消え失せたい。
濃ゆい藍色の夜風に冷やされながら逆らって歩く、下池蓮子(しもいけはすこ)は思った。具体的で明確な理由なんてどこにもなくて、ただなんとなしに、滲んだ油が重なったような抽象画のようにただ感じて、思った。
風は更にその鋭さを増して、頬と耳たぶや柔らかい部分を攻撃してくる。
蓮子は塾の帰りだった。大学受験のために深夜まで勉強をしなければならないのだ。勉強は大切だし好きだからそれはそんなに苦痛ではなかった。むしろ楽しいくらいだった・・・・・
蓮子は電灯を仰ぐと、蛾が電灯の明かりとあったかさを求めてぱたぱたとたかって、電灯にぶつかる軽い音とともに一匹足元に落ちてきた。ぱたぱたして、もがいていて、苦しそう。
足をゆっくり乗せて、蛾を踏み潰した。ほの白いジェルが靴底に粘ついた。
そうだ、 蓮子は左足をひきずるようにして歩きながら呟いた、今日は地獄少女の日だ。
蓮子は地獄少女という深夜アニメを毎週楽しみにしていた、地獄少女という弱者のためのアニメを。
地獄少女というのは、いつも被害者と加害者がいて、被害者が地獄少女に依頼して加害者を地獄に送り流すというパターンで一話が終わる切ないアニメである。いわば現代版必殺仕事人。ただ、地獄に送ることを依頼した被害者も死後地獄行き決定という設定があり、それがこのアニメの最大の痛切さであり旨みであり、蓮子のもっとも気に入っている一設定だった、そこが必殺仕事人の後味とは一線を画す。
蓮子は白息を吐きながら、胸下に手を重ねた。わたし、消えたい・・・・・・沢山の家の窓々からかすむ薄黄色の生活臭がそういった想いを強めた。
家に着くと、優しい母が用意してくれていた、ご飯、味噌汁、魚の煮つけを冷め切ったまま、ゆっくりと咀嚼した。母は深夜パートに出てくれている。家には蓮子一人だった。
母は蓮子の大学費用を用立てるために働いてくれている。そのことを思うと、優しさと情けなさの味が染みているこの味に、蓮子はいつもいたたまれない心持ちになる。レンジにかければ冷め切った身体もまたあったかくなれるけれど、何かが水分と一緒に消えてしまう気がするから、毎晩冷たいご飯を食べなければならない。おいしい・・・つとめて心から、思う。
蓮子は生ぬるくなった風呂に入り、熱いシャワーを浴びて、ついでにうがいをした。
自分の部屋に入ったら、水の入ったグラスを横に置いて、猫背になりながら勉強の続きをはじめた。
飼い猫が蓮子にひっついて、丸まった。雄猫の名をテール。冷たい小さな優しい手で淡く撫でながら、ペンをせわしなく動かす。蓮子の知能は人並み以下だから、県立の大学に通おうと思ったら一生懸命頑張らねばならなかった。猫は、細くかすむように鳴いて甘えた。
消え失せられたら・・・・・・・・
左手は猫の腹を柔らかく撫であげて、少しだけつねった。
地獄少女のはじまりが勉強を終える時間で、参考書を鞄にしまうと、すぐにテレビをつけた。
今回も切ないストーリィだった。何もできないしない少女が、加害者を地獄に流して、自分も地獄に送られるという契約の刻印を胸に刻まれながら、幸せな生活を取り戻したという話しだった。感情移入はできなかったけど、共感もできなかったけど、気持ちは伝わって、やるせなくなった。けど、アニメのエンディングが流れると、所詮作り話なんだよね、と更にやるせなくなった。
次の日は日曜日だった。いつもは自分を勉強漬にするのだけれど、母が蓮子にお使いを頼んできた。
多分母は勉強漬けの蓮子を気遣って、心配して、外の空気を吸っておいでという意味合いできっと頼んできたのだろう、蓮子はそう捉えて、そう受け取った。お金を受け取って、甘いもの買ってきていいかなとおどけて何も気づいていないふりをした。母は仕方がないね、笑いながら蓮子を指先で軽くこづいた。
蓮子は玄関を出ると、水をまく隣のおじいさんに挨拶をした。
するとその家の二階が静かに開いて、ひょっこりと頭が出てきて、蓮子をちらっと見て、すぐ窓を閉めた。蓮子が笑って窓を指差すと、おじいさんも水を止めて、
「よっぽど駄目みたいね」
と言った。蓮子はこのじいさんの中学生の孫から好かれていた。けどその中学生は蓮子の顔をまともに見ることが出来なかった。最初は嫌われてると思っていたが、じいさんから自分を好いているという話しを聞いたときに合点がいった。蓮子とばったり合ったら、肩をいからしたり挙動不審な動きになったり、その癖二階の窓から蓮子を盗み見てくるという・・・奇妙な行為に。
「降りてきなよぉ、・・・私と一緒におつかい、散歩でもしようっ!」
窓に向かってめずらしく大声で、いじわるく呼びかけた。
窓は開かなかった。じいさんはからからと笑った、蓮子もにんまりした。窓際の目がばつがわるそうに伏せながら離れた。蓮子は純粋そうな目でにこりとしながら、彼なら私をまるで猫のように愛でてくれるだろうか、ということを奥底では考えていた。甘えてさえいれば、ああいう人は優しくしてくれる、従ってくれる、おあずけを与えながら・・・どこかの本で読んだ知識を混ぜながら考えていた。
軽く会釈をしてその場を立ち去ると、手に息をふきかけながら、マフラーをひらひらさせながら歩いた。
商店街にいって頼まれていた肉を買った。桃色の豚肉。目方を量るときそのピンクに目をやっていた、白い脂が噛みこんだしっとりとした生物の一部に見入っていた。
頼まれていたものは豚肉100グラムだけだった。
帰路につく道中、鉄道の下で灰色のネズミが腹部に怪我を負って、もがいて鳴いているのを見つけた。
蓮子は買い物袋を手にして、そのもがくさまをじっくりと眺めていた。ねずみがそのうち泡を吹き出しても・・・・ただじっくりと見物していた。泡の次は血を吐き出した。次は血の泡に変わった。更に次は大量の・・・・
蓮子はネズミの腹部に足を軽く触れると、思いっきり踏み潰した。
断末魔はなく、吐血が予想以上にしぶいた。それを冷酷にけれど哀しそうに見つめて、足をひきずりながら立ち去った。
家に着くと、蓮子は温かい豚鍋を楽しそうにつついた。
今晩休日は母と一緒にとれる食事、蓮子には嬉しくて、なんとなく哀しかった。
夕食を終えると母が蓮子に一通の封書を渡した。おつかいにでかけている間に、ポストに入っていたのだと言う。郵便で届いたものではなく、差出人も書かれていない気味悪い封書。
蓮子は小型爆弾でもしかけられてるのかしら、とふざけながら母に言い、自分の部屋にあがって封を破いた。猫も蓮子についてあがってきていたので、二人で読んだ。
手紙の内容はあまりにも恥ずかしく、寒く、痛々しい・・・・蓮子にあてたラブレターだった。
差出人は文の最後に隠すように記してある、あの隣の中学生。
蓮子は読み返すたび何度も爆笑した。こんな酷い、拙い、しかも寒い痛い文章を書くあの人見知りの中学生を、何度も何度も嘲笑した。特に酷い部分にはマーカーで線を引いて、誤字を数えて、復誦した。そして笑いこけた。
蓮子は筆記用具を鞄から出すと、ノートをわざと無造作に破いて返事を認め始めた。
返事の内容は送られてきた手紙の誤字と痛い部分の添削がほとんどだった。一時間もかけて添削すると、低劣な寒いラブレターは素晴らしい出来栄え、ラブレターを兼ねた文学的優作に変わった。
蓮子は満足そうにそれを黄土色の封筒に折り入れると、宛て名と住所を奇麗な字で記して口をのり付けして切手を貼った。明日の朝、学校に行くときにでもポストに放り込んでおこう。そう考えながら手紙を鞄のサイドポケットにいれると、またクスクス笑った。
横に寝転ぶテールを仰向けにすると、腹のよりも少し下の部分、生殖器の少し上辺りに鼻をおしつけてにおいを嗅いだ。ネコは抵抗しない。
猫の毛が鼻腔にはいってくしゃみが出た。蓮子は、また笑った。
笑っているとどうしてか涙が出てきていた。
消え失せたいな。
消え失せたいな。
藍染にされた、風達へと移り変わる・・・・・・・
蓮子が返事の文末に認めた追記――
あなたが私の為に小さいカヌーでも用立ててくれて、もし一緒に海原に流離ってくれるというのなら、私はきっと猫にでもなります。私のテールになります。可愛いテールに。
こんな文章を書いたら、きっと、また自分、切なくなります。消えたくなります。
今日ネズミを踏み潰して、殺しました。
でも彼の家族は私を恨んでも、報復はできっこありません。 地獄少女はアニメですから。
私はね、消え失せたいのですよ。
頭悪いのに、文章それそこそこ上手いでしょう。 ・・・・・・下手? どっちでもいいよ。
私を海に流してください。
私なんて、そういう人間なんですよ。
・・・・ね。
私と同等に、出来の悪いあなたへ。
――この文章は、きっと憎まれながら読まれることだろう。
でも、きっと、たぶん、頭の悪い蓮子の狙いだったし、そうされることを望んでいたのかもしれない。
窓々から目に映る、明かりからは生活があって、とっても奇麗だ。