第二十二話 嵐の前
鈴虫が鳴いている。リンリンリンと涼しげで風情があるが、それを楽しむ余裕は今の私には許されていなかった。
大木に寄りかかりながら、胸元のライフルをぎゅっと抱き寄せる。
使い慣れた銃は人よりも頼りになる相棒だ。
三日前から始まったこの『演習』の間だけで、両手の指では数え切れぬほどのピンチを救って来てくれた。
弾数はもちろんのこと、グリップの凹み、銃身のわずかな歪みまでも手に取るようにわかる。
ああ、私のたったひとりの相棒。
できれば、あと一日でいい。
私を守って。
極限の疲労で霞む目をしばたきながら祈りを捧げた。
きいいいいいいい……
静かな夜更けにこすれる金属を思わせる音が響き渡った。フルスロットルの車に急ブレーキをかけたみたいだ、と私は初めに思い、すぐにそれが人の断末魔だということに気づいた。
またどこかで人が死んだ。
今度は誰だろう。
胸の中の相棒はなにも答えてくれない。ただ月のおぼろげな光を跳ね返してくるだけだ。
その輝きを私はきれいだと思った。少なくとも死体よりは。
きいいいいいい……
ああ、またどこかで。
けれどなにかが違う気がする。
ああ、そうか。
これは人を襲う叫びだ。
私は大木から飛びのいた。受身を取って転がった直後、今の今まで身を寄せていた大木に斧がその身を半ばまで埋めていた。
犯人の姿は見えない。探す必要もない。
なぜなら。
きいいいいいい……
銃を持つ相手に奇襲が失敗した以上、間合いを詰めてくるしかないからだ。
私と同じ迷彩服を身にまとった小柄な男が突っ込んできた。ヘルメットの下から鋭く血走った眼光がちらついて、獣のようだ。
殺して生きる。
文明や道徳から隔絶され、合理的な本能に突き動かされる魔獣。
不覚にも、私はそんな怪物にマウントを取られてしまった。ライフルは呆気なく私の手から弾き飛ばされ、鬱蒼と茂った茂みの中に失踪してしまった。
きいいいいい……
耳障りな叫びが私の耳朶を打つ。跳ね除けようと身をもだえさせたものの、首を掴まれてしまった。
男の口からヨダレが滴り、私の頬を伝った。
不快ではなかった。
私もまた、獣なのだから。
ぎぎぎ……
ぎっ!
一際大きな叫びをあげると、男の腕の筋肉が盛り上がった。
それは通常の成人男性が脳の血管が破裂するほど力を入れても膨らまないであろうほどの量だった。
パッと見た感じでは華奢と形容できていたはずの男の腕は、いまや丸太と見まごうほどの巨腕へと変貌していた。規格の合わなくなった迷彩服は破れ、その向こうにかまぼこのように膨張した血管が現れる。醜い、と私は思った。
節くれだった手のひらが細く脆い私の首を絞めてくる。砕こうとしてくる。潰そうとしてくる。
一気に視界が赤く染まり、
頭上の満月も真紅へ変わり、
私は――
***************
ふっとカガミは我に返った。見ると注いでいたコーヒーがカップから溢れる直前だった。
なみなみと注がれた黒い水面にいつもと同じ仏頂面の自分が映りこんでいる。
カップを口につけ、溢れる心配のない量まで飲み減らした。
舌がかゆくなるような苦味が口内に広がっていく。
(どうしてあんなことばかり思い出すんだろう)
どうせならもっとよい記憶を味わいたいものだ。
人間とは不思議なもので、思い出したくないと思えば思うほどかえって脳裏をよぎってしまう。夜トイレに起きた子どもが幽霊のことしか連想できなくなってしまうように。
そう、人は忌避したいはずのものを、なぜか捨てきれない。
自分もまた、そうなのだろうか。
わからない。いつも思考は、同じ座標へと流れ着く。
(私はただ、命令に従うだけ)
そう、それ以外に役目などないのだから。
いつの間にか飲み干してしまったカップを置いた。
その時。
「動くな」
後頭部にごん、と固い『なにか』が当たった。やや強い力でねじるように押し付けられる。
その役目を誇示するかのように。
この感触の正体がなにかは見なくともわかった。
それが仕事だからだ。
視線を目の端に寄せ様子を窺いながら、背後の人物に問いかける。
「どういうおつもりですか」
「……残念だけど、死んでもらう」
撃鉄ががちりと起こされる音を聞いても、カガミの表情にはほんの小さな歪みさえ起こらなかった。写真の中の寡黙な被写体のように微動だにしない。
拳銃を向けられるのは久しぶりだな、とのんきな感慨に耽る。
「どうした? もっと怖がってみせろよ」
「そんなものに怯えていては、ジャッジは勤まりません」
「それじゃ面白くないだろ」
「おふざけはもうよろしいですか、シマ様?」
カガミはするりと銃口をすり抜けて無邪気な襲撃者を振り返り――
――血まみれの笑顔に出くわした。
「いっ……も、もうちょっと優しく……」
「消毒液に言ってください」
邪魔な前髪を持ち上げ、額の傷に消毒液を浸したガーゼをポンポンと軽く当てる。
派手な出血だが、傷はそれほど深くはなかった。
「ご安心を。痕は残らないと思います」
「うう……沁みる……」
キッチンのダイニングテーブルに座らせられたシマは瞼をぎゅっと閉じて痛みに耐えている。
「ひどいですね」
「ん?」
シマはきょとんとしている。カガミはテキパキと処置をしながら続けた。
「馬場様が、です」
「ああ……やっぱり女の子突き飛ばすのはイケナイよね」
けれどそう言うシマの顔はどういうわけかニヤけている。
「そう仕向けたんだけど」
「……?」
「なんでもない。あ、そだ。クッキー食べたよ。おいしかった」
「ああ……召し上がってくださったんですか。ありがとうございます」
そういえばそんなものを休憩室に置いておいたな、とカガミは思い出した。片手間に作ったものだから相当薄味だったはずだが。
はぁ、とシマの口から珍しくマイナスオーラに満ちた嘆息がこぼれた。
「いいなぁ……」
「なにがです?」
「お菓子作れていいなって。超便利じゃん。いつでも食べ放題」
「面倒だから滅多に作りませんけど」
「ふうん。……誰かあげる人いないの?」
聖人のごとき笑顔を浮かべているシマの額にカガミはぐりぐりとガーゼをこすりつけた。
「いだだだだだっ!」
「手がすべりました」
「だ、ダウトっ……!」
「本当です。……包帯巻きます」
カガミは救急箱から小さなタンス状のケースを取り出し、その一番下から包帯を取り出した。
シマの背後に回り、フィルムケース大のそれをほどいて頭に巻いていく。
シマは大人しくされるがままになっている。
「カガミさんさ……この勝負、どっちが勝つと思う?」
「さあ。次の半荘次第ですから、どうとも言いかねます」
「そう言わないでさ、ね、正直どっちだと思う?」
カガミは一瞬ためらったのち、渋々答えた。
「……馬場様には、少々荷が重いかと」
「ふふ、そう」
「シマ様は馬場様が勝つとおっしゃるのですか?」
というより、そうでなければこうも平然とはしていられないだろう。
しかしシマの返答はカガミの期待から逸れた。
「いいや」
「……?」
シマは手のひらを顔の前にかざし、握り締めた。
「わたしは……もう数え切れないくらい、勝負をしてきた。だから今までの経験で、なんとなく運の盛衰はわかる。
天馬は勝てない。
絶対に。
わたしもあいつも、賽の目を操れる神様じゃないから」
「では、どうなさるおつもりですか」
「ふふふ、だからさ、とっておきの秘策を残しておいたんだ」
肩越しにシマがいたずらっぽく笑う。
「教えてあげようか」
「いえ、結構です」
あまりにもつれない返答にシマの肩ががくっと下がった。
「そっか……興味ないんだ……ふうん……そう……へえ……」
カガミは顕微鏡でしか観察できないほどの小さなため息をついた。
「……わかりました、気になります」
「だよね!」シマの顔にひまわりが咲いた。「そこまで言うなら教えてあげよう。耳貸して、耳」
「誰も盗み聞きなどしていませんよ」
「いいからいいから」
やれやれ、とカガミは耳をシマの口元に寄せた。
ふうっ……
っ……!
息を吹きかけられ、思わず声が出てしまった。
それを見たシマが膝を叩いて爆笑している。恥ずかしさでカガミの耳は熱くなった。
「……怒りますよ」
「ひっ……ひっ……だ、だって……スゴイ可愛い声出すんだもん……見かけによらず……ハハ……ふ、腹筋が……くく」
「……………………」
呆れて物も言えない。GGSの会員には変わり者が多いとは聞いていたが、初めての立会いでこんな変わり者のジャッジを任せられるとは、カガミの胸中に不安の暗雲が漂い始めた。
「ひい……。あー笑った。でもさあ、カガミさんが悪いんだよ。ぜんぜん表情変えてくれないんだもん。からかいたくなっちゃうのが人情ってやつだよ」
「そんなことをして、なんの意味があるんです?」
カガミのやや強めの詰問をシマはさらりと受け流した。
「意味って、何? 楽しいじゃん」
「理解できません」
カガミは不意に手当てを止めた。
ふわふわとした髪の間から垂れる包帯をおさげのように垂らしながら、シマがカガミの顔を見上げてくる。
「ねえ、怖いの?」
「え……?」
真正面から見たシマの瞳は、どこか秘奥にある湖面のごとき幽玄な光をたたえていた。
飲み込まれてしまいそうだ、とカガミは思った。
「立会いしてる時もさ、ずーっと緊張してるみたいだから、心配だったんだ。今日が初めての仕事なんでしょ?」
胸の中で心臓がどくん、と鼓動した。
「どうして……おわかりになったのですか」
「ふふ……大したことじゃないよ。
勝負の間さ、たまにスーツのすそで手のひら拭ってたよね?
緊張すると、顔じゃなくて手に出るタイプと見た。
どう、アタリ?」
「……よく、そんなところまで見ていましたね」
自分は表情のない人間だ、とカガミは自負し、また周囲からもそう評価されている。
だから己の性格や癖について指摘されることは稀有なことだった。
それをこの少女は、会って間もないカガミの深層心理に渦巻くプレッシャーを見抜いていた。
命が懸かっている勝負中に、まったく無関係な人間のことを考えていたのだ。
「君ってホントに鉄面皮で表情からはなにもわからないけど……ほんの少しだけわかってきたよ」
「……たとえば?」
いつの間にか、カガミの身体は無意識のうちにこわばっていた。
まるでこれ以上の情報を目の前の生き物に与えるのを拒むように。
「君はどこかで、普通の生活に憧れている」
カガミはゆっくりと首を振った。噛み締めるように。
「それはありません。間違いです。私は、この仕事に誇りを持っていますから」
「お父さんから受け継いだ仕事だもんね」
なぜ知っているのか、とカガミは聞き返さなかった。驚いた素振りも見せなかった。
これ以上、目の前の少女の思惑通りにさせたくなかったのかもしれない。
「どなたかからお聞きしたんでしょう」
「いや、全然。ただ、誇りなんて言葉、憧れている人間がいるから使ったんじゃないかなって。
だとしたら、家族か師匠か……まさか恋人ってのはないだろうと思って。君、ウブそうだし。ふふ」
「…………。確かに、父から継いだ仕事ですから、わたしは市井の人間にはなれません。でもそれを恨んだりなど……」
「してないけど、どこかで思ってもいる。ちょっとでいいから覗いてみたい……って」
カガミの手のひらに、じっとりと汗が滲んでいた。
「だとしたら、なんだというのです」
シマは身を乗り出し、唇が触れ合いそうなほど顔を近づけてきた。
「賭けをしよう」
カガミは動じず、睨みつける。
「私と、ですか?」
「そう。さっき話そうと思った――ごめんごめん、もうしないから――策を今から君に話す。
それが成就するかどうかの、ギャンブル。
勝った方が負けた方に、ひとつだけなんでも命令できる」
「凝りもせずに……」
「性分なんだよ。どう? ワクワクしてこない?」
「しません。が……いいでしょう。
まずその策とやらをお聞かせください。でなければ受けられません」
「じゃあ話そう。あのね……」
ふうっ……
「ぶちますよ?」
「ご、ゴメンナサイ……」