二."本谷"と"澪"
今日の体育は男女合同授業だった。体育館の一面を男子のバスケットボールの授業に割り、もう一面でバレーボールを行っている。桜田類は大迫と組んでストレッチをしている間も、体育館をぐるりと走っている間も、常に"本谷"を視界に入れていた。類は意識して"澪"の姿を心の奥底にしまい込んで、蓋をしていた。"本谷"を見て"澪"を思い出したくなどなかった。
アレは"本谷"――異星人。
類はパスを受けた。一歩、二歩、ステップ踏んで、スリーポイントラインの外に立ち、膝を折り曲げ、バネにして上半身を跳ね上げた。ボールにその勢いを伝え、右手でちょっと力を入れて押し出してやる――放たれた瞬間、答えを待つまでもなく、こちらのチームに三点が加算されることが類にだけは分かった。着地して、またチラリと"本谷"を見た。
気持のいい音がした。ボールがバスケットの中心を通過する音。ボールが地面に叩き付けられる音――強烈に。
類は、"本谷"が飛び上がった瞬間から、着地するまでを見届けた。着地まで十秒を要していた。類は舌打ちした。
「スゲーな、本谷」
自陣に戻る途中、敵チームの大迫が類に向かって言った。
「今何メートル跳んだんだ……よッと!」
大迫はドリブルでフリースローラインの内側まで切り込もうとした。しかしボールがない。大迫が自分の体しかフリースローラインを越えられていないことに気付いた頃には、既に類のパスが前方の味方に送られていた。
そりゃあ、そうだろ。ヤツは――人間じゃない。類は大迫に、そう言ってやりたかった。
「おい、お前」
「ナンでショウ、ルイ?」
「下の名前で呼ぶな。サクラダと呼べ」
「イヤデス」
「どうして」
「ルイのキオクのナカのミオはルイのコトをルイとヨんでいたからデス」
類は"本谷"を無視して、クリーナーがあるのに窓を開け、二つの黒板消し同士を力強く叩いた。怒りを叩きつけていた。"本谷"に注意してやろうと思ったことも、怒りですっかり吹き飛んでいた。
その名を呼ぶな、お前が――!
最後にいっとう強く叩いて、すっかりきれいになった黒板消しでぐりぐりと仕上げをした。そして日直プレートを自分のもののみ剥がし、脇の金属部分にくっつけて、鞄を持って教室を出た。
"本谷"はその様子をじっと見ていた。そして類がしたことをそのままなぞった。黒板消しを叩き、仕上げをし、プレートを剥がして、くっつけ……
類は間に合わなかった。下り列車のプラットホームまであとちょっとのところで、ドアが閉まってしまったのだ。
肩を軽く揺らしながら、類はベンチに腰掛けた。次の列車まで、約五十分。何時もなら暇を持て余すところである。しかし、今日ばかりは考える時間が出来たので良かった、とも思った。
昨日聞かされたことをそのまま信じるには、類は年を取りすぎていた。だがしかし、現実として、あの"本谷"は間違いなく人間ではない。ただの女子高生がマイケル・ジョーダンよりも長い滞空時間のジャンプなど出来るわけがないのだから。"本谷"は"澪"のソックリさんではない。
「アレは、別の何かだ」
誰もいないと確信して、類は小さく呟いた――
「ソウ、ワタシはアナタタチとはチガいマス」
類は驚きに身をよじらせた。いつの間にか、隣に異星人が座っていた。なんとも、慎ましやかに。
「ウチューからやってキたのですカラ。それデモ、アナタにアイされるコトガ、ワタシのシメイなのデス」
隣の異星人――澪――いや――異星人――
「そのタメナラ、ワタシはアナタのイトしいミオになりマス」
顔は澪、身体も澪。
「…無理だよ。お前は心が違う。そして、お前には……腹が立つ! 俺は……"澪のいない生き方"をしようと、ずっと、しようと……それなのに――お前はっ!」
類は叫んだ。心の痛みを隠すように。痛めつけられていた。澪が死んだ二年前のあの日からずっと、痛み続けている心があった。そんな心をオブラートで包んでいた。何枚も何枚も包んでいた。決して溶けてはしまわないように。
気付けば類は階段を駆け上がっていた。とにかくあの異星人から離れたかった。たとえ皮を被っただけの偽者でも、澪と同じ髪とまつ毛と瞳を持つアレを見ているだけでも辛かった。強く抱き締めたら軋みを上げそうなその細い身体を見ているだけで、失われた性欲が闇の底からせり上がって来てしまうんじゃないかと感じた。
とにかく離れたくて、駅を出た。今度はちょうど良くバスが停まっていた。定期があるので列車で帰宅しているが、このバスも類の家から徒歩五分の場所で停まってくれる。明日は駅まで車で送ってもらえば良い――バスに乗り込もうとした刹那、強い力で腕を掴まれた。
「ハヤくカエりたかったのデスネ、ルイ。イってくれればヨかったノニ」
異星人は言った。そして、跳んだ。
その飛翔は電線を越えた。ビルを越えた。そしてそれより低い建物を、次々と飛び越えた。もう類に思考能力は一滴たりとも残ってなどいなかった。
「このホシはイイ――まるでトんでいるかのヨウ。カラダがカルイ」
「もう、なんか、どうでも、いい……」
類は吐きそうだった。
「ただ、おまえの、こと、だいっ……きらい、だ……」
「マダ、あと364ニチありますカラ」
青い顔をした類を見て、"本谷"は満面の笑みを浮かべた。
「アナタハ、カナラずワタシのコトをスきになりマスヨ」
家に着いて類がまずしたのは、便器に向かって嘔吐することだった。吐瀉物を見るその目は、自身でも驚くほど冷静だった。
類は、自身の無力に虚脱した。自身の呆れ果てるほどの愚かしさにも。もう死んだ女をまだいる、と一瞬でも感じ、高揚した、自らの脳をゆっくりと叩いた。
そして類は、観念して、ついにそのこだわりを捨てたのだ。
二年――溜まりに溜まった澪への想いは、大量に飛び出して来た。
「はぁ……はぁ……はぁっ……」
性への欲求は闇を突き抜け、見る見るうちに肥大化していった。闇の中に映ったのは、ただ澪の姿のみだった。聴こえたのは、ただ澪の声のみだった。チープな音ではない。二年前の澪だった。
闇の中の澪は満面の笑みを浮かべていた。
"本谷"ではない。あの異星人ではない――
「…澪っ、なんっで……っで、死んだんだ……っ!?」
たとえ性欲が湧き上がろうとも、在るのはただ悲しみだけだった。そうして、類は悲しみを吐き出した。
『"本谷"と"澪"』