七話目「脱出」
次の日の早朝ぼくが目を覚ますと、イチナは部屋の中でぼんやりと佇んでいた。
「よお起きたか、どっかのドラ息子。お前ら、もうこの町から出発するんだろ? オレもこっから逃げなきゃなんねえんだが……ここときたら、メチャ分かりづれえのなんのって。もう嫌になっちまったよ」
ぼくは彼に対し共感を覚えた。金輪際単独で歩くことはないだろう。ここから出るに際してまた案内屋を呼ばなくてはならない。
「確かにすごく面倒な町だね。ところで」ぼくは気になっていたことをイチナに聞く。「きみは帝都でいったい何をやったんだい」
「まあ大したことじゃねえさ……」髪をかきながら彼は若干言いよどんだ。ぼくが昨日身の上をナトに聞かれたときのように。
「それよりここを出る方法だ」話題を変える彼。あまり乗り気ではなさそうだったので、ぼくもそれ以上彼のしたことを聞く気にならなかった。
「あー。コソコソすんのは好きじゃねえが、もしアサカの姉さんがいたら参るし。かといって抜け道なんか分かんねえしなあ」
昨日店に来たあの人か。ぼくは彼女の迫力ある眼光を思い出した。
「かなり気にしているけど、そのアサカという人は強いの?」
「ああ。人間とは思えねえ。テンマじゃ改造とか魔術とか……そういうので体を強化してんだけど、あの人はちょっと違う技を使うんだ。体いじくっただけのやつらにゃ負ける気しねえが……あの姉さんとはあんましやりたくねえな。またここ切られたらたまんねえし」
イチナは包帯を巻いていた胸を撫でて言った。
「きみ、やっぱり怪我してたのか。だけどどうして傷がなかったんだい」
「まあ気にすんなって……それよりお前ら、次はどこへ行くんだ?」
ウガンという町へ行くことを伝えるとイチナは首をひねって、
「へえ、あのジメジメした町へか。まあここも湿気は多いけど。しかしお前らモノ好きだな。雨が好きってやつの気が知れないぜ。天気悪いとどうもオレは気が滅入るほうでさ。
……さあて、もうじき出発するか。いや、その前にまた風呂でナメクジでも見てくるかな……あいつらのグネグネした動きが面白いんだ」
そう言ってイチナは浴室へ入っていった。雨の多いウガンではナメクジも多いのだろうか。ミアがまた精神的に苦しむかもしれない……
皆が起きて、朝食となった。今日はアキウも寝坊することはなかった。また食事抜きにはされたくなかったのだろう。
今朝のおかずは焼き魚で、イチナにもナトは食べていくように薦めた。彼は遠慮したが、「子供は朝飯を食わなきゃだめさ」とアキウが言い、結局食べ始める。かなり空腹だったらしく、結構な速さでかきこんでいた。アキウがまた「おい、よく噛んで食いな! 飯に敬意を払うんだ」などと言う。イチナは「こうるさい姉さんだな」とぼやきつつ、言われた通りにしていた。
食後、ぼくらはまた案内屋のライライを電話で呼んだ。イチナはぼくらが発つ前に、「じゃあオレはお先に失礼すんぜ。メシどうもありがとな」と言って足早に出て行った。
「まったく、妙な小僧だった。お前らも気をつけて行けよ。これはみやげだ、疲れたときに舐めるといい」
そう言ってナトは飴玉をいくつかくれた。
「あたしはしばらくここに残って、金が手に入ったらまた適当に旅に出るさ。今後どっかで会ったらよろしく頼むよ」アキウがまた賭けで大損しないようにとぼくは祈った。
しばらくすると大きな箱を背負った少女ライライが店に来た。
「はいこんにちは、案内屋のライライですっ! 本日はどちらまで?」
「駅まで頼むよ。また最短ルートをね」
「了解ですっ、ではさっそく出発します」
ぼくらは世話になったナトとアキウに別れを告げ、薬店を出た。
少し離れただけでまたぼくは、今どの方角へ進んでいるのかさえ分からなくなった。ライライはというと分かれ道もすんなりと選んで歩いている。
「それにしてもよく迷わないね」
「はい。私たちは何代も前からこの町で案内屋を営んでいます。地図だけでなく方向感覚も受け継いでいて、どんな場所でもどちらへ行けばいいのか分かるのです」
少し得意げにライライは言う。
「なるほど、それはうらやましいな。ところで、今日は兵士があまりいないね。もう諦めたのかな?」
「どうなんでしょうね。犯人がもうどこかへ逃げてしまったのかも知れません」
今朝その犯人と一緒に食事をしたとはもちろん言えないが、これならイチナもなんとか抜けられるのではないかと思った。
ぼくがまたしても段差などで、素面にもかかわらず転びそうになるたびミアが支えてくれて、なんとか大きな竪穴の上へたどり着いた。穴の壁面には家や看板がいくつも建てられている。下を見れば足がすくみそうな高みだ。どうやら最初に来た駅の真上に位置するようだ。
ここまで来たらあとは下るだけらしいが、穴に架かる鉄橋の真ん中で何人もの兵士が道を塞いでいる。どうやら町の出口は彼らに固められているらしい。
先頭に立っているのはイチナが話していた、アサカという名の女性だ。
近づくにつれぼくは、自らがなにか罪を犯したわけではないのに緊張してきた。
「ど、どうもお疲れ様ですっ!」
ライライがぺこりと頭を下げた。明らかにぼく以上に萎縮している。
「ああ……ここは主要な出口ゆえこうして厳重に警備しているが」アサカさんが説明する。「われわれは標的以外に何かをするわけではないから、安心したまえ。……いやちょっと待て! その箱」
いきなり彼女が叫んだので、ライライはびくりと体を振るわせた。
「その中にまさか誰かが入っているということはないだろうな?」
すると周囲の兵士も武器に手をかける。「あ、あわわ……」ますますライライは汗をかき体を硬直させる。誤解だが、ぼくも思わず息をのんだ。
しばしの沈黙の後、緊張感を破ったのはアサカさんの微笑だった。
「冗談だ。標的がいくら小柄とはいえ、その中には入れまい」
それを聞いてライライは深く安堵のため息をつく。
ぼくらだけでなく周囲の兵士もこころなしかほっとしたようだ。こちらをなごませようとしてやったのかもしれないが正直やめて欲しかった。
「まあ普通はこんな所から堂々と出て行くはずはないだろうが、あいつの場合は……むっ」突然、アサカさんは天井を見据え、短剣を取り出した。再びライライが緊張する。
「やはりここからかイチナ!」
その名を呼ぶと同時にアサカさんは、配管が走る天井の暗がりに短剣を投擲した。
短いうめき声とともになにかが橋の上に落ちてきた。イチナだった。右頬には今の短剣で付けられたらしい傷跡が走っている。「畜生、ばれちまったか!」
「この案内屋のお嬢さんの後を付け脱出するつもりだったか。お前は細かい抜け道など知らぬだろうから、この通路を通るだろうと踏んでここにいたが、正解だったな」
アサカさんは得物を腰から抜いた。片刃の長い剣だ。周りの兵士たちも武器を手に、彼を囲むように動く。
「ちっ、さすがは姉さん。よく気づいたもんだ。だけどオレさ」イチナは追い詰められた状態のはずだが、なぜか笑みを浮かべている。「ここでやりあう気はねえんだ。あばよ」
彼はひらりと跳躍し、なんと橋の下へその身を躍らせた。
落ちればまず間違いなくどこかの骨を折るか、あるいは死ぬという高さだ。ぼくらは兵士たちとともにに下を見る。
イチナの白い姿がどんどん小さくなっていく。底の暗がりへ消えていく前に、片手を上げるのが見えた。ぼくらへの挨拶か、あるいはアサカさんへの挑発か。
「下へ降りてやつを捕まえろ、急げ!」
アサカさんが指示を出している。ライライはさっきからずっと震えたままだ。ミアにはいつもと同じく動揺の色がない。
「やれやれあいつは……まったくいい度胸をしている。お騒がせしたな、では失礼」
そう言ってアサカさんも下へ降りていった。
ぼくらもライライが落ち着くのを待って、下への螺旋階段を降りる。
一番下に着くころにはすでに兵士たちの姿はなかった。
イチナは逃げ切れたのだろうか。あの豪胆な彼ならなんとかなったのではないかとぼくは思った。
「なんだかすごい目にあっちゃいました! 少し時間がかかって申し訳ありません!」
「いいよ別に、捕り物が見れて良かったしね。これはお礼だよ」
ぼくは代金とともにライライに、ナトからもらった飴玉をいくつかあげた。
彼女が去って再び二人きりになり、ぼくらは駅のホームに佇む。いろいろな人に会うのもいいけれど、やはり基本はミアと二人の旅だな。ぼくはなんだかそう思った。
また手を繋いで彼女の青白い顔をうす暗い灯りのもとで見ていると、電車が入ってきた。間違いないようにぼくは看板を再度確認する。
「雨眼」――次に向かう町の名をしっかりと確かめると、ぼくらは乗客のいない電車へ乗り込んだ。