1・彼女
誰にも見られていないテレビが今の時刻、十二時を知らせる。
ゆっくりと時間が流れていくのを感じる。僕の肌の上を滑らかに滑っていくのを感じる。それはひんやりとして実に心地よい。
永遠に時間があるようにすら思える。これは僕が持っている時間が他の人と比べていくぶん余っているせいだろうか。
ここ四日ほどの睡眠時間はどれほどだろう。ひたすら仕事に打ち込んでいた記憶がある。
その仕事の半分は上司の失敗を拭うためのもの。この仕事は持ちつ持たれつで成り立っているので恨んではいない。実際その上司には今回の五倍ほどの失敗を拭ってもらっている。恩を少しだけ返しただけだ。
あくびが漏れる。眠いという自覚は無いのだが、体が睡眠を欲しがっているのかもしれない。
「眠そうですね」
水色のソファーの上で、眠っていたはずの秋さんが突然言った。
「起きていたんですか。ここ四日くらいあまり寝ていないんですよ」
「例の仕事ですか? 大変ですね」
秋さんは目を瞑ったまま口を動かす。
「大変でしたけれど、そのおかげで三日お休みです。これからゆっくり寝れますよ」
再びあくび。少し眠らせてもらおうか。
「何かそれおかしくありませんか? 四日働き続けて、その後三日休み。今更ですがまともな体系をしていませんね。その休みも強制で給与は出ないのでしょう?」
「まあ・・・・・・良い方ですよ。これは」
数秒間の沈黙の後、秋さんはまぶたをゆっくりと開いた。そしてため息を一つつき、顔の向きはそのままで、僕を見た。
「退屈です。面白い話をしなさい」
僕が秋さんの『電話では済まない大切なようがあるから、ちょっと遊びにでも来なさい』と、突然呼ばれてからたっぷり三時間が過ぎたときのことだった。
「面白い話?」
「そうですよ」
分かってはいる。分かってはいるのだ。この人は用があるといったが、特別な用事がないということくらい。
大学時代からそうだったのだから。
どこからともなく訪れる将来への不安やら現状の退屈さやらを紛らわせるために、僕らはよく彼女の部屋でくだらない話をしていた。
そのくだらない話がふと途切れ、部屋に沈黙が訪れたとき、彼女は僕に、そして僕と彼女の共通の友人たちには決まってこう言った。面白い話をしろ。このセリフ。今までに何度言われたことか。今でも友人たちの気まずそうな顔を思い出せる。
この大学時代からの先輩はいつもこうだった。
「あれ、読みました? 朝目五郎の新刊。あれは良いですよ。今年の中でも随一ですね」
傲慢な命を聞かなかった事にしようと、我ながらへらへらと軽薄な笑みを浮かべて最近出た小説へと話題を変更しにかかったが。
「まだ、読んでいませんね。SFは苦手なんですよ。特に朝目の文体は、くどいです」
「そうかもしれませんね。でも、二年ぶりの新作ですし」
「ああ……」
秋さんはつまらなそうに口の端を持ち上げた。
「春は恋人の前でもそんなつまらない事ばかり言っているのですか」
僕に恋人がいないことは、しょっちゅう呼び出す彼女が誰よりも知っているはずなのだが。どうにも機嫌が悪そうに見える。
「本当の用は何ですか」
秋さんはさらにつまらなそうにため息を重ねる。
「お土産です。お土産」
そう言って彼女の前にあるガラスのテーブルの影に置かれていたビニール袋を投げてよこされた。
「お土産ですか。どこ行ったんですか」
「北海道」
一言のみ、あっさりと言う。
中を見てみると、白い恋人が一箱。一応賞味期限を確かめる。過去一度、賞味期限が大きく過ぎていたお土産を彼女に貰って、腹を壊したことがあったからだ。
大丈夫。食べれる。さすがの秋さんでも表示の改変まではしていないだろう。
「昔、ゼリーの詰め合わせを貰いましたよね」
「春がですか?」
「はい。僕はそれで、丸一日かけたトイレとの戦いというのを体験しましたよ」
「賞味期限が切れていたのでしょうね。誰ですかそんな事をしたのは。まったく嘆かわしい」
あんただ。分かっているのか、素で忘れているのか。
「まあ、ありがとうございます」
「お返しを期待しています」
彼女はそれきり黙りこむ。
やはり大切な用などなかったのだ。この土産も本当に僕のために用意された物なのか怪しいものだ。
「退屈なんですね」
「そう。世界は退屈に溢れています」
秋さんのその言葉とともに、ソファーから彼女の白い足が飛び出た。それはプラプラと主の退屈さを表すように揺れている。
「私たちに今必要なのは何ですか? 私たちには何が足りない?」
黒ずんだしみの残る天井を見上げながら、彼女は歌うように言う。天に向かって突き上げられた細い人差し指をくるくると回しながら。
また変なことを言い出した。
「何でしょう。夢でしょうか、希望でしょうか。努力や向上心、自由や真理でしょうか。それとも隣人を愛する心?」
彼女がこんなことを言い出すのは日常茶飯事なので、受け流そうと軽口を叩く。まともに受け止めると、頭痛がしてくるのが常だからだ。
「違います」
「はあ」
僕はひび割れたグラスに口をつける。中身は水のような味のする紅茶だ。これは秋さんの趣味だった。
「答えは、事件です」
事件? 何のことだと思っている僕の目の端に、一冊の本が映った。
部屋の隅に無造作に置かれている。文庫本だ。その横には荒れた本棚。恐らくそこからこぼれ落ちたものだろう。
秋さんは語り続ける。
「私たちには事件が足りないのです。それも身も凍るような凄惨な殺人事件が必要なのです」
だらだらとやる気のなさそうに語っているが、微妙に熱が入っているような気がする。よくない兆候だ。
本のタイトルが読めた。
『・・・・・・殺人事件』と書かれているのが見えた。
影響されたのか。
「ああ、私が一番最近事件を解決したのはいつ頃だったでしょうか」
楽しかった思い出を振り返るように、秋さんは赤く薄い唇を歪ませる。
「普通の人は事件を解決しません。ああ、そういえば最近探偵役をやってましたよね。二時間サスペンスで」
秋さんの職業は女優だ。初めのころはセリフのない脇役中の脇役を演じてばかりだったが、ここ数年でそれなりにテレビに映るようになっていた。
そしてつい最近、二時間サスペンスドラマの主役に選ばれたばかりだ。彼女はテレビの中では名探偵だった。当然知人が主演するとの事なので、僕も彼女と共通の友人とともに見させてもらった。北海道もきっとその時行ったのだろう。
「格好良かったですよ、秋さん。こう、ピッと人差し指を立てて『犯人はあなたです』ってね。僕はあまり名探偵の登場する物語のことを知らないんですが、なかなか知性的というか、なんというか」
僕としては褒めたつもりだったのだが、その対象の彼女は渋い顔をしていた。
「それじゃあ、ないですよ」
「どういう事です?」
「ああ、春は知りませんでしたっけ。私、今までに何度か警察沙汰の事件解決しているんですよ」
突拍子もないことを何でもない事のように言う。
「はあ? 何言っているんですか」
あんまりな言葉に反応が遅れてしまった。
「本当ですって。殺人事件もありますよ。知り合いの刑事さんに秘密裏に頼まれるんです。今の警察には私の天才的な頭脳が必要なんですよ」
秋さんはうっすらと笑いながら中指で自分のこめかみを軽くつつく。
いくらなんでもこれは本の影響を受けすぎでは無いだろうか。もう少しそれっぽく言ってくれれば冗談だと笑うことも出来るが。
「まるでドラマに出てくる名探偵ですね。秋さんが最近やってた役のような」
「信じていませんね。まあ、春には関係の無い・・・・・・」
彼女の言葉を遮り、どこからか単調な電子音で音楽が流れてきた。これはクルミ割り人形だ。
「はいはい」
秋さんはソファーからむくりと起き上がり電話に向かって歩いていく。
「はい、赤衣です」
わずかに彼女の声のトーンが、よそ行き用のそれに上がる。
電話か。クルミ割り人形の設定なんて珍しい。
「ああ、大神さん。お久しぶりです。どうしましたか?」
秋さんの声が心なしか弾んでいる。何かあったのだろうか。
何度か秋さんの相槌が続いた。相手が一方的に何かを説明しているようだ。
「はい・・・・・・。はい・・・・・・。いいえ、全然構いませんよ。ちょうど退屈だったんです」
知り合いだろうか。声のトーンはすぐに元に戻っていた。心なしか僕と話すよりも親しそうだ。別に彼女とは、恋人でも何でもないので特に嫉妬などはしないが。
「そうですね。大神さんには悪いですけれど、無駄にならないことを祈っていますよ。はい・・・・・・はい。じゃあ、明日にでも。はい。失礼します」
「ウフフ」
電話先で何を言われたのか、秋さんは不気味に笑っている。興奮してるのか、ほおがほのかに赤い。
「春。これから数日空いていますか?」
不気味なほどに上機嫌の彼女は僕の目の前に正座し、漆黒の瞳で僕を凝視する。その視線は強い熱を持っていた。痛いほどに彼女の思念を感じる。それが良いものか悪いものかは関係なく、ただただ、怖い。
「空いているんですか?」
「まあ、空いているっていえば、空いていますけれど」
ちょうど、三日間の強制休暇があるところだ。そしてとても悲しいことだが、その間にしたいことも、しなければならないことも何もない。
「よし、じゃあ、明日からちょっと旅行に行きましょう」
「はあ、どこです?」
突然の提案。彼女には珍しくないことだ。ほんの少し恐怖が和らいだ。
「不義村という所です。――県の山奥にあります」
聞いた事のない村だ。そこに何があるのだろう。月並みだが温泉とか?
「何をしに」
「殺人事件の解決です」
何とまあ、嬉しそうに。
・・・・・・殺人事件?