僕は、何かに触るのが好きだった。ついこの間、お父さんからもらった黒ずんだボール、僕はそれを暇さえあれば投げたり、潰したりして遊んでいた。軟らかくって気持ちよくって、そんなボールを触ると僕はお母さんを思い出す。だから僕はボールをまた壁にぶつけて、嫌なことを忘れる。だってそうだよ、お母さんは妹を連れて、僕をおいて、どこかに行っちゃった。だから、お母さんなんて嫌い。きっと僕のことなんか、もう忘れているに決まってるんだから。
僕がボールを強く投げつけると、お父さんは変な笑顔を浮かべる。子供の僕から見ても、お父さんが普通じゃないことぐらい、理解しているつもり。でも、それはあくまでつもりであって、僕はお父さんのどこが変なのなんて、わからない。
お父さんがお昼ごはんを作ってきてくれた、今日もハンバーグらしい。最近、僕の家のおかずはハンバーグばかりだ。これも全部、お母さんがいなくなったせいだ。
お父さんの作るハンバーグはベチャベチャしていて美味しくない。お父さんはそれを自分でわかってるから、食べないんだ、僕には食べさせるくせに。僕が食べないと、お父さんはきまって機嫌を悪くする。仕方ないよ、僕にだって飽きはくるさ。
「和樹、お父さん、ちょっと出かけてくるから」茶色のコートを羽織りながら、僕に話すお父さんは、暗い顔をしている。
「お父さん、何かあったの?病院に行くの?」僕がそう聞いてもお父さんは応えない。
結局お父さんは、それから半日後に帰ってきた。手には近所のスーパーのビニール袋をぶら下げていて、中には消臭スプレーや氷、白い布が入っているのが見える。
何に使うの、とは聞けなかった。お父さんは必要以上に僕と会話したがらない。お父さんも、きっと僕のことが嫌いなんだ。お父さんもお母さんと妹みたいに消えちゃうのかな。 そのうち、僕は一人になっちゃうのかな。教えてよ、お父さん。
僕がボールと戯れていると、お父さんが部屋に来て消臭スプレーをまいていった。どうしたんだろう、僕の部屋そんなに臭いのかな?だからお父さん、僕と話したがらないのかな?だからお母さん、どっか行っちゃったのかな?だから妹は、僕と手を繋いでくれなかったのかな?ねえ、どうして?どうしてみんな、僕を避けるの?
翌朝、お父さんが起きてこない。いつもなら朝食の準備をする時間なのに、部屋からは物音一つしない。お父さん、僕といるのが嫌になって、お母さんの所に行っちゃったのかもしれない。そしたら、僕はどうすればいいんだろう。急に家に一人でいるのが怖くなって、飛び出すと、近所の小母さんにぶつかった。人の感触が久しぶりで、暖かい。
「和樹クン、お父さん、いる?」小母さんは、いつもは僕に優しいのに、今日はどこか冷たくて、小母さんまでもが、僕を嫌いになったように思えた。
「お父さんなら、いない。きっと僕のことが嫌いになって、お母さんと妹のところに行っちゃったんだ」
小母さんは僕の言葉を聞き終わらないうちに、自分の家に帰っていた。それがどうしようもなく寂しくて、僕は紛らわすようにポケットの中のボールを触り続ける。なんで、僕は独りなんだろう、別に寂しがり屋な僕を独りにしなくたって、いいじゃないか。
ふと、ボールの感触に違和感を覚える。あれ、こんなに歪な形だったっけ?昨日の夜までは、綺麗な円を描いていたのに。僕にはそれが許せなくて、何度も強く引っ張りながらボールを矯正する。でもボールは円になるのが嫌だといわんばかりに頑丈で、最後には鈍い音を立てて、千切れてしまった。
僕はそれを慌てて拾い上げて、ボールの中を覗き込むと、暗い中に六個の目玉がギョロギョロと動いていて、僕を探しているように見えた。
「ああ、なんだ、みんなそこにいたんだ。僕、探しちゃったよ。お母さんも妹も、お父さんも元気そうでよかった」
────やっぱり家族は、仲よくしなくちゃね。