いちわ
ざあ、ざあ。
空を見上げれば一面の雫が降り注ぎ、陰鬱な街に一層影を落とす。
「…降り出しちまったか、面倒だな」
さっきまで俺が見ていた空は、確かに雲一つ無い晴天の筈だった。しかし、少しコンビニで時間を潰し、店から出てくればこの有様、記録的とも言える大雨だ。
どうにも、神様は俺のことが嫌いらしい。
「まあ、どうでもいいか」
俺は降り注ぐ豪雨の中に、遠慮も無しに足を踏み出す。生憎と自分は傘を持っていなかったので、必然的に俺は暫く歩くとずぶ濡れになってしまう。
ああ、冷たい。体の芯まで冷えていくようだ。このままでは風邪を引いてしまうかもしれないな。
まあ、風邪を引いていても引いていなくても、俺の仕事に全く支障は出ないから全く問題はないのだが。
まあ、俺が風邪を引いても誰も心配などしないのだから全く問題は無いのだが。
暫く雨の中を歩いていると、商店街の近くにある公園になにやら人が集まっているのが目に入った。
あまり興味があった訳ではないのだが、家に帰っても特にすることがないので、暇つぶしがてらその人だかりを少しだけ覗いてみることにした。
「―――――――!!!」
「―――――――――――――!!!」
近くに寄ってみると、男女のものと思われる怒号が飛び交っており、口喧嘩をしているであろう事が推測できた。
「何があったんだ?」
俺は近くで見ている中の一人の男の肩を叩き、質問をした。
「あ?なんだお前」
明らかに柄の悪そうな男が振り返る。どうやら、はずれを引いたようだ。しかし、周りを見渡してみると、女と言い争っている男を含め、育ちのよさそうな人間は一人もいなかった。どうやら、喧嘩の取り巻きは全員、喧嘩をしている男の知り合いか何かのようだった。
「何があってあの二人は喧嘩してるんだ?って聞いてるんだよ」
「お前口の利き方に気をつけろよ。ちっ、まあいいや。あの女がいきなり俺たちに突っかかってきたんだよ」
男は面倒そうにかなり要点の省かれた説明する。
「いきなり突っかかってはこないだろうが。ましてや、お前らみたいな柄の悪い連中に向かって」
そんなことをする人間は、馬鹿、もしくは狂人、もしくは武の道を極めんとするようなやつぐらいだろう。
「いや、ほんとにいきなり突っかかって来たんだって、何ならあの女に聞いてみろよ」
男は女の方を指差す。黒髪のストレートのロングヘアに何とも味気ない格好で、俺の目には、馬鹿にも狂人にも武人にも写らなかった。
「じゃあ、そうさせてもらうよ」
「ちょっ!おい!待てよ」
男が俺を引きとめようと手を伸ばしていたが、その手が俺を掴むことはなかった。
「ちょっと失礼しますよっと」
俺は野次馬を掻き分け、騒ぎの中心へと向かって行く。周りから罵声とも怒号ともとれる声が聞こえるが、気にしたら負けだと思う。
喧嘩の取り巻きは、思っていたよりも人数は少なく、数人の間を掻き分けると、喧騒の中心へと到達することができた。
「なんだお前は!!」
喧嘩をしていた男が、俺を威嚇する。何とも、頭の悪そうな顔をしているな。教養の無さが至る所からひしひしと滲み出ている気がする。
「いや、なんで喧嘩してんのかって気になってね。理由を聞かせてくれないか」
「理由も何もこの馬鹿女がいきなり突っかかってきた、それだけだ!」
なあ前ら!?と言わんばかりに男が周りに同意を求めるように見渡し、取り巻きもそれにうんうんと頷いて応える。
「そうなのか?」
俺は女に尋ねる。どうも、あいつらの話は信用し難い。
「そう思いたいなら思えば良いじゃない」
女は口を尖らせ、そっぽを向く。どうやら、ご機嫌斜めのようだ。
「そう思ってないからお前に聞いてるんだろうが」
少し考えれば分かるだろう。馬鹿かお前は。
「………あいつら、集団で取り囲んで脅して、お金を巻き上げてたのよ」
暫く口を噤んでいた女が、口を開き呆れたように説明をした。
「何だ、お前らが悪いんじゃん。よし、帰ろうぜ」
「ちょ、ちょっと!!」
俺は女の手を引いてその場所から去ろうとする。
「おい、待てよ。なんなんだよお前。どこに行く気だ?」
男が俺の目の前に立ち、俺の胸倉を掴んでくる。
「どこってこの娘を家まで送って、俺も家に帰るんだよ。お前らは女の子のエスコートが苦手そうだから、俺が代わりにやってやるんだよ」
「てめえっ!なめてんのか!!」
男が拳を振り上げ、俺に殴りかかる。
「何言ってんだよ。なめてるに決まってるだろ」
俺はズボンの右ポケットに入れていたナイフを取り出し、俺の胸倉を掴んでいた男の腕に、深々と突き刺した。
ずぶり。
ナイフで男を刺した感触がじわりじわりと右手から伝わってくる。
生き物の体を鋭利な刃物がずぶずぶと蹂躙していくこの感触、人を刺したのは生まれて初めてだが、最高だ。気を付けないと病み付きになってしまいそうだ。
「え?あ、あ、ああああああああああああああああああああ!!」
男が俺を掴んでいた手を放し、叫びをあげて、半狂乱になりながら傷口を必死に押さえ込んでいた。
「さ、今のうちに」
俺の隣で俺の手に握られている男の血で赤く染まったナイフを見詰めながら、困惑している女に俺は囁いた。
「え?う、うん」
女は戸惑いながらも、俺の言葉に応じた。
「待てよ、俺らがお前をタダで返すとでも思っちゃてんの?」
刺された男が俺に睨みを利かせながら脅してくる。
標的は完全に俺になったようだ。まあ、そりゃそうか。
「じゃあ、どうしたら帰らせてくれるのさ?この場にいる全員刺せばいいのか?」
俺はそういって右手で握り締めているナイフをちらつかせる。
「っ!」
男はナイフにべっとりと塗りたくられた自分の血を見て、怯んだ。
「じゃあ、俺は雨も鬱陶しいんでこのへんで。さ、お姉さん行きましょうか」
公園の男達にひらひらと手を振り、女を連れて俺は公園を出た。
「にしても、よくあんたナイフなんか持ってたわね」
公園を出て、暫くは無言だった女が、唐突に感心したような呆れたような口調で俺に放し掛けて来た。
「なに、護身用だよ。最近は物騒なのも多いしね」
用心するに越したことは無いだろう。
「どっちかと言うと物騒なのはあんたの方な気もするけどね」
「失礼な」
俺が怒ると、女は少し笑った。
そのなんとも無邪気な笑顔に、大雨を傘も差さずに歩いていると言うのに、俺の胸の奥は熱くなった。
「そえばさ、あんた名前何て言うの?」
「人に名前を尋ねる時は自分から、これ基本だぞ」
と、俺は親に教わったが。
「っと、ごめんごめん。えっと私は沙希。上谷 沙希よ。よろしく」
にっ、と彼女が笑顔を見せる。
「俺は渡部 真人。よろしく」
俺は照れながらも自己紹介をした。人に名前を名乗るなどかなり久しぶりだ。
「で、どうすんの?」
俺は上谷さんに質問してみた。
「主語が無いわよ」
確かに。
「いや、雨も酷いしさ、上谷さんも傘持ってないみたいだし、俺の家に寄ってかない?って聞いてんの」
「渡部君、初対面の女の子を行き成り家に招くってどうよ?さすがの私でもそれは少し警戒しちゃうぞ?」
上谷さんはささっと手を前に出し、蟷螂のように身構えた。
「まあ、行くけどさ」
「来るのかよ」