俺は菜瑠の部屋のドアと見つめあっていた。
決してドアに恋したわけではなく、部屋に入ろうか迷っていたのだ。
と言うのも、妹と言えど一応女である訳で、むさくるしい男が女の部屋に入っていいのかと悩むのは当たり前のことである。
妹に女性としての興味は無くても、女としてみてやらなくてはならない。俺はそう思っている。
それはともかくとして、俺は入るかどうか1分ほど悩み、結局入ることを決めた。
入るのには深い理由がある。
と言うのも、この話は昨日の夜にさかのぼる。
俺は、自分の部屋で扇風機をつけながらネットサーフィンを楽しんでいた。
しかし、俺は楽しみつつも意識を半分失いかけていた。
と言うのも、昨日の授業は体育×2に古典・世界史の地獄時間割。最初からクライマックス状態である。
学業という悪魔に精気やら何やら全て吸い取られ、楽しいはずであるネットサーフィンの時間まで奪われつつある。そんな状態だった。
すると突然後ろでガタガタッと音がして、俺は遠い夢の国から現実へと吸い戻された。
音の方向へ向くと、扇風機が部屋の出口へと歩いていくのが見えた。
いやいや、扇風機がひとりでに歩くわけが無い。
よく注意してみると廊下側から扇風機のコードを引っ張り、手繰り寄せているポニーテールの姿を確認できた。
俺は睡眠を邪魔された苛立ちと、急に部屋の中が蒸し暑くなった苛立ちをぶつけた。
「お前何してるの?」
「えー、だって暑いから」
俺はぶー垂れる菜瑠から扇風機のコンセントを奪い返す。
菜瑠はまだ高1なのに、胸が自己主張しすぎてて困る。
顔もそこそこモテる程度には可愛いらしいが、兄似なので俺はあんまり可愛いと思えない。
「お前の部屋にも扇風機あっただろ。それ使えよ」
「さっきカーペット動かしたら、倒してしまった」
先に言っておくが、菜瑠の機械を壊す率が非常に高い。これは覚えておいたほうがいい。
「ふざけろ。扇風機取られたら、こっちだって暑いじゃねぇか」
「じゃあ、ジャンケンで決めよ」
「えっ?」
「ジャンケンだったら、コーセイな勝負でしょ」
そもそも、こっちの圧倒的有利だったのに勝率が急に半分になる時点で公正では無いと思う。
「さーいっしょはぐー」
もう始まってるのかよ、と心の中で突っ込みつつ一瞬遅れて握りこぶしを前に突き出す。
「じゃーんけーん、エロ本何冊っ!!」
「うぉっ!」
俺は小学校の時に起きてしまったとても悲しい事件が脳裏をよぎり、思わずグーを出してしまった。
それを見越してか、菜瑠の手はパー。
これが現代に生まれた孔明か……何と恐ろしいのでしょう……。
しかし、俺も黙ってはいない。早速反撃に出る。
「でも、お前5冊もエロ本持ってるのかよー。エッチな子だこと!」
俺はジャンケンに負けた悔しさや憎しみ、負の感情を全てこめた。
菜瑠のピュアで純情なハートはこれで打ち負かした。俺は勝利を確信した。
しかし、菜瑠は馬鹿にした口調で
「それくらい高校生にもなったら持ってるがな。バカじゃないの?」
とおっしゃられた。
俺の純情な菜瑠はどこへ消えてしまったのか。
小学校の頃、
「お兄ちゃんおかし~」
と擦り寄ってきた菜瑠。
「お兄ちゃんおかね~」
と擦り寄ってきた菜瑠。
それが今や、エロ本を読むほど心が荒んでいるとは……。お兄ちゃんは嘆き悲しんだ。
その発言に唖然としている俺を尻目にして、扇風機は菜瑠の手で部屋へと運ばれていった。
いろいろと事件が多すぎて、くじけそうな一日でしたとさ。
と言うわけで場面は再び、菜瑠の部屋の扉の前に戻る。
つまり俺はこの部屋にエロ本が本当にあるのか確認しに……、いや扇風機を取り返しに来たのだ。間違いなく。
俺は意を決してドアを開け、中へと入った。
中には誰も居なかった。ほのかに菜瑠の良い匂いがする。
目的の扇風機は、机の前にあった。しかし、俺の目的はそれだけでは無かった。
「エロ本を……おっと、部屋を片付けないとな」
俺は部屋を片付ける為に妹の机の引き出しや、その他の収納場所からありとあらゆるものを出した。
エロ本を探しているように見えるが、掃除をしているので仕方が無い。
「ここには無いみたいだな……」
俺は最後まで取っておいたクローゼットを開けることにした。
すると、最初に目に入ってきたのは下着が入ったクリアケースだ。
「てんてん……てんてんブラジャーじゃないか……!!」
俺は白地の黒の点々が入ったブラジャーをもふもふした。
おお、ブラジャー。何と素晴らしいフォルムなのだろう。
世の男性はパンツに興奮するらしいが、違う。何も分かっていない。
ブラジャーこそが絶対神。ノーブラなど絶滅すべき文化である。
パッドの上から乳首をなぞるのが俺の生涯の夢である。
一通りブラジャーをもふもふして、元に戻した後俺は信じられないものを目にした。
それはピンクのフリルのついたスカートに、これまたピンク色をしたふりふりのついたゴスロリチックなドレス。
間違いなく、「カシミア」の衣装だ。
手にしてみると、やはりこれからも菜瑠の独特の良い匂いがしていて、細かい点がくたびれているところから何回も着たことが分かる。
しかし、この衣装は何故ここに、まるで菜瑠のものであるかのように吊られているのだろう。
まさか、菜瑠がカシミア……?
俺は現実から、急に夢の世界に入ったみたいな感じを受けて固まってしまう。
少しして、俺は頭の中に「コスプレ」というワードが浮かび上がってくる。
何だ、そうだったのか。
菜瑠にはそんな趣味は無いと思っていたが、もう高校生だしそういうこともあるんだろうな。
俺は悟りきったような顔をして、手にしていたドレスをクローゼットに戻した。
「しかし、エロ本を探してたら思わぬものを見つけてしまったな……」
当分、菜瑠の顔を見ることができなさそうな気がした。
だって、一般人だと思ってた菜瑠の激しい一面を見てしまったのだから……。
数日して、事件は再び起きた。
あたりは暗くなっていて、そろそろ夕食時を迎えていた。
俺は夕食で食べる2人分の茶碗蒸しをレンジで加熱している間、テレビを何と無しに見ていた。
すると突然、人々を不安げにさせる効果音と共に、画面上にニュース速報という文字が踊った。
「うぉ、何だ」
俺は急に不安をかきたてられ、流れていた本来のテレビの内容をそっちのけて、ニュースが出るのを待った。
少しして、点滅が消え流れるように文字が現れだした。
「西山町に超個体変異体出現。付近の住民は緊急に避難して下さい」
俺はそのニュースに、思わず菜箸を落としてしまうほどびっくりした。
と言うのも、超個体変異体が出始めて幾年か経っているが、神崎町の近くに出現したことは一度も無かったからだ。
西山町と神崎町は隣同士の町。つまり、その辺りまで迫ってきているのだ。
これは避難したほうがいいんじゃね、と外に出る準備を始めようとしていた時、不意に菜瑠がリビングに現れた。
手には大きい茶色の革バックを持っていた。
そして、リビングに放置してあった靴下を引っつかむと、ちゃぶ台に腰を下ろして穿き始めた。
「ちょ、お前どこ行くんだよ」
「え、外だけど」
「外って……、お前今超個体変異体が西山町に出てるんだぞ。危ないじゃないか」
「知ってるよ、そんなこと」
「じゃあ、早く避難しようぜ」
「いい」
何言ってるんだ、こいつは。
「いいって言ってんの!別に避難なんかしなくても助かるから」
俺はカッとなって、菜瑠の胸倉を掴んだ。
「何するのよ!離し……お兄ちゃん?」
「バカヤロウ!」
「何で……何で泣いてるの、お兄ちゃん」
「頼む、行かないでくれ」
「えっ?」
「俺は……俺は、お母さんもお前も失いたくないんだ……」
そう、俺達の母は2年前に出先の超個体変異体に襲われて、死んだ。
帰ってきた亡骸はひどく潰れていて、もはや人間としての形を失っていた。
俺は本当にイヤだった。菜瑠までもがあんな姿になるのは。
「ごめん……、でも行かなきゃ」
俺は菜瑠を睨んだ。
「私を待ってる人が居るの。行かなきゃ」
菜瑠は俺の手を優しく握って、自分の服から引き離した。
優しい別れだった。
そして、カバンを持って外へ飛び出していった。
「菜瑠……」
どうして、言う事を聞いてくれないんだ。
菜瑠が本当に死んだら、俺は……。
ふと気が付く。
静かだった。
リビングにあるテレビは電源を切られていて、茶碗蒸しを回転させるレンジの音だけが空間を支配した。
どうして菜瑠は、超個体変異体が現れたことを知っている……?
菜瑠の部屋にはテレビもラジオも無い。
携帯はあるが、携帯のニュースに超個体変異体の速報は届かない。
何故知ってるんだ。どうして?
いや、これは些細な問題かもしれない。しかし、他にもおかしいところがあった。
菜瑠を待ってる人って誰?
あのカバンの中に入ってるものは何?
俺はいてもたっても居られなくなって、菜瑠の部屋を開けた。
そして、俺はクローゼットに手をかけた。
もし、俺の考えてることが正しければ……。
俺は一気にクローゼットを押した。
クローゼットはカチッと音を立て、ばねで一気に外側に開いていく。
「カシミア」のドレスがそこには無かった。
やっぱり……、やっぱり菜瑠がカシミアなのか?
もし菜瑠がカシミアなら、俺はどうすればいいんだ?
お母さんが殺されて、菜瑠まで殺されてしまったら……?
俺の心臓が早鐘を打つ。
次の瞬間俺は、家を飛び出して自転車にまたがっていた。
菜瑠がカシミアだなんて、そんなことないに決まっている。
仮に、菜瑠がカシミアだからといって、超個体変異体に殺されかけていても何もできることは無い。
理性はそう警告を脳内でし続けるのだが、しかし制御の利かない本能のほうは、身体を勝手に西山町へと進ませていく。
西山町に着くと、遠目からでも超個体変異体の影が確認できた。
3階建ての家の2倍くらいあるので、だいたい10m前後だろうか。
超個体変異体の中では小柄なほうではあるが、それでも自分の7倍くらいはあるので威圧感がすごい。
そしてあの形から察するに、おそらくカマキリが変異したものだろう。
2本の鎌を使って、巨大カマキリはビルをばったばった倒していく。
カシミアは未だ登場していなかった。
巨大カマキリに成す術の無い人々たちは、叫びを上げながらカマキリから逃げていく。
「助けて、カシミア!」
小さい女の子が叫んだ。
皆がカシミアの登場を叫んだ。老若男女全ての人間が、カシミアを望んだ。
そんな時だった。俺から距離にして数百メートル先のビルに見覚えのあるシルエットが浮かんだ。
ピンクのフリフリゴスロリドレス。女子高生の背格好。その名は……
「ヒトの希望の道しるべとなれ!ヒーロー3代目、カシミア見参!」
カシミアだ。その場に居た全員が胸をなでおろした。カシミアなら、カシミアならやってくれる……!!
カシミアはビルのフェンスを乗り越えて、飛び降りた……、と思いきや宙に浮いていた。
月の光に照らされたドレスは、風にあおられてはたはたと泳いでいた。
俺は、カシミア登場に沸く野次馬に混じって、カシミアへと近づいていく。
カシミアは、胸元からちくわのような形の金属の棒を取り出して二度振った。
すると、ピアノの一番左の鍵盤を弾いた時のような音がして、ちくわの両端に剣の形をした蛍光がかった緑色光が浮かび上がってくる。
スターウォーズに出てくるライトセイバーと言った方がしっくり来るだろう。
ライトセイバーによく似たその武器は「クラウ・ソラス」と呼ばれている。
クラウ・ソラスというのは、ケルト神話に出てくる剣らしい。
鞘から抜いた瞬間剣身が眩しく光って、相手が抵抗できない内に倒してしまう卑怯極まりない剣で、光ってる点がカシミアの使っている剣と一緒な所から命名されたらしい。
クラウ・ソラスには、超個体変異体に当てると身体が元のサイズに戻るという力を備えていて、カシミアは剣を超個体変異体に当てるのが仕事ということだ。
カシミアは高速で飛んで行き、カマキリの懐に入った。
カマキリの鎌はリーチが長く、また曲げることができないので反撃することはできない。
数秒にしてカシミアの勝利かと思いきや、カマキリは飛び上がりカシミアへと切りかかった。
カシミアは剣でガードするが、衝撃を緩和しきれずに地面にぶつかった。
カマキリもそこまで甘くないみたいだ。
「頑張れ、カシミア!」
さっきの小さい女の子が声を張り上げた。
皆の心は1つになった。頑張れ、カシミア。負けるな、カシミア!
群衆が見守る中、カシミアは体制を立て直して再びカマキリの懐へ入っていった。
俺はカシミアのその姿に違和感を覚えた。
何かが足りないような、そんな気がした。
カマキリはやはり同じように飛び上がり、カシミアに再び切りかかった。
しかし、その鎌の動きが途中で止まった。
なぜなら、空から降ってきたクラウ・ソラスがカマキリの胸を貫いていたからだ。
体制を立て直した瞬間、カシミアは空中へ剣を投げていたのだ。
2回同じ行動をしたのは、カマキリを油断させるためだったみたいだ。
カマキリは奇声を上げながら段々としぼんでいき、そして見えなくなった。
正確には路上のどこかに居るのだろうが、もともとのサイズが小さいので見つけることが出来ない。
うわあああ、と周りに居た人たちが歓声を上げた。
オーディエンスのKA・SHI・MI・Aコールは鳴り止まず、夜の静寂の中で轟いた。
カシミアはクラウ・ソラスを拾い、そして天高く突き出した。
そして恥ずかしそうに、右耳を落ち着きなさそうにこすった。
そしてボルテージが最大になる観衆を尻目にして、空高く舞い上がり去っていった。
それでも鳴り止まなかった。一部の人はカシミアの功績に涙していた。
しかし、俺は素直に感動できなかった。
菜瑠は恥ずかしいときに右耳をこするクセがある。
と言うことは、やはり……。
俺はあの後、急いで帰り菜瑠より先に家についた。
そして、玄関のドアの前で菜瑠を待った。
しばらくして、菜瑠は大きなカバンを持って帰宅してきた。
「お前どこ行ってたんだ」
俺が菜瑠を睨んだら、菜瑠はすぐに目をそらした。
「どこだっていいでしょ。私の勝手じゃない」
「言えって」
「……友達の家だよ。それがどうしたの?」
「嘘だな」
「えっ」
「お前は西山町に行ってた。そうだろ?」
菜瑠は昔から動揺を隠すのが下手だ。すぐに顔が強張るのだ。
「それで、お前はカマキリと戦っていた。そうなんだろ?」
「何でそんなデタラメ言うの!」
菜瑠は俺を叩こうとカバンを振り回したが、動きが怠慢だったので俺が余裕で受け止めた。
「そしてこのカバンの中には、ドレスが入っている」
「そ、それはただのコスプレだよ!」
「別に俺はカシミアのコスプレ衣装が中に入ってると言ってないけどな」
「……っ!」
菜瑠は悔しそうに俺の足を踏んだが、体重がそんなに重くないので痛くなかった。
「さらに、今日カシミアはカマキリに切りかかられて背中からアスファルトに叩きつけられていた。少なからず傷は残ってるだろうな」
俺はカバンのジッパーを開けようとした。
「離して!」
菜瑠はカバンを体重を乗せて引っ張った。
「だめだ。見せろ!」
俺も負けじと引っ張る。広さの関係上、俺が体重を乗せて引っ張れないので力は均衡した。
「くそっ!」
俺は少ししてカバンを諦めて、菜瑠自体に襲い掛かる。
俺達は玄関先を出て道でもみくちゃになっていた。
「お兄ちゃん、いやぁあ!そ……んなところ、くふぅんっ!」
傍から聞いてれば勘違いしてしまいそうな叫びを上げる菜瑠から、俺はどうにかしてカバンを奪おうとする。
すると、カランと大理石っぽく作られた玄関の床に金属が落ちた音がする。
見てみると、それはクラウ・ソラスのちくわ部分だった。
戦ってる時に見るとかっこいいが、今見るとただのマヌケな棒しか見えない。
「あ、あ……」
妹は口をパクパクさせて声にならない叫びを上げている。
「やっぱり、……お前がカシミアだったんだな」
すると、菜瑠は目尻に涙を溜め始めた。
「ふぇっ、お兄ちゃんのばかぁ……」
菜瑠は玄関先でしんしんと泣き始めた。
「ばらしたくなかったのにぃ……」
俺はただちくわの棒と一緒に立ち続けることしかできなかった。
ああ、母さん。これから、俺は菜瑠とどう付き合っていけばいいのでしょう。
-Continued on "Over-soul"-