……持ち出すまい、と言っているのに。
《騙した自覚はあるつもりさ》
不意に梔子高が、僕にそう自首して来たのは、帰りの電車の中である。
ポポロカは、梔子高の膝の上で、この世の罪悪など何一つ知らないと言わんばかりの罪の無い寝顔を作っている。ちなみに枕代わりは、僕の左腕上腕部だ。
「何の話だよ」
すっとぼけた。
忘れた振りをしておけば、これっきり話は終わるだろうと踏んだからだ。いちいちそんな過ちの傷を自分で抉るような真似はしない。それは僕が部屋に帰って、ベッドの上で羞恥の念に駈られながら悶え打っていれば済む話だ。
にも関わらず、梔子高は無言で僕の瞳を覗き込んでくる。いつものように《いいや。何でもないよ》と無難な微笑みを浮かべて話を切れば良いものを、やけに食い下がって来るもんだ。
ポポロカが、僕の上腕に寄りかかって、罪の無い寝息を立てている。
《怒っているかい?》
梔子高が、僕にそう問い掛けて来た。
「怒る理由が無いね」
《ごめん》
……。
「謝られても困る。謝られることをされた記憶なんか無い」
──悟られるものか。
《私は、怒って欲しいな》
「だから、怒る理由が無いってば」
──絶対に、悟られてなるものか。
決して、「デートだと言われて来てみれば、ちっともデートじゃなかったから腹立たかった」などと、悟られるわけにはいかない。
……そんなの、期待してたのがバレバレじゃないか。
《ごめんよ、ミヤコ》
そっぽを向いた。これ以上梔子高と会話を続ければ、「謝って済むことじゃないぞ!」などと墓穴を掘ってしまいそうだったからだ。
腹立たしかった。梔子高が、だ。
楽しんでいるに決まっているのだ。こういう事に対する免疫力が乏しい僕をからかって、楽しんでいるのだ、この娘は。
だったら、僕にだって相応の態度というものがある。徹底して対応を拒否するのだ。徹底抗戦である。非暴力不服従の姿勢だ。
だって、それで怒ったら、そんなに格好悪いことなんか無い。
ならば、シラを切り通すまでだ。「別にデートじゃなかったならデートじゃなかったで、一向に気にしてないよ。ちっとも残念じゃなかったし、最初から期待なんかしてないよ」と、シラを切り通す。
「ミヤコ」
「~~っ!?」
だがしかし梔子高は、そんな僕の細やかな抵抗すら、許してはくれなかった。
「ごめんね、ミヤコ」
そう呟く梔子高の顔は、いつのまにかポポロカの頭の真上にあった。
つまりその位置は、僕の耳元である。
絶対に振り向くまいと思った。振り向けば終わりだ。それは僕に残された最後の抵抗手段である不服従すらも奪い取ろうとする、梔子高の駄目押しなのだ。
「ねぇ、ミヤコ……」
耳元で囁く音として、相応しい音量。
吐息と交じり合った、掻き消えそうな声。
普段なら絶対こんな態度を取らない梔子高の、甘ったれた甘露の声。
久しぶりに聞いたその声は、僕が記憶している梔子高の声より数倍も優しくて、艶やかで、甘ったるくて、耳に心地良くて。
悪魔だ、梔子高は。
──こんなの、抵抗出来る筈が無い。
「怒って欲しい。騙されたって、私を怒って欲しい。ね……?」
「……何で、あんな風に誘ったのさ。『ポポロカの服を見たい』って言えば良かったんだ」
返事だけを返した。
僕が縋っている、姑の涙汁程度にしかない意地なんて、陥落するのは時間の問題だ。だがしかし、だからと言って抵抗も無しに陥落するつもりは無い。一矢報いらねばならない。
「知ってるクセに」
尚も距離を維持して、梔子高は僕の耳元で甘く囁く。
今日ほど、普段使用している電車がローカル線である事に感謝した日は無い。夕暮れという比較的鉄道全般が混むこの時間帯でも、このローカル電車の乗客は、少なくともこの車両では、僕と梔子高とポポロカのみだった。
「私はね、様子を見るんだよ。何をするにしても、様子見をしながら進める。失敗だけは避けたい事に関しては、特に……ね」
「知っている」と、声にして返答はしなかった。声を出す為に息を吸えば、先ほどから梔子高が放っている、透き通った色の、しかしこの上無く濃厚な艶の香りを吸い込む羽目になるからだ。そんなのは、自殺行為でしかない。
様子見、ね。実に有効的なモノの進め方だよ、賞賛してもいい。ああ、さぞかし手応えはあったんだろうさ、「否」なんて言わせないぞ。でなくちゃ、こんな風に仕掛けてなんか来ないだろう?
……手応えがあったのは、他ならぬ僕が一番よく知っているんだ。
「何も言わないね。口の意識が疎かになっているのかな?」
膝にポポロカを乗せたまま、器用に、梔子高が顔を僕の眼前に持ってきた。琥珀色の瞳に、ポーカーフェイスを必死に装う形相の僕が映っている。……それ、ポーカーフェイスって言えるのだろうか?
「使わないのかい、その口? なら……」
瞳の中の僕がみるみるうちに大きくなる。おいよせ、乗客が僕達だけしか居ないとは言っても、ここは公共の場なんだぞ?
「私が……貰ってしまおう」
直視していられなかった。直視していられなかったから、目を閉じた。奇しくもそれは、作法に則ったものであり、
作法に則った以上、それは恙無く行われた。
梔子高らしからぬ不勉強な、しかしそれ故この上無く梔子高らしい、簡素なものだった。
ただくっ付けて、互いの柔らかさを確認するだけの、透明な、決して濃厚ではない、静かなもの。
五秒。
柔らかいものが離れる。ほぅ、と、生温い空気が僕の鎖骨を撫でた。
「……どうしちゃったのさ、梔子高」
聞いてはいけないことのような気もするが、聞かずにこの場を終わらすことが出来るほど、僕はハードボイルド的要素に特化しているつもりは無い。それに、最初に触れてはいけない場所に触れてきたのは梔子高の方だ。僕にそれを躊躇う義理は無い。
「この間からおかしいよ。ヤケに嬉しそうにしたり、今日みたいな変な誘い方をしてきたり、その……今みたいなことも。何があったんだよ?」
「さぁて」
答えになってない返答を返すと、僕の肩に頭を預けた。二人分の頭部の重さが伝わって来る。ポポロカは起きなかったろうか? ポポロカのこれからを考えると、今のようなシーンを見せ付けるのは、些かではなく大いに教育上良くない。
「重いよ」
「我慢したまえ」
どうせその要望を拒否しても、頭の重量を預けることを止めるつもりは無いのだろう。無言を以って要求を受け入れた。
「何があったんだ、か」
亜麻色の髪から、眩暈がするほど良い香りが伝わって来る。このまま嗅ぎ続けていれば意識が飛んでしまいそうなのだが、鼻腔がいつまでも離したがらない。
「何が、あったんだろうね」
「僕に聞くなよ」
梔子高に解らないことが、僕に解る道理は無い。
それが、僕と梔子高が車両内で交わした、最後の会話である。
その後はただ、何をするでもなく、何も話すでもなく、電車の振動に身を躍らせながら、窓越しに見える夕日を眺めていた。尤も、眺めていたのは僕だけであり、梔子高は終始、僕の肩に頭を乗せて、目を瞑り、しかし寝ているわけでもなく、肩越しに僕の呼吸音に耳を澄ませているようだった。
結局、一矢報いるどころか、ますます泥沼に沈み込んでしまったのだろう。これまでが首下まで浸かっているものだと仮定すれば、今は頭髪の毛先が見えれば御の字だ。
悔しかった。
肩の重みに心地良さを感じている自分が、「たまには鈍行も良いかな」と思っている自分が、悔しかった。
それより何より悔しいのは。
緩やかな歓喜もまた感じている、自分自身だったりするのさ。