まさかこんな形で再会するとは思っていませんでしたよ。
俺が目を覚ました後、その知らせを受けて駆けつけてきた加藤さんは苦笑交じりにそう言った。忙しい合間を縫ってきてくれたのは嬉しかったのだが、今まで見たことのない類の、弾んだような心配なような顔をしていた。何と言ったらいいのか分からないと言った感じの、彼にしては珍しい顔だ。この人もこんな表情をするんだな、と妙に新鮮な気分になった。家庭では未紀ちゃん相手にいつもあのような顔なのかも知れないけれど。
妻は俺を担当していた禿頭の医師――島田という名前らしい――に、ありがとうございました、ありがとうございました、と涙声で何度も頭を下げていた。思えば此処には夫婦揃って世話になっているのだし、病室には他の患者もいて、俺は何だか恥ずかしいから程々にしておいてくれと頼んだが、彼女は殆ど関係のない加藤さんにまで感謝していた。彼は少し困った様子で妻を宥めていた。俺の知る彼の新しい表情がまた一つ増えたのだった。
あの夜、俺は重度の危篤状態に陥ったらしい。
島田医師の張り上げた声や、引っ切り無しに危険を訴える心電図の電子音。妻や娘、息子の断末魔のような呼び声で病室は混乱の渦に巻き込まれた。
しかし脈拍が低下し、必死の救命活動も空しく無情にも生命の灯が吹き消されようとした時、突然恢復したと言う。まるで彷徨っていた魂が戻ってきたみたいに、血圧・脈拍共に安定し始めたのだと言った。それは紛れもない奇跡で、長年清杜記念病院で勤務してきた島田医師でさえも度肝を抜かれたらしかった。
彼の言う奇跡は、きっと本物なのだろうと思う。
今となっては、あの雲の上での奇妙な体験は全て夢だったのではないかと考えることがある。第一、神様や天国と呼ばれるものの有無の真実は定かではないのだ。最近では少しずつその記憶は忘却の波に晒され、映像は朧気になっている。
しかし、この手は戦々恐々と開いた扉の感触を覚えている。この喉は願いをこめて叫んだ言葉の振動を覚えている。この足は走り抜けた廊下の硬さを覚えている。そしてこの耳は、ある約束を交わした優しいドイツ人の声を覚えている。
それらを引き出すと、やはりあれは確かに俺が通った道だったのではないかと思えてくるのだった。だが、それを人に話したところで信じてもらえる自信はあまりないから、今は胸の中にだけ置いておくことにする。まあ、爺になって孫にでも聞かせてやれば、少しぐらいおとぎ話の代わりにはなるだろう。
「―――ああ、わかった。ゴールデンウィークかな。予定が合わなかったら、最悪週末にでも行けると思うぜ。…ああ、そうだな。それまで恩田も元気でな。…おう。じゃあな」
『…じゃあね、栗山』
耳に当てていた子機を充電器に戻す。ピッと軽く反応して、それっきり黙ってしまう。
恩田は元気そうだった。相変わらず味気のない平淡な声色だが、少しばかり張りがある。彼女の感情の機微にも、去年の秋に比べれば随分と触れられるようになった。それだけ彼女が俺に心を許してくれるようになったからだろうと一人思う。
恩田の猫に似た可愛らしい顔を思い浮かべる。彼女は未だにスウェットパーカーを着ているのだろうか。流石にそろそろ熱くなってくる頃だろう。彼女の故郷は内陸の温泉郷に近い地域らしい。彼女に会う用事をついでにして、たまには家族で温泉旅行に出かけるのもいいかも知れない。
想像と共に視線を切ると、庭に繋がる網戸の向こうに二羽の雀が踊っているのが見えた。何と言ってもこの陽気だ。ご機嫌そうに見えるのは、きっと気のせいではないだろう。今は春。桜の蕾が愛らしい、生命の芽吹く季節だ。塀の隙間から、気持ちも新たな爽やかな町人の姿が見える。新学期に新年度。娘は高校二年に進級し、息子も小学四年生になる。そして、俺も。
栗山洋介復活の第一歩である面接のスケジュールをすっぽかしてしまったのにも関わらず、久永の旧い友人の社長は熱い眼差しを以て俺を受け入れてくれた。何でも、身を挺して愛娘を守る父親の姿が琴線に触れたらしい。彼が自ら俺の横たわっていた病室に来たのは三週間ほど前。いたく感動した面持ちで、俺の雇用の心配を杞憂の名の下に捨て去ってくれたのだった。
小さく作られた縁側に立ち、朝の日射しを浴びながら伸びをする。その時、腹に細かい痛みが走った。俺は反射的に腹を押さえる。冷や汗を誤魔化すつもりで軽く口笛を吹いた。腹部の刺傷は、もう殆ど塞がっている。あとの治癒はもう体力に任せるしかないように思う。俺を刺した男とその仲間は、日を置かずに警察に捕まった。ナイフに付着していた指紋と目撃情報等から導き出された、簡単な逮捕劇だった。それはもうみっちりと償ってもらうつもりだ。娘の受けた恐怖は、金塊を百個並べられてもなお足りないのだから。
縁側に座って、広々とした青空に浮かんだふっくらとした白い雲を眺めていると、後ろからトトト…、と階段を駆け下りる音が耳に入ってきた。噂をすれば何とやら。きっと憂梨だろう。登校の時間が来たようだ。
急ぎ足でリビングへの入口を横切り、玄関でローファーを履く一連の音を聞きながらふとテーブルに視線を這わすと、小さな辞典ぐらいの大きさの弁当箱が置いてあった。デフォルメされたパンダの顔が幾つもプリントされた包みがいかにも女の子らしい。
「おい憂梨、お弁当忘れてないか?」
「あっ、ちょっと、ちょっと」
前にもこんなやり取りがあったような気がする。しかしそれが何時だったか思い出せない。気配りはしっかり出来るのに、何処か抜けているところは母親譲りなのかも知れないな、と考えつつ玄関に行って弁当箱を渡す。娘は、ありがと、と呟き、にこりと笑ってそれを受け取る。
あの事件の後、憂梨は交友関係を白紙に戻さざるを得なかった。
『佳子達とも気まずくなって、あんな話だから廊下もろくに歩けないし、他の人ともあんまり話せなくて今は距離を置かれちゃってるけど、二年生になったらまた新しく友達が出来たらいいなって思うよ』
三学期の終盤にこう語った娘は、疲れたように笑っていた。この弁当だって、以前は教室の自分の席で一人で食べていたのだ。
「いってきますっ」
しかしそれも今や俺があれこれ悩む必要はない。だって彼女は今や新学期に向けて期待を膨らませているのだから。憂梨が家を出て行く。自転車の鍵を外す軽快な音が外から聞こえてきて、俺は何故だか満ち足りた気分になった。
その数分後、修太も元気一杯に飛び出して行ったので、俺も出勤することにする。
玄関に座って、革靴に踵を靴べらで滑り込ませる。立ち上がって調子を確かめた後、後ろに控えていた妻に振り返って言った。
「じゃあ、行ってくるよ」
「はい」
ビジネスバッグを差し出してくる妻の顔色は、だいぶ良い。薄く微笑むその女が自分の嫁なのだと思うと、改めて喜びが湧き出てくる。それはもしかしたらおよそ二十年前よりも大きいのかも知れない。
「……」
「?」
そして鞄を受け取ったまま少し俯いて押し黙った夫に、彼女が疑問を感じ出した頃、俺は片手で妻の頭を引き寄せ唇を重ねた。
「…っ…ン」
一瞬、妻の身体が強張るのを感じる。唇を離すと、瑞々しい彼女のそれのしっとりとした感触が甘く残っていた。体を離すと、妻の様子が見て取れた。
突然のキスに驚いた顔で、口元に指を添えている。久しぶりだったからか、頬は真っ赤に熱を持ち、生娘のような初々しい反応であった。
彼女がそんなんだから俺も急に恥ずかしくなって、新婚の頃みたいだな、とむりやり笑って言って未だ惚けた様子の妻に背を向けて足早に玄関を出た。きっと俺の顔もこの季節の本物の桜みたいに染まっているに違いない。
駅に向かう道を歩いていると、爽やかな風が髪の間を面白そうにすり抜けていく。太陽の匂いを堪能しながら、近所の人達と挨拶を交わしていく。嫌味な声の野高夫人にも紳士的に頭を下げる。今ならこの人とも仲良くなれそうだ。
携帯電話を開く。新しく買ったそれのディスプレイには疵一つない。俺は待ち受け画面の中で顔を寄せ合う家族の写真を眺め、目を細めた。
逢紗子。俺をいつも支えてくれていた美しい妻。
憂梨。ちょっと不器用なところがあるけれど、本当は素直で優しい俺の娘。
修太。文句なしの美少年。元気よし運動よし、勉強は将来よしの自慢の息子。
皆、俺の大切な大切な家族だ。
だから決めた。神様に申し訳がたつように、俺は自分にある一つの判決を下そうと思う。
主文――――栗山洋介は、君達のいる限り、この掬い上げられた人生を生きていこう。
何処までも果てのない空を見上げ、そう告げた。
― Salvaged Life <完> ―