第三十六話 かくれんぼ
「はい、どうぞ」
「サンキュ」
家に帰る途中で休憩がてら寄った公園のベンチに二人は並んで腰掛けていた。
シマがコンビニで買ってきたお茶のペットボトルを受け取ると、天馬は一息で半分近くまで飲み干してしまった。
なにもかも終わってから、失われていた空腹や渇き、痛みなどの感覚が一気に戻ってきた。
「痛むでしょ、手出して」
「ああ……」
雨宮に刺された手の甲の傷は貫通こそしていたものの、それほど深い傷ではなかったようで、シマが応急手当してくれるとある程度痛みは治まった。
それでも消毒液をかけられた時は情けない苦悶の声を彼女に聞かせることになってしまったが。
「なぁ、シマ――」と天馬は包帯を巻き終えてホットココアを啜っている少女に言った。
「オレを弟子にしてくれよ」
ぷっと吹き出されてしまった。
「弟子ぃ? 君がねぇ……」
「なんだよ、なんかおかしいか」
「ずいぶん態度の大きいお弟子さんだなと思って」
そう言ってふふふ、と楽しげに喉を鳴らしているシマを見ていると天馬は益々彼女に惹きつけられてしまった。
「マジメな話だよ。オレはおまえについてく。もう決めたんだ」
「そりゃご立派なことで。それで、ついてきてどうするの? 結婚でもする?」
「けっこ……い、いや、そういうことじゃねェ」
「赤くなってる」
「うるせェ! いいから聞いてくれよ」
「ハイハイ」
まだ幾分か聞き手の態度に不満は残っていたが、天馬は語り始めた。
「……オレ、今日わかったんだ。オレが求めていたのはギャンブルだったんだって。
こんなにも苦しくて、でも楽しいと思えることがあるなんて知らなかった。
学校もやめて、家にももう帰らない。誰も待っちゃいねえからな。
おまえと博打を打って暮らしていくよ」
天馬は真剣だった。少なくとも嘘をついているつもりはなかった。
だのに告白を聞くシマの瞳の奥にあったのは、ただ無味無臭なる無感動だった。
彼女はつまらなそうに空き缶をゴミ箱に投擲した。外した。
カラカラとステンレスの筒が地面を転がった。
「君が今夜どう思ったか知らないけど……あるわけないじゃん、君にギャンブルの才能なんて」
天馬はムッとした。
「なんでおまえにわかるんだよ。今日、オレはおまえの想像以上の働きをしたぜ。
おまえに裏切られたと思った時だって諦めなかったんだ」
「勘違いしないで欲しいんだけど、君を侮ってるとか、軽く見てるとか、そういうことじゃないんだ。
ただ誤解してるのは君の方だってこと」
「オレ……?」
「君が心を燃やしたのは博打にじゃない……いや、広い意味では博打なのかもしれないけど、少なくともそれは、麻雀やパチンコで食べていくとかそういった類のものじゃないと思う」
「なにが言いたい」
「君はもう目覚めたんだ。自分の心を君のコンパスにすればいいだけなんだ。
わたしになろうなんて、やめた方がいい」
天馬が言わずにおいたことを、シマはあっさりと口にした。
「どうしてだよ。オレはおまえみたいになりたいんだ。
そう思うことが悪いのかよ、シマ……」
シマがなにか言っている。
言いたいことはハッキリ言えよ。よく聞こえねえぜ。
おい、どこへいくんだ。
なぁ、ちょっと待ってくれ、置いていかないでくれ。
一人はやっぱり怖いんだ。
オレはおまえと……
おまえを……
まぶたを開けると、バッチリと目が合った。
近所に住んでいるのだろうか、鼻に絆創膏を貼り付けた少年はこちらを振り返りながら走り去ってしまった。
天馬は起き上がって首の付け根をさすった。ひどく頭痛がして、頭の中に鉛を詰め込まれたような気分だった。
しばらくボーっとしていたが、覚醒してるんだかまどろんでいるんだかわからない意識の中で、自分が公園のベンチに腰掛けていること、いまが昼であること、遠くから井戸端会議している奥様方が不審な視線を送ってきていることを感覚していた。
そして爆発的に記憶を取り戻した。
「シマ!」
首をブンブン振り回して辺りを見渡したが、バイクが停めてあった場所はもぬけの殻。
天馬は額を片手で覆った。くらくらした。
「なんなんだよ……」
どうして自分から逃げる必要があるのだ。そんなに弟子入りされることが嫌だったのか。
だったらそうと言えばいい。
こんな結末はシマらしくないように思えた。
ふと視線を落とすと眠りに落ちる直前に飲んでいたペットボトルが転がっていた。
拾ってためつすがめつしてみると、側面に小さな穴が開いていた。ちょうど注射針でも通したような穴だ。
おそらくここから睡眠薬かなにかを注入したのだろう。
天馬は少し離れたところにある砂場の奥の茂みにペットボトルを投擲した。
そしてベンチに横になって目を閉じた。と思ったらすぐに跳ね起きて、体中のポケットをひっくり返し始めた。コメディじみた所作だったが本人は至って真剣だ。
やがて崩れるようにドッとベンチに背を預けた。
雨宮家の財産引き受けチケットは水泡のように消えてしまっていた。
青い空が無関心そうに天馬を見下ろしていた。
平日の真昼間から住宅街をうろつくというのは背徳的でありながら牧歌的であるという、なんとも矛盾した行動だったが、それがまた格別に楽しい。
天馬もまた例外ではなく、少年のように心をときめかせながら普段とは違った顔を見せる街を歩いていた。すれ違うのは老人ばかりだった。
そしてある建物の前で足を止めた。顎を突き出してその頂を眺めた。
シマのマンションはオートロックなどの七面倒くさいシステムを採用しおておらず、いつでも誰でも簡単に入れた。
エレベーターを使う気にならず階段を登り始めた天馬だったが、三階の踊り場を前にして後悔していた。
ただ足を上下させているだけなのに意外と体力を持っていかれてしまい、情けないことに息が上がっていた。
ゼイゼイ言いながらなんとかかんとか、シマの部屋の前に辿り着いた。
チャイムを鳴らした。予想していたがやはり反応がなく天馬は肩を落とした。
(鍵を借りようか、でもなんて言おう。弟とでも名乗るか……でも見た目だけなら、オレが兄貴に見えるんじゃないかなァ)
そして試しにドアノブを捻ると、スッと隙間が空いた。
驚いたが、本当にあっけに取られたのは中に入ってからだった。
なんにもないのだ。
引っ越してきたばかりのようにフローリングの床が広がっているばかりで、なんにもありはしない。
住人も、彼女の生活していた残滓もなにも感じられない。
まるで最初から誰もいなかったかのようだ。
天馬はそこで再び途方に暮れてしまったのだった。
なんとなくフローリングのど真ん中に腰を下ろしてみたものの、特に妙案も思いつかず結局立ち上がってシマの部屋を後にした。
一階の管理人を訪ねると、今度はちゃんと本人が応対してくれた。
○○号室の姉に会いに来たのだが、誰もいない。どういうことか。
老木みたいに枯れてしわくちゃの老人はフンと鼻を鳴らした。
「知らないよ。昨日いきなり引っ越しちゃった」
ちなみに書き忘れていたが、天馬は丸一日昏睡していたので、昨日というのは麻雀を終えてから始まった日のことである。
「どこへ行くとか言ってませんでしたか」
「あたしゃシマさんの声も聞いちゃいないよ。電話で連絡もらっただけさ。ま、今月分の家賃の余剰分を返さなくていいって言うから、いいんだけど」
「大学の側に越していったんですかね。どこだろうなァ」
天馬はカマをかけた。シマの大学の名前を老人が喋ってくれないかと期待したのだ。弟のはずの自分が姉の大学を知らないのはまずい。
しかし老紳士の返事はあっさりしたものだった。
「何言ってるんだい。あの人は大学なんか通ってなかったよ。家にいるか、ずっと帰ってこないかのどっちかだったさ。
……あんた、ホントに弟さん?」
天馬はそそくさと礼を言ってその場を立ち去った。老人もそれ以上追及しようとはしなかった。
それから日が暮れるまで、天馬は街を彷徨い歩いた。
目についた雀荘やパチンコ屋に入って客の顔を検めてみたりしたものの、ついぞシマを見つけ出すことはできなかった。
似た面影を見るたびに勢いをつけて振り返るのだが、その度に失望に胸が沈んだ。
(シマ、どうしてだよ。理由を教えてくれ。それだけでいいんだ。
オレじゃいけない理由が欲しいだけなんだ……)
答えをくれるハズの天使は、かくれんぼの名手でもあったようだ。