1・その本は未完
雨が降っている。ポツポツという雨音の中、僕は手に取っている、いらなくなった野球トレーディングカードの束をゴミ箱に捨てて、机に置いていたコーヒーを一口すする。もうすっかり冷めてしまっている。どうしよう、また淹れなおそうか。そう考えたが、インスタントの粉にまでたどり着くには両親のいる一階まで下りなければいけない。
「ああ、もう」
言葉にならない苛立ちをほんの少し吐き出して、冷めたコーヒーを一気に飲み干す。
今日は外でサッカーの練習をしようと思っていたのに、この雨じゃあできそうにない。
僕は本棚の本を一冊取り出して、朝に使ったままの乱れたベッドに勢いよく寝転がる。僕は、気分が悪くなると毎回こうやって、本を読み、気を紛らわせる。僕の場合、月に最低でも一度は読むことになる。
本を読んで気を紛らわせるというと、僕が読書家であるような言い方だが、僕の部屋の本棚にはほとんど本、つまり、学術書や純文学小説のようなものはない。
あるのは辞書が数点、教科書、それに漫画も十冊前後入っている。でも、それらは僕の苛立ちを納めてはくれない。
仰向けになり、手に取っていた文庫本の一ページ目を開く。この本のタイトルは『魔術師と灰』僕はこれを全ての本の中でいちばん愛している。
『魔術師と灰』は魔術師と、魔王が戦うファンタジー小説だ。余り新しいものではなく、昔のジュブナイル小説の一つに分類される。
僕は『魔術師と灰』の第六巻をペラペラとめくる。六巻のラストシーンでは魔王アッシュの差し向けた暗殺者を主人公で魔術師のマルコと、もう一人の魔術師、ヒロイン役のキャロラインが壮絶な戦いのすえ、見事打倒した所で終わっていた。最後に七巻に続くと書かれている。だが、第六巻の初版が出版された二千一年から、今、二千七年まで第七巻はでていない。
それはというのも、第六巻が出版された1年後、この本の作者、山本黄世が亡くなってしまったからだ。体は健康で病死ではない。亡くなった当時、黄世は四十歳。寿命でもない。山本黄世の死因は自殺だった。自宅の仕事部屋での首つり。遺書もあった。
僕はその当時はまだ、小学生で、『魔術師と灰』をまだ知らなかった。新聞にもテレビのニュースにも一切、黄世死去は報じられなかった。『魔術師と灰』はお世辞にも、人気があったとはいえず、山本黄世の名前など誰も知らなかった。というのが事実だろう。わずかなファンの間でも、第六巻まで出して貰えたのが奇跡だ。という声が目立っていたほどだった
僕が初めてこの本の一巻を読んだのはいつだっただろうか。その時がいつかは憶えていないが、僕はどこかで買ってきたのであろう一巻を夢中で読み漁った。
本というのはこんなに面白いものか、と心の底から思った。今も憶えている。誠実な青年マルコに勇気づけられ、博識な魔術師キャロラインに知識を学び、灰の国の魔王アッシュに畏怖を覚えた。
すぐに二巻、三巻と買ってきて、またも、夢中で読む。それまでは全く本など読んだことのなかった僕だったから、両親はとても喜んでいた。自分の子供が活字の本を読んでいるということ自体が嬉しくて、ジュブナイルだとか、そんなものは関係なかったのだろう。
第六巻を読み終えた僕は第七巻を求めて、町中の本屋を走った。
第七巻など存在しないということを知ったのは、数ヵ月後、サッカーとこの小説が好きだということを通じて、クラスで友人になった男子から作者が死んだと聞かされた時だった。
ショックだった。余りに唖然としていたのだろう。友人は急に焦りはじめて、僕に謝った。
僕はそれから、第一巻から第六巻までを何度も読み返したり、幻の第七巻の内容を空想しながら過ごした。
マルコは、キャロラインはあれからどうしたのだろうか。魔王アッシュを倒すことが出来たのだろうか。今でも思う。もういい年をしているのだけれど、ふとした拍子に空想を始める事が多々ある。
僕自身は高校生にもなってこんな古臭いジュブナイル小説を読んでいる事に恥を感じてはいないのだけれど、どうも、両親をはじめ、僕の周りにいる人たちは、この類の小説を嫌悪する傾向にあった。特に母親はもういい年なんだし、こんなくだらない本なんて卒業して捨ててしまいなさい。と口だけで笑う。僕は、これを捨ててしまって卒業しようなんて思っていない。
第六巻まで読み終わった時にその時は『魔術師と灰』しか読んだことのなかった僕は、本というものは全て『魔術師と灰』の様に素晴らしいと思い込み、本屋でそれらしい本を何冊か買ってきた。
しかし、買ってきたどの本にも、『魔術師と灰』の様に僕を物語の世界に引きずり込んでくれる物はなかった。店頭で大々的に置かれていた当時のベストセラーファンタジー小説も一冊買ってきたが、他の文庫本と同様に退屈なだけ。僕は失望し、考えを改めた。僕を素晴らしい世界へと連れてってくれる物語は『魔術師と灰』だけで、本というもの自体が良いのではない、と。
十分ほどペラペラとページをめくっていたのだが、中々、本の内容が頭の中に入ってこない事に気がついた。ただ、字を目で追っているだけで、何もイメージが出来なくない状態になっている。
どうやら少し眠くなってきたようだ。本当はこの時間には受験のための勉強をしなければいけないのだけれど、少し、寝よう。
僕は、『魔術師と灰』を真中で開き、顔にかぶせるようにして、ほんの、ほんの少しだけ、眠りにつこうと目を閉じた。
しかし、なかなか眠ることが出来ない。ウンウンと唸りながら、ゴロゴロと寝返りを打つ。当然顔の上に乗せていた本も落ちるのだが、それは手だけ動かして、ベッドの隅に寄せる。
原因に気づいたのはのどが渇きを訴えてきた時だった。
静かだ。雨の音がしない。小振りだったし、もうやんでしまったのだろう。いや、それだけではない。外には何も存在しないように何の音もしない。もしかしたら、耳がおかしくなってしまったのかと思い、手のひらを思い切り打つ。パンと乾いた音が、確かに僕には聞こえた。ヒリヒリと手は赤くなっている。強く打ちすぎたかもしれない。今考えると、寝がえりを打った時の音や、自分の呼吸する音が聞こえていたはずなのに、その時の僕には妙な焦りがあって、頭のどんな隅にも、そんな考えはなかった。
まだ、焦りは続く。眠気はすっかり覚めてしまった。一階に父と母がいるはずだ。そして、いるのならば色々な生活の音があるはずなのに、そんな気配はまるでない。
テレビでも見ているんだ。二人揃ってコーヒーでも飲みながら、もしかしたら、眠っているかもしれない。
そうだ。そうに決まっている。しかし、僕の鼓動は納まらなかった。心の底からの安心が出来ない。
ならば、どうする。簡単だ。階段を降りて、下の様子を見に行けばいい。唾を意図的に飲み込み、階段を降ていく。左の脇には『魔術師と灰』の第六巻を抱える。この本があると、何か、加護の様なものがあるような気がするのだ。効果を実感したことなど一度もないが、お守りとして、今も半ば真剣に信じている。流石に知り合いに言った事はないが。
一回のリビングのドアのノブに手をかける。余り滑りの良くないドアは軋みながらも、開いていく。
中に入り、左側にあるソファを見る。テレビが騒々しいバラエティ番組を映していたが、ソファには誰も座っていなかった。
「母さん。父さん」
小声で呼びかけてみるが返事はない。その代りに背後から、誰かが軽く咳き込む音が聞こえた。首から冷や汗が垂れていき、胸の部分で止まる。亀のようにゆっくり、振り返る。
「うわあっ」
そこには一人の女性が立っていた。中世ファンタジー小説に出てくる千年の繁栄を誇る巨大王国の女王様みたいだ。綺麗だ。と恐怖を感じる前に僕は思った。
「あ、あの、僕の母さんは、父さんは」
「コホッ、あなた、一人称が僕、なのですね」
女が僕の問いかけを無視して質問をしてくる。このことは何度も、言われたことがある。自分でも多少子供っぽいと思うが、なにも素性のわからない初対面かつ赤の他人に言われる筋合いはない。少し、恐怖がやわらぐ。
「そうですが、何か?」
いささか、強気な声色を出してみる。
「いいえ。素敵ですよ」
その声と笑顔は女の外見と同じくらいに、澄んでいて、僕は怯んでしまった。言葉が出ない。あんたは誰なのか。なぜ僕の家に居るのか。両親はどこか。もしかして、ただの、母さんか、父さんのお客さんなだけなのか。聞きたいことが頭の中を駆け巡る。
「あなた、コホッ、コホッ。その、本は、黄世の物ですね」
女は僕の持つ『魔術師と灰』を指差し、乾いた咳と一緒に口にした。
「あ、はい。お姉さん、知っているんですか」
女は少しだけ、悲しそうな顔をした。まるで、昔の悲しい過去を思い出してしまったように。
「あなた、だったの」
何がだ。質問に全く答えない。僕が何かを言おうとした瞬間、足もとがグニャリとぐらつくのを感じた。
何かと、足もとを見ると、そこには傷だらけの見慣れたフローリングの床は無く、どこまでも続く漆黒の空洞があった。
姿勢が崩れる。
落ちる。
悲鳴を上げる暇もなく、暗闇の中、僕は落ちていった。