夏になったら帰ってきてね
ハイスクール高校
01‐Unproducing man
俺は美術室の四角い椅子の上でもう半日以上唸り続けていた。
「石の上にも三年というじゃないか」
と言いながら、美術部顧問の石橋先生が俺の横へとやって来た。俺はその言葉を聞いて俯く。すると頭をがしがしと鷲づかみにされる。この先生のこういう所が好きだ。こうするだけで簡単にこころを落ち着かせて、全てが許されるような気分になる。その瞬間、俺の頭の中には黄色くて暖かな、ふわふわとしたイメージが浮かぶ。俺はぱっと顔色を明るくし、先生に向って叫ぶ。
「出てきました!先生!俺、描けそうです!」
そうか、と漏らすと一歩下がって、描いてみろ、と言う。そして俺の腕は、25号の真っ白なキャンバスを前にして、活き活きとしたラインを描き出す。・・・はずだった。
「先生」
「どうした?もう終わりなの?」
「見られていると思うと、緊張しちゃって」
「そうか。・・・それは悪い事をした」
そして溜め息を吐くと、石橋先生は部屋から出て行く。あるいはその溜め息は俺の幻聴だったかもしれない。また、幻滅されてしまった。そしてその後、学校がしまる時間まで俺はずっと残って描こうとしたが、結局何を描くことも出来ず。俺はとどのつまり、何も生み出す事ができない男だ。蝉時雨が和らいで、夏もそろそろ終わりに差し掛かろうとしている頃のこと。白いキャンバスに穴をあけ、何もかもを捨てて、逃げ出した。
01‐Unproducing man
俺は美術室の四角い椅子の上でもう半日以上唸り続けていた。
「石の上にも三年というじゃないか」
と言いながら、美術部顧問の石橋先生が俺の横へとやって来た。俺はその言葉を聞いて俯く。すると頭をがしがしと鷲づかみにされる。この先生のこういう所が好きだ。こうするだけで簡単にこころを落ち着かせて、全てが許されるような気分になる。その瞬間、俺の頭の中には黄色くて暖かな、ふわふわとしたイメージが浮かぶ。俺はぱっと顔色を明るくし、先生に向って叫ぶ。
「出てきました!先生!俺、描けそうです!」
そうか、と漏らすと一歩下がって、描いてみろ、と言う。そして俺の腕は、25号の真っ白なキャンバスを前にして、活き活きとしたラインを描き出す。・・・はずだった。
「先生」
「どうした?もう終わりなの?」
「見られていると思うと、緊張しちゃって」
「そうか。・・・それは悪い事をした」
そして溜め息を吐くと、石橋先生は部屋から出て行く。あるいはその溜め息は俺の幻聴だったかもしれない。また、幻滅されてしまった。そしてその後、学校がしまる時間まで俺はずっと残って描こうとしたが、結局何を描くことも出来ず。俺はとどのつまり、何も生み出す事ができない男だ。蝉時雨が和らいで、夏もそろそろ終わりに差し掛かろうとしている頃のこと。白いキャンバスに穴をあけ、何もかもを捨てて、逃げ出した。
ハイスクール高校
01.Unproducing man
俺はもう美術室の四角い椅子の上で,半日以上うなり続けていた。
「石の上にも三年というじゃない、元気出しなよ」
と言いながら、美術部顧問の石橋先生が俺の横へとやって来た。俺はその言葉を聞いて俯く。すると頭をがしがしと鷲づかみにされる。この先生のこういう所が好きだ。こうするだけで簡単にこころを落ち着かせて、全てが許されるような気分になる。その瞬間、俺の頭の中には黄色くて暖かな、ふわふわとしたイメージが浮かぶ。俺はぱっと顔色を明るくし、先生に向って叫ぶ。
「出てきました!先生!俺、描けそうです!」
そう、と漏らすと一歩下がって、描いてみな、と言う。そして俺の腕は、25号の真っ白なキャンバスを前にして、活き活きとしたラインを描き出す。・・・はずだった。
「先生」
「どうした?もう終わり?」
「見られていると思うと、緊張しちゃって」
「そう。・・・それは悪い事をしたね」
そして溜め息を吐くと、石橋先生は部屋から出て行く。あるいはその溜め息は俺の幻聴だったかもしれない。また、幻滅されてしまった。そしてその後、学校がしまる時間まで俺はずっと残って描こうとしたが、結局何を描くことも出来ず。俺はとどのつまり、何も生み出す事ができない男だ。蝉時雨が和らいで、夏もそろそろ終わりに差し掛かろうとしている頃のこと。白いキャンバスに穴をあけ、何もかもを捨てて、逃げ出した。
01.Unproducing man
俺はもう美術室の四角い椅子の上で,半日以上うなり続けていた。
「石の上にも三年というじゃない、元気出しなよ」
と言いながら、美術部顧問の石橋先生が俺の横へとやって来た。俺はその言葉を聞いて俯く。すると頭をがしがしと鷲づかみにされる。この先生のこういう所が好きだ。こうするだけで簡単にこころを落ち着かせて、全てが許されるような気分になる。その瞬間、俺の頭の中には黄色くて暖かな、ふわふわとしたイメージが浮かぶ。俺はぱっと顔色を明るくし、先生に向って叫ぶ。
「出てきました!先生!俺、描けそうです!」
そう、と漏らすと一歩下がって、描いてみな、と言う。そして俺の腕は、25号の真っ白なキャンバスを前にして、活き活きとしたラインを描き出す。・・・はずだった。
「先生」
「どうした?もう終わり?」
「見られていると思うと、緊張しちゃって」
「そう。・・・それは悪い事をしたね」
そして溜め息を吐くと、石橋先生は部屋から出て行く。あるいはその溜め息は俺の幻聴だったかもしれない。また、幻滅されてしまった。そしてその後、学校がしまる時間まで俺はずっと残って描こうとしたが、結局何を描くことも出来ず。俺はとどのつまり、何も生み出す事ができない男だ。蝉時雨が和らいで、夏もそろそろ終わりに差し掛かろうとしている頃のこと。白いキャンバスに穴をあけ、何もかもを捨てて、逃げ出した。
街まで走る。陽はとっくに山の向こうに降りてしまっている。走り疲れると息を切らして立ち止まる。隣には店の窓。そこに映っていたのはおよそ全ての負の感情を浮かべた、泣き出しそうな男の顔。何故だろう、笑いが込み上げて来た。俺は道化だ。壊して逃げ出して、辿り着いたこの場所で、涙を浮かべながら笑っている。道化じゃなかったら何だと言うのだろう。
俺は自分の家に辿り着くと、玄関の鍵を開けて入りこむ。俺の家は1LDKのアパートだったので、泣き顔を誰にも見せずに済んだ。もしこれが前の実家のままだったとしたら、最悪な事態になっていただろうな。そう考え、ふ、と俺は微笑を浮かべると、力も無くベッドに横たわる。
―そんなだからお前は、何も産み出せずにいるんだ―
と、浅い眠りに捕らわれるかどうかという所で、頭の中で声がする。それは父親の声だ。辞めてくれ。勘弁してくれよ。何でいつまで経っても俺の邪魔をするんだ、父さん。
―お前など、消えてしまえ―
嫌だ、聞きたくない。こんな声、聞きたくない。
―ごめんね、ごめんね―
それは母さんの声。
―本当にごめんね―
やめてくれ。そんな事を言わないで。
―産んでしまって、ごめんね―
「やめてくれ!!」
と絶叫しながら目が覚める。おぼつかないまま、俺は立ち上がると、部屋の中を行ったり来たりしていた。意識が明確になると、俺は思い出す。そうだ、絵を描かなくては。俺はさっそく机に向って、紙と鉛筆を用いて、絵を描き出す。最初は良い。だがその内駄目になってしまう。そうだ、いつも俺はこうなんだ。何をしても駄目で、続かない。小さい頃から俺は習い事を沢山、それは沢山やってきた。だがそのどれもが中途半端、いつも投げ出してしまうのだった。そう、いつもそうだ。続かない。今日だって、キャンバスを目の前にして感情が爆発してしまった。気が付くと朝に成っていた。今日はたしか、始業式がある筈だ。だがそんな事を考える余裕は無かった。目の前に紙がある。ならば俺はそれを埋めなければならなかった。こういうのを強迫観念と呼ぶのだったか、どうだったか、よく思い出せなかった。母親の悲痛な、父親の怒鳴るような、それぞれの声がずっと頭の中で反響していた。
朝焼けの陽が窓の向こうの山の上から昇り、照り付いていた。
長い休みがあけて、始業式が行われた。
美術室に大きな白いキャンバスが一枚あった。まだ絵の具も載っておらず、立派に使えたはずの白い紙のど真ん中には、男子高校生のこぶし程の穴がぽっかりと、むしろがっつりとあいていた。始業式が終わり生徒達が帰宅する頃、それを見つけた美術部員の女子が、携帯のカメラで撮影していると、美術部顧問の石橋貴子(いしばし/たかこ)がぼかっと頭を殴りつけ、携帯電話を取り上げた。
「いだっ・・・!げっ、たかちゃん先生!」
その小さな女生徒は、いつの間にか背後に近づいていた女教師を見上げておののく。
「こぉーら、こんな物持って来ちゃいかんだろ~が?」
そう言いながら、石橋貴子教諭は女の子の携帯をにらみ、不手際ながらも操作した。
「あっやべ、すまん。二階堂・・・全部消しちゃった」
その女の子は携帯を引っ手繰ると、画面を見つめてあんぐりと口をあけて叫ぶ。
「私の二年間の思い出が!」
その顔を見て思わず石橋は笑ってしまう。
「あっはは!ははは、いやあすまん、すまんこ」
「すまんこ、じゃねえよ!この!この!返してください!私の思いでえ!」
ぼかすかと石橋を殴りつけているこの娘の名前は、二階堂史絵(にかいどう/ふみえ)。140cm後半くらいの小さな、黒い髪が肩まで伸びた可愛らしい美術部員の、中学、この高校とで合わせて14個の賞を獲得した女の子。多作で作品に広がりがあって、文句無く実力もあり見所もある、言わば天才という名がふさわしい女の子だった。
「うう~。弁償して下さいよお、たかこせんせえ!」
「べんしょぅお?こんなもん学校に持ってくる方が悪いだろ!」
今朝、学生達が登校してくる前の早い時間に、美術室に入って驚いた。最近目を掛けていた生徒のキャンバスに、たぶん誰かが殴った痕のような、大きな穴が開いていたからだ。たぶんというか、間違いなくその穴はその生徒自身で開けたものだろう。彼は悩んでいた。彼は傷つきやすい、どこにでもいる普通の10代の若者だった。そんな彼がこんな天才的な女の子に笑いものにされたとなっては、彼が抱えた苦悩という爆弾によけいな推進剤を投入して、導火線に火を付けるも同然だ。だから貴子はいま、この女の子が携帯で余計な真似をしないよう、事前に火を消し止めたのだった。問題のキャンバスを見つめると、貴子はおおきな溜め息を吐いた。
「二階堂、このキャンバス、誰のものだか判るか?」
二階堂は大きな瞳をぱちくりとさせると、頭を縦に振り、そのキャンバスを振り返ると、石橋に向き直って言う。
「勿論ですよう。わかんないんですか?この真っ白いようだけれど、よく見ればうっすらと試行錯誤の後。描き悩みのあとが見えますよね、という事は、犯人はいっつも作品を描き挙げられない人!そして、見てください、背後の木枠まで粉砕したこの大きな穴!だいぶイラついちゃったんでしょうねえ~。気持はわかります。私も一度はやってみたいですもの!」
「ああ、わかったわかった。もういい、それ以上言ってやるな」
貴子はさらに深い溜め息を吐く。よく見てみると、なるほど観察眼鋭いこの娘の言う通り、彼のパンチはキャンバスを張る木枠まで叩き折っていた。
「二階堂」
「はい?」
二階堂の眼差しは純粋無垢、幼い子供の目だ。好奇心で満ち溢れていて、それだけにキズ付きやすいものの触り方というものを心得ていない。才能のあるこの子だからこそ、解からせてやらなければならなかった。解からせてやりたかった。二階堂の両肩を掴むと、
「いいか。先輩の事だ」
そのまま背後に移動させ、
「は?ぃぃい?」
椅子に座らせてやる。そうするとこの小さい子の顔は貴子のお腹くらいにまで下がってしまう。貴子は中座になって身長差を埋めてやると、目線を合わせて見つめあう。
「先輩は確かに、何も描けない男だ。いいか、それでも」
貴子は目に力を入れて言う。その瞳を黙って二階堂は見つめる。
「今のお前にはわからない事だろうけど・・・。人には必ずスランプに陥ってしまう時期がある。そんな時その人を助けてやれるのは、やっぱりその人自身だけだ。だけど、周りの人間がその人の状態を見て、笑っていたらどうだ?その人はどう思う?どんな気持になる?」
いやなきもちになります、と小さく二階堂は俯き加減に言う。それをきいて貴子は大きく頷いた。
「そうだよな。もう判ったか?私の言いたいことが」
はい、とやはり小さく返事をする二階堂。その顔は、俯いていてどんな表情をしているのかわからない。
「ごめんなさい」
と素直に謝って来られると、どんな風に諭せば良いのか常々考えている教師としては、拍子抜けというか、腑に落ちない所がある。が、それでも良い。そんなことなんかどうでも良い。
「良いよ、謝らなくても。どうせ軽い気持ちで写メでも撮って送ってやろうとか、そんな所だったんだろう?」
「はい・・・そうです。私、わかってました」
ふむ。貴子は二階堂を黙って見つめる。
「私、何となくわかってたんです。先輩が悩んでいる事、とか、いつも泣きそうな顔をして、美術室にいつも独りで居残って、キャンバスに向ってるのは、先輩が、頑張っているっていうこと」
二階堂の声は、身体は、小刻みに震えている。何という事だろう、このちいさな娘は、ちょっと私がプレッシャーを掛けただけで、その心のほころびを開き始めた。まさかこんなにもろい子だったとは。
「でもその姿を見てたら、わたし、なんでだろう・・・、腹が立っちゃって。いつも、私、先輩の事嫌ってる素振りばっか見せてました。」
うん。うんと貴子は優しく頷いて、彼女の膝の上で組まれた手を撫でてやりながら聴いている。
「だめだな、って思ってたんです。わたし、だめで、いけない子だって。思ってました」
彼女の瞳から、大粒の涙があふれているのを貴子は見ていた。
「それでも、先輩のことを馬鹿にしたくて。どうしても止められなくて。さっきも、見つけた時に、友達にばらしてやろう、って、思って」
その告白は嗚咽混じりになってきた。
「ご、ごめんなさい。わたし先輩の事嫌いなんかじゃないんです。」
貴子は彼女の頭を抱きしめてやる。
「うん、わかってるよ。二階堂は何も、なんにも悪くなんか無い。」
「で、でも、わたし、せんぱいのかげぐちとか、わざと聞こえるようにしてえぇ・・・」
貴子は苦笑いをする。そんな風にして彼の精神を蝕んで居たのか、この子悪魔ちゃんは。そりゃあ、彼だって荒むわ・・・。
「良い子だね、全部話してくれたじゃないか。二階堂。お前は偉いよ」
声をあげて泣き始めたこの子は、今までその小さな胸の中に、罪悪感を積み重ねて来ていた。きっと彼女は、懸命に絵に励もうとする彼の姿勢に妬ましさと、うっとおしさを感じていた。「どうせ何も出来ないくせに。」「頑張ってもむだなのに。」そんな彼女の心の中の暗い部分の処理の仕方が分からなくて、ずっと彼女は彼の事を小ばかにしていたのだ。
「はいはい・・・もう泣かないで。」
「はっ、はい・・・ご、ごめんなさい」
彼女の、窓にかかった深いカーテンの隙間から差す陽射しに、赤く透けた髪を撫でてやりながら。
「謝んなくていいわよ。それって誰にだってあることだから」
「ほんと・・・ですか?」
「えーえ。もちろん。先生にだってあったわよ。そんな事、人生の中で2度や3度じゃ利かないわ」
ぐすっ、うふふ。ようやく彼女も落ち着いてきたようで、流石はたかちゃんだ、伊達に長生きしてないね、と軽口を叩く。こめかみに青筋が浮いたが、それは恐らく気のせいだという事にしておこう。それから暫く二人で話し込んだ後、はああっと、彼女は大きく息を吐いた。
「なんだか、すっきりしました。先生に怒られて、良かったです」
怒った覚えは無いのだが。ああ、最初にグーで殴ったっけ。そういえば。しかしながら彼女、二階堂史絵というこの女の子は。10代の頃にはありがちな苛立ちだとは思うのだが、それを的確に把握していて、言葉に出来るというのは中々その頃には中々むずかしい事だと思うのだ。多くの場合、彼らは潜在意識の中でそういうストレスを溜め込む。そしてうまく吐き出す事は出来ないはずだ。そういう意味でも彼女は、彼には無い才能をもう一つ、天から授かっているといえた。また、素直だ。この娘はどこまでも素直。きっと良い女性に育つだろう。
「よかったなあ、二階堂。おまえってやつは」
うりうり。と頬を軽く小突いてやる。
「え?何ですか?やめてくださいよお。」
「おっほん」
という声が二人の背後から聞こえてきた。そこに立っていたのは、財満津(ざいまつ)教諭だった。堅物で知られているこの人物は、彼のクラス、つまり3年2組の担任を受け持っている。
「あー、お取り込み中失礼しますが」
「はい?」
と受け答えるのは石橋。
「こちらにも、吉岡くんは見えてませんか?」
財満津先生はその不精な青ヒゲの残る顔面を揺らせながら尋ねる。
「はあ?」
と石橋が要領を得ない答え方をわざとすると、彼はこめかみをピクリ、と右だけあげて硬直する。その光景は誰が言い出したか、まるでパグそのもので、財満津先生から見て石橋の後ろに位置した二階堂は声を押し殺して笑う。
「と言うと?」
「来ていないのです。彼は学校に」
えっ、と石橋の後ろに居た女の子は声を漏らす。まさか、わたしのせい・・・。
「んな事は無いから、安心してな。」
よしよしと、後ろを見もせずに石橋がそう言うと、財満津は要領を得ないのか、またしても右こめかみをあげて硬直する。しかし今度は笑いは起きない。
「そうですか。いや、有難う御座います。」
「財満津先生、彼は確かこれまで皆勤で出席してましたよね」
「ええ、そうですが?」
うーむ・・・。これはちょっと不味いんじゃないか。石橋は頭を捻った。
吉岡亨(よしおか/とおる)。
件の彼とは吉岡亨の事だった。
「吉岡先輩・・」
と、石橋の背後で、か細い声がした。
どれくらいこうしていただろうか。わからない。もうずっと部屋の中で絵を描いていた。
A4サイズのコピー用紙、クロッキー帳の紙、キャンバス用紙。描いては消し、描いては消して。ものは全く食べずに、たまに水を飲む程度。それをずっと繰り返していたら、ある時突然すさまじい腹痛が襲ってきて、死ぬかと思った。結局便所で用を足してからと言うもの、空腹感は綺麗さっぱりと消えてしまったのだが。俺はこのまま死ぬんだろうか。何も喰わず、餓死ってやつか。それもいい。と思ったが、流石に死ぬ寸前ともなれば、いずれ食欲も湧いてしまうのだろう、その時は表に出て、高い物でも食ってやろうか。なんて考えると、笑いがこぼれた。いくぶん自嘲ぎみな笑い。描いては消し、描いては消して。やがて床の上は白紙の山と化したので、一枚ずつ壁に貼り付けた。マスキングテープなら腐るほどあった。丁寧に壁の一面を白紙で埋めると、また次の面へ。そして埋めたら、次の面へ。途中で足りなくなるとまた絵を描く。そして消す。何時からか、絵を描く事よりも、壁を埋めてしまう方に意識が行っていた。そして4面全てを埋め尽くすと、俺は大の字になって、眠った。泥のように、眠った。しかし、やがてその深い眠りからも覚めてしまった。そして目を開けると、俺の恥が、不甲斐無さが、現実が、四方から俺を見つめていた。発狂してしまうかと思った。俺は布団の中に隠れると、身体の震えが止まらずに、ずっと涙を服の袖で拭っていた。これは悪夢なんだ。俺は布団の中で何度も祈った。はやく目が覚めますように。この悪夢から、抜け出せますように。
そして長い夢から醒めると、玄関の方で、呼鈴が鳴っていた。その音に呼び寄せられるように、俺はゆっくりと布団から起き上がった。誰だ。もしかすると・・・母さんとか、父さんとかかも知れない。それもいい。今となってはあの人たちの顔も恋しかった。俺は気が付くと、玄関を開けていた。