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デブシマ9話『異能と狂気』

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 錐揉みしながら墜落する飛行機のように、シマは吹っ飛び隣の円卓をひっくり返した。聞くものの頭を打つ甲高い音が響き、テーブルクロスが宙に舞う。
 とても女の子が受けるような処遇ではなかった。
 豪華だが、きっとどこかの金持ちが犬の糞を踏んだ靴で踏みしめたカーペットに顔を埋めたまま動かないシマを見下ろして、ようやくデブチィは溜飲を下げたらしい。満足気に顎鬚を撫でながら眼を細めている。
 黒瀬は表情を消していた。それが彼の自制心によるものなのか、それとも忘我しているだけなのかは外面からは窺い知れなかった。
 だが、仮に彼が駆け寄ってきたとしても、シマは差し伸べされた手を振り払っただろう。
 ゆらりと立ち上がった彼女の顔面に埋め込まれている両目、その中で燃え上がる炎がそれを雄弁に物語っていた。
「よォし――気合入った」
 乱暴に椅子を起こすとドサッとケツを落として鋭い上目遣いをデブチィに突き刺す。
 それを受けてデブチィはフンと鼻で笑った。
「どうした、怒ったか。おまえが悪いんだぜ」
「怒る……? 勘違いしないで。
 わたしは嬉しいんだ」
 シマはゆっくりと確かめるように拳を握り締める。強く固く揺らがず。
「受けた痛みが大きいほど、それを相手に返した時の快感になる。
 忘れないでね、いまのこと。
 ……瞬間記憶能力者さん」
 髭をいじるデブチィの手が固まった。



「なんのことやら。証拠があるのか。言いがかりつけて勝負無効にしようなんざ、おめでたいやつだな。GGSはそんなに甘い組織じゃないぜ」
「よく喋るなぁ」
 デブチィは黙り込んだ。シマはふふ、といつもののように微笑んで、
「ま、いいよ。いまさらそれがどうこうってわけじゃないから。
 ああもういいから早く二回戦始めよ? ね?」
 シマはそわそわして足をパタパタとウチワみたいに振った。勝負が待ちきれないらしい。
「では、シマさまの先攻です」
 機械音声かと思うほど色をなくした黒瀬が宣言し、シマは身を乗り出して画面を眺め渡した。
 52枚のカードがランダムに配置されている。
 デジタルだからといって規則正しく並べられてはいない。散った桜の花びらのようにてんでバラバラだ。
 この中に果たして勝利へと導いてくれる道は隠されているのだろうか。
 赤赤赤と来たルーレットに、さらに赤を張って勝つように。
 シマは白い手で淀みなく二枚のカードをタッチした。
 5と6。
 シマは眉をひそめたりもしなければ、舌打ちもしない。
 ただありのままの現実をシマは受け入れる。
 いつだって。


 シマのせいで二回戦はカードオープンなしの場となってしまい、デブチィもストレート勝ちを封じられてしまった。
 けれど優位は揺るがない。一度開いたカードはすべて記憶できるのだから。ミスは絶対にありえない。
 それになにより三戦目は再びデブチィの先攻なのだ。
 こればかりはどうにもならない。ルール上の決定事項だ。
 またタバコを飛ばしてこようが、弁慶の泣き所を腫れるほど蹴られようが、自分は画面から目を離さないだろう。
 だから問題ない。
 この二回戦は勝っても負けてもいい。
 そんな気楽さが引き寄せたのか、デブチィは初っ端でペアを引き当てた。
 ほぼ確実に三回戦は拾えるが、できることなら二回戦で決めてしまいたい。
 勝負事では何が起こるか分からないのだから、勝てる時に確実に勝たねばならない。。
 デブチィはゆっくりたんまり時間をかけてからカードを選択した。
 合致。
 唐突にデブチィは寒気を覚えた。それは博打で罪悪感を覚えるほど勝ちこむ時の、あの感覚だった。
 ツイてる。
 どんなに暴虐知略を尽くそうと、最後にモノを言うのはツキ。
 それがないやつから堕ちていく。
(博打の神様は)
 呼吸することさえ憚れる静寂の中、デブチィはカードをめくっていく。
(俺の方が好みだとさ)



 運ばれてきた料理をデブチィが美味そうに貪り食っている。食事をしているのか料理に溺れているのか分からないような食い方で、ちゃんと味わっているのか疑わしい。
 結局、デブチィは最初のターンだけで6ペア合致。
 液晶左下のデブチィの枠に獲得手札数が表示される。
 勝利まで、あと8ペア。
 表にされていた4とQが転覆し、幾何学模様の描かれた裏面を見せつけてくる。
 それでもシマは諦めない。
 油断しまくって腕組みしながら踏ん反り返っているデブチィを無視し、少なくなってしまったカードに全神経を集中させる。
 一発で当てる必要はない。
 いまデブチィは最後にダイヤの4とハートのQを表にした。
 そして4とQはデブチィに一度も回収されていない。六枚ある。
 この中から4かQを引き当てられれば、先ほどの記憶と照らし合わせて1ペアは回収できる。
 シマもデブチィと同じように時間をかけてカードを選別する。
 一度手を伸ばしかけては引っ込め、札の海の洋上を旋回していたが、やがて薄く笑みながら、ひとつのカードをちょんと押した。
 カードが裏返る。鼓動が高まる。
 いつつの葉っぱ。
 クラブの5。
 電撃を受けたように、シマの笑みがぴくくっと引き攣った。
 生唾を飲み込みながら、二枚目を開けるも、合致せず。



 油断しているつもりはなかった。それでもデブチィが最初よりも短い時間でカードを選んだことに違いはない。
 そんな時は油断大敵、因果応報、痛い目に遭いそうなものだが逆にその無欲さがまたもやペアを引き当てた。
 これで9ペア。
 すでにデブチィの舌根はシマの味を想像して身もだえしている。
 どこから手をつけようか。歯ごたえのありそうな肩やわき腹、ふとももは後回し。
 指先から少しずつ齧っていくってのも悪くないな――。
(む……)
 4と7を引いた。4は先ほど一枚表にされたので、シマがさっさと取ってしまう。初ペアだった。
(自分で引き当てたんじゃなく、こっちのミスに便乗しただけ。問題ない、こいつァいま落ち目なんだ)
 デブチィがそう思うのも無理はない。シマは口元を手で覆い隠し、言い訳できない冷や汗を額に浮かべ、目を忙しなくあっちこっちへ飛ばしている。
 ある一枚に触れた――かと思うと電撃を受けたように手を離した。
「おい、どれを選んだって同じだよ。さっさとしてくれ」
「うるさい……」
 口ではそう言うが、シマはすぐに一枚選んだ。
 7。
 悲鳴を上げた。
「ラッキーセブンッ!」
 前回デブチィが表にした7をパシィと叩いてオープン。これで2ペア。
 ほっと一息ついた。
 それでもまだ敵の背中は遠く存在さえも感じられない。
 表になったカードはQと5のみ。
(引いてやる)
 ごくっと生唾を飲み込む。
 寒い。窓が開いているんじゃないだろうか。けれど窓ガラスはすべて閉じきりだ。
 傷ひとつない白い指でカードにタッチ。開かれる。
 ダイヤの5。
 ご存知の通り、クラブの5は一度開かれている。
 3ペア目だった。
 殴られた頬が赤く腫れていたが、シマはとっくにそんなこと忘れていた――



 ファンファンファンファン――
 デブチィが窓ガラスの向こう、銀河のように輝く夜景に視線を走らせた。
 バクチ常習のサガとして、警察の存在に他人より敏感にならざるを得ない。今も、デブチィが外を見たのはサイレンの音よりも一瞬だけ早かった。
 シマはそんな外野には目もくれずに集中している。
 4ペア目も――とはいかず、2と4を引いてシマの二ターン目は終了を遂げた。
 腕組みをしながら指で二の腕を神経質にノックしている。デブチィの引くカードが気になって仕方ないという風情だ。
 その様を見てさぞかしデブチィは喜びそうなものだか、この男の顔は一転して暗かった。
(2と4か……)
 2のペアはすでにデブチィが一組、そして4のペアは一組シマが獲得している。
 だからこの場の中に2と4はひとつずつしかない。それを引ける確率は低い。おそらく別のカードを引いてシマの助けになってしまうだろう。
(できれば、初札のJ、10は避けたい……)
 その二種はいまだにカードの海に埋没したままの三種だった。
 この二種のいずれかをデブチィが表にし、ペアにできなければ、次の順のシマはわずかに有利となる。
(できれば一枚見えているハートのQ、こいつを取るために別のQを引ければ……!)
 デブチィは真剣になっていた。カードもよく吟味した。
 それでも避けられなかった。
 勝負の女神はそう簡単に微笑んではくれない。
 まるで人の苦しむ様を望んでいるかのように。
「ダイヤのJ、ハートの10」
 シマが嬉しそうに、デブチィの札を紹介した。



 シマのツキ目だった。
 デブチィが危惧していたとはいえ、初札のJと10を都合よくシマが引ける確率は低かった。杞憂といっても過言ではなかった。
 しかし今、シマの獲得絵札数は10枚。
 連続で10、Jを引きデブチィの札と合わせてしまったのだ。
 これで5ペア。
(まァいいさ、もし負けたって)デブチィは思う。
(次があるさ)
 その考えがよくなかったのだろうか。
「よっし引いたァ!」
 男の子みたいな嬌声を上げてシマが大きく仰け反った。
 Kのペアを一発引き。カードが残り少なくなってきているから当たる確率は上がっているとはいえ、まだ微々たるものだ。
 やはりツキの流れはシマに偏り始めている。
 デブチィは長年の経験と野生のカンで、その幻想を現実として捉えた。
(慌てるな、落ち着け、勝ちに急ぐな。
 俺は負けない。俺は負けないんだ)
 恐れる必要はない、わかっているのにデブチィの心中を焦慮の風が吹き荒れていた。
 そうしてしばらく、普通の神経衰弱の展開が続いた。
 デブチィとシマがそれぞれ外し、カードのありかが判明すれば、それを取れるものが取る。
 どちらも当たり前のようにミスをしない。
 瞬間記憶を有するデブチィはともかく、一般人であるシマが極限のプレッシャー下でミスをしないというのは、さりげないようで驚くべき脅威なのだった。
 大抵の人間は精神のバランスを崩し『覚えているのに』外す。
 彼らが何を見て何を間違えたのかは、彼らにしかわからない。
 それがギャンブルの正体なのかもしれなかった。
 この少女は何を見ているのだろう。
 ゲームは終盤戦に入っていた。
 デブチィ10ペア。
 シマ10ペア。
 同点である。
 デブチィが2と3を引き、シマのターンに移行したところだった。
 カード枚数は残り10枚。
 逆転されて、そのまま終わってしまう可能性も十分ありうる。
(大丈夫、大丈夫。なにを恐れてるんだ、俺は)
 デブチィはよく働こうとする心臓の肩を揉んでやりたい気分だった。
(仮に万が一、負けたとしたって、二億なんざはした金だ。くれてやったって問題ない――)
 そう、そのはずだ。
 なのに。
 なのに……。




 言われるまでもなく、シマもここで勝ち抜けば一発逆転、デブチィにターンを回すことなく二回戦終了を視野に入れていた。
 残りのカードセットは2と3、Q二組(一枚はすでにオープン済み)、A。
 デブチィが今引いたばかりの2と3を引きたい。
 ここで負けたら喰われるだけだ。
(ふふ……)
 自分は死ぬ時、どんな声を出すのだろう。
 破滅の時を、なぜか想像する。
 考えたくないことが脳裏を占める。
 見たくもない深遠に……惹かれる。
 シマはカードを開けた。
 ハートの2。


 その札を目にした瞬間、デブチィは二回戦を捨てていた。
 このままシマが勝ちきるだろう。
 最初のリードを跳ね返してしまうとは思っていなかったが、さほど珍しいことでもない。
 博打をしていれば、浅墓な狸の皮算用など無意味なのだ。
 だから、暗い洞穴となったその目の奥に日差しが再び差し込んだのは、シマが新たに引いたカードを目にした時だった。。
 3。



 午前四時を回っていた。
 いつの間にかタバコが切れていた。
 運ばれてきた三ツ星料理に目もくれなかった。
 いろんなことが重なり、油断ではなく、勝負の綾とも言うべきものがシマの意識をほんのわずかな瞬間だけ混乱させた。
 そしてその刹那に、シマはカードを引いてしまったのだ。
 己の命運が乗ったカードを。
 徹夜が苦手。
 バクチ打ちとして最悪の欠陥。


 受け入れるだけだ。
 どんな失態を演じようと、ミスを犯そうと、逆に成功しようとも。
 自分の行動を認めてやること。
 忘れないで覚えておいてあげること。
 どう考え、悩み、決めたのか。
 それさえ覚えていられたら、それでいい。
 そう思って生きてきた。
 だから今もそうするだけだ。
 シマは全体重を椅子に預けて、目を閉じた。


(勝ったッ!)
 デブチィは水面下を泳ぐ魚を狩る鳥のごとき俊敏さで2と3のペアを獲得し、新たにクラブのクイーンを引いたところだった。
 最後の最後でやってくれやがった。
 やはり粋がっているだけの子どもに過ぎなかった。
 などとは、デブチィは決して思わない。
(おまえは本当にいい相手だったよ)
 対戦相手から食事へと変質していくシマを、デブチィはいとおしげに眺めた。
(おまえみたいなやつと博打ができてよかった)
 デブチィは12ペア。開かれたカードはクラブのQ。
 そしてハートのQは、シマが最初のターンに開いたあのカードはいまだに眠ったままだった。
(これで13ペア。引き分けは確定。だが恐らく今の俺なら絵合わせできる。
 さよならシマあやめ。
 こんにちは、ハートの女王――!)
 デブチィは液晶に手のひらを叩きつけた。

 スペードのエース。
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