の大谷っておるじゃろ? オニがあいつを殴ったらしいんよ。そんで自宅で謹慎くらっとるらしいんよ」
「大谷って……あの暗い眼鏡の奴か? 何でまたあいつを?」
「そりゃあ俺も分からんわ。俺も人から聞いた話じゃけえな」
 クラス1の不良が暴力をふるって謹慎中。この話を聞いて燃えない太郎ではなかった。キーンコーンカーンコーン。昼休みの終わりを告げる鐘の音がなった。太郎にはこの音はただのチャイムには聞こえなかった。ある意味では警笛にも、そして福音にも聞こえた。小学校のときから思い続けてきたことがある。いつか鬼を退治しなければいけないのだと。それが今なんだと、太郎は思った。故に、桃太郎VS鬼、という構図が、彼の頭の中に非常に明確にイメージされていた。山本太郎VS鬼島重樹。奇しくも、こちらは桃太郎と呼ばれている男、そして相手は鬼を名に持つ男。どうにかして、一給食委員に過ぎない彼が学年1の不良である鬼島を更生させなければならない、という勝手な使命感が彼の心の中で渦巻いていた。

 この日、現代に蘇った桃太郎、山本太郎は鬼退治をすることを決意したのであった。山本太郎、12歳の春のことだった。
 鬼を退治するには、まず情報を仕入れなければならない、と太郎は考えた。現代の桃太郎は鬼の悪評を聞いてすぐに鬼が島に退治しに行くほど短絡的ではない。まずは聞き込み、と言ってもそこまで大それたものではないが、鬼島についていろいろと聞く必要があると彼は考えた。最初に顔が浮かんだのは、鬼島に殴られたという張本人、大谷であった。太郎も大谷も帰宅部であること、行動は早い方がいい、ということから彼に聞き込みを開始するのは今日の放課後、という風に太郎は決め、源氏物語について書かれているノートの隅っこに「決戦は放課後」と小さく書き記した。古文の授業中にこのことだけをずっと考えていたために、授業の内容など一つも頭には入ってなかった。しかし、今太郎にとって重要なのは、光源氏が何人の女を食っただとか、幼女から熟女まで幅広いストライクゾーンの持ち主であったとかそんなことではなく、どの様にして鬼を退治するか、ということであった。
 キーンコーンカーンコーン。この日の全ての授業が終わったことを告げるチャイムが鳴った。だが、今使命感に燃えている太郎には高校球児が甲子園の試合開始のサイレンを聞くがごとく、心が熱くなる開始の合図のように聞こえた。
「おーい、桃、帰ろうや」
太郎が情熱を滾らせてる中、乾が欠伸をしながら間抜けな声で太郎を呼んだ。太郎と乾はいつもは一緒に帰っているのだが、今日の太郎はすぐに帰るわけにはいかなかった。
「すまん、今日は先に帰ってくれ」
「あ? なんかあるんか? お前クラブにも入っとらんし……。あ! お前まさか、コレか?」
乾が右手の小指を立ててちょいちょいと動かした。乾の予想は見当はずれであったし、それにそのジェスチャーは古すぎる、と太郎は思ったのだが、あえて乾のセンスの古さには触れてやらなかった。
「違うわ、ぼけ。とにかく用事があるんよ。野暮用よ。」
「何な、違うんか。じゃあ何なん?」
太郎は乾になら鬼退治のことを言ってもいいと考えた。小学校から6年以上の付き合いだ。隠す必要もないだろう、と思った。それに、乾なら協力もしてくれるのじゃあないかという淡い期待が無いわけではなかった。
「あんな、乾。実は俺な、鬼退治するんよ」
「へ? 何? モリタイシ?」
「違うわ! 何じゃそれは」
「サンデーの漫画家じゃ」
「いや、知らんがな。あんな、俺が言ったんは鬼退治じゃ、鬼退治」
「あ? 鬼退治って……何をするんな?」
乾があほ面でそう問いかけたとき、太郎はあたりの様子に気がついた。終業間もない放課後だったため、周りには多くのクラスメイトがいた。流石に大勢に聞かれては不味いだろう、と太郎は思った。
「ちょい、乾。耳かせや。……あんな、オニじゃ、オニ。あいつを更生しちゃろうってことよ」
「オニってお前……。あのオニか!? 止めや! あいつは手の付けられん悪よ。昼に話したじゃろうが」
「まあその昼の話のおかげで俺はこんなこと考えとんじゃけどな。まあええわ。別にお前に協力してくれとは言っとらん。俺一人でやるわ」
「おお、そうしてくれや。あいつはアンタッチャブルよ。触れちゃならんのよ」
「……本当はお前が協力してくれたら助かるんじゃけどな……」
「いやいや、やらんよ。やらんやらん」
「だめか……?」
「だめじゃだめじゃ。絶対に無理よ」
「お前の給食、こっそり増やしちゃるけえ」
「協力さしてくれ」
意外にもあっさりと乾が協力してくれることとなった。結果的に、給食委員であることが功を奏したのだった。現代の桃太郎はきび団子なんかでは犬をお供にしたりしない。しかし今も昔も変わらないことがある。桃太郎は食べ物を与え、そして与えられた者はそれにつられてほいほいと鬼退治についていってしまうのだった。太郎と乾も、ジグゾーパズルの穴とピースのように、この伝統的なシステムにぴったりと当てはまっていた。
 とにかく、桃太郎こと山本太郎は、「いぬ」を名に持つ男、乾という最初の協力者を得たのであった。
2, 1

  

「鬼退治する、って親父とかおかんには言わんでええんか?」
乾が突拍子も無いことを言い出した、と太郎は思った。
「何で両親に言わにゃいけんのよ」
「いや、童話の桃太郎だってまずはお爺さんとお婆さんに鬼退治行ってきます、って言うじゃろ? じゃけそこは則った方がええんかな、と思って」
「お前な、息子がいきなり鬼退治します! って言ったら頭狂ったかと思うじゃろうが。そんなんはええから、早く病院行ってあなたの頭の中の鬼を退治しましょうね、って言うじゃろうが」
「あ、ああ、そうか。それもそうじゃな」
乾には昔からどこか間の外れたことを言うところがあった。それは時に場を白けさせることもあったのだが、多くの場合、周りを和ませるような、ある意味では彼の長所のようなものとなっていた。事実、今太郎は彼の言葉のおかげで、空気を入れすぎたタイヤのようにカチカチになっていた肩の力がすっと抜けた。
「で、まず何をするん?」
「ああ、お前昼に言っとったじゃろ、オニが大谷を殴ったって。じゃけまずはその大谷に話を聞こう、って算段よ」
なるほど、と乾が相槌を打ったとき、太郎はふと気がついた。クラスの、いや学校の大半が帰っているのか、部活動に励んでいるのか、とにかく教室にはもうほとんど人がいない状況であった。
「おい、乾、さっさと3組に行くぞ」
 2人だけの頼りない桃太郎一行だが、その足取りは勇んでいた。そしてあっという間に3組の前まで来ていたのだ。こんなにも早く着いたのは、彼らの歩みが余りに堂々として、そして急いでいたためだろうか。いや、単に距離が近かっただけのことだろう。大谷のクラスは3組。太郎と乾は4組であったため、壁1枚挟んだだけの距離である。だがそんな距離も煩わしくなるほど、太郎は焦っていた。大谷がもう帰ってしまっているんじゃあないかと危惧していたためである。太郎はさっと身を乗り出し教室の中を覗き込んだ。そこには、まだ数人の生徒が教室に残っていた。そこには、渦中の人物、大谷も存在していた。太郎はほっとし、そしてまた気を引き締め4組のドアを勢いよくがらりと開けた。
 太郎が豪快な音を立ててドアを開けたにもかかわらず、大谷達はこちらに目を向けることなく、何かの話に夢中であった。
「おい、大谷。ちょっと……」
太郎が話しかけても、大谷達は少しも気がつかないというような感じであった。ちらりと大谷に目をやると、彼の右頬には大袈裟な湿布とガーゼが貼られていた。やはり、大谷がオニに殴られたというのは確からしい。そのためになおさら太郎は大谷の注意をこちらに向ける必要があると思った。
「おい。大谷、大谷!」
しかし大谷達はぴくりとも太郎の声に反応しなかった。彼らには太郎の声が聞こえないのであろうか。太郎は自分がまるで水中で大声を張り上げているようだと思った。何を言おうとしても一つも相手には伝わらず、ぼこ、ぼこと口から空気がこぼれ出るだけである。太郎は半ば諦めながらも、とりあえず大谷達の会話に耳を傾けてみることにした。
「……やはりあのシチュエーションこそまさしく至高、というやつではないのかな? 屋上で、二人だけの秘密の物語を紡いでいくという」
腕を組みながらきざっぽく大谷が何か語っていた。ぼそぼそと語り終えると大谷は眼鏡の奥に隠された切れ長の目を細め、少し上に向いた鼻をすん、と啜り、わざとらしく足を組み替えた。行動がいちいち嫌みったらしい奴だ、と太郎は思った。
「いやいや、流石は大谷氏、お目が高い。ですが私はそれには異論がありますぞ。やはり一般の学校は屋上は封鎖されておりますから、屋上のシーンというのは往往にして非現実的、というのが正しいのではでは?」
何やらおかしな言葉遣いの奴がいるものだと太郎は思った。太郎が12年間生きてきた中で聞いたことの無い、回りくどく鬱陶しい喋り方であった。入学して1ヶ月以上経つのだが、太郎はこの男を見たことはなかった。廃屋に絡み付くツタのようにくるくると頭に張り付いている黒い髪の毛。脂ぎった顔には、ぽつぽつとニキビが点在し、口元には濃すぎるほどの産毛が生えていた。爽やかという言葉とは正反対の顔をした少年だった。
「い、異議あり。あ、あのさ、漫画って夢を与えるものだし、そ、それが少年漫画ならなおさらの事じゃ? だ、だったら非現実が存在しても何も不思議は、な、無いんじゃないかな?」
このたどたどしい口調の少年のことも太郎は見たことはなかった。いや、もしかしたら見たことはあるのかもしれないが、それにすら気がつかないほどの薄い存在感を持った少年であった。中学1年生にしても小さい体。奥の景色が透けて見えるのではないかと思うほどの青白い肌に、目、鼻、口がさっ、と筆で書かれたように乗っかっているだけの、非常にあっさりとした顔つきだった。
 太郎はじいっと彼らの話を聞いていたのだが、結局のところ会話の内容は一つも理解することができなかった。話していることも、彼らの口調も、何もかも訳が分からなかった。太郎は自分がどこかアフリカの未開の地に投げ出され、そこの原住民に出会ってしまい一方的に訳のわからない言葉でまくし立てられているような気分を感じた。今日はもう諦めよう、と太郎が肩を落とし帰ろうとしたときだった。
「確かに、青春漫画にとって屋上ははずせんよな。現実の屋上は汚くて臭いし、たいていの場合は入れんけど、漫画なら、綺麗じゃし開放されとるし、しかも苺パンツの女の子が降ってくることもあるけえな」
驚いたことに、乾が大谷達の会話に参入していたのだ。太郎は原住民の中に、心強い通訳を見つけたような気分を感じた。
「な、何ですかな!? いきなりキミは」
「ん? 俺? 4組の乾。まあええじゃろそんなことは。あ、そうじゃ、お前ら誰派よ? 俺こずえ派なんじゃけど、中々賛同してくれる奴おらんのよね」
「おお! 乾氏! こずえ派とな? それはそれはマイノリティで大変でしょうな。ああ、失礼。私は村田と申すものであります。残念ですが、私は西野派でして……」
「こ、こずえ派とは珍しいね。僕は吉村。ぼ、僕も残念だけど、と、東城派なんだよね……」
西野派とか東城派だとかなんだか訳が分からないことを言っているが、何にせよこれで大谷の注意を引くことができたので、ひとまずは良しとするかな、と太郎は思った。
「……珍妙な人物もいたものだ。私は大谷。……唯派だ」
大谷の語り口はやはりきざなものだった。
彼らは一通り軽い自己紹介を終えると、新参者の乾を含めて議論を再開した。そしてそれはなんと30分以上も続いたのだった。途切れることなく、延々と萌えだとか苺だとかパンツだとかの話を彼らは続けていたのである。太郎は自分だけ別の時間の流れの中にいるんじゃあないかという錯覚を覚えるほどの疎外感を感じていた。そんな激論も一息つき、一瞬部屋がしんと静まりかえったとき、乾が太郎の方をちらりと見て、あっ、と何かに気がついたかのような顔をした。多分、彼は本来の目的を忘れて議論に熱中していたのだ。
「あのさ、大谷。おまえそれ、どしたん?」
突然、乾が大谷の右頬を指差して話を切り出した。
「あ、ああ……。これか。ちょっとね……」
大谷は言葉を濁すだけで、そのことについては語ろうとしなかった。そこで乾が両手の人差し指を立て、それを頭の方にやり、「コレか?」と聞いた。コレとは勿論、オニのことである。大谷は何も言わずあごに手を当てて静かにこくり、と頷いた。
「また何でな? 何で殴られたんな?」
乾が更に切り込んでいった。太郎はやはり乾を連れてきて正解だったな、と思った。自分じゃあここまであけすけと聞ける自信はなかったからである。
「……本当は言いたくはないのだが、まあ良いだろう。いきなり彼に『お前の顔を見てると腹立つんだよ』とか言われて、この様さ……」
やっと大谷から事件についての情報を聞き出せたときだった。
「こらー! お前らもうとっくに下校時間過ぎとるぞー!! とっとと帰って勉強せえ!!」
体育教師の岡田が声を荒げて教室に入ってきた。いつの間にやら下校時間が過ぎていたらしかった。窓の外を見てみると、確かにもう日は沈みかけていた。太郎は慌てて3組の教室から飛び出した。後ろの方でがしゃん、と机の倒れる音がしたので振り返ってみると、そこには間の抜けた顔で机と一緒にごろごろと痛そうに転がっている乾の姿があった。だが太郎にはそんなものにかまっている暇はなかった。岡田につかまると面倒くさいことは、入学してからの1ヶ月間で十分身にしみていたからである。太郎は急いで4組に戻り乾の分の荷物も取り廊下にいた乾にかばんを渡し、そしてまた3組の教室を覗いてみた。しかし、そこにはもう誰の姿も残っていなかった。大谷達も急いで帰っていったのだろう。太郎達も今日のところは帰ることにした。
「いたた……さっきぶつけたとこ腫れとるわ、多分。……しかし、オニの奴、顔が腹立つ、言ってそれだけで……。それはあんまりじゃろう」
帰り道の途中、乾が右足をさすりながらさっき大谷から聞き出した情報について話し始めた。
「うん、それなんじゃけどな……。オニの奴はそんなに見境のない奴なんじゃろうか。顔が腹立つからっていきなり人の顔を殴るような奴なんじゃろうか……」
「桃、あいつは不良ぞ。不良ってことはそりゃあ人を殴るんじゃろう」
「でもな、俺たちあいつと1ヵ月半同じクラスやっとるけど、誰も何か危害を加えられたって話はないじゃろう」
「入学したてじゃけえ大人しくしとこうと思ったんじゃないんか?」
「それで1ヶ月経ったらいきなり人の顔を殴るんか? しかも別のクラスの奴ぞ?」
「ああ……」
そこで会話は途切れてしまった。色々と考えるには、あまりに情報が少なすぎて、これ以上の推測は不可能だったためだ。それに、今日大谷と話した様子からは大谷からこれ以上情報を聞きだすことも難しそうに見えた。太郎も乾もそのことに気がついたようだった。
「とにかく、あれじゃ! 今度はオニについて聞き込みじゃ! あいつと同じ小学校だった奴、井上とかでえかろう。ちょっとオニについて聞いてみようや」
「それもそうじゃな」
 とりあえず明日からの計画は立ち、今日はもう特にこの事件についてやれることはないと思ったので、太郎と乾はオニの話は止め、いつもの様に他愛のない話を始めた。そしてしばらく歩みを進めているうちに、いつも太郎と乾が別れている十字路に差し掛かった。
「ところで、お前大谷達と何をあんなに熱く話しとったんな?」
「ん? ああ、漫画の話よ。知らんの?」
知らんわ、と太郎は笑いながら言って乾に別れを告げた。春の風が生暖かくふわり、と太郎の肌をなでた。
 太郎は家に帰り、自分の部屋で今日1日で仕入れた情報を整理していた。オニが大谷を殴って謹慎中。オニは大谷の顔がむかついたから殴った……。
「ええい、分からんわ」
一人になって落ち着いて考えてみてもやはり分からなかった。ただ、太郎には夕方に見た大谷の右頬にある大きな湿布とガーゼが強く印象に残っていた。「あまり詮索しすぎると、俺もあんな風に殴られるんじゃろうか」と太郎は思ったのだが、机の横で転がっている乾の間抜け面を思い出すと、そんな不安はたちまちどこかに消えてしまった。
4, 3

  

 4畳半の狭い部屋の南側に添えつけられているカーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。太郎はその眩しさゆえに、いつもより早く目が覚めてしまった。うっすらと汗ばんだTシャツの襟をつまみ空気を入れる。むわっとTシャツの中でこもっていた空気と爽やかな朝の香りのする空気とが入り混じる。カーテンをしゃっ、と開ける。高いところからさんさんと輝く太陽、深緑の草木の葉に這って進む青虫。もう夏はすぐそこまで来ていた。
 太郎は顔を洗い、朝食の食パンとハムエッグをほお張りながら情報番組を見ていた。いつもなら占いのコーナーが始まる頃に食べ終わるくらいなのだが、今日はその一つ前の本日のオススメ番組のコーナーのところで朝食を食べ終わっていた。たまには早く学校に行くのも悪くないだろう、と思ったので太郎は家を出ることにした。
 外に出てみると、やはりじりじりと太陽がアスファルトを照り付けていた。太郎は真夏のような暑さにうなだれながら学校へと歩みを進めていたのだが、何かいつもの通学路とは違う雰囲気を感じた。それは恐らく、時間がいつもより早いこともあるだろうが、太郎の心持が違っていたせいだろう。子供の頃から思っていたこと、鬼退治をするということ。その使命を抱いて6年経ち、やっと鬼退治へと出発できたのだ。おじいさん、おばあさん行ってきます。桃太郎、きび団子を持ってお行き、なんてやりとりはなかったが、とにかく太郎の心は、少なくとも以前よりかは満ち足りていた。自然と、歩幅も大きくなっていた。
 教室に着くと、まだ数人の生徒しか来ていなかった。乾もまだ来ていなかった。もっとも、乾は普段から遅刻が多かったので、太郎はそれも当然のことだろうとすぐに思った。手持ち無沙汰で机に伏せていると、背中の方で太郎を呼ぶ声がした。
「山本君、ちょっとええ?」
声の主は同じクラスの猿山カオリだった。大人しく目立たない子だったが、つぶらな瞳に少し丸みの帯びた鼻、ぷっくりとした唇にちょこんとした体は、可愛らしいという印象を相手に与えるには十分なものだった。
「ん、ええよ。どしたん?」
「いや……えっとな……」
猿山カオリが顔を赤らめてうつむき、次の言葉を出すのをためらっていた。何じゃろうか。おいおい、このシチュエーション、まさか、告白か!? まいったな。乾、わるい、俺先に行くわ、と太郎がごちゃごちゃと勝手に考えていたのだが、次に聞こえてきた言葉は太郎の期待を裏切るものだった。
「……ん、あんな、山本君、乾君といっつも一緒におるじゃろ? 仲ええんよね? ……そんで聞きたいことあるんじゃけど……あー恥ずかし。……うん。あんな、乾君って彼女とか……おるん?」
「へ?」
太郎は予想外の言葉にぽかんとした顔になった。それもそうだろう。もしかしたら告白かもしれない、と思っていた矢先にこの言葉だ。実際は、太郎が勝手に舞い上がっていただけなのだが、中学1年生のうぶな少年にはそれも仕方のないことだった。
「い、いないけど……」
そう答えると猿山カオリの顔がぱあっと明るくなったのを太郎は見逃さなかった。
「でも、どうして……?」
太郎にもその答えは分かっていたのだが、思わず聞いてしまった。よりよって乾かよ、という思いが太郎にあったからだ。
「何でって……」
猿山カオリが赤らんでいた顔を更に赤くさせた。もうそれは答えを言っているに等しいものだった。本当に顔から火が出そうなほど赤くなっていた。
「……乾のどこが?」
何となく悔しい思いを噛み締めつつ太郎は更に核心をつこうとした。
「……えっと、元気だし、優しいし、カッコいいし……」
もう聞いていられなかったし、聞きたくもなかった。そんなこと聞かされてどうしろと言うんだ、と太郎は思ったが、元々聞いたのは太郎だったので、その考えは身勝手なものと言えるだろうが、太郎にはそんなことに気づける余裕はなかった。そんなやりとりをしているうちに、ちらほらと教室にも人が増えてきた。
「と、とにかく、ありがとね、山本君」
そう言うと彼女はそそくさと自分の席へと戻っていった。
「おいおい、見とったぞ、桃」
声の元を見るとそこには乾がいた。
「見とったって、何を?」
「お前、猿山カオリと何話しとったんな?」
にやにやしながら乾が聞いてきた。こいつは勘違いしてるな、と太郎は思い、また、猿山カオリの好意が乾に向けられていることもあったので、「いや、別に何もない、数学のことでちょっと聞いとっただけよ」と嘘をついた。
「ほんまかー?」と乾が尚もにやついて疑っていたが、太郎はそれを受け流した。しかし、猿山カオリは何でこいつを好きになったんじゃろうか、と太郎はぼうっと考えていた。カッコいい、と猿山カオリは言っていた。じっと乾の顔を見つめてみる。太郎にはやはり乾はどこか間の抜けた顔のように思えた。それは、乾がにやついていたせいなのかもしれないが。
「ちょっと乾、真面目な顔してみーや」
「あ? 何でな」
「ええけ、ちょいやってみ?」
しぶしぶ乾が真顔になる。大きな瞳にすっと通った鼻、幼さゆえに少し丸みの帯びた輪郭をしていたが、確かにカッコいい、という部類に入る顔だということは太郎も認めざるを得なかった。しかし、何秒も経たないうちに元のぼうっとした顔に戻ったので、太郎は思わず笑いだしてしまった。
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