十余り九つ眼 「私は慧にちゃんと『ごめん』って言ってない!」
分別を忘れないような恋は、そもそも恋ではない。
トーマス・ハーディ
小泉が私を‘どこに連れて行ってくれるのか’はわからない。でも小泉が私を‘どこかに連れて行ってくれる’事はわかる。ただその事実だけが私の身体を前へ前へと突き動かす。左手に握ったハーネスの微妙な動きは私に曲がり角の存在や段差の位置を逐一教えてくれる。こうして私は一筋の光も差さないこの見知らぬ道に自らが歩いた軌跡を描く事が出来る。でも残念な事に辛うじて前へと歩き出しているのは自らの身体だけで心は未だに後ろ向きなまま。歩いているというよりは引き摺られているといった感じだ。
私の右手にはしっかりと小泉の左手が握られている。その右手から私の全身に小泉の手の温もりがじわじわと染み渡っていく。私の心の中のどす黒く染まった何かが跡形もなく融けてしまいそうだ。私は小泉の左手を強く握り返した。
これは私の弱さだ。そして私の卑怯さだ。私は心の片隅で慧を突き飛ばしてしまった事を無かった事にしたいと思っている。自らの罪を償う事無く、赦されようとしている。そこまで気付いていながら、尚も私は小泉の手を離そうとはしなかった。ほんの僅かな安らぎと共にある例えようもない胸が締め付けられる鈍い音。物理的に両手を塞がれている私は聞かない振りをした。
「ちょっと休憩しようか」という小泉の提案に無言で頷いた私はベンチらしい木製の椅子に小泉と一緒に腰掛けた。ここは公園かどこかだろうか。足元から伝わってくる感触がいつの間にかアスファルトの堅さから芝生の様な柔らかい感触に変わっていた。脚をちょこまかと動かしながらその足元から伝わる環境の変化を確かめていたら、小泉のクスリと小さく笑う声が聞こえてきた。
「ははっ、どうしたのさ、姉さん? 足、疲れた?」
「いや……なんか芝生があるのかなって思って……。どうなのかなって調べてた」
「ああ、なるほどね」
「これは芝生だよね?」
「うん。正解。芝生が青々と茂ってるね」
「やっぱりね。……うん、私はすごいなぁ。さすがだなぁ」
「あぁ、さすがだな、姉さん」
それは本日初めての私と小泉の会話らしい会話だった。でも、お互いの言葉に正体不明の違和感が付き纏っていると私はすぐに気が付いた。小泉の声はどこか乾いていて抑揚がないように思える。私だって「さすがだなぁ」と自画自賛しながら、実際はそんな事ちっとも思っていないのではないかと思えてしまう適当な口振りだ。近くに駐車場でもあるのか、時折、車が徐行運転をする音が微かに聞こえてくる。途端に二人とも黙りこくってしまったから、余計にその音がはっきりと聞こえる。
ここはどこなのかという当たり前の質問すら私はしなかったし、小泉もここがどこなのか教える様子もない。この瞬間はお互いに沈黙すべきであるという決まり事が暗黙の了解のうちに成立しているみたいだ。
この状況をどうにかしようという考えは私には無かった。別に喋る事が無いわけじゃない。ただ喋る必要が無いと思うだけなのだ。‘沈黙を破ろうとして’仮に無理やり言葉を紡いだとしても、必ずその言葉と言葉の間には綻びが出来てしまう。かえって余所余所しい雰囲気を産んでしまうだけ。そして少し油断をしたらその言葉の綻びから私の隠された本音がチラチラと覗いてしまうかもしれない。情け無く恥ずかしい本当の私の姿なんて誰にも見せたくない。だから私は黙る。この状況この沈黙は、つまり私にとってはそういう意味を持っているのだ。
「あのさ、姉さん」
沈黙を破ったのは小泉のそんな一言だった。
「何?」
私は必要最低限の言葉だけ小泉に投げかける事に努めた。
「一つ聞いてもいいかな?」
ドキリとした。後ろからいきなり肩を乱暴に叩かれたような驚きがその言葉にはあった。だから、その小泉の言葉に私は先ほどのような冷静な返事をする事が出来なかった。
「今、姉さんがしたい事は何?」
続けて放たれた小泉の言葉に私はまたもや声が出なかった。
小泉の質問の意図が分からなかった。その代わり小泉の言葉の温度は伝わってきた。それはとてもひんやりとしていた。そこにはひどく落ち込む私を気遣ったり労わったりする優しさが……そう、温もりが感じ取れなかった。
「どうしたの、姉さん? 答えられないの?」
小泉は私のどんな言葉を期待しているのだろうか。
そもそも小泉は私を慰めようとしてくれるのではなかったのか。優しくしてくれるのではなかったのか。そうではないとしたら小泉は今私に何をしようとしているのか。そもそも何故、私にそんな質問をするのだろうか。思わず私は下唇を噛んでしまった。何だか裏切られたような気がして、悲しみにも似た感情が込み上げてきた。
「じゃあ、ちょっと質問を変えようかな。……俺たちは今どこにいると思う?」
今度は分かりやすい質問だった。どちらにしろ答えられなくはない質問だ。でも、相変わらずその発言の意図は分からない。モヤモヤとしたわだかまりだけが私の心の中で膨らんでいくのが分かる。私は自分の膝に乗せた自らの両手をキュッと結んだ。沈黙に身を置かれる時よりも居心地が悪い。
「ごめん。分かるわけないよね。ごめんごめん」
小泉はどういうわけか笑っている。とても爽やかな笑い声だ。でも、私にはその笑い声が気味の悪いものにしか聞こえなかった。
「意地悪して悪かったよ」
小泉は私の頭をくしゃくしゃと撫で回した。
小泉が私に何をしたくて何を言いたいのか考える事も出来なかった。率直に「わけが分からない」「何がしたいの?」「何が言いたいの?」と訊けばいい。でもそんな当たり前のような受け答えさえする事が出来なかった。
「ごめんね。なんか今日の私、変だ」
やっと私の口から出た言葉がこれだった。
何が言いたくて何がしたいのか分からないのは私の方かもしれない。
「謝る事はないって。どこに行くのかも教えないで黙ってここまで連れてきたのは俺なんだから、そりゃ混乱するでしょ? しかも、意地悪な質問もしちゃったし。なんて答えたらいいか分からなくなるのも無理無いよ」
やっぱり小泉は優しい人間だった。何も言わず何もしない私を責めようとはしなかった。
「あのさ、ここは慧が運ばれた病院の近くの広場なんだ。すぐそこに病院がある。だからさ、一緒に慧のお見舞いに行ってやろうぜ! そして、ちゃんと慧に謝ろうぜ! 突き飛ばしてごめんってさ!」
どうして私はこんな簡単な事を思い浮かべる事ができなかったのだろう。小泉が私をここに連れてきた理由を理解して漸く私はその事に気が付いた。
私は昨日慧をカッとなって突き飛ばしてしまった。病院に運ばれるような怪我をさせてしまった。そして昨日の帰り道に私は一人でいつの間にか泣いていた。
どうして泣いてしまったのか昨日の私には理解できなかった。
でも、今の私には泣いていた理由がはっきりと分かる。
「行こうぜ! 慧が病室で待ってる」
私の右手に小泉の温かな左手が重なった。
「うん」
私の声は少し震えていた。
何かを迷っているのだろうか。それとも恐れているのだろうか。立ち上がり小泉に引っ張られながら歩く私の足取りはどこか覚束ない。