平日の、それも通学時間のど真ん中であるため、職務を忠実に遂行する見回りの警官に捕まってしまうのではないかという不安もあったが、所詮は天照町である。休日であろうが平日であろうが、相も変わらず駅は閑散としており、僕は何のトラブルも無く電車に乗り込み、また何のトラブルも無く電車を降りることが出来た。
平日の、それも通学時間のど真ん中であるにも拘わらず、僕は私服に身を包んでいる。
何故ならば、今僕が目的地としている場所は学校ではなく、天照町から二駅分ほどの距離を跨いだ場所にある、とある施設だからだ。
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月曜日。
人民の約六割程度が、願わくば一生来訪することなかれと切に願うこの日の火蓋を切ったのは、飽きもせずと言うか性懲りも無くと言うか、発信者不明のモーニングコールだった。
「誰だ、こんな時間に……」
今回ばかりは、この台詞に相応しい時間帯である。
午前五時半。
季節が季節ならば、カーテンを開けようが開けまいが部屋の明度に変化を及ぼさないような早朝に、僕は時期外れのJポップに叩き起こされた。
体が重い。如何せん前日が前日だ。様々なことがあったその弊害として、僕は家に帰るなり、食事も取らずに入浴して、そのまま泥のように眠りに落ちたのである。
とはいえ、時計が二百七十度の回転をする程度の時間を睡眠に当てたのだが。心労の類なのだろうか? 最近、色々と理解に苦しむ出来事も多いことだし。
……特に、昨日のことなんかは、な。
着信履歴を確認する。
「また、か」
予感というよりは確信というべきの度合いで、僕は発信者に心当たりがあった。そしてその心当たりは、斯くして現実のものとなっている。
幾許か、精神を落ち着かせる為の時間を要した。昨日のように、口車に乗せられてピエロを気取るわけにはいかない。尤も、「精神を落ち着かせる」というその行為そのものが、更に精神をかき乱す結果を導くというのが世のスタンダードなのだが、寝起きで胡乱な僕の頭では、そこまで先の考えには及ばなかった。
──。
《やぁ。取り込み中だった……なんて、聞くまでもないね、この時間では》
「その、取り込みなんて考えられないような朝も早よから、何の用だよ」
昨日と変わらず、TTSの音声だった。TTSを使ってまで、通話という確実かつ即時性に優れた伝達手段を取ったということは、つまりそういうことなのだろう。
《緊急事態、と言うべきだろうね。実は私も、ポポロカに叩き起こされたばかりなんだ》
「何故?」
《ハユマさん、と言っただろうか? ポポロカが彼女のリオラを察知したらしくてね。つい今しがた、保護に成功した》
脳裏に、何時ぞやのハユマの姿が蘇った。朝っぱらから縁起でもないことを思い起こさせてくれる。
《心停止状態だったよ》
……。
《ポポロカが応急処置的なものを施したらしい、今は息を吹き返して安静にしている。応急処置の原理は私には聞かないでくれよ。私にも理解出来ない領域であることは、君も知っているだろう? 私のしたことと言えば、暖かい布団と暖かい衣服を用意しただけさ。正直に言ってしまうと、私にも何が何やら解らない》
……朝っぱらから、縁起でもない話を聞かせてくれる。
《起きているかい?》
「起きてる。ちょっと頭を落ち着かせる時間をくれないか」
《そうなるだろうね》
それを了承の言葉と受け取り、しばし思案に耽る。
心停止って、あれだよな? 心臓が止まるってことだよな?
つまり。
死んでた、ってことだよな?
何故? どういうことだ? 再び、初対峙の際のハユマの姿が脳裏に浮かぶ。
確かに、血塗れではあった。でも、あれはハユマの血ではないと、本人直々にそう言っていたではないか?
「大怪我をしていた、とか?」
《外傷と見受けられるものは無かったね。ポポロカ曰く、極端なリオラ不足による生命維持不可状態だった、と言うことらしい》
聞くだけ無駄だった。あっちの世界の理論に基づいた理由ならば、反芻するまでもなく理解にも納得にも及ばない。
《とにかく、今は無事息を吹き返して安静にしているから安心してくれたまえ。とはいえ、やはり看護は必要らしいから、予断は許されないんだけれどもね。そして、ここからが本題だ》
今のは本題ではなかったらしい。人の生死云々の話を掴みに持ち出すなんて、それこそ本当に縁起でもないぞ、梔子高。
《ポポロカが、君に見せたいものがあるそうだ》
「僕に?」
《君に。従って、ミヤコ。君は本日、自主休校の手段を取って欲しい》
願っても無い話だった。別段、学校に行く事に軽度な憂鬱を感じているわけではないが、行かなくてもいいものであるなら、やはり進んで行くことはしないものだ。
しかし、である。
《わざわざ休校しなければならないのか、だろう? どうにも、腰を据えなければならないものらしい。それに、場所の指定もある。ああそれと、その場に私は居合わせない》
「どうしてさ?」
《言っただろう? 『看護は必要らしい』って。ポポロカが看護出来ない以上、私が看護するしかないだろうし、流石に自宅に他人が寝込んでいる状態で飄々と外出するほど、防犯意識に疎いつもりはないからね》
つまり、梔子高も本日は休校するってことか。
《学校への連絡は私の方からしておこう、君の分も含めてね。なぁに、私の言うことならば、学校側も納得せざるを得ないだろうさ》
その言葉には、何の瑕疵も抱かなかった。僕達の通う学校が私立校である以上、寄付金という概念はどうあっても存在するものであり、その寄付金が、誰の保護者の懐から出ているものなのかを考えれば、僕でなくとも納得する。そして梔子高千穂という娘は、そういった有効材料を、言葉通り有効的に使うことに関してのスペシャリストである。
「つまり今日は、ポポロカとのデート、ってわけか」
《ガッカリしたかい?》
「……してない」
嫌味を言ったつもりが軽やかに返されてしまうのも、もう慣れた。伊達に長年交流を持っていない。口で梔子高に勝てないことくらい解ってるさ。
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電車から降りた僕は、梔子高による口頭での道案内を殴り書きにした地図を見ながら進んだ。
新鮮な気分である。平日に、普段着で、見知らぬ町を徘徊しているという現状は、罪悪感と優越感の混じった、言葉に出来ない妙な感覚を覚える。少しだけ、非行少年達の気持ちが解ってしまった。
しかしまぁ、随分珍妙な場所をと言うか、ある意味納得と言うか、ポポロカは完全に予想の範疇外だった場所を指定してきた。
「へぇ。見事なもんだ」
目的地が視野に入るなり、僕は感嘆の息を漏らす。天照町から少し離れたとはいえ、似たような田舎町にこれほどの規模のものがあるとは驚きだ。
それは、霊園だった。
何でも、今朝のハユマ探索作業でここ近辺を回ったらしいのだが、その際、ポポロカがこの場所に目をつけたそうだ。曰く、この霊園は、リオラの濃度が段違いに濃いらしい。確かに、そういう何ていうか……オーラ的? なものが濃いと言われれば、何となく納得出来てしまいそうな場所ではある。
霊園に入るのは初めてだったが、管理人のような人の姿は見受けられない。シャッターや門みたいなものも無いことだし、勝手に入り込むとする。
神聖なものを感じた。
真夜中に来訪すれば、さも身の毛もよだつような空気が蔓延しているのだろう。しかし、ツヤのある墓石の一つ一つが早朝の朝日を反射するその風景は、何か神秘的なものを感じさせる。昨今では、墓石の一つにもアートの要素を持ち込むようだ。容器から取り出すのを失敗した木綿豆腐のような、朽ち果てた直方体の石だけに留まらず、様々な形のものがある。
ふと、数ある墓の中の一つに向かって手を合わせているお婆さんが目に入った。お婆さんが目を開けて、こちらを向く。
「おやまぁ、朝早くから感心な子だねぇ。お早う」
「お早う御座います」
挨拶をしてから気付いた。僕からすれば事情がある故のことなのだが、事情を知らない人であれば、学校にも行かずに何をしているのだろうといぶかしむのではないか?
とはいえ、今更おどおどしていてもかえって怪しい。ここは開き直って、堂々としていよう。
「今日は、珍しい客人が多い日だねぇ。こんな時間にこんな場所で、坊やみたいな若い子と二人もすれ違うなんて」
「……小さな、男の子ですか?」
「そうだよ。こぉんなに小さい、可愛い坊やだったさ。妙な格好をしていたねぇ。今の若い子達の間では、あんな格好が流行っているのかい?」
ポポロカのことだ。
「僕の知人です。その子は今、どこに?」
「さぁてねぇ、私も挨拶をしただけだったから。ずぅっと奥に行ったんだけど、迷子になってなきゃいいんだけどねぇ」
そう言うと、お婆さんは僕の目を見て、苦笑とも微笑とも言い難い、妙な笑い顔を作った。
「坊やも、何があったのかは知らないけど、元気を出すんだよ」
「はっ?」
「私も、長ぁい間ここで過ごしてきたけどね。坊やみたいな目をしてた人達も、沢山見てるわけよ。そういう人達は大抵、何か辛いことや難しいこと、困ったことを抱えてるもんさね」
すっかり皺の一部となってしまっていた瞼が持ち上げられ、黒目と白目の境がよく解らない老人特有の瞳が、僕を直視する。
「坊やも、あの子も。特にあの子は、何か大きな悩みを抱えているんじゃないかい?」
思わず、首を傾げてしまった。
確かにここ最近、僕の身の回りでは姦しい出来事が次から次へと起こっている。そしてその結果として、大なり小なり僕が頭を悩ませているのは事実だ。ポポロカとて、それは同じである。無論、ポポロカの証言をすべて鵜呑みに信じれば、の話だが。
しかし、これまで僕が観察してきたポポロカから、疲労と苦悩の残滓を感じ取る機会は、一度も無かった。ポポロカという名前を聞いて思い浮かぶのは、あのにへらとした罪の無い笑顔である。
やはり、悩んでいるのだろうか?
「坊やもお兄さんなんだから、しっかりとあの子を見ていてやらないと駄目だよ?」
「はぁ……はい」
どうやら、お婆さんの脳内では、僕とポポロカは兄弟になってしまっているらしい。多分、もう二度と会うことも無いだろうし、否定することなく曖昧に頷いておいた。
去り際。
「心配する事は無いさね。大変なものや大問題に見えても、冷静になって見たり過ぎ去って見たりすれば、実はちっとも大した事じゃないもんさ。だから、元気を出すんだよ。何とかなるもんさ、大概のことはねぇ」
「……失礼します」
背中越しに礼を言うと、僕は霊園の奥へ歩を進めた。
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果たしてお婆さんの言う通り、ポポロカは霊園の奥、中心部にその姿を置いていた。
先日、梔子高に購入してもらった衣服ではない。初対面時の、とんがり帽子とキャソックのような服に、身の丈を上回っているのではないかというような直径の杖、という出で立ちである。成る程、お婆さんが首を傾げるのも頷ける。
「ポポロカ」
僕が呼びかけた。返事は無い。
「ポポロ、」
もう一度呼びかけようとして、息を詰まらせた。
ポポロカは杖を前に構えて、身動き一つしない。呼吸をしているのかすら怪しいような、見事な直立不動である。
動いているのは、ポポロカを囲む芝だった。ポポロカ自身から風が発せられているかのように、ポポロカを中心軸として、芝がざわざわと謳っている。ヘリコプターが着地する際、こんな風に芝は揺れた筈だ。
一際、大きな風。
キャソックが舞い上がったその瞬間、突然僕の体重が増したような気がした。当然、不意に体重が増える訳が無い。それも、自覚が出来るほどの重量が、だ。
空気が、重くなっているのだ。
空気と言う空気が、まるで水の重量を持ったかのように僕の肩に圧し掛かって来る。立っていられなくなるほどではなかったが、はっきりと自覚出来る程度に。
「お忙しい所お呼びして、ごめんなさいなの」
それまでピクリとも動かなかったポポロカが、ようやっとそう口にして、僕に振り向く。
「えっ……?」
僕は、ポポロカを見ていた。
がしかし、僕は最初、それをポポロカだと断定出来なかった。
姿形は、間違いなくポポロカその人である。
表情が、僕の知っているポポロカのものではなかった。
人がこんな表情を作れるようになるには、どれだけの経験が必要なのだろう? 人生の酸いも甘いも一通り経験して、見えない重圧に押し潰され、それでも歯を食いしばって歩き続けた人達だけが作ることの出来る、気迫と決意の宿った表情。
少なくとも、ポポロカのような年頃の男の子に似つかわしい表情ではなかった。
僕はよほど珍妙な顔をしていたのか、ポポロカは僕を見ると、後はいつものようにぴこぴこと耳を揺らしながら歩み寄って来る。
「返事を返せなくてすみませんすみませんなの。本当は聞こえてたけれど、大掛かりなカスカを使うには集中しなくちゃいけなかったのね」
「……そっか。急に声をかけてしまってすまなかったね」
そう返答したものの、先ほどのポポロカと今のポポロカのギャップを処理しきれずに、頭を掻いてしまう。
「カスカを、使うのかい?」
何も言わずに、先ほどまで自分が立っていた場所を指差した。
ポポロカがその場から離れたにも拘わらず、相変わらず芝はざわざわと波打っている。よくよく見れば、そこを中心に、円直径三メートル程度の円柱を模るように蜃気楼が発生していた。
「この場所だけは、リオラの濃度が段違いに濃かった。それでもやっぱり足りなくて、周辺からリオラをかき集める必要があったのね。だから少しだけ時間がかかってしまったの。ミヤコが来る前に終わって良かった良かったなのよ」
だから、周辺の空気が重くなったのか。
「多分もう、この場でこのカスカは使えないの。時間が経てばリオラは元に戻るけど、それでも二、三年はかかってしまうのね。だからこれが、最初で最後の大掛かりなカスカ」
「大掛かりなカスカ、って?」
「視覚と聴覚に限定した上で、一時的に異世界とコミュニケーションを取るの」
言うなり、ポポロカは僕の手を取って、蜃気楼の中心へ歩み寄り始めた。
「本当は禁忌のカスカなのね。視覚効果や聴覚効果だけでも、世界の情報への影響は予測が出来ないから。それに禁忌じゃなかったところで、こんなカスカはポポロカやパパにしか使えないの。そして、今回は非常事態」
蜃気楼を目前にして、ポポロカは急に前進を停止した。僕の手を離して、真っ直ぐ僕を見る。
何事かと思えば、ポポロカは小指を差し出してきた。
「指切り、して欲しいの」
「約束する、ってことかい?」
かつて無い、神妙な面持ちでポポロカが頷いた。
「今からここで起こること。ここで話すこと。ここで解ること。その全部を、出来ればダカチホには内緒にして」
そんな気はしていた。ポポロカと僕という、これまでに無いツーショットを迎える事になった理由は、看護云々とは別に、何か理由がある気がしていたのだ。
しかし。
「内容による、かな」
だからと言って、僕がその条件を鵜呑みにするかといえば、それとこれとは別問題だ。考えたくもないが、もしもポポロカ達が、何かしらの理由で梔子高を騙そうとしているのならば、よほどの理由でもない限りは、その提案に首を縦に振ることは出来ない。僕に何かを明かそうとしている時点でその線は薄いのだろうが、それは確証ではないのだ。
「話の内容も解らないんじゃ、約束しようがないよ。どうして梔子高には内緒なんだい?」
ポポロカの顔に、憂鬱な影が差す。
「……絶対に内緒にしないといけない、ってわけじゃないのね。これをダカチホに話しても、何かしらの利害が出る事はないし、出たとしても、それが決定打になるような事はないと予想出来るの。ただ……」
振り絞るように、最後に言葉を吐いた。
「ダカチホに心配をかけたくはないし、必要以上に巻き込みたくはないのよ」
後はただ、黙って僕の返答を待っていた。
しばし、考える。
絶対に聞かせてはならないことではないが、出来れば聞かせない方が良い事柄。
多分、それによる梔子高への直接的な利害は無いと予想出来る。物騒なことを考えているわけではなさそうだ。いかんせん、梔子高の家柄が家柄だ、そこから疑わなければいけない。
ただし、情報を梔子高に公開すれば、梔子高が心配したり巻き込まれる恐れがある。
ポポロカは、梔子高のことを懸念しているのだろう。良い弟役である。
しかし、ならば何故、僕にはそれを告げるのだ?
可能性は、幾つかある。僕にそれを伝えたところで何も変わらないか、残念ながらポポロカの中のカーストに於いて、僕は至極低い位置に居るか。
或いは、僕には伝えなければならない理由があるか。
「約束するの。ミヤコがダカチホに黙っておいてくれれば、ダカチホを巻き込んだり、ダカチホに迷惑がかかるような事態には絶対にしない。ポポロカがさせないのね」
思うところは決して少なくはない。情報も不十分であり、決断を下すのは些か不安が残る。
「……解った」
しかし、信じる事にした。
僕の足りない頭で何かを考えても、それが答えに近づくための一歩と成り得る可能性は期待出来ないし、何より、ポポロカのこんな顔は見たくなかったからだ。
僕だって、ポポロカに愛着は沸いている。ポポロカは、耳をぴこぴこ揺らしながら笑っている時が、一番愛らしいのだ。
「梔子高には言わない、約束するよ」
ポポロカが、僕が見たかった以上の笑顔を、僕に見せた。やはり愛らしい。
蜃気楼の中心部は、空気が敷き詰まっているような感覚を覚えた。多分、これがリオラの濃度が濃い、ってことなんだろうと思う。
「今からミヤコは、見ることと聴くことしか出来なくなるのね。だけど心配しないで欲しいの。カスカが切れれば元通りになるのね」
いまいち想像出来ない。要するに、目と耳以外の機能が停止してしまうのだろうか?
「目と耳の機能も停止するのよ。脳に、直に情報を送るの」
「それ、大丈夫なのかい?」
「心配いらないのね。ハユマ様がミヤコにかけたカスカも、脳に直接信号を送る類のものだったのよ」
人気の無い路地で、不自然なくらいに冷静になった自分を思い出す。
あの時は。
何だかんだでトリックの一種なのだろうと思っていた。
血だらけの甲冑も演劇用の模造の血糊で塗りたくったものであり、ポポロカの概要説明も難しいことを適当に言っただけのでっち上げだと思っていた。
今は、少しだけ違う。
相も変わらず、世界が云々という事柄に関しては、「そんな馬鹿な」という考えは捨て切れはしない。だが、僕の与り知らぬ所で、何かしらの事態が進展しているのではないかという懸念もまた、少なからず存在するのだ。
そして、当初の予定としては「ほんの先端部分だけ拘わるくらいだったら」のつもりだったのだが、どうやら場の空気的に、本格的に事態に巻き込まれそうな予感がする。
やれやれだ。せいぜい両目の視力くらいしか誇れる事が無い僕に、何をしろと言うのだろう。
「それじゃあ、始めるのよ」
言うなり、ポポロカが再び杖を前に構えた。そして例の、人間の声なのかを疑ってしまうような音の羅列を口ずさみ始める。
長い。
あの時ハユマの口から発せられたものと比べても、段違いだ。大掛かりなカスカと言っていたし、相応の長い詠唱が必要なのだろうか?
そうしている間に、僕達を囲むように渦巻いていた蜃気楼の壁に、見る見る内にミルクのような白が混じってきた。ポポロカは未だ、詠唱を続けている。もう三分ほど経過している筈だ。これをすべて暗記しているのであれば、流石はなんちゃらアカデミーの代表というだけあるのだろう。
気付くことがあった。
違う。蜃気楼が白く染まっているのではない。
僕の目が、視力を失っているのだ。
息を吸おうとしたが、息の吸い方を忘れている。手足を動かそうとしたが、手足の動かし方を忘れている。
ポポロカの詠唱も、よくよく聞いてみれば、それは鼓膜が振動して音になっているものではなく、ハユマの時のように、脳の内側から信号となって出ているようなものになっている事に気付く。
「何が起こっているんだ」と言おうとしたが、「何が起こっているんだ」ということを誰かに伝える為の音を忘れてしまった。忘れてしまったし、そもそも僕はどうやってそれを他人に伝えていたのかも忘れてしまった。
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【出来たの】
そう言われても、僕はどうすればいいのだろうか?
【目を使って見ようとしても見えないのね、今のミヤコには目が無いの。だから『認識』しようとしてみて。何かを『見る』んじゃなくて、そこに存在するものを『認識』するようにしてみて】
そう言われても、普段から目や耳に頼って確認しているものを、それら無しで認識するなんて芸当は、僕には出来ない。ヘレンケラーだって、それが出来るようになるまでに砂を噛むような思いをしたんだぞ。
あ、出来た。
出来たというよりは、脳の内側から流れ出て来る情報を感じ取った、と言った方が解りやすい。飽くまで比較論であって、その例えそのものが解りやすいかと言われればその限りではないのだが、それはともかくとして。
見慣れない場所だった。映像として伝わって来る情報群……ううん、自分でもややこしくなってきた、普通に「見る」と表現しよう。
今僕が見ている風景は、少なくとも天照町のどこかの施設ではない。西洋、だろうか? 建物の内部と思われるその場所は、西洋の建物に見受けられる趣を備えている。
ポポロカと同じようなキャソックを身に纏った人々が、わらわらと犇いている。ポポロカのようにとんがり帽子を被っているのもちらほらと混じっていた。下はポポロカよりも年下だと思われる子から、上は板垣さんと同じくらいの年齢の人達まで、選り取りである。ちなみに忘れてしまった人の為に再度説明するが、板垣さんとは梔子高家に使える執事さんのことだ。
しかし、この視点は妙だった。何がどう妙なのかと言うと、
【この視点は、ポポロカの異空間同位体の視点を一時的に共有しているものなのね。だから意識に届く映像は、異空間同位体が認識している映像と同一のものなの】
つまり、先ほどから通りすがる人すれ違う人の脛、或いは足しか映らないこの映像は、違う世界のポポロカの視点をレンタルしているものだと言うことらしい。僕がほふく前進をすれば、こんな視点になるのではないだろうか?
つまり、低いのだ。人の顔や出で立ちを確認しようとすれば、否応無しに見上げるような形になってしまう。子供の視点とかそういう段階ではなく、小動物のような視点だ。幸い、この視点の本来の持ち主は見上げ癖のようなものがあるらしく、人々の人相や背丈格好を確認する分には不都合は無い。
視点は、どこかを目指して進んでいるようにも見える。
【異空間同位体は、ポポロカがこの視点を共有している事に気付いているのね。だから、ポポロカの要望に答えようとしているの。今は、おじじ様のところへ向かっているのね】
おじじ様。
確かポポロカは、同じ単語を以前の会話で使っていた。僕に事態の概要を説明していた時だ。
【この世界は、ポポロカ達が元々存在していた世界なの】
疑問に思った。この視点は、ポポロカの異空間同位体の視点と同一のものであり、今のこの風景は、元々ポポロカ達が存在していた世界のものだと言う。
つまり、ポポロカ達の世界には、ポポロカと同一の存在が二人居た、って事になるのか?
【異空間同位体は、元々はポポロカ達の世界の存在じゃないの。異空間同位体は、同時に同じ世界に留まることは出来ないのよ。だけどポポロカがミヤコ達の世界に来たから、元々ミヤコの世界にいたポポロカの異空間同位体が、バランスを取る為にポポロカ達の世界に移行したのね。だから今、ポポロカ達が見ているこの風景はポポロカ達の世界のものだけれど、この視点の持ち主は、ポポロカ達の世界の存在じゃないの】
よく解らなくなってきた。つまり、ポポロカは二人居て、あっちのポポロカがこっちの世界に来て、こっちに居たポポロカがあっちに行って……。
【こう言えば解ると思うの】
僕の混乱を察知したのか、ポポロカは次に、単純明快な答えをくれた。
【この視点の持ち主の名前は、トテチトテ。トテチトテは、ポポロカの異空間同位体なのね】
僕の脳裏に、梔子高家のペットであるオスのポメラニアンが浮かんだ。確か、板垣さんが散歩に連れて行っている途中に忽然と姿を消したということだった筈だ。
……成る程、探しても見つからないわけだ。
【ポポロカがミヤコ達の世界に来たから、トテチトテはバランスを取る為にポポロカ達の世界に行ったの。今はおじじ様がお世話をしてるから、安心して欲しいのよ】
納得である。言われてみればこの視点は、トテチトテの目を間借りしたらこんな風に映ると思う。それにしても、ポポロカとトテチトテが異空間同位体って設定か……既に生態の段階で差異が出ているのに、妙にしっくり来る。
【緊急事態っていうのは、そのことなのね】
そのこと、と言われても、一体どのことなのやら。
【異空間同位体は、同時に同じ世界に留まることは出来ない。出来ない筈なの。だけどイレギュラーが発生した。異空間同位体が、同時に同じ世界に留まっているのね。これが何を意味するのか、何の為なのか。どうあれ、おじじ様にそのことを報告しなければいけなかったのよ】
して、何でその報告を、僕に見せる必要があるのだろう?
そう考えてから、気付いた。
もしかして、その同時に同じ世界に存在している対象っていうのは、僕か、或いは梔子高のことなのか?
だから僕だけには見せるし、或いは梔子高には伝えない方が良いのか?
考えている間に、トテチトテは大きな扉の前に辿り着き、二回ほど鳴いた。その鳴き声は、確かに四年以上前に聞いたトテチトテの声に他ならなかった。
がちゃりと、扉が開く。
【おじじ様なの】
苦笑のようなものが漏れた気がした。
板垣さんだ。
ポポロカがおじじ様と呼んだその人は、その修道衣のような出で立ちを省けば、そっくりそのままとは言わずとも、一目で板垣さんの異空間同位体だと理解出来た。
《ζξυΓφΣ? トテチトテ》
予想は出来ていたが、やはりお祖父さんは、先だってのハユマと同じような言葉を使用していた。「トテチトテ」という音だけは、理解出来る。英語であろうがドイツ語であろうが、僕が「ノベオカミヤコ」と言う音で呼ばれることと同じ原理だろう、性と名の順はその限りではないが。
どうやってトテチトテという名前を知ったのだろうと思ったが、ポポロカのお祖父さんなのだから、どうにかこうにかして犬の意思を理解することくらいは、造作も無いことなのかもしれない。
《δυ……?》
眉を顰めて、トテチトテを抱き上げた。トテチトテの視点が、みるみるうちに高みへ持ち上げられてゆく。
《……αθσΑψκ。σγπ、ψδθξ……ψΓθ、ζλΘ》
じっと、こちらを見つめている。
勿論、ポポロカのお祖父さんが見ているのは、トテチトテの目だ。僕達を見ているわけではない。
しかし、見られている気がした。この掘りの深い顔立ちをした老人は、他ならぬ僕自身を見ているような気がしたのだ。
【『潜観』しているのだろう、ポポロカ? それに、あと一人】
ポポロカとは違う、もう一つの意思だった。掠れた、老人特有の声のような意思。
間違いない。
これは、お祖父さんの意思だ。
お祖父さんは、僕達が見ていることに気付いている。そして、僕達に語りかけている。
【君が、異空間同位体か。成る程、確かにリオラの流れが似ている】
僕の事、だろうか?
【ポポロカが、ハユマではなく君を連れて来たということは。そして今、君がポポロカと同じ場所にいるということは】
トテチトテは、おとなしくお祖父さんの目を見ている。元々人懐っこい犬ではあったが、よもや違う世界の住民にすらすぐに懐いてしまう辺り、愛玩動物である前に、犬としての誇りと本能の健在を心配する。
【ノマウスの推測が当たっていたということか。そうか……知らぬ間に成長したものだ】
ノマウス。
初めて聞く名前だった。誰かの名前なのだろうか? 口ぶりからして、お祖父さんの御子息か?
【ならば、私に出来ることと言えば、君に託すことだけだろう。否……何も出来ないから、君に託す、か】
何を?
【手前勝手ではあるが、君に託したい。ポポロカを。ノマウスを。ハユマを。そして……】
【限界なの。これ以上はリオラが足りないのよ】
ポポロカの意思が割り込んできた。そのポポロカの言葉を最後に、音に、視野に、白いノイズがかかり始める。
そして、ノイズが混じって、もはや認識すらもままならない中。
掠れた、老人特有の声のようなその意思だけが、はっきりと僕に伝わった。
【行く末を、君に託す】
************************
ハユマの時と比べて、頭痛も無ければ眩暈も無かった。空気に若干重量を感じたものの、
大掛かりなカスカの後の弊害をこの程度に抑えられる辺りが、流石はポポロカと言うべきなのだろうか?
しかし、仮にそうだとしても、ポポロカを褒められるだけの心の余裕など、ありはしない。
オイ。
託されたぞ。
何を?
行く末を?
つまり。
……どういうことだ?
「言葉の通りなの」
茫然自失と立ち尽くす僕に向かって、ポポロカが回答をくれた。だから、その言葉通りに受け取った上で解らないのだが。
「世界の行く末を、ミヤコに託す」
「待って、待ってよ」
あまりにと言えばあまりに、しかし当然と言えば当然のように、僕は狼狽した。
もはや、疑うまい。
あのようなものを見せ付けられた後だ。流石にトリックだとか大掛かりな演劇だとか、そのような説は持ち出すつもりは無い。今となっては、どちらかと言うとそちらの説の方が「馬鹿なことを」とせせら笑われることだろう。もしもこれで大掛かりな演劇の類だったのならば、今すぐにブロードウェイにでも進出するべきだ。スタンディングオベーション間違い無しだろう、血判を押したっていい。
パラレルワールドも、〈ンル=シド〉も、世界間移動も、本当に現実として起こっていることなのだろう。ああ、信じてやるさ。
その上で、堂々と公言させていただく。
何言ってんだ、アンタ達は?
「何が、どうなって、そういう流れになるのかが解らない。解らないし、えっと……困る」
「勝手なことを言っているのは、解ってるのね」
解っているだけじゃ駄目だろう。理解しているなら理解しているなりの対応策を練るべきだ。解った上で僕にどうこうしろと言っているのなら、それを指示しているのはとんだ頓馬だと想定出来る。
「だからポポロカ達は、どんな結果になっても受け入れる。ミヤコがどう動いて、何を感じて、何を成し遂げても、一切の文句は言わないの」
……。
「押し付けないでくれ」
明確な、拒否だった。後先も何も考えない、全力の拒否。
今、梔子高がここに居たとしたら、こんな僕を見て何と言うだろう? なだめるのだろうか? それとも、このような冷たい仕打ちをした事を嗜めるのだろうか?
「この際、はっきり言うよ。全然信じてなかった。カスカだとか、違う世界だとか、一切合切、全然信じてなかった。タチの悪い手品の類だと思ってたし、ポポロカやハユマに関しては、承諾無しで見物人を巻き込む辻劇団だとすら思ってたよ。たった今、ポポロカにあんなのを見せ付けられる前まではさ」
……そんなのは知ったことではない。動き出した口は、もう止まらない。
「この意味が解るかい? 何一つ、肝心なことは解ってないってことなんだぜ? 僕だって馬鹿じゃない、流石にあそこまでされて尚、演技だの手品だのなんて言うつもりは無いさ。こうなることが事前に予測出来てたら、もう少ししっかりポポロカや梔子高の説明を聞いておくべきだったって思った」
一息。
おおよそ、年下の少年に振るっていい態度ではない。ただ、言うべきことはすべて言った。
……いや、違う。
言うべきことではない。それはただの、言いたいことだった。意識とは関係無く口から飛び出した、自分ですら本心なのかどうかの判断に困るような、
罵詈雑言。
ああ、そうか。
イライラしているのか、僕は。
理由は、考えるまでもない。
だって、振り回されてばかりじゃないか。
思い返してみれば、帰宅路でハユマの下敷きになった日から今まで、僕は振り回されっぱなしではなかっただろうか?
ハユマには脳みそに妙な細工をされたし、ポポロカや梔子高には小難しい事情説明に翻弄された。そして梔子高単体ですら、ここ数日の動向は目に余るものがある。
そして今、ポポロカ含む案件の関与者達は。
押し付けようとしている。
僕が振り回されっぱなしであるのを良いことに、ここぞとばかりに責任を押し付けようとしているのだ。そうに決まっている。
そろそろ、振り回されて、で済む範疇ではない。
もう一息。
吸った空気で頭を冷やし、今度こそ、言うべきことを言った。
「無理だよ、僕には。僕には、出来ない」
「出来る」
しかしポポロカは、そんな僕の言葉を真っ向否定する。肯定の言葉を使って、否定する。
「理解して欲しいの。ミヤコの意思はどうあれ、これは決まったことなのよ。もしかしたら、おじじ様が決断を下すよりもずっと前から、既にそれは決められていたこと……確定事項だったのかもしれないのね」
「……出来ないよ」
「出来る、出来ないの話じゃないの。ミヤコは、それをするのよ」
「っ!」
いい加減にしろ!
そう怒鳴ろうとしたのだ。だから、息を吸った。それだけで反復横跳びを三十秒間は継続出来るのではないかというような酸素を、そのたった一言の為に吸った。
そして、吸った息を、飲んだ。
ポポロカが、僕の目を見ていた。
それは、覚悟の目。決意の目。
「何があっても。誰が、どうなっても」
さぞかし、格好がつかないことだろう。傍から見れば、自分の身の丈半分にも満たない園児とも見紛う少年に気圧された高校生としか映らない筈だ。
そう、身の丈半分にも満たない、男の子だ。
なのに。
……何で、そんな目が出来るんだ?
「ミヤコ。決して貴方を責めることはしない」
そう宣言され、僕はもう、何も言えなくなった。
だって。
本気で、言っている。
こんなに決意に満ちた目で、嘘などつけない筈だ。
例え、これから僕が世界の行く末を左右するような事件に身を投じて、その結果、これ以上無いくらいの悲惨な結末を迎える事になったとしても、何一つ文句も言わず、その結果を受け入れる。
ポポロカは、本気でそう言っている。
そんな、決意に満ちた目でメンチを切られてしまっては、だ。
自他共に認める「ヘタレ」の僕は、要求を飲むしかないではないか。
「理由を、聞かせて欲しい」
顔面の目から上を掌で覆って、僕は嘯くようにポポロカに問い掛けた。
僕ではいけない理由なら、幾らでも用意出来る。ワゴンでセールを催してもいいくらいに山ほど、だ。もしかしたら大食漢が前提条件なのかもしれないし、視力が良過ぎるといけない理由も無いとは言えないことだし。
「期待に添えられないようで申し訳無いんだけど、僕はポポロカのようなカスカも使えないし、梔子高みたいな切れ者というわけでもない。一房幾らのただの学生だよ?」
それどころか、通常平均を下回っている恐れもある。何故、こんな僕を選ぶ必要があるのだろうか?
なんてことを考えてはみたものの、実のところ、予想は出来ている。
ポポロカがここに、僕だけを連れてきた理由。
お祖父さんの、ハユマではなく僕がここに居る、という発言。
異空間同位体が、同じ世界に同時に存在しているというイレギュラー。
それらの情報を統括して考えれば、幾ら僕でもおおよその予想は付くものだ。
「ミヤコが、ハユマ様の異空間同位体だから」
肩をすくませ、鼻で溜息をついた。
そんなことだろうとは思ってたけどさ。まさかそのまんまだとは、ね。
「説は元々出ていたの。〈ンル=シド〉の対を成す〈エティエンナ〉が、一般的な存在と同程度のものである筈は無い。〈ンル=シド〉同様、〈エティエンナ〉にも何かしらの能力が付与されているに違いない、という説が。実際、異空間同位体の同世界滞在可能説が最も有力な説であったことも事実。ただ、確証は無かったの。それを証明するには、リスクが大き過ぎたから。それが今回、〈ンル=シド〉の能力暴走により証明された」
良く出来た皮肉だと思う。対抗勢力の暴走が、明確な証明の材料となったわけだ。
「でも、それなりのペナルティもあったみたいなのね。今朝、ハユマ様が仮死状態で発見されたのは、それに起因するの」
「説明を、お願いしてもいいかな?」
聞いたところでこれっぽっちも理解出来ない自信があるが、聞かないでいるよりは聞いておいた方が良いだろう。何せ、他人事ながら私事に他ならないのだ。
ポポロカが帽子の位置を整えて、人差し指を伸ばした。
「つまり、存在は『二』であっても、情報は『一』なの。ミヤコとハユマ様は、同じ空間に同時に滞在することは可能ではある。でもその代わり、本来『一』として計算されていた存在するための情報を、二分割する必要があったのよ。この場合の情報と言う単語は、そのまま『生命力』って単語に置き換えても通用するのね。目分量だけど、元々この世界の存在だったミヤコに〇・七、元々違う世界の存在だったハユマ様に〇・三ってとこだと思うの。後は単純に、連日の行動そのものに対する疲労も相俟って、生命維持が困難になってしまった」
「それで仮死、か」
「仮定の範疇だけど、きっと間違ってはいないと思うのよ」
ポポロカがそう言うのなら、きっとそうなのだろう。ここ数日、爽快な目覚ましとはご無沙汰な僕自身も、それの証明となっている。
「〈エティエンナ〉の力が異空間同位体の同世界滞在である以上、ミヤコがこの世界に留まっている事には、きっと意味がある。それが、ミヤコに託す理由なの。それに、ハユマ様があんな事になってしまった以上、希望を託すことが出来るのは、ハユマ様の異空間同位体であるミヤコだけなのね」
そうは言われても、ちっとも光栄ではない。何とならば、何が起こっているのか解らなければ、何をすればいいのかも解らないのだ。気分は前任の汚職の責任を擦り付けられた中間管理職員である。
「どうすれば、いいのさ? 僕は、何をすればいい?」
過去に世界を救った経験があるのならば、その経験を元に臨機応変に動けるのだろうが、当然の如く僕は世界など救った例など無い。未経験だ。今すぐ書店に行って「猿でも解る世界の救い方」なる本を探した方がいいのか?
「今まで通りでいいのね。特に、何かをしなければいけないってことは無い筈なのよ」
「筈、って……」
ポポロカが考察もせずにあっけらかんとそう宣言し、僕は狼狽する。
「そもそも、ポポロカやおじじ様がこれまで行ってきた行動や考察は、そのすべてが、ポポロカ達の望む結果を得る為のものに過ぎなかったの。世界や空間のバランスを崩すことなく、これまで存在していたものを、これまでと同じように流通させるという結果の為の。代償として、〈ンル=シド〉となった存在の抹消、或いは無力化という犠牲は出てしまうけれど、それは必要犠牲として処理せざるを得なかったのね。それが、ポポロカ達の限界」
早計な気もするが、おそらくは様々な考察が成されたのだろう。そしてリスクや犠牲等々、様々な議論を経て、今の結論に落ち着いたのだ、きっと。
「でも、新しい可能性が生まれた。それが〈エティエンナ〉であるハユマ様の異空間同位体であるミヤコ、貴方なのね。〈エティエンナ〉は確かに単一の存在ではあるけれど、〈エティエンナ〉であるハユマ様の異空間同位体との連携、及び協力の要請が可能であるならば、現行の手段よりも良い手段が見つかるかもしれない」
「協力と言われても、僕に何が出来るのやら……」
何というかこう、町一番の力持ちであったり、村一番のキレ者であったりとかならまだしも、残念ながら僕はごく普通の純日本人だ。多分、「ここは天照町です」という台詞を延々吐き続けるルーティーンを組み込まれた村人がお似合いだと思う。
「ミヤコは、ミヤコの思う通りに行動してくれればいいの。きっと、キッカケはある筈なのよ。そのキッカケがあった時に、ミヤコが正しいと思った行動を取ってくれればいいのね」
簡単に言ってくれる。僕のような青二才が正しいと思った行動なんて、大体の場合は間違っているものだ。のみならず、この世に生きる沢山の人達でさえ、本当に正しいこととは何なのかを考えあぐねているのではないのか?
「……極論を言うけれど」
頭を掻きながら、ポポロカに問う。
「僕が、世界なんかごちゃごちゃになっちゃえば良いと思ってたらどうするのさ? こんな世界は壊れてしまえば良いとか、もっと僕にとって都合の良い世界になれば良いとか、そういうことを考えていたら、どうするの?」
「そうなるように行動すればいいのね」
……。
即答、だった。
何の迷いも無い。まるで予め用意していた答えを言うように、ポポロカはそう答えたのだ。
「いいわけないじゃないか。そんなの、みんなが困るだろう?」
「でも、ミヤコにとっては望んだ結果」
僕が咽喉に言葉を詰まらせると、ポポロカは悪戯がバレた時のような無邪気な笑顔になった。
「ミヤコは意地悪なのね。ミヤコが世界を乱すような行動を取る筈が無いの。ダカチホがいる、この世界を」
「何でそこで梔子高が出てくるんだよ」
全部お見通しだと言わんばかりに語るポポロカに、少しだけムッとした。
「でも、実際にその通りなのよ。今までポポロカ達が行動していたことのその原理は、それもまた、ポポロカ達が望む結果に辿り着く為の行動に過ぎないの。おそらくは大多数の存在が賛成の手を挙げてくれるだろうけれど、決して全会一致というわけではないのね。だからミヤコはミヤコで、自分の望むように行動して、自分の望むような結果に辿り着いてくれればいいの」
随分なシナリオである。目的と結果が逆になっているわけだ。魔王を討伐するも、世界の半分を条件に加担するも、好きにしろと言われているようなものか。
「きっと、今はまだピンと来ないと思うの、無理も無いのね。さっきも言ったけど、キッカケは必ずある。だからそのキッカケの時までは、特に何もする必要は無いのよ」
溜息をついた。……それってつまり、全部僕に丸投げってことじゃないか。
「責任は取れない」
もう一度、掌で額を覆いながら、呟くようにポポロカに言った。
「善処はする。本当の意味で、僕に出来ることを全力でやるよ。けど、それで事態が何一つ変わらなくても……もしかしたら、今よりもずっと悪くなっても、僕は責任は取れない。それでもいいんだね?」
「構わない」
暗に拒否を示したつもりだったのだが、こうもあっさりと頷かれてしまっては、もう僕に拒否権は無いのだろう。
「お手伝いはするの。ただむしろ、この時点ではポポロカ達がミヤコの邪魔をしないようにしないといけないのね」
邪魔も何も、何も解らない今の段階では、何が邪魔で何が支援なのかも解りやしない。
……とりあえず、今出来ることと言えば、だ。
「ポポロカ、何が食べたい?」
「食べる?」
「朝ご飯。こんな時間だし、今朝も忙しかったみたいだし、何も食べてないんじゃない? 僕はお腹が空いてるし、とりあえず朝ご飯を食べたい」
腹が減っては何とやら、である。これまで通りで構わないというのなら、これまで通りに過ごしてやろうではないか。美味しいものでも食べて、お腹も気分も落ち着かせれば、何かこう……思いつくこともあるだろう。
「梔子高みたいに盛大な、とは言えないけれどね。ポポロカの食べたい物なら何を食べてもいいよ」
ポポロカは目を丸くしたが、構うものか。これまで散々ポポロカ達の事情に引きずりまわされたのだ。僕の主張がある時くらいは、押し通してやるのだ。
「ミートボール」
まん丸になっていた目が下向きの三日月になり、ポポロカはそうリクエストした。
「ダカチホが作ってくれたみたいなミートボールが食べたいの。もうお腹がペコペコなのね、今なら何個でも食べられるのよ」
「ミートボール、ね」
どうせ欠席届けは出ているのだ、今日という日は自主休校を満喫してやろうと思う。小さな町ではあるが、レストランの一つくらいはあるだろう。それにポポロカの勘違いも修正してやらねばならない。
ポポロカが食べたがっているのは、ミートボールではなくハンバーグだよ、と。