17.小説を書きたかった猿
17 小説を書きたかった猿
書店アルバイトについて調べてみた。実はかなりの肉体労働なので腰を痛めたり、客のクレーム処理で胃を痛めたり、覚えることが多すぎたり、時給が安すぎたりで、思っていたよりもずっとつらいものらしかった。
けれど少し自虐的になっていた僕は、これまで図書館を利用してほとんど無料で本を読む楽しみを享受してきた以上、本のために働き過ぎて倒れるのも悪くはないんじゃないかと思い始めていた。
アルバイト募集の貼り紙があった近所の書店に問い合わせた所、「一日四時間、週四日程度働ける人を募集しているんですよ」と言われた。
時給は七百五十円。一ヶ月働いても五万いくかどうかといったところ。本格的に働いて稼ぎたい人には不向きなバイトらしかった。少し拍子抜けしたのでやめようかとも思ったが、「ええ、それでも構いません」と返答してしまった。働かなければ五万でも十万でもなくゼロなのだ。
面接の日時を確認して電話を置いた後、ようやく胸が高鳴ってきた。よくよく考えてみれば、四時間であろうと、週四日であろうと、これまで働いたことのほとんどない僕に勤まるものかわからないのだ。
筋トレをした方がいいかな、いや外に走りに行くか、しかしまだ昼だ。第一今からやって急に体力がつくわけじゃない、最初のうちは仕事のやり方を教わるだけで体力仕事ではないかもしれない……などと考えているうちになんだか何もかも面倒になって、ピンボールのゲームソフトを起動させた。
しかし一向に面白くない。
とっくに飽きていたことには気付いていた。
テキストエディタを立ち上げ、久し振りに「断片」を書いた。これで書き納めにするつもりだった。
「小説」と題したそれは、遺書じみていた。
語り手の「私」は自意識過剰気味に自己を否定し、小説を書こうとして書けなかった己を殺そうとしていた。死後残される原稿について、焼いてくれ捨ててくれなどとほざきながら、未練たっぷりの様子だった。小説を書けないなんて書いておきながら、本音では「ずっと小説を書いてきた」と言いたいように見えた。情けなくてくだらない人間のくせに、どこか自分を美化しているところがあった。いい歳して働かず、いつまでも作家志望者でいることにほんの少し誇りを持っている輩なんて、みっともないだけなのに。出来損ないの太宰治みたいで顔を背けたくなった。最後まで猿真似になってしまった。
そういえば太宰に「猿面冠者」という小説がある。「文学の糞から生まれたような男」という言い回しをよく覚えている。傑作小説をものにしようとした主人公が最後どのようになってしまったのかは忘れてしまったが、作者の最期なら覚えている。僕には一緒に死んでくれる人なんていない。一緒に生きてくれる人も。
とりあえずは、父が新しい車を買う際に、少しでも足しになるくらいのお金を稼ぐところから始めようと思った。自分のために、なんてことばかり考えていては、いつまで経っても働かない道を選びそうだから。
小説は、もういい。さっきの断片でケリはついた。僕の書くものは誰も幸せにしないし、時には自分さえも傷つけてしまう。それよりも今の問題はバイトの面接だ。声は出るだろうか。敬語は使えるだろうか。髪を切っておいた方がいいか。綺麗な服を準備しておかなければ。受からなかった時のために、他のバイトの当ても探しておかなければ……。
髪こそ切らなかったが、枕に口を当てて「雇われ人魚が下手な歌うたって客引きしているゲロだらけの街角」を歌ったり、鏡の前でお辞儀の練習をしたり、比較的まともな服を探したり、ネットで「面接に受かる方法」なんてのを調べてみても、まだまだ時間は余った。面接は明日の午後二時で、まだ二十時間も先の話だった。気持ちが浮き足だっていて本も読めない。しつこくピンボールにトライしてみたがやはり全然楽しめなかった。
そして僕は、ほんの数時間ぶりに、テキストエディタを立ち上げた。
<小説を書きたかった猿 第一部完>