寝惚け眼に冷や水をぶちまけられたような気分だった。
辺りを見回してみる。先ほどまでステンドグラスのように広がっていた罅の蜘蛛糸は、どこにも見当たらない。足元に目をやっても、空の欠片も僕の欠片も落ちてはいなかった。
白昼夢から覚める時、こんな気分になるのかもしれない。先ほどまでは、絡まった糸のように滅裂になってしまっていた僕の心中は、今は波立たぬ水面のように透き通り、静寂に包まれている。
彼女を見た。彼女は、先ほどとは逆の順序で背中の束に剣を収め、真っ直ぐ僕に視線を向ける。
──どうだ?
そう言っていた。言葉ではなく、目でそう僕に尋ねていた。
「……大丈夫、大分落ち着いたみたいだ。有難う」
僕らが日常で使用している、僕らの言葉で、僕は彼女に礼を言った。
どちらが夢なのかが、曖昧になっている。
どちらかが、夢なのだろう。夢の世界が粉々に砕け散って現実に戻ってきたのか、それとも現実の世界を粉々に砕いて夢の世界に入り込んでしまったのか。
砕け散り、粉になって消えていった世界と、今僕が踏みしめている世界は、数寸の違いも無い。この日、この時、この場所特有の、蜜柑色の夕日がアスファルトを照らしつけているこの風景は、何も変わった様子は無いように見える。
僕だけが違っていた。
気味が悪い気もしないではない。血塗れの甲冑を纏った、血塗れの女性と相対して尚、こんな風に静かに冷えた精神を保っていられる事は不自然だ。言うなれば、アスファルトにへたり込んで脳内会議に勤しんでいたさっきまでの僕の方が、体裁はさておき、よほど現実的だと思う。
【感じるだろうか?】
そう問われるならば、「応」と返答せざるを得ない。
それは、声として届いたわけではなかった。聴覚に訴えるような音の類ではなく、脳の内側から、水面に雫を一粒落とした時の波紋のように広がる、信号のようなものだと思う。「感じるだろうか」という音があったのではなく、その信号がそのような意味を持っていた、としか表現出来ない。
【……詠唱を違えたか?】
「聞こえているよ」
額に、一番長い指と二番目に長い指の先を当てながら、僕は彼女に返答した。
言葉そのものが伝わったかどうかは解らないが、僕の言わんとしようとした事は、きっと伝わっただろう。安堵した彼女を見て、そう思った。
この信号は、彼女が発しているものだ。そう理解出来た。それはもう理屈ではなく、言うなれば既に、理屈や根拠や摂理など超越しているような現象が連鎖に連鎖を重ねている。
あ、そうか。夢か。
血塗れの甲冑を纏った血塗れの女性も。
同じく、返り血に塗れた物々しい剣も。
割れる世界も。
脳内に響く信号も。
夢だと、割り切ろうと思った。夢だと割り切れば、存外冷静でいられるものだ。下校途中に突然夢など見るものかと……考えはしまい。ここで重要なのは、夢か現実の真偽ではなく、夢であるという結論だ。
【驚かせてしまってすまない。決して君に危害を加える気は無い、安心して欲しい】
信じていいものかどうか、判断を迷った。彼女のような出で立ちをした人間に「危害は加えないよ」と言われて、はいそうですかと言えるほど、僕はお人良しでもなければ脳足りんさんでもないつもりである。
「これは何? 君の声が頭の内側から聞こえて来る。君が頭の中にいるみたいだ」
【君と私は、それぞれ別のコミニカを使用しているようだ。それでその……勝手だとは思ったが、君にカスカをかけさせてもらった。だから私はコミニカを用いる事なく君に意思を伝える事が出来るし、元より私はすべてのコミニカを理解出来る】
「……かすか? こみにか?」
聞き慣れない言葉だった。聞き慣れない言葉なのだから、僕は首を傾げるより他が無い。
【カスカはカスカで、コミニカはコミニカだ。知らない筈は無いだろう?】
妙な奴だなと言わんばかりに僕を見てしかめっ面を作るが、そこばく待たれよ、しかめっ面をしたいのはこちらの方である。
寝て、起きて、寝て、食べて、帰って、食べて、寝る生活を繰り返している僕のライフスタイルの中で、かすか、とか、こみにか、と言った言葉が頻繁に出て来た前例は無い。自他共にかどうかは判り兼ねるが、少なくとも自負という一点に於いては平凡の一途を辿っているであろうと予想出来る僕がその言葉を知らない以上、その言葉は一般常識ではない筈だ。百歩譲って、日常生活で比較的頻繁に使われる部類の言葉だったとしても、それを知らないからといって苦い顔をされるのは心外である。
「知らないよ。クレジットカードの仲間か何かかい?」
【本気で解らないのか? いや、そんな筈は……呼称が違うのか?】
迷惑な事に、彼女は僕の頭の中で考え事をし始めた。それは正に言葉通り「他人事」であり、自分の頭の中で他人事が沸々と波紋を打ちながら広がっていくのは、大いに気持ちが悪いものである。
【ポポロカならば或いは……っ! ポポロカ!】
推奨値を大幅に上回った電力を注入されたおもちゃのように、不意に彼女は目を見開いて辺りを見回し、何かを詮索し始めた。
「νφζθ、Σρ? θθφξ、ζδν!」
自分がここにいるのに、それがここに無い筈は無い。その狼狽した仕草からは、そんな意思が見て取れる。
ポポロカ、と呼ばれるものを探しているのだろう。それが生きた人間なのか、或いはペットに値するものなのか、はたまた生き物ですらない無機物なのかは解らない。当然、僕の辞書で「ぽ」を索引してみても、ポポロカなる単語の説明文などある筈も無い。
【小さな男の子だ! 君は知らないか?】
「少なくとも、僕がここに来てから見た人は君だけだよ。他には誰もいなかったし、君がポポロカと呼んでいるその男の子? も、僕は見かけなかった」
【……そう、か】
そう言ったきり、彼女は人差し指の第二関節を齧りながら思案に暮れてしまった。
不意に。
視界のコントラストが薄くなり、明度が徐々に高くなっていくのに気が付いた。眩暈や貧血に近い感覚である。
「っ……? 何だ? 何これ?」
【カスカが解けるのだ。早過ぎる……リオラの濃度が薄いのか?】
さほど置かずして、二本足立ちではバランスが取れなくなり、堪らず膝を地面につけてしまった。すかさず彼女が僕に駆け寄り、背中を撫でながら耳元で呟きかけて来る。女性特有の芳しい香りがしたが、それよりも強く、血の香りが僕の鼻腔を刺激する。
【これだけ教えて欲しい。ここはどこで、君は誰だ?】
わんわんと彼女の意思が頭の中でピンボールのように反射を繰り返し、遂には頭痛までしてきた頭で必死に考える。
道行く人に「ここはどこですか?」と聞かれたならば、何の疑いも無く「ここは三丁目の住宅街ですよ」と答えられる。
何故なら、前提条件があるからだ。この街に足を踏み入れるべくして踏み入れ、その末に道に迷ってしまったのだという前提条件があるから、そのように答える事が出来る。
彼女は、違う気がした。
カスカ。
コミニカ。
ポポロカという名の男の子。
何一つとして、理解出来るものが無かった。生まれも育ちもこの町である僕が解らないという事は、かなりの高確率で、それはこの町には存在しない、或いは普及していない文化、知恵なのかもしれない。首都からやや離れた場所にその身を置くこの町は、物の不足に悩まされがちで、なおかつ静かで緑の溢るる場なのかと言われれば首を傾げてしまう程度に、中途半端に田舎である。
おそらく、この町がこの町である事すら、彼女は知らないのかもしれない。
「ここは天照町。僕の名前は都。延岡都」
頭痛という悪条件の中、足りない脳みそをフル回転させ、その結果、それだけを搾り出すように彼女に告げた。
【アマテラチョウ……初めて聞く名だ。やはり、飛ばされたか……】
僕の背中を撫でる手の優しさとは裏腹に、口調……もとい、思調の端に漏れ出るほどの口惜しさが、その意思にはあった。
【迷惑をかけてしまったな、すまなかった】
そう僕に囁きかける彼女を見上げた。顔面に、罅が入っていた。罅は、首を伝って四肢に広まり、背中を撫でる指先から僕にまで伝わり、やがて僕の体から、彼女の体から、それぞれ空間にまで走り、空を覆いつくす。
【私の名はハユマ。もう二度と会う事も無いだろう。道中気をつけてな、ノベオカミヤコ】
空から空の欠片が降り落ちて、地面に消えてゆく。そうして空の欠片を吸い取った地面もまた、徐々に崩壊を始める。
そうしてすべてが崩れ去り、同様に砕け散ろうとしているハユマの背中を見つめながら、僕は一つの事に気が付いた。
そうだ。
甲冑の外面についているのだから、それは彼女の血ではないのではないか?