その封筒は、大きくない。繊細で、力を籠めればすぐに曲がるか潰れてしまいそうだった。まるで少女の肢体のよう。
封筒の裏には宛先も書かれていない。死装束を思わせる、本当に真っ白な封筒だ。一体誰がどんな目的でこんな辺鄙な場所に隠したのだろうか。
以前一度開封されたのか、糊がかさついていた。しかし、粘着質な感触はそんなに古くない。
俺は優しくその封を解き、中身を取り出した。
便箋だった。封筒に負けず劣らずの、白い便箋が折り込まれていた。俺は脆い雪を扱うかのようにそれを開く。流れるようで、それでいて読み易い文字が縦書きで並んでいる。それはある人からある人への手紙だった。
『浅越逢紗子から 栗山逢紗子へ
こんにちは。
お久しぶりと言えば良いのか分かりません。何故なら、貴方がこれを何時開くのか全然見当がつかないのです。
とうとう私はお父様から許しをもらうことが出来ました。
長く大変な道程でしたけど、今は色々な感情で胸がいっぱいです。
そしてじきに、貴方は幸福な結婚式を迎えられる筈です。
まるで夢のようで、今でも自分の頬をつねってみたくなります。
思いっきり綺麗な姿になりたいですね。きっとあの人も、精一杯に格好つけて来てくれるでしょうから。
貴方があの人と初めて出会った時のことを覚えていますか?
可笑しな話ですけど、私はあの時、なんて軽薄な人なのだろうと思いました。毛嫌いしていた節もあります。しかし、頻繁に遭遇する内に、拒否したり心の中で軽蔑するのを諦めるようになってしまいました。
あの人は私に一目惚れしてしまったようでした。
生来そう言うのは好ましくないと考えていたのですが、今思えば悪くないのかも知れませんね。
最初は無口でいようと思いました。だって、知的に思われたかったから。
だけど、それは不可能なことに気付きました。
陽気なあの人と居ると、お喋りが楽しくて楽しくて仕方がなかったのです。
気が付けばそれまで寡黙で陰気とさえ思っていた自分が、声を上げて笑っていました。
貴方がこの便箋を開いていると言うことは、何か辛いことがあった時なのでしょう。
私はそれを想像することが叶いません。なので、貴方には私が無責任に思えてしまうのも頷けます。
でも、心配は要りません。
神様が貴方に巡り合わせてくれた洋介さんは、とても素敵な人です。
友情に厚く、笑顔が可愛らしくて、冗談が過ぎるようなところもありますが、本当は親切な男性です。
そして、私に勇気をくれた。
ずっと、嘘ではなくこれまでの一生、お父様やお母様、姉さんの薦めに従ってきた私に、自分の意思を貫く勇気を与えてくれました。
貴方の夫を、信じて下さい。
私は信じています。
あの人が、私の生涯をきっと素晴らしいものにしてくれると。
宣誓をそのままに、一生を添い遂げてくれると。
ですから。
貴方もどうか〝末永くお幸せに〟いて下さいね。
それでは、さようなら。』
直感だった。
最近、妻はこの自分に宛てた手紙を読んだのだろう。きっと妻は俺と同じようにアルバムを開いた。そして十数年振りにこの便箋に触れたに違いない。
「……」
この手紙を読んで、妻が何を感じたのかは分からない。
けれど、彼女は確かにあの行動をとった。
倒れてしまうまで心身を磨耗してもまだ、悠久の約束を破った夫を温かく迎えたのだ。
何千回と投げかけられてきたその言葉に、一体どれほどの意味が籠められていただろう。
―――あなた、おかえりなさい。
「…ふっ…ぐぅ、…うぅ……」
そうして、俺は泣いていた。
喉が詰まり、眼の奥が苦しい。咳き込むようにしか息が出来ない。そしてその度に涕が飛んだ。視界が溺れていった。頭の中の蛇口が外れたように涙が溢れ、顔を温かく濡らした。口に涕が流れ込み、奇妙な味覚を覚える。しかしそれでも、その思いを拭うことはせずに、俺はただただ涙を流し続けた。
嫋やかな便箋に、一つ一つ円い染みが滲んでいく。
「っ…ごべん…ごめんよ…あざご……」
俺は何故忘れていたんだろう。
妻も娘も息子も、皆俺の大切な家族なのに。
確かに青春の時代と言うのは、人生で一番眩しい時間なのかも知れない。けれど俺にとっては、逢紗子と戸籍を共にし、憂梨や修太が生まれ、家庭を作ってきた時間が、今までで一番光り輝いていた。
何故逃げることしか考えなかったのだろう。
責務から逃げ、家庭から逃げ、そして俺は立ち止まった。
気付けば四方は冷たい壁に囲まれていて、逃げ道は何処を見渡しても用意されていない。後戻りも、横に避けることもままならない。その中で俺は自問自答をせざるを得なくなった。
俺は一体誰なのか。俺がするべき事は何なのか。俺のしたい事は何なのか。
ごめんな。憂梨、修太。お父さんは回答を出すのに時間がかかってしまったよ。
ありがとう。逢紗子。やっと思い出したんだ。俺が自殺を未遂に止めた理由が。
誰にも見えない幽霊になって、空からただ見守るなんて我慢ならないよ。
―――やっぱり俺は、君達と生きていたいんだ。
ピリリリリリ。
その時、俺の携帯の着信音が静寂を切り裂いた。
俺は慌ててシャツの袖で涙と鼻水を拭い、一度深呼吸。ついでに正常に声が出るか確認してから、床に翅を広げていたコートのポケットから携帯電話を取り出した。
発信者の名前を見て、俺は眼を見開いた。ディスプレイの表示は、久永次男。
珍しいことだ。俺は様々な考えを張り巡らした。しかしその間も携帯電話は赤子のように甲高い電子音で俺を呼び出している。
何時切れるとも知れない。俺は戸惑いを感じながらも、通話に踏み切った。
「…はい。栗山です」
『栗山君か?…単刀直入に言おう。君にいい知らせだぞ』
いい知らせを受けるのは他人の筈なのに、久永は弾んだ声でそう言った。声も普段よりも大きく聞こえる。素面であることを疑ってしまうくらいだ。
『っと、君はもう再就職は果たしたか?』
「いいえ。まだです」
『そうか。それならこれは本当にいい知らせだ』
「…なんですか?」
『君の新しい職場を紹介出来る』
「えっ?」
『僕の古い知り合いの会社なんだけどね。ちょうど一人空きが出てしまったらしいんだ。そこで僕が君の話をしたら、彼は快諾してくれたよ。僕の紹介なら喜んで受け入れてくれるそうだ』
「そ、それは本当ですか?」
『ああ、今で言うならガチってやつだ。息子の受け売りだがね。彼のところは、大きくはないけれど従業員を大事にする良い会社だ。きっと君に合っていると思う』
「そんな…ありがとうございます…」
『ははは、大仰だなあ。今度一杯付き合ってくれたらいいよ。それで、一応形式的な面接と言うのかな。彼と顔合わせをしてもらっておくことになったから』
「はい!行きます行きます」
久永はその会社の名前、住所、電話番号を教えてくれた。面談の日は、二月の上旬と言うことだった。俺は何度も感謝の意を述べ、後日一緒に呑むことを約束した。
電話を切り、寝室のベッドに体を投げ出した。
これでまた働ける。家族を養っていくことが出来る。
前途に一筋の光明が射し込むのを感じた。立ち込めていた暗雲に亀裂が走り、爽やかな光の線が広がっていくイメージ。その夢想に導かれて目を瞑りそうになるが、俺は深く息を吸って勢いよく跳ね起きた。
このハッピーなニュースを、妻に伝えなければならない。
俺は納戸まで舞い戻り、コートを拾った。そして階段を駆け下りようとして、手摺に手のひらをかけて立ち止まった。
「……」
踵を返し、僅かな明かりに包まれている納戸へと入る。
ダンボール箱の上のアルバム。その上にある手紙を手に取り、柔らかく折りたたんで封筒に戻した。封筒の口で乾きかけた糊を親指で押さえつける。そして薄いブルーのアルバムの、元の隙間にそれをそっと流し込んで棚に戻した。
アルバムの縁を指先でなぞり、
「…じゃあな。浅越逢紗子」
そう呟いて、俺は納戸の扉を静かに閉じた。