さくら散る、つまり…
それは、失恋。
「ほら、見て!綺麗な桜吹雪…」
今年は3月になっても、本当に寒い日が続いていたから。いつになったら桜が開花するのだろう。
そんな事を考えながら、私はいつも寒い季節を過ごしていた。
「いや、ホント。こりゃ、見事だわぁ~」
今、私は休日の晴天の青空の下、友人の千恵子と井の頭公園にて女二人で優雅に花見を楽しんでいた。
「見て見て、ガキんちょがあんなに楽しそうに、はしゃいじゃって…」
おそらく、親子で花見に来ているのだろう。
2歳か3歳くらいの小さい男の子が、父親らしき若い男性を追いかけて無邪気に走り回っている。
「いや、ホント。ホント。可愛いねぇ~」
千恵子はワンカップを片手にすでにほろ酔い状態だった。
この子は、本当にお酒が好きな子。誰かが止めなきゃ、いつでもお酒を飲み続けるような女の子だ。
あぁ~、いい感じで頬を赤らめさせちゃって…今日は、千恵子をお家まで送るのに一苦労だ。
「留美!留美!見てよ!」
千恵子が私の顔の近くにワンカップを差し出してきた。
「な~に?」
私は訝しんでそのワンカップに目をやった。
半分くらい、飲み干されたワンカップの中にはポツンと桜の花びらが浮かんでいた。実に風流だ。
「おっ!いいね~。綺麗!カクテルみたい」
「でしょ、でしょ!」
心が洗われるような自然が生んだ産物に私は異様に感銘を受けた。そして、私は思わず
その天然カクテルを写メに映そうとして携帯を取り出すため鞄をゴソゴソと漁った。
「飲むなよ!絶対、まだ飲まないでよ!」
「え~なんで~?」
千恵子はワンカップを手でユラユラと揺らしながらおどけてみせている。
「写メ撮るの~!って、あんた!」
私がやっと携帯を構えた瞬間に千恵子は豪快に桜の花びらごとワンカップを飲み干してしまった。
「あぁ~!もう…」
「あはははははは~!」
すっかり千恵子は出来上がってしまっている。陽気な千恵子の笑い声は
他の花見客の賑やかな空気に自然と溶け込んでいた。
笑い声の絶えない井の頭公園にまた風が吹き込み、桜の花びらが気持よくその風に乗る。
「どうして?どして?」
ろれつも回らなくなった千恵子は
雑誌の付録に付いていた行楽シートの上にドサッと仰向けに寝転んで、つぶやいた。
「なにさ?」
私は、千恵子が寝転がった勢いで紙コップが倒れないようにそれをサッと持ち上げて
千恵子の方に視線を移した。
「桜は~」
「桜は?」
ふと千恵子の顔を覗き込むと、彼女の頬は桜の花びらに負けんくらいの紅潮具合だった。
「こんなに綺麗なの?」
「う~ん?」
急に、千恵子は哲学めいた疑問を私に投げかけてきた。
「なんでだろうね?」
「う~ん…」
千恵子はシートの上で芋虫みたいにウネウネとし始めた。
恥も外聞もない女はこれだから困る。あ~ぁ。みっともない。女のくせに。
こんな、話を聞いたことがある。
満開の美しい桜の木には死体が埋まっているのだ。
つまり、一際、満開に綺麗に花びらが咲き誇る桜の木は
根っ子の下に埋まっている「死体」という名の十分すぎるほどの栄養を吸い取っているのだ。
その結果、十分に栄養を吸い取った桜の木は満開の花を咲かせるのだ。
陽気に寝転がっている千恵子にそんな話をしてあげた。
「う~ん。そういう意味じゃない…」
「じゃあ、どんな意味よ?」
缶ビールをグイっと飲んで、少し挑発的に千恵子に話しかけた。
「なんで、桜の花はあんなに綺麗である必要があるのかってこと~」
もう一度、私は缶ビールのビールを口に運んだ。ほろ苦さと千恵子の難解な質問が口の中で絡み合う。
私は、考えあぐねる。でも、必死で考えようとしている。
アルコールが酔い始めたのだろうか。思考回路が上手く機能しない。
頭を働かせようとしたら、急に身体がドッと疲れた。私もゴロン。千恵子の隣にゴロン。
途端に、私と千恵子の顔が隣り合わせになる。冷たくはない。そんな風が、
若い二人の女の体躯を通り抜ける。おかしいな。
さっきまで微かに桜の淡い匂いが感じられていたのに、今はそんな上品な香りがしない。
私の目の前には酔っぱらいの気持ちよさそうな顔がある。
あぁ、なるほどアルコールの臭いだ。淡い桜の香りが、若干刺激的で化学的なアルコールの臭いに
勝てるはずがない。
「私なりに結論が~あります!つまり、こういう事よ」
千恵子が喋り出した。余計に私の鼻孔はアルコールの臭いに支配されようとしていた。
私は、花見に来たんだ。不愉快だ。
私はワザと寝返って、千恵子とは逆の方向に体勢を変えた。
「なによ~留美~」
「いいから、続けて。つまり、どういう事?」
「え~?もう…」
いささか、千恵子は不貞腐れたようだ。でも、そんなの知らない。私は花見に来ているのだ。
「セックスアピールだよ」
「はっ?」
今は昼間だ。あんなにお日様がキラキラと輝いているのだ。
子ども達が、広々とした公園内で楽しそうに走り回っているのだ。
「やめてよ~…‘セックス‘とか~…時間帯考えてよ!」
「聴きなって!」
ガバッと、千恵子は寝ころんだ状態から体勢を戻した。
彼女の方を見ると、その視線はまっすぐと遠くの方にある桜並木へと注がれていた。
「見た目が魅力的じゃないと、どうせ男なんて寄りついて来ないでしょう?」
「…で?」
「だから、綺麗な花びらをつけて男を誘惑しているわけよ。」
いやな、例え方だ。実にいやな例え方だ。
「別に、桜の木はそんなこと考えてないよ!」
なぜか、私の口調は強くなっていた。なぜだろうか。
「留美?」
「なにさ?」
「…なに?怒ってるの?」
まずい…せっかくの楽しいはずの花見の空気が壊れてしまう。冷静に冷静に。
私も起き上がった。大きく深呼吸。風に乗った桜の微かな匂いを鼻から吸い込もう。
すぅ~。気持ちがいい。ぜひとも、桜の匂いがするお香を誰かに作ってもらいたいものだ。
「はぁ~。…で?」
大きくアルコール臭を吐き出して。私は努めて笑顔で振舞って千恵子の話に耳を傾けようとした。
「怒ってないの?」
「怒ってなんかないよ~、ねぇ、話を続けて」
今まで傍若無人な態度を振舞っていた千恵子はすっかり正気を取り戻していた。
「では、お言葉に甘えて…確かにね、植物に恋愛の駆け引きなんてないかもしれない」
「うん、うん」
「だって、同じ木に相手の‘雄しべ’がいるわけだから、そりゃ‘男’なんて選り取りみどり」
「うん、うん」
「勝手に、花粉バラまいとけば、勝手に‘雄しべ’が受け止めてくれる」
「あぁ~いいね~‘雄しべ’さんって優しい!」
「あはは~。でもね‘雌しべ’さんもより好みするわけよ」
「へぇ~同じ木の中にお目当ての‘男’がいないこともあるってわけね」
「そうそう!そういうこと!…なんか飲みもんちょうだい!」
千恵子は空いたワンカップをユラユラと揺らしながらおかわりを私に催促した。
私は自分の近くにあった缶ビールをヒョイッと千恵子の方に投げてやった。
それは、あぐらを掻いていた千恵子の股間に見事にホールインワンした。
「サンキュ!なんの話してたっけ?私…」
「‘雌しべ’さんもより好み!」
「そうそう!より好み!」
「でもさ‘雌しべ’さん動けなくない?」
「そだね、動けないね~」
「どうすんのさ?」
「風」
桜吹雪を見ながら、千恵子はポツリとつぶやいた。
優雅に桜の花びらは風に乗っていた。風に舞う花びらはどこか楽しげだ。
「風?」
「そう!風!風に運んでもらうのさ。理想の男のところまで…」
私たちは今ちょうど桜の木の下にいる。満開の桜の木の下に。
ちょこんと、私の頭のてっぺんに桜の花びらが舞い落ちた。
それを手に取って見る。淡いピンク。その色彩は控えめなのに何とも鮮やかだ。
「染井吉野かな?」
千恵子に尋ねてみた。
「どうかね~?でも、鑑賞用の桜には違いないよ」
「鑑賞用?」
「そうそう、鑑賞用。この子たちは野生じゃないってこと」
「つまり、どういうこと?」
「ただ、ニンゲン達に綺麗だね~って見られるためだけに植えられた不運な桜たちってこと」
「ふ~ん…じゃあ、この桜たち恋愛できなくない?」
「そうね~人工交配させられるらしいよ。鑑賞用の桜って」
「人工ってことは~…目当ての男を選べないってこと?」
「まぁ、そう言えるね」
桜はまだまだ優雅に風に乗って舞っていた。お隣さんのオヤジ花見客はその様子をみて
大盛り上がりだ。桜の気も知らないで。
「なんだか、可哀想だね…」
「そうね」
二人でしんみりと桜吹雪を眺めていた。優雅な桜吹雪を。どれくらい時間が流れたのだろう。
若い乙女が神妙な面持ちでダンマリと桜吹雪を眺めているのだ。
賑やか過ぎる花見客。どれだけ私たちは場違いなんだろう。そう思えるくらいに私たちの存在は
浮き立っていた。まるで、お通夜みたい。しょんぼりと、哀愁を漂わせて。
これじゃあ、せっかくニンゲン達に綺麗だね~って言われるために咲いている桜たちにあまりにも
失礼だ。こんなんじゃ、桜の花びらも優雅に気持よくぽかぽかの青空を舞う事が出来ない。
いやそれは間違いだ。ふと、私は思った。
ここにある桜はきっと晴れやかな気持ちなんかじゃないんだ。きっと悲しいんだ。
きっと、桜の‘雌しべ’だって子孫繁栄とかそう言う概念を抜きにして、憧れの‘雄しべ’と
出会いたかったんだ。交わりたかったんだ。そうだ。そうに違いない。
桜舞う。これは、メスという生き物としての出来得る限りのセックスアピールなのだ。
そうなんだ。そうに違いない。
いや、もしかしたら、舞散る桜の中には逃げ出したかった桜もいるのかもしれない。今の私のように。
私だって。私だって。あの人と一緒になりたかった。交わりたかった。
でも、私は桜に比べたらあまりにも幸運すぎた。
なぜなら、風まかせに舞い散らなくても理想の相手に出会えたのだから。
だけど、あの人とは一緒になれなかった。交われなかった。
「桜の花びらはさ…」
いつのまにか、私の頬には一筋の涙の粒が伝っていた。
「留美?」
心配そうに千恵子が私の顔を覗き込んでいる。
「セックスアピールのためだけじゃないよ。舞い散っているのは…」
涙と一緒にポツリポツリと喋る私の頭を千恵子は優しく撫でてくれていた。
そして、静かに私の話に耳を傾けてくれていた。
「きっと、同じ木の中で理想の相手に巡り会えたんだ」
「うん…」
「でもね、その相手に振られちゃったんだよ」
「それで…?」
「振られたのに……でも相手はまだそばにいるんだ」
「……」
「辛いじゃない…そんなの…だから……舞い散るの…」
何も言わず千恵子は頷いてくれていた。相変わらず桜は舞い散っている。
私の涙もとめどなく溢れ出す。
「近くに…相手に居られたら………辛すぎるよ……」
もう限界だった。私は大声で泣き出して千恵子の胸に顔を埋めていた。
賑やかな花見の場でそれはあまりにも滑稽に映っていたことだろう。
さくら散る…それは、失恋。
ぽかぽかのお花見日和。お花見日和。
さくらの花びらはもう舞うのを止めたらしい。